2023年7月5日水曜日

『徳川幕閣—武功派と官僚派の抗争』藤野 保 著

徳川幕府の草創期を、幕閣から読む本。

私は、老中、若年寄、奉行…といったような徳川幕府の統治機構が、幕末にどう崩壊していくのかに興味を持ち、そもそも幕府の機構とはどのようなものだったのかを知りたくて本書を手に取った。

だが、本書の中心は統治機構そのものというよりは、それらを担った人びとの権力闘争である。なにより、徳川幕府の草創期においては、制度があって人が任用されたのではなく、まず人があってそこに制度を作っていった。

では、その「人」はどう選抜されたか。まずは三河以来の譜代は最も重用された。秀吉から関東に転封させられた際も、有力な家臣を万石以上に封じて江戸の守りを固めているが、この際も三河譜代が優位を占めている。それら家臣団はやがて大名(万石以上)と旗本(万石以下)に分かれていった。この際に重要なことは、家康は転封を契機として、在地性の強かった家臣団と土地との結びつきを断ち切り、近世的な家臣団に編成したということである。

近世の封建制度が、中世のそれと大きく異なることは、家臣団編成という面から見れば、石高制という全国統一的な生産力・軍事力の指標があったことと、もう一つは土地との繋がりが断ちきられているということであったかもしれない。土地よりも、家康という主君に尽くすことが家臣団の存立基盤となったのだった(中世では主君はコロコロ変わる)。また家康の直系一門も幕府を支える有力基盤であった。彼らは家康から土地を与えられた、という意味では封建制であるが、それは土地というより一種の分権であって、土地は観念化されていたと見なせるかもしれない(本書にはそうは書いていないが)。

また関ヶ原の戦後処理において、豊臣系の外様大名に対しては大々的な改易・転封が行われた。没収総高は93名の632万4194石に上る。逆に40名の上級家臣を独立した大名に取り立て(譜代大名第一群)、万石以下の譜代家臣20名を追って大名に取り立てた(譜代大名第二群)。こうして慶長7年までに68名の徳川一門=親藩・譜代大名が作り出された。

慶長8年(1603)に家康は将軍になるが、この際に後陽成天皇から与えられた役職の全部は、「右大臣・征夷大将軍・源氏長者・淳和奨学両院別当」であった。源氏の棟梁としては前例に則ったものだろうが、「淳和奨学両院別当」まで律儀に(?)任じられていることが興味深い。

家康は将軍の地位にあることたった2年で秀忠に将軍職を譲る。これは下剋上の時代を終わらせ、徳川家の永久政権を天下に宣言するためであった。そのため家康は正嫡の区別を厳密にし、血の理論によって権力を継承する準備をしていた。こうして、駿府の家康と江戸の秀忠という二元政治が開始された。この二元政治は表面上は破綻しなかったが、幕閣の権力構造は複雑になった。なお家康は、譜代の家臣の他に、僧侶・学者・豪商・外国人(ウィリアム・アダムスなど)といった多様な家臣をブレーンにしていた。

こうした中でどのような権力闘争が展開されたかといえば、それは武功によって昇進したものたちと、官僚的な統治能力で抜擢されたものたちの争いであった(本書では武功派・吏僚派と表記)。当然ながら、太平の世においては武功はあまり意味をなさなかったので、武功派は徐々に排除されることになった。例えば武功派の重鎮・大久保忠隣(ただちか)は吏僚派の本多正信によって失脚させられ、改易させられた。

家康が亡くなり秀忠へ権力が移ると、幕政の中心は酒井忠世と土井利勝となった。 そして秀忠は、強力な大名統制を開始する。弟の松平忠輝の改易を皮切りに、41名の大名を改易した。さらに大名転封も強力に推し進めた。外様大名の転封は秀忠時代が最も多い。改易や転封が統制策として多用される点に、草創期の近世幕藩権力が中世のそれと大きく違うことが感じられる。また秀忠は、家康時代に重用された豪商グループを遠ざけ、譜代勢力による側近政治が行われるようになった。こうして、小姓組番頭(将軍の親衛隊長)→譜代大名→老職(後の老中)というルールが成立していった。

家光が将軍になると、酒井忠世と土井利勝は引き続き要職に留まったが、小姓として9歳から近習した松平信綱、阿部忠秋、三浦正次、13歳からの堀田正盛という幼なじみグループが側近となった。生まれながらの将軍家光は秀忠以上に大名を統制、外様大名の優遇を辞め、一門・譜代にも強権をもって臨み、49名の大名を改易した。なお、外様大名の転封が寛永年代を境に著しく減少したのは興味深い。一方、東海・畿内の譜代大名の転封・改易はさかんに行われていった。この結果、33名もの一門・譜代大名が取り立てられている。

幕閣機構については、大老・老中・若年寄といった組織が家光時代に確立し、幕閣の首脳は江戸周辺の譜代藩領に集中的に配置された。この時代は、転封が一種の人事異動のような役割になっていたようである。

ところで寛永10年、家康からのブレーン・金地院崇伝が死ぬと、寺社行政が幕閣へとうつることとなり、寛永12年に譜代大名の安藤重長、松平勝隆、堀利重の3名が寺社奉行に任命された。最初から3名任命されているのが興味深い。他、町奉行、勘定奉行が(それまであった制度を整える形で)家光の時代に整備され、三奉行の制度が確立した。さらに代官支配の仕組みについても、幕府の直轄領に統一した法令を発布し、人別帳を作成させるなど実態の把握に努め、奉行から五人組に至る一貫した支配系列が成立した。なお寛永19年(1642)の「土民仕置覚」や翌20年の「郷村御触」などこの時期に百姓支配の諸法令が立て続けに出たのは、寛永19年の大飢饉によるもので、百姓を土地に縛り付け、(農業ではない)商品作りなどを禁じて農業のみに専念させる政策が行われたためである。

また寛永年代には、徐々に貿易統制が強化され、寛永10年の第一次鎖国令(奉書船以外の日本船の海外渡航、海外在留日本人の帰国を禁じた)を皮切りに、 寛永13年の第四次鎖国令(ポルトガル人の子孫および混血児の追放、文通の禁止)によって鎖国体制に入っていった。島原の乱を経ての寛永16年には、第五次鎖国令(ポルトガル船の来貢を全面的に禁止)を発布し、鎖国体制が一応完成。こうして、貿易を担っていた豪商の力は弱まり、幕政への参与する機会もなくなった。それにより内政・外交の全てにわたって幕府権力は老中へと一本化された。

もうひとつ、寛永年代に整えられたのが参勤交代の制度。 寛永11年には譜代大名の妻子の江戸在住を定め、さらに武家諸法度の改訂によって、諸大名の自発的意志によって行われていた参勤を制度化した。またこの改訂で、幕府の軍役体系が整備された。これにより大名・旗本の石高ごとの保有兵力=家臣団数の最小規模が定められ、参勤交代も軍役の一つとして位置づけられた。参勤交代は西ヨーロッパの封建制には見られない幕藩体制独自の制度であった。

家光が48歳で病死すると、将軍は幼い家綱が継ぎ、保科正之が家綱の補佐(元老)となって、老中・若年寄たちの集団指導体制となった。しかし強い個性と指導力を持った家光の死去によって幕閣のパワーバランスが崩れた。そして、大名の改易・転封を強行してきた武断主義的な幕政への批判、旗本の困窮、牢人問題などが絡み合い、ようやくにして幕政は文治主義へと移行していくのである。その嚆矢となったのは、末期養子の制度の緩和であったが、続いて武家諸法度の改正によって、保科正之の主張により殉死が禁止され、追って大名証人制が廃止された(寛文の二大美事と呼ばれる)。

さらに寛文6年(1666)、旗本諸役人に対する役料の支給制度が創設される。それまで「幕府に対する旗本の勤務は、すべて知行・俸禄のあてがい(御恩)に対する奉公としておこなわれ、それが封建的主従関係の基本をなすもの(p.207)」であったが、この改革によって幕府はいよいよ本格的に封建官僚制になっていった。

酒井忠清が大老になる頃には(はじめて大老の名称が使われた)、幕閣の構成が完成し、またそれを担う譜代大名も特定の家に固定されていった。大名改易・転封は著しく減少して領国が固定化し、寛文4年(1664)、「寛文朱印状」が諸大名に一斉に交付された。これに応じ諸大名も地方知行から俸禄制に切り替え、初期検地に匹敵する大規模な寛文・延宝検地を実施した。こうして幕府機構と諸大名、そして身分制秩序が固定化し、全体として幕藩権力機構が確立したのだった。

このような中、農村においては百姓が二極化し、小作人が生じるようになった。幕府は地主—小作関係を認め、小作農民を分付(ぶんづけ)の形で登録・把握した。これは地主制の基点となるものだった。また代官も基盤となる土地から遊離させられ、幕府の徴税官・農政官としての代官の地位に組み替えられた。このように、農村の封建制は中世のそれとは異なる原理により始めていることが注目される。

酒井忠清の手腕には見るべきものはなかったが、幕府権力の確立によって手中にした強権によって「下馬将軍」とあだなされた。これは外様大名の池田光政によって批判され、綱吉が将軍職を継ぐと、綱吉と側近の堀田正俊は忠清に「ゆるゆる養生せよ」と申し渡し、失脚させた。ここから再び幕閣構成は見直され、新しい段階に入っていくが、ここで本書は擱筆されている。

全体を通じて、私の知りたかった徳川幕府の統治機構の内実(例えば、各組織の根拠法、所掌、定員、役料、家格など)はあまり書いていなかったが、近世幕藩権力の特質を幕閣から描くという視点は面白く読んだ。特に、大名の改易・転封の多さは幕末ばかり学んでいる身としては驚いた。草創期の幕藩権力はあきらかに中世的な封建制からはみ出ており、寛永頃には中央集権的な国家権力が完成しているように思われる。だがそれが幼将軍家綱の下で揺り戻しされ、寛文頃に近世的な封建制として再編成されるのである。

徳川幕府における幕政を担った人びとの政争を通じ近世幕藩権力の確立を描く良書。

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2023年7月2日日曜日

『近世日本の学術—実学の展開を中心に』杉本 勲

近世日本の学術の展開を、思想に注目して読み解く本。

近世の日本では、蘭学、そして洋学が勃興した。西洋の科学は大規模に受容されたのだ。西洋の科学が進んでいたのだからそれは当然だと思う人もいるかもしれないが、東アジアに限ってみても、西洋の科学をすんなりと受容したのは例外に属する。なぜ日本では西洋の科学をさほど抵抗なく受け入れることができたのか。本書では、それは受容と言うよりも、むしろ自生的な発展の先に蘭学・洋学があったと観て、その基盤に実学の展開と実学思想があったと説く。

では実学とは何か。それは「実際に役立つ学問」であるが、何が役立つのかは社会によって異なる。近世の日本では、意外なことに朱子学や陽明学も実学であると考えられていた。

第1章 東洋古代の学術の伝来」では、近世までの前提となる日本の学術史が概観される。

日本の学術はほとんど大陸に由来した。中国では学術が古代に驚くべき水準に達し、日本ではそれを受容して律令国家の組織の中に位置づけた(暦や算道、医業など)。しかし中国ではその後停滞し、訓詁的な、あるいは呪術的なものとなっていったものが多い。日本では遣唐使の廃止によって積極的な学術の移入自体がなくなり、平安時代には学術は停滞。呪術や家学になり迷信に置き換わっていった。

中国では宋時代になると朱子学の他さまざまな科学が勃興し学術が息を吹き返したが、医学以外は日本にはあまり影響を与えなかった。

第2章 近世学術の形成」では、近世の入り口までの状況が整理される。

封建社会の成立が近世の学術=実学を生みだす根本条件であった。これは意外に感じる主張である。封建社会では一子相伝的な秘伝主義によって科学技術は停滞せざるをえなかったように思うからである。しかし、近世封建社会は安定しており、しかも農業生産が飛躍的に増大し、 鉱山の開発も盛んになった。これが学術発展の土台であった。また、封建社会は基本的に人間を土地に縛り付けるが、度重なる転封によって技術の伝播が相当に行われた。

また近世の直前には南蛮の文物が盛んにもたらされ、イエズス会は宗教教育機関を設けた。ヨーロッパ人は、貿易や布教を有利に進めるために学術を利用したからである。特に天文・暦法、地理学はイエズス会の宣教使によって知識がかなり進んだ。しかしながら、イエズス会がもたらした知識は保守的なカトリック教会のものであったから、当時のヨーロッパにおける第一級のものではなかった。

先ほど社会の安定が学術発展の土台となったと書いたが、社会の安定は学術の停滞をももたらす場合がある。日本近世の場合は、戦国時代に学術発展の思想が準備されていたことが重要であった。戦国時代ではありのままの真実を見て、道理に従い、客観的・合理的に計算・判断するような精神が重要であった。この精神が近世社会において「政治権力のもとに吸収され、結集されて、専制権力に奉仕する文化に転化していった(p.85)」。特に近世初期は、「客観的な現実主義、人間本位の実力第一主義(p.86)」の、「因習打破や現実謳歌の革新的な風潮がみなぎっていた(p.87)」。

ところが家康の晩年からは新義が禁ぜられ、秘伝主義の「家元制度」が整えられ、さらにキリシタン禁制のため禁書令が出されたことで(寛永7年)、南蛮の科学の流入はストップし、学術の発達は阻害される。しかしそんな中でも、内発的な発展により、数学(和算、特に『塵劫記』は実用数学のレベルを高めた)・医学・本草学(李時珍の『本草綱目』の将来による)は発展を続けた。

第3章 近世中期の学術—実学の興隆」では、元禄〜享保期の学術の勃興が述べられる。

元禄期になると商品経済が発達して商人が豊かになり、また換金作物の導入と購入肥料の活用によって農業生産も増大した。その発展を基盤に、実学思想が展開する。その土台となったのが、江戸初期から盛んになってくる朱子学である。朱子学は「観念的なみせかけ」ではあったが一応合理主義の立場をとり、仏教の彼岸主義を否定した。さらに寛文〜元禄期には古学派が勃興する。山鹿素行や伊藤仁斎・東涯親子によって、朱子学が批判されて経験と実証を重んじた実学思想を展開するのである。さらに享保期からは、荻生徂徠が出て朱子学とは完全に決別することになる。

この時期、特に注目されるのは農学の発展である。元禄期に宮崎安貞の『農業全書』が刊行されるが、江戸期にはこれに至るまでも多くの農書が刊行されており、合理主義と実証主義によって農業技術がまとめられ、しかもそれを書物を通じて農民自身が学ぶという環境が出現した。他、鉱山技術、河川の治水技術、測量、養蚕・繊維工学といった技術・工学が発展していった。農学とともに、こうした学問・技術は必要に迫られて生まれたものであった。

一方、数学・測量・天文・暦・地理・本草・医学といった学問も発達する。

数学は関孝和によって長足の進歩を遂げたが、当時の科学が高等な数学を必要としなかったためもありその後は封建的ギルド主義になっていった。またニュートンやライプニッツが哲学者だったのに比べ、和算家は哲学な素養に欠け、体系的な論理性が十分に発達しなかった。

南蛮書の将来によって発展したのが測量。享保5年(1720)の禁書緩和令によって漢訳の西洋技術書が解禁されると、測量器具も含めて測量の技術がもたらされた。

天文・暦学は、当時の暦が実際と食い違ってきたということから修正の必要に迫られ、南蛮流天文学が導入される。渋川春海は『貞享暦書』を著し、西洋と東洋の暦を参酌し科学的な態度で改暦事業に携わったが、その後半生では科学性は後退して占侯に傾いて行った。

地理・測量については、幕府は全国支配の必要からそれを独占した。早くも正保元年(1644)に国絵図作成を命じ、諸藩から提出されたものを集大成して『日本総図』を作成。すでに高い水準に達していたが、これは秘匿されていた。約1世紀後の伊能忠敬の地図も公開はされていない。ところが世界地図は禁書になっていないのが面白いところで、世界地理の研究は西川如見、新井白石などによって進められた。

本草学は、博物学や物産学に発展。貝原益軒の『大和本草』は中国の本草学の引き写しではない、実証的な態度で記された画期的な名著。平明な国文で書かれていることも特徴である。一方幕府も丹羽正伯を重用して諸国の産物をまとめた(『庶物類纂』)。また物産会も盛んになり、諸国の貴重な薬草などが流通交換され、ありのままの自然を観察する態度が養われていった。

実学の中でもっとも早くに起こったの医学である。伊藤仁斎に影響を受け、陰陽虚実にとらわれない実学的医学を興したのが名古屋玄医。儒学における古学の勃興と古医方には密接な関連があるようだ。ついで出た後藤艮山は、医者が剃髪し僧官に任ぜられていたのを憎み、俗体にかえって髪を伸ばした。その弟子香川修庵に至って日本の実証医学の基礎が据えられた。山脇東洋は、艮山と修庵について古医方を学び、刑死死体の解剖の観察をもとに『蔵志』を記した。ここに古来の五臓六腑の説が虚説であることが暴露された。ただし、『蔵志』では実証の根拠を復古=古典においた。この段階では「せっかく基礎医学としての解剖学の門口に立ちながら、あたらしい医説(理論)を立てることができなかった(p.158)」。

第4章 近世中期の儒学と実学思想」では、上記に述べた学術に関連する、儒学の動向が再検討される。

幕府は、寛永7年(1630)に禁書令を布告した。イエズス会士が布教に役立てるために刊行した漢訳西洋学術書が、キリスト教防遏のために禁止された。幕府には西洋の学問を排斥する意思はなかったが、禁書令によってひとまず西洋の学問は下火になった。ただしオランダ学術書は禁止されていない。さらに貞享2年(1685)、思想統制の一環で検閲が強化され、天文・地理・数学などの舶来の学術書が次々と禁書になった。しかし、検閲をまぬかれた科学知識は漢書となって刊行された。西洋科学は漢学の一分野として成長していったのである。

そして享保5年(1720)、吉宗は禁書緩和令を公布。彼は西洋の文物・学術に強い興味を持っており、また貞享暦の改暦の必要から禁書を緩和したのである。これにより天文・数学・測量・世界地理等の学術書がぞくぞくと輸入された。

ところで、家康が林羅山を登用したことを契機に、幕府は朱子学を官学としていった。朱子学者は仏教を虚学としてみずからを有用な学問=実学と認識した。「格物致知(物に格って知を致す)」は、はなはだ思弁的ではあったが、一応「窮理」の原理として機能した。しかし正統派朱子学は官学化されたことによってかえって停滞し、正統派からはずれた木下順庵・新井白石・室鳩巣らの木門朱子学、山崎闇斎・浅見絅斎らの崎門学派、貝原益軒などが活躍した。特に益軒は、窮理を朱子学の理気論から離脱させ、合理主義・実証主義によって『大和本草』などを刊行した「もっとも偉大な実学思想家(p.175)」である。

そして朱子学へのアンチテーゼとして古学派が勃興。伊藤仁斎が天道と人道を截然と区別し、宇宙論と人生論を別々の領域に設定したことは注目される。古典をありのままに学ぶ態度から、訓詁学ではなく経験と実証を重んじる学問が生まれてきたことが興味深い。仁斎の子の東涯はその態度を推し進め、実学の研究に精魂を傾けた。主著『名物六帖』は一種の百科事典で、同時期に出た寺島良安の『和漢三才図会』に劣らない。

また徳川綱吉の侍医の子として生まれた荻生徂徠は、朱子学の「天地自然の道」「天人合一理論」を否定し、儒学を政治学へ限定した。これにより儒学をイデオロギーから解放し、百科全書家として様々な学術に実証的態度で取り組んだ。徂徠の弟子、太宰春台は現実に即した経済理論を提唱。現実から遊離したきらいのあった儒学が、現実の問題に取り組むようになってきていたのである。

上述の学派に属さない思想家として安藤昌益と三浦梅園がいる。とはいうものの、著者の安藤昌益への評価は極めて低く、儒学を否定しつつその枠内から踏み出すものではなかったとし、中心的な思想であるその農業観もあまりに牧歌的であった、と容赦ない。一方、三浦梅園については「前人未踏の独創家(p.195)」として極めて高い評価を与えている。梅園は徹底した懐疑精神・批判精神を持ち、過去の聖人をも相対化、思想批判の基礎を自然においていわゆる梅園三語(『玄語』『贅語』『敢語』)を著し、主観を排して客観的に実証する態度に徹した。

以上をまとめると、この時期の学術は、南蛮系学術からの影響よりも、むしろ儒学の内発的発展によって実学思想が形成されてきたと言える。朱子学自体が一種の実学を標榜していたのであるが、それのアンチテーゼである古学がより実証的態度を進め、人間から独立した客観的世界として自然界を認識したことが思想上の一つの転回であった。こうした基盤にたって、禁書緩和令や改暦事業によって封建権力が西洋の学問の輸入につとめたことで蘭学が勃興していくのである。「在来学術のある程度の水準にたっしていないところに、突然、異質でしかも数段高等な蘭学=洋学が勃興し、急速に発展することは、とうてい不可能であった(p.202)」。

第5章 蘭学の勃興と実学思想」では、蘭学勃興の入り口までが概観される。私は、本書を蘭学の展開が詳述されていると思って手に取ったのであるが、本書の対象は蘭学の形成期までである。

杉田玄白は、蘭学を『解体新書』以降の蘭学と、それまでのオランダ通詞によるオランダ研究を明確に区別しており、本書でもそれを踏襲し、後者を「通詞蘭学」と呼んでいる。

通詞蘭学では医学が最も進んでおり、本木良意の『和蘭全軀内外分合図』は、『解体新書』の80年も前に翻訳されたオランダ解剖書である。ただし、解剖学の素養のない通詞の翻訳であるから誤訳も多く、『解体新書』とは比べものにならない。それでも通詞らの長年の努力と蘭語知識の蓄積は、蘭学の形成に重要だったのは言うまでもない。

また蘭学形成に重要な役割を果たしたのが、新井白石とオランダに強い興味を持った将軍吉宗である。新井白石は『西洋紀聞』等でオランダについて記述し、おそらくはそうした情報に接した吉宗は、殖産興業のための実学奨励を企図してオランダに興味を持ち、晩年近くに野呂元丈と青木昆陽に蘭学学習の内旨を与えた。なおこの二人が、元丈は伊藤仁斎、昆陽は東涯の門人なのは面白い。

蘭学が花開いたのはいわゆる田沼時代で、幕府の強権と封建制度の弛緩によって奢侈的・開放的な社会のムードとなり、異国趣味を遠慮せずともよいような風潮が生じた。ここで登場したのが『解体新書』である。その翻訳メンバーの盟主が青木昆陽の門人の前野良沢であったが、良沢は豊前中津藩の藩医(江戸詰の侍医)であった。他にもグループメンバーは藩医が多く、桂川甫周のような幕府の奥医師もいた。『解体新書』は幕府や諸藩とは無関係の自発的な事業であったが、藩医・奥医師らが携わっていたことは、蘭学の創始が封建権力に近いところから始まったことを示唆している。 

しかし、幕府や諸藩は蘭学に対しては特に反応していない。藩医たちは目覚ましく活躍したが、封建権力は妨害もしていないが後援もしていないのである。蘭学はあくまで知識人や市井の人による民間的な学問として発展していった。

ところが化政〜天保期となると、対外危機に対処するため幕府や諸藩は西洋の軍事技術を学ぼうとし、これによって武士が蘭学へ進出してきた。ここに蘭学は医学から海防のための軍事へと転回するのである。幕府は文化8年(1811)、天文方に「蕃書和解御用」の一局を設け、蘭学は幕府公認の学術となって、徐々に蘭学の幕府独占体制がきずかれていくことになった。

ではその間の思想はいかなるものであったか。杉田玄白は「古人の説くところ皆空言にて信じ難き事のみ」とし、完全に実証主義の立場に立って西洋科学の優秀性を認めた。前野良沢も『管蠡秘言』では陰陽五行説を排撃している。蘭学者たちの実学思想は、「文明開化期の啓蒙学者の近代的実学思想と、すでに大体同様(p.236)」なものとなっていた。

また彼らは、学術書を読み解く中でヨーロッパの社会制度を知り、「教育・社会保障・交易等の諸制度が完備し、個性や人材が尊重されていること、それらの根底にある人間平等観など(p.240)」を発見したのである。特に司馬江漢はこうした社会の違いを鋭く指摘した。

また本多利明は、真の学問は西洋の窮理学=自然科学であると断じ、海運・貿易・植民地開発・海外計略・河道開削・産業奨励・物価と米価・人口・社会階級・経済段階等の多方面にわたる経済論を『経世秘策』等で次々に訴えている。本多利明においては、蘭学がもたらした新しい世界観が、社会学的な面にまで応用されていることが見て取れるのである。

そして山片蟠桃は、朱子学の中井竹山・履軒兄弟に懐徳堂で学び、麻田剛立に天文・暦・地理を学んでおり、当時としては最高の蘭学知識を習得した人物。彼が断固とした自信を持って地動説を支持している一方、朱子学的宇宙観としての天の観念も共存していることは興味深い。彼は朱子学の格物窮理が、西洋の合理主義・実証主義につらなりうると考えていたようだ。彼は、無神論や市場価格形成理論、経済面の自由競争の擁護など、ほとんど近代的といっていい思想を主著『夢ノ代』で展開するのであるが、その本質においては封建的儒教色を残している。

本書が山片蟠桃で終わっていることはやや唐突の観があるが、それは著者の狙いが「鎖国体制下の自生的な実学の形成とその延長としての蘭学の創始(p.258)」にあるからで、ひとまず18世紀末ごろまでを記述の範囲としているわけである。

「自生的な実学の形成」に重要な基盤を提供したのが、朱子学とそのアンチテーゼである古学派であったということが本書によって蒙を啓かれたところで、思えばヨーロッパでも科学思想を育んだのはスコラ哲学=神学であった。しかしスコラ哲学は同時に科学思想を阻害するものであったごとく、朱子学もその思弁性から、近世科学の限界を定めた面がある。本書の掉尾を飾る山片蟠桃においてその限界が指摘されているのは示唆的である。

一方、古学派についてはその研究態度が実証的であったことから、かなりの程度懐疑主義を推し進めた。蘭学の源流の野呂元丈と青木昆陽が両方古学派出身というのは鋭い指摘である。

ところで、こうした大きな思想的転回があった時期に、ただの一人も僧侶がこの動向に関与していないということは気になった。近世仏教は総じて停滞しているとされてきたが、少なくとも学術面において、ほとんど存在感がないのは事実である。それはなぜなのか改めて興味が湧いた。

なお本書には、参考文献一覧と関係略年表が附属しており、これが非常に参考になる。

近世学術と儒学の関係を解き明かした労作。

【関連書籍の読書メモ】
『江戸の科学者—西洋に挑んだ異才列伝』新戸 雅章 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/05/blog-post_18.html
江戸時代の科学者11人を紹介する本。気軽に読める江戸時代の科学人物誌。

『江戸人物科学史—「もう一つの文明開化」を訪ねて』金子 務 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/06/blog-post.html
江戸時代の科学者36人を取り上げた本。

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2023年6月25日日曜日

『江戸人物科学史—「もう一つの文明開化」を訪ねて』金子 務 著

江戸時代の科学者36人を取り上げた本。

この本は、単に江戸時代の科学者を紹介するのではなく、その人物の生誕地など縁の場所に行く紀行文のパートがあってから、生涯を簡潔にまとめたものである。著者のねらいは「彼らに興味が湧いたらぜひ実際にゆかりの場所を訪ねてほしい」というものだ。紀行文の部分は、その場所の土地勘がないとちょっとわかりにくく「旅行案内」としては物足りないが、「その人物が、縁の土地でどう評価され、どう顕彰されているのか」を感じさせるものともなっている。

ただし、紀行文がいちいち挿入されるため生涯の紹介が編年的でないのは整理に苦労する。また「科学史」を銘打っているが、科学の発展を辿るものではないから「人物誌」と呼ぶ方がよいと思う。

私は、先日読んだ新戸雅章『江戸の科学者—西洋に挑んだ異才列伝』と同様、江戸の科学者の身分に興味があって本書を手に取った。『江戸の科学者』は11人しか取り上げられていないから、もうちょっと事例を知りたくなったのだ。

いつもの読書メモとはちょっと形式が違うが、江戸開幕から幕末に至る36人の生涯を、身分・勉強・業績のみに注目して下に簡単にまとめた。これはなかなか大変な作業だった。

さて、本書に基づけば、科学・工学的知識は概ね身分上昇に役立っていると言える。

特に江戸初期では、角倉了以・玉川兄弟・河村瑞賢は町人から苗字帯刀を許され、シドッチも士分になっている。江戸中期になっても、丹羽正伯や青木昆陽は町人から士分に取り立てられ、扶持を与えられた。

しかし江戸中期から幕末には、町人は士分に移動せず、町人のまま科学・工学を研究している場合が多い。これは、いろいろやっかいごとが多い武士よりも、町人の方がお金もあり、自由であったためと思われる。なお幕末における町人出身は田中久重しか取り上げられていない。おそらく、幕末では科学・工学が外圧に対抗するために実学として必要になり、武士が学ぶようになったことが影響しているのだろう。江戸中期では科学・工学は実学というより芸能であった。

一方、科学的知識によって弾圧された(身分が剥奪された)人物は、本書には出てこない。唯一、林子平の場合がそれに当たるかもしれないが、科学の内容が問題視されたのではなく、武備を訴えるという政治的な活動が処罰の理由である。蛮社の獄で処罰された渡辺崋山や高野長英の場合も、科学の内容が理由ではない。

西洋では、ジョルダーノ・ブルーノやガリレオのように科学的知識の発表で教会から処分されたものもおり、またダーウィンの進化論が神学との矛盾によって大きな問題が起こるなど、科学は神学と相克しながら発展した。しかし日本では、例えば仏教の須弥山説と実際の世界地図には大きな乖離があったのだが、これは深刻に受け取られていないようだ。日本人は科学的世界観と旧来の世界観との齟齬に鈍感であったのかもしれない。少なくとも、仏教勢力は新しい科学知識と対決していない。

また、西洋では科学者がキリスト教神学者でもあったケースが多く、例えばパスカルは神学者でもあったし、ファラデーは教会でも働いていた。ところが日本でも、仏教の寺院は知識人が集まる場でもあったが、僧侶は全くと言ってよいほど科学の発展には寄与しておらず、本書にも僧侶は一人も登場しない。僧侶は科学を敵視してはいなかったが、興味も持っていなかったということなのだろうか。科学史における僧侶の存在感のなさには興味が湧いた。ただし隠居後に剃髪した人や僧位を持つ医師を僧侶とみなせば、僧侶にも科学者はいる。

それから、本書には藩主クラスでの科学研究は土井利位しか取り上げられていないが、科学に興味があった藩主はもっと多いと思われる(例えば薩摩藩では島津重豪の例が想起される)。藩主クラスで科学はどう受容されたのかは興味深い。

本書を読んでも、近世における科学史の全体像は摑めない。どうやら近世科学史はまだまとまった一般向け著作がないようだ。出版を待ちたい。

第1章 江戸前期

角倉了以(りょうい):商人・医師の分家の嫡男→[川の開削事業]→幕府に重用された

千々石ミゲル地方城主の四男(千々石直員(なおかず))の子→天正少年使節団の一員→[『天正遣欧使節記』で科学的世界観を解説]→イエズス会脱会→大村藩で知行600石を受ける武士→後半生は不明

玉川兄弟町人?→[玉川上水の開削]→上水完成後、苗字帯刀を許され、永代の玉川上水役に

河村瑞賢:先祖は武士とする百姓→土木工事現場の人夫→漬物屋→人足集めの普請請負人→[沼田用水路開削]→海運業の元締め[奥羽海運を開く]→苗字帯刀を許される?→出家後[淀川治水]

西川如見:有力町人(貿易商)の子→[儒学を学び、天文・歴算を研究]→[地理学を研究](『天文義論』『日本水土考』『町人嚢』『百姓囊』など多数出版)

シドッチ:カトリックのイタリア人宣教使→[ルソン島で日本語を学ぶ]→日本に潜入→(新井白石が尋問し『西洋紀聞』『采覧異言』にまとめる)→二十五両五人扶持の待遇なるも切支丹屋敷に幽閉され5年で死去

第2章 江戸中期

丹羽正伯:医師鎌田氏(母方の姓が丹羽)の子(町人)→町医者→[稲生若水に指示し、本草学・薬草の研究]→幕府の後援のもと薬種調査→幕府医官(三十人扶持)、薬園地を与えられる→[幕府の事業として諸国産物調査](『庶物類纂』全千巻を完成)

青木昆陽魚問屋の子→伊藤東涯の門に入る→加藤枝直の給地内に私塾を開く(同給地内に賀茂真淵も一時期住んでいた)→枝直は大岡越前守忠相(ただすけ)に昆陽を推挙、その仕官論文として[『蕃薯考』を書く]→享保の大飢饉で吉宗にも認められ[蘭学を学ぶ]→御書物御用達などに従事、前野良沢らを育てる。

建部清庵一関藩の十五人扶持の藩医の子→[藩費で江戸遊学]→俸禄100石の藩医→[飢饉を受け『民間備荒録』を刊行]→[杉田玄白との問答『和蘭医事問答』を叙述](息子たちを玄白に弟子入りさせ、四男を杉田家の養子にした)

三浦梅園医家に生まれる(身分不明)→藩侯侍読の綾部絅斎に[儒学を学ぶ]→天地の条理を実証主義によって探る道を得、[『玄語』『贅語』『敢語』をまとめた]→三度諸藩から招聘を受け、三度断った

前野良沢筑前藩士の子→伯父の医師宮田全沢に養われ→中津藩医で食禄300石の前野家を継ぐ→青木昆陽に入門→[『解体新書』翻訳の盟主となり、オランダ語を習得]→中津藩主奥平昌高は良沢を庇護したが、弟子も取らず貧窮の晩年を送った。

小野蘭山:父は下級官人(地下)→稲生若水の高弟・松岡恕庵に師事→[本草学を学ぶ]→仕官せず家塾を開く[主著『本草綱目啓蒙』48巻]門人は千人を超えた→晩年、幕府の招聘に応じ江戸出仕、位は医師並・寄合小普請並→5度にわたる採薬旅行をした。

木村蒹葭堂造り酒屋に生まれた→松岡恕庵の門人・津島恒之進に入門[本草学を学ぶ]→物産学を進め、小野蘭山に入門→画筆を揮い、博物学の挿絵を書く。奇書・器物・標本など厖大なコレクションを集めた

林 子平:小納戸衆兼書物奉行をつとめた下級旗本の次男→父が旗本仲間を傷つけ除籍→叔父の町医者林通明に養われる→姉が仙台藩主の側室となり、仙台藩士に。ただし部屋住→各地(長崎・蝦夷・江戸)を遊学→[朝鮮・琉球・蝦夷の位置関係を『三国通覧図説』にまとめた]→武備を訴えた『海国兵談』全16巻で外国襲来を煽ったとされ、江戸で入牢→本藩禁固となり病没

第3章 江戸後期

司馬江漢:江戸に生まれる(身分不明)→狩野派と鈴木春信に画を学んだ→平賀源内の西洋画を知り[銅版画に取り組む]→[洋画研究]のため長崎旅行→[窮理・天文・地理学に傾斜]→[日本初の銅版世界地図を製作]→[『刻白爾天文図解』等で地動説を説いた]

山片蟠桃木綿屋に生まれる→升屋別家の養子となる→升屋本家で奉公→懐徳堂に通い、中井竹山の弟子になる→升屋本家の支配番頭となる→仙台藩の財政建て直しに一役買う→[『夢ノ記』で合理的宇宙観と無神論を述べた]

小野田直武下級藩士の次男(兄は夭折、事実上の長男)→幼くして画才を発揮→江戸で平賀源内に会い、指導を受ける→藩から源内付の「産物他所取次役」を命じられる→[『解体新書』の挿絵を杉田玄白から頼まれる]→[蘭画に取り組む]→司馬江漢に影響を与える→帰藩し「御小姓並」になる。しかし画に打ち込んで普通の仕事はしなかった→「国元遠慮」を申しつけられ謹慎中に死去。

間 重富質屋の子(六男だったが兄たちが病没して家を継ぐことになる)→麻田剛立に入門し[天文観測・理論を学ぶ]→高橋至時と共に改暦事業に抜擢され「天文方」に、土御門家と協力→伊能忠敬を指導→寛政の改暦の功により苗字帯刀を許される

大槻玄沢オランダ流外科の玄梁の子→父が一関藩医となる→[父子ともに建部清庵の弟子]→杉田玄白に入門→オランダ語を教えてくれなかったので、前野良沢の押しかけ弟子に→長崎遊学、本木良永に一時学ぶ→仙台藩並医師に→[『重訂解体新書』、オランダ後入門書『蘭学階梯』など多数の著作を手がける]→幕府の天文方蕃書和解御用に登用される→[『厚生新編』を手がける]

稲村三伯:町医者の三男→藩医稲村三杏に入門[徂徠学と古医方を学ぶ]→稲村家養子に、四十俵五人扶持の跡目を相続→医学修行で京都へ→江戸へ遊学し大槻玄沢の弟子に→玄沢の弟子らの協力で(特に石井庄助の訳により)[蘭日辞書『波留麻和解(江戸ハルマ)』を出版]→実弟の借金問題で隠遁(家財を藩に返上)→密かに蘭学塾・医業を開いた。

鈴木牧之縮緬業者・質屋の旧家に生まれる→14歳で画家に手ほどきを受ける→一時江戸に出て書家に入門→家業に勤しみつつ、余暇で文化人と交流→雪の結晶の図譜である『北越雪譜』を山東京伝と組んで出版

帆足万里日出藩士の三男→三浦梅園の弟子に入門→懐徳堂の中井竹山に学ぶ→藩主より儒員に任じられ七人扶持(藩邸に塾を設け教える)→藩の家老となり財政改革にあたったがうまくいかず3年で辞職→[儒学と実学の調和を目指した。『東潜夫論』]→オランダ語を自習→[科学理解の集大成『窮理通』]

国友一貫斎鉄砲鍛冶年寄脇の家に生まれる→様々な発明品を手がける→[空気銃、反射望遠鏡を開発]→[太陽黒点を観測]

土井利位(としつら): 刈谷藩の藩主の四男→本家の養子に→朱子学・漢学・画を学ぶ→古閑藩主に→京都所司代・海防掛老中など歴任→激務の中で家老鷹見泉石の学問的サポートを受けつつ、[顕微鏡で雪の結晶を観察、『雪華図説』『続雪華図説』にまとめる]

第4章 幕末期

渡辺崋山:田原藩の江戸詰の上士の長男→[朱子学・陽明学を学び画家を志す]→家老職・海岸掛→蘭学を学ぶ→[『外国事情書』などで物理(窮理)学を重視]、洋式船建造を訴える→画業専念のために退役願いを出すが不受理→蛮社の獄で幽囚の身に→画業・画論に専念→自決

宇田川榕庵:大垣藩侍医の長男→宇田川玄真に蘭学を学び養子に→[植物学を学び『植学啓原』を刊行]→[化学書『舎密開宗』(未完)]、多数の植物学・化学用語を定着させた。

箕作阮甫津山藩医の第三子→家督を継ぎ七人扶持→[宇田川玄真に蘭方医を学ぶ]→江戸詰となり江戸で開業→[『泰西名医彙講』を皮切りに洋学に関する著訳書多数]→島津斉彬の依頼で書いた[『水蒸気船説略』は蒸気船技術書の基本に]→蛮社の獄後に、幕府の蕃書翻訳方に登用される→ペリーの国書を読む→蕃書調所を立ち上げ、後、洋書調所に改称され幕臣となった。

田中久重鼈甲細工屋の長男→からくり技術で名を上げる「からくり儀右衛門」→[万年自鳴鐘製作]→[佐賀藩に招かれ精錬方へ、蒸気船「凌風丸」建造、大砲製造]→佐賀藩と久留米藩に半年ずつ赴任するようになった→久留米で製造所を設立。

江川坦庵(英龍): 韮山代官を世襲する家の次男→兄の早世で代官を継ぐ→名代官として活躍→大砲鋳造のための反射炉を建設、台場を建設→渡辺崋山や佐久間象山と親交。

高野長英下級武士の三男→杉田玄白の弟子高野玄斎の養子→[蘭学・漢学を学び江戸遊学]→按摩をするなど苦学しつつ[オランダ語を習得]→長崎遊学→江戸で開塾、[『西説医原枢要』など多数の著訳書]→尚歯会に渡辺崋山らと参加、幕政批判書『夢物語』で蛮社の獄に遭う→逃亡し、捕吏に襲われ自刃。

プチャーチン:プチャーチン率いるロシア軍艦ディアナ号が下田沖に沈没→川路聖謨らは代船建造を決定→プチャーチンの協力の下、国産洋式帆船が製造された。

川本幸民:摂津三田藩医の三男→[漢方医の塾で学ぶ]→[坪井信道の門へ]→三田藩医となり江戸で開業→刃傷沙汰で藩邸に幽閉・その後5年間の蟄居生活→坪井信道とともに蘭方医として活躍→島津斉彬の知遇を得、薩摩藩御内用を兼ねた→蕃書調所教授手伝、開成所の教授(その間、薩摩藩籍で六人扶持)→[翻訳だけでなく自ら実験も行い、『気海観瀾広義』『化学新書』などをまとめた]

本木昌造:長崎のオランダ通詞の名門本木家の養子→海軍伝習所伝習掛(海軍伝習所の講義はオランダ語で行われた)→活字板摺立所取扱掛(洋書の印刷)→ウィリアム・ガンブルを招聘、活版伝習所設立→[鋳造活字に成功、新町活版所を創業]

小栗上野介上級武士の嫡男→[安積艮斎に漢学を学ぶ]→日米修好通商条約批准書交換の使節として米国訪問→軍艦奉行→[横須賀製鉄所・フランス式陸軍伝習所・フランス語学校の設立]→幕末の動乱では主戦論を唱え、戊辰戦争後、斬罪に処された。

橋本左内:福井藩の奥医師の家の長男(父は西洋式医療を学び二十五石五人扶持)→儒学を学ぶ→緒方洪庵の適塾に入門→父の死後家督を継ぐ→江戸遊学→坪井信良に入門→福井に帰郷、医員を免じ御書院番に登用される→藩校で西洋の長所を取り入れる改革→安政の大獄で処刑

上野彦馬:父は長崎奉行御時計師(母は唐通事の娘)、事実上の長男→広瀬淡窓の咸宜園に入門→オランダ語を学び、ポンペについて化学を学ぶ→[写真術の研究]→津の藩校で化学とオランダ語を教える→長崎で上野撮影局を開業(営業写真師第一号)、写真師として活躍

【関連書籍の読書メモ】
『江戸の科学者—西洋に挑んだ異才列伝』新戸 雅章 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/05/blog-post_18.html
江戸時代の科学者11人を紹介する本。気軽に読める江戸時代の科学人物誌。

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2023年5月20日土曜日

『島地黙雷—「政教分離をもたらした僧侶」』山口 輝臣 著

島地黙雷の簡潔な評伝。

島地黙雷は、明治時代に活躍した真宗本願寺派(西本願寺)の僧侶で、明治5〜10年ほどを「黙雷の時代」と呼ぶほど、目覚ましく活躍した。しかし彼は宗教者として傑出していたというより、それは政治的な活躍であった。そのハイライトが本書の副題となっている「政教分離」をもたらしたこと、言い換えれば、「明治というあらたな時代のなかに仏教を位置づけた(p.3)」ことである。本書はその点を中心に、黙雷の人生をコンパクトにまとめている。

黙雷は天保9年(1838)、長州藩=周防国(現山口県周南市垰)の本願寺派の専照寺に四男として生まれた。彼は20歳の頃、友人たちと出奔し九州に赴き、肥後山鹿の光照寺原口針水について学んだ。文久元年(1861)に帰郷。長州藩が戦時体制に突入していった頃である。長州の真宗僧侶は「金剛隊」を結成。大洲鉄然ら多くの僧侶も「諸隊」へ参加。西本願寺は勤王の立場を明確にしており、軍事行動へ積極的だった。黙雷はこうした動きに距離を置いていたが慶応元年(1865)に僧兵となった。そして徐々に政治的な活動に足を突っ込んでいく。

彼は鳥羽伏見の戦いを口実に上京し、本山へ建議を提出した。本山の改革が必要との内容である。その際、長髪に帯剣して睨みをきかしたという。なぜ長髪・帯剣なのか、非常に興味深い。そしてその建議は採用され、改革案の実行に携わることになった。

明治3年(1870)、法主大谷光沢(広如)により4か条の諮問があった。(1)宗門改の廃止、(2)葬儀の動揺、(3)寺院の廃合、(4)布教についてである。これに黙雷と鉄然が答申を取りまとめたが、(1)必要なし、(2)葬儀に固執する必要なし、(3)やむをえない、とし(4)の布教こそ寺院の存在意義として必要とした。神仏分離令をはじめとする仏教への逆風の中、仏教にとって必要なものは何かという鋭い問いが突き付けられ、仏教の本質、核とは何かが考究された。それに対する黙雷の答えは「教」だったのである。そしてこの8月、黙雷と鉄然は本山から東京出仕を命じられる。以後、黙雷は、本願寺を代表して活動することになる。

東京で彼らは寺院専任の官庁を設けるべく運動し、10月、民部省に寺院寮が設けられた。彼らの運動はいきなり国レベルの政策に影響を与えたのである。それには、彼らが長州閥の政治家とつながりがあったという事情がある。特に木戸孝允との関係が深かった。

この頃の宗教政策における最大の課題は、キリスト教対策である。キリスト教の解禁はやむなしと見られたため、それに対抗するための方策が必要だった。黙雷はキリスト教を「妖教」扱いし、神仏儒教を一元的に管轄する官庁を設けて、それぞれが「教」を説いて「妖教」に対抗すべしという建白を行った。彼は木戸孝允に働きかけ、新聞という新たなメディアも使って運動。これを受け、教部省が設立されることとなった。そして神仏儒が共同して大教院を中心に「三条の教則」という原則の下で国民教化運動に取り組むのである。

一方、黙雷は法主大谷光尊の海外視察を構想。木戸も法主の岩倉使節団への同行を慫慂した。光尊も同意したが、宗門の事情で梅上沢融を代理として派遣することとなり、黙雷も一向に加わった(梅上沢融、島地黙雷、赤松連城、堀川教阿、光田為然)。なお東本願寺では次期法主の大谷光瑩ら5人が欧州を巡回している。

黙雷は海外を視察し、「敵」であるキリスト教を深く知って「宗教」の概念を受け入れた。開化の頂点に位置する西洋では、「宗教」がグローバル・スタンダードだった。儒教とか神道は「宗教」ではなかった。日本で「宗教」であるのは仏教だけで、しかも真宗はその中でも最も一神教的な教えだったから、「宗教」の概念は黙雷の大きな武器になった。ところが、西洋を基準に考えるならキリスト教は邪教ではありえない。むしろ文明のためにはキリスト教を受容することが適当という理屈も成り立つ。

これに対し、黙雷は「宗教と文明は関係ない」というロジックで対抗。西洋の文明はあくまでも学術のおかげだというのだ。だがそれなら、宗教の重要性は高くないということになる。黙雷はそれでもよいと考え、むしろ国家とは離れた領域で自由に布教することの方を選んだ。また海外視察では、木戸との関係がさらに緊密化したことも成果であった。

黙雷は、早速、教部省=大教院体制に戦いを挑んだ。その要点は、(1)大教院は神仏分離に反する、(2)「三条の教則」があっては本来の教えが説けずキリスト教へ対抗できない、(3)そもそも大教院体制は、政治と宗教がごっちゃになっている、というようなものだ。さらに黙雷帰国後の明治6年(1873)、キリシタン禁制の高札が除去された。はっきりとキリスト教が公許されたわけではなかったが、明確な禁止でもなくなった。よってキリスト教に対抗するための、より実効的な枠組みが求められた。

黙雷は教部省批判の意見書を提出し、それは木戸にも理解された。また教部大輔の宍戸璣(たまき)はこれに応え、三島通庸ら薩摩系の勢力を排除していった。しかし教部省批判には真宗以外の仏教諸派が賛同せず、黙雷は真宗(東西本願寺)をまとめて、真宗を大教院から離脱させてもらえるよう教部省に上申した。大教院は布教の足かせになっているから離脱したいというものだった。ここでも黙雷は新聞に寄稿し、また自ら『報四叢談』という自前の雑誌も立ち上げて健筆をふるった。

その結果、真宗の離脱は認められる方向になったが、興正寺の華園摂信が本願寺から独立することを申し出る。自分たちは本願寺から独立して大教院に残ろうというのだ。これで議論がややこしくなってしまった。政府は宗門内の対立を仲裁しなければならないことに嫌気がさし、明治8年には大教院を解散させた。「大教院などさして役に立っていないのだから(p.69)」、なくしてしまえばよかったのだ。黙雷はここぞとばかり、「神仏混淆を禁じた維新の大義に反する(p.70)」として次に教部省廃止を訴えた。そして明治10年(1877)に教部省は廃止された。一応の「政教分離」の達成であった。黙雷が国につきつけた要望は、そのほとんどが実現した。

しかしながら、「政教分離」が達成された後の黙雷には、困難が待ち受けていた。黙雷の著作『念仏往生義』などが「黙雷は自力を説いている」として批判され、異安心(いあんじん=異端)の疑いをもたれた。異安心ではないと審判は出たものの、その審判は法主ではなく大洲鉄然や赤松連城が担当したため、光尊は不満を抱いて黙雷の役職を解任、東京での布教活動を中止させた。さらに光尊は北畠道龍を起用して本山改革を行い(長州系僧侶は排除された)、これによって本願寺は東京と京都に分裂。内紛は泥沼になった。最終的には右大臣岩倉具視が「華族の体面を汚さぬように」と光尊を説得して分裂は収束した。

結果、喧嘩両成敗として、黙雷を含む本願寺における長州閥僧侶は弱体化した。しかし明治中頃には黙雷は要職へ復帰し、明治26年(1893)に執行長、翌年は勧学へのぼった。本願寺の学階の最高位である。なお明治23年(1890)には、仏教各宗協会で、『仏教各宗綱要』の編集長を務めている。

こうした経歴のため黙雷は自坊を持っていなかったが、「白蓮会」という会員組織を育てた(明治8年設立)。この会を母体に女子文芸学舎(→現在の千代田女学園)も開校している。また明治12年(1879)には大内青巒らと共同で護法にあたる「和敬会」を、明治16年(1883)にはキリスト教に対抗するための結社「令知会」も設立。黙雷はキリスト教への敵愾心を失ってはいなかったが、キリスト教は政策担当者たちが懸念したように爆発的に広がることはなく、「キリスト教への対抗」との存在理由は希薄化していった。

この他、監獄教誨や免囚保護にも取り組み、仏前結婚式を考案し実施してもいる。また従軍布教にも積極的で、「喜び勇んで栄えある行為に邁進するよう勧め」た。彼は政教分離を進めたが、意外なことに、同時に国家主義者でもあった。

こうした黙雷をめげさせたのが、息子雷夢(らいむ)がキリスト教に受洗したことだった。雷夢は黙雷の秘蔵っ子、跡継ぎとして育てられたが、宗教上の疑問に苦しみ、パブテストの教会で洗礼を受けたのだ。黙雷は「一緒に刺し違える」とまで告げたが息子は自らの道を進み、36歳で早死にした。また黙雷の生家専照寺を継がせる予定だった黙爾は、大谷探検隊に参加し、明治36年(1903)、ベナレスで客死した。

息子達の死は黙雷を意気消沈させたが、黙雷は盛岡の願教寺に入り、東北布教に取り組んだ(奥羽教総監)。これは僻地に引っ込んだのではなく、盛岡を拠点として引き続き活発に活動し、満州にまで渡ったが、明治44年(1911)、74歳で亡くなった。葬儀には僧俗5000余人が参加したという。

黙雷は、生涯キリスト教を敵とし、国家からは独立して自由に布教に邁進することが仏教の核だと主張した。ところが政教分離が実現し、自由に布教する体制ができても、それほどの成果はあがらなかった。キリスト教は思ったほど脅威ではなく、政教分離は社会における宗教の存在感の低下をもたらしたからだ。そして、彼が宗教ではないとした神道が、後に宗教以上の力で日本人の思考を支配するようになるとは皮肉だった。

彼は、教義と科学が矛盾する時は科学を信頼すればよい、という「物わかりのよい」僧侶であった。いわば合理的だったのだ。だからこそ、その建白は政策担当者たちに受け入れられたのだろう。しかし、その合理性が黙雷の弱点だったともいえる。「仏教は役に立つ」というロジックを掲げ続けたことが、彼の限界を定めたのかもしれない。

明治時代に傑出した働きを見せた島地黙雷を小著ながら多面的に描いた良書。

【関連書籍の読書メモ】
『明治国家と宗教』山口 輝臣 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/01/blog-post_29.html
明治時代の宗教と国家の関係について2つの側面から述べる本。世俗的になっていた国家が、どうして宗教的に揺り戻されていったのか。本書はそれを水面下の動きから解明した労作。

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2023年5月18日木曜日

『江戸の科学者—西洋に挑んだ異才列伝』新戸 雅章 著

江戸時代の科学者11人を紹介する本。

日本の科学技術は、明治時代の文明開化で急に発展したのではなく、江戸時代から西洋の知識が流入しており、高いレベルに達していた科学者も多かった。それは明治以降の科学の発展の土台となったのである。

とはいえそれは、江戸時代の知識人の本道ではなく、西洋の科学に取り組んだものはたいてい変わり者で、反骨精神があった。本書は、そうしたかぶきものならぬ「かがくもの」を描くものである。

私は本書を2つの関心から手に取った。第1に、江戸時代の科学者たちがどのようにして「西洋」に出会ったのか、ということ、第2に、彼らはどのような身分であり、またその科学知識は彼らの身分を上昇させたのかどうか、ということである。以下、その点を踏まえてメモする。なお、本書には4つの章が設けられているが、以下のメモでは章別けは無視した。

高橋至時:高橋至時(よしとき)は、幕府天文方を務め、伊能忠敬の年下の師匠としても有名。シーボルト事件で処罰された高橋景保の父でもある。明和元年(1764)生まれ、父は大坂定番同心で、父を継いだ後に趣味で数学や暦学を学び、麻田剛立に弟子入りした。麻田は天文の研究のため脱藩して大阪で町医者になっていた人物。至時は、同門の間重富が桑名藩主松平忠和(ただとも)から入手した中国の天文書『暦象考成 後編』に出会い、一門をあげて研究。この本には天動説とケプラーの楕円運動論による天文・暦学が論じられており、この研究で至時は頭角を現し、寛政7年(1795)、幕府の命を受けて暦の改正に取り組んだ。時に徳川吉宗は、蘭学書物の輸入規制を緩和しており、西洋の文物や知識がどんどん流入する時代になっていた。天文観測に長けた重富と理論に長けた至時は協力して新暦「寛政暦」を完成させた。

その後至時はフランスの天文学者ラランデの天文書(のオランダ語訳)の翻訳を若年寄堀田摂津守正敦(まさあつ)から言い渡された。そこには地動説に基づいた天体運動が論じられており、寝食を忘れて翻訳に没頭。わずか半年で『ラランデ暦書管見』11冊を完成させた。この翻訳によって日本でも西洋の天文学を直接学ぶ道筋が付けられた。

志筑忠雄: 江戸時代で最高の翻訳家。彼は長崎の資産家に生まれ、志筑家の養子になり稽古通詞になったが、生来病弱なため早くに退職。生家の中野家に復帰し、学究の道に入った。大木良永から蘭学の手ほどきを受け、イギリスの自然哲学者ジョン・ケイルの著作に出会ってニュートン力学に目覚める。彼はケイルの著作の翻訳を生涯の仕事と定め、『求力法論』『暦象新書』などを翻訳した。これらの著作で、引力や重力、真空、分子といった訳語を定めたほか、「ー、+、÷、√」といった数学記号を日本にはじめて紹介した。また「鎖国」という言葉は、忠雄がケンペルの『鎖国論』を翻訳したことで生まれたものである。「人と交わるのが苦手な忠雄は生涯長崎を一歩も出ず、家にこもり、(中略)蘭学の研究に没頭した(p.49)」。他の蘭学者ともほとんど交流を持たなかった。

橋本宗吉:「日本電気学の祖」橋本宗吉は、宝暦13年(1763)、大坂の傘の紋描き職人の家に生まれた。貧しい職人として働いたが、非凡な記憶力や知能が間重富に注目され、重富は蘭方医の小石元俊と費用を負担して、宗吉にオランダ語を学ばせるために江戸へ留学させた。江戸では蘭方医の大槻玄沢の門に入り、帰坂後、宗吉は蘭方医として修行しながら、元俊と重富のために蘭書の翻訳に精を出した。さらに寛政9年(1798)、自身も医院と蘭学塾を兼ねる「絲漢堂」を開いた。そして翻訳だけでなく自ら実験もし、特に『エレキテル訳説』の翻訳では自身で電気学の実験を行った。さらに自らの実験をまとめ、日本初の実験電気学の書『阿蘭陀始制エレキテル究理』をまとめた。ただしこれはなぜか幕府の許可が下りなかったため生前は出版されなかった。晩年はシーボルト事件の影響で絲漢堂を閉じざるを得ず、おそらくは公議を憚ったために死後も墓は作られなかった。しかし彼の学統は、孫弟子の緒方洪庵によって継承、発展した。「大坂蘭学の祖」とも言われる。

関孝和:関孝和は幕臣内山永明の次男として出生。長じて甲府藩勘定役を務める関五郎左衛門の養子となった。吉田光由の『塵劫記』を読んで数学に目覚めたとされる。しかし特定の師にはつかず、書物を通じた独学で数学を学び、朱世傑『算学啓蒙』によって天元術に触れた。これは算木や算盤を使う中国の代数学である。孝和は算木ではなく記号によって代数学の大系を作り、延宝2年(1674)、『発微算法』にまとめた。これは生前刊行された唯一の著書である。他の和算家が数学を解法として見ていたのに対し、孝和はその背景にある一般理論に興味を持った。そしてライプニッツに約10年先駆けて行列式を考案。ベルヌーイとほぼ同時に「ベルヌーイ数」も示している。孝和の業績は「関流」和算として発展させられ、建部賢弘はその跡を継いだ。賢弘は『発微算法』の一般向け注解書『発微算法演段諺解(げんかい)』を上梓している。こうして江戸和算の全盛期が築かれた。「算額」を奉納する風習はその象徴である。「江戸期には庶民のための数学入門書がベストセラーになり、全国に数学塾が開かれ、西洋とほぼ同等の記号による数学が隆盛をきわめた(p.88)」。なお、孝和は主君が六代将軍として江戸城に入ったので江戸詰となり、勘定方吟味役にまで昇進している(数学との関連は不明)。

平賀源内:平賀源内は、「博物学者であり、鉱山技師であり、電気学者、化学者、起業家、イベントプランナー、技術コンサルタントであり、日本最初の西洋画家であり、ベストセラー小説『風流志道軒伝』や人気戯作『神霊矢口渡』の作者であり、「本日丑の日」で知られる日本最初のコピーライター(p.91)」である。彼は高松藩の下級武士の子として生まれ、生来利発で13歳から藩内の儒者の下で学んだ。21歳で家督を継ぎ、御米蔵番として出仕。同じ頃に藩の薬園の御薬坊主の下役に登用された(ダブルワークなのだろうか?)。本草学者としてのスタートである。さらに長崎に遊学し、帰藩後、藩に退役を願って許可され、妹に婿養子をとらせて平賀家を継がせ、自分は自由な身分で江戸に移った。27歳の時である。すぐに頭角を現した源内は、再び高松藩主(松平頼恭(よりたか))に召し抱えられるものの、藩の枠内に留まる不利が勝り再び辞職を願い出た。許可されたが「仕官御構」(=今後他藩に仕えてはいけない)の条件が付けられた。

源内は学究肌というよりは事業家肌で、様々なことに取り組み、しかもその事業は時代に先駆けていた。ただ、失敗も多く、殖産興業の努力はあまり実を結ばなかった。最後は殺人事件を起こし、獄中死した。彼は科学者としては一流ではなかったが、「科学と国益を結びつけて考えたこと、さらに進んで科学・技術と産業を結びつけようとした点(p.116)」に真骨頂がある。

宇田川榕菴:宇田川榕菴は、大垣藩医で蘭学者の江沢養樹の長男として生まれ、13歳で津山藩医宇田川玄真の養子となった。玄真は『西説内科撰要』18巻を書いた大学者で、幕府の蕃書和解御用にも任用された蘭学者の泰斗であった。榕菴は最高の環境で勉学に励み、オランダ語を学んだ。とりわけ興味を抱いたのが植物分類学。『菩多尼訶(ボタニカ)経』というお経仕立てのリンネ植物学の本が最初の著書である。江戸を訪れたシーボルトとも親交を結び、シーボルトは顕微鏡とドイツ語の植物学入門書を榕菴に与えた。28歳で宇田川家を継ぎ、幕府から蕃書和解御用にも任じられた。同時期に大槻玄沢も同ポストにいた。ここで榕菴は、ショメールの百科事典を翻訳し、全70巻+続編32冊におよぶ大著『厚生新編』を完成させた。翻訳には30年以上かかった。シーボルト事件ではかろうじて難を逃れ、その後も訳業と著述に励んだ。『遠西医方名物考補遺』では元素、酸素、水素など「〜素」の訳語を始めて使用した養父の著書の補遺で、本書では、親和、物質、流体、凝固、気化、酸化、還元、酸、塩などの用語が始めて使用された。またリンネ植物学を体系的に述べた『植学啓原』では花粉、葉柄、気孔、柱頭、葯といった植物用語を定着させた。さらに畢生の大著『舎密開宗』では、ラボアジエの化学理論を始めて体系的に紹介した。これらの本は、単に洋書を翻訳するだけでなく、自身も実験や分析を行っていた。榕菴は多才で、コーヒーや西洋音楽の研究にまで手をつけている。「蛮社の獄」では榕菴には政治的発言がなかったので処分されなかったが、病のため48歳で死去した。

司馬江漢:司馬江漢の生まれはよくわかっていない。町絵師江漢は、なぜか蘭学に心惹かれ、平賀源内と交流した。そして彼の影響で日本で始めて銅版画を制作。また油絵にも取り組んだ。写実的な洋風画を描きたいという欲求は、世界の真実を知りたいという欲求と重なり、長崎に遊学。やがて天文地理に興味を持ち、日本で初めての銅版画による世界地図「輿地全図」、その説明書『輿地略説』を刊行、また『和蘭天説』でコペルニクスの地動説を論じた。その後も地動説の普及のためにいくつかの書物を刊行した。またカラクリの才もあった。一言でいえば彼は奇人で、人に馴染まなかった彼は歳を取って孤独になり寂しく死んだ。彼は多芸多才ではあったが、どの道でも第一人者とは呼べなかった。しかし「終生、権威や権力におもねることなく、一芸術家、一好学者(p.157)」であった。

国友一貫斎:当時としては世界的な性能の反射望遠鏡を作ったのが一貫斎こと国友藤兵衛重恭(しげゆき)である。国友鉄砲鍛冶の中で、ひときわ才能があった一貫斎は、いわゆる「彦根事建」で諸大名から鉄砲の受注ができるようになり、そのおかげで西洋の文物に触れる機会を得た。また事件の詮議のために江戸に出て解決後も含め5年滞在し、技術を学んだ。そして松平定信から命を受け、鉄砲の製作マニュアル『大小御鉄炮張立製作』を献上、刊行した。松平定信が鉄砲製作法を公開するという異例の対応をとったのは、ロシア船出現などを受けた国防の強化にあったと見られる。なお一貫斎は江戸で平田篤胤と交流している。一貫斎は尾張犬山藩の江戸屋敷でオランダ製グレゴリー式反射望遠鏡を見、そのとりことなった。一貫斎は10年の準備期間を経て製作を開始、約1年で完成させた。彼でなければ完成は不可能だったと言われている。その望遠鏡を使い、一貫斎は種々の天体観測を行った。特に、太陽黒点の観測は約1年間にわたって克明に記録したもので世界水準である。その外にも様々な発明品・製作品がある。彼はひたむきな努力の人で、独学で物理学、化学、天文学、博物学、軍学などを修め、またその人間性で多くの支援者を得た。

緒方洪庵:緒方洪庵は、文化7年(1810)、備中足守藩の下級藩士の三男に生まれた。元服後、父に従って大坂に出、蘭学者中天游(橋本宗吉の弟子)の私塾「思々斎塾」に入門、医学と蘭学を学んだ。家督は継げないから医術で身を立てようと思ったのだ。さらに江戸へも遊学し、坪井信道に入門、学頭に抜擢されるとともに、宇田川玄真に薬学も学んだ。そして長崎へも遊学し、医者を開業しながら博学のオランダ人商館長ヨハネス・ニーマンから西洋医学や自然科学も学んだ。大坂に帰って医者を開業し、さらに蘭学塾「適々斎塾」を開いた。最高の教育を受け、たぐいまれな見識と技術があった洪庵には入塾希望者が殺到。福沢諭吉、橋本左内、大鳥圭介、大村益次郎、佐野常民などが学んだ。医師としては種痘(牛痘)の普及活動に力を入れ、大坂に除痘館という幕府公認の種痘所を設立した。またコレラの治療にも最善を尽くした。こうした評判は幕府に聞こえ、幕府から奥医師へ招聘され、あわせて西洋医学所の頭取も兼務した。町医者から医学界の最高位まで上り詰めたのである。なお当時の奥医師は総勢19名、すでに3分の1が蘭方医であった。洪庵は医師としても一流で、また日本最初の画期的な病理学書『病学通論』を著すなど学者としても一流、さらに教育者としては超一流であった。適塾の血気盛んな生徒たちが、みな洪庵に心酔し、それぞれが新しい時代を開く人材になった。

田中久重:田中儀右衛門久重は、久留米藩のべっこう細工店を営む田中弥右衛門の長男に生まれた。久重は幼いころから工作に才があり、『機巧図彙(からくりずい)』を参考書に独学でからくりを作り始めた。15歳の時に絣の織機を製作し評判となる。久重はさまざまなからくり人形を作り、「茶酌娘」はその代表作である。祭の見世物でのからくり興行が大評判になり、ついたあだ名が「からくり儀右衛門」。創意工夫もさることながら、歯車やぜんまいなどの加工技術がものをいっていた。

彼はからくりに魅せられ、家を弟に継がすと、妻子を置いて修行の旅に出た。修行の成果として、「弓曳童子」というからくりが最高傑作として残されている。旅を終え大坂に落ちつき、妻子を呼び寄せ時計師の店を出し「無尽灯」(ランプ)を開発。京都に移って「雲竜水」(消防ポンプ)も開発した。そして京の嵯峨御所から「大掾」の称号を与えられた。芸能の最高位である。さらに久重が持てる技術の全てを注いだのが和時計。この際、彼は天文の基礎から学び、京で蘭学塾「時習堂」を開く広瀬元恭に入門して西洋の物理・化学の原理も学んだ。こうして万年時計が完成。世界にも類のない時計だった。使用された歯車やぜんまいは、すべて久重の手作り(工作機械を使わない)で、一度巻けば225日も動いたという。その後、54歳の久重は佐賀藩から招請を受け、佐賀藩の近代化事業に従事。「精錬方」に配属され、蒸気船「凌風丸」を完成させた。久留米藩からも招聘を受けて郷里に帰ったが明治維新となり、明治6年には、70代になっていたにも関わらず電信機製造のために招聘されて東京に移住、見事成し遂げて、彼の工場は「東芝」につながっていく。

川本幸民:川本幸民は、文化7年(1810)、摂津三田藩の藩医を務める家の末子(三男)として生まれ、早くに父を亡くし長兄に育てられた。藩校では抜群の成績で「三田藩始まって以来の秀才」と言われ、医学の勉強に早くから取り組んだ。長兄が参勤交代で藩主に従って江戸詰めになるのに同行を許され、費用は全額藩が負担して留学した。全く異例の措置である。藩主九鬼隆国の格別の温情によるものだった。江戸では高名な蘭方医足立長雋の門に入り、たった1年で師に認められ、さらに坪井信道の門へ移った。しかし酒席の諍いから藩の上役を傷つけ、蟄居・謹慎を命じられる。なおこの期間中に「蛮社の獄」が起こっている。

浦賀奉行の池田将監頼方のおかげで謹慎が解けると、医学のみならず物理学や化学を研究。日本近代科学史上の記念碑的著作『気海観瀾広義』を上梓し、蒸気船など最新科学技術を解説した『遠西奇器述』も公刊。薩摩藩は彼に講義させており、昇平丸の建造には『遠西奇器述』が参照されている。さらに化学分野での翻訳書も公刊し、万延元年(1860)には代表作『化学新書』を出版。これは元素・化学反応・化学式といった最新知識を詳述し、日本近代化学の礎となった。こうした業績を受け、安政3年(1856)に蕃書調所の教授手伝(→のち教授)に任命され、幕府の直参に出世した。さらに幸民は三田藩から薩摩藩に籍を移し、島津斉彬の下で洋化事業に従事した。ただし幕府の蕃書調所の仕事もあったので、薩摩藩には弟子の松木弘安を派遣。電信機の製作に成功した。斉彬死去後は蕃書調所に戻ったが「安政の大獄」で調所も縮小された。大政奉還後には江戸を離れて郷里の三田で塾を開き、後に新政府から出仕を求められたが61歳で死去した。

最後に、冒頭で述べた2つの関心事項をまとめておく。第1に、江戸の科学者たちはどうやって「西洋」に出会ったか。 洋学は「江戸時代の知識人の本道」ではないと述べたが、洋学は藩主や幕府といった権威が導入していたことも多かった。また吉宗の蘭学書物の輸入規制緩和のおかげで、洋書の翻訳が盛んに行われ、本を通じて洋学に出会った人も多い。つまり非合法な方法によって洋学を知ったのではないということは重要だ。

第2に、彼等の身分について。本書に取り上げられている人の生まれは3パターンで、(1)下級武士、(2)技術者(職人)、(3)商人である。

(1)下級武士の場合は、普通の武士(つまり役人)の場合と、医師の家の場合がある。また、医師以外の場合には職務と科学には関連性はなく、家が世襲してきた役とは別に科学に関連する職種(蕃書、天文方、奥医師等)へと登用されていることが多い。概ね科学により身分が上昇している。

(2)技術者(職人)の場合は、幕府や藩に登用された場合(田中久重)と、一好事家のままだった場合(橋本宗吉、司馬江漢)がある。なお(1)にも事例が多いが、医師を開業している場合(橋本宗吉)は、出仕とは違った意味での身分上昇と考えられる。

(3)商人の場合は、本書には志筑忠雄の場合しかないが(とはいえ彼は通詞の家に養子に行っているので、商人と呼べないかもしれない)、家のお金をつかって好きに生きているイメージである。これはヨーロッパの貴族が学問をするケースに近い。

なお西洋の場合は、近代以前の科学者は多くが貴族である。あまり働かなくてよいので余暇を使って天体観測をしたり、実験に取り組んだり、数学を研究した人というのが多いのである。一方、近世の日本では西洋とは階級のあり方が違ったので単純な比較はできないが、有閑階級(例えば上級武士・大地主)の研究というケースは少なく、余暇を使って研究しつつも、それが職業や身分上昇に繋がるケースが多いと考えられる。それは、社会から科学技術が役に立つ「実学」と見なされたためであろう。これは、蘭学がまず「蘭方医」によって実用化し、奥医師に蘭方医が多く進出したことが象徴していよう。

要するに、近世社会において科学技術は、異端的というよりは、先端的であったのだ。彼等は総じて変わり者ではあったが、時代のトレンドを先取りしていたのである。

気軽に読める江戸時代の科学人物誌。

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2023年5月11日木曜日

『幕末維新史への招待』町田 明広 編

幕末維新研究のガイド本。

私は、結構幕末維新に関する本を読んできた方だが、この本はもっと早く読みたかった。本書は、司馬遼太郎の小説などで広まった間違った過去の通説を批判しつつ、最新の実証研究に準拠した参考書を手際よく紹介してくれている。本書を幕末維新研究の入り口として、紹介されている10冊くらいを読めば、研究の最前線を理解することができると思う。

一方、本書は小説や教科書を通じてある程度幕末維新史を知っている人を対象にしているので、「幕末維新ってあまりよく知らないな」という人が読んだら、さっぱりわからない部分がある。なにしろ維新史の通史は全く述べられていない。そういう意味では、「幕末維新史研究への招待」という標題にした方が適切だったかもしれない。

本書では論点ごとに21の章(序章・19章・終章)が設けられているが、その簡単な紹介は以下の通り(章題は割愛した)。

(1)「尊王攘夷」vs「公武合体」の構図は当を得ていない。坂本龍馬は実際より過大評価されている。薩摩藩研究は平成以降、はるかに深化した。(町田明広)

(2)幕末は、かつては階級闘争史観で国内的な事情から捉えられたこともあったが、現在はペリー来航など対外的・国際的要因の方が重視されてその起点が設定されることが多い。(森田朋子)

(3)幕末の日本は「鎖国」しておらず「鎖国令」も存在しない。また4つの口(対馬口、薩摩口、長崎口、松前口)による貿易・国際交流が行われていた(荒野泰典)。よって「海禁」と呼ぶべきである。(大島明秀)

(4)「尊王」と「佐幕」は対立軸ではなく、幕府も尊王だった。また、尊王に幕府を否定する意味は皆無であった。尊皇は攘夷とセットになって政治的主張としての効力を有するようになった。(奈良勝司)

(5)幕末の社会は、コレラの流行、頻発する大地震、ハイパーインフレと打ち壊しなどの世直し騒動など、政治的変動とは別の面で庶民の世界も動揺していた。(須田 努)

(6)朝廷は財政的には幕府に依存し、幕府も朝廷にはなるだけ予算を割いていた。文久3年、幕府は朝廷との関係強化のため、朝廷の財政の枠組みを大きく拡張させて増額させた。(佐藤雄介)

(7)幕末期に外藩とされた国持大名は、他の大名とは違い、幕府とは距離があった。しかし幕末には譜代大名だけでは国政が動かなくなり、挙国一致体制の中で幕府は彼らに依存するようになった。(藤田英昭)

(8)一橋慶喜・会津藩・桑名藩が結合し、幕府と孝明天皇とが協調して政権が運営された様態が「一会桑」である。一会桑を「政権」と見なすか「権力」「勢力」と見なすかはまだ定説はなく、今後の研究の進展が期待される。(篠﨑佑太)

(9)幕末、薩摩藩では財政改革が行われた。500万両もの莫大な借金を一方的に250年払いに変更し、砂糖の専売や貿易の振興、偽金づくりによって財政は好転。薩摩藩の雄飛の基盤となった。(福元啓介)

(10)幕末の長州藩では、近代的海軍の萌芽のような軍事体制を構築し、対外的な脅威を背景に富国強兵策も構想された。これらは周布政之助を首班とする藩制改革派が主導した。(山田裕輝)

(11)列強によって日本が植民地化される危険は少なかったとする見解もあるが、イギリスは自由貿易体制を維持するためには軍事力の行使を想定しており、危険がなかったわけではない。(田口由香)

(12)日米修好通商条約の締結にあたって幕府は朝廷からの勅許を求めたが、それは全国的な合意形成の手法が確立していなかったために天皇の権威に頼ったという面がある。勅許問題は列強諸国が朝廷を政権のキーと見なすきっかけにもなった。(後藤敦史)

(13)平野国臣が討幕を唱えたのと同じ頃、将軍の側近の大久保忠寛(一翁)は、徳川家も一諸侯に下るべきだという大政奉還論を唱えた。土佐の後藤象二郎は、坂本龍馬からこの大政奉還論を聞き、それが土佐の藩論となった。(友田昌宏)

(14)長州藩の奇兵隊は、旧来の身分秩序にとらわれないものだったが、それはあくまで「奇」だった。大村益次郎は長州の軍隊を近代化し、装備の標準化や士官教育のカリキュラム確立、西洋式武備の充実などに取り組んだ。だが、「国民」が創出されていない中での軍制の近代化には限界があった。(竹本知行)

(15)江戸幕府が創設した海軍は、士官任用が家格ではなく能力が基準になるなど能力本位の人事制度、一元的な指揮系統の確立、近代海軍教育制度の開始など画期的なものだった。また幕府は蒸気船を何隻も座礁などで沈めた経験を踏まえた軍艦運用ノウハウもあった。明治政府の海軍は幕府海軍の「居抜き」でスタートすることができ、比較的短期間で確立できた。(金澤裕之)

(16)いわゆる「薩長同盟」とされている盟約は、長州藩がことを起こした場合に薩摩藩が中立を表明したもので軍事同盟とは言えず、「小松・木戸覚書」と呼称するのが適切。坂本龍馬はこれを周旋しておらず、会議後に証人となったにすぎない。盟約をきっかけにして薩長の関係が緊密化した。(町田明広)

(17)徳川慶喜の大政奉還は、幕藩体制の限界を認め、来るべき朝廷を中心とする公議政体で自らが中心的な地位を占めるために行われたものと考えられる。(久住真也)

(18)戊辰戦争を民衆が支持したかどうかの二分論は過去のものとなり、「それぞれの戊辰戦争」を解明することが研究の潮流となっている。(宮間純一)

(19)公家も幕末の動乱に参加し、維新政府では当初要職を占めたが次第に遠ざけられ、廃藩置県を経て中枢から排除された。その後、宮内省が公家の活躍の場となった。

(20)明治政府といえば藩閥・有司専制というイメージがあるが、当初の政府は「公議」を重視して公議機関を設け、明治2年には官吏公選を行い、旧幕臣も登用するなど、必ずしも藩閥だけでない政権運営が行われていたことが薩長の強さだった。(久保田哲)

(21)明治維新は、マルクス主義史観からの評価、無血革命としての評価(司馬史観)、などイデオロギー的に評価されてきたが、実証研究の進展、ローカルとグローバル双方の研究の積み重ねによって近年ではより多角的に捉えられるようになった。(清水唯一朗)

全体として、図が割と多いこと、主要参考文献+関連書籍が章ごとに紹介されること、著者の考察は極力少なくして研究の全体像を示そうとしていることなど、大学の講義に雰囲気が近く、筑摩新書の「○○史講義」のシリーズに似ていると思った。

特に興味深かったのは、(13)の大久保一翁の大政奉還論、(15)の幕府海軍についてである。

幕末維新史研究の最前線へ誘う良書。

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2023年5月4日木曜日

『真木和泉』山口 宗之 著

真木和泉の評伝。

維新史において、真木和泉は「最も早く王政復古を主張したものの一人」として必ず出てくる。しかし彼が何を考えて王政復古を着想したのか、どんな人物だったのか、といったことはよく知らなかった。そこで手に取ったのが本書である。

真木和泉は、文化10年(1813)、久留米藩の水天宮の神官の子として生まれた。父は中小姓格に列し、年60俵扶持であった。神官であるとともに、下級武士としての待遇を与えられていたということだ(「格」なので武士そのものなのか疑問があるが)。

和泉は体格に恵まれ、力士に間違われるほどであったが、学問に励み、漢学や国学を学んだ。わかっている彼の蔵書を分析すると、水戸学や国学を中心とした志向が窺える。

和泉は、父の死によって11歳で神官を継ぐ(文政6年(1823))。たった11歳の和泉が、父の葬儀を仏式でなくあえて神式で行ったことは注目される。また10年後の天保4年(1833)には、先祖の仏式の法号を全て廃して霊神号に改めている。彼には廃仏傾向があった。

19歳の時に、9歳年上の女性(睦子)と結婚、5子をもうけ3人が成人することになる。20歳で吉田家より大宮司の許状を得、従五位の下に叙せられ和泉守に任じられた(それ以前も通称として和泉を使用)。

32歳の時に水戸に遊学し、会沢正志斎に親しく教えを受けた。時を同じくして、久留米藩では有馬頼永(よりとお)が襲封する。彼は23歳の英邁な藩主で、楠木正成を敬慕する尊王家であった。頼永は倹約によって財政を改善するとともに、長崎からの情報を摂取して実学を盛んにした。これによって起こった実学派を「天保学連」という。和泉もこの一員だった。弘化3年(1846)、和泉は改革意見を頼永に提出。そこでは「国土は全て朝廷の所有するもの」と早くも主張している。ところが同年7月、頼永は25歳で死去してしまった。

同年8月、和泉は孝明天皇の即位式に公卿の野宮定功の随身として参加。激しい感動を受けた。一方、藩内は頼永亡き後、改革を担ってきた天保学連が外同志(和泉はこちらに属する)と、内同志の2派に分かれ、抗争し、不祥事を起こした。嘉永4年(1851)、藩主を継いでいた頼咸(よりしげ)が入部すると、外同志は「内同志たちが頼咸廃立の陰謀を図っている」と頼咸に直訴。それをきっかけに取調が行われたがその事実が立証されなかったため、逆に外同志たちに重い処分が下った。こうして和泉は水天宮神官の職を取り上げられ、弟の大鳥居理兵衛が留守別当職を勤める水田天満宮で、10年以上もの幽閉(三里構い)の日々が始まるのである。

しかし、これは幽閉とはいえ、あまり厳重なものではなかった。「三里構い」の意味は本書に詳らかでないが、三里以上離れてはいけない、ということなのだろうか(和泉はたびたび外出している)。和泉は敷地内に小舎を建てて「山梔窩(くちなしのや)」と名付けて読書生活をし、和泉を慕ってここに多くの青年が集うようになった。 彼らの多くは武士ではなくせいぜい村役人クラスの百姓であった。

また和泉の弟外記と嗣子主馬は、彼の耳となり手となって情報収集を行い、和泉は山梔窩にいながらにして内外の諸情勢を把握していた。彼は幽閉中にもかかわらず、『魁殿物語』『急務三箇条』などを草し、『急務三箇条』は三条実万に提出している。そこでは神武創業の精神にかえり討幕・王政復古を仄めかしている。また野宮定功に『経緯愚説』を上程し、簡潔ではあるが討幕・王政復古への具体策を述べた。さらに『大夢記』では、天皇が親征して幕府を滅ぼし、親王を安東大将軍として江戸城を治めるという討幕のシナリオまで書いている。吉田松陰ですら討幕を考えていなかった時期に、驚くべきエネルギーである。

そういう48歳の和泉の下へ密かに訪れたのが平野次郎国臣で、二人は意気投合。平野から桜田門外の変や和宮降嫁問題などの切迫した状況を聞かされ、もはや幽囚している時ではないと和泉は決心。久留米藩を動かす術はなかったので、薩摩藩に頼ってことを起こすこととし、門人3人(うち一人は次男菊四郎)と共に脱藩して薩摩藩へ向かった。和泉50歳であった。彼らは、白昼堂々と久留米藩を脱出。あまりの迫力に捕吏たちは手出しができなかったのだという。

薩摩藩では大久保利通や小松帯刀ら要人に会い、連日非常な持てなしを受けた。何の後ろ盾もない和泉らが歓待されたのは不思議だ。11年も幽閉されていたのに、和泉の名が知られていたことは間違いない。しかしながら、公武合体を志向する薩摩藩では、和泉の即時討幕の意見は受け入れられることはなく、薩摩藩からは退去することを求められた。

薩摩を離れ上京した和泉は、薩摩藩士の過激派である有馬新七らと合流。彼らは討幕の挙を実行せんとして寺田屋に集結したが、久光は鎮撫使を派遣し、彼らは斬殺された。寺田屋事件である。しかし和泉は寺田屋の別室にいたので助かり、久留米藩に預けられた。薩摩藩は穏便にことを済まそうとし和泉を処分しなかった。和泉は久留米藩の定宿に70日ほど勾留された。

さらに和泉は久留米藩に護送され、拘禁された。しかし久留米尊攘派を中心に和泉赦免の運動が起こり、公卿への働きかけの結果、正親町三条実愛から頼咸へ解囚の命が下り、和泉は自由の身となった。一転、和泉は頼咸へ召されて重用された。彼は薩築連合を説き、今度は藩命を帯びて薩摩に下ったが、やはり久光には相手にされず帰還した。それでも和泉は、あくまで朝廷を中心とし、天皇が政務・軍事の指揮権を握る体制を夢見ていた。

一方で、頼咸には確たる政治信念が無く、重臣の意見に振り回される面があった。和泉らは一度は寵を得たものの反対派の巻き返しにあい、和泉らの一党はふたたび捕縛された。これを「和泉捕り」という。またもや赦免運動が展開され、公卿等も藩主に穏便な取り扱いを求め、また前藩主頼永の実弟亀井茲監(津和野藩主)も藩士を久留米藩に派遣し解囚を切言した。一方和泉は、自分がこれ以上久留米藩にいると藩内の不調和が続くとして『退国願』を提出。自主的に久留米を去り、朝廷の直臣になろうというのだ。

これは藩内に動揺をもたらし、却下されるところだったが、ちょうどその時、中川忠能の次男忠光が久留米藩に来た際、その対応を誤ったこと、解囚を勧める関白鷹司輔煕の内旨書があったこと、長州藩が和泉の解囚を勧めたことなどから許可された。和泉の処遇を重要人物たちが気にしていることからも、彼の存在感がわかる。

こうして久留米藩と縁を切った和泉は長州藩に赴いた。長州藩では藩主毛利敬親から信任を受けて重んじられた。そして藩命により再び上京するのである。京都でも一貫して討幕・朝廷中心の政体樹立を主張(『五事建策』)。彼は公卿にも大きな影響力を持った。和泉は学習院御用掛に任命され、「このころ和泉は「先生」「大人」「王人」と仰がれ「今楠公」と称せられて志士たちの尊敬するところとなっていた(p.164)」。鷹司関白はいつ参上しても必ず会ってくれた。和泉の生涯で最も得意な時だった。長州藩が朝廷を手中に収めた時でもあった。

そして和泉の建言に基づき、いよいよ天皇の大和行幸・攘夷親征の詔勅が発せられた。ところが、ここで「八月十八日の政変」が起こる。薩摩・会津藩が朝廷から長州藩勢力を駆逐した政変である。天皇としても、朝廷が長州に牛耳られていることは不本意で、その間の勅は真のものではないと言い切った。こうして長州勢は京都から退却し、攘夷派の公卿7名も長州へ落ち延びた(七卿落ち)。

和泉は再起を期し、敬親に建白書を上呈して挙兵上京を説いた。敬親親子はひたすら恭順の姿勢で赦免を請う方針だったので和泉の意見は容れられなかったが、 彼はめげることなく、薩摩と連合しようとするなど(不発)、討幕に向けた策動を続けた。そんな中で、京都では長州を討伐するというムードになり、長州の進退が窮まった。こうして敬親親子まで含めた5隊が編成され長州に進発した。一応、藩主親子の冤罪を哀訴、浪士鎮撫などの名目だった。浪士隊(清側義軍)の第一隊では、和泉と久坂玄瑞が総管であった。

しかし、戦うことが目的でなくても、京都に大軍を差し向ければ、京都守護職の松平容保としては迎撃せざるを得ない。徳川慶喜も長州藩征討を決意。長州藩としてももはや引くに引けず、「君側の奸」松平容保を除くため進撃を決めた。こうして「禁門の変」が起こった。しかしあえなく鎮圧。天王山に逃げた和泉は、禁門に対して刃を向け、藩主親子に罪を重ねさせた責任をとり自刃した。

なお和泉とともに17名が自刃しているが、実はこの中に長州藩の人間は一人もおらず、久留米藩4人、福岡藩1人、熊本藩6人、高知藩4人、宇都宮藩2人となっている。禁門の変は、単純な長州と会津の戦いではなかったことに注意が必要だ。

真木和泉は、ほぼ40歳から50歳までを幽囚の日々で過ごし、身分も高くなかったのに、かなりの影響力を持った。それは人柄と思想の力のなさしむるところだった。

人柄については、一族が和泉に協力を惜しまなかったことでも知れる。和泉には人を虜にする魅力があったのだろう。

思想については、水戸学をさらに突き詰めたと評価できる。水戸学では現実の封建体制(江戸幕府)を否定するどころか、会沢正志斎も将軍への恭順を主張していた。水戸学からは直接は討幕は導かれないのである。しかし和泉は、正式な武士身分でもなく、幽囚の身でもあり、藩の機構に組み入れられることも、その後援を受けることも叶わなかったために、かえって藩意識から自由であり、早い段階で「天皇の直臣」としての意識を持ったことが特筆できる。「恋闕の人」和泉は、情熱的に天皇を追い求め、たとえ国土・民族滅亡することがあろうとも、天皇にひたすら従い「国体」を守ることが日本人としての務めだと考えた。であるから当然に天皇中心の時代に復古することが彼の目的となった。

しかしながら、彼の思想には3つの弱点があった。第1に、彼は西洋のことをよく知らず興味もあまりなかった。よってその思想は日本の近代化を見通したものではなく、時代錯誤な復古主義にならざるを得なかった。第2に、彼は一貫して反幕府的であったが、封建的体制への絶対的肯定があり、いわば将軍の位置に天皇を据えることのみが彼の統治論であった。よって民衆へのまなざしは皆無で、自ら建白の随所に「言路洞開」を求め、どのような身分でも勤王に身を尽くすべきとしながらも、身分制の解体に向かうどころかそれを強化しようとさえした。第3に、彼は他の志士のように藩という組織の中で現実の行政に携わった経験がなかっため、その論策が現実性に乏しく、名分をただすというような理念的なものにとどまった。しかしながら、彼の思想は論理的・現実的であるより、感情的・夢想的であることに魅力があったのも確かである。

そして最後に、和泉は他の志士より年代が一回り上だったことも、その影響力の一因だった。西郷隆盛より14歳、木戸孝允より23歳も年上なのだ。横井小楠と佐久間象山と同世代で、志士の中ではかなりの年配に属した。若く血気にはやる志士たちの中で、和泉が頼りにされリーダー格になったのは年齢も大きかったのだろう。

本書を読みながら、私は真木和泉と吉田松陰との対比を考えた。松陰も若くして家督を継ぎ、罪を得て幽囚の時を過ごした。そして幽囚の中で読書生活をし、自らの思想を先鋭化させた。そういう点で和泉と松陰には共通点が多い。水戸学と国学に大きな影響を受けたのも共通している。しかし松陰の場合は、西洋を知り、現実の外交関係を考慮したことが和泉とは決定的に違う。そして高弟に恵まれたのも和泉と好対照をなした。和泉は、多くの人に影響を与えながらも、それを受け継ぐ人が育つことはなかった。

それは、和泉の思想が理論的なものではなく、彼の人格と絡み合った情念によるものだったことを示唆する。そして「恋闕の人」でありながら、結果的に禁門の変で禁裏に対して戦い、賊臣として死んだことも、その論理を徹底させられなかった悲劇であるとみなせる。それは二・二六事件の青年将校たちを彷彿とさせる。

皮肉なことに、彼は「天皇」の名において「国家」に反逆する最初の典型となったのである。

【関連書籍の読書メモ】
『吉田松陰—「日本」を発見した思想家』桐原 健真 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/11/blog-post_13.html
吉田松陰における「日本」の自己像に関する思想の変転を振り返る本。松陰の思想について概観するための良書。

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