2023年1月3日火曜日

『江戸期女性の生きかた(人物日本の女性史 10)』円地 文子 監修

江戸時代の様々な女性を描く。

江戸時代は、『女大学』に代表されるような封建道徳が幅を利かせていた。女性は男性の従属物として生きるほかなく、大きく活躍した女性は少なかった。よって江戸時代の女性の生の声はあまり残っていない。本書ではそんな中で記録に留められた数少ない女性たちを描くものである。

滝沢みちと只野真葛(杉本苑子):滝沢馬琴は、日本で初めての職業小説家であり、読み捨ての本ではなく高度なプロットと難解な漢語をちりばめた本格的作品を書いた。そんな馬琴は若いころ、下駄屋ではあるが家持の娘と蔦重(蔦屋重三郎)の勧めで結婚した。二人の間に生まれた長男は宗伯といい、元来病弱で医師にはなったがまともな仕事はできず、長じてからも馬琴が一家の大黒柱であった。その宗伯に嫁いできたのが「おみち」である。馬琴のファンであった前松前藩主志摩守章宏は宗伯を抱え医師として三人扶持を支給していたが、それも出仕できず辞職。宗伯夫婦の仲は当然のように悪くなり、夫婦喧嘩が絶えなかった。しかしその宗伯も結婚後8年で死去する。この時、馬琴は69歳。右目は失明し、左の一眼でなんとか仕事をしていた。

宗伯に先立たれた馬琴は、宗伯の息子太郎が身を立つようにしてやろうと、どうにかこうにか金を捻出して幕臣(鉄砲同心)の株を買った。 しかしその頃遂に両目とも失明してしまう。畢生の大作『八犬伝』も未完成で、馬琴74歳。今や一家が頼りとするのはおみちしかいない。こうして、字すら知らなかったおみちが馬琴の手となって『八犬伝』を書き上げるのである。もちろん代書人を雇ったことはあったが、病的なまでに誤字や間違いを許さない馬琴の気に入るものはなかったため、おみちがやるしかなかったのだ。しかし馬琴の作品は難しい熟語が頻出する技巧的なものだ。文盲だったおみちがそれを書くためには血の滲むような努力を要した。馬琴は最晩年まで著述をやめなかったが、それらの筆記は全ておみちが受け持った。無名の主婦に過ぎなかったおみちは『八犬伝』を通じて歴史に名を残したのである。

只野真葛は紀州藩の医師工藤球卿の娘で、仙台の伊達侯の重職の後家として迎えられた。彼女は義理の息子を慈しみ育て、義父・夫を見取って息子が家督を継ぐと隠居した。彼女は書くことが好きだったから隠居後にエッセイなどを書き、有名な『独考(どっこう/ひとりかんがえ)』を著したのは55歳の時だった。そして彼女はこうしたものを出版したいと考え、馬琴に手紙を出すのである。しかし有閑階級のお嬢さんでのびのびとエッセイを書いた真葛と、日々生活と葛藤する中で至高の作品を追い求める馬琴では、依って立つ条件が違いすぎた。『独考』は封建道徳から自由な立場で文明批評をした斬新なものだったが、馬琴には単に不愉快なものにすぎず、結局二人の音信は途絶えた。

上方女(田辺聖子):本章では物語に登場する女を読み解いて、上方女のいきいきとした姿を描いている(とはいえフィクションとしていくらか割り引く必要があるのはもちろんだ)。近松門左衛門『曽根崎心中』のお初(女郎)、『心中天の網島』のおさん(妻)と小春(遊女)、井原西鶴『好色五人女』のヒロインたちが取り上げられる。彼女たちに共通するのは、江戸時代の享楽的な雰囲気の中で本気の恋をし、真摯に生きようと(あるいはそのためにこそ死のうと)することだ。

太田垣蓮月(生方たつゑ):太田垣誠(のぶ)こと蓮月の出自ははっきりしない。彼女は高貴な生まれながら養子に出された。男子も及ばぬ武術の才能を見せ、また利発な少女だったようだ。しかし不幸な結婚をし離縁、養父の孝養のため再婚し今度は幸せな結婚生活を送ったが、夫は若くして死んでしまった(亡くなる前日に誠は薙髪)。33歳の彼女は出家を決意。知恩院大僧正によって得度し、養父とともに出家した。こうして彼女は蓮月尼となる。やがて養父が亡くなると剃髪し、いよいよ孤独な生活となった。しかしその寂寥が、彼女に新しい人生をもたらすのである。彼女は書や武道、囲碁にも長けて師範することができたが、弟子となる人々に男性が多かったので人を導くことを避け、生活の糧として陶芸を嗜むようになった。彼女は放浪とも言える度重なる宿替え(引っ越し)をしながら、陶芸を芸術にまで高めた(蓮月焼)。また香川景樹の門に入って和歌を学び、和歌を通じて多くの人々と交流した。蓮月尼が交際したのは、橘曙覧、税所敦子、野村望東尼、富岡鉄斎などがいる。彼女の交友は広く、遊女とまで和歌のやりとりをした。

松尾多勢子(岩橋邦枝):松尾多勢子は信濃国下伊那の豪農の家に生まれ、従兄の北原因信(よりのぶ)に和歌などの教育を受けた。この因信が伊那国学の中心人物の一人であった。多勢子は結婚すると(結婚後の姓が松尾)、模範的な嫁として家業に勤しんだ。また夫のお供でよく旅をした。長男夫婦もしっかりしており、多勢子は45歳で若隠居の身となって自由になった。文久元年(1861)には平田門に入門。和宮の一行を間近で見た多勢子は、宗教的情熱を帯びて尊王論に邁進するようになる。文久2年、多勢子は夫の許しを得て京都へ向かい、白川資訓(すけのり)のもとへ出入りし始めた。彼女はお金の心配をする必要もなく、和歌修業の女楽隠居として、怪しまれずに公卿や宮中に出入りして志士との連絡係となって活躍した。他の志士たちより二回りも年上の50代の彼女は、異色の女志士として平田銕胤にも高く評価され、岩倉具視の命を救ったこともある。しかし彼女自身は「ますらをの心はやれど手弱女(たをやめ)の甲斐なき身こそかなしかりけり」と女の身の不甲斐なさを詠んだ。多勢子はやがて帰郷し、久坂玄瑞、相良総三、角田忠行など逃亡した志士を松尾家で保護した。

維新後は、岩倉具視に招かれ客分として邸に住み家政を取り仕切り、「岩倉の周旋ばば」とか「女参事」と呼ばれた。しかし彼女は、明治維新が自分の想いとは違ったものになりつつあることを感じた。相良総三が「ニセ官軍」とされて斬罪に処されたのもショックだった。多勢子は明治2年には岩倉家を辞して郷里へ帰った。多勢子が勤王に明け暮れたため、すっかり家運が傾いていたから、郷里では息子を助けて家運挽回に励んだ。もはや中央とは何の交渉もなかった。明治14年に岩倉具視は再び彼女を招き、しぶしぶながら多勢子は孫とともに東京に赴いた。何不自由なく暮らしたが、平田国学の信奉者で71歳の多勢子には新しい時代の東京は「西洋の奴隷」に見え、2年で滞京を打ち切った。それでも愛国の情には変わらず、明治25年、82歳の時に、志士の中で一番仲が良かった品川弥次郎(当時文部大臣)に宛てて長文の建白書をしたためた。宮司神官を国の判任官待遇にすべしとのもので、これは明治27年に実現している。志士たちが彼女を忘れていくなかで、品川弥次郎だけは「松尾のばあさん」と手紙のやりとりをし、署名には親愛を込めて「やじより」と書いた。

廓の女性(宮尾登美子):江戸時代には、世界でも珍しい公娼制度である遊廓があった。江戸や京都の他にも地方で公認されたところも25カ所あった(薩摩には山鹿野がある)。本章ではこの遊廓の制度を解説している。当初は高級なものであった遊廓は次第に庶民化し、遊女自体の格も下級が増えたため、最上級の太夫は宝暦末以降は姿を消した。当初の遊廓では、客に簡単に肌を許さなかったという。遊廓の女性たちが百姓女の貧しい出だったのはいうまでもないことで、人身売買ではなく形の上では年季奉公であった。彼女たちはおぼこ娘たちだったに違いないが、次第にきらびやかな遊廓の世界に馴致された。本章ではそんな中でも伝説的な名妓として、高尾(何代かいる)、夕霧が紹介されている。彼女たちは単なる高級娼婦だっただけでなく、当時の理想の女性像にまで影響を与えた。さらに本章では、一種の私娼である芸者について取り上げる。江戸後期には、遊女から芸者へと時代のスターは移った。幕末には遊女や芸者に身を落とす若い娘は膨大となった。

唐人お吉(安西篤子):お吉は、横浜でアメリカ総領事ハリスに一時的に仕えた女性である。彼女は生活に困り、芸妓として働いた末(しかしこれは真実かどうかわからない)、名目は看護婦としてハリスにやとわれた。異人に仕えることが恐怖されていた時代である。体調を崩していたハリスからの看護人の要求を、下田奉行は日本の慣習に照らして侍妾を求めているものと理解し、女をあてがったものと思われる。なお後にヒュースケンは看護婦の名目で侍妾を求めていた事実がある。しかしハリスが彼女を性の対象とした証拠はない。ほんの数日彼女はやとわれ、当てが外れたハリスはすぐに暇を出した。彼女はせっかくありついた高給の仕事を辞めたくはなかったが、結局は続けることはできなかった。その後は、小料理屋を開いたがお吉自身の酒乱のためもあり潰れ、悲惨な生活を送った。異人の性の相手は「ラシャメン(洋妾)」と呼ばれ、吉原の高級娼婦も及ばぬ高給取りであり、蔑みの的でもあった。それは良家の子女たちを異人たちから守る防波堤であり、大いに奨励されたことではあるが、高給取りであったことから羨みが嫉妬となり、やがて憎悪の対象となったのだ。そしてお吉はこの指弾の対象となっていく。なぜほんの一時、しかもハリスが手を出さなかったらしきお吉がラシャメンの代表のようになり軽蔑されればならなかったのか。それはよくわからない。しかし彼女が、「人も怕(おそ)れる異人に、最初に抱かれることを決意した女(p.208)」なのは事実である。

江戸期の女性群像(林 玲子):本章では史料の端々に現れる様々な女性を描いている。機屋の娘いとは、8歳で桐生の私塾松声堂に入門。先生は「機屋であり織物商人である田村家の長女梶子である(p.214)」。彼女は橘守部の高弟であった。6年間の教育を終えて彼女は守部に預けられ、素晴らしい教育を受けて桐生に帰った。彼女の子どもの一人が、橘家に養子に迎えられた国学者橘道安である。質屋の若女房みねは「日知録」という日記を残した。近世庶民の女性が残した日記として貴重である。みねは8歳で町内の手習い師匠・前野久右衛門の妻女ために入門。彼女は教養が高く、家業は夫や奉公人に任せていたが家事に励み、時には仕事をうっちゃって息抜きをする、等身大の姿が日記に残っている。さらに本章では島流しにされた女、孝子として表彰された女、養父に売春させられていることを評定所に必死に訴えた女、上州の世直し一揆の女大将たちが簡潔に描かれている。

本書は全体として、近世の庶民女性の姿をいろいろな角度から捉えようとしたものであり、いろいろと考えさせられる。

第1に、この時代に女性が活躍するためには、誰かの妻や母であるという義務から解放される必要があったということだ。滝沢みちは夫の死亡後に底力を発揮し、太田垣蓮月は出家後に養父をみとって孤独になってから自分の人生を生きた。松尾多勢子の場合は少し違っていて、夫の公認の下で志士活動をしたが、それにしても隠居の身であればこそできたことであろう。女は男の従属物だった。

第2に、そうはいっても女性に教育が閉ざされていたわけではないということだ。確かに各藩の藩校や江戸の昌平黌などは男性のみに入学を許可していた。しかし只野真葛は高い教養を身につけ、遊女たちは『源氏物語』の写本を所有して美しい字を書いた。「手紙遊女」という手紙専門で客を招く能書家もいたという。庶民の女性、機屋のいと、若女房みねも今でいえば小学生くらいの頃からしっかりとした教育を受けた。しかも女性の先生に習ってだ。無教育だったらしき滝沢みちの場合も、目の見えない馬琴が熱心に字を教えた。みちの筆跡は馬琴にそっくりだったという。少なくとも「女に教育は無用」とか「女に学問は無理」といった考えは本書の登場人物からは感じられない。かえって明治期に入ってからの方が、女は社会から疎外され「良妻賢母」としてのみの役割に押し込められた感がある。

近世の女性にも、社会に出て活躍していた人はおそらくたくさんいるのだろう。しかしそうした人生は、歴史の中に埋もれてしまった。我々が知れることはほんのわずかである。

近世の女性の在り方を考えさせる良書。

【関連書籍の読書メモ】
『江戸の女』三田村 鳶魚 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/12/blog-post.html
江戸の性風俗を述べる本。江戸時代の女性研究の古典。


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