板碑は、沖縄を除く日本全国に5万2千基もある。本書はこの板碑の起源から終焉までをほぼ時系列で辿りながら、その全体像を把握しようとしたものである。各宗派・各地方に目配せをしながら記載しており板碑の世界が総合的に理解できる。
本書の問題意識の一つは、板碑の形式についてである。板碑といえば、細長く薄い岩の上部が山型に整形され、上部に横二条線が彫られたものが基本形と考えられている。一般に板碑と言われてイメージするのはこの形だろう。ところが、数量的には自然石板碑(細長い石を整形せずにそのまま使った板碑)もかなりたくさんあるのである。従来、整形板碑が先に生まれて、それが簡略化または応用された形で自然石板碑が生まれたと考えられていた。
ところが紀年銘がある板碑を調査していくと、必ずしも整形板碑が先行するとはいいきれなくなってきた。自然石板碑と整形板碑はほぼ同時に生まれ、はっきりと別系統をなしているわけではないが併存してきたのである。こうしたことから著者は、板碑の本質は形式にはないと考える。五輪塔や宝篋印塔がその形式に意味があるのと違い、板碑の場合はそこに主尊(の種子[梵字])や造営趣旨を刻むことに意味があって、いうなればその形は二次的な意味しか持たなかったというのである。
また従来、板碑は埼玉県で基本形が生まれて、それが御家人の分散にともなって全国に広まっていったと理解されがちであったが、埼玉が板碑の中心地とはみなせてもことはそう単純ではないということである。
最初期の板碑は、仏塔の一つとして主尊安置に意味があり、主に追善供養のために建立された。ところが逆修の考え方が広まってくると逆修供養として建立されるようになる。鎌倉時代から南北朝期が板碑の全盛期であり、地方によって若干の差はあるが南北朝期が造立のピークである。板碑は他の仏塔に比べて製作が容易であり、庶民にも手が届くものであったことが全国的に広まった理由であった。
板碑は、思想的には阿弥陀信仰を表現したものが多く、それに続いて大日如来信仰が多いようだ。形式に意味はなく刻む内容によって様々な思想に転用可能なのが板碑であり、題目(南無妙法蓮華経)を刻んだ板碑もある。しかし7割くらいは阿弥陀信仰といってよいようである。
南北朝期のピークを迎えると、板碑の造立は急速に衰退し、造形の面でも鋭さが失われ粗略なものとなっていく。戦乱の影響もあるが、念仏が広まった結果、「念仏だけで往生できるならばわざわざ板碑を作る必要はない」という考えになったためではないかと著者は言う。五輪塔や宝篋印塔に比べ板碑は庶民的なものであったため、より手軽な方に流れたわけだ。
そして五輪塔や宝篋印塔は江戸時代になっても作られ続けたが、板碑は16世紀には全く作られなくなった。中世とともに勃興し、中世と共に消えたのが板碑なのである。板碑が作られなくなった理由は、念仏信仰もあるが、それ以上に墓石(我々が普通一般に考えるあの墓石)に置き換わってしまったためと考えられる。先述の通り板碑は主尊を安置・供養することに目的があったが、やがて故人の墓標の意味合いを帯びるようになった。主尊よりも個人の戒名の方が大事になっていったのである。そして主尊供養が閑却された結果、板碑は戒名を刻む墓石へと変貌したのである。
なお本書では、若干板碑の話とは逸れる感じだが、板碑の銘文を分析し彼岸の期日について考察している。その結論は、「中世における彼岸(春彼岸・秋彼岸)は、春分・秋分の二日後に行われ、彼岸入りから明けまでの期間は7日間であった」とまとめられる。
板碑の世界を手軽に俯瞰できる良書。
【参考書籍のブログ記事】『板碑と石塔の祈り』千々和 到 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/12/blog-post_29.html
板碑を中心として石塔の世界を紹介する本。板碑の世界の手軽な入門書。
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