2020年9月10日木曜日

『差別戒名とは』松根 鷹 著

差別戒名の現在を述べる本。

差別戒名とは、主に被差別階級の人々に対し、差別的意図をもってつけられた戒名である。例えば、「畜男(女)」(家畜のような人間)、「似男(女)」(男に似ているが男ではないという意味)といった直接的な表現もあるし、部落民以外は4字の戒名なのに部落民だけ2字であるとか(相対的差別)、敢えて字画の一部を省略したり、逆に余計な点をつけたり、特定の略字や、読めない(判読不能の)文字を使ったりといった様々なやり方がある。この世では不遇だった人々が、死後にも差別を受けなければならないという、およそ宗教にあるまじき恥部が差別戒名なのだ。

本書は、この差別戒名を巡る情勢を人権問題の立場からまとめたものである。

差別戒名が問題視されてきたのは決して古いことではなく、部落解放運動が進む中で徐々に明らかになってきたもので、現在でもその全貌は不明である。しかも、各宗派の本山は差別戒名の存在をなかなか認めようとしてこなかったために、差別戒名自体が隠蔽されてきた。明らかに差別的な戒名が暮石として残っているのに、本山は「それは旅の僧侶がつけたものだろう」「転宗してきた人が、前の宗派でつけてもらった戒名だ」などという理屈でのらりくらりと躱してきたのである。

そもそも、なぜ差別戒名などというものがつけられたのだろうか。中世には差別戒名はほとんど全くつけられなかった模様である(確認されている最古の差別戒名は1605年のもの)。しかし江戸幕府によって固定的な身分制度が敷かれると、その階級差別の論理を仏教各派も追蹤し、高位の人々に仰々しく立派な戒名が与えられるその一方で、被差別民に対しては差別戒名がつけられるようになったのである。宗教統制が厳しくなるにつれ差別戒名も普及し、特に享保年間以降に急激に増加した。寺院は、戸籍管理の意味合いがあった寺請制度との関係上、被差別階級を区別していたという事情もあるのだろう。

そして差別戒名のつけ方は、『貞観政要格式目』という本が巨大な影響を及ぼした。これは『貞観政要』とは関係の無い、ほとんど偽書といってよい信頼性の低い本なのであるが、宗派に関係なくこれが利用され、差別戒名のつけ方の指針となった。

ただ、現在調査がされている限りでは、差別戒名の存在数は地域の偏りがあって(長野県に多い)、また宗派によってかなり異なる。差別戒名は浄土宗及び曹洞宗に多く(この2宗は差別戒名墓石の改正などに積極的なため多く報告されているだけかもしれない)、浄土真宗にはほとんど存在しない。

しかし差別戒名は存在しないとしていた浄土真宗大谷派でも、1945年12月に鹿児島別院でつけられた明らかな差別戒名「釈尼栴陀」(栴陀=栴陀羅(センダラ)=インドの被差別階級シュードラのこと)の位牌が発見され、大きな衝撃を与えた。差別戒名は、江戸時代の話ではなく、敗戦後にも続いていたのである。なお、その後大谷派は差別戒名の調査を行なっているが、それほど多くが報告されているわけではない。

ではなぜ浄土真宗には差別戒名が少ないのか。歴史的に、浄土真宗には被差別階級の門徒が非常に多く、穢多・非人の8割が真宗だったという。にも関わらず差別戒名が少ないことは何を意味しているのか。実は、真宗には数多くの穢寺(または穢多寺)があった。これは、寺格系列の最下位として寺格外に置かれたいわば被差別寺院である。被差別階級はこの穢寺の檀家となっていた。穢寺自体が本山から差別を受けていたが、このような所属関係にあったため、被差別階級であることを戒名でことさら区別する必要がなかったのかもしれない(本書にははっきりとは書いていない)。

ところで、近世以前の社会では公然と身分差別があったのは周知のことである。仏教各宗派では世俗の差別意識を無批判に受け入れ、結果として差別戒名が後世に残されたから今になって問題になっているが、差別をしていたという点でいえば、社会全体を批判しなくてはならない。だから、差別戒名の存在自体は、仏教各派の恥部ではあるかもしれないが、むしろ社会全体の過ちとしなければならない。

だが、差別戒名の存在を認めず、過去の過ちをなかったことにしようとする教団には、厳しい批判が向けられてしかるべきである。我々は良いところも悪いところも先人から引き継いで今の自分たちが存在しているのだから、自らが犯した過ちでなくても、先人の間違っていたことを謝罪し、訂正し、関係者が納得する形へ昇華させて次の世代へ引き継いでいく責任がある。差別戒名は、まだその一部しか対応がなされていない。全宗派での前向きな調査・解決を期待したい。

なお本書は90ページほどで、差別戒名の現状についてコンパクトにまとまっており、簡単に読める本である。ただし、あまり考察はなく、例えば各宗派はなぜ差別戒名をつけたのか、というような本質的なところは全く触れられていない。本書の関心は、差別戒名の歴史よりも、現在の部落解放運動の中で差別戒名がどのように扱われ、解決へ向けて努力されてきたのか、ということにある。

差別戒名、ひいては宗教における差別の構造を考えさせる実直な本。

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『廃藩置県―近代統一国家への苦悶』松尾 正人 著

廃藩置県の経緯を描く。

明治政府は当初、諸藩の連合政権であった。木戸孝允や大久保利通といった維新のリーダー達も、藩からの出向のような形で政権に参与していた。土地も人も、藩が所有しているものとされたのである。ところがそれでは中央集権の近代国家にはなることができない。そのため、封建機構(独立地域)としての藩を廃して、国家による地方行政機関である県を置くという改革が必要になってくるのである。

しかしこれは、維新政府が基盤とした藩を自ら解体するということだから、明治維新そのものと同じくらい大きな改革であった。本書はこの大改革はいかにして実行されたのかを述べるものである。

廃藩置県の基盤となった思想は、「王土王民論」である。全ての土地や人民は元来から王(=天皇)の所有物であるという考えだ。この思想への反対自体は少なかった。しかしそれを実行するとなれば、これまでの社会の仕組みを一気に変えなくてはならず、難しい問題が山積していた。

なお、維新直後から県や府が置かれていた地域がある。戊辰戦争で政府が獲得した土地や、政府の直轄地(京都府)などだ。明治元年の日本には、府、藩、県という3つの異なる行政単位があり、しかも藩は約270もあってその統治は多種多様だったから、全国一律の政策を行うのは困難だった。

そこでまず政府は「藩治職制」を定めてばらばらな各藩の統治機構を均一化させた(明治元年10月)。次に、雄藩四藩(薩長土肥)からの建白に応える形で版籍奉還を実施(明治2年6月)。これは、土地と人民を天皇に奉還するというものであったが、その持ち主を形式的に天皇にするというだけで再交付(つまり「所領安堵」)され、諸侯(藩主)は改めて政府より知藩事として任命された。しかし重要なことは、藩主と家臣との主従関係が否定されたことだ。これ以降、藩士を政府が登用する場合も藩に問い合わせることはなくなった。版籍奉還が封建制度解体の一歩となった。

なお、これに先立ち、政府は戊辰戦争の功労者に対する大規模な賞典を行っている。これにより版籍奉還へはさほど批判が起こらなかったという。

一方、版籍奉還後の政府は極度の財政難に陥っていた。そこで財政に明るい大隈重信が民部省・大蔵省を牛耳って、過酷な徴税や統制を行った。折しも明治2年は大変な凶作となったが、大隈は府県への徴税には一切の妥協をせず、その結果農民一揆が頻発。それでも大隈は「一千人迄殺しても差し支えない決心で事に当たるべき」と言い放った。なお藩には課税はしていないが、例えば藩の外国貿易を禁じ、紙幣の製造を禁止するなど統制を強めた。

こうした大隈のやり方は地方官の不満も招き、政府内も混乱した。その結果民部省と大蔵省が分離させられ、大隈ら急進派官僚は民部省から排除された。これにより急進的かつ強権的な中央集権化政策は休止させられる格好となった。

しかし藩の方では、極度の財政難から自ら廃藩を願い出るものが出てきた(例:盛岡藩)。幕末の時点ですでに財政的に厳しかったのに加え、戊辰戦争によって財政がさらに悪化したためであった。各藩では、家禄を上士から下士まで平均化する、帰農・帰商を促すといったかなりの荒療治を行なっていたが、すでに限界を迎えていたのだ。こうした動きを受けて政府は「藩制」を定めた。これは藩の財政を統制し、士族の階級を簡素化させ、また陸海軍費を藩から拠出させるものであった。限界を迎えていた藩は「藩制」を概ね支持した。このほか、この時期の政府は中央集権国家の建設のための改革に着手していた。

これに最も反発したのが鹿児島藩である。 鹿児島でも西郷隆盛が参政となって藩政改革を行なっていたが、それは冗費を削るというよりは、武士を「常備隊」に組織するなど統治機構を軍政に組み替えるものだった。同藩では大量の兵隊を抱えておりその扶助が大きな課題となっていたのである。しかし政府の「藩制」に従えば兵隊を数分の一に減らす必要があったから「藩制」は受け入れ難かった。また藩政の実権を握っていた島津久光も政府の急進的改革に不満で反政府的態度を露わにしていたから、政府としても鹿児島藩対応が最大の懸案となってきた。

一方、長州(山口藩)でも、兵制改革に反対した脱隊騒動とよばれる事件が起きた。しかしこれを鎮圧したことでかえって藩論が一致し、また毛利敬親や藩主元徳は政府の改革を支持していたため、反政府的になることはなく、むしろ反鹿児島となっていった。鹿児島と山口の半目はふたたび国内に動乱をもたらす可能性があった。

そこで政府は、鹿児島・山口・高知の軍隊を政府に組み入れる代わりに協力を取り付けるこことし、特に鹿児島からは西郷隆盛を政府内に取り込んだ。三藩からの約8000人の兵隊は親兵となった代わりに藩臣でなくなった(明治4年4月)。西郷は、兵隊の給養と引き換えに藩体制の解体に同意させられることとなったのである。また、政府では三藩の協力をえた新体制となっため内閣改造を実施したが、人事は難航し制度改革の方向性も定まらず、むしろ政府は混迷を深めていった。

そんな中、廃藩置県の発端は意外なところから起こった。山口藩出身の中堅官僚だった野村靖と鳥尾小弥太が、山県有朋の屋敷で議論しているうちに「封建を廃し、郡県の治を布かねばならぬ」という話が盛り上がったのである。山県としても廃藩を見据えていたから反論はない。ただ西郷の意向が問題となった。そこで山県が西郷の屋敷を訪れ相談すると、西郷の答えは「それは宜しい」という一言で、あまりにもあっさりしたものだった。西郷は封建制の限界を悟っていたのではないかという。

政府の実力者であり、また鹿児島藩の実質的なリーダーである西郷が即座に同意したことで、ことは急転直下に動き出した。しかしそれは、鹿児島・山口藩の実力者を中心とする「密謀」によって進められた。これは大改革であるにも関わらず、政府内でも秘密裡に計画され、高知と佐賀が薩長両藩を翼賛するものとして参画した程度で、岩倉具視に伝えられたのも直前のことだった。藩主たちは急に呼び出しを受け、事前の通告もなく天皇から「廃藩」を知らされた。明治4年7月14日のことだった。これは維新官僚たちの旧藩主に対するクーデターであった(ただし山口藩だけは事前に知らされていた)。

当然、この密かに実行された大改革は、政府内に議論を巻き起こした。廃藩の翌日、大臣、納言、参議、各省の卿・大輔などが集まった会議で議論が百出したのである。そこへ遅れてきた西郷隆盛は、「しばらく周囲の意見を聞いたのち、「此の上、若し各藩にて異議起り候はば、兵を以って撃潰しますの外ありません」と大声をはりあげた(p.167)」。西郷のこの一声で議論はたちまちやんでしまった。著者は「まさに西郷は、千両役者である」と評しているが、これは逆の評価も可能であろう。西郷は、武力をチラつかせて議論を封殺したとも言えるからだ。しかしそれが廃藩置県の本質であり、西郷はそれをはっきりと述べたに過ぎなかった。

ところが、クーデターの当事者たちにとっても意外なほど、各藩では廃藩への反対が起こらなかった。藩札(藩の借金)を政府が引き受けるなど財政面の手当てがあったのに加えて、時勢のしからしむるところだという諦観があったからだろう。 廃藩に強烈に反対したのは、鹿児島の島津久光くらいのものだった。

廃藩直後には太政官職制が定められ、政府の人事が一新された。廃藩の首謀者、鹿児島・山口・高知・佐賀の出身者が政権の中核に据えられ、逆に三条実美と岩倉具視を除く全ての華族が要職から除かれた。これが、廃藩置県のもう一つの側面だった。宮廷改革である。政府の大義名分を保つために任用されていた無能な華族たちが政府から追放された。また鹿児島藩出身の吉井友実(ともざね)が宮内大丞に任命されて宮廷の人事が一新された。かくして天皇を取り囲んでいた女官は全て罷免され、代わって維新官僚たちが天皇を直接輔弼した。廃藩置県に伴う改革は、天皇を華族や女官から引き離し、維新官僚たちと直結させることとなった。

廃藩は直接には士族の解体を行うものではなかったが、追って華族や士族の特権は剥奪されていった。彼らが恒常的に得ていた家禄は数分の一に削減されて外債や公債証書などに置き換えられた(秩禄処分)。また士族の散髪・脱刀が許可され、華・士族が農工商の仕事につくことも許可された。要するに彼らに一時金を与えて、自分で仕事を見つけろということだった。こうした改革が廃藩後のたった数年で行われた。

廃藩と、その後の士族の解体を促したのはほとんどが財政問題であった。経済的に行き詰っていた藩と、その藩から家禄(給料)を得ていた士族は、新たな財源が見つからない以上、遅かれ早かれ解体する運命にあったのである。明治政府の課題は、これをいかにソフトランディングさせるかにあったといえる。

「藩治職制」「版籍奉還」「藩制」は藩の独立性を奪い、士族と藩主の結びつきを否定し、藩の財政を徐々に国家に組み入れる方策だった。ところが廃藩置県は、その藩を一気になくしてしまうというコロンブスの卵的な荒療治であった。ソフトランディングどころではないのである。この荒療治のキーマンとなったのは、最も廃藩への反対派と思われた西郷隆盛であった。西郷は、廃藩がやむを得ないと悟るやそれをさっさと実行してしまった。制度改革や議論は、その後から付いてきたという感じがする。

しかし本書は、西郷の内面についてはあまり考証していない。著者は維新の功臣たちの中では木戸孝允に共感しているようである。だが木戸が廃藩にどのような役割を果たしたのかは十分には書かれていないように思う。彼は廃藩がすぐには可能ではないと判断し、積極的には動かなかった。彼は事態が動き出してから、関係者の調整にあたったのみのように見える。木戸の働きについてはもう少し詳しく知りたかったところである。

本書は廃藩置県に向かっていく維新官僚の動き、また彼らを巡る情勢についても詳しく、わかりやすい。廃藩置県を学ぶ基本図書。


2020年9月4日金曜日

『太陽と月—古代人の宇宙観と死生観(日本民族文化体系 2)』谷川 健一 編

天体と世界観の民俗学。

本書は太陽と月を中心として、現代に残った民俗や史料、神話・伝説から古代人の宇宙観や死生観を考察する論文集である。収録されているのは、次の諸編。

序章 古代人の宇宙創造:谷川健一
第1章 太陽と火:大林太良
第2章 月と水:松前 健
第3章 星と風:窪 徳忠・谷川健一
第4章 古代人のカミ観念:谷川健一
第5章 葬りの源流:土井卓治
第6章 他界観—東方浄土から西方浄土へ:田中久夫
第7章 日本人の再生観—稲作農耕民と畑作農耕民の再生原理:坪井洋文

狩猟採集社会における原始的な信仰では、アニミズム(全てのものに精霊や神が宿るとする考え)やトーテミズム(動物を神と考え、特定の動物を人間の祖先と見なして崇拝する)が中心だ。太陽や月の信仰は、農耕を大規模に行うより進んだ社会に生まれるものである(レオ・フロベニウスの説)。また太陽信仰は王権と結びつく。天体の信仰は農耕と王権によって生まれるもののようだ。

しかるに日本の場合どうだったか。例えば、日本神話の太陽神であるアマテラスは、天皇の祖先神と位置づけられて崇敬された。国産みのイザナミ・イザナギ(おそらくこちらの方が古い神なのだろう)ではなく、また天孫降臨のニニギでもなく、アマテラスが最重要の祖先神であったことに、太陽信仰の影響が窺えるのである。

とはいえ、民衆の間にも太陽信仰は自然発生的に生まれており、本書はそういう事例について散発的に紹介している(特に沖縄の例が多い)。またそれに火の信仰が関連づけられ、「消えずの火」が各地にあったことや、潔斎を行う場合に特別な火を使うことなどから、火の持つ意味が推測されている。

月については、月と不死の結びつきがやや詳しく紹介される。月の満ち欠けが再生を思わせるからであろう。特に若水(一年の最初に汲む水)を浴びる風習と月の関係について考察している。しかし月については、月待ちの習俗などは扱われず、やや簡素に感じた。

星について扱った「星と風」は、ほとんどが中国思想の紹介である。日本の星信仰はほとんどすべて中国にその源流が求められるということだ。中でも「緯書」(陰陽・五行説などを使い、経書の文書を解釈して予言するもの)の説明が面白かった。「緯書」の予言は占星術が使われていたため、それが日本に伝来して星の信仰を形作っていったという。星の信仰とは関わりは薄いものの、庚申講についても述べられている。中国における元々の守庚申では一人静かに徹夜するものだったが、仏教的守庚申では賑やかに過ごすものになった。これが伝わった日本でも平安時代の庚申講は賑やかに過ごすもので、15世紀あたりから(再度)仏教と結びついて、精進潔斎をするようになっていくというのは逆の現象で興味深い。なお、彗星は日本では中国以上に嫌われて、全ての不祥事の原因が彗星に帰せられたという。簡単にしか書いていないが、面白い現象である。

この他の諸編は、カミの観念、死生観、墓の造営に対する観念、他界観などの観念的なものを扱う。これらは、事例紹介というよりもこれまでの民俗学研究史の整理という側面が強い。 全体として興味深い話がちりばめられてはいるが、体系的な考察ではないのでやや散漫である。その中で面白かったのが、阿弥陀信仰が、「死の国」のイメージを変えたという説。「死の国」は、それまでは汚穢(おえ)に満ちた恐るべき場所と思われていたが、阿弥陀信仰によってそれが明るい世界へと変化したという。

最後の「日本人の再生観」は、ハレとケを巡る民俗学であり、前半は柳田国男と折口信夫の説(ハレ・ケの考察)を批判検証していく内容である。 中心的な論点は、ハレと米の関係である。後半は、稲作儀礼や穀霊信仰について考察されているが、そこで面白い指摘がある。近代以前の田んぼには金肥(厩肥や油粕などの高窒素肥料)は入れず、刈敷(かりしき)と呼ばれる肥料を入れていた。これは、山から刈ってきた草や、小枝といったものである。刈敷は大量に投入したため、山から取ってきて田んぼに入れるのは、田植えと並ぶ重労働だったという。著者は「日本の刈敷の研究は稲作技術のひとつとしてしまうには、あまりに大きな問題を含んでいることを指摘しておきたい」と述べている。

著者の考えは、刈敷の投入目的は大地の再生であり、山の神が春になって田の神として下りてくる信仰とも深い関係があるが、それが後に肥効を期待する技術の次元へと変化したのではないかというものだ。しかし著者は「刈敷には肥効がほとんどない」と考えているようだが、これは現代の農学では「高炭素資材の多投入」という技術であり(炭素循環農法とも言う)、ちゃんとやれば肥効は期待できる。むしろ確立した技術がいつしか形骸化されて、信仰によって支えられるようになったと考える方が合理的である。この部分は、本書全体の論旨からは蛇足的な部分であるが面白かった。

論文集としての視座は首尾一貫していないが、いろいろと面白い話が出てくる本。

【関連書籍の読書メモ】
『神と仏—民俗宗教の諸相—(日本民俗文化体系4)』宮田 登 編 https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/09/4.html
神と仏をめぐる民俗文化の考察。神と仏をより広い視野から捉えた名著。

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2020年9月2日水曜日

『葬式仏教の誕生—中世の仏教革命』松尾 剛次 著

仏教が葬式を担うようになった変化を描く。

日本に伝来した当初の仏教は、葬式には関与していなかった。仏教の活動の中心が葬儀を執り行うこととなったのは、中世からである。本書は、その変化がどのようにして起こったかを述べるものである。

古代の僧侶たちが葬式に関与しなかったのは、死穢を避けたからであった。僧侶は律令国家により規制を受けていた(僧尼令)。彼らは官僧であって、国家の法要に従事する必要があった。ところが人の死(や死体)に遭遇すると死穢に冒されると考えられ、30日間も謹慎しなくてはならなかったのである。こうなると官僧としての職務を果たすことができない。よって僧侶たちは死を避けていた。教団の中で死亡したものも十分に弔われることもなく、遺棄に近い形で葬られた。

もちろん、死に瀕した人々は、看取られることもなく、自分の遺体がぞんざいに扱われることを快く思ってはいなかっただろう。しかし当時の日本では風葬や遺棄葬は一般的なものだったし、古代の日本のあの世観では、誰でも死ぬと別の世界にゆくというくらいの観念しかなく、いわゆる「後生を願う」というようなこともなかったので、死に際して殊更の宗教的儀式を必要としていなかったようだ。

ところが、古代末期(平安時代)からそうした日本人のあの世観に変化が起こってくる。末法思想と、それに伴う弥勒信仰・阿弥陀信仰によってである。弥勒信仰では、この世で仏法に逢えないのなら、遙かな未来に現れる弥勒仏に教え導いて欲しいという、遙かな未来への期待が醸成された。56億7千万年後の弥勒下生(げしょう)=現世への降臨に立ち会えるよう生まれ変わりたい(弥勒下生信仰)、あるいは直ちに弥勒の兜率天へ生まれたい(弥勒上生信仰)と願ったのである。 阿弥陀信仰では、末法の世でも人々を救ってくれる阿弥陀仏にすがるため、念仏や往生法といった具体的な方法が種々考案され、それを実践するものが多くなった。

そんな中、源信は「二十五三昧会(にじゅうござんまいえ)」という念仏結社を作った。これは看取り・葬送を互助するという、いわば葬送共同体であった。この頃の阿弥陀信仰では、往生するためには念仏の他いくつかのプロセスを死の間際に必要とした。よって、それを互いに提供しようというのである。この結社が仏式の葬送を生む上で画期的な意義を有した。二十五三昧会を走りとして鎌倉時代には様々な葬送共同体が結ばれるようになり、僧侶が葬儀に関与する仕組みができていった。

しかしやはり官僧は死穢を職務上避けなくてはならなかったので、葬儀に携わったのは「遁世僧」と呼ばれた僧侶たちだ。遁世僧とは、要するに官僧であることを辞めて、既存の教団から飛び出した僧侶のことである。彼らが鎌倉新仏教を担う旗手たちになった。また著者は、律宗の叡尊や華厳宗の明恵といった旧仏教の改革派も遁世僧であることに注目し、「鎌倉新仏教」よりも「遁世僧教団」が社会的に大きな影響を与えたとしている。

遁世僧たちは徐々に仏式の葬式の手続き(法事)を整備し、また墓所の造営法などを考案していった。そうしたことで14世紀初めを画期として、天皇の葬送も遁世僧が担うようになっていくのである。

著者の松尾剛次(けんじ)は律宗の研究者であるため、こうした動きに果たした律僧の役割については詳しい。律僧とは、叡尊を中心として戒律護持を勤めた教団で、13〜14世紀には10万を超える信者を有する教団であった。特に文永元年(1264)から始まった「光明真言会」は信者の獲得に役立ち、またこの法会で加持した土砂を死者や墓に撒けば後世で菩提が得られるということで葬送活動においても重要だった。

律僧たちは、墓塔として2メートルを超える大型の五輪塔を全国に建てており、五輪塔の普及に大きく貢献した。これは、花崗岩や安山岩など硬い石で出来ていて、遙かな未来の弥勒下生までちゃんと残るように丈夫に作られた。また五輪塔が巨大だったのは、個人の墓塔というよりは共同墓であったためだ。一結衆とか六道講衆、光明真言宗一結衆といった、葬送共同体・宗教互助組合のようなものの惣墓・共同墓として巨大五輪塔は造営されたのである。

また叡尊教団は、戒律を厳しく護持することで、死穢を避けられるという論理を生みだし、死穢を気にせず葬送活動に従事することを可能にした。

ちなみに、念仏僧たちは「念仏を唱えて死んだ人は往生できる。往生人に死穢はない」と考え、やはり死穢を気にせず葬送活動を行った。

なお禅僧たちも死穢を気にせず葬送に携わっていたが、どうして気にしなくてよかったのか理屈はよくわからないそうだ。禅宗については、中国における葬儀システムを日本に導入したことで、葬送儀礼の確立に重要な役割を果たした。『禅苑清規(ぜんえんしんぎ)』という禅宗教団の生活規範のテキストに、教団の人間が死んだ際の手続きが記されており、例えばこれにより死後戒名をつけるシステムが始まった。

このようにして生まれた仏教による葬儀は、江戸時代には寺請制度と一体となって完全に普及したのである。

本書の前半部は、勝田 至『死者たちの中世』の議論がベースとなっており、同書ではあまり触れていなかった死生観の変化を付け加えたものだと言える。また、後半部の律宗の巨大五輪塔については、著者の『中世叡尊教団の全国的展開』などの研究書の成果をコンパクトにまとめたもののようだ。

葬式仏教の成立についての社会状況、死生観、各教団の動きなどが簡潔にまとまっておりわかりやすく、律宗についての情報に価値がある。しかし念仏僧の活動については若干物足りなく思った。特に葬送に大きく携わったらしい時衆についてほとんど触れられていないのは残念だった

葬式仏教の成立を広い視野でコンパクトにまとめた良書。

【関連書籍の読書メモ】
『死者たちの中世』勝田 至 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/10/blog-post_9.html
中世、多くの死者が墓地に葬られるようになる背景を説き明かす本。
思想面は手薄だが、中世の葬送観について総合的に理解できる良書。


2020年8月30日日曜日

『大学・中庸・孟子』金谷 治・湯浅幸孫・日原利国・加地伸行 訳(世界文学全集 第18巻)

儒教の重要な古典。

儒教には四書五経といわれる古典があり、うち四書とは『論語』『大学』『中庸』『孟子』を指す。もともと『大学』『中庸』は(五経の一つである)『礼記』の一部分であり、これを独立させて重視したのは南宋の朱熹(朱子)であった。

朱熹はこれを独立させたばかりでなく、より自らの思想が明確になるように編集しなおし、『大学章句』『中庸章句』として刊行した。特に『大学』への力の入れようは並々ではなく、完成まで10年間もかけた上、死の3日前まで改訂の筆を入れていたという。彼は章の順番を入れ替え、脱文があるとしてそれを補うなど甚だしい改変を行なっていたのである(本書には、朱熹による改変版(「章句版」という)と、原文の両方が収録されている)。

そしてもう一つの改変は、『大学』の作者を曽子だと決めつけ、孔子と関連づけたことだった。『大学』はもともと作者不明の一編であり、独立の作品として注意が払われていたわけではない。これを朱熹に先立って重視したのは韓愈であった。韓愈は儒教の伝統を、尭・舜 → 孔子 → 孔子の門人の曽子 → 孔子の孫の子思 → 孟子と考え、孟子から中絶したとした。

朱熹はこの考えを受け継いで、著作の上での系譜関係を完全にするべく、『大学』を曽子の著作としたのである。こうすれば、以前より子思の著作と考えられていた『中庸』を加えて、『孔子』→『大学』(曽子)→『中庸』(子思)→『孟子』と繋がり、儒教の伝統が連続するのである(しかも朱熹は孟子の門人から教えを受けたとしているから、自らを儒教の伝統の継承者と位置づけることもできた)。

今でこそ四書といえば儒教の聖典とみなされているが、『孔子』以外はさほど重視された著作ではなく、『孟子』ですら朝廷が尊信したのはようやく宋代になってからである。この四書を儒教の系譜を伝えるものとして強調したのは朱熹であり、特にそれを完全にするために必要だったのが『大学』だった。いわば『大学』は、孔子と孫の子思を繋ぐミッシング・リンクなのだ。

そして朱熹が『大学』を重視した理由はもう一つある。それは、有名な八条目「格物、致知、誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下」に代表される、個人の修養が国家の政治や繁栄と一致するという世界観であった。朱熹は若い頃仏教に心惹かれていたが、やがて仏教から離れて儒教の復興を志した。仏教では個人の内面を重視するが、儒教は政治哲学であるため個人の内面は閑却される傾向にあり、ややもすれば科挙のために知識偏重となって精神面は却って堕落していた。こうした堕落した儒学を新しい精神の学問として復興するために、朱熹は一身の修養が国家の安寧へと繋がる『大学』の思想を欲したのである。

しかし本書解説で述べられるように、個人の修養と国家のあり方は直接には繋がらない。むしろ、個人が勉強し、家を斉すことで、国家の不正義を糾弾するということもある。また、いくら個人が修養に努めても、他の国から武力によって滅ぼされることもある。八条目が実現するのは、世界の国々が善政を敷いているという、およそありえない前提の下でしかない。

ただしこれは、『大学』のみならず儒教に通底する世界観である。『中庸』においても、「人間の本性は天が人々に命じたものである」という考えの下、日常の平凡な徳を実践し、日常の平凡な言葉を慎重にすることで、やがて君子として身を立て世界が平安になる、といったことが説かれている。しかし現実の世界では、その場しのぎの姑息な人間が栄達する一方で、真面目で地道な人間が冷や飯を食わされるのがよくある話だ。『大学』にしても『中庸』にしても、個人の修養が具体的にどうやって天下の安寧に繋がっていくのか、全く述べるところがない。むしろこれらは、「世界はこうあるべきだ」という理想論なのである。

『孟子』においてもそうである。孟子は有力な儒家で、多数の弟子を引き連れて諸国を遊説したが、一時期を除いて国政に携わることはなかった。彼の主張は「善政を敷けば、民が富み、諸国から人々がやってきて国はますます強くなり、他国から尊敬されるであろう」ということで、要するに善政の勧めであった。彼は弱者保護や不正の排除といったことを主張している。特に印象深かったのは、孟子が「人民」を重視していることで、「国家の中で最も重要なのは人民」だとし、政治においては「人心の獲得」が必要であるという。これは今の民主主義とは違うにしても、人民の保護とその支持を最重要と考えたことは特筆に値する。

しかし、孟子が生きた時代は生き馬の目を抜く戦国時代であった。孟子の説く善政は、国同士が激しく争う中ではあまりに悠長な考えに見えたことだろう。現実の世界は、孟子の考える理想状態とは程遠く、力ある国が弱い国を蹂躙する野蛮な世界だったのである。であるから、孟子は各国でそれなりに扱われているものの、その献策が受け入れられたようには見えない。彼の思想は厳しい現実世界においては、やや浮世離れしていたといえよう。

ちなみに、孟子の弟子にも、そういう穿った見方をしているものがいる。それが万章という弟子である。『孟子』の中でも、万章との問答が中心の「万章章句(上、下)」は最も興味深い。例えば、「天は尭・舜に天下を与えたというが、それはどうやって与えられたのか」と万章が聞く部分がある。孟子は「天は何も言わない。その人の行動と事蹟とによって、彼に与えることを示すにすぎない」と答えるが、さらに万章は「ではどんな方法で?」と聞き返す。これに対して孟子はいろいろ屁理屈を述べている。しかしあまり説得的ではない。孟子の世界観の中では、正しい君子には天命が下り、天下を手中にするのであるが、具体的にそれがどのような手続きで実現するのかというのは曖昧なのである。

中国では「天」への信仰は、西洋の「神」への信仰とは全く違った。諸子百家の時代、「天」を人格的な神として信仰しているのは墨子くらいのもので、多くは理念的な至高の存在として措定しているに過ぎない。であるから孟子が万章の問いに窮するのももっともなことだった。しかし孟子は個人の行いを正しくすれば天がそれを取り立ててくれる、という楽観的な世界観を基盤にしているわけだから、そこを曖昧のままに済ませたのは思想として徹底していなかったのは事実である。孟子の思想は、ミクロのレベルで悪を挫き善を行うことが天下の(マクロの)太平に繋がる、という途中をすっとばした思想なのである。

でも、だからといって孟子の考えが現実を無視した理想主義にすぎないかというと、そうでもない。善政の勧めだけに、不正や悪政への糾弾は当を得ており、現代の為政者にとっても耳の痛い言葉がたくさんある。事実、明の太祖は『孟子』を嫌い、劉昆孫に命じて『孟子節文』を作らせ、専制君主に都合の悪い箇所を削らせた。四書の一つにして、改竄の憂き目を受けなければならなかったところに『孟子』の価値が窺い知れる。政治が堕落して人民を省みなくなっている現在、『孟子』はもっと読まれるべき著作である。

なお、私が本書を手に取ったのは、桂庵玄樹から始まる薩南学派(戦国時代に南九州で起こった儒学の学派)が朱熹の『四書集註(しっちゅう)』(『四書』の解説)を重視し、桂庵玄樹が訓点をつけた『大学章句』を延徳4年(1492)全国に先駆けて刊行していることがあるからである。薩南学派は僧侶(臨済宗及び法華宗)によって担われていたが、朱熹の排仏的傾向を見るとこれは不思議なことである。『中庸章句』の序においても、朱熹は仏教および道教を非難している。どうして仏教の僧侶たちが露骨に排仏をいう朱熹に惹かれたのだろうか。

思えば、薩南学派に続いて江戸幕府の儒学の基礎を作った藤原惺窩も元は臨済宗の僧侶だったし、林羅山も元来は寺院で修行している。だが藤原惺窩は還俗し、林羅山は僧籍に入ることはなかった。日本の朱子学の受容には、朱熹の排仏的傾向と、僧侶の活躍が微妙に交錯しているのである。

日本においても、中国においても、思想史的な位置付けが興味深い独特な古典。

【関連書籍の読書メモ】
『世界古典文学全集 19 諸子百家』貝塚 茂樹 編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/05/19_15.html
諸子百家の思想の概観。

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2020年8月25日火曜日

『日本宗教史 I, II』笠原 一男 編(その2)

前回からのつづき。第II巻について)

第 III 部 近世の社会と宗教

江戸時代の仏教各派は、幕府からの保護とともに強い統制を受けた。この保護と統制について、本書は詳しく述べており参考になる。

保護の面は、全ての人民をどこかの寺に所属させ、その戸籍管理(冠婚葬祭の証明書発行、キリシタンでないことの証明)と旅行手形の発行を寺院が担うという寺請制度による。これは僧侶を半公務員化することであった。これは寛文12年(1635)頃に完成したと見られる。この頃に幕府に寺社奉行が置かれたからである。

一方、統制の方も強力だ。(1)本末制度によって寺院全てをヒエラルキーの下におき、本山を支配することによって全寺院を体制内に組み込んだ。(2)教学を固定化し、その教学の研究を振興することによって、寺院の思想を社会と遊離した象牙の塔的なものに変質させた。(3)僧侶の生活規則を幕府が定めた。(4)寺領を保護するという名目の下で検地を行い寺領を削減し、経済基盤を奪った。といったものである。これらの政策は、中世に寺院が持っていた特権を剥奪するとともに、抵抗の手段をも奪うという巧妙なものであった。

こうして経営が弱体化し、民衆の心と遊離した寺院は、存在としては保護されていたが収入は少なくなったため、葬儀を担う「葬式仏教」化することにより収入を確保するようになっていったのである。そして葬式仏教が制度として確立し、檀家と寺の関係が固定化されることで、個人の内面は置き去りにされ、信仰は形式化してしまった。こうして、もはや仏教は民衆の宗教心を託せるものではなくなっていた。

であるから、江戸時代の人々は、檀家寺にではなく、山伏や御師たち——季節ごとにやってきて、厄除け、病除、安産、子育てなどさまざまな効能のあるお札やお守りを配ったり、祈祷を行った——に信仰を寄せた。こうした人々は、固定的な菩提寺所属の僧侶からさげすまれた宗教者であり、儒者たちによって迷信・邪教などといって退けられていたが、実際には彼らの「祈祷仏教」が江戸時代の民衆宗教の中心となった。

江戸時代の神道についても、幕府から統制を受けている。寛文5年(1665)には、「諸宗寺院法度」とともに、「諸社禰宜神主法度」も出された。この法度では、神社の所有田地の売買禁止などが規定されているが、より重要なこととして、吉田家(唯一神道=吉田神道)を神道の家元的存在と認めたことがある。吉田家は幕府によりお墨付きを得たことで、神道の総元締めとして発展していく。

なお、享保期あたりから吉田家に対抗したのが古代以来の神道家だった白川家であるが、本書ではこれについてはあまり書かれていない。

本書では、さらに各宗派の動向が簡潔にまとめられている。

浄土宗:人倫徳目、忠孝といった封建論理を勧奨し、幕藩体制内における模範的人間を育成することが中心となった。新しいタイプの往生伝が生まれ、往生のためには忠孝のような時代が要請する倫理が必要だとされるようになる。しかしこうした体制派と反発した「道心(どうしん)」という非正規僧が活発に活動するようになり、民衆の支持を得た。

時宗:徳川幕府は寺領百石を時宗に与え、遊行上人には、前時代の慣例を踏襲して50匹の伝馬徴発権を与えた。教団の宗主に伝馬徴発権が与えられたのは時宗だけである。遊行上人には幕府が無視できないほど絶大な権威があり、大名並みに優遇されていた。

遊行にあたっての宿舎・食事も全て藩側の負担でまかなわれた。遊行上人が通行するとなれば、何ヶ月も前に通告され、遊行上人のための札引場、湯殿、雪隠、屋根の新設や修理、畳替え、障子の修理、道路普請、架橋、石垣作りまで藩がやっているのである。遊行上人通行予定地に伝馬の設置がない場合は、回国を機会に伝馬が設置されたところもあった。藩にとっては遊行上人の回国は迷惑以外の何者でもなかったが道路整備などに果たした遊行上人の役割は大きかった。こうしてやってきた遊行上人の配るお札には、大勢の人が殺到し、争って受けた。また時宗の教義は江戸時代には確立し、学寮制度とそれに対応した昇進のシステムが完備された。

禅宗:道者超元、隠元隆琦が来日。隠元は黄檗山万福寺(黄檗宗)を創建して寺領400石を与えられた。道者超元は在留8年で帰国したが、その門下には月舟宗胡や盤珪永琢がいる。

曹洞宗では、道元に返ろうという宗統復古運動が起こった。その先駆は万安英種(ばんなん・えいしゅ)で、その下に参じた月舟宗胡が発展させた。月舟は道元の『正法眼蔵』を研究し、その門下から多くの学僧を輩出した。その一人が卍山道白(まんざん・どうはく)であり、彼は一師印証(一人の師からだけ法を継ぐこと)を幕府に訴えて法制化し、嗣法の乱脈を糺してその門下は大いに栄えた。元禄の頃には、江戸駒込の栴檀林や芝の青松寺の獅子窟などには千人あまりの修行僧が集まって禅を学んだという。

このような主流教団とは別に、托鉢の旅を続けたり乞食僧として草庵に隠れ住んだ飄逸の僧が幾人もいた。例えば、穴風外(あなふうがい)、良寛といった僧侶である。こうした人々は、原始仏教そのままの托鉢苦行や道元の理想とした出家者の在り方に近かった。

臨済宗は、江戸時代にはかつての禅風が衰えていたが、沢庵(大徳寺派)、愚堂(妙心寺派)などが出て復興に向かい、愚堂の弟子、盤珪永琢が大いに民衆教化に取り組んだ。さらに古月禅材、白隠が出て臨済宗は近代的な民衆禅として復活した。白隠はわかりやすく禅の真理を説き、禅を近世社会に適合させようとした。白隠ほど大衆に親しまれた禅者はいない。

日蓮宗と不受不施:日蓮宗は信長と敵対したことで教勢を殺がれたが、秀吉は懐柔策をとった。ところが、秀吉の方広寺大仏の千僧供養への対応で日蓮宗は二つに割れる。日蓮宗は法華経唯一主義であったが、その原理を貫けば大仏への供養はできなかった。ここで大仏を供養した主流派(受派)と、しなかった不受不施派に分かれるのである。その後の日蓮宗の歴史は、主流派と不受不施派の抗争(というよりも、不受不施派の弾圧)の歴史である。こうして不受不施派は地下に潜伏することになった。近世の日蓮宗の内部はごたごたしていたが、在家の人々の宗教活動は盛んであり、日蓮宗は近代の新宗教の巨大な母体となる。

真宗:真宗は、納税の義務を怠るなとか、公儀の定めを守れといった封建権力への服従を門徒に強く訴えた。本願寺末寺の僧侶たちによってまとめられた『妙好人伝』は理想的念仏者像を集大成したものである。それによれば、お上に対する忠節、親に対する孝行、そして念仏が必要なのだという。このように本願寺が封建権力に従順だったのは、前時代の一向一揆の前歴から来る危険思想観をぬぐい去るための喧伝という側面もあった。さらに門徒には上納金の義務もあった。

このように封建的思想の喧伝機関となり精神的な拠り所としての意味を失った本山から背を向け、地下に潜った真宗の門徒たちが「隠れ念仏」となった(鹿児島の「隠れ念仏」とは全く別の集団)。隠れ念仏(御蔵法門・土蔵法門などとも言う)たちは、形骸化した本山の信仰を痛烈に批判し、法主を否定し、自らこそ真宗の正統であるとした。しかし隠れ念仏は本山からの厳しい摘発を受けたため、地下活動によって徐々に教義が秘儀化していき、真宗の精神から離れていった。

時代は遡るが、キリシタン関係の動向も詳しく記述される。大変興味深かったのが、殉教における殺害方法である。有名な、慶長2年(1597)の26人の殉教では、磔にされて槍で突かれたのをはじめとして、火炙り、斬首などで処刑されているが、斬首はともかくとして(これはやや温情的な殺し方だったように思われる)、磔や火炙りといった処刑法は当時一般的だったのだろうか? どうもキリシタン用の処刑法だったように感じる。ではなぜキリシタンは磔や火炙りにしたのか。より苛酷残忍な殺し方をしたのかもしれないが、その処刑方法が中世の魔女狩りにおけるそれと似ているのが気になった。

修験道については、17世紀に修験寺院が激増したという記述が気になった。本書では、それは修験道法度(慶長18年(1613)によって修験者が本山派・当山派のいずれかに所属することとなり、さらにそれが天台宗寺門派(本山派)、真言宗(当山派)に包摂される体制となって地域社会への定着が進んだことが理由とされている。要するに、幕府は山岳から修験者を追放し、寺院に所属させる政策を採ったのであるが、このせいで(このおかげで?)結果的に修験寺院が増加し、修験者自体も増加したようである。

そして急増した末寺を統括するため、本山派・当山派では管理機構を整え、教義が整えられるとともに、峰入回数等に基づいて位階を与えるシステムなど教団秩序が形成された。戦国時代までの修験者は山林を跋渉して得た法力によって祈祷を担う存在であったが、それが次第に定着しシステム化された位階と教義によって本山からお墨付きを得て活動するようになっていくのである。

これはもちろん、修験道に変質をもたらした。山林での修行よりも道場内での観法(観念的訓練)が重視されるようになったし、自然そのままが仏身であるという考え方が薄れて、お経を重視するようになってきた。また峰入も儀式化・形式化し、集団峰入をはじめとして峰入が昇進のために行われるようにすらなって、中世の捨身修行的を旨とした峰入はほとんど見られなくなった。

内容は中世とは変質したが、修験道の持つ呪術性は庶民の心を摑み、修験者は様々な願いに応じて祈祷をおこなった。例えば、虫除け、雨乞い、安産祈願、卜占、調伏や憑きもの落とし、病気平癒、営利栄達、家屋の新築など、ありとあらゆる庶民の希求に応えた。これらは、現在神社が担っている祈祷と似たような部分がある。また近世期になると、修験者に触発された在俗の人が山岳修行を行うようになった。この動きが近世の山岳系の新宗教(冨士講、御嶽講)に繋がっていく。

第 III 部 近世の社会と宗教

近世の宗教については、類書に比べてあっさりした記述だと思った。教派神道についても、しっかり取り上げられるのは天理教と金光教のみである。このどちらも、江戸時代の宗教——煩瑣な教義や庶民の生活と遊離した観念的な教え——を否定し、人間中心主義にたって、庶民の素朴な願いを受け止める存在であった。こうした宗教が幕末に出現したこと自体が、江戸時代の人々の満たされない宗教心を象徴しているかのようである。

そういう満たされない宗教心に応えようとしたもう一つの宗教が、キリスト教であった。幕末にはキリスト教はまだ禁教であったが、西欧列国が江戸幕府のキリスト教弾圧政策を問題視したこともあり、布教活動が進んでいった。

その際、カトリック教団に非常に特徴的だったことは、病める人や貧しい人、差別されている人を救う社会活動を実践していたということである。結局、この動きは大きな影響力を持つことはなかったが、高く評価できる。

一方、プロテスタント教団(というよりもその宣教師たち)は、英語教育や殖産工業政策への協力を通じ、中産知識人へ大きな知的影響力を持つことになった。日本にやってきた宣教師たちは人格や学識の面で優れた人が多かったから、彼らを英語教師として接していた人たちも感化される形で洗礼を受けるものが出てきた。キリスト教の受容は救いを求めるというよりは、「啓蒙」を求めて行われたという側面が大きい。それはあくまでも知的理解に留まるものであったという評価もできるが、日本の文化や倫理の面においては、獲得した信徒の数以上の影響力を及ぼしたという面もあった。

国家神道についての記述は、基本的に村上重良『国家神道』に則っているようだ。この分野は私はちょっと詳しいので、なるほどという記述はなかったが、改めて注目させられたのが神社合祀についてである。神社合祀は、神社を公的機関と位置づけたことの結果として生じた。公的機関であることから幣帛料の供進を行うこととなったが、あまりに神社の数が多いため予算が足りない。そこで内務省は、一村に一社ずつ幣帛料供進社を定めて、他をその社に合祀することを推進したのだった。

内務省は合併跡地の無償譲渡を可能とする勅令などによって神社整理を進めたが、驚くべきことに内務省は、神社整理を直接に指令した法律も省令も出していない。神社整理は、法律的に強制したのではなく、地方長官のさじ加減に任せつつ、地方の人々が自主的に行った(ことにされた)ものなのだ。このやり方が、今から見ても極めて「日本の行政」っぽい。

国家神道の時代に、仏教はどのように対応したかについては、類書で読んだことがない内容で新鮮だった。明治維新後の廃仏毀釈、そして国家神道体制に入り、仏教者は否応なく自らの立ち位置を見直さなくてはならなくなった。そういう時、「必ずといっていいほど仏教存亡の危機や末法観とともに戒律論争に熱気をおびる仏教者の姿がみられる」として、国家に迎合していった仏教教団の趨勢と離れて、仏教本来の在り方に立ち返ろうとした人々がいた。

例えば福田行誡(ぎょうかい)は、宗派仏教を弊害が多いものとして通仏教(仏教はひとつ)の立場をとり、持戒持律を重視して、小乗仏教をみなおそうとした。この他、釈雲照、原担山(たんざん)が紹介されている。

また、曹洞宗から還俗した大内青巒(せいらん)は、慈雲飲光(じうん・おんこう)の「十善戒」に傾倒し、原担山に啓発されて在俗の立場から言論活動を行った。「十善戒」は明治の新仏教運動に大きな影響を与えた教理で、仏教倫理を十の徳目(禁止事項)として整理したものである。また慈雲の『十善法語』も明治の仏教者に大きく取り上げられたが、慈雲がこのように大きな影響力を持っていたことに驚かされる。

これらの他、国家的視野に立って日蓮主義運動を進めた田中智学、国粋主義と仏教を結合させた井上円了などが明治の仏教運動の担い手であった。またこの時期は、仏教を歴史上の事実として捉え、実証的な仏教史を構築していった時代でもあった。その成果は人々の仏教観に新鮮な息吹をもたらした。

本書は、最後に「新宗教の誕生と発展」「現代の既成宗教」の2章が置かれている。この章は歴史というより現在を扱うものである。敗戦による宗教の自由化で、数々の新宗教が生まれた。その口火を切ったのが「璽宇教事件」である。これは、狂信的な信者を集めていた璽宇(じう)教に警察が調査にはいり、それを信者だった大相撲の双葉山が乱闘して妨害した事件である。

新宗教は、人々の宗教心の飢えに応じて生まれたものでもあったが、泡沫的で奇抜な宗教が次々生まれたり(笑ったのは映磁尊(エジソン)を祀る「雷神教」)、また様々な事件を起こしてそれがジャーナリズムにセンセーショナルに取り上げられたりしたことによって、淫祠邪教であるとの見方がされるようになっていった。

一方、既成宗教(仏教)も各宗で強い危機感から刷新運動が行われた。その危機感は、都市にはもはや菩提寺意識を持たず、自らを無宗教と見なす人々が多くなり、また農村では人口減少によって寺院が維持できなくなるケースが出てきたことなどによる。江戸時代の宗教政策によって「家の宗教」となっていた仏教は、「個人の信仰」として現代的に生まれ変わろうとしているが、未だその道筋は不透明である。

全体を通じて、本書はかなりよくまとまっている。多数の執筆者がいるにもかかわらず、その調子が一定であり、内容の粗密があまりない。また読みやすく、索引や年表も充実している。参考文献リストはやや素っ気ないが、概論(大学の学部生レベル)としては一般的な水準である。

ただ、図像史、建築史、宗教的な文化史(墓塔の造営などの歴史)、民間信仰についてはあまり触れられていない。特に道教をほとんど全く取り上げていないのはちょっと残念である。

また、本書は「日本人は宗教に何を託してきたのか、日本民族と宗教の関係はいかなるものか」を視点としてまとめたというが、これについてのまとまった考察がなかったのも少し残念だった。本書は現代の宗教について述べて終わっているが、終章では日本宗教史を俯瞰した時に見えてくるものについて語っていたらよかったと思う。

ただ、本書はあくまで事実を淡々と述べており、そういう大上段の文化史的な考察をしていないのはいいところでもある。例えば末木 文美士『日本宗教史』が「古層の形成・発見」というテーマを設定して日本宗教史を述べているのと比べると、この淡々さは安心できる部分だ。

つまり、本書は「地味ではあるが堅実にまとめている」のが特色である。鋭い考察などはないが、基本的事実をしっかり押さえるのにはよい本。


【関連書籍の読書メモ】
『国家神道』村上 重良 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/07/blog-post.html
国家神道の本質を描く。国家神道を考える上での基本図書。

『日本宗教史』末木 文美士 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/10/blog-post_14.html
古代から現代に到る日本宗教史を概観する本。
「<古層>の形成・発見」はピンと来ないが、日本宗教史の詩論として価値ある本。


2020年7月13日月曜日

『日本宗教史 I, II』笠原 一男 編(その1)

教科書風にまとめられた日本宗教史。

本書は、各分野の第一線の研究者が分担して執筆した日本の宗教史である。本書の前にも、こうした試みは幾多にもまとめられているが、本書は特に「宗教信仰史、政治権力と宗教、倫理と宗教、日本人と民俗」などの新しい研究成果を踏まえて新鮮な角度から外観したものという。

I、IIで合わせて800ページを超えるものであり(それでも、各項目はかなり簡潔に感じる)、その内容を網羅的にまとめるのは困難なので、以下私なりに感じた部分のみを述べる。

まず、日本の宗教の歴史を振り返ると、例外なく時代の転換期には、宗教、中でも民衆宗教が複数誕生したと編者はいう。そして現代(出版時1977年)も、たくさんの宗教が信者の獲得にしのぎを削っている状態だ。日本人は宗教に何を託してきたのか、日本民族と宗教の関係はいかなるものか、それが本書を貫く視点である。

第 I 部 原始・古代の社会と宗教

仏教伝来前の日本の宗教については、非常に簡潔な記載である。弥生時代の祭祀や聖地はその後にはあまり引き継がれなかったのに比べ、古墳時代の祭祀や聖地はそのまま継続して発展していくことが多いという指摘が興味深い。どうも日本人の宗教意識は古墳時代くらいが画期となっているようだ。

仏教公伝、崇仏派と排仏派の争い、聖徳太子については、今から見るとちょっと古びた記載である。今では、これらは多分に伝説と作為があると見られているが、本書では史実として書かれている。

私があまり意識していなかったのが、奈良時代の山林仏教だった。奈良時代でも、深山に分け入って呪験力を得た修行者が、官寺や宮廷において祈祷に奉仕する場合が多かった。しかし彼らの存在は僧尼令から逸脱しており、正式な仏教者ですらなく(=私度僧)、厳重な禁断を蒙ってもいた。

私には、奈良仏教は「平地の仏教」であるというイメージが強かった。法隆寺、薬師寺、唐招提寺、東大寺、興福寺など、南都六宗=奈良仏教の大寺院は例外なく平地に作られているからである。しかしそれを補完するものとして、非合法的な山林仏教が栄えていたというのが、平安時代の新しい仏教の動きに繋がってくるのである。

平安時代の仏教は、本書では「山の仏教」と「里の仏教」の2項目で描かれる。「山の仏教」とは言い得て妙で、平安時代の仏教を代表する天台宗と真言宗は、言うまでもなく比叡山と高野山を拠点としたわけで、奈良時代の仏教が「平地の仏教」であるなら、平安時代の仏教は「山の宗教」なのである。

なぜ平安仏教は「山」を指向したか、それは「平地の仏教」が貴族と癒着し、仏教本来の精神性が失われたからであった。そのため都市と距離を置いた「山」を拠点として新しい仏教を構築しようとしたのが平安時代の仏教であったといえる。そしてその中心になったのが、最澄と空海、そして中国からもたらされた密教であった。

最澄は、受戒のたった三ヶ月後、比叡山に入る。その後最澄は中国に渡ったが、最澄に期待されたのは天台の総合的な教えというよりは密教であり、そのおかげで公認された。

また最澄は、法相宗の徳一との論争の中で天台の教えの独自性を明確化し、特に天台僧には「具足戒は必要なく、大乗戒(『梵網経』に基づく十重四十八軽戒)がふさわしい」として南都六宗との決別を宣言した。南都仏教の側では当然これを認めなかったが、最澄の死後、藤原冬嗣らの奏請によって勅許され、延暦寺の号が授与されるとともに戒の授戒が行われ、ここに天台教団は完全に南都仏教から自立したのである。

しかし天台宗は、世俗の権力とは徐々に妥協していった。摂関期に天台座主になった良源は、教団に入ってきた貴族の子弟を優遇するという門閥重視の教団経営を行い、天台宗を変質させつつも興隆に導いた。

一方の空海は、大学を中退した一介の山林修行者として出発。やがて入唐して最新の密教をもたらし、嵯峨天皇にも重用された。だが最澄とは異なり、空海の場合は南都仏教との関係は融和的であった。最澄は南都仏教教団から「大乗戒壇」設立反対の非難を受けて憂死したが、まさにその年に、東大寺内に灌頂道場=真言院が創設されたのはその象徴である。

ところが空海没後には、真言宗はゴタゴタが続いた。天台宗の場合にも、山門(延暦寺)と寺門(園城寺)の抗争があって必ずしも教団は一枚岩ではなかったが、比叡山が中心であることは揺るがなかった。真言宗の場合は、空海があまりにも偉大なカリスマであったためにその没後には収拾がつかなくなり、東寺と高野山という地理的にも離れた二大潮流が9世紀末まで争い続ける。10世紀には東寺がこの抗争に勝利して中心となったが、11世紀には仁和寺(広沢流)と醍醐寺(小野流)にまた二分され、流派が分裂していく。

しかもそこには、思想的な発展はほぼ何もなかった。真言宗は現世利益を追求する行法の大系になり、空海の精神は閑却された。それなのに一方で、空海伝説は加速していった。最澄はほとんど伝説化されなかったのに、空海は各地で霊跡を残したことになり大師信仰が確立。また高野山では空海がまだ生き続けているという伝説が生まれ、納骨の習慣が広まり広大な墓域が出現した。比叡山にはあまり墓がないのとは対照的である。

また平安仏教を特徴付けるのは、「山の宗教」であるということの他に、浄土教の大流行がある。浄土へ往生することが、この時代の宗教的な大目標になった。また、往生は思想というよりも、「実際に往生したこと」が人々を惹きつけ、そのための証拠として各種の往生伝が流行した。特に源信の浄土教思想(ex.『往生要集』)に代表される天台宗の浄土思想は次世代の仏教を形作っていく土台となる。

第 II 部 中世の社会と宗教

鎌倉仏教の旗手たち、法然、親鸞、一遍、道元、栄西、日蓮の6人は、一遍を除く5人が天台宗で学んだ。天台宗が新しい仏教の母体となったのである。対して、真言宗からは新しい仏教が全くといっていいほど生まれなかった(真義真言宗くらい)。真言宗は鎌倉時代には思想的には停滞していた。だが東国を中心に教勢は拡大。南北朝時代から室町時代初期にかけては真言教学が集大成していく。天台宗に絶え間ない思想の展開があったとすれば、真言宗にはそういう発展はなかった代わり、実践的な布教活動が展開された。

鎌倉仏教については、伝統的な(最新の研究成果を取り入れていない)描き方である。本書出版は黒田俊雄の「顕密体制論」が発表された直後であり、その成果を取り入れられなかった模様だ。よって現在から見ると本書の記載は鎌倉新仏教の生成発展に比重がありすぎ、当時の宗教界の大勢を等閑にしている感じがする(もっと「寺社勢力」のことについて紙幅を割くべきだっただろう)。

法然と親鸞についてはあまり接続を強調せず、どちらかというと独自性を強調した書き方。真宗については蓮如が重要視されているのがよかった。親鸞の信仰は研ぎ澄まされたものに完成していたが、親鸞は組織者としては全く一流ではなかった。親鸞の存命時にはその影響力は小さく、また弟子たちは四分五裂して好き勝手していたのである。死後発展したのも、親鸞の本流を次ぐ本願寺ではなく、亜流の仏光寺教団であった。

本願寺を発展させ、本流の面目を回復させたのは蓮如であった。蓮如は親鸞の信仰の本道を蘇生させるとともに、真宗の教えをわかりやすく説き、また門徒とは徹底的な平等・朋友の立場を貫き、服装の色までも気を遣い、人心の掌握に細心の注意を怠らなかった。さらに世俗の権力と対立せず、門徒には権力への服従を求めた。にも関わらず、この頃加賀一向一揆が起こって真宗の国が生まれたことは皮肉である。

時宗についてはけっこう詳しく書かれているのがよかった。興味深かったのは、託何(たくが)の『器朴論』である。時宗は、一遍が一冊の本も残していないので教義らしい教義がなかった。よって一遍の孫弟子の時代になると拠り所となる教義が必要になってきた。それで託何が書いたのが『器朴論』である。ここでは密教(真言宗)の即身成仏観から導き出された「この世が浄土」という思想が展開される。他の鎌倉仏教が天台宗的であるのに、時宗のみが真言宗的な教義を形成していくのが興味深い。

また時宗は、上人が遊行(全国を廻る)するのが特権であり義務だったが、これが時の政権に(少なくとも室町時代を通じ、戦国争乱の時でも!)かなり優遇されていたのが不思議である。遊行上人は関所の通過が自由で、乗馬や人夫を徴用する権利を持っていた。遊行上人の威光はかなり大きかったようだ。

禅宗については、臨済宗については教科書的な記述である(特に重点はなく簡潔にまとまっている)。曹洞宗については(当然であるが)道元が大きく取り上げられる。しかしその思想については意外とあっさりと扱っている。道元の次は瑩山紹瑾(けいざん・じょうきん)が教団を発展させた立役者である。瑩山紹瑾は、曹洞禅を密教化させ、また白山信仰など諸神仏の信仰を教義に組み入れて教義を時代に適合させた。また峨山韶碩(がざん・しょうせき)の超人的な布教活動によって、全国的に非常な勢いで曹洞宗が普及し、驚異的な発展を遂げたのである。

日蓮については、今までさほど注目していなかったが、通史によって他と比べてみるとその異彩ぶりが際立っている。他の鎌倉仏教は、基本的に中国から輸入された教義・思想に基づいてそれを発展させたものだが、日蓮宗の「南無妙法蓮華経」は全くのオリジナルだ。日蓮が三度の諫暁(かんぎょう=権力者への意見具申)をしながらも当然の如く黙殺され、災害や国難が続くのは正しい仏教信仰(日蓮の考え)が採用されないからだと怒り、不遇のままに世を去るまで、日蓮のドン・キホーテ的な戦いは続いた。

日蓮宗は、他宗排斥の強硬な姿勢があり、基本的には法華経のみを信奉する一神教的な性格が強い。これはもはや「新しい仏教」なのだと思った。しかし、日蓮没後わずか2、3年にして諸宗との協調的な気運が生まれてきた。法華経唯一主義では居心地が悪かったからであろう。そうして、諸宗との関係や師弟関係などによって高弟らは門流として分裂していき、統合されない門流の総括として中世日蓮宗が展開していくのである。

さらに、「三十番神(一月の一日ごとに守護神が宛てられた)信仰」が取り込まれるとともに、日蓮宗は京都の町衆に受け入れられ、天文年間(1530年代)には日蓮宗は京に大流行、町衆は日蓮宗によって京都を自治するようになる。しかしこの頃の日蓮宗は、日蓮が構想した「新しい仏教」ではなく、すっかり伝統的仏教の枠内に収まるものになっていたと言えるだろう。

また本書では、通史部分に加え、主に鎌倉仏教の旗手たちが女性の救済をどう考えたかという「女性と仏教」、神道理論の誕生(特に吉田神道)と修験道の小史である「中世の神道と修験」が掲げられている(以上第 I 巻)。

第 II 巻へつづく)