2020年9月22日火曜日

『江藤新平—急進的改革者の悲劇』毛利 敏彦 著

江藤新平の驚くべき先見的業績を通観する本。

明治維新の開明性を担っていたのは江藤であった。維新の功臣たちは天皇中心の中央集権国家を建設するという意気込みは持っていたが、例えば基本的人権、法治主義、三権分立など、近代国家が備えるべき国家システムにはあまり興味がなかった。

こうした近代国家システムに異常なまでの嗅覚を有し、ほとんどたった一人でそれをつくり上げたのが江藤新平という男だった。「明治維新の現場に江藤が居合わせたのはひとつの奇蹟だったのかもしれない(p.iii)」と著者は言う。

江藤は佐賀藩の下級藩士の子として産まれた。佐賀藩は長崎の警護役を担当する関係から海外に目が開かれ、幕末にちょうど鍋島直正という名君が出たことで進取の気性があった。領内には反射炉が築かれ、西洋の文献に基づいて鉄製大砲を鋳造。さらに蒸気船の購入のみならずその建造にまで手を伸ばした。

また直正の学術奨励により、国学を尊重する枝吉神陽ら史学派、蘭学派など新しい思潮が擡頭した。江藤は神陽に傾倒。神陽が主催する楠公崇拝の一派「義祭同盟」に加わった。他のメンバーは、副島種臣(神陽の実弟)、中野方蔵、大木喬任らで、後に大隈重信が加わった。

黒船が来航し、攘夷論と開国論が対立するようになると、安政3年(1856)、江藤は「図海策」と題する長文の時事意見書を提出する。この意見書では「積極的開港・通商による富国強兵」が献策されているが、島津斉彬や橋本左内による同趣旨の意見が出たのは翌年であり、江藤の見識がいかに先んじていたかがわかる。

この犀利な江藤が、思うままにならない藩に見切りをつけて脱藩したのは当然だろう。しかしすぐさま、京都政局を牛耳っていた尊攘派浪士連中の非現実的な空論と無能さや功名心に失望する。そこで滞在わずか3ヶ月あまりで江藤は帰藩した。

もちろん藩では江藤の処分が問題となった。死罪はやむを得ないと思われたが、直正は江藤に見所があるからとして死罪を認めず永蟄居に減刑した。江藤はこうして無禄になったので、山中の廃寺に引っ込んで寺子屋をはじめた。これが江藤の雌伏の時期だ(岩倉具視に少し似ている)。

慶応3年、幕府が大政奉還を行い、事態が急速に変転するようになると、脱藩上洛の前歴があり京都朝廷側に顔が利くとみられた江藤は佐賀藩にとって貴重な存在となり、江藤は5年ぶりに表舞台に復帰する。34歳であった。江藤は戊辰戦争に参加し、追って鎮将府会計局判事に任じられ民政・財政・税務を担当。江戸の現実とその実務に立脚した具体的政策論を説いた。ここで江藤は、合理的な方法による民衆の生活向上を訴えた。この民衆の立場にたった視点こそ、江藤が他の維新の志士たちと違っていた点だった。

その後江藤は会計官東京出張所判事に転ずるが、ここでは「政府急務十五条」を立案。江藤は、税負担の公平化、国家財政を公開して国民のチェックを受けるなど時代に先駆けた構想を献策している。「これは時代の水準をはるかに超えた破天荒な言論であった(p.46)。」

その後江藤は佐賀藩に帰藩し、権大参事として藩政改革に携わった。その内容は、武家階級の簡素化、戸籍法の改変による様々な自由化、門閥の私領地の廃止、寺社領の接収などであり、さらに江藤は、200戸程度を単位とした自治村を構想。そこでは執行機関(庄屋等)と議事・監督機関(寄合)を独立させるという議会制民主主義の手法を取り入れていた。この他、驚異的なことに、会社組織による商工業の督励、信用制度、郵便制度など、日本社会にほとんど存在しなかった先進的施策が江藤一人によって立案された。しかし江藤は権大参事就任3ヶ月にして早くも政府から東京へ呼び戻されたので、これらの構想は実現されなかった。

政府では江藤は「中弁」に任命された。これは太政官(内閣)に所属する高級事務官で、次官と同官等。今風に言えば内閣官房副長官補くらいであろう。江藤は岩倉具視のブレーンとして、この立場で国家のグランドデザインの設計に携わる(のち、江藤は「制度取調掛」として政府の全般的な制度設計を検討)。そこで江藤が提出した国政の基本方針では、君主独裁(中央集権)、三権分立、郡県制を挙げ、広範にわたる具体的な国家制度を提案した。ちょっと面白いのはその中で「一切の音楽の改造」までも述べられている点だ(改造の内容は不明)。

さらに江藤は、「職員令」官制に不満を抱き、これを改革する「政体案」を作製した。この中では、上議院と(民選の)下議院の政府からの独立、(太政官の上に置かれた)神祇官優位の否定、司法台とその管轄下の各級裁判所の設置及びその行政からの独立などが挙げられた。江藤は三権分立を実現し、特に近代的司法制度を全国規模で一気に実現させる雄大な構想を固めていた。

江藤はこの構想を実現化するため「国法会議」の開催を働きかけ実現させた。さらに江藤は並行して民法典の編纂に邁進。この民法典は、「法の前の平等で自由な個人」を前提とした(即ち江戸時代の身分差別の否定!)、その私人相互間の権利義務関係を規定した近代国家の一般法である。江藤はフランス民法をお手本として精力的に編纂を進め、明治4年に「民法決議」、その続編の「続民法決議」、それらを増補した「御国(みくに)民法」(草案)が作られた。

なお廃藩置県についても、江藤は具体的方策を考えていて、それは実際の政策にかなりの影響を及ぼしたと見られる。しかし廃藩置県の実施自体には江藤はいわば蚊帳の外におかれた格好である。どうも江藤は、政府の重要なブレーンではあっても、首脳部とは若干の距離を感じるところがある。

廃藩置県後、江藤は文部省に転じる。それまでの「大学」が廃されて文部省が設置されたことに伴う人事だった。江藤は文部大輔。文部卿は欠員であったので同省の最高責任者であった。「大学」時代は、文教行政と教育機関が未分化で、国学派と漢学派の対立によって混乱していたから事態を収拾するための江藤の起用だった。江藤はすぐさま人事を一新し、国学・漢学をほぼ廃して洋学者を起用。さらに国家が全国民の教育に責任を負う方針を明示した。これは明治5年の「学制」の発布へと繋がる。江藤が文部省に在職したのはわずか17日間だったが、「たちまち職務の大綱と主要人事を決め、新生文部省の骨格を一気に作りあげ(p.118)」た。

明治4年の太政官制の改革で、江藤は左院一等議員、ついで副議長に就任し、左院の民法会議を指導した。だが江藤の民法案は、江藤が翌年司法卿に転じたことや(後述)、政治的な状況、またあまりにも時代に先んじすぎていたことなどで遂に実施に移されなかった。なお日本で民法が公布されたのは明治23年。しかもこれはフランス法系への反対論があってついに施行されず、明治29年により保守的なドイツ法系の民法が制定され、明治31年になってようやく施行された。

左院における江藤は、人民の権利を保護し、国家が暴走しないようにチェックする体制を作りあげた。「人民の権利」を重視したことはこの時代においては特筆すべきことである。左院は江藤の構想した下議院とは違い官選議員によるものだったが、江藤はこれを来るべき民権拡大の布石とした。江藤の活動で左院は強力な機関となっていったが、明治5年4月、江藤は司法卿に転じる。

司法省は江藤の働きかけによって設置されたもので、法治主義の中心を担う存在であった。それまで司法卿は欠員だったので江藤が初代の司法卿である。江藤は「司法機関は人民の立場にたつべし」と明快に宣言した。これは今の時代でもまだ実現していないことだ。国家の行き過ぎを制約するものとして人民の目があり、人民の力を担保するのが法であった。犯罪の摘発は民衆のために行うもので、国家のためではなかった(!)。即ち、江藤は弱者保護のための司法制度を作ろうとしたのである。

このため、これまで行政(府県庁)と一体化していた裁判権を国家のものとし、全国に各級の裁判所を設置した。また地方官の専横や怠慢によって人民の権利が侵害された時は裁判所に出訴することができる制度を創出(今で言えば行政訴訟)。当時の地方官は大名になったかのように振る舞う成り上がり者が多く、裁判といっても白洲に引き立てて譴責するようなものだったからこれは画期的な制度だった。

なお司法卿在任中に、マリア・ルズ号事件が起こる。この事件の過程で日本における人身売買(遊女)の実態が世界に暴露されたから、政府にとっては都合が悪く、自然と人身売買の禁止へと動いた。こうして人身売買を厳禁した(そして隷属的な身分の者を自動的に解放する)画期的な太政官布告が発せられた。この布告にあたり、江藤はそれに付随する様々な問題点を一刀両断する処置を行っている。なお本書では何も述べられていないが、人身売買の禁止が、人権の観点ではなく「皇国人民ノ大恥コレニ過ギズ(井上馨)」という対外的な体裁の問題で行われたことは日本の行く末を暗示するものである。

それはともかく、江藤は司法卿として精力的に働き、人民の権利保護に邁進した。ところが「明治六年政変」が起こって、政府から追放されてしまうのである。このくだりは、著者が『明治六年政変』で描いたことの要約であるから割愛する。

【参考(読書メモ)】
『明治六年政変』毛利 敏彦 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/03/blog-post_21.html

江藤が人民の権利を保護しようとしたことが、権力を私物化していた長州閥との対立を招き、また江藤が頭脳明晰な理論派であったことが、大久保利通の権力掌握の邪魔になった。江藤はそれまで、驚異的なスピードで政策を立案し、因習にとらわれない合理的な発想によって国家の大綱を次々と立案した。それはまさに疾風迅雷と形容すべきものである。ところがこの有能さは、政権が確立し、その政権に安住しようとする者にとってはむしろ邪魔になっていったのだろう。彼は使われるだけ使われて捨てられたブレーンであった。「明治六年政変」は、まさに江藤を排除するために仕組まれたものである。

江藤と共に下野した(させられた)のが、副島種臣や後藤象二郎、板垣退助らであった。彼らは民間の立場から国家の改造を考え、日本最初の政党「愛国公党」を作った。そして「民撰議院設立建白書」を作製し、自由民権運動の火ぶたを切ったのである。

ところがそんな折、郷里の佐賀で不穏な動きが起こる。不平士族の反乱「佐賀戦争(佐賀の乱)」であった。江藤は板垣が止めるのを振り切ってこれの鎮撫へと旅立ってしまう。しかし頭に血が上った士族たちに話が通じるはずもなく、また政府から新権令(岩村高俊)が兵を伴って赴任することを知り、なりゆきから郷土防衛のために反乱軍と合流したのである。しかし佐賀鎮圧の全権を帯びた大久保により反乱はあっさりと鎮圧され、江藤は逃走。鹿児島に行き西郷隆盛に助けを求めたが拒絶され、阿波で逮捕された。

江藤は設置されたばかりの佐賀裁判所で裁判を受けた。しかし裁判は形式に過ぎず江藤の有罪は最初から決まっていた。しかも佐賀裁判所の権限では死刑を言い渡すことはできなかったにも関わらず、極刑=死刑(梟首)が言い渡され、即日処刑された。「大久保内務卿の「私刑」といわざるをえない(p.209)。」江藤が人民の権利を保護するためにつくった司法制度は早速換骨奪胎され、権力者の都合のいいように弱者を断罪する装置になってしまった。江藤は従容として死についたという。41歳の短い生涯だった。

本書は、江藤新平の維新官僚としての業績を通観するものであり、明治維新に関する前提知識をあまり必要とせず読めるコンパクトなものである。一方、考察のようなものはあまりなく、例えばなぜ江藤が人民の権利を重視したか、なぜ弱者保護に熱心であったのかというようなことは述べられていない。私は江藤のこの姿勢は5年間の永蟄居の時期の経験に基づくものであったのではないかと思うが特に書いていなかった。本書は江藤の内面を覗くものではない。

それ以外にも、例えば人柄であったり、私生活のようなものはほとんど全く描かれない。あくまでも官僚としての業績にフォーカスが当てられており、著者は人物伝・評伝としては書かなかった模様である。

なお、私自身は江藤がたった2ヶ月(明治5年3月14日〜5月24日)ほど在任した「教部省御用掛」の間の仕事について興味があったが、本書は教部省における江藤の業績としては宗教の自由化の推進(女人禁制の解除、僧侶の肉食・妻帯・畜髪の自由化)のみが挙げられ詳しく書いていない。しかしこの時期の教部省は「三条の教則」が定められ、大教院体制が敷かれるという重要な改革時期である。特に大教院体制は、全国をシステマティックに担当する大教院・中教院・小教院を置くことになるが、これは江藤が裁判所や学校の設置で行った手法に極めて近く、江藤の創案ではないかと思われる。このあたりはもう少し詳しく書いて欲しかった。

それにしても、江藤新平の改革が頓挫させられたことは、その後の日本を暗示しているかのようだと思った。江藤がいくら人民の権利を声高に叫んでも、当時はついてくる人民もいなかったであろう。「民権」などというものはあるのか? という議論があったくらいなのだ。国家にとって人民は都合良く支配できる方が良く、「人民による国家の監視」という江藤のアイデアは国賊的ですらあったのである。いや、2020年の今の日本でも、「国民による国家の監視」は、十分に過激な思想なのではないか。一介の人間が「お上に逆らう」のは非常識なこととされてはいないか。今でも、「江藤新平」を継承する人間を日本は必要としていると思う。

時代を先んじた江藤新平の悲劇によって、維新後の日本が向かう暗闇さえ幽かに感じさせる良書。

【関連書籍の読書メモ】
『西郷札 傑作短編集(三)』松本 清張
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/05/blog-post_10.html

松本清張の短編時代小説集。江藤新平の末路を実録風に描いた「梟示抄」が収録されている。

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