2020年11月6日金曜日

『法華経』(現代語訳大乗仏典2)中村 元 著

法華経のエッセンス。

本書は仏教学者・比較宗教学者の中村元が折々にまとめた法華経(サンスクリット+漢文)の重要な部分の現代語訳とその解説を基本として、足りない部分を東方研究会 (中村が残した研究団体)[の堀内伸二]が補筆したものである。

よって本書は法華経の全文ではなく、そのエッセンスの解説である。

法華経はアジア諸国で「諸経の王」として重視された経典であり、日本の文化にも巨大な影響を与えてきた。これは紀元1〜2世紀の北西インド、クシャーナ王朝で編纂されたと見られ、特に韻文の部分が早くに成立した。この韻文(ガ—ター)はサンスクリット語でもパーリ語でもない言語(ガーター・ダイアレクト)で書かれている。

『法華経』は中国に伝えられると鳩摩羅什の翻訳を含め3種の翻訳が作られた。それほど中国人は『法華経』に深い影響を受けたということになる。特に天台大師智顗(ちぎ)は『摩訶止観』『法華玄義』『法華文句』という古典的な大作(三大部)を残し、これは日本にも大きな影響を与えた。

日本でも聖徳太子が『法華義疏』を著しているように、『法華経』は仏教伝来当初から重んじられ、天台宗が『法華経』を根本経典としたことから、天台宗を母体として生まれた諸派もまたこれを最も基本的な経典の位置づけとした。このように甚大な影響力を持った経典は他になく、『法華経』はまさに「諸経の王」である。

その内容であるが、まず冒頭(序品)の場面の壮大さはちょっと度肝を抜かれる。釈尊が何万人もの菩薩たちの前で教えを説き、その光で全世界を照らす場面である。このオープニングには、『法華経』の巨大な包容力がある世界観が表現されている。

具体的な思想については、長大なお経なのでとてもまとめられるものではない。そこで以下に気になった点だけ記す。

第1に、「一乗の思想」。悟りに至る方法・教えにはいろいろあるが、それは最終的には帰一する。大乗仏教は小乗仏教(上座部仏教)を批判していたのだが、『法華経』では小乗すら包摂する。仏は偉大な慈悲を持っているので、「南無仏」と唱えるだけでもみな救われる。

第2に、ストゥーパ(塔)崇拝の勧め。ストゥーパ(舎利=ブッダの遺骨を崇拝するための施設)は、仮に子供が戯れに作ったものであっても仏に救ってもらえるという。これは信仰心の有無を問題にしていないようで非常に気になる部分である(時衆の「信不信をえらばず」を想起させる)。塔崇拝の勧めは、日本では諸々の塔(五輪塔とか宝篋印塔とか)の造営に大きな影響を与えたと思う。

第3に、「回向の思想」。経典を読誦する功徳は他の人に「回らし向け」ることができて、それによってやがて全ての人がさとりを開くことができる(→普回向文「願以此功徳、普及於一切、我等与衆生、皆共成仏道」)(化城喩品)。

第4に、経典そのものを聖なるものと見なす思想。『法華経』をたもつ者は、そのまま如来であるとし、経典をたった一つの語句だけでも読誦し、書写し、記憶し、拝み、供養(伎楽や花で荘厳する)することは無上の功徳がある。言うまでもなく、この思想は日蓮宗に強く受け継がれた(法師品)。

第5に、 「久遠(くおん)の本仏」の思想。歴史的存在としての釈尊は既に入滅しているが、実は仏は永遠の昔(久遠)に悟りを開いており、それが方便のため人間として生まれて教えを説いたものであって、仏の本質は永遠不滅のもの(常住不滅)だという思想である。要するに、仏の教えは特定の人物によって説かれた「歴史的な」ものではなく、「永遠の」ものである(如来寿量品)。

第6に、観音崇拝の思想。『法華経』第25章「観世音菩薩普門品」は、『観音経』として独立して尊ばれた。これによれば観世音菩薩は、ちょっと礼拝したり、念じるだけでも、ただちに現れて災いを取り除き、いかなる苦境からをも我々を救ってくれるのだという。また我々の理解力や立場に応じて35の身に姿を変えて教えを説いてくれる(一般的に「三十三身」と呼ばれる)。『法華経』は主人公のようなものが登場しないお経であるが、観世音菩薩は法華経の精神を具現化したアイコン的存在といえる。

このように、『法華経』は様々な思想が盛り込まれており、ある種の編纂物のような趣がある経典である。こうした性格からか、著者は『法華経』を「宥和の思想」であるとまとめている。『法華経』においては、アレはダメだこれはダメだといった規制的な文言は全くといっていいほど出てこず、いかなる方法によっても、ほんの僅かな信心しかなくとも、仏の偉大な慈悲によって皆救われるという、包容力のある思想が展開しているのである。

しかし、『法華経』を至高のものとみなした日蓮宗が他宗排斥的になったのは皮肉なことだ。

なお、中村元の訳注・解説は大変丁寧で、非常にわかりやすい。本書では、漢訳を単なる翻訳と見なさず、一つの創造物として扱い、サンスクリット原文とほぼ等しい比重(むしろ漢訳の方が基本の部分も多い)で紹介している。 それは、日本では漢訳によって『法華経』が受容されているから、日本の思想との接続が考慮されているのである。

しかし、漢文の読み下し文は、伝統的な訓じ方に従っていない部分が多い(らしい)。それは伝統的な読み下し文が、意味が不明瞭になったり、日本語として体を成さないことがあるからで、著者は「そもそも漢文の読み下し自体に無理がある」との立場である。そこで本書では伝統にとらわれない合理的な読み下しが選択されている。これは『法華経』を聖典としている方々からすれば容認できかねることかもしれないが、元来の意味を正確に理解できるようになるのだからいいことだと思う。

壮大な世界観を持った「宥和の思想」の経典のわかりやすい解説。

 

2020年11月4日水曜日

『古代の神社と神職—神をまつる人びと』加瀬 直弥 著

古代の神社がいったいどういうものであったかを述べる本。

我々はある種の神社は古代から連綿と続いてきたものだと考え、神社とはこのようなものだ、というイメージを持っている。しかし実際には幾度もの断絶があり、そもそも神社とはいかなるものであったかということすら正確には分かっていない。

本書は、古代の神社がどのようなものであったかを、(1)神社の立地と社殿、(2)神職の職掌、という2つの観点から推測するものである。

(1)神社の立地と社殿

神社は、立地が非常に重要のようだ。それは、ただ神を祀ることが重要なのではなくて、祀る場所そのものが聖地の性格を持たなくてはならないからのように見える。神を祀れという託宣がある場合にも「どこそこに祀れ」と場所の指定がある。これは寺院の造立とは異なる点であろう。ではどのような場所に神社は立地したか。

山の神社の場合、山上・中腹・麓と、いろんなケースがあり一定していない。しかし神の領域を截然と分ける意識は共通している。田の神社の場合も同様であるが、水利との関係が大きくなる。神社は水利上のポイント(水が湧いているとか)に位置することが多い。総じて言えば、神社は地形的な際(キワ)や特徴的な地形に立地することが多く、聖域化が可能な(人の活動と交わらない)場所が選ばれている。

そうした立地に、古代の人は社殿を建てたかどうか。よく「古代の神社には社殿(本殿)はなく、山そのものを神として祀った」などと言われるがこれは事実なのか。確かに本殿のない神社はあった。しかしそれが一般的だったわけでもないらしい(その割合がどうだったのかは不明だそうだ)。そして社殿を造営することは神を喜ばす贈り物の意味があり、社殿を喜ばなかった神はいない(らしい)。しかし社殿の有無は本質的ではなく、より重要なのは「神の領域」を区画することであり、特にみだりに人が立ち入らないように閉鎖することだった。この意味で社殿は有効であったため、多くの神社で採用されていった。

しかし、ここで重要な詔(みことのり)がある。天武天皇10年(681)に出された「神社の神の社(やしろ)を造営せよ」という詔である。これは全ての神社に対して出されたのではなくて、朝廷が把握している神社ということであるが、このような命令が下されたことは興味深い。つまり、このような命令があったということは、神社の方では社殿の造営を積極的には行っていなかったことの傍証であり、また朝廷としては社殿がある神社の方を正統とみなしていたことの証拠であるからだ。同様の詔は、天平9年(737)、天平神護元年(765)にも出ている。このようにして、平安時代初期には社殿がある神社の方が一般的になった。

さらに、造営した神社が適切に維持管理されない場合も多かったらしく、朝廷は国司に対して神社をしっかりと清掃するように命令を出している(後に祝(はふり)が清掃する前提に変更)。どうも社殿に関しては、自然発生的なものではなく、朝廷の関与で基本形ができていくということのようだ。しかしおそらくはそのために、現場の神社の方では社殿の造営や維持管理を積極的に行おうとする意欲に乏しいように見える。一方、朝廷は社殿の造営を国司の勤務評定に加えたり、たびたび維持管理に関する詔を出したりして神社をしっかりとしつらえようとしており、これは鎌倉幕府にも引き継がれる(『御成敗式目』第1条)。しかし何のために朝廷が社殿にこだわったのかは明確ではない。

(2)神職の職掌

神社は祝部(はふりべ)、禰宜(ねぎ)といった神職が維持していくことになっていたが、驚いたことにこうした神職が具体的に何であるのかはよくわからず、しかも平安時代初期の段階では当時の人すらもよくわからないようになっていた。そして朝廷の方も、こうした神職についての規定はほとんどしていない。祝部について定められた任務は、毎年2月(祈年祭の時)に神祇官に幣帛を取りに来て神社に祀る、ということに尽きる。

では神職にはどのような人物が任命されたのか。ほとんどの場合、神職を務める氏族は決まっていた。これは単なる世襲ではなく、祭神によって名指しされている(とされる)場合があるなど宗教的な意味がありそうである。

また、神職というと笏(しゃく)を持っているというイメージがあるが、実用的には何の役にも立たない笏を持っているのはなぜなのか。 実は把笏は位階(神階)の高い神社の神職のみに認められた特権であった。ここで関連が出てくるのが「神階(例「一品(ほん)」とか)」である。神階には実利的なメリットはなかったが、神階授与が中央との結びつきを示せる国司の有能さの証しと見なされて、積極的に行われた時期がある。そして斉衡3年(856)から神階と把笏容認が連動するようになった。こうして、目に見える形で神階授与がわかるようになり、一種のステータスとなったのでこの傾向が加速され、把笏が広まっていったのである。しかしその背景には、それに先立つ時期、朝廷と地方の神社との関わりが弱くなってきたという事情があったようだ。つまり把笏容認は朝廷と神社との結びつきを確認する象徴だったということになる。

ところで、古代の神職には女性が重要な役割を果たしていた。皇族の未婚女性が務めた伊勢大神宮の斎王(さいおう)や、春日神社の斎女(さいじょ)などが有名である。また宇佐八幡の禰宜でもあり尼(!)でもあった、大神杜女(おおがの・もりめ)は東大寺大仏の造営に深く関わり、神職としては前代未聞の「従四位下」の位階を授けられた。伊勢大神宮では大物忌(おおものいみ)という童女が務める神職もあった。大物忌はまつりにおいて最も神のそばに使える役割を担っていたようだ。伊勢大神宮に限らず、朝廷はまつりを童女に積極的に行わせていた。しかし天長2年(825)、朝廷は女性の祝部に対して懸念を表明し、以後徐々に、女性神職が男性同様の立場となることはなくなっていく。

本書では全体を通じ、制度の細かい変転を検証することを通じて、奈良時代末期から平安初期が神社にとっての画期であることを示す。この時代、朝廷は神社行政のテコ入れを行い、社殿の造営・維持管理や、まつりの実施、神階を授けることによる朝廷との関係性の強化などを行っている。そうした朝廷の政策によって生まれたのが「神社」なのだ。つまり「神道」は、自然発生的な日本の民俗宗教ではなくて、朝廷の政策によって人工的・画一的に作られたものだ(本書にはそこまで露骨には書いていないが)。

そしてこの時期にそうした政策が行われたのは、道鏡政治の揺り戻しであったという(ごく簡単に述べられている)。これは高取正男が『神道の成立』で述べたことである。ただし、であるにしても、なぜ女性神職に制限を加えるようになったのかは謎である。

朝廷の動向の細かい検証によって古代神社確立の過程を辿る実直な本。


【関連書籍の読書メモ】
『神道の成立』高取 正男 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/07/blog-post_21.html
神道の成立過程を丹念に辿る本。神道成立前夜の動向を、細かい事実を積み重ねて究明した労作。

 

『墨子』森 三樹三郎 訳(『世界古典文学全集 19 諸子百家』所収)

墨子の主要著作。

中国の春秋戦国時代(紀元前5世紀の前後200年くらい)、諸子百家と呼ばれる様々な思想家・学派が現れた。彼らは現代でいう思想家ではなく、戦国の世で他国よりも富国強兵を実現させるための政策コンサルタントのような存在であり、諸国を遍歴してその政策を説いた。

今では失われてしまった思想も含め、多くの主義主張が競ったが、その中でもまとまった集団をなしていたのは、儒家と墨家だけだったそうだ。この両者は個人のコンサルではなく、多くの弟子を諸国に派遣するシンクタンクのような存在であったといえる。

しかし、その後の中国の歴史に甚大な影響を与えた儒家とは違い、墨家たちは秦漢の統一時代に入ると雲散霧消してしまい、その思想は後代に伝わることがなかった。それどころか墨子の著作はほとんど無視され、清朝末に至る2000年の間、忘れられるという「絶学」の悲運を味わったのである。

このような次第であるから、墨子の著作は完全な形では伝わっていない上、本文の混乱が激しく、難読中の難読の書とされてきた。また後代の人が追加した部分を含み、墨子の伝記的事実も明らかでない。本書は、墨子元来の著作と見られる部分を中心として主要な諸編を日本語訳したものである(原文は省略されている)。

ではその思想はいかなるものであったか。墨子の原思想を表していると見られる本書所収の諸編のタイトルから、その枢要な内容をメモしてみよう。

尚賢:政治の根本は、義を貴ぶ賢者を任用することである。それには身分の高下は関係ない。(当時において身分制を否定したことは革命的な意味がある。)

尚同:天子の政治は、天下の人々の考えを同一化しなくてはならない。そのためには国や郷里は統一的な考えで信賞必罰を行うべきである。(今から見ると全体主義的な部分を含むが、むしろ民約論に近い内容である。要するに、君主独裁ではなくて人々の考えを君主に帰一させなくてはならないと墨子は言う。)

兼愛:天下の人々が全て愛し合わなければ、強者が弱者を、富者が貧者を、貴人は賤人を食い物にするに決まっており、もしそうなれば社会全体の利益が失われるのだから、博愛の精神で愛し合い、互いの利益を図るべきである。これは非常に難しいことのように思うかもしれないが、例えば戦の時に死の危険を犯して攻め込むようなことに比べてずっと易しいことだ。(墨子は当時のインテリとしては例外的に天帝や鬼神の存在を信じており、それが墨子の思想の根本をなしている。しかしながら兼愛という博愛思想は、キリスト教のそれのような宗教的な価値ではなく、実利面から説かれていることが著しい特徴であり、また意外な部分である。)

非攻: 戦争では仮に勝ったとしても利益は少なく、損失は多いのだから、侵略戦争は行なってはならない。攻戦して滅びた国がたくさんあるという事実を見てもそれは明らかだ。(兼愛の思想から非攻が導かれるのではなく、実利的な理由で侵略戦争が否定されているのが特徴。)

節用:実用的なもの以外は作るべきではない。国が無用な奢侈品ばかり作って民の生活に役立つものを閑却しているから国が富み栄えないのである。(国家財政のあり方を述べたもので、有用な事業のみに税金を使うようにという意味である。)

節葬:葬式を豪華にしたり、長い間(儒家によれば最長3年)喪に服するのは無意味なのでやめるべきだ。(当時の庶民には葬礼のため破産するものがいたり、王公の場合は多数の殉死者を出したりしたからそれを否定したもの。葬礼をになった儒家への対抗の意味もあったのかもしれない。しかし祖先祭祀を重んじる中国では、「節葬」は墨家への最大の非難の的となった)

天志:天の摂理(天志)に従わなくてはならない。天は、君主が善政を行い、民衆が仕事に務め、強者が弱者を助け、平和に暮らすことを求めている。これに適う行いをするのが天の摂理である。(墨子は天志を義の根本原理に据えているが、その内容はやや恣意的なもののように思われる。)

明鬼:鬼神、天神は実在する。歴史を紐解けば、古代の聖王たちはみな鬼神を信じ、実在するものとして行動しており、その存在は明白である。いつでも鬼神が我々の行動を監視しているのだから、誰も見ていない場所でも行いは正しくせねばならない。(諸子百家で有神論を主張したのは墨子のみである。鬼神の存在は墨子の思想の核心であった。)

非楽:音楽を奏することは君主にとって無駄な奢侈である。(墨子は音楽の楽しさ、美しさは否定していない。当時は壮麗な音楽を奏でることが重要な政務のごとく行われ、特に儒家が音楽を政治・道徳を高める手段としていたことが背景にある。しかしそれだけに墨子の「非楽」は非難された。)

非命:運命、宿命といったものは存在しない。運命論を信じてしまうと、努力が無意味となり、正しい行いをしなくなる。過去の聖王も運命論は否定している。未来は自分の行いによって変えられるのである。(「天志」と「非命」は内容的に近い。ただし、墨子の考える鬼神(天)は、行いによってすぐさま応えてくれるようなものではなく、大局的な動きを左右する存在のようである。この性格から、例えば「不幸のうちに死んだ義人」がいるからといって鬼神の存在は否定されない。)

以上、簡単に墨子の思想をまとめてみた。全体を通じて特徴的なことは、鬼神の存在を主張したり天志を根本としたりしている割には、実利を非常に重視して立論していることである。これは功利主義的といってもいいであろう。兼愛や非攻といった墨子の中心思想は、ベンサム的な「最大多数の最大幸福」の原理から導かれるものだったのである。

実利を基準に考えているため、墨子においては「義」の内容が儒家に比べてずっと具体的である。全体(マクロ)に利をもたらすのが墨子にとっての「義」なのである。今の言葉でいえば「公共の福祉」を基準に政策論を考えたのが墨子だといえる。

しかしながら、墨子は様々な主張において過去の聖王(堯舜禹湯)の行いを根拠としている。この点は対立していた儒家と同じである。運命論の否定であったり、鬼神の存在といったようなことで過去の聖王を持ち出してきたのは、実利では説明のつかないことだったからなのだろう。このことは、墨子の論理体系が完全には首尾一貫していなかったことを示唆する。墨子の思想には、実利と鬼神とが奇妙に同居していた。彼の学派は宗教の教団のようなものであったらしいが、それが戦国時代において儒家と並ぶ勢力となった一因でもあり、また滅びてしまった一因でもあるのだろう。

古代に「有神論的功利主義」を説いた独創的思想家の書。

 

2020年11月2日月曜日

『鉄砲とその時代』三鬼 清三郎 著

織豊時代のあらましを描く。

著者の三鬼清三郎は織豊時代(安土桃山時代)を専門とする。本書は、織豊時代をどのような時代と見なしたらよいか再考することをテーマとし、その概略的な歴史をいくつかのトピックにより述べるものである(よって通史的ではない)。

この時代(正確には戦国時代以降)は、江戸時代とはかなり違った美意識や価値観で動いていた。例えば大阪城は、室内には金箔が施され、屋根瓦は全て黄金色、塔には金色および青色の飾りをつけていたという。江戸時代の白い城郭とは全く違った極彩色の城が作られたのである。我々の常識とは異なった常識があったのが織豊時代だ。

であるから、史料に書かれた内容を理解したと思っても、当時の人がどのようにそれを受け取っていたかは、現代の常識からは直ちには分からないのである。織豊時代をどのような時代と見なすかは、こうした当時の人々の意識まで探る必要がある。

また、織豊時代はちょうど「近世封建制度(中央集権的な封建制)」が成立する時期に当たっているが、その成立過程をどう評価するか。本書では様々な見解が簡単に紹介されているが、本書執筆時、織豊時代の評価が全く定まっていないことに驚かざるを得ない。なお著者は「太閤検地が近世封建社会を成立させる契機をなすもので、織田政権は、戦国大名と同じく中世的権力であるという考え」に近いという。要するに、豊臣秀吉を画期として中央集権的な新しいタイプの封建社会になったとの評価である。

このような見解であることから、本書でも太閤検地はやや詳しく紹介される。太閤検地が土地面積ではなく石高によって行われたこと、中世的な主従関係ではなく名目的であれ国家機関によって実施されたこと、複雑な貢納関係を整理して徴税権を領主に一元化し、領主=農民関係を確立したことなどが重視されている。

私自身は、この時代の思想的な動向に興味があって本書を手に取った。言うまでもなく、織豊時代はキリシタンの世紀であり、貿易による実利を求めてであったにしろ、大名ですらキリシタンに改宗した時代であった。そしてもう一つが、織田信長の比叡山焼き討ち・一向一揆の殲滅・法華宗の否定(安土宗論)など、中世的な仏教勢力の解体が行われたのもこの時代だ。こうした宗教における激動がこの時代に一気に進んだのが興味深い。

さらに面白いことは、信長と秀吉が、自身の統治権を日本全国に及ぼす理屈として天皇の存在を持ち出していることである。信長や秀吉は、必ずしも日本全土を掌握していない段階から「天下人」として振る舞い、日本全土を統治した格好で政策を進めた。それは朝廷への奉仕を名目にしたり、天皇の権威を使うことによってなされたのである。興味深いことに、これはまさに明治維新の際に使われたロジックと全く同じであった。

本書はいわば「歴史観に再考を催す」本であるが、実は私自身があまり織豊時代に詳しくないので「再考」どころかこれまであまり織豊時代の評価について考えてもいなかった。なので本書の促す「再考」は全くできていない。とはいえ、本書は1981年に「教育者歴史新書」として発行され、それが2012年に吉川弘文館の「読みなおす日本史」シリーズの一冊として再刊されていることを考えると、著者の促す「再考」はまだ有効な問いかけなのだろう。もう少しこの時代のことの勉強をしてから機会があれば再読してみようと思う。

織豊時代の再検討を迫る良書。


2020年10月31日土曜日

『火縄銃から黒船まで—江戸時代技術史』奥村 正二 著

江戸時代の技術史を描く。

江戸時代は、技術的には停滞していた。鎖国(という名の統制貿易を)していたため海外からの情報が入りづらかったということもあるが、最大の原因は幕府が技術革新を禁止していたからだ。

享保6年(1721)、将軍吉宗は「新規法度の御触書」を出した。この触書では、「新規に巧出し候事 爾今以後固く停止たり」として新規な品の製造を禁止し、同年末にはすべての商人職人に業種別のグループを作らせて相互に監視させ、もし新商品が出現した場合に製造元をタレコミさせる体制を作った。発明も改善も一切禁止するという暴挙であった。

これは本来は奢侈禁止を目的としたもので、農民たちに自給自足を強制し、貨幣経済から隔離させようとした政策の一環である。しかしこの政策により、何に限らず改善する・改良するということは、お上を恐れぬ仕業として警戒されることとなった。

「新規法度の御触書」によって道具の改良・専門化が停止されたため、新規品の製造のみならず既存品の効率的な製造法も生みだされることがなくなり、一方で既存の道具をいかにうまく使えるかという”熟練”が極度に重視されることとなった。さらにこの触書は、使いづらい道具ややりづらい仕事を改善するのではなく、現状をあるがままに受け入れ、忍従することを美徳とする国民性の一因とさえなったという。

このように、技術革新はそもそも禁じられていたが、そうでなくても江戸時代には技術者の自由な交流がなく、技術の発展の土台がなかった。諸国(諸藩)の通行は自由ではなかったし、そもそも技術自体が秘伝として公開されなかった。特許のような発明者を保護する仕組みがなかったので、技術は門外不出にする方が合理的だったからだ。だが沿岸交易による交流と、全国に散らばる天領間での交流によって徐々にではあるが技術は広まっていった。

本書では、このように停滞していた江戸時代の技術史を、「火縄銃・大筒・焔硝」、「御朱印船・千石船・黒船」、「金銀銅の鉱山」、「歯車とからくり」の4つのトピックで巡るものである。

火縄銃・大筒・焔硝

1543年、種子島にポルトガル人が鉄砲を持ち込み、時の城主種子島時尭(ときたか)はその重要性をすぐに理解して二千金という大金を投じて二挺を買い入れた。そしてそのたった2年後には、堺や紀伊、九州で鉄砲の製造売買が大量に行われていたのである。日本刀で培われた鍛造技術があったため、日本人はすぐに鉄砲を真似して作ることができた。

ただし技術的に苦労した点が2つある。第1に、銃身端部へ尾栓をねじで嵌め合わせることができなかった。なぜならそれまで日本人は「ねじ」を知らず、特にねじ穴をどうやって開けるかがわからなかった。そして第2に、日本では火薬の原料の硝石が産出しないということである。

第1の点はネジガタ(今のタップ)が独自に発明されてクリアした。第2の点は、戦国時代の戦で鉄砲が多用されたことを考えると、日本は大量に中国から硝石を輸入していたようである。江戸中期からは硝石の人工的製造法が知られるようになるが、それは古い便所等の土を利用するもので製造効率は悪かったと思われる。

鉄砲は日本の戦争を一変させ、築城、防具(鎧)、戦法は戦国時代に大きく変化した。文字通り、鉄砲を制するものが戦を制したのである。しかし江戸幕府が開かれると、鉄砲の製造技術(具体的には鉄砲を製造する村=国友村)を幕府が独占する一方、「飛び道具は武士道に反する卑怯なもの」「鉄砲は卑しい足軽があつかうもの」といった思想が幕府の御用学者・林羅山によって鼓吹され、武士の象徴としての刀の価値が持ち上げられた。こうして鉄砲の技術は江戸時代には発展することはなかった。

幕末になって諸外国が日本へやってくると、大筒(大砲)の製造が試みられる。なお、すでに戦国時代に大砲は伝来していたが、これを使ったのは少数の武将に限られる。というのは、当時の日本には満足な道路がなかったため、大砲を運搬するのが大変だったこと、そして榴弾(内部に火薬が詰まった弾)が開発されていなかったので破壊力が小さかったためである。

幕末には佐賀藩を中心として、各所で大砲製造が行われた。これは幕府が「大砲製造令」(1842年)を出して各藩に大砲の製造を促したためでもある。しかし小銃の方は、もっぱら輸入に頼っていた。幕末は小銃の大きな変化・改善の時期に当たっており、次々伝来する新たな小銃の技術にキャッチアップすることができず、また国内の需要が大きすぎ、それをまかなう製造体制が取れなかったためだという。

御朱印船・千石船・黒船

日本は海に囲まれた国であるにもかかわらず、古来造船技術は稚拙であった。遣唐使船、遣明船などは原始的な構造であったと推測される。しかし明との貿易が打ち切られた後、御朱印船の時代(戦国時代)になって造船技術はかなり進歩した。

そもそも朱印船貿易とは、幕府の勅許を得て行う南方との交易のことであるが、これが行われた時代は西洋でもいわゆる「大航海時代」にあたっており、スペインやポルトガルが東南アジア(南蛮)にやってきていたから南蛮世界は大変賑わっていた。こうして南蛮を中継地として、日本は中国・ヨーロッパとの交易を行うのである。

これは官営貿易ではなくて、勅許を受けた私貿易であるから、利益を求めて船が大規模化し、御朱印船の乗員数は200〜300人程度にもなった。当初はこのような大船を従来の工法でつくっており、船底が平らで航行が不安定だったが、やがて造船技術が長足の進歩を遂げた。これは唐船のみならず西洋式帆船のよいところをとりいれた折衷型であったと思われる。初期の御朱印船には西洋人航海士を雇った例が多く、航海技術も西洋に学んで進歩したようだ。

しかし江戸幕府が鎖国令を敷くと事態は一変する。鎖国令を貫徹するため、幕府が造船技術に厳しい制限を設けたからである。具体的には、船の帆柱を一本とし、竜骨を入れることを禁止した(大船禁止令にもとづく行政指導)。帆柱が一本であることは船の大きさの制約となり、竜骨の禁止は伝統的な和舟への回帰を意味した。このような船を「大和型船」と呼ぶ。竜骨がない大和型船は製造面でも大木を必要として不利であり、さらに操舵が困難で(波を切ることができず)航行が不安定であった。

いわゆる「千石船」と呼ぶ船が、この大和型船である。「千石船」などと呼ぶと景気がよいが、実際には技術的制約から生まれた稚拙な船であった。こうして江戸時代には造船技術が低下し、さらには航海術も昔の水準へ逆戻りした。御朱印船時代に西洋から学んだ航海術が、長期にわたる鎖国政策によって船乗りの間から消え失せてしまったのである。しかし江戸と大坂を結ぶために沿岸海運は非常に盛んであったので、その結果として海難事故が異常に多くなった。

江戸時代の海難事故は、商船だけに限っても毎年千件を越えたと推定されているが、これは世界に類例のないことだそうだ。幕府の造船技術への制限は多くの人命の犠牲を伴っていたのである。

幕末になると黒船の来航によってこうした状況は終わりを告げる。黒船は鉄船ではなく、木造船の外側にチャン(瀝青)を塗っていたから黒く見えていたのだが、であっても日本の造船技術の水準を遙かに超えていたため当初この製造は不可能であった。よって幕府および諸藩は外国船を購入することによって海運をキャッチアップしようとした。なお大船禁止令が撤廃され船の構造上の制限が消滅したのは嘉永6年(1853)である。翌年から、薩摩と戸田(へだ)で造船が開始され、特に戸田での造船は明治維新後の造船技術開発の先蹤となった。

金銀銅の鉱山

江戸幕府の財政の大きな柱だったのが鉱山である。江戸幕府は主要な鉱山を手中にし、幕府の歩みはその消長と密接な関係があった。であるから、鉱山技術は幕府財政を支える重要なものだった。にもかかわらず、鉱山の掘削・排水・精錬等の技術はお粗末なものだった。

例えば鉱山内はどうしても酸素が薄くなり、また灯火の油煙のため空気が汚れる。だから積極的に換気していくことが重要なのであるが、江戸時代の鉱山ではこれが全く不十分であった。そのため、鉱夫はしばしば「気(け)絶え(酸素不足の失神)」で倒れ、「よろけ(珪肺)」による喀血で苦しみながら死んでいった。7年以上鉱夫を務められるものはなく、30歳を越える人は稀だったという。

また、水との戦いも壮絶だった。坑道は絶え間なく地下水が流れ込むため、24時間体制で水をくみ出す作業が必要になる。江戸時代、いくつかの種類の原始的なポンプが知られていたが、いずれにしても動力は人力で、しかもものすごい重労働である。そこで幕府は、江戸にいた無宿人を捕まえて、佐渡の水替人夫に徴用した。当然、強制労働である。一年中竹矢来の中に閉じ込められ、外出できるのは一年に一度だけであった。島送りが始まった安永7年(1776)から嘉永4年(1851)までの約70年間に2824人もの人が佐渡に送られた(明治10年頃まで続いたという)。そしてそのうちのただの一人も、釈放されたとの記録はないそうだ。

このように、江戸幕府は鉱山技術の稚拙さを人命の犠牲によって補っていた。幕末になって西洋からの技術が入ってくるとこれを積極的に活用して能率が劇的に上がっていく。はじめから進んだ技術を取り入れていれば、失われずに済んだ命があったのではないかと思わざるを得ない。

歯車とからくり—水車・和時計・ろくろなど—

この章は他に比べ短く簡略である。日本における歯車の技術史が概観され、それに伴って水車・和時計・ろくろについて述べられる。

和時計については、戦国時代に西洋から時計がもたらされたことで、これを真似て作られた国産品であるが、このように独自の機械時計を作ったのは東洋では日本だけである。しかし、西洋の時計機構を理解し、応用する技術力を持ちながら、日本の場合はそれが大名の奢侈品としてだけ活用された。またからくり人形の場合も、奢侈的な工芸品としてだけ発達し、その技術が産業面で広く活用されることはなかった。

本書の著者は、工学部卒で弁理士・技術士であって歴史家ではない。基本的な書き方としては、現代の技術から過去の技術を照射する形で述べられ、時系列的には書いていないので正確には「技術史」ではなく、江戸時代における「技術」の取り扱いを検証する本と言える。

全体として、これまでまとめたように、江戸時代には「技術」が極めて軽視されていた。そして「技術」が存在する場合も、様々な事情からそれが広く活かされることがなかった。これによって、多くの人命が失われたのである。本書を読みながら、技術の軽視は人命の軽視に繋がるということを痛感した次第である。

江戸時代の技術軽視を反面教師としたくなる卓論。


2020年10月12日月曜日

『石塔の民俗』石井 卓治 著

墓石の成立と石塔を関連づけて語る本。

著者の土井卓治は、岡山県の文化財専門委員を務めたり、日本民俗学会に所属するなどしてはいるが、石塔については専門ではないらしい。本書は、専門外の立場から石塔の世界を紹介し、特に今見られる墓石=普通のお墓がどのように成立したかを推測したものである。

本書の問題意識は、「(墓塔が)本来あるべき姿から非常に縁遠くなった形をとるようになってきたのは何故か。どんな過程を経てそうなったものだろうか」を解明したいということにある(p.9)。

日本では、仏教式の石塔(供養塔)は古代から建立されている。本書には古代からの石塔及び墓誌銘の事例が列挙され、今日の墓石に刻む銘文の内容は古代においてほとんどつくされていることが示される。ただし、中世になってから逆修(生前に自らの死後の供養を行うこと)が行われるようになるなど、供養塔の性格が一貫しているわけではない。

特に著者が疑問に思っているのは、石塔が依り代の役割を果たしたかどうかである。また礼拝の対象が死者の霊であったのかどうかも未解決である。石塔は、死者の名前(戒名)を刻むものというよりは、主尊を供養することに主目的があり、いうなれば建てるだけでその目的を果たしたため、参拝は必須ではなかった。それに石塔=墓標ではないので、埋葬地に建てる必要もなく、いくつあってもよかった。

また、故人の菩提を弔うために石塔は必須ではない。例えば手水鉢を寄進するとか、写経する、橋をかけるといったこともその役割を果たす作善行為(功徳を積む行為)であった。しかしやはり人々は死者に対して石卒塔婆を建てることを盛んに行った。その背景には、石塔それ自身に人々が霊力・魔力を認めていたということがあるのではないか。

こうした疑問を抱きつつ、著者は現在の墓石の原型として板碑に注目する。他の石塔(五輪塔や宝篋印塔)に比べ、板碑は製作がずっと容易であったため、庶民にも広まった。ただし板碑が墓石の原型であることは必ずしも完全に承認されていない。そこで本書では江戸時代の墓石の形式が確立するまでの様々な事例を挙げて、板碑がその元になっていることを例証している。

一方、板碑と墓石の大きな違いは何かというと、(1)板碑には主尊が刻まれるが、墓石には主尊ではなく戒名が中心であること、(2)板碑には建立年月日が刻まれるが、墓石では故人の死亡年月日であること、の2点である。すなわち墓石は、仏教的な表象を全て失って故人の記録のみを担うものになった石塔である、と考えることができる。本書はこのような変化が起こった力学を全て説明はしていないが、その議論は概ね説得的だと思った。

本書後半は、トピック的に石塔について語り、特に著者の研究フィールドである岡山の事例について述べている。例えば、石塔に納骨したかどうかというような問題、そして岡山の石塔に使われている石材がどのようなものか、といったことについてである。

全体として、本書は(非専門家ならではの?)鋭い指摘が多い。例えば、故人の菩提を弔うために石塔は必須ではないのになぜ石塔は盛んに建てられたのか、というようなことは、石塔ばかり見ている人は意外と気づかない視点だと思う。石塔を建てることは当然ではなく、元来は意味のある行為であったが、その意味がだんだん忘れられ、形骸化することで却って庶民にも造塔が広まり、結果的に墓石の形式が確立していったという逆説的な展開は非常に面白く感じた。

新鮮な角度から墓石の形式の成立を論じた良書。


2020年9月24日木曜日

『中世の板碑文化』播磨 定男 著

板碑の世界を概観する本。

板碑は、沖縄を除く日本全国に5万2千基もある。本書はこの板碑の起源から終焉までをほぼ時系列で辿りながら、その全体像を把握しようとしたものである。各宗派・各地方に目配せをしながら記載しており板碑の世界が総合的に理解できる。

本書の問題意識の一つは、板碑の形式についてである。板碑といえば、細長く薄い岩の上部が山型に整形され、上部に横二条線が彫られたものが基本形と考えられている。一般に板碑と言われてイメージするのはこの形だろう。ところが、数量的には自然石板碑(細長い石を整形せずにそのまま使った板碑)もかなりたくさんあるのである。従来、整形板碑が先に生まれて、それが簡略化または応用された形で自然石板碑が生まれたと考えられていた。

ところが紀年銘がある板碑を調査していくと、必ずしも整形板碑が先行するとはいいきれなくなってきた。自然石板碑と整形板碑はほぼ同時に生まれ、はっきりと別系統をなしているわけではないが併存してきたのである。こうしたことから著者は、板碑の本質は形式にはないと考える。五輪塔や宝篋印塔がその形式に意味があるのと違い、板碑の場合はそこに主尊(の種子[梵字])や造営趣旨を刻むことに意味があって、いうなればその形は二次的な意味しか持たなかったというのである。

また従来、板碑は埼玉県で基本形が生まれて、それが御家人の分散にともなって全国に広まっていったと理解されがちであったが、埼玉が板碑の中心地とはみなせてもことはそう単純ではないということである。

最初期の板碑は、仏塔の一つとして主尊安置に意味があり、主に追善供養のために建立された。ところが逆修の考え方が広まってくると逆修供養として建立されるようになる。鎌倉時代から南北朝期が板碑の全盛期であり、地方によって若干の差はあるが南北朝期が造立のピークである。板碑は他の仏塔に比べて製作が容易であり、庶民にも手が届くものであったことが全国的に広まった理由であった。

板碑は、思想的には阿弥陀信仰を表現したものが多く、それに続いて大日如来信仰が多いようだ。形式に意味はなく刻む内容によって様々な思想に転用可能なのが板碑であり、題目(南無妙法蓮華経)を刻んだ板碑もある。しかし7割くらいは阿弥陀信仰といってよいようである。

南北朝期のピークを迎えると、板碑の造立は急速に衰退し、造形の面でも鋭さが失われ粗略なものとなっていく。戦乱の影響もあるが、念仏が広まった結果、「念仏だけで往生できるならばわざわざ板碑を作る必要はない」という考えになったためではないかと著者は言う。五輪塔や宝篋印塔に比べ板碑は庶民的なものであったため、より手軽な方に流れたわけだ。

そして五輪塔や宝篋印塔は江戸時代になっても作られ続けたが、板碑は16世紀には全く作られなくなった。中世とともに勃興し、中世と共に消えたのが板碑なのである。板碑が作られなくなった理由は、念仏信仰もあるが、それ以上に墓石(我々が普通一般に考えるあの墓石)に置き換わってしまったためと考えられる。先述の通り板碑は主尊を安置・供養することに目的があったが、やがて故人の墓標の意味合いを帯びるようになった。主尊よりも個人の戒名の方が大事になっていったのである。そして主尊供養が閑却された結果、板碑は戒名を刻む墓石へと変貌したのである。

なお本書では、若干板碑の話とは逸れる感じだが、板碑の銘文を分析し彼岸の期日について考察している。その結論は、「中世における彼岸(春彼岸・秋彼岸)は、春分・秋分の二日後に行われ、彼岸入りから明けまでの期間は7日間であった」とまとめられる。

板碑の世界を手軽に俯瞰できる良書。

【参考書籍のブログ記事】
『板碑と石塔の祈り』千々和 到 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/12/blog-post_29.html

板碑を中心として石塔の世界を紹介する本。板碑の世界の手軽な入門書。