2019年9月13日金曜日

『寺社勢力—もう一つの中世社会』黒田 俊雄 著

中世における寺社勢力の勃興と衰退を述べる。

本書の副題は「もう一つの中世社会」である。寺社は、天皇を中心とする公家、将軍を中心とする武家と並ぶ、中世社会におけるもう一つの権門であった。しかしその実態は、天皇や将軍のような中心がないからつかみどころがなく、また一般にもその存在が浸透していない。本書はこの謎の第三勢力・寺社勢力の中世史について述べるものである。

寺社、特に仏教寺院については、飛鳥や奈良の頃から現代にまで連綿と続いているように思うのであるが、現代の諸宗派が整備されたのは江戸時代で、それも廃仏毀釈による破壊・改変から復興したものであり、中世のそれとはだいぶ違っている。仏教寺院の多くは、中世の始まりとともに非常なる隆盛を見せ、そして中世の終わりとともに衰微していった。今に残る寺社と、中世における寺社は全く別のものであった。

それを象徴するのは「僧兵」の存在かもしれない。今の宗教の在り方からすると、寺院が兵力を持つということはあってはならぬことのように思える。しかし当時は、「僧兵」という言葉すらなく、僧侶であれひとたびことが起これば武器を持ち戦うことは当然とされていた。「僧兵」とは、寺院が兵士を雇っていたということではないのである。

では寺院は宗教的に堕落していたのか、というとそうとも言い切れない。南都六宗は国家の後ろ盾を失って荒廃していたし(東大寺と興福寺を除く)、仲間内で争いごとばかりする不届きな僧侶はいた。しかし同時に中世——特に鎌倉時代——は宗教的には確かに高潮期であり、今に繋がる主要な宗派の高僧が矢継ぎ早に出現したのである。即ち寺院は、高僧から悪党まで、様々な人間が犇めいた世界であった。公家や武家と、同じように。

当時の寺院を今の社会で譬えてみれば、宗教法人というよりは、大学と企業が一体になったような存在だと言うことができる。寺院は高徳な学僧を有した一方で、広大な荘園を経営してもいた。寺院の中の身分としては、リーダー格(別当・座主・検校など)、執行部(三綱——上座・時主・都維那(ついな))に続いて、哲理を究明する学侶(学衆・学生(がくしょう))、修行を行う行人(ぎょうにん)(行者・禅衆)の他に、僧に仕える身分である堂衆(どうしゅ)・夏衆(げしゅ)・花摘(はなつみ)などと呼ばれた者もたくさん在籍していた。これら様々な身分・階層のものがいたが、しかし建前からいえば、僧伽(僧侶の集団)は和合の精神で運営されており、寺院の中でこれらは同じ「大衆(だいしゅ)」を構成し、ある種の平等的な連帯集団を形作り自治を行っていた。

その具体的装置が「大衆僉議(だいしゅせんぎ)」である。これは、大衆——大寺院ともなれば何千人という規模になる——が一堂に会し、破れた袈裟で頭を裹(つつ)み、誰が誰ともわからない匿名の状況で集団討議と議決を行うものである。10世紀ごろのことだ。権力者が専断して憚らなかった時代に、匿名による討議と多数決による議決によって寺院としての決定を行っていたということは、やはり高く評価されなければならない。世俗とは違う論理によって経営がなされていたということが、寺社勢力の勃興に一役買っていたのだろう。

だが寺社が権門として力を持ってくると、いきおい公家との関係が深まってきた。大衆たちは自らの権威を飾るためにも、貴種を戴くことを当然と考えた。こうして、寺院の中に「門跡」ができるようになった。「門跡(もんぜき)」とは、皇族や摂関家のみに相続を許された寺院内の子院であって、例えば延暦寺における青蓮院(しょうれんいん)、興福寺における一乗院や大乗院といったものがそれに当たる。寺院は、貴族にとって公家社会とは別の居場所として機能するようになった。

12〜13世紀になると、門跡の下に大衆が組み込まれ、匿名平等だったはずの寺院が、門跡という特権階級の下に再組織化されていった。それは門跡だけでなく、寺院内の子院においても規模は違えど同様のことが起こったのである。先ほどの譬えを使うなら、当初は大学全体の自治が教授会によって行われていたが、大学が一部の特権的経営者によって独裁されたことで、研究室ごとの独立性が高まって大学全体の連帯意識が薄くなり、小組織へと分裂していったというようにいえるかもしれない。

このようにして寺院社会は内部から瓦解し、僧たちは武力と銭を蓄える方向へと走っていく。それは寺院勢力の強大な力を示す最後の仇花となり、寺院は繁栄を享受したが、世俗の論理に覆い尽くされた寺院に社会的存在価値はもはやなかった。織田信長・豊臣秀吉の全国統一が始まった時、寺社勢力は最終の没落を迎え、織田信長の比叡山焼き討ちに象徴されるように、新しい時代の権力者によって中世的な寺社勢力は滅亡したのである。

ところで私が本書を手にした興味は2つあった。第1に、寺社が広大な荘園を有したのはなぜかということ。特に寺社は広大な皇室領を持っていたが、なぜ天皇は寺社に荘園を寄進したのか。第2に、天皇をはじめ執権北条氏、室町幕府の足利氏など、時の最高権力者の多くが出家し法体となっているがこれはなぜなのかということ、である。

第1の点に関し、本書では寺院への寄進を「「王家」の(中略)荘園を確保し拡大する方途でもあった」としているが、なぜそうなのか詳しくは書かれていない。

中世、天皇家は広大な荘園を寺院に寄進している。有名なのは、安楽寿院・蓮華王院・長講堂・最勝光院といったものがある。これらは王家の御願寺、菩提寺、持仏堂などに荘園群を寄進し、事実上の王領(皇室領)でありながら、形式的に寺院の荘園としたものである。例えば「長講堂」というのは、後白河法皇の持仏堂であった「法華長講弥陀三昧堂」のことであるが、法皇がこの長講堂に多くの荘園を寄進しておいたのが「長講堂領」という荘園群のことである。鎌倉初期には長講堂領は180箇所の荘園によって構成されていたというが、形式的にはこれらは長講堂という持仏堂が所有しているものの、その長講堂が後白河法皇の所有であったのだから、結局王領なのである。

しかしなぜ後白河法皇は、わざわざ自分の所有地を長講堂という持仏堂の荘園としたのだろうか。長講堂なる持仏堂が天皇以上の権威を持っていたとも思えず、寄進によって荘園の私有が権威付けられたとも思えないのである。本書にその答えは書かれていないが、本書を読みながら私が思ったのは、その裏に相続の事情があったからなのではないか、ということである。

というのは、当時、日本の相続は分割相続がメインである。5人子どもがいれば、土地は(等分かどうかはともかく)5人に分割相続される。しかも女子にも相続権はほぼ同様にある(実際、長講堂領は後白河法皇の娘に相続された)。となると財産は代を進むごとに分割されていってしまう。それを避ける手段が、荘園の寺院への寄進だったのではないか。先ほど述べたように、寺院は門跡と門流の細分化によって相続関係は複雑となっていくが、少なくとも「大衆僉議」が機能していた頃はいわば「法人的」であったし、それでないにしても法統の関係は一括相続的であった。寺院に寄進した荘園は分割されることなく相続されていくものだったのである。それが、皇室直属の荘園との違いであった。分割不能なものとして土地を相続していく手段が寺院への寄進ではなかったのか。

そしてもしかしたら、寺院興隆には、寺院が「法人的」であったことが一役買っていたのかもしれない。中世の社会は「家」を重視してはいたが、実際には個人で活動している意味合いが強かった。そんな中で寺院は「法人的」な安定した存在であった。しかも匿名平等な多数決によって運営されていたから、経営者の交替によって方針が大きく変わるということもそれほどなかったのだろう。その安定性が、財産の維持に利用されたのかもしれない。

さらに寺院は、荘園経営事務に長けているということもあった。寺院は大学のようなものであったから、高度な事務作業ができたのだと思われる。荘園経営というのは、各地の荘園への課税を産出し、布達し、回収し、不達の場合は督促し、問題点があれば改善し…といったようなことが必要になるわけだが、荘園の数が多くなればこの事務は厖大かつ煩瑣なものとなっていく。荘園を寺院に寄進することで、荘園事務に長けた寺院にこれらの作業を丸投げすることができれば、仮に寺院に幾ばくかの分け前を割かなければならないとしても、結果的には安くついたのではないだろうか。荘園事務の「外注」のため、天皇家だけでなく多くの名家が寺院に荘園を寄進したのではないかと思う。

第2の点に関しては、本書にはあまり記載がなかった。足利義満が出家したのは、「ことごとに法皇に準じて威儀を示した(p.191)」ことがその背景にあり、「もはや武家であることをやめて院政を行う法皇の地位についたのである(同)」としているが、これは義満についてはそう言えるとしても、彼に先行する幾多の権力者が出家している以上、より構造的な原因を探る必要があると思った。

中世の申し子とも言える寺社勢力を通じて当時の社会の内実を考えさせる良書。

【関連書籍】
『日本の歴史 (8) 蒙古襲来』黒田 俊雄 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/09/8.html
蒙古襲来からの鎌倉幕府の滅亡までを描く。
長講堂領や安楽寿院領(八条院領)がたどった波瀾の運命が描かれている。

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