「人物日本の女性史 全12巻」のシリーズは女性の手だけによって歴史を生きた女性を描くものであり、本書はその一冊である。このシリーズでは一冊ごとにだいたい7人の女性を取り上げ、主に作家がその生涯を簡潔にまとめている。学者の文章でないから大変読みやすく、また他ではあまり取り上げられない人物がたくさん登場するのがよい。なおテーマで巻が分けられており時代ごとではないが、本書の中心は江戸時代である。
恵信尼(円地文子):恵信尼は親鸞の妻である。親鸞は半僧半俗を標榜し、堂々と妻帯した。これは浄土真宗の基本的態度となり、(親鸞自身は自らを僧であるとはしていなかったが)僧侶の妻帯世襲が続いていく。だがそれは消極的な意味で僧侶の女犯が公認されたということではなく、親鸞在世時から妻の恵信尼が窮乏に耐えつつ布教に大きな役割を果たし、また子の覚信尼もその発展に尽くしたことが積極的に評価されたと考えらえる。親鸞の御影堂を東山大谷の地に造ったのは覚信尼であり、その子孫によって代々引き継がれた。
文智尼(安田富美子):文智尼は後水尾天皇の第一皇女梅宮である。しかし幕府は徳川和子を後水尾天皇の正妃として入内させたから、梅宮の母(およつ)と彼女が生んでいた皇子たちが邪魔になった。そこで幕府はおよつを遠ざけ皇子たちを強制的に出家させた。和子も政略の犠牲になった女性で、次々に息子たちは夭折、突然譲位した後水尾天皇を継いだのは、和子の生んだわずか7歳の興子内親王、明正(めいしょう)天皇である。千年来の女帝であった。一方、梅宮は鷹司教平(のりひら)に嫁いでいたが、婚家にあること3年で離縁し出家。その理由はわからない。梅宮は、定慧明光仏頂国師こと一絲文守(いっし・もんじゅ)の下で得度し、以後文智尼として57年にわたる信仰の生涯に入った。一絲は無師独悟であるが沢庵の教えを受けた傑僧で、やがて二人は深く愛し合うようになった。しかし二人は愛に溺れるには道心堅固すぎた。一絲から文智尼への手紙には、「ただ互いに老を待つまでに候」と引き裂かれる思いが吐露されている。しかし老いを待つまでもなく、一絲は39歳で死去。以後文智尼は厳しい禅の道に生きるのである。一絲の菩提を弔うため自らの手の皮をはいで手皮経を書いたのに、その壮絶な決意がにじみ出ている。彼女は徳川和子こと東福門院の後援を受け、大和村に移って山村円照寺をつくり、そこで厳しい戒律を守り、弱い人々の味方となって静かに一生を終えた。彼女は、尼門跡寺院に入って安楽な生涯を送った並の皇女が及ばない宗教者だった。本書中の白眉。
天秀尼(永井路子):天秀尼は豊臣秀頼の娘である。徳川家康によって豊臣一族が亡ぼされる中、彼女は家康の孫千姫の養女となっていた関係からか生かされ、鎌倉の東慶寺に押し込まれた。一種の飼い殺しであるが、将軍家の子女は尼寺入りするという慣習があり、これはむしろ人道的な処置だったかもしれない。しかも彼女は養母千姫の後援を受けていたから、徳川家の権威によって東慶寺が発展する契機とさえなった。そして普通は入寺した貴種の尼は貴族的な生活を送ったが、どうやら天秀尼は求道心が強かった。沢庵に書状で教えを乞ういていることからもそれが裏書される。過酷な宿命にあったからこそ、禅に命を懸けたのだろう。彼女の面目を示したのが、「会津四十万石改易事件」。天秀尼は東慶寺で会津藩から逃げてきた堀主水の妻子をかくまい、傲然と寺院の独立を主張するのである。高野山でさえアジール的特権を失っていた時代のことだ。以後、東慶寺は女の駆込寺として群馬の満徳寺と並び発展していくのである。
慈音尼(柴 桂子):近江の商人の娘に生まれた慈音尼(俗名不詳)は、8歳で母を亡くし出家の宿願を抱いた。父たちはそれに反対したが、こっそりと家を出て自秀という尼の弟子となった。ところがいざ出家してみると学者になりたいという心が起こって経や禅録の勉学を熱心にするようになり、やがて難行苦行に取り組んだがついに悟りを開くことはできなかった。それどころか体を壊し身内のものを頼って養生することになり、この時に石田梅岩の噂を聞いて梅岩のもとを訪れるのである。石田梅岩は無料で誰にでも教え「石門心学」を説き、その講釈は人気だった。石田梅岩の考えは雑多な教えを折衷したもので、あるがままの自分と社会を認め、その中で知足して生きるのがよいというものであった。慈音尼は梅岩に魅了されて入門し、厳しく教えてほしいと願った。これに応えて梅岩は他の弟子には優しく教えたのに、慈音尼には厳しく接したという。梅岩は人間に対してだけでなく、雀や鼠にも優しく、自分には厳しく倹約を守り、徳の高さがにじみ出ていた。慈音尼は梅岩に感化されて厳しい修行をし、ある時にハッと悟りを得た。そして梅岩の死後、慈音尼は江戸へ布教の旅へ出た。梅岩と同じような無料の講釈である。おそらく慈音尼30~40歳の10年間ほどと思われる。しかし慈音尼は病気がちで十分な成果が出る前に故郷に帰り、63歳でこの世を去った。梅岩の言葉を記録した『道得問答』の執筆や江戸へのいち早い石門心学の布教は評価できる。
中山みき(小栗純子):みきは地主の娘に生まれ、一生を独身のまま過ごし尼として生きる希望があったが、13歳の頃、やはり地主の妻として嫁いだ。婚家は人もうらやむ裕福な家であったが、夫はみきを愛すことなく、富にまかせて女遊びをし、家業にも身が入らなかった。そんな中でもみきは模範的な主婦として精いっぱい働いた。みきは、貧しい百姓たちが夫婦力を合わせて額に汗して働いている様子を見て、富こそ人間の幸福を奪ってしまうものだと思わずにはいられなかった。貧農こそ彼女の理想であった。41歳になったみきは健康を崩し、加持による治療を受けた。その時みきの体に神が下り、その神は三日三晩もの間不眠でみきをもらいうけると主張した。仕方なく家の者が承知すると、みきは神の命令として家産を次々と処分させた。「貧におちきる」ことが神なるみきにとって必要なことだったのだ。生きるための労働こそみきにとっての幸せであった。さらに夫が死去すると、安産の約束「おびや許し」を与えることからみきの救済者としての活動が始まった。みきは教祖然とせずやさしい慈母のようであった。そして慶応2年ごろからは『御筆先』と呼ばれる神の言葉の執筆が始まる。やがて彼女の教えは天理教として発展、政治権力に対して激しい批判をもいとわず、みきは90歳で世を去るまで18回も警察に拘留処分を受けた。
キリシタンの女性(阿部光子):本章ではまず戦国時代のキリスト教布教の歴史が述べられ、キリシタン大名高山右近の妻や細川ガラシヤについて触れられるが、だいたいは一般的な日本のキリシタン史をなぞるものである。右近ら信者たちは家康によって国外追放となり、ジャンク船に乗ってマニラに着いた。右近は国賓の待遇を得たが病を得て死亡した。このほか小西行長の妻、行長の軍の捕虜となった朝鮮貴族の娘、ジュリアおたあなど、歴史の端々に登場するキリシタンの女性について述べている。
全体として、私の興味は本書前半の尼の部分にあったが、読みやすくてつい全部読んでしまった。なお本書のみならず本シリーズの他の巻にも言えることだが、現代から見ると女性を一面的に捉えたきらいがあり、例えば本書表題の「信仰と愛と死と」も、女性だから愛という安直さを感じる。内容にも、「女らしく…」とか「女性らしい~」といった表現が散見される。それらは内容を毀損するものではないが、今から見ると時代を感じざるを得ない。
しかしながら、男ばかりが取り上げられる歴史の本の中にあって、女性だけの、女性による歴史のシリーズが作られたことはまことに意義深く、その中でも本書は「尼」に注目している点で先見の明がある。
尼となった女の生き方を考えさせる価値の高い本。
【関連書籍の読書メモ】
『東慶寺と駆込女』井上 禅定 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/12/blog-post_22.html
駆け込み寺として著名な東慶寺について述べる本。天秀尼について述べている。
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