江戸時代以前において、女性の方から離婚することはできなかった。だから夫が離婚に同意しない場合は「縁切寺」に駆け込んで強制的に離婚を成立させる必要があった。幕府から認められた縁切寺は二つあり、一つが群馬の満徳寺、そしてもう一つが本書のテーマである鎌倉の東慶寺である。
正式名は「松岡山東慶総持禅寺」。その山号から「松ヶ岡」と称され、江戸時代の川柳によく登場する。
開山は北条時宗の夫人である覚山志道尼。時宗が亡くなる直前に夫婦そろって出家し、その後時宗の菩提を弔うために東慶寺を開山した(開基は北条貞時)。亡くなった後に出家したのではなく、亡くなる前に出家しているのが目を引く。
開山当初から寺格の高い寺だったのは間違いないが、後醍醐天皇の皇女であった用堂尼(第5代)が寺に入った頃に紫衣着用の御所寺として「鎌倉御所」「松ケ岡御所」などと呼ばれるようになった。東慶寺は鎌倉尼五山の一つとして繁栄。なお鎌倉尼五山は東慶寺以外は全て廃絶している。
東慶寺の歴史にとって重要なのが第20代の天秀法泰尼。彼女は豊臣秀吉の子、秀頼の娘である。徳川家が豊臣家を亡ぼしたとき、一族がことごとく処刑される中で、彼女は秀頼の正室である徳川家の千姫の実子ではないものの、家康から情けをかけられ尼寺に押し込められた。男子禁制の尼寺ならば豊臣家の残党に担ぎ出される心配はないと思ったのであろう。この天秀尼が家康の命令で東慶寺に入るとき「何か願いはないか」と聞かれ、まだ7~8歳であった彼女は「開山以来の御寺法を断絶しないようにしていただきたい」と答えた。これを家康が聞き入れたことで、東慶寺は「権現様」の権威で「御寺法」=縁切りの法を守っていくのである。
なお天秀尼の養母である千姫が、満徳寺を再婚のできる縁切寺にしたのも興味深い。彼女は豊臣家との縁を切って本田忠刻と再婚するのであるが、豊臣家との離婚が一方的なものであったために縁切りが必要になったのである。そんなわけで彼女は再婚のできる縁切寺の必要を痛感し、後に満徳寺を縁切寺にしたのである。なお満徳寺の宗派は時宗である。
満徳寺は縁切り専門の寺であったのに対し、東慶寺はより広い「駆込寺」であり、縁切りに限らず女性が困った場合に駆け込める場所であった。中世における無縁・アジールとしての寺院の機能が残っていたのである。例えば天秀尼の頃に、「会津四十万石改易事件」というのが起こった。事の次第は省略するが、会津藩加賀家から逃げてきた堀主水(もんど)の妻女をかくまったのが天秀尼である。天秀尼は千姫を通じて将軍家光に女人救済寺法の護持を訴え、加藤家は幕府から四十万石を没収されることになった。一人の女性の力で大藩が取り潰されたという、「日本女性史上に輝く一大事件(p.31)」である。
天秀尼以降は東慶寺は衰え、元文2年(1737)以後130年間は無住持となり、塔頭の一つ蔭凉軒が東慶寺を管理する時代となった。その後、江戸時代後期に蔭凉軒院代となった法秀尼は水戸藩主の息女であったことから、駆込女の取り扱い手続きなどの整備が進み、東慶寺が特別なお寺だという意識が庶民にまで浸透して、幕末(嘉永・安政頃)には駆け込みも非常に多くなった。
しかし明治5年には東慶寺は円覚寺の附庸とされ、その結果院代が住職となって住持が復活したものの、最後の順荘尼が明治35年に亡くなって尼寺としての東慶寺は終わりを告げた。
同年、男僧が東慶寺に移って寺としては存続し、男僧第2世には有名な釈宗演が就任。釈宗演は東慶寺を拠点に米国伝道を含め東奔西走し、各界から篤い帰依を得て大正8年東慶寺にて示寂した。現在でも東慶寺は存続している。
それでは駆け込み・縁切りの実態はどのようなものだったか。本書では多くの川柳に描かれた「松ヶ岡」を読み解き、民衆にとって縁切りがどのようなものだと思われていたかを描いている。江戸から鎌倉までは13里(約52キロメートル)。簡単に行ける距離ではないが、女の足で行けないこともないという絶妙な位置に東慶寺はあった。夫から逃げて東慶寺までたどり着き、草鞋でもなんでも門内に投げ込めば寺の保護を受けられたから、最後まで必死の逃走劇が繰り広げられた(ということに川柳ではなっている)。
東慶寺に駆け込むといっても、尼になるわけではない。尼になれば自動的に結婚は解消されたが、それでは元の身分を失い再婚もできない。髪は少し切ったようだが尼になったのではなく、足掛け3年寺に逗留すれば縁切りができるということに東慶寺の寺法の価値があった。この足掛け3年(つまり満2年)というのも面白い期間設定である。当時の女性は結婚すれば眉を落としお歯黒をしたが、この2年の間に切った髪も伸び、眉も生えてお歯黒が落ち、独身女性のような姿になったのだという。
東慶寺で非常に独特なことは、寺に付属して役所があったことで、なんとそこにはお白洲(法廷)があった。古い時代のことは不明ながら、そこで裁判長を務めたのが、先述の蔭凉軒の院代であったのだ。「松ヶ岡では女性が最高の地位にあって、裁判長の機能を有していたわけで、この点で、古今東西にその比を見ない(p.79)」。なお寺役人は、蔭凉軒と深い関係があった喜連川家の代官がつとめていた。
東慶寺は法廷でもあったので、駆込女の取り扱いは厳密に文書で記録された。よってその記録がよく残っており、そこから手続きの実態を窺うことができる。本書で説明されるそれは非常に詳細であり、また複雑でもあるためここでは割愛するが、現在の裁判と全く違うところは、妻と夫という当事者間だけではなく、「名主」を通じて手続きが進んでいくということである。
例えば女が駆込んだら東慶寺は女の父兄やその夫、時には仲人までも召喚するのであるが、関係者に直接飛脚を飛ばすのではなく、名主に命じている。名主は町や村の責任者であるが、それが離婚というプライベートなことにまで巻き込まれるというのが今から考えると興味深い。名主にとっても夫婦喧嘩は頭痛の種だったに違いない。
こうして女の父兄を召喚すると、まずは協議離婚が勧められる。夫側と相談して平和裏に離縁しなさいというのである。これを「内済(ないざい)離縁」という。東慶寺に駆込まれた時点で夫側には勝訴の見込みはなく、それどころかお叱りを受けて無理やり三くだり半(離婚状)を書かされるのが目に見えているため、ほとんどはこの内済離縁が成立した。なので実際には足掛け3年の逗留を行ったのはそれほど多くない。
内済離縁が成立しなかった場合は、夫側へ「出役達書(でやくたっしがき)」が出される。出張裁判のお知らせで、寺役人が出向くから首を揃えて待っていろという書類である。これに恐れをなして離縁状を出す場合も多い。しかしそれでも折れなかった場合は、紋付きの桐箱に「寺法書」を入れた飛脚が夫のもとに走る。これは「松岡御所御用」という差札をつけた格の高い飛脚で、大名行列にぶつかっても遠慮する必要がない。何しろ大名より御所の方が偉いのだ。そしてこれを受け取るのも夫本人ではなくて名主である。そこに何が書かれているかというと、「お前の女房は預かった。もうお前の女房じゃない」といったことである。
しかしこれでも厳密には離婚は成立していない。これを受けて、夫が離縁状を書かなくてはならないのである。これを「寺法離縁状」といって、五人組・家主が連署押印し、名主が奥書を加えて東慶寺宛に差し出すものである。離婚一つでオオゴトなのだ。
なお、夫にも言い分があったり強情であったりして、離縁状を書かない場合は寺社奉行へ願い出た。離婚訴訟を取り扱うのが寺社奉行なのが今から見ると面白い。そして実際に裁判が行われると、東慶寺の場合は常に女の味方をして、女の幸せを優先して裁定を行った。
こうして「寺法離縁」になった女は、東慶寺で足掛け3年過ごさなくてはならなかった。ちなみに東慶寺は禅宗であるが、何宗の女でも駆け入ることができた。
駆込みの逗留は無料ではなく、寺入りの時に一定の冥加金を納め、それに応じて寺での生活の格が決まった。これではお金がないと駆け込みができないように見えるがそうではない。というのは、女の実家にこのお金が出せない場合は、名主が責任を持って都合をつけたからである。さらに夫が悪く慰謝料が必要な場合も、夫にその負担能力がない場合、夫側の名主がそれを支払った。人の離婚の慰謝料まで払わされるとは、名主はなかなか大変だ。今とは全く違った連帯責任の仕組みである。
一方、女性は寺でどのような生活を送ったかというと、当たり前だが結構厳しかった。そのためせっかく駆込んだのに脱走する女性もいたそうである。
記録上では、明治3年12月の内済離縁の一件を最後に駆込女の取り扱いは終了した。しかし東慶寺が明治4年に縁切寺法の存続許可を神奈川県に願い出ていることは注目される。需要があったということなのだろうか。それとも伝統を固守しようとしたのか。しかしこの願いは明治政府に却下された。そして明治6年には太政官布告第162号によって「婦ノ父兄弟或ハ親戚ノ内付添、直ニ裁判所ヘ訴出不苦候事」によって女性からの離婚請求権が与えられ縁切り自体が不要になった。なお、この太政官布告で女性本人だけでは離婚請求ができず「父兄弟或ハ親戚ノ内付添」が条件になっているのは気になるところである。
本書ではさらに満徳寺の縁切が詳説されているが、こちらのメモは省略する。東慶寺との大きな違いは、満徳寺では離縁状を書かせることを最終目的としており、足掛け3年の寺入りが実際にはほとんど行われなかったということである。要するに満徳寺では早く離婚できた。そのわけは、満徳寺の方が幕府への依存度が大きく、宗教的権威よりも幕府の権威が背景にあったということが言えそうだ。
さらに本書は、東慶寺に残る文化財や記念物の概説、東慶寺に眠る各界の代表的人物――西田幾多郎、岩波茂雄、鈴木大拙、出光佐三、和辻哲郎、小林秀雄などについて述べている。また東慶寺の墓地には旧制一高(岩波、和辻も一高)の卒業生が多く、旧制一高の記念塚である「向陵塚」がある。戦後の新民法をつくりげた法学者の中川善之助が家族法研究のため東慶寺を何度も訪れ、この寺に眠ることを選んだのは感慨深い。
著者は東慶寺の前住。非常に柔らかい語り口であるが、学術的にもしっかりしているように見受けられ、伝説を真に受けた郷土自慢的なものではない。私自身の興味としては、江戸時代の家族法と尼寺の実態にあったが、本書は駆け込みがテーマの中心であるため、尼寺としての東慶寺の説明は少なかった。それでも全体が興味深く、特に名主が庶民の離婚に巻き込まれているのが面白かった。
東慶寺による女性保護を詳細に述べた良書。
【関連書籍の読書メモ】
『増補 無縁・公界・楽』網野 善彦 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/11/blog-post_11.html
日本の中世・近世に存在した「無縁の原理」について述べる本。無縁」の世界という沃野を切り拓いた、荒削りだが触発されるところも多い論考。
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