2020年9月10日木曜日

『廃藩置県―近代統一国家への苦悶』松尾 正人 著

廃藩置県の経緯を描く。

明治政府は当初、諸藩の連合政権であった。木戸孝允や大久保利通といった維新のリーダー達も、藩からの出向のような形で政権に参与していた。土地も人も、藩が所有しているものとされたのである。ところがそれでは中央集権の近代国家にはなることができない。そのため、封建機構(独立地域)としての藩を廃して、国家による地方行政機関である県を置くという改革が必要になってくるのである。

しかしこれは、維新政府が基盤とした藩を自ら解体するということだから、明治維新そのものと同じくらい大きな改革であった。本書はこの大改革はいかにして実行されたのかを述べるものである。

廃藩置県の基盤となった思想は、「王土王民論」である。全ての土地や人民は元来から王(=天皇)の所有物であるという考えだ。この思想への反対自体は少なかった。しかしそれを実行するとなれば、これまでの社会の仕組みを一気に変えなくてはならず、難しい問題が山積していた。

なお、維新直後から県や府が置かれていた地域がある。戊辰戦争で政府が獲得した土地や、政府の直轄地(京都府)などだ。明治元年の日本には、府、藩、県という3つの異なる行政単位があり、しかも藩は約270もあってその統治は多種多様だったから、全国一律の政策を行うのは困難だった。

そこでまず政府は「藩治職制」を定めてばらばらな各藩の統治機構を均一化させた(明治元年10月)。次に、雄藩四藩(薩長土肥)からの建白に応える形で版籍奉還を実施(明治2年6月)。これは、土地と人民を天皇に奉還するというものであったが、その持ち主を形式的に天皇にするというだけで再交付(つまり「所領安堵」)され、諸侯(藩主)は改めて政府より知藩事として任命された。しかし重要なことは、藩主と家臣との主従関係が否定されたことだ。これ以降、藩士を政府が登用する場合も藩に問い合わせることはなくなった。版籍奉還が封建制度解体の一歩となった。

なお、これに先立ち、政府は戊辰戦争の功労者に対する大規模な賞典を行っている。これにより版籍奉還へはさほど批判が起こらなかったという。

一方、版籍奉還後の政府は極度の財政難に陥っていた。そこで財政に明るい大隈重信が民部省・大蔵省を牛耳って、過酷な徴税や統制を行った。折しも明治2年は大変な凶作となったが、大隈は府県への徴税には一切の妥協をせず、その結果農民一揆が頻発。それでも大隈は「一千人迄殺しても差し支えない決心で事に当たるべき」と言い放った。なお藩には課税はしていないが、例えば藩の外国貿易を禁じ、紙幣の製造を禁止するなど統制を強めた。

こうした大隈のやり方は地方官の不満も招き、政府内も混乱した。その結果民部省と大蔵省が分離させられ、大隈ら急進派官僚は民部省から排除された。これにより急進的かつ強権的な中央集権化政策は休止させられる格好となった。

しかし藩の方では、極度の財政難から自ら廃藩を願い出るものが出てきた(例:盛岡藩)。幕末の時点ですでに財政的に厳しかったのに加え、戊辰戦争によって財政がさらに悪化したためであった。各藩では、家禄を上士から下士まで平均化する、帰農・帰商を促すといったかなりの荒療治を行なっていたが、すでに限界を迎えていたのだ。こうした動きを受けて政府は「藩制」を定めた。これは藩の財政を統制し、士族の階級を簡素化させ、また陸海軍費を藩から拠出させるものであった。限界を迎えていた藩は「藩制」を概ね支持した。このほか、この時期の政府は中央集権国家の建設のための改革に着手していた。

これに最も反発したのが鹿児島藩である。 鹿児島でも西郷隆盛が参政となって藩政改革を行なっていたが、それは冗費を削るというよりは、武士を「常備隊」に組織するなど統治機構を軍政に組み替えるものだった。同藩では大量の兵隊を抱えておりその扶助が大きな課題となっていたのである。しかし政府の「藩制」に従えば兵隊を数分の一に減らす必要があったから「藩制」は受け入れ難かった。また藩政の実権を握っていた島津久光も政府の急進的改革に不満で反政府的態度を露わにしていたから、政府としても鹿児島藩対応が最大の懸案となってきた。

一方、長州(山口藩)でも、兵制改革に反対した脱隊騒動とよばれる事件が起きた。しかしこれを鎮圧したことでかえって藩論が一致し、また毛利敬親や藩主元徳は政府の改革を支持していたため、反政府的になることはなく、むしろ反鹿児島となっていった。鹿児島と山口の半目はふたたび国内に動乱をもたらす可能性があった。

そこで政府は、鹿児島・山口・高知の軍隊を政府に組み入れる代わりに協力を取り付けるこことし、特に鹿児島からは西郷隆盛を政府内に取り込んだ。三藩からの約8000人の兵隊は親兵となった代わりに藩臣でなくなった(明治4年4月)。西郷は、兵隊の給養と引き換えに藩体制の解体に同意させられることとなったのである。また、政府では三藩の協力をえた新体制となっため内閣改造を実施したが、人事は難航し制度改革の方向性も定まらず、むしろ政府は混迷を深めていった。

そんな中、廃藩置県の発端は意外なところから起こった。山口藩出身の中堅官僚だった野村靖と鳥尾小弥太が、山県有朋の屋敷で議論しているうちに「封建を廃し、郡県の治を布かねばならぬ」という話が盛り上がったのである。山県としても廃藩を見据えていたから反論はない。ただ西郷の意向が問題となった。そこで山県が西郷の屋敷を訪れ相談すると、西郷の答えは「それは宜しい」という一言で、あまりにもあっさりしたものだった。西郷は封建制の限界を悟っていたのではないかという。

政府の実力者であり、また鹿児島藩の実質的なリーダーである西郷が即座に同意したことで、ことは急転直下に動き出した。しかしそれは、鹿児島・山口藩の実力者を中心とする「密謀」によって進められた。これは大改革であるにも関わらず、政府内でも秘密裡に計画され、高知と佐賀が薩長両藩を翼賛するものとして参画した程度で、岩倉具視に伝えられたのも直前のことだった。藩主たちは急に呼び出しを受け、事前の通告もなく天皇から「廃藩」を知らされた。明治4年7月14日のことだった。これは維新官僚たちの旧藩主に対するクーデターであった(ただし山口藩だけは事前に知らされていた)。

当然、この密かに実行された大改革は、政府内に議論を巻き起こした。廃藩の翌日、大臣、納言、参議、各省の卿・大輔などが集まった会議で議論が百出したのである。そこへ遅れてきた西郷隆盛は、「しばらく周囲の意見を聞いたのち、「此の上、若し各藩にて異議起り候はば、兵を以って撃潰しますの外ありません」と大声をはりあげた(p.167)」。西郷のこの一声で議論はたちまちやんでしまった。著者は「まさに西郷は、千両役者である」と評しているが、これは逆の評価も可能であろう。西郷は、武力をチラつかせて議論を封殺したとも言えるからだ。しかしそれが廃藩置県の本質であり、西郷はそれをはっきりと述べたに過ぎなかった。

ところが、クーデターの当事者たちにとっても意外なほど、各藩では廃藩への反対が起こらなかった。藩札(藩の借金)を政府が引き受けるなど財政面の手当てがあったのに加えて、時勢のしからしむるところだという諦観があったからだろう。 廃藩に強烈に反対したのは、鹿児島の島津久光くらいのものだった。

廃藩直後には太政官職制が定められ、政府の人事が一新された。廃藩の首謀者、鹿児島・山口・高知・佐賀の出身者が政権の中核に据えられ、逆に三条実美と岩倉具視を除く全ての華族が要職から除かれた。これが、廃藩置県のもう一つの側面だった。宮廷改革である。政府の大義名分を保つために任用されていた無能な華族たちが政府から追放された。また鹿児島藩出身の吉井友実(ともざね)が宮内大丞に任命されて宮廷の人事が一新された。かくして天皇を取り囲んでいた女官は全て罷免され、代わって維新官僚たちが天皇を直接輔弼した。廃藩置県に伴う改革は、天皇を華族や女官から引き離し、維新官僚たちと直結させることとなった。

廃藩は直接には士族の解体を行うものではなかったが、追って華族や士族の特権は剥奪されていった。彼らが恒常的に得ていた家禄は数分の一に削減されて外債や公債証書などに置き換えられた(秩禄処分)。また士族の散髪・脱刀が許可され、華・士族が農工商の仕事につくことも許可された。要するに彼らに一時金を与えて、自分で仕事を見つけろということだった。こうした改革が廃藩後のたった数年で行われた。

廃藩と、その後の士族の解体を促したのはほとんどが財政問題であった。経済的に行き詰っていた藩と、その藩から家禄(給料)を得ていた士族は、新たな財源が見つからない以上、遅かれ早かれ解体する運命にあったのである。明治政府の課題は、これをいかにソフトランディングさせるかにあったといえる。

「藩治職制」「版籍奉還」「藩制」は藩の独立性を奪い、士族と藩主の結びつきを否定し、藩の財政を徐々に国家に組み入れる方策だった。ところが廃藩置県は、その藩を一気になくしてしまうというコロンブスの卵的な荒療治であった。ソフトランディングどころではないのである。この荒療治のキーマンとなったのは、最も廃藩への反対派と思われた西郷隆盛であった。西郷は、廃藩がやむを得ないと悟るやそれをさっさと実行してしまった。制度改革や議論は、その後から付いてきたという感じがする。

しかし本書は、西郷の内面についてはあまり考証していない。著者は維新の功臣たちの中では木戸孝允に共感しているようである。だが木戸が廃藩にどのような役割を果たしたのかは十分には書かれていないように思う。彼は廃藩がすぐには可能ではないと判断し、積極的には動かなかった。彼は事態が動き出してから、関係者の調整にあたったのみのように見える。木戸の働きについてはもう少し詳しく知りたかったところである。

本書は廃藩置県に向かっていく維新官僚の動き、また彼らを巡る情勢についても詳しく、わかりやすい。廃藩置県を学ぶ基本図書。


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