2025年1月4日土曜日

[論文]「日本中世における在俗出家について」平 雅行 著

日本中世における出家の要因を分析した論文。

本論文は、同著者の「出家入道と中世社会」に続くものである。この論文では中世において〈出家入道〉と呼ばれる存在が、社会のあらゆる階層に大量に存在していたことを示した。しかし彼らがなぜ出家したのかは、10の要因が概略的に述べられるのみであった。そこで本論文は、彼らが出家した理由を史料を博捜してまとめ、分類整理している。一見してわかるように本論文は非常なる労作である。

なお、前掲論文では「家督を保持したままの出家得度者」を〈出家入道〉と定義していたが、本論文では「寺院に所属しないまま世俗活動を行っている僧形の人々」を「在俗出家」と規定し、また明示はされていないが、そのような出家そのものも「在俗出家」と呼んでいる。さらに「在俗出家のうち、出家した後も家長・家妻として家督・家政権を維持して世俗活動を継続するもの」を〈出家入道〉と定義しなおしている。両論文で用語の使い方に微妙な差があることに注意しなくてはならない。やはりここでも家督がポイントになるのだが、本論文を読んでも家督の有無にどういう重要性があるのかはよくわからなかった(例えば家督を継承していない嫡子が在俗出家する場合は〈出家入道〉ではないが、そういう区別が議論のどこに効いてくるのか)。

また、本論文で分類整理される出家の理由では、在俗出家の場合と、在俗出家後に世俗活動を停止する〈遁世〉の場合の2種類を区別していない。これは実際上区別が難しいためである。ただし顕密僧になるための出家は除かれている。

本論文は、史料上から理由が明確な、あるいは推測が可能な在俗出家・遁世の出家の事例が40ページ以上にわたって掲載されており俯瞰は困難だが、自分なりに以下にまとめてみた(番号は著者によるもの)。またそれぞれについて主な事例(人名と出家の年)を適宜抜き書きした。

1.自発型出家

①病
 死を覚悟した出家(藤原道長1019←権力者の在俗出家の嚆矢となった重要事例)
 出家による治病効果を期待したもの(後三条上皇1073)
②厄
 厄による死を覚悟した出家(洞院公賢1359)
 厄払いを目的とした出家(後三条天皇1073)
③発心(狛則康1156、源雅定1154、藤原兼房1199、殷富門院1192)
④高齢(藤原宗忠1138)
⑤充足(後白河院1169、後深草院1290)
⑥他者の死
 (a)主人(源顕基1036←天皇の死に殉じた出家の早い事例。殷富門院の女房多数1192、北条時頼の御家人多数1263)※鎌倉時代に膨大な事例がある。
 (b)夫(後三条院・後白河院・後嵯峨院・亀山院・伏見院の女御、坊門信清女1219)
  ※夫からの相続を確定させる意味もあった。
 (c)妻(九条兼実1201、後宇多院1307←純粋な思慕から!)※事例少数
 (d)子(白河院1096←郁芳門院の死:重要な事例)※事例少数
 (e)養君(乳母・乳父の出家)(北畠親房(1330))※詫びの意あり事例多数
 (f)父母(聡子内親王1073)※不婚内親王に多い
 (g)きょうだい(良子(後三条天皇の姉)1073)
⑦同心の出家←誰かと同時に行う出家。
 (a)主従(花山天皇・藤原義懐・藤原惟成986、亀山院・北畠師親1289)
  ※栄誉の意味があり事例多数だが、近臣にしか認められなくなる
 (b)夫婦(藤原忠信夫妻993)※夫婦で同心出家すると治病効果が高いとされた
 (c)親子(仁明天皇と皇子850)※中世では確認できず
 (d)きょうだい(藤原定家の娘姉妹1233)
⑧政治的敗北
 (a)左遷回避(藤原伊周996)※左遷先の大宰権帥が朝廷官職だったため
 (b)引責・謹慎・助命(安倍則任1062、源為義1156、高師直1351)
  ※事例多数。次第に単なる出家では許されなくなり、黒衣・喪無衣といった遁世僧の装いを要件とするようになった。
 (c)嫌疑を晴らすため(斉世親王901←在俗出家ではない、宇都宮頼綱1205)
⑨失意・諦念(惟康親王1289、四条隆顕1276、新陽明門院1290)※宮中の女性に多い。
⑩恥辱(下河辺行秀1193、藤原季輔1130、吉田経藤1261)
⑪不満・抗議
 (a)官位官職への不満(藤原通憲(信西)1143、新田政義1244)
 (b)政治的抗議
  (b1)権勢者による権力闘争の一手段(後深草院1274(未遂)、足利義嗣1416)
  (b2)政治的下位者による抗議(北条貞時後家ほか1326、飯尾元連ほか40名1485)
    ※ストライキのような集団出家が行われていた。事例多数。
 (c)親または子への抗議(藤原公賢1226←愛妾との離縁を迫る父への抗議、紀良子1374)
 (d)夫への抗議(小川禅啓妻1425←新妻に嫉妬、北政所吉子1348)
  ※夫の了解ない出家は離縁された。むしろ離縁のための出家もあったかも?
⑫主従関係の解消としての出家(荻野景継1212、西園寺公経1217)
⑬政争や戦乱に巻き込まれるのを回避するための出家(和田朝盛1213、金沢貞顕1326、葉室長隆ほか1336、宣政門院1339)
 ※近親者の死などを名目として、主君から距離を置くため出家した。
⑭政治的野心のないことを表明するための出家(伏見宮貞成1425、足利義視1489)
 ※自ら身を引くことで自分の子息を要職に就かせる意図もある。
⑮入道成(村や町で入道として扱われるための出家)

2.強制型出家

①政治的軍事的な敗北者に対する強制的出家(源頼家1203、足利直冬1349、後鳥羽院1221)
 ※出家を条件に助命するなど。 
②(敵対関係にない)上位者からの出家の提案によるもの(千種忠顕ほか1336)
③同心出家の強制(四辻季顕・斯波義将・大内義弘ほか多数1395←足利義満との同心。義満は同心出家したものを優遇した)
④後家に対する強制的出家(菊亭公行女1425)
 ※夫が死去したら後家は出家するものという社会通念の押し付け。

3.複合型出家

①一般複合型(九条頼経1245←年来の素懐+彗星+病気)※ほとんどの出家は複合型
②口実型(大庭景義1193、新田政義1244、名越光時1246)
 ※本当の理由は処罰・抗議などであったとしても、角が立つのを避けるために出家を口実にした。

4.死後出家

(藻璧門院1233、後光厳院1374、後円融院1393)
※院政期には必要とはみなされておらず、鎌倉時代までは例外的。室町時代になると相当な広がりがある。

以上である。ここまででも本論文が恐ろしく濃密であることがわかると思うが、これに続いていくつかの考察を加えている。

まず、在俗出家は戒律を気にしたか。これは、禁欲を貫くか、最初の頃だけ禁欲するか、ほとんど禁欲を意識しない、という3タイプがあり、人それぞれであった。また性的禁欲はせずとも魚を食べないといった禁欲もある(白河院)。ちなみに後白河院は全く禁欲を意識しなかったタイプで、著者は「とても出家者の振る舞いとは思えない」と述べている。持戒持律は少数派であったが、それは「中世では本当の意味での自発的な出家が少なく、社会的要因によって出家を余儀なくされることが非常に多い」ためだという。

次に殉死について(出家と直接の関係はない)。中世では殉死の例は少ない。なぜ殉死が少ないのか。著者は、そこに輪廻転生の死生観(仏教的六道観)が影響していたと見る。生まれ変わっても主従になるとは限らない。だから殉死の意味が薄いのだという。ただし、ともに浄土に行くという観念を持っている人もいる。こういう場合は殉死が行われた(本願寺実如の死(1495)では切腹した門徒がいた)。

次に、なぜ〈出家入道〉が盛行したのかという要因を考察している。それをまとめると、第1に藤原道長を嚆矢として権勢者が出家し、人々がそれに倣ったこと、第2に中世人が仏道に強く憧れており、世事と仏事の二兎を追いたい心情があったこと、第3に道心にもとづかない出家が大量に存在し、特定の状況になった時に出家すべきだという同調圧力や権力者に媚びを売るための出家さえあったこと、第4に中世では諸職が相続されるようになった結果、父権が非常に強くなり、朝廷や幕府の官職を退いても世俗社会の実権を掌握していた家督保持者が現れたこと、第5に〈出家入道〉でも世俗活動を続けてもよいという社会通念が形成されたこと、第6に〈出家入道〉の在り方を本覚思想が正当化したこと、である。

「むすびにかえて」では、まず〈出家入道〉の服装について述べている。〈出家入道〉は必ずしも僧衣ではなかったようだ(黒衣と聖道の2通り)。そこで室町時代の幕府の規定では服装が「俗人」「僧侶」「〈出家入道〉」の3本立てになったらしい。その規定を見ると〈出家入道〉は法皇や貴族の顕密僧の身分標識を流用していた模様である。つまり〈出家入道〉になると身分が少し上がったようになるのである。だが皆が皆そういう装束をつけていたわけではなく、貴族出身の〈出家入道〉でもそれとわからない黒衣の者もいた。つまり〈出家入道〉は服装も境界的なのである。

次に専修念仏との関係について簡単に触れ、「ほぼ無関係」と結論し、「〈出家入道〉とは基本的に顕密仏教の浄土教にものづくもの」であったとしている。そして最後に「〈出家入道〉の衰退に関わる難問」として、〈出家入道〉が16世紀に急減する現象の理由について「今の私には答えが出せていない」と述べている。最後に「出家・遁世の要因については、一層精緻な検討が必要であろう」として擱筆されている。

さて、私自身の関心としては、なぜ人々はわざわざ在俗出家したのか、ということにある。前論文での私の理解は、「出家とは現代の人が要職を退くのと似たようなものだった」というものだったが、本論文を読むとそこまで単純なものではないと感じた。また、著者は中世人は仏道に強く憧れていたと強調するが、それは事実としても、時代が進むにつれて自発的なものより「やむをえず出家した」というケースが増えるように思われる。なんだか出家が「目的」ではなく「手段」になっている。

そういう意味で注目したのは斯波義将の場合である。彼は足利義満が出家した際に「断り切れなくて」出家した。そして斯波義将が出家したことで〈出家入道〉の管領が誕生している。なぜ注目したのかというと、彼が出家したくなかった理由がわからないのだ。なにしろ、出家したからといって彼の人生に不利益が生じるようなおそれはなかった。もしかしたら、彼は出家したら持戒しなくてはならないと考えていたのかもしれないが、であるにしても「世事」と「仏事」の二兎を追うことができるのを喜ばしく思わないのだろうか。さらに義満は、この時いろいろな人に強引に同心出家を押し付け、万里小路嗣房は「出家料」として従一位に叙せられている。出家した者への優遇措置まであったのだ。となれば出家に及び腰になる理由はない。「手段」としても悪くはないのだ。それでも斯波義将が出家したくなかった理由は何か。これは中世の在俗出家を考える上での糸口かもしれない。

斯波義将のように本心では出家したくなかった人はたくさんいて、強制型出家は当然として、自発型でも⑧政治的敗北、⑨失意・諦念、⑩恥辱、⑪不満・抗議、⑫主従関係の解消としての出家、⑬政争や戦乱に巻き込まれるのを回避するための出家、⑭政治的野心のないことを表明するための出家、などはそれにあたる。在俗出家が一般的になった結果、特定の状況になった場合には出家するべきだ、という通念さえ生じたのである。

つまり出家とは、「自ら望んでそうする人にとっては名誉なことだが、やむを得ずそうする人にとっては罰則的な意味があり、またある文脈でそれをすることは抗議やストライキの意味も持つ」といった行為であった。これは前述のとおり現代での「要職を退く」のと概ね共通している。

だが「要職を退く」ことは実際に仕事から手を引くことであるが、在俗出家の場合は、引き続き従前の仕事を続けていることも多い。この点で出家は「要職を退く」のとは決定的な違いがある。ただし、本書の事例を見てみると、「やむをえず出家した」場合は実際の社会生活の面でも引退・縮小を余儀なくされている場合が多いようである。

つまり在俗出家は自発的な場合と、やむを得ない場合で違う扱いがあったのかもしれない。であっても、やはり斯波義将が出家したくなかった理由は謎だ。彼の場合は社会的な面で不利益がないからだ。仏法が好きでなかった、なんてことはないと思うのだが。

また、やむを得ない出家の場合に社会生活の引退・縮小が必要なのだとすれば、なおさら出家の持つ意味がよくわからなくなる。つまりこの場合の出家の本質が社会生活の引退などであれば、むしろ出家自体が不要で、引退さえあればいいのではないか。わざわざ出家させなくても、免職・隠居などを求めれば済む。実際、江戸時代にはそうなっている。出家の持つ意味はなんなのか。

これは入道成(にゅうどうなり)でも似たようなことが指摘できる。町や農村において、指導者層の仲間入りするために出家するのが入道成である。なぜ出家すると指導者層として扱われるのか。本論文では出家成の際に町に祝儀を納める必要があったことを指摘し、「在俗出家を行うために共同体に米銭を納めているわけであるが、それは逆にいえば、出家することが、世俗社会における地位の上昇につながっていることを意味して」いるのだとする。これは、現代の社会で、それなりの社会的地位の人・企業が祭の協賛金を一定以上出す暗黙の了解があるのと似ている。とはいえ、入道成の本質が米銭の納入にあったとすると、わざわざ出家する必要はなく、ただ費用負担さえすればよいということにならないか。やはり出家の持つ意味はなんなのかという問題になってくる。

それから、在俗出家を考えるにあたって本論文が全く触れていない点がある。それは還俗(げんぞく)だ。還俗とは出家を辞めて俗人に戻ることである。社会生活の引退や米銭の納入と出家とが決定的に異なるのは、出家が一方通行であることだ。一度出家したら後戻りすることができない、と中世の人は考えていたようだ。だが、近世になると還俗はありふれたものになる。もし還俗ができるならば斯波義将も出家をためらうことはなかっただろう。中世人が出家に意味を付与していたのは一方通行だったからと考えられる。

とすれば、著者が不明とする「〈出家入道〉が16世紀に急減する現象の理由」も、このあたりにあるかもしれない。還俗することが普通になると、「やむをえず行う出家」などあまり意味がなくなるからだ。本論文は在俗出家の事例を幅広く探った、いわば「在俗出家の歴史」であるが、これと対をなす「還俗の歴史」を解き明かすことによって、在俗出家がより深く理解できるのではないだろうか。

※大阪大学大学院文学研究科紀要、2015

2025年1月2日木曜日

[論文]「出家入道と中世社会」平 雅行 著

〈出家入道〉に光を当てた論文。

中世には、大量の僧形の人がいた。そこには、専門の僧侶ではなく、俗人としての生活を続けながら僧形になっていた人〈出家入道〉が数多く含まれる。しかしこれまで、そうした人々は研究の対象となっていなかった。本論文は、その存在を初めて体系的に明らかにしたものである。

なお、本論文における〈出家入道〉は「家督を保持したままの出家得度者」と規定している。なぜ〈〉付きかというと、出家・入道ともに歴史的に使われた言葉だが、これは著者が「歴史用語」として定義して使っているからである。なお、本書では女性の〈出家入道〉は除外されている(別に改めて検討するとしている)。

本論文では、先行研究を簡単に整理した後、「出家」「入道」「遁世」の用語について検証している。近年、「遁世」は「二重出家」(顕密僧を辞めること、出家後に社会生活から撤退すること)の意だと定着してきたが、歴史的な用語としては必ずしもそうではなく、「出家」「入道」「遁世」は同じ意味で使われてきた。しかし平安末期から鎌倉時代にかけて、出家しながらなお家督を保持しているものが表れた。そこで「出家」の後に「遁世」が来るという二段階の意味になっていったのである。

なお、〈出家入道〉の概念に「家督」が関わっていることは私には意外だった。一見、出家と家督には直接の関係はないと思われるからだ。例えば家督を継承しなかった男性が出家し、それでも世俗活動を継続していたとしても、本書の概念規定ではそれは〈出家入道〉ではない。当然、「家督」とは何か、という議論がこれに影響してくるが、本論文では特に何も言及がなかった。

さて、ではそもそもなぜ人々は出家したのか(ここでいう出家は顕密僧になるための出家ではなく、〈出家入道〉の出家=俗人のままの出家)。それは、第1に病気のため、第2に高齢のため、第3に恥辱や挫折のため(後輩に官位を越されるなど)、第4に政治的軍事的敗北による引責・謹慎や命乞いのため、第5に主人の死に殉じるため、第6に主君と家臣や夫婦の同心出家、第7に近親者の死を契機とする出家、第8に厄年のため、第9に発心出家(←これが本来の出家)、第10に現世への充足である。現世に満足し執着することは地獄に落ちる要因と考えられていたからである。

これを見ると、第8~10を除けば、現代の人が要職を辞するのと似ている。〈出家入道〉とは、「要職は退いたが、引き続き会社には務めている」というような状態ともいえる。そして「貴族が出家するには勅許が必要であったし、武家が出家する場合には将軍の御免を要した」。特に鎌倉幕府は勝手に出家することを「自由出家」として所領没収の咎に処した。なぜ俗人としての仕事を続ける前提であったのに、「自由出家」を禁じたのだろうか。なお妻の出家の場合は夫の了解を得なければ離縁となった。

次に、各階層での〈出家入道〉の事例を史料を博捜して述べている。それをまとめると次のとおりである。

(1)天皇・摂関には、基本的に〈出家入道〉で在任したものはいない。藤原道長が出家したように権勢者も出家したが、それは職を辞して行うものであった。法皇も〈出家入道〉だ。なお出家すると官位を辞するのが普通だが、出家後にも「准后」宣下は行われている。ただしこれは女性の例である(本書には書いていないが「女院」もそうだろう)。

(2)院御所議定や関東申次。これが第2に述べられていること自体が興味深い。院政下においてこれらは重要なポストであった。〈出家入道〉は広義の公卿議定に参加して院政を支えていた。

(3)知行国主。面白いことに国司の〈出家入道〉はいない。法皇の知行国があった以上、知行国主の〈出家入道〉がいたことは当然だろう。むしろなぜ国司にいなかったのだろうか。もしかしたら律令に基づく官職は出家の身では務められないという認識があったのかもしれない。

(4)本家・領家。彼らが残した文書には、「入道」とか「禅定」とか署名しているものがある。彼らは出家しても荘園の権限を手放していなかったのだ。それは「彼らが出家後も家督を保持することができたことを意味している」。

(5)家政機関の職員。これは院庁の職員などである。その文書にも「沙弥」と署名しているものが数多い。

(6)目代・在国司や在庁官人。国司には〈出家入道〉はいないのに、在国司などには〈出家入道〉がいるのは不思議だ。これらは律令に基づく官職ではなかったからかもしれない。

(7)荘園業務に携わる所職。預所・下司・公文・郡司・郷司・図師・田所・案主・弁済使・総追捕使に〈出家入道〉が就くことは珍しくない。この中で、郡司は律令に基づく官職だ。ただし郡司の人事権はこの時代には律令に基づいていないと思う。

以上を見てみると、本書には特に考察はないが、〈出家入道〉は律令制とは原則的には相いれないものであったように思う。逆に言えば、律令外(令外官)だったら〈出家入道〉でも務められたということになるが、それをいうなら摂関も令外官である。もしかしたら関係ないかもしれない。

次に、三善善信、佐々木信綱、安達時盛の場合についてケーススタディ的に武家社会における出家の在り方を考察している。この中で三善善信は幕府要人のなかで最初の〈出家入道〉だ。その時期は治承5年(1181)頃である。佐々木信綱は〈出家し入道〉となり、さらにちゃんと幕府の許可を得て「遁世」した。この場合は所領を問題なく相続させている。一方、安達時盛は〈出家入道〉になったのは同じだが、幕府の許可を得ずに「自由出家」で「遁世」した。彼の場合は所領を没収されて兄弟からも義絶された。しかしなぜ安達時盛は所領没収がわかっていたのに「自由出家」などしたのだろう。それとも許可を得る必要をわかっていなかったうっかりミスなのだろうか?

では幕府の要職はどうだろうか。鎌倉幕府・室町幕府を通じて〈出家入道〉の将軍はいない。また鎌倉幕府では執権・連署・六波羅探題・鎮西探題にも確認できない。彼らは職を辞してから出家した。しかし出家後にも幕政に大きな力を保持していたものは多い。典型的には足利義満だ。それでも一応職を辞しているのはなぜなのか。それは「〈出家入道〉が執権・連署をつとめることに憚りの意識が働いたからであろう」が、なぜ憚りの意識があったのかは定かではない。なお、上述の諸職以外には〈出家入道〉はいる。上述の諸職は、じつは北条氏一門が独占していた役職なのだが、〈出家入道〉を就かせないことによってその権威を高めていたと考えられる。

一方、室町幕府では管領には〈出家入道〉は珍しくない。これは義満が出家したことで憚りの意識が消えたことによるもののようだ。

次に、鎌倉・室町幕府の役職で、御家人が就くことのできるものは基本的に〈出家入道〉が認められていた。守護・地頭にも〈出家入道〉は多い。そして、〈出家入道〉であっても御家人役(軍役・大番役・関東御公事)は負担していた。

それでは、民衆の世界で〈出家入道〉はどうであったかというと、神人が基本的に俗人であるくらいで(それでも例外的に〈出家入道〉はいる)、百姓や商工業はもちろん、技術者、奴婢下人(!)、被差別人にまで〈出家入道〉がいる。非人集団の上層部が僧形だったのは興味深い。応永27年(1420)に朝鮮からの使節として訪日した宋希璟は日本の村に僧形の百姓が多いことに驚嘆している。

もちろん、彼らは僧形であってもちゃんと年貢・公事の納入は義務であった。そして幕府の許可を得るなどの手続きがなかったため、民衆は御家人などよりずっと気軽に出家することができた。であるから面白いことに、民衆の〈出家入道〉の方が貴顕のそれより早く社会に広まった。公家・武家で〈出家入道〉が広まるのは平安末から鎌倉時代になってからであるが、民衆の場合は900年代後半から〈出家入道〉が現れるのである。上層部の動きが民衆に広まったのではないのだ。「この事実は、法然・親鸞などの鎌倉新仏教によって初めて民衆布教がなされたという、いわゆる鎌倉新仏教論に対する痛烈な反証となる」のだ。

続いて、〈出家入道〉が中世文化にどのような影響を与えたかを考察している。まずは神仏習合の進展だ。神事には僧尼を遠ざけなくてはならないという禁忌が、最高権力者が〈出家入道〉であることによって徐々に緩んでいるのである。白河院の側近であり、本地垂迹説を主導した大江匡房がそういう禁忌を心配しなくてよいといっているのは象徴的だ。鎌倉時代には伊勢神宮での読経や経供養が増えており、法楽舎の造立で神宮法楽は恒常化した。

足利義満は神宮の禁忌を気にせず、神前にまで参拝した。「義満は世俗と出家のボーダーレス化を進めたが」、「神宮と仏法の境界をも曖昧にした」。

なお賀茂社では白河法皇の時代に神仏習合が劇的に進み、上賀茂神社では塔が、下社では東塔と西塔が造立されたし、上賀茂神社では「入道神主」までが登場した。

さらに本論文では、〈出家入道〉が本覚思想の基盤となったと述べている。ただし、私としては〈出家入道〉と本覚思想の関連はピンとこなかった。とはいえ、〈出家入道〉が仏教本来の世俗忌避の性格を薄めるのに一役買い、世俗的なものに変貌していく一因であったことは確かであり、これは本覚思想と軌を一にしている。

最後に、「〈出家入道〉が中世仏教を真の意味で支えていた」として、これまで看過されてきた〈出家入道〉を仏教史に組み込むことを提言して擱筆されている。

なお、本論文を読みながらちょっと疑問だったのは、なぜ人々はわざわざ〈出家入道〉になったのかということだ。何しろ出家しても社会生活が何も変わらない。義務から解放されるわけでも、特典を得られるわけでもない。出家する10の理由は、確かに彼らの念頭にはあったのだろう。それは現代の人が要職を退くのと似たようなものだったというのは先述の通りだ。

だが民衆の場合はどうなのか。彼らは要職に就いていたわけでもなく、公家や御家人と違って気軽に出家できたので、出家はありふれた行為であり、それほど功徳を実感できたとは思えない。出家に何の魅力を感じていたのか。

なお本論文では、出家することが村の指導者となる資格を得る一環ではなかったかと指摘している。「貞和2年(1346)近江国菅浦では惣村置文を定めているが、そこに署名した12名の乙名は全員が「正阿ミた仏」「正信房」「上阿弥陀仏」などの僧名」であった。全員が〈出家入道〉とは、やはり出家と村における地位には関係があるのかもしれない。しかし一方で、民衆が自由に出家できたとするなら、出家の価値が重かったとも思えない。どういうことなのだろうか。

※大阪大学大学院文学研究科紀要 2013

2025年1月1日水曜日

『女たちの平安後期――紫式部から源平までの200年』榎村 寛之 著

女性の存在に注目して平安時代後期を語る本。

本書は、藤原道長が政権を握ってから源平の合戦までを中心として、女性の動向に注意して歴史を述べるものである。この頃は武士が抬頭して武家政権へと向かっていく時代であるが、女性が大きな権力を持っていた時代でもある。それは慈円が『愚管抄』で「女人入眼(じゅげん)の日本国(女性が大事なことを決める国)」と書いた通りだ。

ところで、この時代の人間関係は非常に複雑である。それは、第1に天皇には妻が複数いたこと、第2に養子や猶子(名義上の子供)、准母(名義上の母親)など血のつながりのない家族(現代の概念とは異なる家族)が多く見られたこと、第3に婚姻・血縁関係が重層的であること(だれそれが誰の妹で、彼女が誰の叔母で…といったような)、が主な理由である。

そんなわけで、本書を理解するのは骨が折れた。随所に懇切な系図が挿入されているのだがそれでも難しい。正直にいって、当時の人間関係を頭に入れるまでには至っていない。しかもこの時代は歴史の動きと人間関係が密接にかかわっている。そもそも摂関政治とは天皇のミウチによる政治だからだ。そして女性は、その人間関係・血縁関係の重要な紐帯であった。であるからこそ、この時代に女性の権威が高まったのだ。よって、人間関係が頭に入っていないと女性の立場は理解できないのだ。よって、私の理解は一知半解と言わざるを得ない。以下、私が気になったことを中心にメモする。

なお、当時の女性の権力者には「女院(にょいん)」という立場が多い。これは上皇(院)に擬えたもので、天皇から贈られる尊号のようである。本書の主人公の女性たちはみな「女院」だ。ちなみに女院の第一号は東三条院詮子(あきこ)、藤原道長の姉で一条天皇の母である。

本書の始めの主人公は、上東門院彰子(あきこ)である。彼女は藤原道長の娘で、一条天皇の中宮である。ちなみに一条天皇の皇后は定子(さだこ:道長の兄の子、彰子にとっての従姉妹)であるが、そのほか一条天皇には3人の妻がいる。彰子は道長の後援の下で一条天皇の皇子を生むことができ、さらにその子が後一条天皇として即位したことで権威を確立した。天皇の母となって後は道長も彼女に気を遣ってはいたが、それでも道長の「手駒(p.36)」「ロボット(p.40)」にすぎなかった。しかしその後彼女の権力は次第に実体化し、宮廷で影響力を行使するようになった。

道長は娘を後宮に次々送り込んだが、男性皇族の数が少なく、また短命でもあったので、道長が「この世をば~」の歌を詠んだ時点では天皇家はたった5人しかいなかった。すなわち、後一条天皇、敦良親王(あつなが、後一条の子→後朱雀天皇)、姸子(きよこ、三条天皇(故人)の中宮、彰子の妹)、威子(たけこ、後一条天皇の中宮、彰子の妹)、それから彰子の5人である。この中での彰子の立場は、天皇の母でありキサキたちの姉であり、東宮の祖母ということになり、天皇家の家長なのだ。彰子は道長より格上であり、道長を太政大臣に任命したのは彰子であった。

彼女は万寿3年(1026)に出家し(=法名「清浄覚」)、藤原氏の中宮経験者としては初めて「上東門院」という女院となった(女院としては東三条院に続いて二番目)。「ものすごい身分の女性(p.43)」である。道長が没すると彼女は天皇家と摂関家の双方に君臨した。しかも彼女は当時としてはとびぬけて長命で、87歳まで生きた。

そして彼女のサロンには「なかなかとんでもない身分の女房がいた(p.44)」。世が世なら女御や中宮になるような高級貴族の娘が出仕していたのだ。彰子や源倫子(道長の正妻)のサロンは、政治的に微妙な(後援者を失った)女性や、政治的な才覚に乏しい女性を入れることで保護していた可能性がある。それはサロンの価値を高めることでもあった。

次の主人公は、陽明門院禎子(さだこ)内親王である。彰子の妹・姸子(きよこ)と三条天皇との間に生まれたのが彼女である(残念ながら姸子は男子を産まなかった)。道長は、最初禎子が男子でないことに失望したが、考えを改めて彼女を後援し、異例の速さで彼女を昇進させた。彼女は若くして一品(いっぽん、皇族の最高位)になっている。

そして彼女は、正妻を亡くしていた敦良(あつなが)親王、後の後朱雀天皇と結婚した。これは村上天皇から分かれた冷泉系(三条天皇)・円融系(一条天皇・後朱雀天皇)の血統を再統合・回収するという政策意図があったとされる。二人の結婚は道長がなくなる8か月前の万寿4年(1027)であった。

ちなみに頼通(道長の子)の代では、人間関係図が一変する。それは道長と違い、頼通には女子が一人しかいなかったからだ。禎子と後朱雀は両方道長の孫ではあるが、天皇家内の結婚であって当然藤原氏ではない。道長は、藤原氏の娘を天皇家に入内させることができない以上、せめて藤原氏との血縁を濃くしようと禎子と敦良を結婚させたのだろう。それは「氏」というものがルーズになっていった事情もあるようだ。

なお藤原頼通には「もう一つの面白い顔(p.67)」がある。神鏡に対する信仰は一条天皇時代から高まっていたが、内侍所神楽を完成させたらしいのが頼通なのだ。この時代は天皇家と神祇信仰との関わりも深く、皇族の女子は伊勢斎王、賀茂斎院として派遣された。そして斎王・斎院であることは女性の権威の源泉の一つであった。(本書では斎王・斎院・斎宮の用語があまり区別されずに使われているように見える。)

だが頼通は伊勢斎王にはあまり価値を置いていなかったらしき形跡がある。ここで本書では、伊勢斎王にまつわる政治的動向を記すが詳細は割愛する。その要諦は、どうしても摂関家を天皇家の外戚としたい頼通は、道長の六女と後朱雀天皇の子=後冷泉天皇の系統に皇位を継承させたかったが、禎子はその子(後の後三条天皇)に継承させたい、という両者のライバル争いであった。ただし禎子は皇族の家長で最高の権威はあったが外戚のような後援者がいない。そこで彼女が雌伏の時をすごすのに、近親者を伊勢斎王・賀茂斎院に送るという手法を取ったのではないかというのである。結局、このライバル争いは後冷泉天皇が子供をもうけないうちに死去してしまったことで禎子側の粘り勝ちになり、後三条天皇が即位した。なお禎子は長命で82歳まで生きた。「長生きすることで成功への一番の近道(p.77)」なのだ。本書は禎子について「摂関家を権力の座から追い落した生涯(同)」と言っている。

ここで本書では2つのエピソードが挿入されている。第1に斎王密通事件(第4章)、第2に『新猿楽記』に見る女性たちである(第5章)。第1については武士とはいかなる存在であるかを事件を通じて考察するものであり、第2については『新猿楽記』の主役である一家の個性的な女性たちについて面白おかしく紹介したものだ。彼女らはかなり戯画化された存在であるとはいえ、当時の生き生きとした社会を彷彿させる。紫式部とほぼ同時代、息が詰まる宮廷の外では、女性も男性も躍動していた。

次の主役は、郁芳門院媞子(やすこ)内親王である。彼女は行き当たりばったりの専制君主白河天皇の子で、母親は若くして亡くなった藤原賢子(かたいこ)。白河が死のケガレも気にせず側に寄り添ったという愛妃の子である。彼女の生涯で面白いのは、わずか5歳で伊勢斎王となっていることだ。先述のとおり伊勢斎王には一定の権威があった。斎王は未婚の皇女(内親王)が務めるから、人材不足の時もある。この時は三条系の女子が斎王を務めていたが、白河にとってはこれを自分の系統に取り戻す必要がある。それで派遣されたのが媞子なのである。ちなみに彼女は3歳で「准三宮」に任じられている。これは皇后宮・皇太后宮・太皇太后宮の三宮に准ずる地位である。

この媞子の同母弟がこれまたわずか8歳で堀川天皇として即位すると、その翌年、媞子は准母になった。そもそも天皇の母は、即位儀を一人で行えない幼帝のために必要であったが、堀河天皇は8歳で即位儀を一人で行っており、必ずしも准母は必要なかった。にもかかわらず白河院は媞子を准母にした。続いて、寛治5年(1091)、白河院は彼女を未婚のまま「中宮」にした。これは本来は天皇の正妻(の宮殿)の意だが、この頃には天皇になった親王の母に与えられる称号になっていた。

さらに、その2年後には中宮を「卒業」し、より自由な立場である郁芳門院という女院になった。彼女は天下の権勢この人にありといわれる状態となり、白河院も出歩くときにはほとんど彼女を伴っていた。彼女は嘉保3年(1096)に急死したため、白河院が彼女をどうしたかったのかは不明であるが、未婚女院という前例となったことと、白河院が彼女の菩提を弔うために彼女の居宅「六条殿」を「六条御堂」という寺に改装したことは重要である。

彼女の権威の源泉は、もちろん白河院の後援にもあったのだが、やはり元斎王ということにあったようだ。彼女の妹令子(のりこ)も賀茂斎院になっているが、未婚で鳥羽天皇の准母となって、鳥羽天皇の即位後は皇后となった。最高位の輿に乗れるのは天皇・皇后・斎王に限られていたというのも、斎王の地位を考える上で象徴的な事実である。

藤原璋子(たまこ)こと待賢門院も重要だ。彼女は閑院流藤原氏の出身で、鳥羽天皇の中宮、崇徳・後白河天皇の母である。閑院流藤原氏とは、藤原氏の家系の一つであるが、この時代、藤原氏は「五摂家」と呼ばれる家系が分立し、「氏」とはちがう「家」という系統が確立していった。「家」とは男系子孫が家職を継承していく仕組みである。閑院流は藤原道長の叔父公季の子孫であり、ここから徳大寺・西園寺・三条などの「家」が生まれた系統であるが、摂関家ではない。彼女が崇徳・後白河を生んだことで、結果的に皇統から摂関家が排除され、名実ともに外戚としての摂関家は終了した。こうして院と摂関は相互依存しながら別の権門として機能する体制になる。

璋子は崇徳院の即位にともなって天皇の母ということで女院号を受け、待賢門院となった。彼女には大量の荘園が寄進され、大荘園領主となった(白河から譲られたのではない!)。

一方、鳥羽天皇(上皇)には傍流藤原氏の出身の藤原得子(なりこ)という愛人がいた(女御でもなかった!)。彼女が愛人の立場で生んだ子が近衛天皇として即位すると、彼女はきわめて異例なことに皇后となった(先述の中宮と同じく地位を示す称号であり、天皇の后となったわけではない)。さらに彼女は女院となってステップアップする。美福門院である。そして鳥羽院と美福門院の菩提を弔うため、生前に安楽寿院(寺院)が建立されているが、ここには大量の荘園が集積された(→安楽寿院領)。美福門院はこの大荘園領主となったのである。なお、鳥羽院の遺体は安楽寿院の三重塔に葬られたが、美福門院はそれを拒否して高野山に納骨させた。なぜなのか興味深い。

ところで、なぜ女院領荘園には大量の荘園が集積されたのか。それは、先述した女院のサロンに関係がある。女院の下には数多くの女房が出仕していたが、その女房の夫にとっては、権力者とのつながりがこのサロンということになる。女院や院の御願寺を建立するとなれば、出仕している女房を通じて荘園を寄進するのが権力者に取り入る手っ取り早い手段だったのである。それに形式的にでも寺院領とすることは、相続に伴う分割などを気にしなくてもよいという事情もあった。よって女院や院の御願寺には荘園が集積したのである。

しかしながら、「一見すると女性が社会を動かしているように見えるが、ことはそう単純ではない。女性の栄華は待賢門院でも美福門院でも祇園女御(※白河院の晩年の愛人)でも一代限り(p.166)」であった。いくら女性に権威があったからといってもその根源には院からの寵愛があり、独自の「権門」ではあったがそれを自らの意思でその血統に継承させていくことはできなかった。藤原氏、大寺院といった他の「権門」が法人のようなものであったのと比べ、女院の「権門」は個人事業主のようなものだったのだ。

ちなみに院の寵愛を受けたものが女性とは限らず、白河院の男色の愛人だった藤原成親は栄達を遂げている(鹿ケ谷の陰謀事件で失脚)。

先述の通り、鳥羽天皇と待賢門院との間に生まれたのが後白河であるが、その子供(後の二条天皇)を養子にしたのが意外なことに美福門院であった。二条天皇から見ると、祖父の愛人の養子になったことになる。もともと後白河は皇位を継承する位置になかった自由人で、時の天皇は鳥羽院と美福門院との子近衛であってその系統が期待されていた。ところが近衛が17歳で早世したことで棚ぼた的に後白河にお鉢が回ってきた。なぜなら、当時最も権威があった美福門院としては、血縁はなくとも自分が養子にしている二条に皇統を継がせたく、それならばその父の後白河を天皇にするほかないからである。

よって後白河は東宮になることなく異例の即位を行った。そして二条天皇が16歳で即位すると、美福門院と鳥羽天皇の子で未婚の暲子(あきこ)内親王を准母にした。だが彼女は中宮・皇后としての経験がないのはもちろん、斎宮・斎院としての経験もない。異例の准母だ。そして永暦元年(1160)に美福門院が死ぬと、その地位を暲子が八条院として継承。こうして天皇としての基礎教育を受けていない後白河と、社会に出たことがない経験不足の八条院(しかもすでに出家していた)、そして若年の二条天皇という、「政治力、経験値とも乏しい三者が並び立つ、きわめてバランスの悪い事態(p.188)」となった。この中で各勢力の調整役として奔走しすべての勢力を掌握したのが、平清盛であった。

平清盛と平時子の子が、建礼門院徳子である。彼女は高倉天皇の中宮である(その際、後白河院の猶子として入内している)。彼女が産んだのが安徳天皇であり、こうして彼女は国母となった。それまでの慣例では、院の妻、天皇の母であることは最高権力を持つことを意味したが、彼女の場合は違った。高倉天皇と清盛が死去すると建礼門院号を下されたものの、「それは、中宮、あるいは国母としての彼女の政治への関わりが排除されたことにすぎない(p.193)」のだ。つまり女院号が最高権力者の称号ではなく、むしろ引退宣言、名誉教授の称号のようなものに変質しているのだ。同時期、斎院・斎宮への意識の変化もあったようだ。1170年代から1180年代半ばまでの平家政権の時代には、斎王がほとんど機能していない。未婚女院を生み出す基盤の一つであった斎王制度もぐらついていた。

話は再び八条院暲子内親王に戻る。いうまでもなく彼女は「超お嬢様」で、鳥羽天皇から溺愛され、4歳の時に安楽寿院領という巨大荘園群を譲られ、10歳で准三宮となっている。面白いのは21歳の時に女院になる前に出家していることだ。(法名「金剛観」)。だからこそ彼女は斎王としての経験も皇后としての経験もなかったのである。なぜ彼女は出家したのだろうか。

また、彼女は巨大な荘園領主であったため、その運営のための機構や人々も相続していた。多くの事務官僚を抱えていたのである。そんな中に八条院大弐局(だいにのつぼね)こと浄覚という尼僧(!)がいた。この尼僧は荘園領主でもあった。「事務官僚」といっても、今のそれとは全然イメージが違うのである。

八条院は巨大な財力を持った潜在的な権力者であったが、権力を発動する機構がない。つまり院や天皇、政治機構(太政大臣など)を動かす立場にないのである。しかし、荘園領主であるがゆえに、荘園に所属する人々を動員することができる。荘園が自立した村の集合体となり、領域的に設定されるものになっていたからだ。その村を治める在地領主たちは、常に頼れる親方を探しており、八条院がその気になればその武力を動員できたと考えられる。一見無謀な以仁王の乱(以仁王は八条院の猶子)もそういった武力を恃んでいたようだ。

しかし、「八条院領には知行国はほとんどなかったらしい(p.211)」。つまり受領の人事権はなかった。「現実には、財力、武力はあるが、人事権を持たない八条院は、不完全な権門であった(同)」。逆に財力・武力・人事権を兼ね備えたのが鎌倉幕府だったのである。

そして、女院権力にはもう一つ不完全な点があった。それは先述の通り継承がままならなかった点である。八条院は血縁のない後鳥羽天皇の皇女娘昇子(のりこ)内親王(春華門院)を後継者にして八条院領を継承させた。どうやら血縁ではなく未婚皇女を指名して継承させていく動きがあったようなのだ。「いうならば、八条院の「権門」は、美福門院から受け継ぎ、春華門院に受け渡された、上東門院や郁芳門院以来、皇后や斎王という特別な立場の女院たちに託された「女性の権力体」の最終形態であった(p.214)」。

だが、この「女性の権力体」の持続が難しいのは、「未婚皇女」という存在を前提とする以上明らかだ。なお現実の歴史では、鎌倉幕府は八条院領を没収し、その荘園はのちに大覚寺統となる南朝の家産として重大な役割を背負うことになった。

鎌倉時代になると、女院は存在してはいたが、かつてのような「権門」ではなくなった。鎌倉時代には公家にも「男系で継承される家」ができ、女性の財産権もかなり制限されていたようだ。よって鎌倉時代には「たとえ女院領であっても、一期分(いちごぶん)、つまり本人限りとなり、継承されなくなる(p.227)」。

ただし鎌倉時代でも女性家長はいた。例えば平政子だ。慈円が「女人入眼の日本国」と書いたのは、政子と藤原兼子(後鳥羽院の乳母)が次期将軍を決めたことについて述べたものだ。そして鳥居禅尼。彼女は源義朝の異母妹と推測され、熊野の一角を担う熊野新宮のトップだった行範の妻となった人である。彼女は行範の死後、熊野勢のトップとなって、その武力は頼朝の合戦に協力した。つまり頼朝の叔母が熊野のトップにいたから源氏は平氏に勝ったことになる。この功績により、鳥居禅尼は紀伊国と但馬国の荘園の地頭に任じられ、女性ながら御家人になっている。しかしその財産はやはり彼女の子孫に継承されなかった。「女性家長はその財産を継承していく独自の家を作れなかったのである(p.231)」。

本書の最後の主人公は広義門院寧子(やすこ)である。彼女は南北朝時代の「正平一統」の政変の時に苦し紛れに担ぎ出された女院であるが、平安時代後期ではないので詳細は割愛する。

本書は最後に斎宮について述べている。賀茂斎院については承久の乱後に廃絶した。伊勢の斎王については鎌倉時代にも続いたが、天皇の未婚の娘という本来の形が保てなくなり、上皇の娘から選ばれることが多くなった。持明院統と大覚寺統の分裂以後は置かれないことが多くなり、南北朝時代には斎王を置くどころではなくなって、600年続いた伊勢斎王もついに廃絶した。

しかしながら、鎌倉幕府や持明院統の天皇も斎王がなくてもいいとは思っていなかったようである。むしろ斎王が廃絶したのは伊勢神宮の変質によるものかもしれない。伊勢神宮に多くの人が参詣するようになり「私幣禁断」の神社でなくなると、天皇家の権威を借りる斎宮など必要がなくなったと考えられるのである。

本書は全体として、この時代の歴史書ではあまり深くは取り上げられない女性から歴史を述べており、非常に参考になった。この時代を語ろうとすればふつうは戦乱がメインになるが、女性たちは戦には直接はかかわっていないため、宮廷から見た歴史のみが語られることになる。それは人間関係と人事の歴史だ。ややこしいが、それは歴史を動かしたのが決して戦乱の勝敗だけではないことを教えている。

ただ、強調しておかなくてはならないのは、本書はあくまで歴史書であって女性論ではないということだ。よって女院とは何か、ということは本書に随所に述べられているがテーマそのものではない。

だが私は女院自体に興味がある。よって、本書の記述を基にしながら自分なりに気になっている点について考えてみたい。まず、本書に登場する女院について表にしてみる(一部登場してない人もあるかもしれない。自分の興味に従って適宜追加した)。

東三条院―藤原氏出身、円融天皇の女御、一条天皇の母(962-1002)
上東門院―藤原氏出身、一条天皇の中宮、後一条天皇・後朱雀天皇の母(988-1074)
陽明門院―皇族、後朱雀天皇の皇后(1013-1094)
郁芳門院―藤原氏出身、伊勢斎宮、堀河天皇准母(1076-1096)
高陽院 ―藤原氏出身、鳥羽上皇の皇后(1095-1156)
待賢門院―藤原氏出身、鳥羽天皇の中宮、崇徳天皇・後白河天皇の母(1101-1145)
美福門院―藤原氏出身、鳥羽天皇の皇后、近衛天皇の母(1117-1160)
皇嘉門院―藤原氏出身、崇徳天皇の中宮、近衛天皇の准母(1122-1182)
上西門院―皇族、賀茂斎院、後白河院の准母、未婚皇后(1126-1189)
九条院 ―藤原氏出身、近衛天皇の中宮(1131-1176)
八条院 ―皇族、二条天皇の准母(1137-1211)
高松院 ―皇族、二条天皇の中宮(1141-1176)
建春門院―平氏出身、後白河天皇の女御・皇太后、高倉天皇の母(1142-1176)
殷富門院―皇族、斎宮、安徳天皇・後鳥羽天皇・順徳天皇の准母、未婚皇后(1147-1216)
建礼門院―平氏出身、高倉天皇の中宮、安徳天皇の母(1155-1214)
春華門院―皇族、順徳天皇の准母(1195-1211)
宜秋門院―九条家出身、後鳥羽天皇の中宮(1173-1129)
式乾門院―皇族、元斎王、四条天皇の准母(1197-1251)

この表は、女院を網羅したものでもなんでもないが、それにしてもまず気づくことは、女院の数の多さである。数えてはいないが、おそらく院(上皇)よりも多いと思う。なぜ女院は院よりも多いのか。それは院が天皇を経験し(ただし小一条院を除く)、天皇の父として権力を行使するという条件を満たさなければなれなかったのに対し、女院はそういう条件がなく、天皇の妻でも母でもなくても「准母」という制度を使って比較的容易になれたことが影響している。この「准母」というのもクセモノで、「准母」はあるのになぜ「准父」はないのか。もしかしたらそれだけ「母」というものが軽んじられていた証左なのかもしれない。

そして次に注目されるのは、女院第一号の東三条院が皇族ではなく、藤原氏出身であることだ。2番目の上東門院も藤原氏出身だ。3番目の陽明門院は皇族であったが、上東門院の先例によって女院号が与えられたという。つまり「女院」という制度そのものが藤原氏のためにつくられたのではないかと考えられる。そして摂関家の子女を次々と入内させるという摂関政治が行き詰まりを迎えて、広く藤原氏の子女が入内するようになると、摂関家によって外戚の権威が意図的に無力化された結果、入内した女性自身が主体的に権力を行使するようになり、その地位を追認するかのように「女院」号が活用されたのかもしれない。

やがてそれは皇女にも適用され、未婚皇女のキャリアパスとして斎王と並ぶ重要なポジションになった(上記の表では、皇族出身の女院のうち高松院以外が未婚だ)。それは、未婚皇女の待遇が不安定だったことを逆に示しているのかもしれない。女院という立場になることによってようやく安定した身分を得られたと考えられる。とすれば、女院と出家の関係を考えざるを得ない。出家は世俗とは違う身分を得ることを意味したからだ。室町時代になると未婚皇女は尼門跡という寺院に出されることが多くなる(ように思う)が、女院とは尼門跡確立以前の女性の身分形態だともみなせるのではないか。

次に、これは女院制度の本質とはかかわりないかもしれないが、その名前が興味深い。なぜ「上東門院」とか「陽明門院」のような門の名前がついているのか。これは「門のそばに住んでいたから」というような説明がなされることもあるが、明らかにそうではない。そして逆に、門の名前がついていない女院には何か意味があるのか。そのあたりが全くわからない。ちなみに平安京にあった門は大きく分けて3種類ある。外側から順に、平安京と外を区切る門(羅城門のような)、大内裏(官庁街)を囲む門、最後に内裏の門である。

というわけで、先ほどの表に、出家の情報(女院になったのは出家の前後どちらか)とどこの門(または地名)かを書き加えたものが以下である。

東三条院―出家後、京内地名?
上東門院―出家同日、大内裏東
陽明門院―出家せず、大内裏東
郁芳門院―出家せず、大内裏東
高陽院 ―出家前、京内邸宅名
待賢門院―出家前、大内裏東
美福門院―出家前?、大内裏南
皇嘉門院―出家前、大内裏南
上西門院―出家前、大内裏西
九条院 ―出家後、京内条名
八条院 ―出家後、京内条名
高松院 ―出家後、京内邸宅名(高松殿)
建春門院―出家せず、内裏東
殷富門院―出家前、大内裏西
建礼門院―出家前、内裏南
春華門院―出家せず?、内裏南東
宜秋門院―出家前、内裏東
式乾門院―出家同日、内裏北

これを見ると、高陽院(かやいん)を例外として、出家前(つまり俗人)が女院号を受ける場合は「〇〇門院」であり、出家後に女院号を受ける場合に「〇〇(地名)院」であったのではという仮説が成り立つ。また、「〇〇門院」は最初は大内裏の門から付けられていたが、やがて内裏の門からも名付けられたことがわかる。ちなみになぜか北側の門はない(偶然かも?)。

そういえば、一条天皇以降、天皇号も条名や地名に基づくものがこの時代多い。一条、白河、鳥羽、堀河、六条、四条などだ。当然これらは院号にもなった。女院号と関連があるのかどうかは不明である。

なお、女院そのものは鎌倉時代以降も存在したが、それが最も活躍したのは摂関・院政期である。本書でも「女院は摂関政治と院政を結ぶツールとして考えていかなければならないと思う(p.151)」としている。では摂関・院政期はなぜ女院を必要としたのか? それはまずは幼帝を支えるということから出発したと考えられる。

そもそもこの時代は、家族原理と政治が密接に関係していた。そんな中で、政治的な価値はあるが一族の中で宙ぶらりんの女性が「准母」などとして担ぎ出されて権力を握り、あるいは用済みになると「女院」になって引退させられることもあった。「女院」と「院」が似ているのは、天皇や皇后とは違って一度に何人存在してもよかったことだ。その意味では定員外の存在だった。つまり権力にとって「女院」は都合がよかったということになる。この時代に女性が強大な権力を握ったことも事実であるが、「女院」という存在は女性の地位を高めるというよりは、むしろ逆の作用の方が大きかったかもしれない。

それは「女院」が乱発されたことでも明らかだ。最初「〇〇門院」と名付けた人たちは、大内裏の門(14ある)が足りなくなるとは思ってもいなかったに違いない。「女院」の歴史は、「女院」の権威が解体していく歴史なのかもしれない。

女院を通じて平安後期を別角度から見る興味深い本。

【関連書籍の読書メモ】
『院政 増補版——もうひとつの天皇制』美川 圭 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/12/blog-post.html
院政の展開を述べる本。制度論は弱いが、院政の展開を総合的に学べる良書。

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2024年12月27日金曜日

『鬼無鬼島』堀田 善衛 著(『新潮日本文学47 堀田善衛集』より)

土俗化したキリシタン信仰を描いた小説。

本書の舞台となっているのは、鹿児島にある「鬼無鬼島(きぶきじま)」という架空の島である。ところが、鹿児島の人が読んでみれば、これは甑島をモデルにしていることがすぐわかる。いやそれどころか甑島そのものだ。また、「上ノ池(かみのいけ)」というもう一つの小説の舞台は、これは薩摩半島の西南端の「野間池(のまいけ)」であることもすぐわかる(野間池は池ではなくて港の名前)。

小説の冒頭では、上ノ池が神話の土地であることが説明され、野間岳をモデルとした「上ノ嶽(かみのたけ)」にはニニギノミコトとともに媽祖神が祀られていることも語られる。この辺りは、もはやモデルというより現実そのままを説明している感じだ。つまり、この小説はフィクションなのだが、地名をわざとらしく別のものにしているだけで、まるっきり現実の土地が舞台になっているのである。このほかにも現実の地名や、ちょっとアレンジされた地名が登場する事例は枚挙にいとまがない。

この物語は、「鬼無鬼島」には「クロ宗」という、隠れキリシタンが土俗化した信仰が残っている、という設定で、それに反発しつつもそこに飲み込まれそうになっている主人公の青年と、「クロ宗」の指導者「サカヤ」という立場の男との対立を軸に語られる(サカヤ=sacredであるらしく酒屋とは無関係)。この「クロ宗」というのも創作ではなく、甑島にはそういう信仰が確かに残っていたのである。

しかも、この小説では集落の様子や「クロ宗」の儀式、人々の「クロ宗」への想いなどがあまりにもリアルに描写されていた。そのために、この小説に描かれた「クロ宗」を現実のものだと錯覚する人が続出したほどだ。とりわけ、「クロ宗」では信徒集団の危機に際し、死に瀕した人の生肝を抜いて信徒が食べるという秘儀があった、という設定は強い印象を与え、甑島への風評被害までもたらしたという。

そのためなのかもしれないが、カルト的な(?)人気を誇るこの作品は昭和32年(1957)に出版されて後、一度も復刊・文庫化されていない。なお私は本書を単行本ではなく『新潮日本文学47 堀田善衛集』で読んだ(そのほか、『堀田善衛全集 3』にも収録されている)。

この小説はちょっと悪魔的な部分がある「クロ宗」への興味から手に取られることが多い(ようだ)が、作者堀田善衛が描きたかったものは、もちろんそういうことではない。

本書は、「クロ宗」を描いているようでいて、それに国家神道を重ねて語るものだと私は思う。「サカヤ」の男も、村では密かに「山ノ天皇」と呼ばれている。「クロ宗」は、国家神道のミニ版であり、村の生活すべてを規定する見えない呪力なのだ。

では、「クロ宗」の教徒である村の住人は、「サカヤ」の指導によって狂信的な行動に駆り立てられているのか。戦中の日本のように。

これが実はそうではなく、「サカヤ」の男も、「クロ宗」なるものがすっかり土俗化した迷信に陥っていることは認識しながらも、「クロ宗」を求める村の人々の無言の圧力によって「サカヤ」を演じさせられているように感じている。もちろん「サカヤ」であることは安楽な暮らしを保証するが、その心中にはどこか空疎なものがある。

一方、それに反発する主人公の青年も、「クロ宗」なんてまやかしだと思いながらも、その根底に不気味なものを感じている。それは仏教であれ神道であれ、信仰というものの淵源をたどっていけばたどり着かずにはおれない、人間社会そのものの不気味さだ。

つまり本書は、天皇制とそれを支える神話が空疎であることを批判しつつ、しかしそれを存立させている基盤は、人々の土俗的な信仰や迷信、集落の掟・しきたりといった、決して明文化されることはない暗黒の力であることを述べているのである。

そして、この物語が終戦直後を舞台にしていることと、主人公とその恋人が長崎で原子爆弾の被害を間近に見たという経験を持っていることは、さらにこの設定に陰影を与える。国家神道が原子爆弾とマッカーサーで吹き飛び、国民を支える思想はどこにもなくなってしまった、というアノミー状態(無秩序で無統制な混乱)と、それをむしろ心地よく思う若者を登場させることで、それにもかかわらず原子爆弾・マッカーサーでも吹き飛ばせなかった土俗的なしがらみを一層強調するのである。

このように、この小説は暗喩をめぐらすことで、はっきりとは書いていないながら天皇制に対して根源的な批判を加えているように見える。しかし本書のテーマは天皇制そのものではなく、それを支え、それどころかそれを改変しさえする民衆の土俗的信仰・ムラ社会なのである。それは、遠藤周作の『沈黙』(1966)において宣教師フェレイラが言う有名な台詞を思い起こさせる。「この国は沼地だ。(中略)どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。(中略)我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」というあれだ。まさにこの「クロ宗」は、キリスト教という苗がムラ社会で腐りながら生育した奇形の宗教なのだ。

このように、本書は土俗的信仰意識という暗黒の力を克明に描いたものではあるが、そういうテーマは横に置いても、小説としてめっぽう面白い。ハラハラするような展開はスピード感があり、ほとんど一気に読んでしまった。また、会話文に出てくるキツい鹿児島弁が「クロ宗」をとりまく人々の土俗的な雰囲気を強調するのに一役買っている。

小説として面白く、その含意は非常に深い。ぜひ文庫化していただきたい一冊だ。

2024年12月21日土曜日

『日本仏教史 第1巻 上世篇』辻 善之助 著(院政期抜粋)

平安後期の仏教史。

辻善之助『日本仏教史』(全10巻)は、日本仏教史の金字塔であり、戦前にまとめられたものでありながら、現在までこれを超えるものは出ていない。もちろん古い学説に基づいている部分は多く(特に顕密体制論以前であることは大きい)、読書には少し注意を要する。

また、本書は東京帝国大学の講義録を元にまとめられたものであるためか、編年的ではなく、トピック毎に章分けがされており、例えば平安時代後期の章にも奈良時代の話題が出てくる。

またその記述は羅列的かつ資料集的な部分があり、私は普段本書を事典のように使っている。だが最近、私は院政期の仏教に興味を持ち、関連する部分を通読することにした。該当部分は「第6章 平安時代後期」ではあるが、先述の通り本書では章分けは時代と完全には対応していないため、「第5章 平安時代中期」の「第4節 国民生活と仏教の融合」から(p.489以降)を読書メモの対象とする。これは本書のうちほぼ半分の分量である。

なお、本書は旧仮名遣い・旧字体が用いられており、また和暦とともに皇紀が併記されている(←とてもわかりにくい)が、本メモでの引用は新仮名遣い・新字体に改め、必要に応じ西暦を付記した。

第5章 平安時代中期

「第4節 国民生活と仏教の融合」では、平安時代には仏教が国民生活に根を下ろし、平安京では様々な仏事が貴族の生活に組み込まれたことを述べている。平安時代は遊戯が盛んだった時代だとし、仏事も一種の遊戯・遊興として貴族に受け取られていたと指摘している。

なお本節は平安時代中期についてではなく、平安時代全体について述べている(前述のとおり、本書は編年的ではない)。よって、いつから多くの仏事が修されるようになったのかは明確ではない。ここで著者は近畿地方で行われていた仏事を一年を通してまとめている。その中に後三条天皇が創建した円宗寺や堀川天皇の尊勝寺の仏事も掲載されており、院政期の内容も含まれている。

「第5節 僧侶の社会事業」では、飛鳥時代から平安末期に至るまでの僧侶の社会事業を述べている(何度もいうが、本書の記載は編年的ではないのである)。

ここでの社会事業は、(1)救済事業(弱者の保護など)、(2)温室(浴室)、すなわち風呂、(3)動物愛護、(4)交通土木事業の4つに大別される。

特に院政期の事項として注意されるのは、白河法皇の殺生禁断である。白河法皇は諸国から献上される魚貝を停止させ、また諸国において漁網を焼かせた。その数8823帖。狩猟の道を断つこと4万5300余所に及んだという。

「第6節 浄土教の発達」では、奈良時代から平安時代末期までの浄土教の展開について源信を中心に述べている。

著者は浄土教を仏教の日本化の「最も著しい例(p.549)」という。「即ち浄土教の発達は、仏教の日本的特色を帯びるようになった最も著明な現象である(同)」とする。

浄土教の普及において画期的な意味をもったのが源信の『往生要集』である。源信はこれを宋の商人周文徳に「異域に此の志あるを知らしめんと欲す」と託した。「仏教渡来後凡450年、その間に於て、我邦より仏書を彼に伝えた事は、聖徳太子の三教疏の外、往生要集あるのみである(p.554)」。さらに源信は因明論についての論述も宋に送って批評を乞うている。さらに長保5年(1003)には、天台の教義に関する27の疑問を僧寂照に託して宋の智礼法師に送った。これの返答が「唐決集」として残っているものであるが、これに源信は満足できなかった。当時の源信の学問は宋をしのいでいたということになる。「本邦仏学の隆盛、遥かに宋を凌いだ状況を見るに足るのである(p.561)」。

このように述べてから、本節では奈良時代からの浄土教の発達についてまとめている。最も浄土教が高揚したのはやはり平安時代で、源氏物語、栄花物語、紫式部日記などにも浄土教の影響が見られる。藤原道長は浄土教を忠実に実践し、一日に十何万遍もの念仏をした。なお庶民に対して浄土教を喧伝したのは空也(本書では「こうや」と読む)である。

次に、絢爛な浄土教美術を紹介し、中でも「浄土芸術に於て源信に匹敵すべきものとして、時代は稍降るが、為成がある(p.583)」という。宇治の平等院鳳凰堂の壁や扉に書いた浄土九品の図などの作者、詫磨(宅間)為成である。さらには彫刻でも定朝という天才が出た。

さらに、『往生拾因』を著した永観(ようかん)、融通念仏を称した良忍などに触れ、武士の浄土信仰や極楽願生歌(いろは47字+1字を歌の始めと終わりに置いて作った48の信仰の和歌)、後白河法皇撰の『梁塵秘抄』に見える浄土教的内容などを紹介している。

「第7節 時代の信仰」では、彌勒浄土と観音浄土の信仰を例によって飛鳥時代から遡って述べている。

まず、彌勒浄土については金峯山が彌勒出世の地であるという伝説などを紹介している。後朱雀天皇は兜率願生をなし、堀河天皇は彌勒上生を願った。そんな堀河天皇の遺髪が(天皇の希望ではなかったらしいが)高野山に納められたのは興味深い。

次に観音信仰については、平安時代には三十三観音が成立しており、また今昔物語第16巻は全40篇が観音に関する説話になっている。こちらもかなり人気があったようだ。後白河法皇の蓮華王院(三十三間堂)の千手千眼観音像一千体というのも、観音信仰がいかに盛んであったかの証左である。また観音の浄土へいくための補陀落渡海(熊野沖から出航)が考案されるなど、熊野信仰は極めて盛んになった。特に上皇等の熊野行幸は、白河上皇・鳥羽上皇・後白河上皇・後鳥羽上皇・待賢門院等に見え、院政期の一大流行であった。とりわけ後鳥羽上皇は熊野行幸を30回以上行っており、今熊野社も建立した。

「第8節 信仰の形式化」では、信仰が型にはまったり数にこだわったりするような、形式を優先するものに変容していったことを述べる。

摂関期から院政期には、仏教だけでなく政治も文化も型にはまったような形式化が進んだ。「当時の信仰は、一方に於ては、弥陀の安養浄土に生まれんことを夢見つつ、尚此の世の安穏栄華を祈る(p.620)」もので、「当時の寺院は恰も今日に於ける劇場に類する(同)」。清少納言が枕草子で「説経師は顔よき」(説経師はイケメンがいい)と言っているのはその象徴だ。

また、平安時代には仏教が世俗化した。今に残る平安時代の寺院は多くが寝殿造であり、「寺が仏法修行の場所でなくて、持仏堂の如く、住宅の一つとなったことを示す(p.622)」。「即ち寺の建立は恰も別荘を設けるようなものである(同)」。

ここで藤原氏(北家中心)が建立した寺院が述べられているが、基経―極楽寺、忠平―法性寺、師輔―法華三昧堂、兼家―法興院、道長―浄妙寺・法成寺、頼通―平等院……など、ほぼ一世代に一寺院以上を建立しているのは、改めて見てみると異常だ。それは真摯な信仰の表れではなく、「藤原氏は、代々寺を建てたが、その多くは、住宅となり別荘となった(p.630)」ためだ。事実、道長は法性寺内の阿弥陀堂で療養しそこで亡くなっている。「かようにして、此時代の信仰は、表面には殊勝気に見ゆるものもあるが、其の裏面に入って見れば、甚だ浅薄なる形式的のもので(同)」あった。

それは、阿弥陀像に五色の糸を結ぶといった入滅の作法、焼身の流行(そのはじめは熊野那智山住僧応照だという(『本朝法華験記』))、頚くくり往生、入水往生といったものにも窺える。こうしたものは、命をかけているので形式的というには憚られるが、その実は名聞のために行われたと考えられるものも多い。

さらに、院政期には「数が多ければ信仰が深い(p.644)」と考える風が生じた。その極端な例が小塔供養である。保安3年(1122)、白河法皇が法勝寺に五寸塔30万基を供養したのを嚆矢として小塔供養が盛んに行われ、追って八万四千基の小塔を供養するのが流行した。鎌倉時代の建久8年(1197)にも戦没者供養の八万四千基の塔が供養されている。また僧侶の得度も多ければ功徳を積めるという考え方になり、鳥羽天皇の譲位前の保安3年(1122)に「一万人度者」が行われたことが石清水文書に見える。さらに寺への参詣、念仏、写経(一切経や大般若経の書写)、卒塔婆(建仁2年(1202)、宜秋門院が百万本の卒塔婆を供養した)、造像(摺仏)など、あらゆるものが数の多きを恃むようになった。

仁平元年(1151)、藤原定信は自筆で一切経を写し春日社に奉納しているがが、これには23年もかかったという。また安貞2年(1228)には筑前宗像の良祐が42年かけて一切経の書写を行っている。ただ、これらは形式といえばそれまでだが、かなりの努力を必要とし、数を恃む思想とはやや違った内実も感じる。

ちなみに写経にあたってはその料紙にも非常に凝り出し、お経が芸術作品になっていった。変わったものや手が込んだものに経を書く風潮はエスカレートし、しまいには蛤に経を書くものもあらわれた(蛤経)。「かくの如く、意匠を凝らし新奇の趣向を考えた結果、初めは信仰に趣味を含めていたものの、漸く堕落の傾向をたどり、遂に玩弄的となり、道楽になり、骨董的になった(p.680)」。読経が一種の芸能となっていたのもその傾向の一つとして位置付けられよう。

「第9節 俗信仰」では、陰陽道によって迷信的な信仰が広まったことを述べる。

平安時代には陰陽道が発達し、貴族たちは迷信・占いなどに捉われるようになった。承和の頃からは「もののけ」が跋扈するようになり、承和10年(843)にはもののけを攘うための仏事が大極殿と真言院で行われた(=もののけ対応は陰陽道だけでなく仏教も動員された)。村上天皇の時代に現れた藤原元方大納言の霊が『栄花物語』に描かれているが、それによれば、村上天皇の女御であった元方の娘生は皇子を生んだが、その皇子が立太子できなかったことを恨んで死後宮中に現れたという。「かの元方の大納言の霊いみじくおどろおどろしく、いみじきけはひにて、あへてあらせたてまつるべきけしきなし(p.698)」だった。

この「霊」が具体的に何だったかはよくわからないが、ともかく当時の人は「霊」を実体として感じていた。こういうもののけを退治する「高名にして効験著しき僧侶」を「げんざ」または「げんじや(験者)」と呼ぶのだという(=修験者とは別)。そういう「げんざ」がどうしてもののけを退治するのかというと、まずもののけを誰かに憑依させ、その後祈禱などをした。このようなもののけは、「一条天皇前後、道長全盛時代を中心とし、冷泉天皇・円融天皇から三条天皇・後一条天皇・後冷泉天皇の頃までに及ぶ(p.705)」。もののけは藤原氏の権力が低下するとともに消えた。権力闘争にともなって現れたのがもののけだったのである。

「第10節 修験」は、修験道の発達について述べる。ただし辻善之助の時代にはまだ修験道について本格的に研究されていなかったために、記述は概略的である。奈良時代の役行者伝説から始まり、源氏物語や枕草子に現れた修験道的な記述を振り返り、勅撰和歌集に載せられた和歌を列挙している。

第6章 平安時代後期

「第1節 造寺興盛」では、院政期における造寺の流行と貴族社会と仏教の近接について述べる。

後三条天皇は仁和寺の近傍に円宗寺(えんそうじ)を建立した(初めの名称は円明寺)。さらに延久5年(1073)、自らの皇子である仁和寺性信親王から戒を受けて法諱「金剛行」となった。この性信親王は「密教の大徳にましまし、屡々宮中に法を説き、孔雀経法を修すること21度に及んだという。世に弘法大師の再来といわれた(p.719)」らしい。

白河天皇が建立したのは法勝寺である。これは非常に豪華な寺で、十一間四面の阿弥陀堂、丈六阿弥陀像9体などてんこ盛りである。これは道長の法成寺さえ凌ぐもので「王家の氏寺」と呼ばれた(『愚管抄』)。特に永保元年(1081)に起工した八角九重塔はつとに有名である。なおこの寺院の造営は、成功(じょうごう)によって行われた。成功とは、経済的な奉仕の代わりに官位を与えるものである。この時代の寺院は成功によるものが多い。

法勝寺に続いて、白河の地に続々と寺院ができ六勝寺となった。すなわち堀川天皇の尊勝寺、鳥羽天皇の最勝寺、崇徳天皇の成勝寺、近衛天皇の延勝寺、待賢門院の円勝寺である。その他建立された寺院堂宇の数はおびただしく、ここに掲げることは割愛する。なおその中に、永久年間(1113~18)に建立された内山永久寺が挙げられていないことが気になった。永久寺は戦前あまり注目されていなかったのだろうか。

つづいて鳥羽上皇も造寺造塔に熱心だったが、そこで大治4年(1129)に「祇園塔」なるものを供養しているのが目を引いた。祇園塔とは何だろうか。鳥羽上皇は鳥羽の地に成菩提院を造営しているが、ここに「白河院の遺骨を仁和寺香隆寺よりこの院に移し(p.737)」たというのは興味深い。またここは美福門院の御在所となった。このほか、法金剛院、得長寿院、宝荘厳院、勝光明院、安楽寿院(←五層の宝塔があった)などが造営されているが、これら4文字の名称には何か意味があるのだろうか。「〇〇寺」ではなく「〇〇〇院」になったのは、これらの寺院がそれまでの寺院とは異なるものであるという意識を感じさせる。

鳥羽法皇は鳥羽に離宮(鳥羽殿)を造営し、保元元年(1156)に崩御すると「此に葬り奉り、上に塔を建て、弥陀像を安ず(p.741)」。この近傍に平等王院・成菩提院・勝光明院・証金剛院・金剛心院等がある。

「第2節 高野山と覚鑁」では、平安時代中期に荒廃した高野山が皇室とのつながりで復興した次第を述べる。

鳥羽上皇の頃、堂塔の修営が行われたが、鳥羽上皇は高野山に行幸しており、また高野山に覚法法親王が住した。覚法法親王は白河天皇の第4皇子である。彼は法勝・尊勝両寺の検校・最勝寺長吏・仁和寺検校・円勝寺長吏・歓喜光院長吏を歴任し「高野御室」と称された。彼が行った堂塔供養のリストが掲載されているが、このリストはこの時代を象徴するものである。白河(三重塔・五重塔・三重塔)・法金剛院三重塔・鳥羽三重塔・高陽院七重塔など塔だけでもすごい数である。

このような状況で覚鑁が登場する。彼は鳥羽法皇と美福門院の帰依を受けた。ここでは覚鑁の伝記的事実が縷々述べられるが割愛する。

後に高野山では納骨が盛んになるが、ここで高野山西谷にあった菩提心院の事例は注目される。これは保元3年(1158)、八条院の御願として、美福門院が建立したものである。これに先立ち八条院は出家しており、保元元年に崩御した鳥羽法皇の菩提のために建立したのである。ここの本尊は大日如来像であるが、ここに八条院剃染の御髪を本尊胎中に納め、また、別に建立した阿弥陀堂に安置した阿弥陀如来像にも八条院の鬢髪を胎内に納めた。これはこの時代を象徴するものである。なお高野山は女人禁制であるため、美福門院自身は菩提心院に参詣できていない(!)のだが、美福門院自身も崩御後、その御骨は遺命により菩提心院に納骨された。「高野山に骨又は髪を納むる風習は、この頃より始まったもののようである(p.764)」。

「第3節 僧兵の原由」では、平安時代後期に至って僧兵が盛んになった様を述べる。

その理由は、まず寺院社会が世俗化したことが挙げられる。特に出身の家柄によって寺院社会での昇進が決定されるようになり、平安時代の半ば以降には極めて若年の者が僧綱に任じられるようになった。平安末に至っては僧綱の濫出が甚だしく、僧正が一度に五人任じられることもあった。「斯様にして、僧侶は一種の准貴族(p.773)」となった。そして寺院内に派閥が形成されて派閥の利益を優先するようになり、遂には武力に訴えることになって僧兵が出現した。…と本書は述べているが、僧侶の貴族化と僧兵の出現は直接には結びつかないように思った。やや論理の飛躍がある。

また僧兵の出現の一因に、得度の制度の紊乱もある。平安時代では、奈良時代に比べてかなり安易に得度が行われた。早くも延喜14年(714)に三善清行は「諸寺の年分及び臨時の得度者、一年内或は二三百人に及ぶ也。就中、半分以上は皆是れ邪濫の輩也(p.784)」と述べている。

なお僧兵は延暦寺の良源慈恵が始めたという説があるが、これは根拠が薄いという。良源の時に比叡山に勢いがあったので、良源を悪し様にいうものがあったらしい。だが「良源は悪僧の禁遏に努めこそしたれ、之を勧むる等のことは有るべき筈はない(p.783)」。

では僧兵たちは何を求め争ったか。それは(1)僧位僧官の叙任(座主や長吏などの不服。大衆にとって望ましくない人物が任命されたなど)、(2)荘園の問題、(3)寺院同士の権力闘争、の3つに大別できる。

僧兵たちの嗷訴ではしばしば神輿や神木が登場する。永保2年(1082)、熊野山の大衆が神輿を奉じて入洛して嗷訴したが、これが神輿入洛の始めである。これに倣って、春日神社の「神木」が興福寺僧徒によって入洛するようになった。春日神社は藤原氏の氏神であるから、こうなると藤原氏は皆謹慎して朝廷に出仕せず政治が停止する。そうして興福寺は無理な要求を通した。それでも要求が通らない時は、「放氏」した。放氏とは、興福寺の大衆が春日明神に告げて勘当する、つまり藤原氏から除名するというものだ。これは藤原氏にとって恐ろしいことだった。春日明神の神木の入洛は平安末までに8回あったという。(それにしても神木とは具体的に何を持ってきたのだろう。生えている神木を伐ったわけはないし…。)

一方、叡山の僧侶たちは日吉の神輿を舁ぎ出した。まずは嘉保2年(1095)、叡山の僧侶たちが日吉の神輿を山上中堂に遷した(神輿動座)。これは興福寺の神木に倣ったものらしい。また祇園の神輿は長治2年(1105)に入洛し、これが神輿入洛の始めである。次いで同年、日吉の神輿も入洛している(日吉の神輿は9回入洛した)。様々な勢力が要求を通すために行動がエスカレートしていった結果、神輿を入洛させるという形態になったようである。もちろん神輿を奉じない嗷訴はおびただしく、「其の主なもののみ数えて見れば、円融天皇天元4年(981)に始まり後奈良天皇天文18年(1549)に至るまで凡そ600年間に、無慮240項に及んで居る(p.795)」。

ここで本書にはその嗷訴年表が約30頁にわたって(!)掲載されている。

「第4節 悪僧神人の活動」では、寺院や僧侶が起こした様々な騒乱について述べる。

まずは延暦寺と三井寺(園城寺)の争いである。天台宗では、慈覚大師円仁の門流(延暦寺、山門)と智証大姉円珍の門流(三井寺、寺門)に分かれて争うようになった。延暦寺は三井寺を4回も焼き討ちした。

1回目は、永保元年(1081)。これはそれまで三井寺の僧侶が天台座主に任じられたり、三井戒壇建立運動などでたまった不満があったところ、小さなトラブルが発展して叡山の僧兵が三井寺を襲ったものである。この時焼けたのは、堂院79か所、経蔵15所、塔婆2基、鍾楼6宇、神社4か所、僧房621、舎宅1493であったという。この時は7分の1燃え残ったが、追って叡山の僧徒は再び三井寺を焼き討ちしてことごとく残りを焼いた。

2回目は、保安元年(1120)。この時も延暦寺が三井寺側に鳥居を建てたという些細な問題から騒動に発展し、山徒は三井寺を全焼させた。

3回目は、保延6年(1140)。この時は三井の寺主慶仁の子が山門の下僧を殺害したことがきっかけで延暦寺が三井寺を攻め、堂塔僧房一宇を残さず全焼させた。

4回目は、長寛元年(1163)。三井寺から戒壇設立を求める訴訟があり、これが延暦寺を刺激した。朝廷では延暦寺の言い分を認めて、寺門の僧侶も山門で受戒するよう定めたが、これが実現するはずがない。こんな時に興福寺から横槍が入り、そもそも比叡山は興福寺の末寺であるから、三井の僧徒が延暦寺で受戒するのを停止し、延暦寺を興福寺の末寺と認めるよう朝廷に要請した。この状況に延暦寺は三井寺を襲って焼き討ちしたのである。

なお比叡山では仲間内での争いも多く、東西の両塔がしばしば合戦している。また座主と大衆の争いも多い。座主の人事は大衆の不満のタネであり、朝廷もそれを無視できなかった。

多武峰と叡山の争いも激しい(多武峰は叡山の末寺になっていた)。興福寺と多武峰の争いもあり、興福寺は多武峰を焼き払っている。寺院同士は対立していないところがないほどである。

先述のとおり興福寺と延暦寺も激しく争った。特に天永4年(1113)の争いは 延暦寺で出家した仏師法印円勢が清水寺の別当に補されたことを興福寺が不服としたことから争いが始まり(清水寺は興福寺の末寺だった)、延暦寺側が清水寺を破壊、さらに日吉の神輿で院御所に迫った。興福寺もこれに負けず、朝廷に入洛をちらつかせて不法を訴えた。板挟みになった朝廷は各社に奉幣して鎮圧を祈った。この時に石清水に納められた鳥羽天皇の宣命案に「獅子の身中の虫の自ら獅子を食うが如し」とあるのは有名である。さらに、東寺の寛助に命じて大徳威法を修し衆徒の鎮静を祈ったが、そのようなことに効果があるはずもない。この争いはついに両寺僧徒の直接の戦いとなり、結局それを鎮圧したのは武士である。

当然ながら白河上皇はこうした騒乱を好ましく思わず、強硬に取り締まりを行おうとしたが、「取締に方針が立たず、主義が一貫せず、朝には山徒の言に聴き、夕には南都の大衆の訴を容れる(p.871)」という調子だったから、有効な対策とはならなかった。このような僧兵の動乱に備えるために武士が抬頭したのも当然であろう。

嘉応元年(1169)、後白河上皇は薙髪し、園城寺で受戒した。これは先述の三井寺4度目の焼き討ちの後である。これは当然に興福寺を刺激し、大衆が蜂起して神輿を奉じて宮城に入り、神輿を建礼門の壇上に置き去りにした。これへの朝廷の対応はまったく方針の立たないもので、山徒の要求に従ったかと思えばそれを取り消すなど、混乱を助長している。

その他、悪僧神人の起こす騒乱は枚挙にいとまがなく、ここにいちいち記すのは煩わしいほどだ。そんな中から延暦寺の学徒と堂衆の対立の事例を述べる。これは治承2年(1178)から翌年にかけて起こった騒動である。「事の起りは、釈迦堂の堂衆に来乗房義慶という者があり、その所領が越中にあったが、其所へ学徒の叡俊という者が下向して、その所領を横領した(p.912)」ことである。ここで注目されるのは、堂衆が個人で所領を持っている人がいたこと、そして学徒(学侶)がその所領を横領していることである。ともかくこれをきっかけに学徒と堂衆が集団的に対立し合戦に至った。これは、前僧正明雲を天台座主に返り咲かせることで収まった。これは、平清盛が明雲と結託して、明雲を用いて山徒を抑えたためであろうという。

頼朝の挙兵後、山門寺門ともにこれに呼応するものがあると、平清房は三井寺を攻めてほとんど皆焼き払った。さらに重衡は南都を攻めて東大寺・興福寺を焼いた。「清盛にとっては、かくの如きは一向平気であったに相違ない(p.918)」。清盛は迷信的でなく、合理的思想の持主だったのである。ここで本書は擱筆されている。

最後に、これまでメモしたことを改めて振り返り、院政期を中心とした平安時代中期以降の仏教についてまとめておきたい。

まず、この時代には浄土教が非常に発展した。そしてその信仰は華美なもの、数量が莫大なもの、芸能的なものに傾き、遊興的な要素が強くなった。造寺造塔は非常に盛んになったが、それは寺院というより邸宅の要素が強い。またそれらは菩提寺の性格を強く持ち、納骨が寺院と強く結びついた。

平安時代前期までの朝廷は天台宗(延暦寺)との関連が深く、天台座主の叙任権も朝廷が引き続き持っていた。しかし次第に延暦寺の大衆が力をつけ(おそらくは独自の荘園などの経済基盤を持っていたためだろう)、朝廷が押し付ける座主を快く思わないようになった。一方、上層僧侶である学侶は大衆とは対立していたが、それでも朝廷に従順だったとはいいがたく、比叡山は混乱を極めた。その矛先が向かったのが三井寺(園城寺)であり、些細なトラブルから4度も焼き討ちをされたのは気の毒という他ない(なにしろほぼ20年ごとに焼かれている!)。

朝廷が、ままならない比叡山(天台宗)に代わって頼りにしたのが真言宗である。東寺や高野山を頼ったのははもちろん、天皇・上皇・女院たちはこぞって真言宗の御願寺を建立した。また高野山は、納骨を勧めることによって天台宗とは全く違う方向性で発展することになった。そして真言宗と朝廷とのつながりに一役買ったのが覚法法親王という白河天皇の皇子だったのはこの時代を象徴している。貴顕の人々は組織的に出家するようになり、出家の持つ意味は全く変わった。なお出家そのものではないが、定朝が仏師として初めて法橋という僧位をもらったのも、仏教の変質を示唆している。

このように、院政期は仏教史において大きなターニングポイントであった。辻善之助は、仏教が形式化して僧侶が堕落した、というように口を極めて批判しており、それは否めないにしても、大きな変革の時代の仏教として評価できる部分も大きいように思った。ただ、辻は批判的ではあっても、この部分の記述は非常に詳細であり、奈良以前の古代仏教が意外とあっさりした書きぶりなのとは対照的である。重要な時代であるという認識であったことは間違いない。

未だに価値を失わない、院政期仏教論の嚆矢。

※通常、本ブログでは書影を掲載しているが、本書は戦中に出版されたためなのか、函にも本にも表紙にあたる部分に一文字も書いていないため書影を掲載しなかった。

【関連書籍の読書メモ】
『院政 増補版——もうひとつの天皇制』美川 圭 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/12/blog-post.html
院政の展開を述べる本。制度論は弱いが、院政の展開を総合的に学べる良書。

『平安京と中世仏教——王朝権力と都市民衆』上川 道夫 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/12/blog-post_8.html
平安時代末期の歴史を仏教史を軸として述べる本。摂関期・院政期の仏教がそれまでとは違ったものになっていったことを、様々な事例から述べる良書。

『覚鑁—内観の聖者・即身成仏の実現(構築された仏教思想)』白石 凌海 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/01/blog-post_12.html
覚鑁(かくばん)についての唯一かつハンディな貴重な評伝。

『王法と仏法—中世史の構図』黒田 俊雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/12/blog-post_10.html
仏教をキーにして中世社会を考察する論文集。「「院政期」の表象」を所収。

『寺社勢力—もう一つの中世社会』黒田 俊雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/09/blog-post_13.html
中世における寺社勢力の勃興と衰退を述べる。中世の申し子とも言える寺社勢力を通じて当時の社会の内実を考えさせる良書。

2024年12月8日日曜日

『平安京と中世仏教——王朝権力と都市民衆』上川 道夫 著

平安時代末期の歴史を仏教史を軸として述べる本。

平安時代末期、平安京は仏教都市化した。それは、この時代の仏教が次第に葬祭を担い、追善供養が貴族たちの必須の営みとなったことによる。空也が諸国修行中にたくさんの死体を集めて火葬し、念仏で追善を行ったのはその先蹤だという。延喜2年(902)の醍醐天皇は仏式で葬送されており、貴族社会では浄土思想の広まりとともに仏式の葬送が広がってきていた。

しかし、庶民はどうであったか。慶滋保胤は『日本往生極楽記』に庶民の往生伝を一つも載せていない。この時代、度重なる飢饉によって京都はしばしば餓死者の遺体で充満した。非常に厳しい暮らしを余儀なくされていた人々にとって、仏教は何の意味もなかった。これが本書を通底する視点の一つである。

元来、平安京には東寺と西寺しかなく、寺院の建立が規制されていた。内裏には真言院が設けられ、また大極殿では仏事が営まれたことを考えると、平安京では国家の仏事を大寺院に任すのではなく、直接内裏で実施するプランだったように思われる。それが摂関期には、貴族の邸宅内に仏堂が設けられるようになった(例えば藤原実資の邸宅)。

本書には982年~1143年に建立された「平安時代の邸内仏堂」が表にまとめられており、これが非常に興味深い。これは「浄土教信仰を実践する」ためであったとされ、それに付属して僧房までも持つ邸宅もあった。僧侶の在り方も律令制の時代とは変わったのである。

京内に寺院が設立されていく発端として重要なのは、「源融(みなもとの・とおる)の邸宅河原院が、10世紀末に孫の天台僧仁康によって寺とされたこと(p.39)」である。これは厳密には京外であったが、京内の六条院に接しており、これと一体のものとして捉えられていた可能性がある。

京内寺院としては、因幡堂、六角堂(初見は『御堂関白記』長和6年(1017))、壬生地蔵堂(伝承では寛弘2年(1005)開基)の3つが建立された。これらは例外的な存在であることは間違いないが、小規模とはいえ京内に寺院が建立されたことは、それまでと違った傾向として注目される。

一方、京外には11世紀の始めから寺院が乱立した。革堂(こうどう)、法興院、世尊寺、河崎観音寺、京極寺、祇陀林寺、六波羅蜜寺、法成寺などが摂関期に建立された寺院である。なおこれらの多くが京の東側にあることは何か意味があるのかもしれない。

このように、摂関期の平安京の仏教はそれまでとは明らかに異なった傾向を持っていた。それを著者は「摂関期仏教」と呼ぶ。では、どうして新しい仏教が成長してきたのか。従来、それは浄土教信仰の発展によると言われてきた。しかしその背景として著者は東アジアの仏教の動向に注目する。

北宋は仏教を媒介として周辺国を従える意図を持っていたが、日本政府は奝然が持ち帰った北宋皇帝からの国書に返信せず、事実上北宋の従属要求を拒否した。そのために、日本仏教は中国仏教から距離を置き、むしろインド仏教との直結を模索したのだという(p.56)。

なお、北宋の覇権は盤石ではなく、遼に押され気味であった。そして1004年に結ばれた澶淵の盟では実質的に遼に屈するのである。なお、日本僧が憧れたのが中国大陸の北側にある五臺山であるが、摂関期になると関心が南方にある天台山の方にシフトしてくる。これはこうした東アジア情勢に対応したものだったかもしれない。

続く院政期では、受領(ずりょう)による仏教信仰が盛んになった。受領は下級貴族であるが、任地(荘園)に赴任するにあたって、仏教をバックにつけていた。それは職務心得というべき『国務条々』(『朝野群載』所収)の最後の条に「験者(げんざ)ならびに智僧侶一両人を随身すべき事」とあるのでも知れる(p.73)。この「験者」は何を意味しているのか不明だが、任地へ僧侶を一名伴わなくてはならないというのは、支配階級の人々が仏教に何を期待したのか示しているような気がする。

寛仁3年(1019)、女真族が日本に来寇した(刀伊の入寇)。日本はこれをなんとか防衛したものの、朝廷は神事・仏事による沈静化を図った。同年、藤原道長(入寇の直前に胸部の発作に不安を抱いて出家していた)は突然として阿弥陀堂を発願し、強引に造営を始めた。翌年にはこれが無量寿院(後の法成寺)として完成している。なお、これを受領たちに造営させた、というのが面白い。荘園支配の見返りに寺院を造営させたのである。

先ほど「日本仏教は中国仏教から距離を置き」と書いたが、決して人的交流がなくなったのではない。それどころか、入宋貿易のために商人の行き来は盛んだったから、それに付随する形で私的に入宋する僧侶は多く、成尋(じょうじん)、戒覚の二人は五臺山と天台山の両方を巡礼したし、明範(みょうばん)は商人僧として遼に密航している(処罰されたらしい)。明範の弟子の範俊は北宋や遼の密教を参照して新たな修法である「如法愛染王法」を白河院のために行っている。院政期仏教では、それまでの天台宗中心から、真言密教を重視する方向となった(特に醍醐寺・随心院・勧修寺などの小野流と仁和寺を中心とする広沢流)。

12世紀には、東アジアの国際情勢は一気に流動化し、遼が金に滅ぼされ、また北宋も金に滅ぼされた(1127年)。この宋金交代が白河院の最晩年にあたる。この中国王朝の滅亡にあたって、日本こそが仏教の中心たろうとする意欲をもって、仏都平安京の建設が進められたと著者は考える。

本書には大治元年(1126)~大治4年(1129)に造営・供養された仏塔・仏像などが年表でまとめられているが(p.93~99)、その仏事・造仏・造塔の多さはちょっと異常なほどである。それらの特徴として、第1に「仏像100体」「泥塔3万7100基」など、異様な数の多さで造仏・造塔がなされていること、第2に愛染明王像・孔雀明王像・不動明王像など真言密教の造仏(←画像なのか立体なのか不明)が中心であること、第3に女院出産の祈りとして非常な頻度でそれらが行われていること(特に大治4年)、第4にそれらの造仏にあたって「等身仏」として院や女院などとの強い結びつきが想定されること、が挙げられる。

大治4年の白河院の葬儀では、そうした院政期仏教の数を恃む思想が先鋭的に示されている。この葬儀について『中右記』には「絵像5470余体、生成仏5体、丈六107体、半丈六6体、等身3050体、三尺以下2930体、堂宇、塔21基、小塔44万6630余基、金泥一切経書写、このほか秘法修善は千万壇、その数を知らず(p.100)」と記されている。これはほとんど狂信的といえる。ここまでしなければならなかったのはなぜなのか、仏教そのものの変質も当然として、そこに期待されるものが変わっていると思われるのである。

院政期仏教の具体的な様相を見るため、本書では2つの切り口を用意している。(1)嘉保2年(1095)9月24日に堀河天皇の健康回復を祈って行われた仏事と、(2)永久元年(1113)の1年間における平安京の動きである。

(1)では、①大極殿での千僧読経、②内裏清涼殿の昼御座(ひのおまし)での『大般若経』供養、③清涼殿の二間(仏間)で新写した丈六の十一面観音像の供養、④渡殿(わたどの)での読経、⑤東対代廊で経典供養(1年かけて一切経の読経を行う仏事の開始)、⑥諸寺での読経と講説、⑧五畿七道諸国ので観音供養、⑨延暦寺での千僧御読経、⑩万僧供と丈六仏五体の造立などが行われた。天皇を中心として大規模な仏教イベントが一斉に行われたのである。

(2)では、白河院政の一年を仏教中心に見ている。これは量が膨大なので気になったところのみメモする。

1月:大極殿で御斎会(ごさいえ)、真言院で後七日御修法(ごしちにちのみしほ)が行われた。大極殿でも仏事が開催されるのに、わざわざ真言院がもうけられているのは何故なのか。なお御斎会は顕教、御修法は密教の修法によるもののようだ。

2月:院御所では孔雀経法が行われたり、仁和寺の行信法親王(白河上皇子息)に愛染王法を開始させたり、内裏で陰陽道の泰山府君祭を行ったりしている。いろいろな行法・修法が総動員された。孔雀経法は月蝕による災禍を払うため、愛染王法は病気平癒を祈ったものであるらしい。

3月:堀河天皇の遺骨を仁和寺山陵(後円教寺陵)に葬った。

閏3月:東寺長者の寛助が内裏で五壇法を行った。一方、白河法皇は仁王講、仁王経法を別に行わせている。これらはいずれも国王を外敵から守護する仏事だという。延暦寺大衆が大勢下山し、祇園社の神輿を院御所の北門に運んで結集した。

4月:興福寺大衆も上洛し、興福寺大衆・延暦寺大衆と武士が戦い撃退した。彼らは白河院のやり方に不満を抱いていた。

5-6月:京では様々な場所で盛大な仏事が行われた。白河院御所では、東寺長者寛助が大北斗法を修している。北斗七星に祈る新式の祈りであるらしい。

7月:白河院の指示で貴族らの分担によって『大般若経』600巻が書写された。この時代はこういう書写が非常に多い。天永4年が永久元年に改元された。改元の理由は、天変・怪異・疾病・兵革である。法成寺で恒例の盂蘭盆会が行われた。 

8月:寛助が内裏で五壇法、孔雀経法を別日に修し、さらに院御所でも孔雀経法を行った。その褒美として寛助は東寺の国家的位置づけを引き上げる申請を行い認められた。

10ー12月:引き続き数多くの仏事や神事が行われた。東寺の灌頂会が勅会とされ、また寛助は東寺定額僧を10人加えることを求めて認められた。東寺長者寛助の政治力によって、明らかに東寺の権威が引き上げられている。 

このように、嘉保2年は1年を通して、京都で膨大な仏事・神事が行われた。そんな中でも南都北嶺(特に興福寺・延暦寺)の大衆と朝廷とは対立していること、真言宗(特に東寺)との癒着が大きくなっていること、また新しい密教修法が活用されていることは注目される。

摂関期から院政期には、京都の町並みも目に見えて変化した。それを象徴するのが仏塔の乱立である。この頃、京都をとりまく寺院の塔を百以上巡る「百塔巡礼」が流行したことはその象徴である。

10世紀後半にすでに百寺巡礼があり、これは一日か二日で京都周辺の寺院を徒歩で巡るものであった。つまり徒歩で巡れる範囲にそれだけの寺があったことになる。これが12世紀後半に向けて、さらに塔が新築ラッシュを迎える。本書には白河治政(1083〜1128年)における造塔(小塔を含む)の事例が表でまとめられており、法勝寺八角九重塔は例外としても、造塔がブームになっていたことが明瞭である。

これらの中から、木造高層建築としての塔のみを見ると、法勝寺の他、尊勝寺の東西二塔、白河泉殿の三重塔、最勝寺の塔、円勝寺の三重塔(2基)と五重塔、上加茂社の東西二塔、鳥羽の三重塔と多宝塔二基、仁和寺観音院の塔がこの時代に建設されている。

泥塔などの小塔の製作については、いちいち数えるのが煩わしいほどで、合計すれば何百万基と製作されている。

これらについて著者は、「泥塔を大量生産した目的は、白河上皇の「御息災安穏・増長宝寿」といった願いにあるという(p.151)」とし、また「造塔事業に力を注いだ白河院には、(中略)二つの意図があった。一つは自身の延命祈願である。もう一つは、I部第四章で述べたような、国際情勢を勘案した平安京の改造である(p.153)」と述べ、「塔の増築は、釈迦の遺跡を日本に据えるという意思の端的なあらわれであろう(同)」とする。確かに、銭弘俶八万四千塔の伝来など、大陸の造塔が刺激になっていることは間違いない(北宋や遼には法勝寺八角九重塔と同形の多層塔がいくつもあった)。

しかしそれにしても、造塔の異常なほどの多さはそれだけでは説明できないように思う。八角九重塔が一つでは十分でないのか。それだけの塔を造る意味はなんなのか。不思議に思った。

続いて新しい仏教を象徴するかのような秘密仏事「転法輪法」について、『覚禅鈔』に基づいて紹介している。この修法の元となる経典は中国から平安時代初期にもたらされたものであるが、この修法自体は12世紀に6回行われたことが記録に残っている。これはどうやら政敵の調伏法として行われたらしい。特に鹿ヶ谷事件のすぐ後に、後白河上皇が醍醐寺僧に命じて法住寺内裏にてこの修法を行わせているが、その実施責任者は後白河院の子、仁和寺宮守覚法親王であるというのも面白い。

この修法では、本尊を大輪明王(曼荼羅)として、転法輪筒という筒に依頼主の画像を入れ、その画像が調伏対象の「姓名」を踏みつけているようになっている。平たく言えば呪いの方法である。このような修法が最高権力者によって行われるというのは、時代の一断面として極めて興味深い。

最後に、このような新時代の仏教が民衆にどう受け取られていたのかという簡潔な考察がなされている。それを簡約すれば、豪壮な寺院の建立などは民衆にとってあまり意味はなかったが、御霊会や田楽運動を中心として、権力者の仏教とは違った形で民衆も主体的に仏教を求めていったのがこの時代である、ということである。そしてそうした民衆仏教の拠点は、地域共同体が支える里山の寺院となっていったという。

本書は全体として、摂関期から院政期の仏教を窺わせる数多くの具体的な事例が提示されており、いろいろと考えさせる。上のメモでは言及しなかったが平安京周辺の寺院の立地図なども見るだけで面白い。

ただし、院政期仏教の焦点となる院政と仏教の関わりについては、全体的にはよく分からなかった。また浄土信仰の展開において、院政期がどう位置づけられるのかについてもあまり言及されていない。どちらかというと、本書では院政と真言密教の深い繋がりを強調している。

摂関期・院政期の仏教がそれまでとは違ったものになっていったことを、様々な事例から述べる良書。

【関連書籍の読書メモ】
『院政 増補版——もうひとつの天皇制』美川 圭 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/12/blog-post.html
院政の展開を述べる本。制度論は弱いが、院政の展開を総合的に学べる良書。

2024年12月5日木曜日

『院政 増補版——もうひとつの天皇制』美川 圭 著

院政の展開を述べる本。

本書は、後三条天皇から後嵯峨院政までを中心として、院政の展開を描くものである。ただし、院政という制度がテーマではあるが、平安期末から武家政権の成立、そして両統迭立の時代までの通史を朝廷(と幕府)の人間関係を軸に語っており、制度論ではない。

私が本書を手に取ったのは、日本史の中で院政期が手薄に感じていたことと、なぜ院政期には巨大な寺院が次々と建立されたのかという疑問があったからである。そして、なぜこの時代の為政者(上皇だけでなく将軍も)は出家したのかということも前々から不思議に思っていた。それは単に極楽往生を望んでいただけだったのか、それとも制度的に出家する意味があったのかどうか。ちなみに初の法皇(出家した上皇)となったのは宇多天皇である(昌泰2年(899年))。また、上皇(太上天皇)を「院」と呼ぶことは当たり前のようであるが、よく考えてみると「院号」というものは捉えどころがない。女性も院(女院)を名乗ったし、非常に高位の人の称号のようでいて、近世には修験者なども院号で呼ぶようになるのである。どうして上皇は「院」となったのだろうか。

結論を言えば、本書はこうした疑問にはほとんど答えてくれなかった。上述のように、本書の中心は「人間関係」であるからだ。巻末の人物索引には400名もの人名が掲げられている。大量の人物が登場し、主要な登場人物に限ってみても複雑な血縁関係で結ばれ、名前も似ている人が多いので、正直なところあまり頭に入らなかった部分がある。というわけで、本書の中心である「人間関係」は今回メモから外し、院政という政治形態についてまとめてみたい。

院政の前提となるのは摂関政治である。摂関政治とは、天皇の外戚(天皇の妻の実家)が摂政や関白を務め、ミウチで行う政治である。

摂関政治においては天皇の意志よりも外戚の意志が優先され、次期天皇の人事権も外戚に左右された。この背景には、藤原道長が多くの女子をもうけて4代にわたる天皇の中宮・女御を輩出したことがある。しかしその息子頼道は娘が一人しかなく、彼女は後冷泉天皇の皇后になったものの跡継ぎを生むことはなかった。その結果、摂関政治がゆきづまり、治暦4年(1068)、宇多天皇以来170年ぶりに藤原氏を外戚としない天皇として即位したのが後三条天皇である。

後三条天皇は新たな権力基盤を創出しようと意欲的な治政を進めたが、39歳の若さで譲位する。それは、「藤原氏出身の茂子(もし)を母にもつ皇太子貞仁(白河天皇)即位のあとに、藤原氏でない源基子が生んだ実仁を東宮とし、白河のあとに即位させる(p.30)」ためだったのではないかと著者はいう。院政の核には、皇位継承問題があるというのが著者の考えである。ただし後三条天皇は譲位からほどなくして亡くなってしまったため院政と呼ぶべきものは行われなかった。

白河天皇としては、異母弟の実仁に位を譲るよりは、自分の子に譲位したい。実仁は後に疱瘡で亡くなったが、まだその弟の輔仁がいた。そこで白河天皇は、わずか8歳の善仁を皇太子として、同日に譲位してしまうのである。この白河天皇の譲位、堀河天皇の即位をもって、白河院政の開始とされる。

摂関政治が自然消滅したのは、外戚が道長の嫡流に限定されて入内(じゅだい)できる家柄の女子が少なくなり、結果として外戚家の人間も減ったからである。摂関政治は、入内できる女子さえいればいいのではなく、摂関となりうる人間はもちろん、それを支えるミウチの公卿がいる。外戚家がチームとなって天皇を支えるのが摂関政治だとすると、入内できる女子の家柄が特定されてしまうとチームが組めなくなってしまい、摂関政治ができなくなるのである。

さらに、堀河天皇が若くして死去した後、堀河天皇の摂政を務めていた藤原忠実を、白河上皇は新帝鳥羽天皇の摂政に横滑りさせた。忠実は鳥羽天皇にとって外戚ではない。外戚ではない忠実が摂政になったことで摂関を世襲する家柄=摂関家が外戚とは独立に成立していくのである。忠実の家系としては、適齢の女子をみつけて入内させるより、摂関家として摂関の地位を独占することが優先されるから、むしろ外戚家の地位が高まらない方が有り難い。上皇・天皇の側としても、外戚家に全ての実権を握られるより、摂関家の権威を立てておいて比較的自由にできるほうがやりやすかったに違いない。こうして、摂関家と天皇家の利害が対立しつつもある面で一致したことによって院政が出現するのである。

院政は、上皇が執政することと思われがちであるが、実際には上皇が行政庁(太政官)を運営するのではない。やはり国政は太政官によって担われていた。これに対する上皇の関与は「非公式」であった。例えば朝廷の人事は「任人折紙」という非公式のメモによって事実上院がにぎっていた。

院には「院庁(いんのちょう)」という機関があり、かつてはこれが太政官に代わって政権を担ったと考えられていた。しかし院庁はあくまでも家政機関で、直接国政に関わる機能は持っていなかった。ではどうして非公式に太政官に介入したかというと、院司(院庁の職員)を主従的な関係によって把握することで従前の政治機構を掌握し、また院宣という私文書の発給が活用された。

院権力の確立に与ったと考えられているのが、寺社強訴である。院政期は寺社強訴が飛躍的に増加した時期であった。寺社強訴とは、寺社の権威をもって寺社の大衆(だいしゅ)が大勢で押しかけてくるデモのような団体行動である。寺社は大荘園領主であり、国家と利益相反していたと同時に、寺社や受領などと院の結びつきが事態を複雑化していた。要するにその原因の一端は院にもあった。そこで、寺社強訴に対する裁定が院御所で審議されるようになるのである。これをきっかけに、国政に関わる問題でも院御所での公卿会議が開催されるようになった。

また、院は独自の武力も持つようになる。所謂「北面の武士」である。その代表が平氏で、彼らは武力による奉仕だけでなく、荘園の寄進、造寺・造塔などによって院にとりいった存在であった。

また、院政の成立は荘園制と深い関係がある。 荘園の集積に早く取り組んだのは藤原忠実であった。そして荘園からの物品を集積する街として宇治が整備される。宇治は平等院を中心とした碁盤の目上の町並みとなり、藤原氏の「権門都市」となっていった。

一方の王家の方は、法勝寺の造営(1075)、有名な八角九重塔(1083)が白河天皇によって行われるなど白河(京の東に隣接する地域)に天皇家の御願寺群が造営されていった。こうした御願寺群の運営は、荘園を当てにするのではなく、国家的な給付としての封戸に基づくべきだというのが白河天皇の方針であったが、国司からの封戸納入の悪化によって荘園に頼らざるを得なくなり、院近臣をはじめとする院の周囲の人々の力で広大な領域型荘園が設定されていった。

ともかく、大荘園領主として藤原氏と王家が並び立つとその利益は相反する。藤原氏による荘園の集積を好ましく思わなかった白河上皇が藤原忠実を掣肘したのが、保安元年(1120)の忠実罷免事件である。

続く鳥羽院期に特に多くの荘園を設定して数々の御願寺を造営したのが藤原家成(摂関家ではなく末茂流)である。彼は「御願寺の造営を請け負って、その荘園が新たに必要となると、自分のもつ知行国での立荘を繰り返した(p.84)」。どうも、彼は立荘の名目として御願寺を使っていたような形跡がある。

ところで、院政の本質とは関係ないが、白河法皇(娘をなくして出家していた)が生前「わが崩後、荼毘礼を行ふべからず。早く鳥羽の塔中石間に納め置くべきなり」(『長秋記』)と命じていたのは興味深い。この塔とは鳥羽殿の三重塔である。鳥羽殿とは白河上皇が遊興の場として造営した京外の離宮であったが、鳥羽院政期には寺院と御所の両方が整備されて京外へ出た初めての「後院」(譲位後の御所)となり、また白河・鳥羽・近衛の3人の墓所ともなった。

後白河天皇の擁立にあたっては、本書に興味深い考察があるが「人間関係」の話なので割愛する。「保元の乱」で崇徳上皇と後白河天皇が対立し、また摂関家も分裂して主流側が壊滅した。勝者は後白河天皇だったが、権力基盤は脆弱で「家長不在の王権(p.114)」となった。こうした状態で政界の中心となったのが、旧鳥羽院の近臣たちである。なかでも最も活躍したのが信西(藤原氏傍流の出身で、身分の壁を打ち破るために出家していた)である。

後白河天皇は二条天皇に譲位したが、これは院政にはならない。後白河天皇は鳥羽法皇の王家領荘園をまったく継承できておらず、その大半を継承していたのが美福門院(鳥羽法皇の皇后)であったため、美福門院の下で信西が王家を取り仕切っていたのである。こうなると「反信西連合」が形成されざるを得ない。そうして起こったのが「平治の乱」である。

平治の乱では信西は脱出したものの自殺、後白河上皇は事実上の幽閉状態となり、そこで彼が頼ったのが平清盛であり、その結果として清盛は後に実権を得た。

そして後白河上皇は二条天皇と決別し、旧信西邸跡を中心として十町余の敷地を囲い込み、そこにあった墓地をわざわざ立ち退かせてつくったのが法住寺殿である。これは最初から自分の墓を造るつもりであっただろうという。

一方、二条天皇は永万元年(1165)に生まれてわずか7ヶ月(数え年2歳)の順仁(のぶひと:六条天皇)に譲位するが、二条上皇はその年の内に亡くなってしまった。後白河はこの状況で平清盛の妻の妹滋子に生ませた憲仁を8歳で即位させた。高倉天皇である。8歳の天皇と5歳の上皇。院政における天皇の意味するものを象徴的に表す光景だ。こうして二条の皇統が断絶して後白河の皇統が確立した。嘉応元年(1169)、後白河は出家し法皇となった。ちなみに前年の仁安3年(1168)には、その前年に太政大臣を退いた平清盛も出家している。

やがて後白河法皇と清盛は対立し、法皇は清盛への挑発を繰り返した。その結果、清盛は軍事力で法皇近臣を排除し、法皇を鳥羽殿に幽閉した。こうして後白河院政は停止される。軍事的に政権を樹立した清盛は、高倉院政を傀儡化することによって国政を担った(なお天皇は清盛と後白河の双方にとって孫である安徳天皇)。そして諸権門から逃れて清盛が全てを取り仕切る体制として福原遷都を断行した。

ここで面白いエピソードがある。「高倉上皇の夢の中に生母建春門院があらわれて、墓所のある京を離れたことに激怒したという噂(p.157)」があったそうだ(『玉葉』)。福原で高倉上皇が衰弱したため、 「万一のことがあるならば、後白河をその代わりとして院政を復活させるしかないと清盛は考え(p.159)」たというのも興味深い。なぜそうまでして院政にこだわったのか、そこがよくわからない。安徳天皇+摂政では十分でないという意識が間違いなくあったことになる。

ともかく、高倉天皇は僅か21年の生涯を終え、清盛の傀儡とはいえ後白河院政が復活した。そして清盛が亡くなると、その子宗盛は父とは違い優柔不断で、結局後白河に政権を全面的に返上する。こうして後白河院政が名実共に復活した。

ここまでが本書の約半分で、ここからは頼朝の挙兵、鎌倉幕府の成立といった話題になる。ただし、鎌倉幕府の動きは割愛し、院政に限って簡略にメモする。

後白河は頼朝と対立したが、後白河院政は頼朝が巧妙に牽制することによって存続した。そして法皇の没後、後鳥羽天皇が建久9年(1198)に僅か4歳の土御門天皇に譲位して、ここに後鳥羽院政が開始されるのである。この後鳥羽院政が、院政のピークである。国政の実権は幕府に握られながらも、後鳥羽上皇は遊興にふけった。「この時期の後鳥羽ほど、「自由」な上皇はいないのである(p.200)」。後鳥羽上皇の文化事業は非常に重要で、『新古今和歌集』の勅撰、管弦(琵琶)などは文化を通じて貴族を組織していくという新たなタイプの王権が創出した。

承久の乱では、後鳥羽上皇は冷静な判断力を失って討幕に先走った。これは朝廷対鎌倉幕府ではなく、あくまで上皇の挙兵であり、院方は圧倒的な劣勢だった。だが上皇としては延暦寺の僧徒が味方するものと踏んだらしい。ところが延暦寺も味方せず、追討宣旨の効果もなく後鳥羽は敗退した。

乱後、異例なことに多くの公卿が処刑され、後鳥羽と順徳の両上皇は隠岐と佐賀に流された(土御門天皇は自ら希望して土佐に流された)。ここで面白いのは、後鳥羽上皇が配流に先だって出家していることである。 なぜ配流の準備として出家したのか。

さらに面白いのは、戦後体制では、後鳥羽の同母兄ですでに出家していた守貞親王が後高倉法皇として院政を行っていることである。即位した経験のない後高倉法皇を担ぎ出して院政を執らせたのはなぜなのか。著者は「そのような院を置かねばならないほど、院政という政治形態が定着していたことを示す(p.227)」というが、それはそうとしても、実務上必要だったとしか考えられない。それがどのような実務であったのか、本書からは詳らかでない。

承久の乱で変わったのは、寺社の強訴に対する主体が院から幕府に移ったことである。これが院政の大きな曲がり角だったという。さらに皇位選定権においても、承久の乱後に即位した四条天皇の場合は幕府は介入できなかったが、四条天皇がわずか12歳で亡くなると、幕府の執権北条泰時は強硬に土御門天皇の皇子邦仁を押し、これが後嵯峨天皇として即位した。その後の皇位選定権は北条氏ににぎられることになる。院政を構成する重要な要素が、寺社の強訴への対処と皇位選定権であったが、このどちらもが形無しになったのである(実際、この時期は院政が行われていない)。

さらに、寛元4年(1246)、後嵯峨天皇は在位4年で4歳の皇子に譲位し院政を開始したが、摂関の人事権までも幕府に奪われる。こうして幕府の傀儡になってしまうかに見えた院政だったが、朝幕協調の路線になってきて風向きが変わる。それは所領関係の裁判において幕府と朝廷が連携して裁定することが重要だったからである。そこで幕府と朝廷の連絡を担当する関東申次が重要になり、受理窓口である伝奏制度や院の元で合議を行う院評定制も整えられた。こうした中で、幕府は後嵯峨天皇の皇子宗尊親王を将軍として迎えるのである。このようにして、従前の非公式的かつ専制的な院政に代わって、制度化された院政が出現するのである。

文永9年(1272)に亀山天皇による親政が開始されると、「院評定制がそのまま内裏鬼間(おにのま)での議定制に継承され、議定の内容も議定衆の構成も、それまでの院評定と変わることがなかった(p.248)」。ということは、太政官を院庁が換骨奪胎し、院庁に行政機構が全て吸収されてしまったということになる。親政と院政は内容的に変わらないものになったのである。執政者が天皇であるか上皇であるかだけの違いになったということだ。

ここから本書は両統迭立について述べ、後醍醐の挙兵の経過を辿っている。さらに南北朝時代を経て、江戸時代になっても院政が行われていることを述べている。院政の最後は光格院政である。ただし、実質的な院政の最後は、足利義満が政務を指揮する体制ができた時だとしている。それから後の院政は、国政の実質を担っていないのである。

増補版で補われた「終章 院政とは何だったのか」では、院政の展開を改めて振り返って擱筆されている(本書全体の要約になっている)。

本書は全体として、院政がわかったような分からないような本である。それは、冒頭に書いたように制度論ではないからだと思う。院政を視点の中心に据えながらも歴史の展開を「人間関係」を軸に語っているので、その部分を理解するのに精一杯になってしまう。そして、院政の成立と深く関わっているのが荘園制であるが、本書では荘園制がごく簡単にしか解説されていないのも院政がわかりづらく感じる原因の一つだろう。

ただ、本書を読みながら、院政期というのが日本の歴史にとって画期的な意義を有していることが強く伝わってきた。院政期には、すでに中世社会の特質が先鋭的な形で表出しているのである。荘園制の拡大と所領紛争、武士の擡頭、寺社の変質などである。私は今まで院政期を古代から中世への中継ぎ的なものだと考えていたのだが、古代から中世へ脱皮するためのさなぎのような期間、大きな社会変動が起こった期間だと考えを改めた。

最後に、気になっていた院号について、こういう話があったのでメモしておく。 三条天皇の皇子敦明は、東宮を辞退して「小一条院」という院号が与えられている。本書ではこれは「上皇に準ずる待遇である(p.22)」としているが、院号にそういう意味があるのだろうか。院号の意味は別途追求してみたい。

制度論は弱いが、院政の展開を総合的に学べる良書。

【関連書籍の読書メモ】
『荘園—墾田永年私財法から応仁の乱まで』伊藤 俊一 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/03/blog-post.html
荘園の通史。荘園を学ぶ上での基本図書。