2023年4月2日日曜日

『開国と幕末の動乱(日本の時代史20)』井上 勲 編

幕末から明治維新までを通史とトピックで述べる本。

私は「開国」に興味があって本書を手に取ったが、本書では「開国」が真正面から扱われていない(むしろ同シリーズ『明治維新と文明開化(日本の時代史21)』の方が「開国」について述べている)。なお、私の言う「開国」とは西洋文明の流入と開港・貿易のことである。

さらには、「幕末の動乱」についても普通に考える幕末の動乱——安政の大獄、天狗党の乱、天誅の流行といったような——は、簡単にしか触れられない。「開国と幕末の動乱」という枠組みで書いてあるのは、井上 勲による冒頭の通史のみである。よって、本書はタイトルと内容に不一致があると言わざるを得ない。

では本書には何が書いてあるか。

一言で言えば、それは「幕末明治の横顔」である。通常の幕末維新史では取り上げられないニッチなテーマを盛り込んだのが本書である。

通史「開国と幕末の動乱』(井上 勲)では、ペリー来航から王政復古に至るまでの政治史を描いている。印象に残ったのは、近世社会の秩序が開国直後から緩んでいっていることだ。対アメリカ外交の方針について広く意見を聞いたのもそうだし、朝廷が幕府の人事にまで容喙したり、「戊午の密勅」を水戸藩士に手渡したりといったことも含まれる。形式面でも内容面でも、近世社会を支える枠組みが早くも形無しになっていた。

枠組みが流動していった結果、幕府が委任されていると考えられた「大政」の枠外に「国事」という、朝廷が最終決定権を持つ領域が形作られていった。また雄藩と呼ばれる外様の大藩は、その藩主が幕政から排除されていたため、「国事」に参画していこうとする意欲を持っていた。ここに、雄藩(有志大名)が幕府機構から離脱して直接朝廷と結びついていく構造があった。

雄藩の活動は、当初は公武合体運動として具体化し、次に尊皇攘夷運動へと進んだ。こうした活動の中で、藩を基盤とする身分格式は次第に無意味化した。京都の治安維持のため新設された「京都守護職」に就任した会津藩主松平容保が配下にしたのが新撰組だったが、彼らは会津松平氏の家臣ではなく浪士集団であった、ということにもそれが象徴されている。

長州勢力を朝廷から駆逐した「八月十八日の政変」後に設けられた参与会議では、徳川慶喜とともに有志大名が参与に任命された。既に徳川ー譜代・親藩ー外様といった格式秩序は失われ、有志大名は「朝廷と幕府の最高の政策決定に参加し得る権限(p.58)」を身につけた。しかし参与会議は話がまとまらずあえなく瓦解し、いわゆる一会桑政権が時局を担った。

この時に徳川慶喜が将軍後見職を辞して就いたのが、「禁裏守衛総督兼摂海防御御指揮」という新設の職である。「総督」とか「御指揮」という役職名が、幕府の旧来の機構からすでにはみ出していた。 慶喜は幕府と有志大名の双方から調停の役割を期待されたが、幕府と有志大名は対立していたのだから、結果的には板挟みにならざるを得なかった。そしてその板挟みの中で、長州藩が朝敵としてスケープゴートになっていく。

長州藩では、攘夷の戦争に備えて「武士ならびに農工商また猟師また神職・僧侶等を構成員とする軍事集団が編成されていた(p.67)」。ここでは幕府よりもずっと先鋭的に身分格式が崩壊していた。

時局の問題は、開国か攘夷か、長州をどうするか、という2点が大きかったが、第1の点は開国やむなしと時勢は収束した。あとはそれをどうやって正当化するかという手続き論だった。しかし長州問題については政争の末に分極化し、慶喜と薩摩藩がそれぞれの極に位置した。にもかかわらず、慶喜は極としての十分な権威を持っていなかった。14代将軍家茂が長州戦争の最中に死去しても、将軍職を固辞して受けなかったのもそのためだ。

慶喜は将軍就任の大義を得るため諸侯会議の開催を構想。20名の諸侯に上洛令が出された。そこでは「藩主ではないにもかかわらず指名された者が五名いて、徳川慶勝・鍋島斉正・山内豊信・伊達宗城・島津久光の有志大名がそれ(p.84)」であった。将軍ー藩主ー家臣という身分秩序は、ここでも形無しになっている。身分よりも実力がものをいう社会になっていた。しかし結果的には一人の有志大名も上洛せず、慶喜の権威は不完全なまま将軍となった。

慶喜は、直接手を下したわけではないが幕政を広範に改革し(慶応幕政改革)、積極的な外交を行った。パリ万博に参加し、徳川昭武を将軍名代としてヨーロッパに派遣。また慶喜は、松平慶永・山内豊信・伊達宗城・島津久光を招集して四侯会議を開催したが、長州問題で意見が折り合わずこれも瓦解した。幕府と有志大名の最終的な決裂であった。

極めて流動的な時局の中で、大政奉還と王政復古の政変があり、幕藩体制の統治機構の根幹が一括して精算された。だがこの王政復古とは、文字通りの復古ではなく、会議体の構築をそう呼んだに過ぎなかった。その会議体のトップが総裁・有栖川宮熾仁親王。「皇族ないし親王が、摂家を措いて朝廷の主宰者の地位に就くことは前例をみな(p.107)」かった。

徳川慶喜はこの体制から排除されていたが、辞官・納地を受け入れ、体制に参入しようとした矢先に鳥羽伏見の戦いが勃発し、討薩を表明。しかし直後に逃亡して戦線が瓦解、新政府はここに確立したのである。

「Ⅰ 幕末の「世直し」待望」(宮崎ふみ子)では、「世直し」「世直り」を求めた幕末の民衆宗教を取り上げる。幕末には、物価高騰、治安の悪化、災害、大地震、コレラなどが民衆を襲い、人々は社会の変革を希求した。当時の錦絵には、地震の化身であるナマズがかえって救済者として描かれているものがあるほどだ。では民衆は「世直し」後にはどのような世界を期待したか。本章では、不二道と黒住教、「ええじゃないか」を取り上げそれを考察している。

富士講の一種である不二道では「みろくの世」という理想世界が近づいているとしていた。そして「みろくの世」に近づくために肝要なのは「心」であるという、二宮尊徳・石田梅岩的な唯心論を説いた。その教義には幕府にとって危険な面はあまりなかったが、幕府は嘉永2年(1849)に富士講・不二道を「新義之異法」として禁止した。だがこの取り締まりは徹底されず、不二道はさほど打撃を受けなかった。

一方、黒住教は病気治しから初まり、吉田神道を援用して権威を得、太陽神としての天照大神への信仰を強調した。黒住教では「神代」「神世」が理想の世とされたが、それは「三千年の昔」の再来であり、大和風の文化が再興される時であった。

「ええじゃないか」は、伊勢神宮のお札等が降ったことををきっかけに起こった民衆の祝祭であるが、本章ではこのケーススタディとして三河国牟呂村、東海道藤沢宿の場合を取り上げて、その祭礼等がどのように行われたのかを分析している。その中で注目されるのは、藤沢宿で葬礼の仮装行列が行われていることで、これは明らかに伝統とは異なる要素である。また祝祭が20日間も続くことも異例だった。

「ええじゃないか」で謳われた「世直し」は、生活条件の改善を求めていた。しかし「ええじゃないか」は心情的にはそれを基調としながらも、その要求を正面から掲げることはせず、祝祭の中に日常性から逸脱することで消極的にそれを表現した。

なお「ええじゃないか」は伊勢神宮のお札をきっかけにすることが多かったが、おかげ参り(伊勢参宮)に行くことは少なく、人々は近隣の名社に参詣した。多くの人が手近に神社参詣を楽しむことができるようになっていたから、伊勢神宮の重要性は低下していた。「ええじゃないか」を伊勢信仰や天照大神信仰に短絡的に結びつけることはできない。

明治維新後、為政者たちは幕末の庶民信仰に類似した形式と内容で、宗教的色彩を帯びつつ民衆を告諭した。明治維新は民衆が求めていた「世直し」そのものであるとしつらえたのである。しかしそこでは、真の要求であった生活条件の改善は置き去りにされており、神話の世の中が具現化したということだけが謳われていた。

「Ⅱ 動乱の時代の文化表現」(延広 真治) は、本書中異色の論考。文久以降の舌耕文芸(講談・落語・浮世草子・歌舞伎などの大衆文芸)における怪談話についてその変遷を詳細にまとめている。ところが、怪談話の内容に深入りしているために、それが「動乱の時代」とどう結びつくのか全くわからない。本編は完全に「文芸史」の範疇である。

本編では「怪談牡丹灯籠」に先行する怪談話を分析。それは、「幽霊が恨みを晴らすために現れるがお札が貼ってあって家へ入れない。そこに第三者が通りかかり、幽霊がお札を剥がすことを依頼。その人物によりお札が剥がされて幽霊が対象者を呪い殺す」といった基本的な筋を持つ。そこで私が気になったのは、この「お札」が「二月堂の牛王(のお札)」である話がとても多いということである。二月堂とは明示されなくても「牛王」であることが多い。どうやらこの頃の家には、戸口に戸守(とまもり)と呼ぶお札が貼ってあり、その代表が「二月堂の牛王」であったらしい。

二月堂とは、言うまでもなく東大寺二月堂(お水取りが行われている場所)。それで私はかつて二月堂には牛王こと牛頭天王が祀られていたのかと思ったが、(以下、読書メモの範疇を超えるが)調べてみるとそうではないらしい。普通には「牛王のお札」とは「牛王宝印」のことで、熊野の牛王が有名であるが、二月堂でも「牛玉(ごおう)刷り」というお札があり、今でも作られているということである。

「Ⅲ 「武威」の国—異文化認識と自国認識」(池内 敏)では、近世の日本人が、自国をどのような国として認識したかが述べられる。まず為政者の側では、将軍を「日本国大君」と対外的に呼ばせたのが注目される。これは実質的には対朝鮮の自国認識であった。日本は自らを小中華に位置づけ、朝鮮はそれになびく国と見なしていた。

それは朝鮮との交流窓口であった対馬においてもいえる。対馬は異文化衝突の現場でもあったが、それがやがて「優れた日本」と「劣った朝鮮」との問題であると捉えられるようになり、外交交渉においても朝鮮を武威でもって押さえつけることへの憧憬すらも表明された。日本は、朝鮮よりも武力のある強い国でなければならなかった。そういう為政者の態度は民衆にも共有されていたものと見られる。

また、「武威」の国として重要な神話が神功皇后三韓征伐であり、歴史的事実として秀吉の朝鮮侵略があった。ただし神功皇后の神話の流布は、常に朝鮮への蔑視や武威の強調に力点があったのではないということにも注意が必要である。

「武威」は自国認識としては広く共有されていたと見られるが、現実の日本は長く武力行使することはなく、その統治も江戸時代中頃からは「礼」に基づくものに変質し、「武威」は観念的なものになっていた。それでも「武士」は武力の現実・限界を感じていたようだ。幕末には、むしろ国家運営から排除されてきた人々の方が、対外危機に際して好戦的な意見を持ち、武力行使を願望していたのである。

「Ⅳ 徳川の遺臣—その行動と論理」(井上 勲)では、徳川の遺臣について述べている。

まず、「遺臣」とは何か。遺臣とは、王朝交代が激しかった中国で、前王朝に仕え、現王朝に仕えることをよしとしなかった人々である。とすれば、形式上であれずっと天皇が統治してきた日本には遺臣はいない。水戸藩の「大日本史」の「隠逸伝」でも、俗世間から遠ざかった隠者が語られるだけで、遺臣は登場しない。ところが徳川は、朝廷とは別に王朝と呼ぶに足る機構を持っていた。よって幕府の崩壊に伴い「遺臣」が生まれることとなった。

大政奉還後に朝廷が諸侯に上洛を命じた時、朝廷に従うことを潔しとしなかった諸侯は官位を返上しようとした。官位が無ければ朝廷とは関係がなく、上洛令に応える必要はないからだ。官位返上の嘆願書を出した譜代大名は94名もいた。しかし頼るべき徳川慶喜は、新政府軍の攻撃を受ける前に自ら権力を解き、彼らをほとんど見捨てた。新政府に恭順の態度を取ったからである。徳川の臣であろうとした人々は、梯子を外された恰好になった。幕府に殉じて自刃した川路聖謨(としあきら)は間違いなく遺臣である。

また、新政府に反発した諸藩は奥羽列藩同盟を結成。蝦夷地に「徳川の一族を迎えて君主とし、遺臣による政治体を構築(p.252)」しようと夢想した。遺臣であろうとした人々の最後の夢であった。

幕府に殉じなかった旧幕臣は、新しい時代をそれぞれに生きた。旧幕臣や朝敵とされた藩の士族にキリスト教徒が多かったことは注目される。世の中の波に乗れなかった人々が、キリスト教に惹かれたのだ。例えば奥野昌綱がそうである。

一方、旧幕臣であった成島柳北は朝野新聞主宰して言論人になり、文明開化の世の中を批判的に見た。同じく福沢諭吉は、新しい世の中を批判的に見ながらも、流れに棹さした。福沢諭吉は「士族の精神」の振起を期待しながらも、西郷を擁護した「丁丑公論」、勝海舟の江戸城無血開城を批判した「痩我慢の説」を筐底に蔵し続けたのである。福沢の死後これらが公刊されると、「痩我慢」を続けていた旧幕臣にとっても、新政府で栄達した旧幕臣にとっても、これは明治維新をどう見るかという問題提起となった。

「Ⅴ 明治維新とアジアの変革」(山室 信一)では、 明治維新がアジアの国々にどう見られたのかを述べている。

明治維新は、アジアの国々にとって自らの変革のお手本と捉えられた。中国での洋務運動でも日本の経験は参照された。しかし暦法や服制など、生活文化までも西洋を盲目的に真似したのは批判されている。

さらに日清戦争後には、旧体制を変革するためにより真摯な関心が明治維新に寄せられ、黄遵憲の『日本国志』が大きな影響を与えた。特に康有為は日本に学び、『日本政変考』を編んで光緒帝に進呈。康有為は明治維新の経過を自らの都合のいいように改竄して皇帝に報告し、それが受け入れられ「百日維新」が実されたが、西太后によるクーデターにより頓挫した。ただしその中で教育の重要性は普遍的だったので、日本への留学や日本書の翻訳はその後も続けられた。

一方孫文にとっては、明治維新はお手本でありながらも、その神権政治などは受け入れがたかった。むしろどうして革命(明治維新)を起こすような人物が生まれたかという、教育や思想、精神の方に関心があり、西郷隆盛は革命家であると同時に日本の象徴として受け取られた。しかし日本があからさまに中国を蚕食するようになると、明治維新は批判の対象となっていった。

 

全体として、先述したように、本書は「開国と幕末の動乱」という自ら設定したテーマから逸脱した論考が多い。特にⅣとⅤは維新後を扱っており、論考自体の質はともかくとして、本書に掲載することは適当ではなかったと思う。

その上、全体を通じて浮かび上がってくるものがあるかというと、そうでもなく、構成が散漫であると言わざるを得ない。かなり自由に書いた論考の集成だ。せめて「開国と幕末の動乱」という時代の枠組みを守って書いて欲しかった。編集の井上勲自身が維新後を中心とした論考(Ⅳ)を書いているので、自由な編集方針だったのだろうが残念だ。

幕末明治の横顔を様々な角度から書いた論考集。


2023年3月28日火曜日

『後水尾天皇』熊倉 功夫 著

後水尾天皇の評伝。

後水尾天皇は、江戸幕府初期の天皇である。戦国時代よりは持ち直したとはいえ時の朝廷の権威は未だ弱く、徳川の支配を受けなくてはならなかった。この難しい時代において、幕府に翻弄されつつも天皇・朝廷の復興に力を尽くしたのが後水尾天皇である。彼は幕府に従いながらも、江戸とは違う中心として朝廷を文化面で盛り上げた。本書はその事績を辿るものである。

戦国時代、朝廷の権威は地に落ちていた。しかし信長・秀吉の時代には急速に高められる。権力者にとって下剋上は望ましいことではなかったので、天皇の権威を借りて秩序を固定化しようとしたからである。すでに戦乱の時代が終わり、現実に下剋上を成し遂げることが不可能になったとき、成り上がりに乗り遅れたものたちは下剋上を風俗化し、「かぶき者」として異風異体で異様な名前を名乗り、封建道徳に従わず町で名を売った。身分の低い牢人たちだけでなく、そのような者が若公家にもいた。

その一人に猪熊教利(のりとし)がいた。慶長14年(1609)、彼は仲間とともに後陽成天皇の寵愛を受ける官女と密通。朝廷は検断権がなかったので、幕府に処分を依頼。彼らは処分されたが、面目丸つぶれとなった後陽成天皇は公家衆はもちろん母親や皇后とも逢わなくなり、ひたすら譲位を願うようになった。

その以前、慶長3年(1598)に、すでに後陽成天皇は譲位を望んでいた。しかし皇位を継ぐべき一宮・二宮(長男・次男)はなぜか門跡寺院へと送られた。そして官女密通事件を受け、後陽成天皇の譲位希望が改めて幕府に伝えられたのである。しかし家康(とそのブレーン金地院崇伝)は譲位に際していろいろと注文を付けた。天皇は反発したが、朝廷は財政的にも幕府に依存しており家康のいうとおりにする以外はない。天皇は「ただなきになき候」と涙に暮れながら承諾。結果、慶長16年(1611)、遂に三宮・後水尾天皇が即位。このゴタゴタによって後陽成院と後水尾天皇は不和となり、それは終生解けることはなかった。

慶長18年(1613)には、新内裏が完成した。幕府はその実力を示威し、また朝廷を掣肘する意図を持って、厖大な費用をかけ比類なき内裏を造営した。さらに幕府は公家衆法度・勅許紫衣法度を制定。寺院人事は幕府の許可を要するようになり、公家の自由が制限された。

元和元年(1615)、家康は朝廷対策の仕上げとして禁中並公家諸法度を制定。禁裏に対して法制を発布したのは、武家政権として前代未聞のことであった。ここでは公家衆法度が天皇にまで適用されるとともに、武家官位と公家官位を分離し、朝廷の任官に幕府が介入しうる余地を作った。ただし公家については、その「家業(家々之学問)」が公的に認定され、一面でその権利が保護されたことは見逃せない。

そして、禁中並公家諸法度では、天皇のつとめは「諸芸能之事」と規定された。天皇は文化面の権威であるとされたのである。後に述べるように、後水尾天皇はこれを体現した。

ところで家康は、元和6年(1620)、後水尾天皇に二代将軍秀忠の娘和子(まさこ)を入内させた。後水尾天皇には、すでに女官との間に皇子賀茂宮・皇女梅宮という二人の子どもが誕生していたためこの結婚には難色を示した。彼は譲位してこの結婚を避けようとしたが、藤堂高虎が恫喝して公家衆が従い、やむを得ず受け入れた。入内の道具は厖大であり、幕府の力はここでも朝廷に見せつけられた。和子入内は、朝幕の親和を示すというよりは、朝幕の軋轢を生んだ。

その軋轢もようやく和らいだ頃、家光が三代将軍に就任。秀忠と家光は将軍宣下のために参内。その派手な行列と物量に公家は驚いた。また禁裏御領として1万石が寄進された。後水尾天皇はこれに応え、また旧儀復興の意図から和子を中宮とした。南北朝以来廃絶していた中宮の復活である。またこの行幸を記念して年号が「寛永」に改まった。

そして秀忠は後水尾天皇を二条城に招き、寛永3年(1626)、5日間にわたる二条城行幸が行われた。将軍の私第(邸)への行幸は、これ以後江戸時代を通じて行われなかった。将軍の権威が確立し、天皇の権威を借りる必要がなくなったからである。なおこの時の行幸では、天皇の膳具は全て黄金であり、小堀遠州が調整した風呂釜など茶道具も全て黄金であったという。未だ「かぶき者」的な絢爛さを世の中は残していた。

こうして融和的になっていた朝幕間は、寛永4年(1627)、「紫衣事件」がおこって再びギクシャクした。勅許紫衣法度によって寺院人事・紫衣勅許は事前に幕府の許可を得ることになっていたが、朝廷が幕府の許可を経ずに行っていたことが明らかになり、金地院崇伝らが起草した「上方諸宗出世法度」でその間の出世入院を無効とし、綸旨を破棄させたのである。

これは当然に各宗に大混乱をもたらし、また寺院では強硬派と従順派に分かれて争いが起こった。特に強硬派だった大徳寺の沢庵や妙心寺の僧らには配流など厳罰が処された。そして自らの発行した綸旨が無効だとされた天皇は面皮を欠くことになり、女一宮に譲位したいと幕府に申し入れた。後水尾天皇はまだ30代であった。

なお後水尾天皇はこの頃腫れ物で苦しんでおり、灸治を受けるために譲位を希望したという説もある(天皇在位中は体を傷つける灸治は受けられない)。

譲位の希望を受けて、幕府は難色を示し譲位引き延ばしを試みた。そして家光の乳母江戸の局を上洛して拝謁を要求。朝義復興が念願だった天皇としては、この無位無官の女性の参内は不快であった。そして幕府の容認は得られないと悟った天皇は、公家衆にも知らせずゲリラ的に儀式を行い、勝手に譲位してしまった。

そこまでして譲位したのは、「中宮和子以外の女官に生まれた皇子が、殺されたり、流産せしめられていた(p.117)」ことが背景にあると考えられている。後水尾天皇には18人の皇子と19人の皇女がいたが、この時期には不自然に和子以外からは子どもが生まれていないのである。幕府はなんとしても和子の血統で次の天皇を出したかったから、他の子どもを暗殺したのはありそうなことだ。しかし肝心の和子の生んだ皇子は生まれてすぐに死亡し、皇女しか残らなかった。

秀忠は突然の譲位に激怒したが、朝廷には表立って処分は下らなかった(武家伝奏の中院通村が更迭された程度)。こうして和子の生んだ皇女が女帝・明正天皇として即位した。奈良時代以来、約860年ぶりの女帝であった。そして、院の住居である仙洞御所と、和子改め東福門院の女院御所が造営され、後水尾院の真価が発揮される寛永時代が始まった。

ところで、朝幕関係のキーパーソンになったのが京都所司代である。京都所司代板倉勝重は人柄がよく思慮深く、家康のみならず後陽成天皇にも信頼されていた。対朝廷の幕府政策は実質的には京都所司代によって決定されており、京都所司代は一官僚ではなく、西日本の最高司令官であった。これを継いだのが息子の板倉重宗で、彼は和子入内や後水尾天皇の譲位という難しい問題を処理し、朝幕融和の時代を作りあげた。

重宗は後水尾院と協力して町方の儒者松永尺五を応援したり、本阿弥光悦に領地を与えたりするなど、文化の後援者となった。彼は京都の町衆を幕府の手中に取り込み、特に上層町衆には代官職を与えて幕府の御用商人化するなど、町衆、文化人、職人などをある意味では籠絡した。しかしそれは政治的な思惑ばかりでなく、例えば安楽庵策伝の『醒睡笑』は重宗が面白がったことがきっかけで公刊されたものであるなど、「板倉所司代一個人の判断で文化人が庇護され新しい創作に成功(p.144)」するような、見識のある文化の庇護者であった。

板倉所司代とならぶ寛永文化のサロンだったのが、鹿苑寺。住持鳳林承章は後水尾院の近縁で、公家、僧侶、絵師や医者、町人ら多くの人が鹿苑寺に集い詩文・芸能を楽しんだ。茶の湯も盛んで、千宗旦(利休の孫)、小堀遠州も招かれ鳳林和尚と親しく付き合っている。絵師の山本友我もサロンメンバーで、その子で漢学者の山本泰順は23歳で『洛陽名所集』を完成させているが、この高度な仕事が20代の若者によって成し遂げられた背景にはサロンでの交遊があった。

後水尾院自身も禁裏(天皇在位中)や仙洞でサロンを主宰していた。その最大の成果は立花(花生け)である。花は単なる飾りを超え、自立した鑑賞の対象、文化となった。後水尾院は自らも花を生け、立花をコンクール形式にして多くの人に生けさせた。殊に伝説的なのは「宮中大立花」というイベントだ。後には禁中には人が自由に出入りすることはできなくなるが、後水尾院のサロンは近世的身分秩序に捕らわれておらず、「宮中大立花」には出家・町人のみならず立花に優れていれば誰でも選ばれて参加できた。なお立花の採点者は後水尾院と、池坊専好。専好は院の意を受けて法橋に叙せられている。

女帝明正天皇はいわばショート・リリーフで、幕府としては東福門院に皇子の誕生を期していたが、結局皇子が生まれなかったため、東福門院以外の女性が生んだ子が次の天皇となった。それが後光明天皇である(東福門院の養子。なお後西天皇、霊元天皇も東福門院の養子)。後光明天皇の即位の儀式は、幕府の意向で非公表で行われた。幕府は身分制を貫徹するため、禁中に誰でも入れることをよしとしなかった。鳳林和尚はこの措置に憤慨している。

後光明天皇は和歌はあまり詠まなかった代わりに朱子学に傾倒し、『藤原惺窩文集』に序文を贈ったり、町の儒者朝山意林庵を禁中に招いて儒書を講義させたりした。この頃までは、在野の学問と禁中の学問が交流していた。後水尾院は才気溢れる後光明天皇に期待し、禁中の有職(しきたり)を書き記した『当時年中行事』を後光明天皇に与えている。これは後醍醐天皇の『建武年中行事』を引き継ぎ、朝廷の儀礼を復興させるための書であった。しかし後光明天皇は22歳の若さで急死してしまう。

ところで、後水尾院は大量に著述した。著述の量でいえば天皇としては空前絶後だ。内容は有職研究、和歌・物語の注釈、歌集といったものが中心である。禁中並公家諸法度では天皇の務めは「諸芸能之事。第一御学問也」とされていたが、この学問に後水尾天皇は命をかけていた。数多くの年中行事をこなしながら、古書を見、自ら著述するだけでなく、早くも元和7年(1621)には勅版『皇朝類典』を編纂させている。 

また後水尾院は儒学にも明るく、社家出身の赤塚芸庵(うんあん)を出仕させていた。 彼は約55年間に渡って院に近侍した最も院に近い人物で、かなり反幕的であった。芸庵は朱子学的名分論から天皇が君で将軍は臣と考えていた。後水尾院の儒学の背景にはそういう思想があった。

後水尾院が異常なほど力を入れたのは和歌の道である。「和歌の道を王朝の盛時にもどすこと、それが後水尾院の最大の関心事であった(p.209)」。後水尾院は、天皇・上皇の地位にありながら幕府の頤使(いし)を甘んじて受けなければならない自らの無力さを歌に託し、あるいは求道の思いを込め、逆に幕府を賞讃するにも歌を以てした。院にとって歌は内面を表現する道具であるよりも、歌を通じ王朝の復興を実現しようとしたと言える。その表現は自由自在であり、クロスワードのような歌まで作っている(東照宮三十三回忌にあたってつくった「蜘蛛出」)。

やがて仏道に惹かれていった院は、慶安4年(1651)、何の前触れもなく突然落飾した。以前から入道の希望がありながら、家光の反対で実現しなかったという事情があり、その前月に家光が歿したことから行われたものと見られる。

後水尾院が仏道に惹かれる契機となったのは、禅僧一糸文守(いっし・ぶんしゅ)との出会いである。院は一糸から文通によって教えを受け傾倒。また一糸は院の娘梅宮と深い関係にあったから、一糸は梅宮(文智尼)を院を結ぶ紐帯でもあった。一糸は正保3年(1646)に39歳の若さで死んだが、その30年後には「仏頂国師」の号を贈っている。一糸没後も院の禅への傾倒は沢庵、龍渓性潜を通じ、黄檗宗へと進んだ。

後水尾院の晩年の大プロジェクトに修学院の造営がある。後光明天皇没後の後水尾院は、所司代に自由に御幸できるよう切々と訴えて認められ、洛北の地をたびたび訪れた。そこには山荘を造営したいという企図があった。文智女王の円照寺が修学院の地に創建されたのも、その伏線として位置づけられる。修学院の山荘は、当初は隣雲亭という茶屋一宇に過ぎなかったが、院は壮大な構想を持っており、それが順次実行に移された。そして鳳林和尚らの協力の下、長期間かかって遂に独創的かつ大規模な山荘、修学院離宮が完成。

修学院離宮は上中下、3つの茶屋が小径によって結ばれる類例を見ない構成で、上の茶屋は浴竜池という人口の大池を持っているが、この池は地盤から15メートル近く盛り土して造成されたものである。これだけでも修学院離宮がどれだけの労力を使って造営されたものか窺える。ちなみに、院にはここに門跡寺院を建立する計画があったが、それは実現しなかった。

修学院離宮は、決して後水尾院の秘密の山荘ではなかった。それどころか庶民の田畑とも交錯していたし、様々な人が離宮を訪れた。さながら今の団体見学のようなことまで行われていた。公家・町人社会が隔絶していない、寛永文化の名残があったのだ。そして修学院は新たな文化の揺籃地にもなった。離宮では茶の湯が盛んに行われ、「修学院焼」という焼き物が修学院で生みだされた。

修学院を訪れる後水尾院は、必ずと言っていいほど東福門院を伴った。二人は政略結婚であったが、晩年は円満だった。東福門院は幕府から後援されていたからお金があり、大量の衣装を派手に注文していた。それは武家風として反発されたが、羨望されもした。そしてその財力は衣装だけでなく、寺社に対する数多くの寄進、寺院の創建などにも使われたから、東福門院は寺社の庇護者として重要な役割を果たした。そして37人にものぼる後水尾院の子どもたちのよき母親であり、彼ら彼女らを自らの養子として経済的にバックアップした。梅宮こと文智女王もその篤い後援を受けた一人である。

こうして延宝8年(1680)、後水尾院は85歳で天寿を全うし、静かに亡くなった。

なお、後水尾院の十男に天台座主の「獅子吼院」こと妙法院堯恕法親王がいる。この人は俊敏熾烈なところのある人であったが、画才があった。今に残る後水尾院の肖像画の顔は、堯恕法親王が描いたものである(体は狩野探幽)。

全体として本書が強調するのは、「寛永文化」である。著者の強調以前には、寛永期の文化は過渡期的なものと扱われて、例えば「元禄文化」のような独立した価値を与えられていなかった。しかし著者は寛永文化を、朝幕の融和を基調とし、京都所司代を軸として公家・武士・町民が近世的身分秩序に囚われず交流して生みだした文化と表徴した。そしてその文化の後援者であったのが後水尾院であった。

後水尾院は、天皇時代は朝幕の軋轢に苦しめられた。しかし譲位後は比較的自由になり、自身も和歌や著述を中心に創造性を発揮し、また修学院離宮という寛永文化の到達点を作りあげた。本書はそうした後水尾院の生涯を描き、その価値を浮かび上がらせている。

しかし、やや不足に感じたのは、東福門院についてである。後水尾院は昭和天皇・平成天皇(存命中の上皇陛下)に次ぐ長寿であったが、東福門院も延宝6年(1678)まで生きており、人生を共にしている。東福門院の活動は後水尾院の活動と補足的な関係になっているように見受けられ、そこをもう少し知りたいと思った。本書に描かれる東福門院は概略的である。

後水尾天皇と寛永文化の価値を詳述した名著。

 

【関連書籍の読書メモ】
『徳川家の夫人たち(人物日本の女性史 8)』円地 文子 監修
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/01/blog-post_6.html
徳川家の女性たちを描く本。水江漣子による東福門院和子の評伝がある。

『信仰と愛と死と(人物日本の女性史 7)』円地 文子 監修
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/01/blog-post_2.html
信仰に生きた女性を江戸時代中心に述べる本。安田富美子による文智尼の評伝がある。 


2023年3月25日土曜日

『将軍の生活』石井 良助 著

江戸時代の将軍と法令、行政などについての読み物。

著者の石井良助は法制史の泰斗。本シリーズは「時の法令」に連載したものを「江戸時代漫筆」「続江戸時代漫筆」などとして刊行されたものの復刊で、その最終刊にあたる(連載時期は昭和38〜40年)。

主な内容は、江戸時代の朝廷、朝幕の関係、将軍の生活、大奥と御台所、幕府の財政の変遷、天保の改革、公事方御定書、人別帳、村のこと、などとなっている。分量としては公事方御定書と人別帳が多い。

本書は一つのテーマでまとめられたものでなく、エッセイ風にいろいろな話題が出てくるので、以下気になったもののみメモする。

【江戸時代の宮廷】

  • 朝廷の石高はおよそ10万石だったが、天皇の日常費である3万21石6斗を差し引き、1万3000石を上野の輪王寺宮で取り、残りを宮家、五摂家、その他の朝臣に分配した。輪王寺宮の存在が意外である。
  • 摂家の中で一番家領が多いのが近衛家で2860余石。それでも生活に不足するので、子女を寺院に入れた。摂家の子女が入寺すると(摂家門跡)、年に50石なり100石なり摂家に相応の御手伝い(上納金)があった。 
  • 公家にはいろいろな家職があった。例えば久我家は盲人に官位を与えた。小森家は日本国中の医師の取り締まりで多額の収入があった。
  • 医師は「法体では御門を入れないので、付髷をして、冠を頂き、法橋なら六位の袍、法眼なら五位の袍をつけて天脈拝診に上が(p.28)」った。法体では御門を入れないという規制が不思議である。例えば正月には、7日間の「御修法(みしほ)」として、紫宸殿を仏壇として真言宗の僧侶によって玉体安穏の法事が行われたのだが、これはどうやっていたのか。
  • 五摂家から天皇にはいろいろなものを献上するが、献上したものはそっくりそのまま朝廷から返された。

 【将軍の生活】

  • 将軍が死去した際、御三家や譜代大名、諸番頭らは21日間、 外様大名は14日間、月代を剃ることが禁止された(喪に服すため)。意外である。
  • 幕府は殉死を禁止し、寛文年間に行われた宇都宮藩家臣の殉死では遺族に厳罰を処した。以後、殉死に変わって「薙髪」(頭髪の結び目から切ること)が行われるようになった。
  • 高級幕臣人事の発表は将軍自身の口から発表され、将軍は書付を見ずに申し渡した。
  • 毎月17日に行われた東照宮遺訓拝聴という儀式では、将軍は(家臣が読み上げる)遺訓を恭しく拝聴した。これを読む役人は尻込みしたという。
  • 林羅山の孫、林鳳岡は元禄4年(1691)に将軍綱吉の命によって束髪にした。それまで儒者は法体だったのが、このときから俗体になった
  • 将軍吉宗が紀州から連れてきたものの子孫が務めた「御庭番」は、スパイ活動をして民情を探った。

 【幕政】

  • 幕府は全般的に予算制度を設けたことはなかった。財政の計算をしていなかったのではないが、そのお金の使い方は今の会計学から見るととてもわかりにくいものだった。
  • 吉宗は、参勤交代による大名の江戸在府がそれまで1年であったのを半年にする代わり、高1万石につき百石ずつの米を幕府に収めさせる制度にしたことがある(享保7〜16年のみ)。

【公事方御定書】

  • 江戸時代前半には体系的な法典はなく、裁判は判例主義で行われた。そのため先例が重要となり、労帳の記録を分類編集した「御仕置裁許帳」が綱吉の頃に作られた。その一部を条文の形にしたのが「元禄御法式」。
  • 吉宗は法律好きで、評定所一座に犯罪と刑罰の分類を作成させた。これが「享保度法律類寄」であるが、これは当時行われている法を記したものであった。こうして法典編纂の機運が高まった。
  • 吉宗は評定所一座に「公事方御定書」の編纂を命じ、寛保2年(1741)に81通の法令を収めた上巻、刑罰を定めた下巻が完成。しかしこれは秘密法典だった。その下巻は三奉行(寺社・町・勘定奉行)以外には見ることを禁じていたからだ。犯罪と刑罰の組み合わせを秘密にしたのは、刑罰の威嚇的効果を狙ったと考えられている。
  • 御定書は秘密法典といっても、徐々にその内容を筆写するものが現れ、実際上秘密でなくなっていった。誤りの多い写本が流布して不都合があったので、天保12年(1841)に公刊されたのが『棠蔭秘鑑』である。
  • 「公事方御定書」は完成直後から改訂作業が行われた。それを担当したのが大岡越前守である。
  • 御定書編纂における立法者の意図を知るための資料集(コンメンタール)である『科条類典』は明和4年(1767)に完成。ただしこれも奉行だけが見られる秘密資料であった。『科条類典』の各条に、類例、裁許例、比例を加えたものが『徳川禁令考後集』である。

 【人別帳】

  • 天和3年(1683)に、人別帳によって町内の住人を改めて毎年町年寄方へ届け出すべしとされており、その目的は町内に「徒(いたずら)者」を置かないためだった。しかし江戸時代前半における人別帳の詳細は不明である。
  • 「徒者」とは、例えば借家人が家主に断らないで同居人を置き、人別帳には「出居衆(商売をするために江戸に出てきたもの)」としながら、商売もせずにフラフラしているような者である。
  • 人別帳は次のように作成する。(1)家主(家守)が、自分の差配する一筆ごとにそこの住民を書き上げ、各人に実印を押させ、毎年4月25日までに名主に提出する。なお女は通常実印を持っていないので印は押さない。(2)転入・転出は毎月調べて書き出し、翌月1日に名主に差し出す。これを4月〜翌3月分までまとめたのが「出人別帳」「入人別帳」。
  • 天保14年(1843)に、天保の改革の一環として人別改令が出された。これは農民の江戸への流入を規制するもの。その要点は次の通り。
    • 【町方】 (1)在方から新たに江戸の人別に加わることを厳重に禁止、(2)特別に必要のある者や職人、奉公の場合は、手続きに従って免許状などを取得すること(ビザ制度)、(3)町方の者が出家したり、神道家や陰陽師などになる場合は町役人から町奉行所へ申し出ること、(4)人別帳の作成手順の定め、その他転居や一時滞在の手続きなど。
    • 【在方】基本的には【町方】と同様だが、百姓が廻国修業や六十六部巡礼などに出る場合は、これまでは村役人または菩提寺から往来手形をもらえばよかったのが、村役人から代官、領主、地頭に願い出て、出稼者の振合で許状を受けるようにした。
    • 【大名・旗本】上記に対応したもの。出家を願い出たものは十分に吟味して許可を出すようにとしている。 
  • 本書には、このようにして決まった「人別帳」「仮人別帳」(一時滞在者用)の様式が掲載されている。

【江戸時代の村】

  • 年貢は村を単位に課税された。個人や一筆ごとの土地に課税されたのではないが、課税される土地は決まっており、検地によって「高」(玄米に換算された標準生産高)を付せられた土地を持っている者が「高持百姓」。村役人になるのは彼らの特権だった。
  • 田畑屋敷への課税を本途物成という。山・原野・池沼などにも若干の租税が課せられることがあり、それを小物成という。
  • 江戸時代前期には中地主が主体で小作人は少なかったが、後期になると少数の大地主と小作人とで形成されるようになった。 
  • 村には自治の機関である村役人(名主、組頭、百姓代)=村方三役があり、村寄合という総村民の集会があった。なお村は村民と独立した法人ではなく、村の財産は村民の財産であり、村の訴訟は村民の訴訟であった。村は村民の集合体と考えられていた。なお、明治以降になると村は法人となっていった。
  • 町方でも公役を負担したり、後にそれが銀納になったり、営業税にあたる冥加・運上などの租税負担があった。

本書は全体として、近世の行政システムを様々な面から述べるものとなっている。その構成は体系的なものではないので、本書を読めばこれがわかるというものではないが、専門的なテーマにしては語り口が柔らかく読みやすい。

個人的な興味としては人別帳と宗教関係のこと(例えば人別帳の作成に菩提寺はどう関与したか)を知りたかったが、意外と宗教関係についてはあっさりとした記述でよくわからなかった。

江戸時代の行政システムに関する専門的なのに気軽な読み物。

 

2023年3月21日火曜日

『葬式と檀家』圭室 文雄 著

檀家制度がいかにして生まれ、それが何をもたらしたか述べる本。

日本人の多くが仏教的葬儀を行うようになったのは300〜350年前くらいからにすぎない。では何をきっかけに仏教的葬儀が行われるようになったのか。

その大きな契機となったのがキリシタン対策であった。慶長18年(1613)、幕府は伴天連追放令を出し、キリシタンを厳重に調査・改宗させるよう全国に迫った。本書ではこれに対する事例として小倉藩の動きが紹介されている。小倉藩の細川忠興・忠利親子はかつてはキリシタン布教に極めて好意的であったが、伴天連追放令以降は弾圧に乗り出した。小倉藩では慶長19年に「宗門改め(切支丹改め)」を行い、キリシタンが発覚した場合は改宗させ、改宗した証拠に「転び証文(転切支丹改請文(ころびきりしたんあらためうけぶみ))」を出させた。これは本人だけでなく、村民(保証人)、村役人、檀那寺にも責任を持たせた文書で、これが寺請証文の原点である。

寺請証文は、キリスト教徒の摘発と、それを改宗させた証拠として作成される文書であったが、これが10〜20年後の寛永年間(1623〜43)になると日本人全員に作成されるものとなる。これは全国一斉につくられるようになったのではなく地域差があり、本書では早い時期に作成が進んだ京都の例が紹介される。京都では、キリシタン以外の庶民に対して寺請証文が作成された初見は寛永12年(1635)である(幕府が天領で寺請証文の提出を命じたのも寛永12年)。なぜキリシタン以外の住民にも寺請証文をつくらせたのかというと、キリシタンの根絶が目的であった。

なお寺請証文の作成にあたり、勧進など遍歴する宗教者を警戒するよう領主が命じているのが気になった。例えば熊本藩では、諸勧進僧・虚無僧・簓摺・乞食・病者等が村の外から入ってきた場合は「念を入れてあい改め書類を作成すべし」、としている。

寛永14年(1637)には、島原の乱が起こる。これは領主の苛烈な農民支配への反抗が理由であったが、その首謀者はキリシタンが中心となっており、各地で代官だけでなく僧侶を殺し寺院を焼き払うなど、既存宗教への攻撃が行われた。島原の乱の戦後処理では幕府は乱に参加したものだけでなく、領主にも非常に厳しい処罰を行った。

そして島原の乱を契機として、「寺請制度をいちだんと強化するとともに、人心の完全な把握のため、宗門人別帳(戸籍)の村ごとの作成、さらには五人組組織の形成にともなう五人組帳の作成など、村落内部においてきめ細かく民衆の把握につとめることを目指した(p.60)」。これにあわせて高額な報奨金をともなうキリシタン密告の制度も設けている(後述)。

寛文15年(1638)、幕府はまず天領に案文を明示し、日本人全員がそれにならって寺請証文を作成するよう命じた。これはキリシタンであるという疑いがかけられた場合、菩提寺(葬式をする寺)の住職が申し開きをしなくてはならないということを意味する。しかしその時点で、日本人全員に菩提寺が定まっていたわけでもなく、また日本人全員を受け入れられる寺があったわけでもなかった。このため僧侶を定住させたり、季節的に使っていた堂宇を寺に昇格させるなど、寺を急いでつくる動きが見られた。

また寺側としても、戸籍調査が住職の手に委ねられたことによって、「幕府の権威を背景に檀家制度を形成させていく絶好の機会(p.65)」が訪れた。

ところでそれから時代を少し遡った元和元年(1615)、幕府は「寺院法度」を出して仏教教団の統制を行っている。これには各宗を本山を頂点とする組織化の原理が組み込まれており、各宗本山は末寺の把握に努めた。さらに寛永8年(1631)には新寺建立禁止令を出している。そして寛永9〜10年に「寺院本末帳」を提出させ、教団の固定化を図った。この帳面に登載されていることが寺請寺院になるための条件であった。

大本山の大僧正は将軍が任命、将軍の推薦により紫衣と勅賜号が贈られるなど幕府は本山の権威を認めるとともに、江戸等に本山直轄の「触頭寺院」を置かせて幕府との窓口寺院を定め教団を幕府の支配機構に組み込んだ。すなわち、仏教教団は幕府の統治機構の一翼を担う代わりに統制も受けた。そして、この仕組みに最も適合的で、教線を拡大させたのが一向宗である。

その理由として、一向宗では妻帯が許されて血縁によって財産が相続されていったことが挙げられているが、 葬祭に特化した教義にもその一因を見ることができよう(臨済宗妙心寺派・曹洞宗も葬祭を軸としていたので発展した)。その理由はともかく、一向宗が慶長6年〜元禄13年(1601〜1700)の50年間に教団を急拡大させたのは事実である。

では、そういった情勢の中で地方寺院はどのような状態に置かれていたか。本書では熊本城下の一向宗(西本願寺系)寺院の様子が描かれている。地方寺院は、本山に「寺」として認められ(紙寺号:末寺名を付けてもらう)、「木仏」を下付され、また「親鸞絵像」や「蓮如絵像」などを本山から下付される必要があった。もちろんこうしたものは無料でもらったのではなく、かなり高額の謝礼をともなっていた。しかし寺請寺として認められなければ寺の存立意味が薄まるため、檀家から金を集めて本山に上納したのである。これを本山から見れば、寺請制度を背景にして、金を集めるビジネスをしていたということになる。

事実「江戸時代を通じて東・西本願寺には多くの絵師・書家・彫刻家が寄生していた(p.90)」が、その背景には「絵伝・木仏・歴代上人絵像などを注文生産していた(同)」ことがある。末寺からの注文に応じて製造する仕組みができあがっていたのだ。

なお東本願寺では西本願寺よりもさらに収奪が甚だしかった。東本願寺では多くのアイテム(モノだけでなく、寺格や僧侶の継ぎ目(相続)にともなうものも含む)を用意し、それを末寺に競わせるような形で集めさせた。寺院経営が檀家の信仰心を置き去りにしたものであったことは明らかである。

一方、幕府の「寺院法度」などの仏教統制策を受け、寛文年間に廃仏毀釈を行った大名が3人いた。岡山藩主池田光政、会津藩主保科正之、水戸藩主徳川光圀である。本書ではこのうち最も徹底した政策を実施した岡山藩について紹介している。そこで注目されるのが、池田光政は藩内の半数以上の寺院を整理するとともに、寺請ではなく「神道請」を強力に推進したことである(領民の98%が神道請になった)。しかし葬式が神道式になったのではなく、儒葬祭だったのも同様に注目したい。彼は神社の合祀を進めるなど神社整理も強行した。

では、池田光政が廃仏政策を行ったのはなぜか。それは、大飢饉で領民が苦しんでいる中でも僧侶たちが華美な生活を続け、農民を苦しめ、藩政に協力しなかったからであった。光政は強引に仏教から神道へ改宗させたのでもない。むしろ彼の政策は合理主義に基づくもので、葬式の簡素化を認めるなど、いわば「無駄を省く」理念によって行われた。光政は、僧侶は堕落し、寺院は領民からの支持を失っていたという。光政によれば「出家は役に立たず、地獄・極楽などわけもないことをいう」のだ。

そして光政のもう一つのターゲットが、日蓮宗不施不受派への弾圧であった。備前国周辺は不施不受派の一大拠点だったのである。

しかしもちろんこの動きに仏教各派は反発し、特に天台宗寺院が寛永寺に上訴して輪王寺宮を動かしたことを光政は窮地に陥れた。光政の廃仏政策は挫折し、貞享4年(1687)には寺請制度に戻った。

では、岡山藩では肝心のキリシタン対策はどうであったか。幕府は寛永17年(1640)に宗門改役を置き、キリシタン弾圧の総司令部的な役割を果たしたが、この指導の下で岡山藩でもキリシタン弾圧が行われた。特にその手段となったのが密告制度である。一度密告されると、キリシタンから改宗したといっても、キリスト教を信仰した証拠がなくても拷問され、摘発された人は牢死するか、長い間獄舎に閉じ込められた。寺の住職が身分保障しなければ、人はいつでもそういう境遇に落ちたのである。

しかしそうした厳しい弾圧によっても、信仰を捨てない人がいた。そこで幕府は貞享4年、キリシタン本人のみならず、親類・縁者を「類族」として戸籍(切支丹類族戸籍)を別に作成するという政策を打ち出した。類族は継続的な監視の対象となり、しかも死んでも一般の墓に葬られることはなく、墓石を作り戒名が彫り込まれること自体が無かったようである。そして類族は文字通りネズミ算式に増えるので、かなり大量の人が類族扱いされて差別を受けた。

そしてこの「切支丹類族戸籍」は、元禄元年(1688)に全国の大名が提出してから、キリシタンとして摘発される人がいなくなった後も、明治4年の壬申戸籍によって廃止されるまで基本台帳として活用された。

他方、普通の戸籍である「宗門人別帳」の方はどうであったかというと、こちらは「切支丹類族戸籍」より50年前の寛永15年(1638)に寺請証文が日本人全員に義務づけられた時に、これを村・町単位でまとめて台帳にしたことで始まった。全国的に帳面が仕立てられたのが万治3年(1660)〜寛文9年(1669)、幕府がその書式を統一したのが寛文11年(1671)であった。なお、この間の寛文4年(1664)に全国の大名に対して「宗門改役(宗門奉行・寺社奉行などとも)」の設置を命じている。 

「宗門人別帳」は幕府で全て集めるのではなく、幕府へは村単位の一紙手形(総数を記したもの)だけが提出された。これは戸籍であるから調査は一軒単位であり、形式的には毎年作成された(朱書きで修正するなどもあった)。またこれは寺院が作ったのではなくて村役人が作った。寺院は「宗門人別帳」に対応する寺請証文を作成し、その寺請証文をまとめて村役人に提出した。よって寺院によって檀家として認められなければ戸籍に掲載されなかったというわけである。

この体制の中では、寺の方に問題があって離壇しようとしても、ほとんど不可能であった。本書には、住職の不義密通を理由に檀家が離壇しようとした件や、熊本藩の宗門奉行が曹洞宗から日蓮宗へ転宗しようとした件が紹介されているが、どちらのケースでも離壇は認められなかった(後者では認められなかっただけでなく、役儀を取り上げられ蟄居も命ぜられた)。幕法では離壇が禁止されていたのではないが、菩提寺の反発によって離壇が不可能だったのである。それだけ菩提寺が力を持っていたということだ。

ちなみに寺請制度を鞏固なものにするために寺院側で偽作されたのが「宗門檀那請合之掟」である(『徳川禁令考』にも所収された巧妙な偽法)。そこでは、檀那寺の言うことを聞かない檀家の身分は寺の一存で落とす(宗門人別改帳に載せない)ことができるとされている。「檀家は寺の要求する檀那役をよろこんで負担し、仏恩の報謝のため僧侶には多額の不施をし、死去したときはすべて僧侶の言分通りに事を運ぶ(p.188)」のが義務だった。寺は強大な宗判権を背景に檀家から収奪したのである。

一方で、金次第で院号や道号、立派な戒名を付けてもらえるようになると、生前の身分を超えて高い位階の戒名が濫発されるようになった。幕府はこれを問題視し、天保2年(1831)には、百姓・町人に院号・居士号を禁止し、墓塔も台石を含めて4尺までに規制している。宗教が金次第になったことは一面では堕落であるが、それによって既存の秩序をはみ出す庶民が生まれていることは興味深い。

本書は全体として、いわゆる「近世仏教堕落史観」に立って記述され、現今の「寺離れ」もやむなしとする論調である。しかしながら、本書に提出された事例は限られたもので、やや一斑を見て全豹を卜すきらいがないとはいえない。例えば離壇はほぼ不可能だったされているが、結構簡単に転宗している藩もある。また「宗門人別改帳」も、全国統一書式は一応示されていたが、帳面自体を提出したのではないからその作成作業における檀那寺の関与も諸藩で違ったらしい。封建体制はよくも悪くも分権の体制であるから実態は複雑であり、本書は少し単純化しているように感じた。

また、江戸時代は庶民がお墓を建てられるようになった時代である。「墓を建てさせられる」「葬儀をやらされる」という(現代と似た)面もあったかもしれないが、墓については葬祭と違って義務づけられたものではなく、本人や遺族の希望によって建立されていたと見られる。にも関わらず江戸時代には前時代と比べて圧倒的に多くの墓が残されている。これは、庶民が仏教式に葬られ、供養されることを望んでいた証拠と見なさざるを得ない。檀那寺は一方的に檀家を収奪していたのではなく、やはり庶民の側も仏教を欲していたのである。

そうした部分、つまり民衆が檀家制度の中でどのような宗教生活を送ったのかは、本書では例外的な事例(離壇しようとしたなど)を除いて述べられていない。圧倒的多数の普通の人々が、寺請制度の中でどのように信仰していたか、そこが本書ではよくわからない点である。

ただし、そうした不足は、現在の檀家制度の淵源を要領よく記述した本書の価値を減じるものではない。本書はあくまで制度史の枠組みで記述されたものだということだ。

近世の檀家制度成立をわかりやすくまとめた良書。

【関連書籍の読書メモ】
『江戸幕府の宗教統制(日本人の行動と思想 16)』圭室 文雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/05/16.html
江戸時代の仏教への統制についてはこちらがよりまとまっていて、詳細でもある。内容は重なっている点も多いが、キリシタン対策については『葬式と檀家』が詳しい。



2023年3月16日木曜日

『武家の女性』山川 菊栄 著

幕末の水戸藩で、女性たちがどのように生活していたかを述べた本。

著者山川菊栄の母は、水戸藩の儒学者・青山延寿の娘千世であり、本書に述べられる話は菊栄が千世から聞いた思い出話である(他に、叔母や祖母(きく)の話も出てくる)。

きくの少女時代が烈公(徳川斉昭)が藩政を執っていた頃で、千世の時代が、幕末の動乱(水戸藩は天狗党の乱)に当たっている。しかし本書に描かれる女性たちの生活には、そうした政治的な事柄はほとんど影響を及ぼしていない。水戸藩は大変な混乱と対立の中にあったが、平生の生活は驚くほど平穏であった。

女性たちは、男たちが血で血を洗う凄惨な政争を繰り広げている間にも、食事を作り、服を繕い、年中行事をこなし、家を整えるという仕事を辛抱強く続けていた。いや、それは言われるまでもなく当たり前のことだ、と人はいうかもしれない。人間に衣食住は不可欠なのだから。でもその当たり前のことは、なかなか記録に残らず語られもしない。本書の価値は、そういう当たり前のことを実直に述べているところである。

それに、その話の内容は決して当たり前ではない。例えば、頭が禿げて髷ができなくなった武士は、つけ髷をしていた、とか。当時の武士の屋敷には普通雨戸はなかった、とか。こういうことはいわゆる「歴史」には出てこない話なのだ。

ただし本書にはちょっとだけ注意も必要である。それは、本書が母の思い出話を聞いて書いたものであることだ。自分が体験したものであればかなり信用できるが、母の少女時代の話であるから少し割り引いて考える必要があると思う。本書に不正確な部分があるとか、誇張や脚色があるとは思わないが、母と著者という二重のフィルターがかかっているということは留意すべきである。

ところで、著者の山川菊栄は、日本の婦人運動の先駆者であり、社会主義者として有名な山川均の妻である。 本書が刊行されたのは昭和18年という、太平洋戦争が差し迫ってきている時代であり、特に山川家は、夫均が人民戦線事件(共産党への弾圧であったが、社会主義者にまで対象が拡大された)で検挙され、一審で有罪判決、裁判が続いていた頃である。そういう緊迫した中で、母の思い出話という、一見悠長な題材で本を書いたのはなぜか。

もちろん、言論が弾圧される中で、婦人運動の理論的著作など著せる状態ではなく、その代わりに時局とは距離を置いたテーマで本を書いたという面はあるのだろう。だがこの非政治的な著作が、そこはかとなく「非暴力の抵抗」という相貌を帯びているような気がするのは私だけだろうか。

歴史に埋もれた平凡な「生活」を描いた出色の社会史。

 

2023年3月14日火曜日

『吉田神道の四百年—神と葵の近世史』井上 智勝 著

神道で有名な吉田家の近世史。

足利義満、豊臣秀吉、徳川家光といった天下人といえども、神祇に関することは直接手を下せず吉田家に依頼する必要があった。また徳川家康のブレーンの一人だった金地院崇伝は「神ならば吉田存ずべき儀」「吉田は神つかひにて」と述べ吉田家を重用した。武家政権は自ら宗教行為を行う部局を置かなかったから、民間の宗教一家である吉田家に頼ったのだ。

ではその吉田家とは何者であったか。本書は吉田家が生きてきた時代を振り返り、それを平易に述べたものである。なお本書は同著者の専門書『近世の神社と朝廷権威』が元になっているが、内容はかなり組み替えられている模様である。

まず前提として、吉田家は伝統的に高位の神道家だったのではない。吉田家は吉田神社の神職を世襲しており、歴史はあったが一神職の家系に過ぎなかった。その吉田家を「神つかい」にしたのが吉田兼俱(かねとも)である。彼は応仁の乱で被害をうけた吉田神社の復興を目論見、自邸内にあった「日本最上神祇斎場」こと「斎場所」を文明16年(1484)、吉田山に移設する。これは日本の全ての神を祀る神社の総本社だという。

これは名称からしてハッタリ的だが、兼俱は後土御門天皇からここが「神国第一之霊場」であるとのお墨付きを得た。さらに兼俱は、この全ての神を祀る「神様の百貨店(p.28)」に伊勢神宮の神が飛んできた(飛神明)と主張。伊勢神宮までも包摂した。伊勢側はこれに猛抗議し、兼俱を「神敵」と呼んだ。

古代律令制では、神祇行政と祭祀を行う「神祇官」という官庁があった。神祇官の長官(神祇伯)を世襲したのは白川家であったが、吉田家は「神祇管領長上」という「神祇伯と対等な席を占める(p.32)」役職を務めていた。応仁の乱で神祇官は焼失していたものの、兼俱は引き続き「神祇管領長上」を名乗り、あたかも神祇官の正式な長官のようにみせかけていた。

理論面でも、兼俱は「元本宗源神道」を喧伝した。「元本宗源神道」は神仏習合理論を否定した神道の純粋理論(唯一神道)である。それまでの神祇理論では神が仏教の従属的立場にあったが、それを否定したのは「日本思想史上のコペルニクス的転回(p.36)」であった。

こうして兼俱が吉田神社(と吉田山に設けられた斎場所)という装置と、元本宗源神道の理論をつくり、さらに「神祇管領長上」の権威を復活させたことで吉田家は日本一の神道ビジネス宗家となっていく。

神道ビジネスの商材となったのが「鎮札」や「宗源宣旨」、「神道裁許状」といったアイテムである。

このうち「鎮札」とは一種のお札で、例えば神木の伐採とか神社の土地の開発などによって、予想される神の怒り(祟り)を鎮めるもの。戦国時代以降、神への畏れが弱まり、かといって祟りも心配だった人々は、吉田の「鎮札」を求めた。社会の世俗化が却って吉田家を必要とした。

「宗源宣旨」とは、吉田家が与える神階の許状である。「正一位稲荷大明神」の「正一位」が神階にあたる。 神階の授与は本来は天皇により、「宣旨」とは天皇の発給する文書であるが、吉田家は「宗源宣旨」として神階の授与を行った。これは朝廷から正式な許可を得て行っていたのではないが、少なくとも霊元天皇はその効力を認めていた。

「神道裁許状」とは、装束の許可を中心として、祭礼日の変更、鳥獣の食用許可など、神職が必要とする様々な許可を与える書状である。これは兼俱没後に現れた。

この 「鎮札」「宗源宣旨」「神道裁許状」が揃ったのが兼俱の孫の兼右の頃で、これを使って兼右は神道の宗家としての吉田家を大成させた。

さらに兼右を継いだ兼見は、鋭敏な政治感覚で吉田家をさらに発展させる。彼は織田信長に取り入って吉田家を堂上公家に格上げさせた。さらに豊臣政権にも接近。天正18年(1590)、吉田家は神祇官「八神殿」を吉田山斎場所内に再興することを後陽成天皇から承認される。「八神殿」とは本来神祇官の中にあった天皇を守護する八柱の神霊を祀るものであったが、これが一神社の施設に過ぎない「斎場所」に再建された。こうして「斎場所」は「神祇官代」となって神祇官の代替施設と見なされていった。

また兼見は、死去した秀吉を「豊国大明神」にし、それを祭る「豊国社」を建立するという一連の過程をプロデュースした。兼見の孫の兼従(かねより)に豊国社の専属社家「萩原家」を興させ、さらに同社神宮寺の別当になったのが、兼見の実弟神竜院梵舜である。

この豊国社は、次に権力を握った家康によって縮小移転され、荒廃させられる。萩原兼従も失職。しかし家康は吉田家を必要とした。秀吉と同じように、死後、神となりたいという希望があったからだ。家康の死後に行われた家康を神として祭るための会議には、家康のブレーン金地院崇伝、天海(天台宗)に加え神竜院梵舜が参加した。

ところが会議では、天海の意見が通り、天台宗の山王一実神道の理論によって家康は「東照大権現」として祭られることとなった。吉田家の敗北だった。

ところで、萩原兼従には吉川惟足(これたり)という弟子がいた。彼は江戸の商人だったが商売よりも学問に励み、めきめきと頭角を現した。ちょうどその時、兼従は吉田家の人々と対立しており、年頃の奥義継承者がおらず困っていた。吉田家の奥義は一子相伝で伝えられていたから、高齢になっていた兼従が奥義を伝えずに死ねば吉田神道が断絶する。そこでひとまず惟足に吉田神道最高奥義「神籬磐境伝」が伝授された。吉田家と血縁のない、一民間人に最高奥義が伝授されたのは歴史の悪戯であろう。

吉田家の一門は当然にこの伝授に反発したが、惟足は各地に身分の高い弟子があり政治力が高く一門の人々も彼を排除できなかった。家康の十男徳川頼宣(和歌山藩主)や家光の異母弟の保科正之(会津藩主)は彼について神道を学んだ。こうした門人がいると、惟足がさらに重んじられるのも無理はない。彼は吉田家の継承者・兼連(かねつら)をもり立て、豊国社の復興にも力を尽くした。そして寛文12年、兼連に一応の奥義の伝授も行った。こうして吉田家は吉川惟足のおかげで厳しい時代を乗り切ることができた。

そしてもう一つ、惟足は保科正之を通じ、吉田家を飛躍的に発展させる働きをしていた。それが寛文5年(1665)、江戸幕府が制定した「諸社禰宜神主法度(神社御条目)」にあった一文である。そこでは、社人の装束について「吉田の許状をもってこれを着すべし」とされていた。吉田家の「神道裁許状」が、幕府によって公認されたのだ。

保科正之は、諸社禰宜神主法度によって吉田家を中核とした神道界の秩序化を企図したと考えられる。吉田家はもちろんこれを最大限に活用した。この法令の後には、「神道裁許状」の発給数が文字通り桁違いに増えた。

その背景には、各地の神社を管理する人々からの需要もあった。各地で神社の代表をめぐる争いがあり、人々は自分の地位を確保してくれる権威を欲しがったからだ。吉田家が神社にとっての、寺院の本山のような立場(本所と呼ばれた)になり、吉田家は「地域を越えた絶対的・超越的な中心(p.144)」として機能した。そして、吉田家に祭祀権を認めてもらったのは、必ずしも名家に限らない。むしろ「既存の権威や秩序を打ち破り、あるいは新しい歩みを踏み出そうとする新時代の担い手たちに、吉田家のような新たな権威が渇仰され(p.149)」た。

なお1600年代の中頃から寛文年代までには、各地で神社の正統の確立を目指す運動が起こっている。

例えば、家康の九男徳川義直(名古屋藩主、保科正之の叔父にあたる)は、神社の正統(式内社と有名神社、その祭神)をまとめた『神祇宝典』を編纂。保科正之は、会津藩で正統でない神社を取り壊し、正統な神社(式内社など)を再建する整理を寺院整理とともに行った。水戸光圀も神社から仏教的なものを排除し、(神仏習合的である)八幡宮を破却する廃仏政策を行った。讃岐藩主・松平頼重(光圀の兄)は領内の神社整理を行い、由緒の調査を行った。岡山藩主・池田光政も神社の統廃合を進めた。こうした動きの背景には、神社の由緒や歴史に注目し、それを「あるべき姿」に戻そうとする趨勢が感じられる。そしてそれらの動きを顧問的な立場で支えたのが吉田家であった。

なお保科正之は、死後(寛文12年(1672))、自らの希望で「神」として祭られた。「土津(はにつ)」という霊社号は惟足が与えたものだった。その葬送は一切仏僧が関与しない、唯一神道の方式で挙行された。

こうして吉田家は、「諸社禰宜神主法度」と高い身分の弟子、各地の神道政策への後援などで盤石の地位を占めた。そしてその神道ビジネスは吉田家に莫大な収入をもたらした。しかしこうなると他の公家は面白くない。よって鷹司房輔は神道ビジネスが吉田家の独占になっている状態に風穴を開けるべく、法度の解釈に疑義を呈した。「諸社禰宜神主法度」では官位の執奏が吉田家に限るとは明確に書いていなかったことに目を付け、官位の執奏は他の公家も可能であると訴え、京都所司代に認めさせた。吉田家の独占は、他の公家には何のメリットもなかったのだから、他の公家もこれに同調した。

また吉田家の独占が崩れたことは、各地の神職にとってもチャンスだった。吉田家と結んで権威を手に入れた者がいたということは、そのために追い落とされた者もいたからである。そういう別の権威を欲したものの駆け込み寺になったのが白川家であった。白川家は18世紀の初めに、神学者臼井雅胤による改革があり、神道説や行法を整備して「伯家神道」とよばれる大系を整備した。この臼井雅胤の兄接伝は吉田家に破門されて冷や飯を食わされた側だった。

そして吉田家に強烈な異議申し立てが行われる。名古屋東照宮の神主吉見幸和は、綿密な考証によって吉田家の聖典『神道五部書』が偽書であることを暴いた。さらに吉田家に恨みを抱いていた伊勢神宮の権禰宜の子、出口延経は『弁卜抄』を著す。『弁卜抄』では、(1)吉田家の系図は捏造されたもの、(2)吉田家は神祇官の長官ではなく下級技術吏員、(3)神祇管領長上の職は吉田家の創作、(4)吉田家の綸旨・院宣はニセモノ、(5)斎場所の由緒は嘘、(6)宗源宣旨は神に位を授ける正規の文書ではない、ということが信頼できる文献に基づいて論証されていた。『弁卜抄』は公刊はされなかったが吉田家の正統性に大きな打撃を与えた。また吉見幸和は『弁卜抄』に心酔し、それを漢字仮名交じりのわかりやすい文にした『増益弁卜抄俗解』を著した。

なおその背景には、徳川義直の『神祇宝典』以来の、「尾張名古屋の古代学」と呼ばれる実証的な学風が名古屋にあったことがあるという。

また朝廷の側からも吉田家の専横は都合が悪くなってきた。朝廷復古を目指すためには、吉田家が神道の唯一の権威であっては困る。反吉田家活動の中心は一条兼香・道香親子であった。道香は吉田山を「神祇官代」としては認めず、かつて八神殿にまつられていたというご神体を白川家に渡し、その邸内に八神殿を再興させた。

復古派の桜町天皇は元文3年(1738)、官位制度改革を行い官位の乱発を抑制。また寛延3年(1750)には一条兼香は桜町天皇の遺志として神職の任官を全て停止した。これはあまりに急進的であると幕府が反対して立ち消えになったが、兼香は吉田家による神職官位の乱発的な奏請を批判し、その根拠の提出を求めた。当然にそのような根拠はなかったため、神位宗源宣旨は元文5年(1740)以降連続してゼロになった。寛保3年(1743)には神位の獲得には必ず天皇の裁可が必要とされ、ここに吉田家の宗源宣旨はその存在意義を喪失した。

こうして吉田家の宗源宣旨が衰退した結果、新しい神階ビジネスが登場。例えば伏見稲荷社の「正一位稲荷大明神」ビジネス。これは諸国に祭神の分霊を勧請することで成り立った。また白川家も吉田家に代わって地位向上を目指していった。専業神職でない神社を管理する一般人(宮座・下級宗教者)を通信教育のような仕組みで門人にすることで支配下に取り込んでいった。当初は専門神職のみを相手にしていた吉田家も、これに対抗して一般人を取り込むようになり、吉田家と白川家の門人獲得競争が行われていった。

こうして、神職や神社に関わる一般人が吉田家や白川家を通じて朝廷と直接結びついていった。それは神社が朝廷・天皇の権威と直結し、天皇を中心とする神話の大系に組み込まれていったことを意味した。近世を通じ、元来は地域性豊かだった神社の祭神や由緒が中央の神話に基づくものに変更されるなど、神社の画一化が行われたのである。

本書は全体として、語り口が柔らかく平易であり、かなり専門的な話である吉田家の歴史を一般にもわかりやすく述べている。資料の引用が全て意訳によっていて、特に関西弁(京都弁?)の口語調なのは面白い。しかし話としての面白さを優先しているために、記述が編年的でなく時代が行ったり来たりしているのは少しややこしい。 

また吉田神道の教義内容の説明はほとんどなく、『神道五部書』なども説明されないのは物足りなかった。とはいえ、吉田兼俱からの吉田家の発展、江戸時代後期の白川家との競争など、時代ごとに焦点をしぼってクリアに吉田家の歴史を描いているのは有り難い。

ただし、本書はあくまで近世史であるために、吉田家が明治維新でどうなったのかは簡略的な説明しかない。私自身としてはここが一番興味があるところである。幕末には吉田家は平田国学と接近し、矢野玄道をその学頭に招くなど平田国学を取り込むような動きをみせるのだが、それについても本書には何も記載がなかった。このあたりのことは別途調べてみたいと思う。

平易かつ面白く吉田家の歴史的意義を理解できる良書。

 

2023年1月29日日曜日

『明治国家と宗教』山口 輝臣 著

明治時代の宗教と国家の関係について2つの側面から述べる本。

本書ではまず明治時代の宗教を巡る学説の成立史が顧みられる。村上重良・藤谷俊雄の国家神道を中心とする見解、神社非宗教論に基づく平野武の見解、そして国家神道=神社神道としてよりフラットに捉えた阪本是丸の見解が述べられ、少なくとも現在では「国家神道」という枠を取り払い、むしろ国家と宗教の関係を研究する方向へと進んできた。ではそもそも「宗教」とは何か。

こうして、明治時代に「宗教」がどう認識され、どう語られたかという第1部の主題が登場する。

さらにその応用編として「神社改正ノ件」と呼ばれる宗教政策がどのような影響をもたらしたか、という第2部の主題が考究される。第1の点は理念的な枠組みを考えるもので、第2の点は具体的に政策決定のプロセスを追っていくものであるが、この2点は無関係ではなく、「宗教」とは何かという理念的な枠組みが現実の宗教行政に大きな影響を及ぼしていた。

第1部 19世紀—宗教の生成/「国家と宗教」の制度化

「宗教」は、明治期に新しくできた言葉である。それがいかに構築されたか。まず、宗教という言葉は"religion"の翻訳語である。では"religion"がどのようなものとして認識されたかというと、これはとりもなおさずキリスト教のことであった。であるから、キリスト教を基本として「宗教」の概念が形作られた。本書では当時の様々な論客がどう「宗教」を語ったか、その語り方の分析を通じて「宗教」概念を剔抉している。

これを私なりにまとめると、第1に「宗教」は文明の一つの要素として語られた。後には宗教はむしろ後進的なものと見なされるが(c.f. マルクス「宗教は民衆のアヘンである」)、この頃の日本では「宗教」は文明を構築する土台であると考えられた。

第2に、仏教とキリスト教を対置して、どちらが文明の土台として適しているのか、という視点から「宗教」が語られた。そして少なくとも神道は「宗教」の体を成していないとされ、はなからその議論の範疇に入っていなかったということも指摘できる。 

大日本帝国憲法の制定においては、国教制定の検討もあった。伊藤博文は憲法調査のためベルリンのグナイストの講義を受けているが、グナイストは仏教を国教に制定するようアドバイスした。当時のヨーロッパでは国教は「信教の自由」に抵触しないものと考えられていた。一方、福沢諭吉は日本の文明化のため、キリスト教を国教に据えるべきではないかと考えた。もちろん元田永孚のような神道主義者はこれに強硬に反対。伊藤は国教自体に反対だったので、政府内で論争が起こった。森有礼や井上馨も宗教自由化の論陣を張った。

実はこんな中でも、キリスト教が公許されていたかどうかは曖昧だった。明治6年にキリスト教禁止の高札は除去されていたが、かといってキリスト教を容認するというはっきりとした表明もなかったからだ。外務卿・井上馨は対外的な問題からこれを公許するよう主張。一方、内務卿・山県有朋は、路線は同じながら、宗教の自由化や仏教の保護を検討した。

当時、国家の宗教者制度である「教導職」は曲がり角を迎えていた。神官の教導職兼任の廃止や、教導職の存在意義の低下があり、教導職自体を廃止する趨勢になっていた。そもそも教導職の意義はキリスト教対策にもあったから、キリスト教公許がなされるなら教導職は不要となる。しかしそうなると教導職という制度を通じて国家と関係を樹立してきた神道勢力が困る。神社と寺院、国家のそれぞれの思惑が絡んで議論が錯綜。結局、関係者の合意が得られた点のみが成案となった。すなわち明治17年、教導職の廃止(太政官布達19号)、そしてそれまで教導職のみに認められていた葬儀を自由化した自葬の解禁(太政官布達20号)である。

これはキリスト教の公許まで踏み込んだものではなかったが、実質的にはキリスト教容認と近い効果を持った。同年、農商務卿で陸軍中将でもある西郷従道の長男従理がアメリカで客死し、ハリストス教会でその葬儀が執行されたのはその証左だ(従理は7歳でロシアに留学し、ロシア正教の洗礼を受けていた)。また教皇レオ3世の親書が明治天皇に奉呈された際、天皇は「耶蘇教徒ヲ保護スル他ノ臣民ト異ナルナカラン」と答え、未だ国内ではキリスト教の扱いを明確に変えたとは表明されていなかったものの、対外的にはキリスト教は保護の対象とされた。その後、外務省はこの方針を対内的にも貫徹させようとしたが、敢えて容認を表明すると軋轢を生じると反対されて挫折する。しかしながら、もはや「憲法における信教自由規定で公許は代用できる」との考えが広まり、キリスト教の扱い自体が焦点から外れていった。

一方、神社には逆風が吹いていた。太政官布達19号では、寺院には「管長制」が示されていたが、神社については何も打ち出されていなかったのである。明治4年には神社は国家の祭祀とされたものの徐々にその優遇は終わり、「明治17年末の時点では、神宮・官国弊社に国庫から経費・営繕費・神饌幣帛料が支出なされている以外、神社へ「公費」支出はできない状態となっていた(p.123)」。もちろん神道者たちはこれに不満を抱き、様々な運動を起こすことになる。彼らの要求は大まかに言えば2つあった。第1に、神社のみを取り扱う行政部局をもうけること(できるなら神祇官の再興)、第2に、神社へ国庫から支出すること、である。参議には大木喬任・佐佐木高行・山田顕義という神祇官設置論者も存在しており、これは無茶な要求ではなかった。

内務省はこうした中「神社改正ノ件」を提出。その内容は(1)神宮への支出は増額の上で継続するが、(2)官国幣社への支出は将来的に廃止、ただし10年間補助金を下付するのでその一部を貯蓄し、独立自営の体制を整えること、であった。内務省は官国幣社を「独立自営」できる存在にして国家から切り捨てようとした。しかしこれは閣内の反対も強く、三条実美太政大臣の預かり置きとなった。 

ところが明治18年末の内閣制度の創設で状況は変化。元田永孚は宮中顧問官に、大木喬任・佐佐木高行は閣外になり、「宗教家」森有礼が閣内へ。こうした状況で明治19年2月に「神社改正ノ件」は改めて提出される。官国幣社の増加に加え、別格官幣社制度でも官社が増加し、神社が国庫を圧迫しているとされ、また神社の存亡は人々の信仰に任すべきだとされた。そして「神社改正ノ件」は、(2)の補助金年限を15年に延長する修正などを経て可決。

予算から見ると「神社改正ノ件」は、明治17年の国庫支出を基準とし、それを超えないように国全体の神社費総額を決め、予算を神宮に重点的に配分して逆に官国幣社の予算を削減するという内容であった。では、官国幣社が15年間の補助金(保存金)の貯蓄によって「独立自営」の経営に移行するのは現実的だったかどうか。実は計算上でも7割の神社の慢性的な経営難が予想されていたのである。

このような中での大日本帝国憲法の制定。すでに「信教自由」は関係者の共有する路線であり、神道を国教にするなどありえないことであった。そして「宗教の自由」の規定によって、「宗教か否かということが、本格的に問題とされざるを得なくなってくる(p.153)」。宗教と非宗教では、保障される自由をはじめとして扱いが異なっていたからだ。

第2部 20世紀へ—宗教の変容/「国家と宗教」の転形

20世紀に入ると、日本での宗教の在り方は「宗教学」の影響を受けるようになる。宗教は行政的な扱いよりも学問の対象として規定された。本部では、姉崎正治、岸本能武太、加藤玄智の見解が触れられ、宗教の範囲が広がっていった次第が語られている。結果として、神社非宗教論は分が悪くなる。宗教学によれば、教義や教祖がなくても神社は宗教と見なせたからだ。

明治22年、憲法が発布されると、議会開設を見越して佐佐木高行、元田永孚、山田顕義らを中心にした神祇官設置運動が起こった。この頃、府県郷村社の神職が僧侶同然に扱われるのではという噂が流布していたから、神社勢力は逆風をはねのける必要を感じていた。こうして明治23年頃、神社のみを取り扱う行政部局=神祇院(神祇官)設置建議が提出される。ところが時を同じくして、内務省は「神社改正ノ件」による神社費から「共通臨時営繕費」を捻出させる案を閣議に提出。実質的な補助金の減額である。要するに、政府内では神社を特別扱いしようとする勢力と、神社の格下げを図る勢力が真っ向から対立していた。

格下げを図る勢力にとっても表立って神社への崇敬を否定することはできなかったが、神社派の主張の趣旨をくみ取りながらも、行政的な理屈でそれを「神祇局」へ格下げする案へ縮小させた。また「神社改正ノ件」の改定案に対して、佐佐木らはかえって予算を拡充する案を提出したり、明治初年に上地(土地の取り上げ)された土地(特に山林)を社寺に還付する運動を起こしたりしたが、こちらも行政的見地から実効策は矮小化していった。こうして議会開設前の神祇官設置運動と神社への予算拡充運動は挫折した。なお、神祇官への反対は神祇不敬と結びつけられていたが、明治天皇は神祇官設置に反対だったとみられる。また明治24年には元田、吉井友実が死去、山田は病気になりその後死去、ということで、政府内の神道派は弱体化した。

しかし憲法に基づいて議会が発足すると、神職たちは議会を通じた神祇官設置運動を開始した。神職たちがその代表を議会に送り込めば、議論はいくらでも可能なのだ。全国には大勢の神職がいたものの、最初のうちは落選議員もおり、議題も上程に至らなかった。よって第7議会まではさしたる成果がない。ただしそうした過程の中で、神祇官と天皇親祭論(天皇が祭祀をつかさどっているなら神祇官など不要)との調整、また神社が宗教でないなら内務省社寺局で神社が宗教として扱われていることとどう折り合いをつけるか、といった理屈が俎上にあげられ、整理されていった。

第8議会(明治27年~28年)が運動の転機となった。それまで紛糾していた国全体の予算問題の折り合いが付き、他の問題について議論する余裕が出たという事情もある。神社に関するものとして上地林問題、神祇官設置問題、古社寺保存問題が議論され、上地林、神祇官設置は否決されたものの、古社寺保存の予算は増額された。これは古社寺目当ての外国人観光客の落とすお金も期待されて成案を見たもので、古社寺との限定付きではあったがその経営の一助となった。そして第10議会(明治29~30年)では政府自ら「古社寺保存法」を提出し成立。これは「国家と特別な関係を有する古社寺という存在が法律で認められた(p.223)」ことに他ならなかった。

また、上地林問題については第13議会(明治31~32)で取り上げられる。そもそも社寺の土地を強制的に取り上げたこと自体が不当だとする論調で審議が始まり、「国有林野法」「国有土地森林原野下戻法」等が成立した。これは、上地された土地を必要に応じて社寺の境内に編入・払下・保管・下戻ができるようになったことを意味する。これが現実に社寺の経営を改善するかどうかは制度の運用次第であり、議論はそのような局面に移っていった。

一方、神祇官設置運動については、水面下で様々な運動があったがなかなか成果が出なかった。そして関係者は、条約改正との関係からも神祇官の速やかな設置は無理だと感じ、せめて神社専門の行政部局を設置することを第一歩にしたいと考えるようになった。こうして大隈重信内閣では「神社局」を設置する案が実現一歩手前までいったものの、大隈内閣の崩壊し実現に至らなかった。第13議会では大津淳一郎議員らが「神社と宗教との区域をはっきりすべきだ」として神社に関する特別官衙の設置を建議。これまでの運動が挫折した結果、神道派は最小限の目標に照準を定めるようになっていた。それは、神社を他の宗教とは違う存在にしたいということであった。よって神社非宗教論がクローズアップされてくる。しかし内務省の考えは、「社寺」は古社寺保存法など同一の法律で一括されていて何ら差しさわりはなく神社専門部局などいらない、というもので建議は否決された。

なお、内務省社寺局はそれなりに現場(神社・寺院)の希望を考慮した方針で行政を行っており、例えば寺格・僧爵構想(実現せず)など社寺の振興を図ってはいた。ただそうしたものは政府全体の方針とはなりえなかったのである。

政府全体として優先されたのは、対外的な問題である。条約改正の前提としてキリスト教を公許し、宗教を行政にしっかり位置づけることが必要だった。ついに明治32年、事実上キリスト教のみを対象とする宗教に関する省令が可決。こうしてキリスト教が行政の対象になると「社寺局」の名称変更は避けがたかった。そして寺院、神社、キリスト教…などではなく、それらを包括した宗教法案が求められ、山県内閣は同年これを提出した。

具体的には、この宗教法案は宗教団体を法人とするものであった(教会は社団法人または財団法人に、寺は財団法人に、ただし教派・宗派は法人になれない)。法案では宗教者に徴兵猶予を認めるなど宗教に対して優しい立場で作られており、世論はこれを歓迎したが、仏教諸派(32宗派)は仏教とキリスト教が同列に扱われたことを不服とし、議会が紛糾して否決された。

これを対岸の火事のようにみていたのが全国神職会。そしてここぞとばかりに「神社局」の設置の運動を開始。そして意外なことに明治33年にすんなりと設置された。それは(1)神社局はもはや神祇官を想起せしめるものではなくなっていた、(2)内務省が局の新設に前向きだった、(3)いずれにせよ社寺局の名称変更が必要だった、という事情があったと考えられる。すなわち実際上は社寺局が「宗教局」と「神社局」に分割された。もともと小さい社寺局であったから、神社局は他の一課くらいの規模だった。しかしそれが宗教局と別に設けられたのには大きな意味があった。神職たちの希望通り、神社は宗教ではないということが行政機構の上で明確になったからだ。

そして神社局を勝ち取った神職たちは、その運動の結果として「神社局ー関係議員ー全国神職会」という神職の全国組織化と行政機構への組み入れを成し遂げた。これが宗派を超えて一枚岩になれなかった仏教とは違い、その後の神社をめぐる行政に大きな役割を果たしていくことなるのである。また神社局が中心となって「神社協会」が設立(明治35年)、直後には全国神職会は「神社局と方針を共に」することを規約に明記し、一種の御用団体となっていく。神職・関係議員はこうした基盤を整えた上で、「神社改正ノ件」の廃止に乗り出した。

それまでの間も、「神社改正ノ件」は種々の修正を加えられていた。神社は、予算不足で保存金の貯蓄が思うようにできず、将来の「独立自営」のためのお金を切り崩さざるを得なくなっていた。ということは補助金期間が終われば経営が行き詰まる。そうなると神社を「独立自営」に移行させようとする「神社改正ノ件」の元々の趣旨が崩壊する。よって補助金の増額が行われ、また経費・経常営繕費ー共通臨時営繕費ー永遠資本金(保存金)の比率も「50%ー15%ー35%」から「70%ー25%ー5%」とする改正が明治34年度から実施された。これは明らかに「独立自営」から遠ざかっており、政府もそれを認めていた。

神職・関係議員たちはこうした状況を逆手に取り、官国幣社の経費を国庫支弁にすること、府県郷村社の経費(神饌幣帛料)を府県郡市町村に負担させることの2点(「二大問題」)を議員立法で要求。内務省としても「独立自営」路線が破綻しているのは明らかなため、この法案が通過した方が都合が良かった。しかし府県郷村社はあまりに数が多いことから公費支出が現実的でない。そこで、神社合祀によって数を減らすことが論議されるようになるのである。ただしこれは当初は到底現実的でないと反対論が優勢で、全国神職会も財政難から十分な活動ができず「二大問題」は進展しなかった。

ところが、明治37年に省内最年少の水野錬太郎が神社局長に就任したことをきっかけに事態が動く。神社局は最小の局だったので、廃仏毀釈を知らない世代、明治元年生まれの水野が抜擢されたのだ。彼は「二大問題」を解決すべく議員立法ではなく政府として議案を提出した。そしてあっさりと保存金制度を終わらせ官国幣社の経費は国庫支弁となり、府県郷村社の神饌幣帛料を府県郡市町村から支出することが勅令で可能となった。まさに一瀉千里で「神社改正ノ件」のプランは瓦解した。ただしこの政策では、府県郡市町村から府県郷村社全てに強制的に支出しようとしたのではない。「神饌幣帛料ヲ供進スルコトヲ得」とし、共進する神社の指定は地方長官が行うこととした。

一見、これは神社を保護する政策かに見えたこれが、結果的には神社合祀、すなわち神社の大規模な合併運動を引き起こしたのである。すなわち、神饌幣帛料を地方政府が供進する神社は「独立自営」できるような重要なものに限られたから、その指定を受けることは神社を「選別」することであり、より広い氏子圏、経営基盤をもった選別に耐える神社を創出すべく弱小神社の合併をもたらしたのである。そして内務省も神社合祀を促進する政策を行い、神社合祀が国家レベルの政策として展開していった。

これは内務省としては「社寺合併」を謳っており寺院も対象としていたが、実際に合併が行われたのはほぼ神社である。この運動は地方改良運動と結びつけられ、地方局府県課長井上友一が就任して運動は頂点に達する。神社は「町村の民心結合の核」として編成し直された。これに最も反対したのは和歌山県選出代議士の中村啓次郎。彼は明確な神社宗教論に立ち、合祀は宗教心を損なうとして反対した。一方で、全国神職会も、大津淳一郎などの神道関係議員も神社合祀には内部の意見の違いなどから反対せず、神社の激減を拱手傍観した。

こうして、神社は「独立自営」を求められ国家から距離を置かれていた19世紀とは全く異なる存在となった。神社合祀という痛手はあったにしろ、国家・地方政府と明確に結びついた存在として他の「宗教」とは隔絶したものになったのだ。そして神道関係者たちは、改めて神祇官の再興と、神道を国教になぞらえることを希望するようになる。とはいえ、神社は宗教ではない、という建前でこれまで進んできた。神社が「国教」になったら、それは宗教なのか? 神社非宗教論は揺らいでいた。

一方、反目してきた宗教者たちは日露戦争の遂行を前に協調を図るようになった。そして内務官僚の床次竹二郎も各教の代表者を会同させることを計画。床次が明治45年に出した「私見」では「国民一般に、宗教を重んずるの気風を、興さしめんことを要す」として三教(仏教、神道、キリスト教)を協調させることを計画、政府と三教の代表での協力関係が確認された。明らかに国家と宗教との関係は変質していた。その変質の先にいわゆる「国家神道」があったのである。

本書全体を通じて、国家と宗教の関係のターニングポイントを一つ選ぶとすれば、内務省神社局が創設された時だろうと私は思う。これは行政機構上の小さな改組ではあったが、宗教局と神社局が分割され、神社が宗教ではないという解釈が行政機構の上で確認されたことは理念的にも大きかった。神社非宗教論は今から見れば詭弁に等しいが(当時でも詭弁だと見なす人は多かった)、その詭弁が歴史を動かす力になった。そして神社のみを扱う局ができたことは、神社のみに焦点をあてた政策の実行が自然と催され、明治初年とは違った形で神社が優遇されるきっかけになったのである。

本書に述べられるその経緯は、村上重良が『国家神道』で描いたものとはかなり異なっている(なお本書では「国家神道」の用語は慎重に避けられている)。村上重良は「国家神道」を明治初期の政策の延長線上に出現したものと捉えているが、本書ではそうではない。明治10〜20年代には国家はむしろ世俗的であった。神社勢力は国家から見放されつつあり、そのプランこそが「神社改正ノ件」であった。神社勢力はこれを挽回すべく関係者を総動員して予算面・組織面の改善を図ったがうまくいかなかった。こうして国家は宗教的なリベラル路線に進むかに見えた。しかし神社は宗教ではないという論理を押し通し続けた結果、明治33年「神社局」の創設にこぎ着け、そこから先は彼ら自身も意図しなかったほど神社は国家と親密な関係を樹立していくのである。

ただし本書ではよくわからなかったところもある。明治はじめに「神社は宗教ではない(国家の祭祀である)」と整理されたとき、神社における宗教的な部分は「教派神道」として分離されたが、教派神道は上述の動きにどう関連していたのか、あるいはしていなかったのか、本書には詳らかでない。そして教派神道が、神社非宗教論をどう見ていたのかも、ちょっと気になった。

本書は全体を通じて、議会議事録などを執拗なまでに丁寧に追い、成案を見なかったり、審議未了になったりした事項までも追求している。神社や神道を巡る水面下の動きが克明に描き出される様はエキサイティングですらあった。

世俗的になっていた国家が、どうして宗教的に揺り戻されていったのか。本書はそれを水面下の動きから解明した労作である。

 

【関連書籍の読書メモ】
『国家神道』村上 重良 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/07/blog-post.html
国家神道の本質を描く。国家神道を考える上での基本図書。