2019年8月13日火曜日

『父の詫び状』向田 邦子 著

幼少期から青年期までの家族との思い出を中心にしたエッセイ。

本書では、戦前戦後の昭和の中流家庭のありさまがユーモアを交えて描かれている。著者向田邦子のみずみずしい感性によって捉えられているからか、戦前戦後といっても今読んでも古びた感じはしない。著者の初めてのエッセイであるため多少荒削りな点はあるが、話題があっちへ行きこっちへ行きしながらも最後にはそれらが不思議に結びつけられ端正なエッセイに仕上がっている。

ところが、私はこのエッセイ集を読みながら、ちょっとその「端正さ」からはみ出たところに目が行ってしまった。それはタイトルにもなっている「父」のことである。

向田邦子の父は、暴君であった。些細なことで怒鳴り、撲った。毎日の食卓は、家族の団欒というような温かい雰囲気ではなく、父の雷がいつ落ちないかとビクビクしながら囲むものだった。そして父はなんでも自分だけ特別扱いを求め、家長としてふんぞり返っていた。家族に対しては「ありがとう」も「ごめんなさい」も、決して言わなかった人間、それが父であった。

著者は幼い時、そういう父を畏怖し、また嫌った。しかし長ずるにつれ、その横暴さの裏に潜む、社会人としての哀しさを感じるようになる。というのは、父は高等小学校卒でありながら、保険会社で異例の出世をし、支店長にもなっていた。その裏には、卑屈なまでに会社に平身低頭し、交際費を大盤振る舞いするという社内政治があったのである。父は、そういう会社でのままならなさを、家庭で暴君として振る舞うことで埋め合わせていたのだ。父の家庭での絶対性は、社会の中での弱い立場の裏返しだった。

であっても、子どもや妻に押しつける不条理や子どもっぽい怒りが、免罪されるわけではない。当時は、こんな「雷親父」はどこにでもいたのだ、ということは言えるかもしれないが、実際その暴力や暴言を受けている子どもや妻にしてみれば、それはたいした慰めにはならないのだ。

このエッセイで、向田邦子は、そこはかとない努力を傾けて、そういう父の思い出も「今になってみれば懐かしい」と昇華させたがっているように見える。しかしそのたびに、「とはいっても、父のこういうところは嫌いだった」と注釈をつけざるをえないような、割り切れなさを抱えるのだ。それが、全体的には端正なこのエッセイにおいて、なんだか切れ味が鈍っているような、そんな印象を与えている。

だがそのために、このエッセイがつまらないものになっているのではない。むしろ話は逆で、テレビ界出身ならではの、毒気なく素材を調理する感じ、手際よく話題を変えていく調子の中にあって、「父」の事になるとなんとなく筆が鈍る感じが、著者の内面を覗かせる窓のような役割になっている。

いや事実、エッセイに描かれる向田邦子は、まさか「向田邦子」本人であるわけがない。ちょっとおっちょこちょいで、人のやらないような失敗をし、いつまでも嫁き遅れていることを自虐し、仕事のできなさをネタにする、というこの向田邦子は、本人の特徴をデフォルメしてエッセイ用にしつらえたキャラクターだろう。しかし父のことになると割り切れない思いを抱える「向田邦子」は、間違いなく本人の心情が吐露されていると感じるのである。

表題作「父の詫び状」は、生涯でたった一度、父が娘に寄せた詫びの手紙が描かれているが、それにしても「此の度は格別の御働き」という一行があり、そこだけ朱筆で傍線が引かれているに過ぎなかった。結局、いつまでも父は娘に詫びることができなかったのである。

仮の話をするのは気が引けるが、仮に、父が生涯でたった一度でも、「お前にはいろいろいろ迷惑を掛けたなあ」とか「好き勝手振る舞って悪かったなあ」といったように本当に詫びたとしたら、本書はだいぶ違った印象のものになったのではないかという気がする。父にまつわるイヤな思い出も昇華して、「今になってみれば懐かしい」と記憶の棚卸しができたのだと思う。本書の表題が『父の詫び状』なのは、偶然以上の意味があると思う。きっと、向田邦子が欲しかったもの、それがちゃんとした「父の詫び状」だったのではないだろうか。

ただひとつ言い添えなくてはならないのは、こういう読み方は、邪道だということである。というのは、これまで述べてきた著者と父との関係性の襞は、本書で著者が表現しようとしたことでも、伝えたかったことでもないのは明らかだからだ。本書はもっと気楽に読むべきものだろうし、この雷親父も、ありがちな父親像として受け取れば十分なのだ。だが私は表題作であり冒頭作である「父の詫び状」に素の「向田邦子」を感じて、以降それを感じることが本書を読む楽しみと思ってしまったのである。

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