2023年3月28日火曜日

『後水尾天皇』熊倉 功夫 著

後水尾天皇の評伝。

後水尾天皇は、江戸幕府初期の天皇である。戦国時代よりは持ち直したとはいえ時の朝廷の権威は未だ弱く、徳川の支配を受けなくてはならなかった。この難しい時代において、幕府に翻弄されつつも天皇・朝廷の復興に力を尽くしたのが後水尾天皇である。彼は幕府に従いながらも、江戸とは違う中心として朝廷を文化面で盛り上げた。本書はその事績を辿るものである。

戦国時代、朝廷の権威は地に落ちていた。しかし信長・秀吉の時代には急速に高められる。権力者にとって下剋上は望ましいことではなかったので、天皇の権威を借りて秩序を固定化しようとしたからである。すでに戦乱の時代が終わり、現実に下剋上を成し遂げることが不可能になったとき、成り上がりに乗り遅れたものたちは下剋上を風俗化し、「かぶき者」として異風異体で異様な名前を名乗り、封建道徳に従わず町で名を売った。身分の低い牢人たちだけでなく、そのような者が若公家にもいた。

その一人に猪熊教利(のりとし)がいた。慶長14年(1609)、彼は仲間とともに後陽成天皇の寵愛を受ける官女と密通。朝廷は検断権がなかったので、幕府に処分を依頼。彼らは処分されたが、面目丸つぶれとなった後陽成天皇は公家衆はもちろん母親や皇后とも逢わなくなり、ひたすら譲位を願うようになった。

その以前、慶長3年(1598)に、すでに後陽成天皇は譲位を望んでいた。しかし皇位を継ぐべき一宮・二宮(長男・次男)はなぜか門跡寺院へと送られた。そして官女密通事件を受け、後陽成天皇の譲位希望が改めて幕府に伝えられたのである。しかし家康(とそのブレーン金地院崇伝)は譲位に際していろいろと注文を付けた。天皇は反発したが、朝廷は財政的にも幕府に依存しており家康のいうとおりにする以外はない。天皇は「ただなきになき候」と涙に暮れながら承諾。結果、慶長16年(1611)、遂に三宮・後水尾天皇が即位。このゴタゴタによって後陽成院と後水尾天皇は不和となり、それは終生解けることはなかった。

慶長18年(1613)には、新内裏が完成した。幕府はその実力を示威し、また朝廷を掣肘する意図を持って、厖大な費用をかけ比類なき内裏を造営した。さらに幕府は公家衆法度・勅許紫衣法度を制定。寺院人事は幕府の許可を要するようになり、公家の自由が制限された。

元和元年(1615)、家康は朝廷対策の仕上げとして禁中並公家諸法度を制定。禁裏に対して法制を発布したのは、武家政権として前代未聞のことであった。ここでは公家衆法度が天皇にまで適用されるとともに、武家官位と公家官位を分離し、朝廷の任官に幕府が介入しうる余地を作った。ただし公家については、その「家業(家々之学問)」が公的に認定され、一面でその権利が保護されたことは見逃せない。

そして、禁中並公家諸法度では、天皇のつとめは「諸芸能之事」と規定された。天皇は文化面の権威であるとされたのである。後に述べるように、後水尾天皇はこれを体現した。

ところで家康は、元和6年(1620)、後水尾天皇に二代将軍秀忠の娘和子(まさこ)を入内させた。後水尾天皇には、すでに女官との間に皇子賀茂宮・皇女梅宮という二人の子どもが誕生していたためこの結婚には難色を示した。彼は譲位してこの結婚を避けようとしたが、藤堂高虎が恫喝して公家衆が従い、やむを得ず受け入れた。入内の道具は厖大であり、幕府の力はここでも朝廷に見せつけられた。和子入内は、朝幕の親和を示すというよりは、朝幕の軋轢を生んだ。

その軋轢もようやく和らいだ頃、家光が三代将軍に就任。秀忠と家光は将軍宣下のために参内。その派手な行列と物量に公家は驚いた。また禁裏御領として1万石が寄進された。後水尾天皇はこれに応え、また旧儀復興の意図から和子を中宮とした。南北朝以来廃絶していた中宮の復活である。またこの行幸を記念して年号が「寛永」に改まった。

そして秀忠は後水尾天皇を二条城に招き、寛永3年(1626)、5日間にわたる二条城行幸が行われた。将軍の私第(邸)への行幸は、これ以後江戸時代を通じて行われなかった。将軍の権威が確立し、天皇の権威を借りる必要がなくなったからである。なおこの時の行幸では、天皇の膳具は全て黄金であり、小堀遠州が調整した風呂釜など茶道具も全て黄金であったという。未だ「かぶき者」的な絢爛さを世の中は残していた。

こうして融和的になっていた朝幕間は、寛永4年(1627)、「紫衣事件」がおこって再びギクシャクした。勅許紫衣法度によって寺院人事・紫衣勅許は事前に幕府の許可を得ることになっていたが、朝廷が幕府の許可を経ずに行っていたことが明らかになり、金地院崇伝らが起草した「上方諸宗出世法度」でその間の出世入院を無効とし、綸旨を破棄させたのである。

これは当然に各宗に大混乱をもたらし、また寺院では強硬派と従順派に分かれて争いが起こった。特に強硬派だった大徳寺の沢庵や妙心寺の僧らには配流など厳罰が処された。そして自らの発行した綸旨が無効だとされた天皇は面皮を欠くことになり、女一宮に譲位したいと幕府に申し入れた。後水尾天皇はまだ30代であった。

なお後水尾天皇はこの頃腫れ物で苦しんでおり、灸治を受けるために譲位を希望したという説もある(天皇在位中は体を傷つける灸治は受けられない)。

譲位の希望を受けて、幕府は難色を示し譲位引き延ばしを試みた。そして家光の乳母江戸の局を上洛して拝謁を要求。朝義復興が念願だった天皇としては、この無位無官の女性の参内は不快であった。そして幕府の容認は得られないと悟った天皇は、公家衆にも知らせずゲリラ的に儀式を行い、勝手に譲位してしまった。

そこまでして譲位したのは、「中宮和子以外の女官に生まれた皇子が、殺されたり、流産せしめられていた(p.117)」ことが背景にあると考えられている。後水尾天皇には18人の皇子と19人の皇女がいたが、この時期には不自然に和子以外からは子どもが生まれていないのである。幕府はなんとしても和子の血統で次の天皇を出したかったから、他の子どもを暗殺したのはありそうなことだ。しかし肝心の和子の生んだ皇子は生まれてすぐに死亡し、皇女しか残らなかった。

秀忠は突然の譲位に激怒したが、朝廷には表立って処分は下らなかった(武家伝奏の中院通村が更迭された程度)。こうして和子の生んだ皇女が女帝・明正天皇として即位した。奈良時代以来、約860年ぶりの女帝であった。そして、院の住居である仙洞御所と、和子改め東福門院の女院御所が造営され、後水尾院の真価が発揮される寛永時代が始まった。

ところで、朝幕関係のキーパーソンになったのが京都所司代である。京都所司代板倉勝重は人柄がよく思慮深く、家康のみならず後陽成天皇にも信頼されていた。対朝廷の幕府政策は実質的には京都所司代によって決定されており、京都所司代は一官僚ではなく、西日本の最高司令官であった。これを継いだのが息子の板倉重宗で、彼は和子入内や後水尾天皇の譲位という難しい問題を処理し、朝幕融和の時代を作りあげた。

重宗は後水尾院と協力して町方の儒者松永尺五を応援したり、本阿弥光悦に領地を与えたりするなど、文化の後援者となった。彼は京都の町衆を幕府の手中に取り込み、特に上層町衆には代官職を与えて幕府の御用商人化するなど、町衆、文化人、職人などをある意味では籠絡した。しかしそれは政治的な思惑ばかりでなく、例えば安楽庵策伝の『醒睡笑』は重宗が面白がったことがきっかけで公刊されたものであるなど、「板倉所司代一個人の判断で文化人が庇護され新しい創作に成功(p.144)」するような、見識のある文化の庇護者であった。

板倉所司代とならぶ寛永文化のサロンだったのが、鹿苑寺。住持鳳林承章は後水尾院の近縁で、公家、僧侶、絵師や医者、町人ら多くの人が鹿苑寺に集い詩文・芸能を楽しんだ。茶の湯も盛んで、千宗旦(利休の孫)、小堀遠州も招かれ鳳林和尚と親しく付き合っている。絵師の山本友我もサロンメンバーで、その子で漢学者の山本泰順は23歳で『洛陽名所集』を完成させているが、この高度な仕事が20代の若者によって成し遂げられた背景にはサロンでの交遊があった。

後水尾院自身も禁裏(天皇在位中)や仙洞でサロンを主宰していた。その最大の成果は立花(花生け)である。花は単なる飾りを超え、自立した鑑賞の対象、文化となった。後水尾院は自らも花を生け、立花をコンクール形式にして多くの人に生けさせた。殊に伝説的なのは「宮中大立花」というイベントだ。後には禁中には人が自由に出入りすることはできなくなるが、後水尾院のサロンは近世的身分秩序に捕らわれておらず、「宮中大立花」には出家・町人のみならず立花に優れていれば誰でも選ばれて参加できた。なお立花の採点者は後水尾院と、池坊専好。専好は院の意を受けて法橋に叙せられている。

女帝明正天皇はいわばショート・リリーフで、幕府としては東福門院に皇子の誕生を期していたが、結局皇子が生まれなかったため、東福門院以外の女性が生んだ子が次の天皇となった。それが後光明天皇である(東福門院の養子。なお後西天皇、霊元天皇も東福門院の養子)。後光明天皇の即位の儀式は、幕府の意向で非公表で行われた。幕府は身分制を貫徹するため、禁中に誰でも入れることをよしとしなかった。鳳林和尚はこの措置に憤慨している。

後光明天皇は和歌はあまり詠まなかった代わりに朱子学に傾倒し、『藤原惺窩文集』に序文を贈ったり、町の儒者朝山意林庵を禁中に招いて儒書を講義させたりした。この頃までは、在野の学問と禁中の学問が交流していた。後水尾院は才気溢れる後光明天皇に期待し、禁中の有職(しきたり)を書き記した『当時年中行事』を後光明天皇に与えている。これは後醍醐天皇の『建武年中行事』を引き継ぎ、朝廷の儀礼を復興させるための書であった。しかし後光明天皇は22歳の若さで急死してしまう。

ところで、後水尾院は大量に著述した。著述の量でいえば天皇としては空前絶後だ。内容は有職研究、和歌・物語の注釈、歌集といったものが中心である。禁中並公家諸法度では天皇の務めは「諸芸能之事。第一御学問也」とされていたが、この学問に後水尾天皇は命をかけていた。数多くの年中行事をこなしながら、古書を見、自ら著述するだけでなく、早くも元和7年(1621)には勅版『皇朝類典』を編纂させている。 

また後水尾院は儒学にも明るく、社家出身の赤塚芸庵(うんあん)を出仕させていた。 彼は約55年間に渡って院に近侍した最も院に近い人物で、かなり反幕的であった。芸庵は朱子学的名分論から天皇が君で将軍は臣と考えていた。後水尾院の儒学の背景にはそういう思想があった。

後水尾院が異常なほど力を入れたのは和歌の道である。「和歌の道を王朝の盛時にもどすこと、それが後水尾院の最大の関心事であった(p.209)」。後水尾院は、天皇・上皇の地位にありながら幕府の頤使(いし)を甘んじて受けなければならない自らの無力さを歌に託し、あるいは求道の思いを込め、逆に幕府を賞讃するにも歌を以てした。院にとって歌は内面を表現する道具であるよりも、歌を通じ王朝の復興を実現しようとしたと言える。その表現は自由自在であり、クロスワードのような歌まで作っている(東照宮三十三回忌にあたってつくった「蜘蛛出」)。

やがて仏道に惹かれていった院は、慶安4年(1651)、何の前触れもなく突然落飾した。以前から入道の希望がありながら、家光の反対で実現しなかったという事情があり、その前月に家光が歿したことから行われたものと見られる。

後水尾院が仏道に惹かれる契機となったのは、禅僧一糸文守(いっし・ぶんしゅ)との出会いである。院は一糸から文通によって教えを受け傾倒。また一糸は院の娘梅宮と深い関係にあったから、一糸は梅宮(文智尼)を院を結ぶ紐帯でもあった。一糸は正保3年(1646)に39歳の若さで死んだが、その30年後には「仏頂国師」の号を贈っている。一糸没後も院の禅への傾倒は沢庵、龍渓性潜を通じ、黄檗宗へと進んだ。

後水尾院の晩年の大プロジェクトに修学院の造営がある。後光明天皇没後の後水尾院は、所司代に自由に御幸できるよう切々と訴えて認められ、洛北の地をたびたび訪れた。そこには山荘を造営したいという企図があった。文智女王の円照寺が修学院の地に創建されたのも、その伏線として位置づけられる。修学院の山荘は、当初は隣雲亭という茶屋一宇に過ぎなかったが、院は壮大な構想を持っており、それが順次実行に移された。そして鳳林和尚らの協力の下、長期間かかって遂に独創的かつ大規模な山荘、修学院離宮が完成。

修学院離宮は上中下、3つの茶屋が小径によって結ばれる類例を見ない構成で、上の茶屋は浴竜池という人口の大池を持っているが、この池は地盤から15メートル近く盛り土して造成されたものである。これだけでも修学院離宮がどれだけの労力を使って造営されたものか窺える。ちなみに、院にはここに門跡寺院を建立する計画があったが、それは実現しなかった。

修学院離宮は、決して後水尾院の秘密の山荘ではなかった。それどころか庶民の田畑とも交錯していたし、様々な人が離宮を訪れた。さながら今の団体見学のようなことまで行われていた。公家・町人社会が隔絶していない、寛永文化の名残があったのだ。そして修学院は新たな文化の揺籃地にもなった。離宮では茶の湯が盛んに行われ、「修学院焼」という焼き物が修学院で生みだされた。

修学院を訪れる後水尾院は、必ずと言っていいほど東福門院を伴った。二人は政略結婚であったが、晩年は円満だった。東福門院は幕府から後援されていたからお金があり、大量の衣装を派手に注文していた。それは武家風として反発されたが、羨望されもした。そしてその財力は衣装だけでなく、寺社に対する数多くの寄進、寺院の創建などにも使われたから、東福門院は寺社の庇護者として重要な役割を果たした。そして37人にものぼる後水尾院の子どもたちのよき母親であり、彼ら彼女らを自らの養子として経済的にバックアップした。梅宮こと文智女王もその篤い後援を受けた一人である。

こうして延宝8年(1680)、後水尾院は85歳で天寿を全うし、静かに亡くなった。

なお、後水尾院の十男に天台座主の「獅子吼院」こと妙法院堯恕法親王がいる。この人は俊敏熾烈なところのある人であったが、画才があった。今に残る後水尾院の肖像画の顔は、堯恕法親王が描いたものである(体は狩野探幽)。

全体として本書が強調するのは、「寛永文化」である。著者の強調以前には、寛永期の文化は過渡期的なものと扱われて、例えば「元禄文化」のような独立した価値を与えられていなかった。しかし著者は寛永文化を、朝幕の融和を基調とし、京都所司代を軸として公家・武士・町民が近世的身分秩序に囚われず交流して生みだした文化と表徴した。そしてその文化の後援者であったのが後水尾院であった。

後水尾院は、天皇時代は朝幕の軋轢に苦しめられた。しかし譲位後は比較的自由になり、自身も和歌や著述を中心に創造性を発揮し、また修学院離宮という寛永文化の到達点を作りあげた。本書はそうした後水尾院の生涯を描き、その価値を浮かび上がらせている。

しかし、やや不足に感じたのは、東福門院についてである。後水尾院は昭和天皇・平成天皇(存命中の上皇陛下)に次ぐ長寿であったが、東福門院も延宝6年(1678)まで生きており、人生を共にしている。東福門院の活動は後水尾院の活動と補足的な関係になっているように見受けられ、そこをもう少し知りたいと思った。本書に描かれる東福門院は概略的である。

後水尾天皇と寛永文化の価値を詳述した名著。

 

【関連書籍の読書メモ】
『徳川家の夫人たち(人物日本の女性史 8)』円地 文子 監修
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徳川家の女性たちを描く本。水江漣子による東福門院和子の評伝がある。

『信仰と愛と死と(人物日本の女性史 7)』円地 文子 監修
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信仰に生きた女性を江戸時代中心に述べる本。安田富美子による文智尼の評伝がある。 


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