2019年9月13日金曜日

『寺社勢力—もう一つの中世社会』黒田 俊雄 著

中世における寺社勢力の勃興と衰退を述べる。

本書の副題は「もう一つの中世社会」である。寺社は、天皇を中心とする公家、将軍を中心とする武家と並ぶ、中世社会におけるもう一つの権門であった。しかしその実態は、天皇や将軍のような中心がないからつかみどころがなく、また一般にもその存在が浸透していない。本書はこの謎の第三勢力・寺社勢力の中世史について述べるものである。

寺社、特に仏教寺院については、飛鳥や奈良の頃から現代にまで連綿と続いているように思うのであるが、現代の諸宗派が整備されたのは江戸時代で、それも廃仏毀釈による破壊・改変から復興したものであり、中世のそれとはだいぶ違っている。仏教寺院の多くは、中世の始まりとともに非常なる隆盛を見せ、そして中世の終わりとともに衰微していった。今に残る寺社と、中世における寺社は全く別のものであった。

それを象徴するのは「僧兵」の存在かもしれない。今の宗教の在り方からすると、寺院が兵力を持つということはあってはならぬことのように思える。しかし当時は、「僧兵」という言葉すらなく、僧侶であれひとたびことが起これば武器を持ち戦うことは当然とされていた。「僧兵」とは、寺院が兵士を雇っていたということではないのである。

では寺院は宗教的に堕落していたのか、というとそうとも言い切れない。南都六宗は国家の後ろ盾を失って荒廃していたし(東大寺と興福寺を除く)、仲間内で争いごとばかりする不届きな僧侶はいた。しかし同時に中世——特に鎌倉時代——は宗教的には確かに高潮期であり、今に繋がる主要な宗派の高僧が矢継ぎ早に出現したのである。即ち寺院は、高僧から悪党まで、様々な人間が犇めいた世界であった。公家や武家と、同じように。

当時の寺院を今の社会で譬えてみれば、宗教法人というよりは、大学と企業が一体になったような存在だと言うことができる。寺院は高徳な学僧を有した一方で、広大な荘園を経営してもいた。寺院の中の身分としては、リーダー格(別当・座主・検校など)、執行部(三綱——上座・時主・都維那(ついな))に続いて、哲理を究明する学侶(学衆・学生(がくしょう))、修行を行う行人(ぎょうにん)(行者・禅衆)の他に、僧に仕える身分である堂衆(どうしゅ)・夏衆(げしゅ)・花摘(はなつみ)などと呼ばれた者もたくさん在籍していた。これら様々な身分・階層のものがいたが、しかし建前からいえば、僧伽(僧侶の集団)は和合の精神で運営されており、寺院の中でこれらは同じ「大衆(だいしゅ)」を構成し、ある種の平等的な連帯集団を形作り自治を行っていた。

その具体的装置が「大衆僉議(だいしゅせんぎ)」である。これは、大衆——大寺院ともなれば何千人という規模になる——が一堂に会し、破れた袈裟で頭を裹(つつ)み、誰が誰ともわからない匿名の状況で集団討議と議決を行うものである。10世紀ごろのことだ。権力者が専断して憚らなかった時代に、匿名による討議と多数決による議決によって寺院としての決定を行っていたということは、やはり高く評価されなければならない。世俗とは違う論理によって経営がなされていたということが、寺社勢力の勃興に一役買っていたのだろう。

だが寺社が権門として力を持ってくると、いきおい公家との関係が深まってきた。大衆たちは自らの権威を飾るためにも、貴種を戴くことを当然と考えた。こうして、寺院の中に「門跡」ができるようになった。「門跡(もんぜき)」とは、皇族や摂関家のみに相続を許された寺院内の子院であって、例えば延暦寺における青蓮院(しょうれんいん)、興福寺における一乗院や大乗院といったものがそれに当たる。寺院は、貴族にとって公家社会とは別の居場所として機能するようになった。

12〜13世紀になると、門跡の下に大衆が組み込まれ、匿名平等だったはずの寺院が、門跡という特権階級の下に再組織化されていった。それは門跡だけでなく、寺院内の子院においても規模は違えど同様のことが起こったのである。先ほどの譬えを使うなら、当初は大学全体の自治が教授会によって行われていたが、大学が一部の特権的経営者によって独裁されたことで、研究室ごとの独立性が高まって大学全体の連帯意識が薄くなり、小組織へと分裂していったというようにいえるかもしれない。

このようにして寺院社会は内部から瓦解し、僧たちは武力と銭を蓄える方向へと走っていく。それは寺院勢力の強大な力を示す最後の仇花となり、寺院は繁栄を享受したが、世俗の論理に覆い尽くされた寺院に社会的存在価値はもはやなかった。織田信長・豊臣秀吉の全国統一が始まった時、寺社勢力は最終の没落を迎え、織田信長の比叡山焼き討ちに象徴されるように、新しい時代の権力者によって中世的な寺社勢力は滅亡したのである。

ところで私が本書を手にした興味は2つあった。第1に、寺社が広大な荘園を有したのはなぜかということ。特に寺社は広大な皇室領を持っていたが、なぜ天皇は寺社に荘園を寄進したのか。第2に、天皇をはじめ執権北条氏、室町幕府の足利氏など、時の最高権力者の多くが出家し法体となっているがこれはなぜなのかということ、である。

第1の点に関し、本書では寺院への寄進を「「王家」の(中略)荘園を確保し拡大する方途でもあった」としているが、なぜそうなのか詳しくは書かれていない。

中世、天皇家は広大な荘園を寺院に寄進している。有名なのは、安楽寿院・蓮華王院・長講堂・最勝光院といったものがある。これらは王家の御願寺、菩提寺、持仏堂などに荘園群を寄進し、事実上の王領(皇室領)でありながら、形式的に寺院の荘園としたものである。例えば「長講堂」というのは、後白河法皇の持仏堂であった「法華長講弥陀三昧堂」のことであるが、法皇がこの長講堂に多くの荘園を寄進しておいたのが「長講堂領」という荘園群のことである。鎌倉初期には長講堂領は180箇所の荘園によって構成されていたというが、形式的にはこれらは長講堂という持仏堂が所有しているものの、その長講堂が後白河法皇の所有であったのだから、結局王領なのである。

しかしなぜ後白河法皇は、わざわざ自分の所有地を長講堂という持仏堂の荘園としたのだろうか。長講堂なる持仏堂が天皇以上の権威を持っていたとも思えず、寄進によって荘園の私有が権威付けられたとも思えないのである。本書にその答えは書かれていないが、本書を読みながら私が思ったのは、その裏に相続の事情があったからなのではないか、ということである。

というのは、当時、日本の相続は分割相続がメインである。5人子どもがいれば、土地は(等分かどうかはともかく)5人に分割相続される。しかも女子にも相続権はほぼ同様にある(実際、長講堂領は後白河法皇の娘に相続された)。となると財産は代を進むごとに分割されていってしまう。それを避ける手段が、荘園の寺院への寄進だったのではないか。先ほど述べたように、寺院は門跡と門流の細分化によって相続関係は複雑となっていくが、少なくとも「大衆僉議」が機能していた頃はいわば「法人的」であったし、それでないにしても法統の関係は一括相続的であった。寺院に寄進した荘園は分割されることなく相続されていくものだったのである。それが、皇室直属の荘園との違いであった。分割不能なものとして土地を相続していく手段が寺院への寄進ではなかったのか。

そしてもしかしたら、寺院興隆には、寺院が「法人的」であったことが一役買っていたのかもしれない。中世の社会は「家」を重視してはいたが、実際には個人で活動している意味合いが強かった。そんな中で寺院は「法人的」な安定した存在であった。しかも匿名平等な多数決によって運営されていたから、経営者の交替によって方針が大きく変わるということもそれほどなかったのだろう。その安定性が、財産の維持に利用されたのかもしれない。

さらに寺院は、荘園経営事務に長けているということもあった。寺院は大学のようなものであったから、高度な事務作業ができたのだと思われる。荘園経営というのは、各地の荘園への課税を産出し、布達し、回収し、不達の場合は督促し、問題点があれば改善し…といったようなことが必要になるわけだが、荘園の数が多くなればこの事務は厖大かつ煩瑣なものとなっていく。荘園を寺院に寄進することで、荘園事務に長けた寺院にこれらの作業を丸投げすることができれば、仮に寺院に幾ばくかの分け前を割かなければならないとしても、結果的には安くついたのではないだろうか。荘園事務の「外注」のため、天皇家だけでなく多くの名家が寺院に荘園を寄進したのではないかと思う。

第2の点に関しては、本書にはあまり記載がなかった。足利義満が出家したのは、「ことごとに法皇に準じて威儀を示した(p.191)」ことがその背景にあり、「もはや武家であることをやめて院政を行う法皇の地位についたのである(同)」としているが、これは義満についてはそう言えるとしても、彼に先行する幾多の権力者が出家している以上、より構造的な原因を探る必要があると思った。

中世の申し子とも言える寺社勢力を通じて当時の社会の内実を考えさせる良書。

【関連書籍】
『日本の歴史 (8) 蒙古襲来』黒田 俊雄 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/09/8.html
蒙古襲来からの鎌倉幕府の滅亡までを描く。
長講堂領や安楽寿院領(八条院領)がたどった波瀾の運命が描かれている。

2019年9月7日土曜日

『鎌倉武士の実像―合戦と暮しのおきて』石井 進 著

鎌倉武士の実態を様々な側面から描く本。

本書は、石井 進氏の論文集でありⅠ〜Ⅳの4部構成となっている。

Ⅰでは中世成立期の軍政や、鎌倉幕府成立の通史、相武地方の武士団の成長が述べられる。特に相武地方について取り上げられているのは、当該論文が元々「神奈川県史」の一節であったためで、ややローカルな部分もあるが鎌倉幕府のお膝元であった相武地方の様相が分かるのは興味深い。

Ⅱでは、武士の生活が農業経営の観点から取り上げられる。中世の村落はまず山裾の迫の部分から開発されたが、やがて新しい豪族が入ってくるとその下流の平野の開発が進み、豪族の館も平野部に建てられるようになる。山裾の部分の水田を開発するのは容易であるが、平地に水田を広げていくのはより進んだ水利技術を必要とする。新しい開発領主たちはそういう技術を持っていたのではと簡単に書いてあるが、仮にそうだとしてその技術をどこで手に入れたのか興味が湧いた。

Ⅲでは『蒙古襲来絵詞』と竹崎季長、霜月騒動、金沢文庫と『吾妻鏡』、鎌倉の道についてなど、関連しつつも雑多な論文が収録されている。

Ⅳでは、改めて「中世武士とは何か」という問を立て、短いながら啓発されるところの多い考察が行われている。 武士にとって、「名字の地」(本拠地)を持つことと共に、「祖先」を持つことが必須の条件であったと強調されているが、これについては改めて考えてみたいところである。現代の感覚からすれば本拠地(農業経営)と武力さえあれば武士といえそうなものであるが、なぜ彼らは「先祖」すなわち立派な家系図を持つことが重要だと考えたのだろうか。

鎌倉近郊の武士の実像を考える上で参考になるところが多い本。

【関連書籍】
『日本の歴史 (7) 鎌倉幕府』石井 進 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/09/7.html
鎌倉幕府成立の意義がよくわかる良書。

2019年9月6日金曜日

『日本の歴史 (7) 鎌倉幕府』石井 進 著

鎌倉幕府の誕生を描く。

源頼朝は貴顕の生まれであり、武家の棟梁にふさわしい家柄ではあったが、現実には大きな武力も後ろ盾も持っていなかった。だが平氏に戦いを挑み惨敗した「石橋山敗戦」からたった40日で、不可解にも関東の大豪族千葉介、上総氏などが味方につき、一気に鎌倉に新政権を打ち立てるのである。

頼朝は、天才的な政治才覚と読みの深さ、外交的バランスに恵まれ、カリスマ的な存在となった。彼は武士社会が抱えていた2つの課題を解決し、それによって広範な支持を得た。その2つとは、土地所有と訴訟である。

平安末期、かつての公地公民制が瓦解して荘園制へと進んだが、これは場当たり的な土地所有制であったために、その制度は複雑怪奇でしかも不確かなものであった。例えば、自らが開発(開墾)した土地の所有を確実なものとするため、土地の権威者に寄進をし、自身はその現地管理者として収まるといったことが多かったが、その権威者はさらに上位の権威者(例えば大寺院)に寄進するといったことが繰り返された。こうして権利関係が網の目のように張り巡らされ、その結果として土地所有は何重に承認された。しかし現代のように法務局があってそこに登記された、というような確実なものではない。「悔返し」と言って、譲渡したはずの土地を取り戻す行為も多かった。そしてひとたび土地の所有者に疑義が起これば、関係者同士の水掛け論へ陥ってしまう危険性を孕んでいたのである。

だから開発領主たる東国武士にとっての大きな課題は、土地所有を確実なものとすることと、訴訟の際に公平公正な裁定を行うことであった。頼朝は、土地所有については頼朝自らが土地の所有権を認める(=所領安堵)という関係に一本化し、所領安堵した者を「御家人」とした。つまり「御家人」とは、単に頼朝の部下であるということではなく、土地を介した主従関係であった。そして訴訟については、全て頼朝の親裁とした上で公平で的確な裁定を下したのである。

頼朝は、土地や訴訟の問題を解決するだけでなく、関東の独立性の高い武士たちを巧妙に編成していった。そして社会の上部構造にほとんど手をつけることなくほぼ政治的手腕のみによってそれら武士の一団を国家の支配構造の中に組み込むことに成功した。頼朝は、いわば国家の執行機関(国衙)を合法的に乗っ取ったのである。その一例が、一種の徴税官である「地頭」であり、また警察・公安・軍事指揮者である「総追捕使」、後の「守護職」である。

しかし頼朝の政権は、頼朝のたぐいまれなカリスマ性に基づいていたし、その基本政策(土地の支配権の保護と公正な裁決)は2代目以降には引き継がれず、頼朝死後には混迷が訪れる。かつての重臣が次々と粛正され、将軍は形骸化、ついに3代将軍実朝は暗殺される。こうして幕府の実権は執権の北条家へと移っていった。それが確定したのが承久の乱である。

承久の乱の台風の目になったのは後鳥羽上皇であったが、それに呼応したのは将軍独裁時代に特権を教授していた重臣であった。この乱が平定されたことで、そうした特権層が解体され、「評定衆」という合議制機関に基づいた、代表としての執権・北条泰時を推戴する武家による武家のための政権が成立するのである。その到達点が「御成敗式目」の制定だ。「御成敗式目」は、律令のように立派であっても理念的な法規とは違い、極めて実践的かつ平易な、武家の生活実態に即した「道理」を表現した画期的なものであった。

そして現実にも泰時は道理を重んじ、強い者が勝つような不公平を廃して温情的な政治を行い、執権政治の黄金時代を作った。ところがこの合議制に基づく執権政治も、やがては得宗専制政治(独裁政治)へと変質してしまうのである。

本書ではこうした政治史の他、鎌倉文芸の到達点としての「平家物語」や貴族文化の革新、特に東大寺再建や慶派(運慶・快慶など)の活躍、鎌倉新仏教の対称的な実践者であった親鸞と道元についてなど文化史的な面についても筆を割いている。

ちなみに私が本書を手に取ったのは、「地頭や守護とはそもそも何か?」という疑問を抱いてのことだった。それについて本書はかなり丁寧に説明しているがその前提として「「守護地頭問題」…(については)…かつての古い通説的見解はもはやまったく色あせ、全面的な改訂を迫られるに至った。だが一方、学説の戦国時代ともいうべき状況のなかで、新しい統一的結論はまだ生みだされていない(p.174)」としており、暫定的な説明であると断っている。これについては最新の学説も確認したいところである。

鎌倉幕府成立の意義がよくわかる良書。


2019年9月5日木曜日

『日本の歴史 (8) 蒙古襲来』黒田 俊雄 著

蒙古襲来からの鎌倉幕府の滅亡までを描く。

本書は、後に「黒田史学」を打ち立てることになる黒田俊雄が、39歳の時に書いたもので、若い研究者の意気軒昂さと斬新な観点による考察が不思議と統合され、歴史書ながら非常に引き込まれる。

蒙古襲来を基軸にして鎌倉後期を書くというスタイルは、今でこそ多くの日本通史に見られるが、それは本書を嚆矢とすると言う(海津一朗の「解説」より)。蒙古襲来は一時の外圧だったし、偶発的な事件ではあったが、鎌倉幕府の体制のほころびを垣間見せるものだった。

だが本書に占める蒙古襲来の分量は3分の1程度に過ぎない。残りの3分の2は、社会がどのように分裂していったのかということを様々な角度から描いている。

例えば宗教的には、日蓮の預言的な言論と一遍の教団が大きく取り上げられる。世紀末的な色彩を帯びた一遍の教団(のちの時宗)は、社会の終末を強く予感させたものであり、教団内では入水往生(自殺)がたびたび行われた。

さらに農民たちが次第に領主と対決するようになった経緯、地頭と領家(その土地の名義上の持ち主と、現場監督者である雑掌)の対決、封建的主従関係から飛びだして傭兵や独立的開拓領主となった「悪党」の横行、御家人の没落とその救済策の色々、そして天皇家の分裂(大覚寺統と持明院統)などが詳述される。

つまりこの時代、下は農民から上は天皇家に至るまで、既存の制度からこぼれ出て行ったのである。執権北条家は御家人の救済に努めて領地の回復を図り、悪党を取り締まってはいた。そして表面的には安定した治世を実現しているかに見えた。しかし結局それは社会の矛盾を糊塗しているに過ぎず、そのために独裁制へとなだれ込んでいくのである。こうして鎌倉幕府を支えていた各種の基盤はいつのまにか蚕食され、後醍醐天皇を担いだ謀叛が起こり、続いて楠木正成や足利尊氏が挙兵、あっけなく鎌倉幕府は倒れた。

本書は、若書きの作品であり後の「黒田史学」(例えば「権門体制論」:鎌倉幕府は国家ではない、など)と異質な史観によっているため、現在では評価が難しい本だという。しかし前提知識をあまり持っていない人が読んでもわかりやすく、歴史のダイナミックな動きを様々な側面で捉え、しかも退屈させないという点で、非常に優れた歴史書だと私は思った。

蒙古襲来を起点として鎌倉末期の諸相を描いた良書。


2019年8月17日土曜日

『神仏習合』逵 日出典 著

神仏習合の概略的な説明。

本書は、いかにして神仏習合が起こり、それが発展していったかを述べるものである。その起源となる奈良時代の動向については詳述されており、なかなか参考になる。

著者は、最初期の神仏習合にあたっては山岳の修行者が大きな役割を果たしたのではないかと推測している。というのは、修行のために山岳に入っていく場合、山の神といった土地神への崇敬を蔑ろにするわけにはいかなかったからである。本書ではそれが論証されるでもなくアイデアとして書かれているが、その後の修験道の発展を考えるとありそうなことである。

また、著者は神宮寺の設立がまず地方から始まっていることを指摘し、神仏習合が地方的な動きであったと述べている。そのケーススタディとして宇佐八幡についてはやや詳述されており参考になった。神宮寺の設立に関しては「神が宿業によって苦悩しているために、それを仏法によって救う」というロジックであったという。神のために仏教を導入するというロジックが興味深い。

こうした神仏習合の動きはやがて中央にも波及し、聖武天皇は大仏鋳造成就のため八幡神に祈願している。そして次第に、神と仏はいろいろなやり方で交錯するようになっていく。

そして10世紀、宇佐八幡宮を中心として「本地垂迹説」が広まり、神の本体は仏であるとさえ考えられるようになる。そのため神社のご神体として本地仏が安置されることも多くなった。神道は教義や宗教理論がなかったため、仏教側がそれを提供するかたちで習合思想が整備されていった。

さらに時代が進み「伊勢神道」や「両部神道」「垂加神道」など、中世の神道理論が様々に案出されていくと、反本地垂迹説(神の方が本体で仏が仮の姿だ、という説)までが生まれた。ただしこのあたりは、本書では理論的なものが書かれるに過ぎず具体例によっては論証されていない。鎌倉時代以降の神仏習合の動向に関してはかなり簡略である。

ところで本書の終わりの方で、著者は「習合は日本の心」として「わが国にあっては、固有の神と伝来の仏がみごとに習合していった。まさに特異な現象といわねばなるまい」と称揚するのであるが、これは残念ながら誤解であろう。

例えば高取正男は『神道の成立』において堀一郎の見解を紹介し、日本の神仏習合においては「シンクレティズムとよべるほどの体系化は、ほとんど進行しなかった」と述べている。「シンクレティズム」とは複数の宗教が接触することで生じる融合現象である。そもそも世界中の宗教を見回してみても、先行する在来宗教を取り込んだり、対立する宗教の要素をアレンジして取り込んだりすることでその内容を豊かにしていくということは散見される。

仏教もヒンドゥー教の諸神をその中に取り込んで、四天王とか弁財天といったような存在を認めていったのだし、そもそも大乗仏教は在来宗教を飲み込んでできた仏教だといえる。中国においても仏教は在来の神仙思想と接近し「老子化胡説」が伝来当初から案出された。これは老子がインドに渡って仏教を唱えた、つまり、ブッダと老子は同一人物だったという一種の習合説である。さらに道観(道教のお寺)では仏像も礼拝されており、観音は最上位の神仙と考えられていたのである。このように、異なる宗教が互いに影響し合い、共存することは、何も「日本の心」ではなくて世界的によくあることだ。

むしろ日本の神仏習合で特徴的だったのは、本地垂迹説など理論面では神仏同体の思想が発展し、仏像を神として拝んだり、逆に神像を僧形に表現したりなど形式的な面でかなり神仏は接近したのに、遂に神道と仏教は教義面でも実体上でも融合しなかったということである。私は、神仏習合を考える上での第一の疑問はこれであるべきだと思う。つまり「なぜ仏教と神道は、互いにさほど大きな影響を及ぼさずに併存したのか。むしろ併存せざるをえなかったのはなぜか?」ということだ。つまり、なぜ神仏は「習合」しなかったのか、ということこそ出発点にすべきだ。

中国でも、儒教と仏教が習合し、その結果「盂蘭盆経」が生まれている。元来の仏教には祖先崇拝の要素が希薄だが、孝(親や祖先への礼)を重んじる中国では、仏教もそれを取り入れることが必要だった。また真に中国化した仏教といえる「禅」は、老荘思想的な面を多く持っている。日本の場合、古来の神祇信仰と仏教が「修験道」において融合したという例外はあるものの、中国に見られるような大規模な習合現象は生じていない。「本地垂迹説」などは、仏教と神道を融合させることなく並立させるため、名目上のつじつまを合わせているという感じが強いのである。

さて、神仏分離以前の神社には、神宮寺や別当寺というものが存在していた。これは、神社の中に設けられた神社で、神社の運営の主体となるものである。例えば宇佐八幡宮には弥勒寺という神宮寺があり、荘園経営においても弥勒寺は宇佐八幡そのものと遜色ない規模を誇っていた。散発的・個別的だった神官たちと比べ、仏教勢力は早くから全国的に本末制度が確立し、教義的にも体系化しやすかったこともあって、僧侶達はずっと組織的に動く術を心得ていた。よって神宮寺は神社本体よりもずっと組織的に行動することができ、やがて神社そのものを凌ぐほどの力を持つようになるのである。

だが、宇佐八幡宮においても、遂に弥勒寺が宇佐八幡から「独立」することはなかった。やはり弥勒寺は、宇佐八幡が社会的に担っているものを自らに取り込むことはできなかったのである。それがなんだったのか、今となってはよくわからない。それは神託機能だったのだろうか。でも仏教でも託宣や夢のお告げはあるのだ。弥勒寺は、どうして宇佐八幡を乗っ取ってしまうことができなかったのだろう。あるいは乗っ取るメリットがなかったのだろうか? そのあたりのことがどうもよくわからないのだ。

仏教は、神道よりもずっと体系的で理論的で、組織的でしかもおそらくは財力もあった。にも関わらず、ある面では神道の力を借りなければならなかった。神道の持つその力を自らに取り込み、より高い立場から統合するというような、スケールの大きな思想的な成長は、遂になされなかったのである。天台本覚思想——山川草木は悉く仏性を持つという思想——はその例外かもしれない。日本の神道的アミニズムが仏教に取り込まれて生まれたのが天台本覚思想であろう。しかし中国人が禅を生みだしたようには、日本人は独自の仏教を創り出さなかった。

ところで備忘として書いておくが、神宮寺・別当寺の宗派と神社の宗派の関係がどうなっているのか気になるので、いつか調べてみたいと思う。例えば八幡社系は真言宗とか、そういう対応関係はあるのだろうか?

奈良時代までの習合現象の説明はそれなりにあるが、それ以降は簡略すぎ、神仏習合を日本独自の優れたものとする誤解が残念な本。

【関連書籍】
『神道の成立』高取 正男 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/07/blog-post_21.html
平安時代の神仏分離について述べられている。
神道成立前夜の動向を、細かい事実を積み重ねて究明した労作。

『道教史』 窪 徳忠 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2013/05/blog-post.html
道教と仏教の交流・習合について詳しい。
古代から現代に至る中国における道教の歴史を追った本。

2019年8月13日火曜日

『父の詫び状』向田 邦子 著

幼少期から青年期までの家族との思い出を中心にしたエッセイ。

本書では、戦前戦後の昭和の中流家庭のありさまがユーモアを交えて描かれている。著者向田邦子のみずみずしい感性によって捉えられているからか、戦前戦後といっても今読んでも古びた感じはしない。著者の初めてのエッセイであるため多少荒削りな点はあるが、話題があっちへ行きこっちへ行きしながらも最後にはそれらが不思議に結びつけられ端正なエッセイに仕上がっている。

ところが、私はこのエッセイ集を読みながら、ちょっとその「端正さ」からはみ出たところに目が行ってしまった。それはタイトルにもなっている「父」のことである。

向田邦子の父は、暴君であった。些細なことで怒鳴り、撲った。毎日の食卓は、家族の団欒というような温かい雰囲気ではなく、父の雷がいつ落ちないかとビクビクしながら囲むものだった。そして父はなんでも自分だけ特別扱いを求め、家長としてふんぞり返っていた。家族に対しては「ありがとう」も「ごめんなさい」も、決して言わなかった人間、それが父であった。

著者は幼い時、そういう父を畏怖し、また嫌った。しかし長ずるにつれ、その横暴さの裏に潜む、社会人としての哀しさを感じるようになる。というのは、父は高等小学校卒でありながら、保険会社で異例の出世をし、支店長にもなっていた。その裏には、卑屈なまでに会社に平身低頭し、交際費を大盤振る舞いするという社内政治があったのである。父は、そういう会社でのままならなさを、家庭で暴君として振る舞うことで埋め合わせていたのだ。父の家庭での絶対性は、社会の中での弱い立場の裏返しだった。

であっても、子どもや妻に押しつける不条理や子どもっぽい怒りが、免罪されるわけではない。当時は、こんな「雷親父」はどこにでもいたのだ、ということは言えるかもしれないが、実際その暴力や暴言を受けている子どもや妻にしてみれば、それはたいした慰めにはならないのだ。

このエッセイで、向田邦子は、そこはかとない努力を傾けて、そういう父の思い出も「今になってみれば懐かしい」と昇華させたがっているように見える。しかしそのたびに、「とはいっても、父のこういうところは嫌いだった」と注釈をつけざるをえないような、割り切れなさを抱えるのだ。それが、全体的には端正なこのエッセイにおいて、なんだか切れ味が鈍っているような、そんな印象を与えている。

だがそのために、このエッセイがつまらないものになっているのではない。むしろ話は逆で、テレビ界出身ならではの、毒気なく素材を調理する感じ、手際よく話題を変えていく調子の中にあって、「父」の事になるとなんとなく筆が鈍る感じが、著者の内面を覗かせる窓のような役割になっている。

いや事実、エッセイに描かれる向田邦子は、まさか「向田邦子」本人であるわけがない。ちょっとおっちょこちょいで、人のやらないような失敗をし、いつまでも嫁き遅れていることを自虐し、仕事のできなさをネタにする、というこの向田邦子は、本人の特徴をデフォルメしてエッセイ用にしつらえたキャラクターだろう。しかし父のことになると割り切れない思いを抱える「向田邦子」は、間違いなく本人の心情が吐露されていると感じるのである。

表題作「父の詫び状」は、生涯でたった一度、父が娘に寄せた詫びの手紙が描かれているが、それにしても「此の度は格別の御働き」という一行があり、そこだけ朱筆で傍線が引かれているに過ぎなかった。結局、いつまでも父は娘に詫びることができなかったのである。

仮の話をするのは気が引けるが、仮に、父が生涯でたった一度でも、「お前にはいろいろいろ迷惑を掛けたなあ」とか「好き勝手振る舞って悪かったなあ」といったように本当に詫びたとしたら、本書はだいぶ違った印象のものになったのではないかという気がする。父にまつわるイヤな思い出も昇華して、「今になってみれば懐かしい」と記憶の棚卸しができたのだと思う。本書の表題が『父の詫び状』なのは、偶然以上の意味があると思う。きっと、向田邦子が欲しかったもの、それがちゃんとした「父の詫び状」だったのではないだろうか。

ただひとつ言い添えなくてはならないのは、こういう読み方は、邪道だということである。というのは、これまで述べてきた著者と父との関係性の襞は、本書で著者が表現しようとしたことでも、伝えたかったことでもないのは明らかだからだ。本書はもっと気楽に読むべきものだろうし、この雷親父も、ありがちな父親像として受け取れば十分なのだ。だが私は表題作であり冒頭作である「父の詫び状」に素の「向田邦子」を感じて、以降それを感じることが本書を読む楽しみと思ってしまったのである。

2019年7月17日水曜日

『女と刀』中村きい子 著

自我を持った女の、反抗の物語。

権領司キヲは、薩摩藩の外城士の娘として生まれた。外城士とは、武士ではあるが城下士よりも一段下の存在で、キヲはその中では割合によい身分だった。

キヲの父は西南戦争で賊軍として負けたことを終生悔しがり、その恨みのエネルギーはキヲ達への教育へと向けられた。キヲは男同様の教育を施され、おのれの意向を全うさせるという強烈な原則を魂に刻み込まれた。女は男の従属物として考えられていた時代に、キヲは独立自尊の精神と強靱な自我を育んでいた。

ところが、まさにそのような教育を施した父親によって、キヲの精神は打ち砕かれる。キヲに望まない結婚を強いたのである。有無をも言わさぬ決定だった。いくら「おのれの意向を持て」などと言っていても、結局女は家長の命令に従うもの、というのが父親の本音だったのである。

しかし程なくしてキヲは出戻りとなった。嫁ぎ先の姑との折り合いが悪く、キヲは姑から「夜叉」と呼ばれた。父は、それを権領司家への侮辱ととった。そのような侮辱を受けた以上、キヲは取り戻されなければならなかった。ここでもキヲの意向は無視された。ただ家の名誉が傷つけられた、という事情のためにキヲは離縁しなければならなかったのである。

しばらくしてキヲは再婚するが、それも望まない結婚だった。ここでも優先されたのは家の事情である。そして求められて結婚したにもかかわらず、夫の兵衛門はキヲを愛することはなかった。兵衛門は、「出戻り」という「キズ」があれば自分よりも身分が上の女性と結婚できる、という打算によってキヲを求めたに過ぎなかった。愛のない結婚生活は、キヲの自我をさらに先鋭化させていった。

キヲは、自らの意向が蹂躙され、家の従属物として扱われるに過ぎないとしても、そこに情を通わせ、求め合う関係があるならばそこに没入してもよいと思っていた。だが実際には、兵衛門はキヲを無視するどころか愛人さえ作り、そのくせ家では横座(家長としての地位)にあぐらをかき、横柄に振る舞うことで自らの権威を演出するだけが取り柄の男であった。キヲはこのようなつまらない男に従って生きる、などということは我慢がならなかった。やがてキヲは自らの畑仕事と行商によって、兵衛門の収入をアテにせず生活できるようになった。そしてままならぬ中でも自らの意向を貫き通すという戦いをしていくのである。

しかしその一方で、愛のない結婚生活の中でも夜の営みは続けられた。そして虚しい気持ちの中で、キヲは8人の子どもをもうけるのである。女とは、家を維持していくための道具にすぎなかった。女は男にいいように使われ、子を産み育てるだけに価値が置かれていた。女は、「自分」を持つことが許されなかった。女は、「妻」であるか「母」であるか、どちらかでしかなかった。

だが男が自由きままに振る舞っていたのかというと、そうでもなかった。ことあるごとに血族会議が開かれ、「世間がどういうか」「家のメンツを潰す気か」「家の名誉に関わる」などといって、男たちはキヲの意向を踏みにじったが、そこでは常に「家」の世間体が最優先され、誰も自分の考えを持つものはいなかった。女は確かに男に従属していたが、男も「世間」に従属させられており、それに疑問を持つものはいなかった。「自分」よりも「世間」の方が行動を規定していた。

そんな中で、キヲは自我を持つほとんど唯一の人間だった。キヲは近代的な精神に目覚めていた。だからキヲが(現代の人間からみて)当たり前のことをしても、それは家からも社会からも異常な行動として映った。「自分」を独立した価値あるものと見なす考えは、それだけで狂気じみていた。

キヲの戦いは、同じように抑圧されていた女性たちからも理解されなかった。おのれの意向を貫こうと正面衝突を繰り返すキヲを、女性たちは冷ややかに見ていた。表面上は男を立てながら、小ずるく立ち回ってうまく家庭を回すのが賢いやり方で、キヲのようなやり方では事を荒立てるばかりで結局自分のやりたいようには出来なくなるというのだ。 しかしそれは、キヲの戦いを全く理解していないものの見方だった。キヲは目先の決定権を手に入れたいのではなかった。自分を一人の人間として尊重して欲しい、という根源的な要求を主張していたのだ。

それを象徴するのが、強いて父から譲り受けた短刀だ。女が刀を持つ、ということは普通にはありえないことだ。しかしキヲは刀を持ちたがった。それが自らの意向を貫き通すための唯一の力、命のやりとりによって自らの存在を打ち立てるための力の象徴であった。「自分」を承認させることがキヲの戦いだった。

しかしその考えを、男も女も、誰も理解できなかったのだから、キヲの戦いは常に独り相撲に終わっていた。キヲはむしろ正面衝突を望んでいたが、衝突すべきものは空疎だった。「世間」のことばかり気にする小心翼々とした人間達を、キヲは冷笑した。そのような人間の相手をすることが、次第にバカバカしくなってきた。やがてキヲは、兵衛門との愛のない結婚生活、「世間」にしか向かない血族、「自分」のない人生に見切りをつけた。

そして齢七十にして、兵衛門に離婚を突きつけたのである。そのような老婆が、離婚を突きつけるなどということは前代未聞だった。「世間」も「血族」も、非難囂々だった。だがキヲは、それまでの無意味な人生に決別し、これから「自分」を大切にする人生を踏み出したのである。それがキヲが全人生をかけて到達した答えだった。

本書に描かれた権領司キヲは、社会や男に翻弄されるだけの女とはほど遠い。それらに常に戦いを挑み、挫かれても挫かれてもそのたびごとに「自分」を強くしていく反抗する人間である。 しかし同時に、キヲは外城士の娘として、「ザイ」(百姓)に強い差別意識を持っていた。彼女は自分を、誇り高い士族の娘であると考えていた。自らを蹂躙した「血」の論理を、彼女自身乗り越えていなかったのだ。彼女の桎梏となったのも「家」という「血」であったし、彼女がザイを差別したのも「血」であった。

キヲには、もっと徹底的に世間に反抗した叔母がいた。叔母は、「ザイ」の男と恋に落ち、身分も外聞も捨てて愛に生きた。世間からは村八分になっていたが、彼女は幸せだった。「血」の論理を、乗り越えていたからだ。キヲの悲劇は、自らを苦しめた「血」の論理を、自分自身、捨てきれなかったことだった。

著者中村きい子は、自らの母をモデルにこの小説を作ったという。この時代に比べると、今は女性の地位が随分向上した。結婚を無理強いされることは少ないし、あからさまに女を男の奴隷のように扱う態度は問題視される。しかし根本のところでは、本書に描かれる「世間」「家」「女性」の関係が、今とさほど変わっていないことに愕然とせざるを得ない。未だに日本では「世間」が幅をきかし、「家」を維持するために「女性」が道具として利用されている。キヲが苦しんだ構図で、今の日本の女性も苦しんでいないか。

キヲの戦いは、女性差別が激しかった戦前の思い出話ではないのである。女とか男とか、そういうことではない。それは、「世間」よりも「自分」を価値の根本に置くこと、誰であれ一人の人間を意志ある存在として尊重すること、それを社会に対して認めさせるために、未だに続けられなければならない戦いなのだと私は思う。

女性問題を越えて現代でも読み続けられるべき名著。

【関連書籍】
『薩摩の女―兵児大将の祖母の記』大迫 亘 著
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理想化された「薩摩の女」を描く小説。