2023年1月3日火曜日

『江戸期女性の生きかた(人物日本の女性史 10)』円地 文子 監修

江戸時代の様々な女性を描く。

江戸時代は、『女大学』に代表されるような封建道徳が幅を利かせていた。女性は男性の従属物として生きるほかなく、大きく活躍した女性は少なかった。よって江戸時代の女性の生の声はあまり残っていない。本書ではそんな中で記録に留められた数少ない女性たちを描くものである。

滝沢みちと只野真葛(杉本苑子):滝沢馬琴は、日本で初めての職業小説家であり、読み捨ての本ではなく高度なプロットと難解な漢語をちりばめた本格的作品を書いた。そんな馬琴は若いころ、下駄屋ではあるが家持の娘と蔦重(蔦屋重三郎)の勧めで結婚した。二人の間に生まれた長男は宗伯といい、元来病弱で医師にはなったがまともな仕事はできず、長じてからも馬琴が一家の大黒柱であった。その宗伯に嫁いできたのが「おみち」である。馬琴のファンであった前松前藩主志摩守章宏は宗伯を抱え医師として三人扶持を支給していたが、それも出仕できず辞職。宗伯夫婦の仲は当然のように悪くなり、夫婦喧嘩が絶えなかった。しかしその宗伯も結婚後8年で死去する。この時、馬琴は69歳。右目は失明し、左の一眼でなんとか仕事をしていた。

宗伯に先立たれた馬琴は、宗伯の息子太郎が身を立つようにしてやろうと、どうにかこうにか金を捻出して幕臣(鉄砲同心)の株を買った。 しかしその頃遂に両目とも失明してしまう。畢生の大作『八犬伝』も未完成で、馬琴74歳。今や一家が頼りとするのはおみちしかいない。こうして、字すら知らなかったおみちが馬琴の手となって『八犬伝』を書き上げるのである。もちろん代書人を雇ったことはあったが、病的なまでに誤字や間違いを許さない馬琴の気に入るものはなかったため、おみちがやるしかなかったのだ。しかし馬琴の作品は難しい熟語が頻出する技巧的なものだ。文盲だったおみちがそれを書くためには血の滲むような努力を要した。馬琴は最晩年まで著述をやめなかったが、それらの筆記は全ておみちが受け持った。無名の主婦に過ぎなかったおみちは『八犬伝』を通じて歴史に名を残したのである。

只野真葛は紀州藩の医師工藤球卿の娘で、仙台の伊達侯の重職の後家として迎えられた。彼女は義理の息子を慈しみ育て、義父・夫を見取って息子が家督を継ぐと隠居した。彼女は書くことが好きだったから隠居後にエッセイなどを書き、有名な『独考(どっこう/ひとりかんがえ)』を著したのは55歳の時だった。そして彼女はこうしたものを出版したいと考え、馬琴に手紙を出すのである。しかし有閑階級のお嬢さんでのびのびとエッセイを書いた真葛と、日々生活と葛藤する中で至高の作品を追い求める馬琴では、依って立つ条件が違いすぎた。『独考』は封建道徳から自由な立場で文明批評をした斬新なものだったが、馬琴には単に不愉快なものにすぎず、結局二人の音信は途絶えた。

上方女(田辺聖子):本章では物語に登場する女を読み解いて、上方女のいきいきとした姿を描いている(とはいえフィクションとしていくらか割り引く必要があるのはもちろんだ)。近松門左衛門『曽根崎心中』のお初(女郎)、『心中天の網島』のおさん(妻)と小春(遊女)、井原西鶴『好色五人女』のヒロインたちが取り上げられる。彼女たちに共通するのは、江戸時代の享楽的な雰囲気の中で本気の恋をし、真摯に生きようと(あるいはそのためにこそ死のうと)することだ。

太田垣蓮月(生方たつゑ):太田垣誠(のぶ)こと蓮月の出自ははっきりしない。彼女は高貴な生まれながら養子に出された。男子も及ばぬ武術の才能を見せ、また利発な少女だったようだ。しかし不幸な結婚をし離縁、養父の孝養のため再婚し今度は幸せな結婚生活を送ったが、夫は若くして死んでしまった(亡くなる前日に誠は薙髪)。33歳の彼女は出家を決意。知恩院大僧正によって得度し、養父とともに出家した。こうして彼女は蓮月尼となる。やがて養父が亡くなると剃髪し、いよいよ孤独な生活となった。しかしその寂寥が、彼女に新しい人生をもたらすのである。彼女は書や武道、囲碁にも長けて師範することができたが、弟子となる人々に男性が多かったので人を導くことを避け、生活の糧として陶芸を嗜むようになった。彼女は放浪とも言える度重なる宿替え(引っ越し)をしながら、陶芸を芸術にまで高めた(蓮月焼)。また香川景樹の門に入って和歌を学び、和歌を通じて多くの人々と交流した。蓮月尼が交際したのは、橘曙覧、税所敦子、野村望東尼、富岡鉄斎などがいる。彼女の交友は広く、遊女とまで和歌のやりとりをした。

松尾多勢子(岩橋邦枝):松尾多勢子は信濃国下伊那の豪農の家に生まれ、従兄の北原因信(よりのぶ)に和歌などの教育を受けた。この因信が伊那国学の中心人物の一人であった。多勢子は結婚すると(結婚後の姓が松尾)、模範的な嫁として家業に勤しんだ。また夫のお供でよく旅をした。長男夫婦もしっかりしており、多勢子は45歳で若隠居の身となって自由になった。文久元年(1861)には平田門に入門。和宮の一行を間近で見た多勢子は、宗教的情熱を帯びて尊王論に邁進するようになる。文久2年、多勢子は夫の許しを得て京都へ向かい、白川資訓(すけのり)のもとへ出入りし始めた。彼女はお金の心配をする必要もなく、和歌修業の女楽隠居として、怪しまれずに公卿や宮中に出入りして志士との連絡係となって活躍した。他の志士たちより二回りも年上の50代の彼女は、異色の女志士として平田銕胤にも高く評価され、岩倉具視の命を救ったこともある。しかし彼女自身は「ますらをの心はやれど手弱女(たをやめ)の甲斐なき身こそかなしかりけり」と女の身の不甲斐なさを詠んだ。多勢子はやがて帰郷し、久坂玄瑞、相良総三、角田忠行など逃亡した志士を松尾家で保護した。

維新後は、岩倉具視に招かれ客分として邸に住み家政を取り仕切り、「岩倉の周旋ばば」とか「女参事」と呼ばれた。しかし彼女は、明治維新が自分の想いとは違ったものになりつつあることを感じた。相良総三が「ニセ官軍」とされて斬罪に処されたのもショックだった。多勢子は明治2年には岩倉家を辞して郷里へ帰った。多勢子が勤王に明け暮れたため、すっかり家運が傾いていたから、郷里では息子を助けて家運挽回に励んだ。もはや中央とは何の交渉もなかった。明治14年に岩倉具視は再び彼女を招き、しぶしぶながら多勢子は孫とともに東京に赴いた。何不自由なく暮らしたが、平田国学の信奉者で71歳の多勢子には新しい時代の東京は「西洋の奴隷」に見え、2年で滞京を打ち切った。それでも愛国の情には変わらず、明治25年、82歳の時に、志士の中で一番仲が良かった品川弥次郎(当時文部大臣)に宛てて長文の建白書をしたためた。宮司神官を国の判任官待遇にすべしとのもので、これは明治27年に実現している。志士たちが彼女を忘れていくなかで、品川弥次郎だけは「松尾のばあさん」と手紙のやりとりをし、署名には親愛を込めて「やじより」と書いた。

廓の女性(宮尾登美子):江戸時代には、世界でも珍しい公娼制度である遊廓があった。江戸や京都の他にも地方で公認されたところも25カ所あった(薩摩には山鹿野がある)。本章ではこの遊廓の制度を解説している。当初は高級なものであった遊廓は次第に庶民化し、遊女自体の格も下級が増えたため、最上級の太夫は宝暦末以降は姿を消した。当初の遊廓では、客に簡単に肌を許さなかったという。遊廓の女性たちが百姓女の貧しい出だったのはいうまでもないことで、人身売買ではなく形の上では年季奉公であった。彼女たちはおぼこ娘たちだったに違いないが、次第にきらびやかな遊廓の世界に馴致された。本章ではそんな中でも伝説的な名妓として、高尾(何代かいる)、夕霧が紹介されている。彼女たちは単なる高級娼婦だっただけでなく、当時の理想の女性像にまで影響を与えた。さらに本章では、一種の私娼である芸者について取り上げる。江戸後期には、遊女から芸者へと時代のスターは移った。幕末には遊女や芸者に身を落とす若い娘は膨大となった。

唐人お吉(安西篤子):お吉は、横浜でアメリカ総領事ハリスに一時的に仕えた女性である。彼女は生活に困り、芸妓として働いた末(しかしこれは真実かどうかわからない)、名目は看護婦としてハリスにやとわれた。異人に仕えることが恐怖されていた時代である。体調を崩していたハリスからの看護人の要求を、下田奉行は日本の慣習に照らして侍妾を求めているものと理解し、女をあてがったものと思われる。なお後にヒュースケンは看護婦の名目で侍妾を求めていた事実がある。しかしハリスが彼女を性の対象とした証拠はない。ほんの数日彼女はやとわれ、当てが外れたハリスはすぐに暇を出した。彼女はせっかくありついた高給の仕事を辞めたくはなかったが、結局は続けることはできなかった。その後は、小料理屋を開いたがお吉自身の酒乱のためもあり潰れ、悲惨な生活を送った。異人の性の相手は「ラシャメン(洋妾)」と呼ばれ、吉原の高級娼婦も及ばぬ高給取りであり、蔑みの的でもあった。それは良家の子女たちを異人たちから守る防波堤であり、大いに奨励されたことではあるが、高給取りであったことから羨みが嫉妬となり、やがて憎悪の対象となったのだ。そしてお吉はこの指弾の対象となっていく。なぜほんの一時、しかもハリスが手を出さなかったらしきお吉がラシャメンの代表のようになり軽蔑されればならなかったのか。それはよくわからない。しかし彼女が、「人も怕(おそ)れる異人に、最初に抱かれることを決意した女(p.208)」なのは事実である。

江戸期の女性群像(林 玲子):本章では史料の端々に現れる様々な女性を描いている。機屋の娘いとは、8歳で桐生の私塾松声堂に入門。先生は「機屋であり織物商人である田村家の長女梶子である(p.214)」。彼女は橘守部の高弟であった。6年間の教育を終えて彼女は守部に預けられ、素晴らしい教育を受けて桐生に帰った。彼女の子どもの一人が、橘家に養子に迎えられた国学者橘道安である。質屋の若女房みねは「日知録」という日記を残した。近世庶民の女性が残した日記として貴重である。みねは8歳で町内の手習い師匠・前野久右衛門の妻女ために入門。彼女は教養が高く、家業は夫や奉公人に任せていたが家事に励み、時には仕事をうっちゃって息抜きをする、等身大の姿が日記に残っている。さらに本章では島流しにされた女、孝子として表彰された女、養父に売春させられていることを評定所に必死に訴えた女、上州の世直し一揆の女大将たちが簡潔に描かれている。

本書は全体として、近世の庶民女性の姿をいろいろな角度から捉えようとしたものであり、いろいろと考えさせられる。

第1に、この時代に女性が活躍するためには、誰かの妻や母であるという義務から解放される必要があったということだ。滝沢みちは夫の死亡後に底力を発揮し、太田垣蓮月は出家後に養父をみとって孤独になってから自分の人生を生きた。松尾多勢子の場合は少し違っていて、夫の公認の下で志士活動をしたが、それにしても隠居の身であればこそできたことであろう。女は男の従属物だった。

第2に、そうはいっても女性に教育が閉ざされていたわけではないということだ。確かに各藩の藩校や江戸の昌平黌などは男性のみに入学を許可していた。しかし只野真葛は高い教養を身につけ、遊女たちは『源氏物語』の写本を所有して美しい字を書いた。「手紙遊女」という手紙専門で客を招く能書家もいたという。庶民の女性、機屋のいと、若女房みねも今でいえば小学生くらいの頃からしっかりとした教育を受けた。しかも女性の先生に習ってだ。無教育だったらしき滝沢みちの場合も、目の見えない馬琴が熱心に字を教えた。みちの筆跡は馬琴にそっくりだったという。少なくとも「女に教育は無用」とか「女に学問は無理」といった考えは本書の登場人物からは感じられない。かえって明治期に入ってからの方が、女は社会から疎外され「良妻賢母」としてのみの役割に押し込められた感がある。

近世の女性にも、社会に出て活躍していた人はおそらくたくさんいるのだろう。しかしそうした人生は、歴史の中に埋もれてしまった。我々が知れることはほんのわずかである。

近世の女性の在り方を考えさせる良書。

【関連書籍の読書メモ】
『江戸の女』三田村 鳶魚 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/12/blog-post.html
江戸の性風俗を述べる本。江戸時代の女性研究の古典。


2023年1月2日月曜日

『信仰と愛と死と(人物日本の女性史 7)』円地 文子 監修

信仰に生きた女性を江戸時代中心に述べる本。

「人物日本の女性史 全12巻」のシリーズは女性の手だけによって歴史を生きた女性を描くものであり、本書はその一冊である。このシリーズでは一冊ごとにだいたい7人の女性を取り上げ、主に作家がその生涯を簡潔にまとめている。学者の文章でないから大変読みやすく、また他ではあまり取り上げられない人物がたくさん登場するのがよい。なおテーマで巻が分けられており時代ごとではないが、本書の中心は江戸時代である。

恵信尼(円地文子):恵信尼は親鸞の妻である。親鸞は半僧半俗を標榜し、堂々と妻帯した。これは浄土真宗の基本的態度となり、(親鸞自身は自らを僧であるとはしていなかったが)僧侶の妻帯世襲が続いていく。だがそれは消極的な意味で僧侶の女犯が公認されたということではなく、親鸞在世時から妻の恵信尼が窮乏に耐えつつ布教に大きな役割を果たし、また子の覚信尼もその発展に尽くしたことが積極的に評価されたと考えらえる。親鸞の御影堂を東山大谷の地に造ったのは覚信尼であり、その子孫によって代々引き継がれた。

文智尼(安田富美子):文智尼は後水尾天皇の第一皇女梅宮である。しかし幕府は徳川和子を後水尾天皇の正妃として入内させたから、梅宮の母(およつ)と彼女が生んでいた皇子たちが邪魔になった。そこで幕府はおよつを遠ざけ皇子たちを強制的に出家させた。和子も政略の犠牲になった女性で、次々に息子たちは夭折、突然譲位した後水尾天皇を継いだのは、和子の生んだわずか7歳の興子内親王、明正(めいしょう)天皇である。千年来の女帝であった。一方、梅宮は鷹司教平(のりひら)に嫁いでいたが、婚家にあること3年で離縁し出家。その理由はわからない。梅宮は、定慧明光仏頂国師こと一絲文守(いっし・もんじゅ)の下で得度し、以後文智尼として57年にわたる信仰の生涯に入った。一絲は無師独悟であるが沢庵の教えを受けた傑僧で、やがて二人は深く愛し合うようになった。しかし二人は愛に溺れるには道心堅固すぎた。一絲から文智尼への手紙には、「ただ互いに老を待つまでに候」と引き裂かれる思いが吐露されている。しかし老いを待つまでもなく、一絲は39歳で死去。以後文智尼は厳しい禅の道に生きるのである。一絲の菩提を弔うため自らの手の皮をはいで手皮経を書いたのに、その壮絶な決意がにじみ出ている。彼女は徳川和子こと東福門院の後援を受け、大和村に移って山村円照寺をつくり、そこで厳しい戒律を守り、弱い人々の味方となって静かに一生を終えた。彼女は、尼門跡寺院に入って安楽な生涯を送った並の皇女が及ばない宗教者だった。本書中の白眉。

天秀尼(永井路子):天秀尼は豊臣秀頼の娘である。徳川家康によって豊臣一族が亡ぼされる中、彼女は家康の孫千姫の養女となっていた関係からか生かされ、鎌倉の東慶寺に押し込まれた。一種の飼い殺しであるが、将軍家の子女は尼寺入りするという慣習があり、これはむしろ人道的な処置だったかもしれない。しかも彼女は養母千姫の後援を受けていたから、徳川家の権威によって東慶寺が発展する契機とさえなった。そして普通は入寺した貴種の尼は貴族的な生活を送ったが、どうやら天秀尼は求道心が強かった。沢庵に書状で教えを乞ういていることからもそれが裏書される。過酷な宿命にあったからこそ、禅に命を懸けたのだろう。彼女の面目を示したのが、「会津四十万石改易事件」。天秀尼は東慶寺で会津藩から逃げてきた堀主水の妻子をかくまい、傲然と寺院の独立を主張するのである。高野山でさえアジール的特権を失っていた時代のことだ。以後、東慶寺は女の駆込寺として群馬の満徳寺と並び発展していくのである。

慈音尼(柴 桂子):近江の商人の娘に生まれた慈音尼(俗名不詳)は、8歳で母を亡くし出家の宿願を抱いた。父たちはそれに反対したが、こっそりと家を出て自秀という尼の弟子となった。ところがいざ出家してみると学者になりたいという心が起こって経や禅録の勉学を熱心にするようになり、やがて難行苦行に取り組んだがついに悟りを開くことはできなかった。それどころか体を壊し身内のものを頼って養生することになり、この時に石田梅岩の噂を聞いて梅岩のもとを訪れるのである。石田梅岩は無料で誰にでも教え「石門心学」を説き、その講釈は人気だった。石田梅岩の考えは雑多な教えを折衷したもので、あるがままの自分と社会を認め、その中で知足して生きるのがよいというものであった。慈音尼は梅岩に魅了されて入門し、厳しく教えてほしいと願った。これに応えて梅岩は他の弟子には優しく教えたのに、慈音尼には厳しく接したという。梅岩は人間に対してだけでなく、雀や鼠にも優しく、自分には厳しく倹約を守り、徳の高さがにじみ出ていた。慈音尼は梅岩に感化されて厳しい修行をし、ある時にハッと悟りを得た。そして梅岩の死後、慈音尼は江戸へ布教の旅へ出た。梅岩と同じような無料の講釈である。おそらく慈音尼30~40歳の10年間ほどと思われる。しかし慈音尼は病気がちで十分な成果が出る前に故郷に帰り、63歳でこの世を去った。梅岩の言葉を記録した『道得問答』の執筆や江戸へのいち早い石門心学の布教は評価できる。

中山みき(小栗純子):みきは地主の娘に生まれ、一生を独身のまま過ごし尼として生きる希望があったが、13歳の頃、やはり地主の妻として嫁いだ。婚家は人もうらやむ裕福な家であったが、夫はみきを愛すことなく、富にまかせて女遊びをし、家業にも身が入らなかった。そんな中でもみきは模範的な主婦として精いっぱい働いた。みきは、貧しい百姓たちが夫婦力を合わせて額に汗して働いている様子を見て、富こそ人間の幸福を奪ってしまうものだと思わずにはいられなかった。貧農こそ彼女の理想であった。41歳になったみきは健康を崩し、加持による治療を受けた。その時みきの体に神が下り、その神は三日三晩もの間不眠でみきをもらいうけると主張した。仕方なく家の者が承知すると、みきは神の命令として家産を次々と処分させた。「貧におちきる」ことが神なるみきにとって必要なことだったのだ。生きるための労働こそみきにとっての幸せであった。さらに夫が死去すると、安産の約束「おびや許し」を与えることからみきの救済者としての活動が始まった。みきは教祖然とせずやさしい慈母のようであった。そして慶応2年ごろからは『御筆先』と呼ばれる神の言葉の執筆が始まる。やがて彼女の教えは天理教として発展、政治権力に対して激しい批判をもいとわず、みきは90歳で世を去るまで18回も警察に拘留処分を受けた。

キリシタンの女性(阿部光子):本章ではまず戦国時代のキリスト教布教の歴史が述べられ、キリシタン大名高山右近の妻や細川ガラシヤについて触れられるが、だいたいは一般的な日本のキリシタン史をなぞるものである。右近ら信者たちは家康によって国外追放となり、ジャンク船に乗ってマニラに着いた。右近は国賓の待遇を得たが病を得て死亡した。このほか小西行長の妻、行長の軍の捕虜となった朝鮮貴族の娘、ジュリアおたあなど、歴史の端々に登場するキリシタンの女性について述べている。

全体として、私の興味は本書前半の尼の部分にあったが、読みやすくてつい全部読んでしまった。なお本書のみならず本シリーズの他の巻にも言えることだが、現代から見ると女性を一面的に捉えたきらいがあり、例えば本書表題の「信仰と愛と死と」も、女性だから愛という安直さを感じる。内容にも、「女らしく…」とか「女性らしい~」といった表現が散見される。それらは内容を毀損するものではないが、今から見ると時代を感じざるを得ない。

しかしながら、男ばかりが取り上げられる歴史の本の中にあって、女性だけの、女性による歴史のシリーズが作られたことはまことに意義深く、その中でも本書は「尼」に注目している点で先見の明がある。

尼となった女の生き方を考えさせる価値の高い本。

【関連書籍の読書メモ】
『東慶寺と駆込女』井上 禅定 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/12/blog-post_22.html
駆け込み寺として著名な東慶寺について述べる本。天秀尼について述べている。


『京の社—神と仏の千三百年』岡田 精司 著

京都の代表的な神社の歴史を述べる本。

京都には日本を代表する神社がたくさんある。本書は、それらから約20社を選び、神社の変化を通じて神仏の歴史を述べるもので、「「国家」と「天皇」から開放された自由な視点で、しかも科学的に記述された平易な一般的な本(p.6)」として書かれたものである。

私自身の興味としては、近世から明治維新に神社がどのように変化したかということにあるので、以下そこを中心にメモする。なお例えば第1章は「県主の神から王城鎮護の神へ」などと表題がつけられているが、ここではそこで取り上げている神社を見出しに代えた。

第1章 二つの賀茂神社:上賀茂神社(賀茂別雷神社)と下鴨神社(鴨御祖神社)は、共通の大祭を挙行するなど密接に関係しながらも別の神社として存在している。この神社は元は一つの神社で、古代から民衆からの支持を集め、祭りに群衆が押し寄せたため朝廷は禁令を出すほどだった。天平10年(738)、朝廷は禁令を撤廃する代わりに賀茂神社と賀茂県主家の勢力分断を図り、神社を二つに分けたのである。こうして朝廷により掣肘を受けていた両社だが、長岡京以後は伊勢神宮並の国家の最高神として遇せられるようになる。例えば賀茂神社には天皇家から「斎王(いつきのひめみこ)」が派遣された(承久の乱で断絶)。なお5月の賀茂祭の中にある葵祭は、勅使を迎える祭のハイライトであるが、応仁の乱以降は中断し、元禄7年(1694)に再興されている。これは史料を元に再興されたものであるから古代の儀式ものそのものではないが、この勅使奉幣の祭儀が現在の他神社への勅使奉幣の基準となっている(全16社)。

第2章 伏見稲荷神社:古代の稲荷の信仰は稲荷山の三つの峰を祀ったものであるが、応仁の乱の時にこの峰は戦火に見舞われて全ての社殿・宝物は焼失した。現在の本殿は室町時代に再建されたものである。稲荷信仰は朝廷と結びつくことなくあくまで民衆的なものとして発展したことが特徴。大祭「稲荷祭」は戦国時代に中断し、江戸時代の安永3年(1774)に再興された。伏見稲荷は東寺との関係が深く、平安時代後期に土地を守る地主神として東寺の鎮守神になったものとみられる。伏見稲荷の神職には「秦氏系」と「荷田氏系」の二つがあるが、両系統の勢力関係が東寺との関係に影響しているようだ。なお荷田氏は竜頭太の子孫とされる一族で、国学者の荷田春満もこの一族。秦氏一門が神職を務め、荷田氏はその下で働いていたが両氏はなにかにつけ対立していたという。なお稲荷神社は他の大社と違って御師がいない。稲荷信仰は宗教者が組織したのではなく、あくまで民衆の自発的なものだった。明治期に建てられた境内の大量の「お塚」はその象徴である。

第3章 日吉大社:日吉神社は、古代からの比叡山の山岳神を祀ったものであり、元来は「ヒエ神社」といったようだが、これに「日吉」の字が宛てられ、これが平安時代に入って「吉」の読みがエからヨシに変わって「ヒヨシ神社」になった。近代にはこれを古代の呼称へ戻す動きがあったが、今では地元の人もヒヨシと言っている。日吉大社は山王二十一社と多くの末社から構成され、山・岩・泉・樹木の崇拝など古代信仰の要素と、神仏習合の要素が様々に残り、さながら「古代信仰の博物館」である。日吉の神々は明治維新までは「山王権現」(山王元弼真君になぞらえた呼称)と中国風に呼ばれ、二十一社には全て本地仏が定められ仏教的な建築と雰囲気の場所だった。天台宗の神仏習合理論は「山王神道」として体系化された。ところで比叡山といえば信長の焼き討ちであるが、三塔十六谷の全てが焼き払われたのを再興したのが山王権現の大宮神主の祝部行丸父子。「彼は一切の資料が焼失した中で、祭祀から縁起・伝承、さらには社頭の景観や神像・建築・調度に至るまで、記憶によって復原し、多くの著作を残し(p.101)」た。延暦寺の天海僧正の復興事業と合わせて特筆すべき業績である。しかし明治時代になって神仏分離が行われると、山王社の二宮の世襲社司であった樹下茂国は神職らの武装集団「神威隊」と農民を率いて廃仏毀釈を行い、その後二十一社の名称も祭神も全てが改められた。

第4章 石清水八幡宮:八幡大神は東大寺の鎮守神として祭られたことでもわかるように国家と密接な関係を持っていた。石清水八幡宮が男山に創建されたのは、貞観元年(859)。それは藤原家が政権を掌握するための装置の一つだったらしい。そして元は「石清水八幡宮護国寺」といい、これは神仏が完全に融合した神社でも寺院でもない「宮寺(みやでら)」という特殊な宗教組織だった(神宮寺との混同に注意)。『延喜式』でも石清水八幡宮は神社として扱われていない。 運営は僧侶が担い、神官はその下にあった。また僧侶の最高位の別当職は紀氏の子孫が世襲していたが、彼らは妻帯し世襲するという僧侶としては特殊なあり方だった。また男山の山上には護国寺、麓には極楽寺という二つの中心的寺院があり、神仏習合形式の祭祀を支えていた。八幡神が国家の守護神となったのは、母子信仰を基盤として祭神を応神天皇母子として再構成したことによるところが大きい。さらに武士の時代になると源氏の帰依を受け、石清水から勧請して鶴岡八幡宮が鎌倉に創建。また御家人たちも各地に八幡宮を鎮守神として石清水から勧請した。明治維新の際には、山内の多くの堂塔は鳥羽伏見の戦いと廃仏毀釈によってほぼ破壊され、「宮寺」から完全な「神社」として転換させられた。「山上の中心的存在だった護国寺の跡も、今は雑木林の生えるにまかせたまま(p.128)」である。

第5章 北野天満宮:皇族でも藤原氏でもない菅原道真が右大臣兼右大将まで昇進したのは異例人事であった。そのため藤原氏一門の恨みを買い大宰府に左遷される。彼自身は不運を嘆きながらも強い怨みを持っていたわけではないが、月食・彗星・雷など都を襲う天変地異と関係者の突然死などをきっかけに、藤原氏専横への反発もあいまって道真の怨霊跋扈がささやかれ、宮廷や貴族ではない民衆の間から道真を神として祭ろうとする動きが起こった。こうして創建された北野天満宮は、死者の霊を神として祭る最初の神社となった。ちなみにこれも神仏習合の天台宗の「宮寺」である。11世紀初めからは比叡山延暦寺の下に置かれ、曼殊院が北野別当職を務めた。これは宮門跡の寺院であり、その下に松梅院・徳勝院・妙蔵院の三祠官家があって彼らは法体(僧形)で神前に奉仕し妻帯、そしてその下に俗体の神人(じにん)がいるという構成になっていた。そのうち西京の麹座神人は特に有名である。なお天神様が学問の神になったのは南北朝期からであり、菅公の霊が宋に渡って禅を修めたという「渡唐天神」の信仰が生まれてからである。

第6章 祇園社(八坂神社):中世を代表する信仰が、祇園社こと「祇園社感神院」の牛頭天王信仰である。それは神や仏の枠に収まらない、陰陽道の強い影響下に形成された異形の神格であった。中世にはこのような異形の神々が流行していたらしい。祇園社感神院ははじめ興福寺の末寺であったが延暦寺の末寺となり、京における庶民信仰の重要な拠点だった。天台座主が祇園社の検校を兼ね、その下に僧侶の組織があり神職はいなかった神仏習合寺院である。ここでも社僧は僧形でありながら妻帯世襲する者たちで、ここも「宮寺」だった。しかし明治維新後にはこれが神仏分離させられ、神像群は破壊されて、祭神もスサノヲに改変されて八坂神社となった。スサノヲとの結合は鎌倉時代から説かれ始め、吉田神道の下で強化されたようだ。なお現在の円山公園はかつて祇園社感神院・安養寺・長楽寺などの寺坊や堂塔が点在する場所で、明治4年(1871)に明治政府が接収(上地)し、公園としたものである。近代日本の都市公園は大寺院の境内地だった場所が多い。

第7章 吉田神社:吉田神社は宗源一実神道(吉田神道)によって全国の神社・神職を支配し、また寺院・僧侶から独立した数少ない神社である。吉田神社は元は奈良の春日神社から分祀したもので、神職を世襲した卜部氏は神祇官の雑事に従事する下級の役人であった。卜部氏はやがて神祇大副(たいふ)を世襲するようになるがこれは神祇官の次官である。卜部氏が別れて吉田氏と平野氏となり、両家は古典研究の家として厖大な古典を所蔵していた。現在残る国宝・重文の『日本書紀』などの写本は両家の人々の筆写によるものが少なくない。室町時代には吉田兼俱が出、彼が生みだした宗源一実神道によって全国の神社に影響を与えた。これは本地垂迹説を逆にした一種の神仏習合理論であり、彼は巧みな話術とその著作によって人々を惹きつけた。さらに文明16年(1484)には八百万の神々を全て祭る八角形の「斎場大元宮」を境内に設け、伊勢神宮までも吉田神社に移すという破天荒なことも計画した。兼俱は政治的手腕を発揮して朝廷の公認をとりつけ、伊勢神宮側は認めなかったものの斎場所内に伊勢神宮を祭ることに成功した。兼俱は「神祇官長上」と称したが、「長上」官とは、もともとは律令制度で勤務形態の常勤の官人をさすものに過ぎなかった。彼はこれをあたかも「神祇伯」と並ぶ長官のような錯覚を抱かせ、この権威を以て「宗源宣旨」と「神道裁許状」を出し、全国の神社に対して神階や神号の授与、装束の許可・笏や檜扇を持つ特権を与えていたのである。その後、天正18年(1590)には天皇家の神棚である「八神殿」が秀吉が聚楽第を建てる際に大元宮の北側に移され、吉田家では神祇官を名目的に復興させたとして「神祇官代」と称した。さらに江戸時代に入ると、幕府は吉田神社の権威を追認したため、全国各地の神社が大金を奉納して吉田家に「縁起」の製作までも依頼し、それによって全国の神社の祭神が記紀神話の神々に統一されていった。これは「明治維新の祭神統一政策の先駆をなす動き(p.197)」である。近世の吉田家は「大名に準じるほどの権勢と富を誇っていた(同)」。吉田神道の下に服さなかったのは、「伊勢神宮や出雲大社、賀茂神社といった幕府の認めた特別な大社。日吉山王社のような、天台宗・真言宗直属の大寺院配下の宮寺や神社。それに白川神道に属した一部の神社だけ(同)」であった。こうした神社支配も明治維新によって否定され、吉田家は華族に列せられて東京移住を命じられ、斎場大元宮も政府の命令で末社に落とされた。

第8章 豊国大明神と東照大権現:平穏に亡くなったのに神として祭られた最初の人物が豊臣秀吉である。彼が作った方広寺大仏殿(大仏は秀吉時代には地震の影響もあって完成せず、秀頼時代に鋳造)の鎮守八幡社として作られたのが豊国廟である。この豊国廟の境内は30万坪にもおよぶ広大なもので、創建時もさることながら七回忌がど派手で、京の街全体が熱狂の渦に包まれた。しかし江戸幕府はこれを社殿はもちろん墓所までも完全に破却し、僅か20年足らずで消滅した。なお大仏は江戸幕府によって溶かされ寛永通宝になっている。明治政府は1868年8月、豊国神社再興を決定。新日吉神社の神殿を仮の社殿として、その後方広寺大仏殿の跡地に再建した。明治31年(1898)には秀吉没後300年祭が盛大に挙行された。日清戦争直後で、秀吉が海外侵略の英雄としてクローズアップされた時期だった。

徳川家康の葬儀を行ったのが、吉田家の一門で豊国神社の社僧だった神龍院梵舜だというのが面白い。葬儀の翌年には後水尾天皇から「東照大権現」の神号が贈られた。これは南禅寺の金地院崇伝から「大明神」とする案がでたものの、延暦寺の南光坊天海が反対して天台宗の山王一実神道によって「大権現」を勧めたことによる。東照宮は伊勢神宮と並ぶ存在として幕府から扱われ、「東照」も天照大神を意識し、「宮」号にも特別な意味があった。東照宮は、京都にも金地院(南禅寺塔頭)境内と比叡山延暦寺の境内に分祀された。なお天海は東照宮を管理する神宮寺として日光山輪王寺を創始して門跡寺院とし、自らは天台座主として延暦寺・寛永寺・輪王寺を宰領した。その後、寛永寺門跡(関東在住)が延暦寺・輪王寺門跡を兼ね、天台座主に就任することが慣例となった。これは皇族(門跡)が幕府の廟に仕えるという朝幕関係を図式化したものといえる。東照宮の祭神は徳川家康だが、実は三尊形式で左は延暦寺の護法神の摩多羅神、右は比叡山の地主神である日吉山王権現である。これは明治政府の神仏分離によって源頼朝と豊臣秀吉に変えられ、延暦寺との関係も断たれ日吉大社の末社とされた。

第9章 白峰神宮・水無瀬神宮・霊山護国神社:明治政府は神社や神道を大きく改変した。明治8年(1875)には『神社祭式』という図入り手引き書を全国の神社に配布し、「神前の飾りつけ、祝詞の文章から祭具の細かい点にいたるまで、政府の方針通りに画一化(p.228)」したのである。そして明治政府は民衆の信仰や伝統とは無関係に神社を創建した。その一つが崇徳院を祭る白峰神宮である。崇徳院は讃岐に流されて国家を恨んで死に、歴史を通じて恐れられ、霊界の「大魔王」になったと信じられた。これが幕末の混乱期に想起され、文久2年(1862)が崇徳院700回忌に当たっていたことから国学者や公家から崇徳院の霊を祭る運動が起こり、新政府の下で実現したのが白峰神宮である。崇徳院の陵(白峰陵)から霊を移す神霊奉還の祭典が行われた慶応4年8月は会津若松城をめぐる攻防戦の真っ最中であった。こうして崇徳院の霊は、恐ろしい怨霊から皇宮守護の神へと転化したのである。明治6年(1873)、ここには「淡路廃帝」と呼ばれた淳仁天皇も合わせて祭られた。また同年、承久の乱で流刑となった後鳥羽上皇など三帝の霊もそれぞれの陵墓から奉還され、大阪府に水無瀬宮に祭られた。これらと前後し、戦乱で命を落とした皇子たちの霊を祭る神社が明治初期の数年間に次々創建されている。また維新前にも討幕派の諸藩が東山の霊山(りょうぜん)にそれぞれ藩ごとに殉難者の墓地をつくっていたが、これが明治政府によって「霊山官祭招魂社」として神社になった。昭和14(1939)に、戊辰戦争以外の一般の戦死者も祭るようになったので「京都霊山護国神社」と改称する。日本の宗教史の中で、味方の戦没者だけを英雄視して神道形式で祭るのは異例なことであった。

第10章 平安神宮・護王神社・梨木神: 明治22年(1889)の大日本帝国憲法制定の頃から、それまでと性格の違う神社が造られるようになる。平穏に生涯を終えた天皇たちの霊が神として祭られるようになるのである。明治23年の奈良の橿原神宮はその第一号だ(神武天皇)。明治27年(1894)は平安遷都1100年であったことで、これに向け国家の後援を受けて設立運動が起こり、記念祭の日程と重ねて第4回内国勧業博覧会を開催する計画で創建がスタートした。建設は巨費を要したがその大部分は民間募金によったという。この計画を経済界が支持したのは、沈滞気味の関西の経済を活気づける意味合いがあったのではないかということだ。鎮座の翌年には平安遷都千百年祭が盛大に催されたが、そこには陸海軍の戦利品展示場が設けられたり、軍備品が展示されるなど、天皇の神社が海外侵略の軍事行動と結びついてもいた。なお昭和15年(1940)には、紀元二千六百年記念行事の一環で孝明天皇の霊が合祀されている。護王神社は元は神護寺の境内にあった和気清麻呂の霊を祭る護王善神廟。孝明天皇から神号を贈られて神社となった。皇室の血統を守った功績が幕末期に回顧されたのであろう。梨木神社は三条実万(さねつむ)を祭る神社で明治18年(1885)に創建された。これらは「神社としては全く異例で、何故彼らが神とされたのか、不可解(p.261)」で、「明治政府首脳たちの政治的意図があった(同)」と思われる。その背景には、荒れるに任せていた京都御所を1880年頃から即位儀礼の場として保存し、周辺を整備する方針に転換したことがあると思われる。

本書は全体として、専門的事項を述べるものながら大変平易で面白い。私自身、最初は自分が関心ある第2章、第3章あたりだけ資料として読むつもりだったのに、面白くてつい全部読んでしまった。

また著者は「宮寺」を、神社・寺院とは別の第三類型=「僧侶が主導する祭祀形態」として強調しているが、これは私も全く知らなかったことである。これまで神仏習合について書いた本を読んできたが、これについては読んだ記憶がなかった。「宮寺」については著者も後書きで「この本で初めて一般向きに平易に書けた」と述べている。

上述したように、本書の中盤までの神社は古代に創建されていながら、祭神や儀式は時代ごとにかなり変わってきたり、断絶したりしている。特に本書を読んで応仁の乱が及ぼした影響は大きいと感じた。また断絶した祭などが再興されるのが江戸時代が多いのが印象的である。そして明治維新では信仰の改変と言うべき変化を蒙った。神社は古代から国家の影響を大きく受けてきた存在であり、明治維新ではそれが先鋭的に現れたといえる。

10のケーススタディによって神社と国家の歴史を述べた面白い本。

【関連書籍の読書メモ】
『江戸時代の神社』高埜 利彦 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/12/blog-post_28.html
江戸時代の神社や神道がどのようであったか述べる本。本書と合わせて読むと近世の神社の理解が深まる。江戸幕府の神社政策の概略がまとまった良書。


2022年12月28日水曜日

『江戸時代の神社』高埜 利彦 著

江戸時代の神社や神道がどのようであったか述べる本。

神社というと、古代から連綿と続いてきたもののように思われている。しかし明治政府の神仏分離政策によって、近世と現代では神社や神道の在り方は大きく変貌している。では江戸時代の神社はどのようなものだったのか。本書はそれをわかりやすく述べたものである。

「現代と古代・中世の神社」では、近世の前提となる古代・中世の神社について手短にまとめている。古代には神社を統括する役所として神祇官が設けられた。『延喜式』の「神名帳」によれば、神祇官に召集された官幣社737座、それに準じる国幣社2395座が記載されており、これらを合わせて式内社という。また伊勢神宮・石清水・賀茂など、奉幣使を発遣する22社も永保元年(1081)に定まった。これらには国家とつながった神社であったが、摂関政治期や院政期には神祇官が各社に奉幣使を遣わして行う「祈年祭」が断絶、応仁の乱以降は国家との関係は廃絶した。天皇の即位に伴う大嘗祭も応仁の乱以降は挙行されず、戦国時代には朝廷や大神社は荘園領主としても衰退した。

「江戸時代の神社」では、朝廷から地域の中小神社までを概説する。徳川政権は厳格な宗教統制をもって臨んだが、自らは「国家安全・五穀豊穣の祈祷のための装置をもたずに、この役割を古代から伝統的に担ってきた天皇・朝廷や大神社に委託した(p.12)」。国家祭祀の仕組みは3段階で行われていた。

第1に、天皇みずからが行う「毎朝御拝(まいちょうのぎょはい)」といった国家祭祀である。天皇みずから行えない時は関白もしくは白川家が代官を務めた。白川家は神祇官の長官である神祇伯を世襲した家である。幕府は白川家に対し家領として200石を安堵したうえに役料を支給した。幕府が公家に役料を与えたのは他に武家伝奏・議奏があるが、幕府としては白川家にこれと並ぶ不可欠の役割を認めていたということになる。

第2に、四方拝・新嘗祭・大嘗祭など朝廷の公式行事として挙行される神事である。新嘗祭・大嘗祭(即位後に初めて行う新嘗祭)は、現在の朝廷の中心であるが、新嘗祭は寛正4年(1463)に後花園天皇が行って以来中絶していた。大嘗祭は綱吉政権下で、朝廷復古を目指す霊元上皇の強い意志によって再興された(東山天皇即位後)。大嘗祭が行われたのは後土御門天皇以来、221年ぶりのことであった。その後大嘗祭は中断したが、吉宗は朝廷側に働きかけて桜町天皇の即位後の大嘗祭が行われた。「吉宗政権は、幕府による国家統治のために制度充実をはかる一環として、朝廷儀式の再興を実現させ(p.21)」、新嘗祭についても朝廷の正式行事として再興したのである。とはいえ、幕府は「祈年祭」は朝廷が要望したにも関わらずそれを再興させず、また諸社に国家安寧を祈らせる「月次(つきなみ)祭」も認めなかった。これらは神祇官の存在を前提にした神事であり、幕府は神祇官を再興するつもりはなかったからだという。

第3に、大神社に勅使(奉幣使)を遣わすことである。22社に随時発遣された奉幣使も応仁・文明の乱で廃絶していた。江戸時代に奉幣使が遣わされた最初は家光の奏請によってなされた正保3年(1646)の日光東照宮へのそれである(→日光例幣使)。家光は幕府を宗教的に支えるものとして日光東照宮の権威を高めようとしたのである。輪王寺門跡が創設されるのが明暦元年(1655)。輪王寺門跡は天台座主を兼ねて天台宗の最上位とされた。 また日光例幣使開始の翌年(1646)、伊勢神宮への奉幣使が約250年ぶりに再興された。幕府が日光東照宮を伊勢神宮に並ぶものとすべく再興を進めたものと考えられる。

東照宮と伊勢の他は定例の奉幣使はなかったが特別の機会に各社に奉幣使が発遣され、それらも300〜450年ぶりのものだった。なお朝廷は22社への毎年の祈年穀幣使を望んだものの、幕府は認めなかった。各社への奉幣使で注目されるのは、1744年に発遣された宇佐・香椎宮奉幣使である。これにあたって朝廷は「大宰府山陽道諸国司と大宰府」に宛てて「太政官符」を発し、路地の国役・潔斎などを命じたのである。またそれに合わせて幕府は触れを出し、寺院を旅宿に使わないように命じている。これを受けて、例えば広島藩では僧尼は物見に出てはいけないといった神仏分離の考えが命じられた。さらに1804年の宇佐・香椎宮奉幣使では「前回にも増して廃仏や死・穢れを避ける命令が領主から命じられた(p.31)」。

この3重の国家祭祀の外側に、地域の大神社がそれぞれ独特な位置づけで存在し、それは22社に劣らぬ由緒や地域的権力・信仰圏を持っていた。さらにその周辺には地域の中小神社が存在していた。これらは、太閤検地による領地の没収、武士の俸禄制への移行に伴う武士団の紐帯としての神社の役割の変化によって、近世では土地により密着したものとなり、村落や百姓に支えられていた。しかし中小神社では専門の神職がいないところが多かったので、鍵取と呼ばれる百姓が神社の管理人になり、神事の時だけ専業神主を呼んだ。この場合呼ばれる専業神主は何ヵ村もその氏子圏にしていたということになる。

「江戸幕府の神社統制」では、「諸社禰宜神主法度」によって神社がどのような影響を受けたかが述べられる。江戸幕府は寛文5年(1665)、諸宗寺院法度と同時に「諸社禰宜神主法度」(江戸時代には「神社条目」と言われた)五カ条を発布した。江戸幕府は、武威に替わり儀礼によって身分秩序を確立することを企図し、武士・公家・百姓などの基幹身分の外にあった宗教者を身分集団化しようとしたのである。なおその前年、諸大名219人への領知判物・朱印状等の宛行を一斉に行っており(→寛文印知)、当年には公家に97通、仁和寺など門跡に27通、尼門跡に27通、院家に12通、寺院に1076通、神社に365通が発給されている。現状を是認し、秩序を固定化する意図と思われる。

この「諸社禰宜神主法度」の内容は、(1)神職は専ら神祇道を学ぶべし、(2)前々から伝奏に昇進の取次を頼んでいたのは従前の通りとする、(3)装束は吉田の許状が必要、(4)神領は売買禁止、(5)神社が壊れたら修理すること、といったものである。 

第3条で全国の神社を統べる存在とされた吉田家は、22社のひとつ吉田神社の神職である。吉田家では、室町時代の吉田兼俱が唯一神道を創始して「大元宮」という場所を文明16年(1484)につくって天神地祇を祀り、また天正18年(1590)に吉田兼右は大元宮の裏に「神祇官八神殿」を設けて「神祇官代」と称していた。そして「吉田家は地方の神社に神号・社号を独自の宣旨(宗源宣旨)であたえ、神職に神道裁許状を発給してきた(p.51)」。幕府はこうした権威を追認、さらに「神祇管領長上職」に任じ、許状を発給する権利を保障したのである。この動きには、吉田神道を学んでいた吉川惟足の影響がある(惟足は天和2年(1682)に神道方に任じられている)。

しかしこれには地方の大社から反発が起こった。例えば出雲大社は吉田家の支配を受けるいわれはなく、国造家が惣検校職として装束の許可を出していたとして朝廷に訴え、霊元天皇から永宣旨を受けた。また肥後国阿蘇宮では摂家の鷹司家に官位執奏を依頼していたことから、「諸社禰宜神主法度」の第2条と第3条の解釈を巡って吉田家と鷹司家で争論となった。そのゴタゴタの結果、吉田家は22社のほか出雲・鹿島・宇佐・阿蘇などの大社の執奏は行わないことになった。さらに延宝2年(1674)幕府はこれを整理し、(2)執奏は必ずしも吉田家に限らない、(3)無位無官の社人装束は吉田家に委ねる、と「諸社禰宜神主法度」の解釈を確定させた。

これに伴い、吉田家の他に白川家や他の公家は神社の執奏を担うようになった。神社としては公家の権威を借りることが出来、公家としても執奏料の収入が期待できたからである。しかしながら全体として見れば、吉田家は「諸社禰宜神主法度」の効力を背景に、時間をかけてかなりの程度全国に影響を及ぼした。

ところで「諸社禰宜神主法度」の第1条「専ら神祇道を云々」も影響が大きかった。そもそも「神祇道」なるものが当時あったのかどうか定かでないが、これは神社の形式を神仏習合から吉田家の唯一神道に改める効力を持ったからである。おそらく装束の許状などを与える際に指導していったのだろう。また唯一神道でなくても、例えば出雲大社では境内にあった大日堂や三重塔を社外に移築し、別当寺の天台宗鰐淵寺との関係を切った。本書ではこの動きを「プレ神仏分離」と呼んでいる。

「吉田家と白川家の支配」では、神社の支配を争った吉田・白川両家の競争と神葬祭の動向について述べている。前章にあったように、幕府からお墨付きを得た吉田家は積極的に神社・神職の組織化を行った。吉田家から神道裁許状を得るには当然に上納金が必要であり、これは吉田家のビジネスでもあった。吉田家では四家老の下に役人が十数人いて、雑掌や社人(吉田社に仕える)もいたので大所帯だったようである。ところが元文4年(1739)、これに水を差す動きがあった。吉宗政権と朝廷(桜町天皇)は官位叙任について制度の見直しをはかり、吉田家が神位階(正一位稲荷大明神など)を「宗源宣旨」によって発給する形をなくしたのである。以後の神位階は勅裁に限られる。

一方の白川家では、宝暦元年(1751)に屋敷内に「八神殿」を再興した。かつて京都内野にあった八神殿が焼亡した際にその御正体を守って白川家が伝存してきたのだという。これが時の関白一条道香(とその親の兼香)によって本物だと確認され、朝廷の公認を得て「八神殿」を再興したのである。吉田家の「神祇官八神殿」と白川家の「八神殿」が併存していたわけだ。「この頃から、白川家に神祇伯としての自覚が目覚め(p.73)」たのだろう。白川家では弟子達を諸国の神社に派遣するようになり、それが吉田家の活動とバッティングした。

天明2年(1782)、幕府は再び「諸社禰宜神主法度」を触れた。これは専業の神職がない村で、村長が「宮座諸座」などと称して神事を営むのを問題視して行われたものだ。幕府としては素人神官が神事を行うことをよしとしなかったのである。これによって神事を担ってきた百姓(鍵取)や御師などは本来の百姓身分から神職身分へと身分を上昇させていく機運が生まれた。そして、その身分上昇には吉田家や白川家の許状が必須であった。本書では富士山信仰の須走村御師が吉田家の許状を受けて百姓から専業神職に移行した例と、別の富士山信仰の村で吉田家の許状を受けていた神職と白川家の許状を受けていた御師の対立が述べられている。

そういう吉田家と白川家の陣取り合戦的な各地での争いは幕府・朝廷に持ち込まれ、「伯卜論争」と呼ばれる争論となった。光格天皇を中心とする朝廷は吉田家に有利な官裁を行い一件落着かと思われたが、白川家はこれに控訴し、その後、先の官裁が撤回されるなど決着がつかず、結局天保11年(1840)に寺社奉行松平伊賀守によって決定した(その内容は本書には述べられていない)。ただし全国的には幕末まで両家は各地域での競争を続けた。

こうした動きと並行して、1700年代後半から各地の神職は神葬際を志向し始めた。幕府の寺請制度により、神職も必ず檀家寺を持ち葬式を仏式で行っていたのであるが、この寺壇関係を解消し、僧侶に依存せず葬儀を行うことが目指されてくる。「神職」としてのアイデンティティが芽生えていったと見なせる。これは「諸社禰宜神主法度」第1条の「専ら神祇道を云々」を盾にとって主張され、幕末になると幕府も神職とその家族の神葬際を認める判断をするようになった。

また幕末では、朝廷は社会の動揺を受け止めて各社への祈願を積極的に行うようになり、神祇にかかる行事が頻繁に行われた。こうした行事は、幕末になって復古されたものが多かった。しかしやはり祈年祭や月次祭は再興されることはなかった。その前提となる神祇官がなかったからである。

「明治から現代にいたる神社」では、明治維新以降の神社の変転がごく簡単に述べられる。明治政府は「神祇官」を再興し、全ての神社を神祇官の下に置いた。江戸時代に吉田家・白川家などが担っていた役割は否定され、国家が一元的に神社を管理する体制になったのである。また神仏分離を行い、神社から仏教的要素を取り除いた。本書では日光東照宮での神仏分離がケーススタディ的に述べられている。日光では神仏分離を不可能として一度は拒絶したが、新政府は輪王寺門跡を廃止し、明治3年には政府からの指示によって神仏分離させられた。しかしそれは廃仏毀釈のような暴力的なものではなく、日光山(東照宮)と日光県と政府の間で申請と許可が繰り返され、全面的な破壊を免れた。

最後に、靖国神社と明治神宮の創建、敗戦の影響などが簡潔に述べられ、未だに万世一系などの観念が天皇家や宮内庁が否定していないことを憂えて擱筆している。

本書は全体として、簡潔ではあるが非常に濃密であり、江戸時代の神社についてかなり見通しよく記述している。ただし、「諸社禰宜神主法度」や吉田家・白川家といった制度面にフォーカスしているため、主立った神社がどのようなものであったかという点についてはあまり記載がない。 本書はあくまで江戸幕府の神社政策について述べるものである。

江戸幕府の神社政策の概略がまとまった良書。

【関連書籍の読書メモ】
『江戸幕府の宗教統制(日本人の行動と思想 16)』圭室 文雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/05/16.html
江戸時代における仏教の在り方の一端を述べる本。仏教が蒙った江戸幕府の宗教統制を述べるものであり、本書と合わせて読めば江戸幕府の宗教政策がかなり理解できる。

2022年12月22日木曜日

『東慶寺と駆込女』井上 禅定 著

駆け込み寺として著名な東慶寺について述べる本。

江戸時代以前において、女性の方から離婚することはできなかった。だから夫が離婚に同意しない場合は「縁切寺」に駆け込んで強制的に離婚を成立させる必要があった。幕府から認められた縁切寺は二つあり、一つが群馬の満徳寺、そしてもう一つが本書のテーマである鎌倉の東慶寺である。

正式名は「松岡山東慶総持禅寺」。その山号から「松ヶ岡」と称され、江戸時代の川柳によく登場する。

開山は北条時宗の夫人である覚山志道尼。時宗が亡くなる直前に夫婦そろって出家し、その後時宗の菩提を弔うために東慶寺を開山した(開基は北条貞時)。亡くなった後に出家したのではなく、亡くなる前に出家しているのが目を引く。

開山当初から寺格の高い寺だったのは間違いないが、後醍醐天皇の皇女であった用堂尼(第5代)が寺に入った頃に紫衣着用の御所寺として「鎌倉御所」「松ケ岡御所」などと呼ばれるようになった。東慶寺は鎌倉尼五山の一つとして繁栄。なお鎌倉尼五山は東慶寺以外は全て廃絶している。

東慶寺の歴史にとって重要なのが第20代の天秀法泰尼。彼女は豊臣秀吉の子、秀頼の娘である。徳川家が豊臣家を亡ぼしたとき、一族がことごとく処刑される中で、彼女は秀頼の正室である徳川家の千姫の実子ではないものの、家康から情けをかけられ尼寺に押し込められた。男子禁制の尼寺ならば豊臣家の残党に担ぎ出される心配はないと思ったのであろう。この天秀尼が家康の命令で東慶寺に入るとき「何か願いはないか」と聞かれ、まだ7~8歳であった彼女は「開山以来の御寺法を断絶しないようにしていただきたい」と答えた。これを家康が聞き入れたことで、東慶寺は「権現様」の権威で「御寺法」=縁切りの法を守っていくのである。

なお天秀尼の養母である千姫が、満徳寺を再婚のできる縁切寺にしたのも興味深い。彼女は豊臣家との縁を切って本田忠刻と再婚するのであるが、豊臣家との離婚が一方的なものであったために縁切りが必要になったのである。そんなわけで彼女は再婚のできる縁切寺の必要を痛感し、後に満徳寺を縁切寺にしたのである。なお満徳寺の宗派は時宗である。

満徳寺は縁切り専門の寺であったのに対し、東慶寺はより広い「駆込寺」であり、縁切りに限らず女性が困った場合に駆け込める場所であった。中世における無縁・アジールとしての寺院の機能が残っていたのである。例えば天秀尼の頃に、「会津四十万石改易事件」というのが起こった。事の次第は省略するが、会津藩加賀家から逃げてきた堀主水(もんど)の妻女をかくまったのが天秀尼である。天秀尼は千姫を通じて将軍家光に女人救済寺法の護持を訴え、加藤家は幕府から四十万石を没収されることになった。一人の女性の力で大藩が取り潰されたという、「日本女性史上に輝く一大事件(p.31)」である。

天秀尼以降は東慶寺は衰え、元文2年(1737)以後130年間は無住持となり、塔頭の一つ蔭凉軒が東慶寺を管理する時代となった。その後、江戸時代後期に蔭凉軒院代となった法秀尼は水戸藩主の息女であったことから、駆込女の取り扱い手続きなどの整備が進み、東慶寺が特別なお寺だという意識が庶民にまで浸透して、幕末(嘉永・安政頃)には駆け込みも非常に多くなった。

しかし明治5年には東慶寺は円覚寺の附庸とされ、その結果院代が住職となって住持が復活したものの、最後の順荘尼が明治35年に亡くなって尼寺としての東慶寺は終わりを告げた。

同年、男僧が東慶寺に移って寺としては存続し、男僧第2世には有名な釈宗演が就任。釈宗演は東慶寺を拠点に米国伝道を含め東奔西走し、各界から篤い帰依を得て大正8年東慶寺にて示寂した。現在でも東慶寺は存続している。

それでは駆け込み・縁切りの実態はどのようなものだったか。本書では多くの川柳に描かれた「松ヶ岡」を読み解き、民衆にとって縁切りがどのようなものだと思われていたかを描いている。江戸から鎌倉までは13里(約52キロメートル)。簡単に行ける距離ではないが、女の足で行けないこともないという絶妙な位置に東慶寺はあった。夫から逃げて東慶寺までたどり着き、草鞋でもなんでも門内に投げ込めば寺の保護を受けられたから、最後まで必死の逃走劇が繰り広げられた(ということに川柳ではなっている)。

東慶寺に駆け込むといっても、尼になるわけではない。尼になれば自動的に結婚は解消されたが、それでは元の身分を失い再婚もできない。髪は少し切ったようだが尼になったのではなく、足掛け3年寺に逗留すれば縁切りができるということに東慶寺の寺法の価値があった。この足掛け3年(つまり満2年)というのも面白い期間設定である。当時の女性は結婚すれば眉を落としお歯黒をしたが、この2年の間に切った髪も伸び、眉も生えてお歯黒が落ち、独身女性のような姿になったのだという。

東慶寺で非常に独特なことは、寺に付属して役所があったことで、なんとそこにはお白洲(法廷)があった。古い時代のことは不明ながら、そこで裁判長を務めたのが、先述の蔭凉軒の院代であったのだ。「松ヶ岡では女性が最高の地位にあって、裁判長の機能を有していたわけで、この点で、古今東西にその比を見ない(p.79)」。なお寺役人は、蔭凉軒と深い関係があった喜連川家の代官がつとめていた。

東慶寺は法廷でもあったので、駆込女の取り扱いは厳密に文書で記録された。よってその記録がよく残っており、そこから手続きの実態を窺うことができる。本書で説明されるそれは非常に詳細であり、また複雑でもあるためここでは割愛するが、現在の裁判と全く違うところは、妻と夫という当事者間だけではなく、「名主」を通じて手続きが進んでいくということである。

例えば女が駆込んだら東慶寺は女の父兄やその夫、時には仲人までも召喚するのであるが、関係者に直接飛脚を飛ばすのではなく、名主に命じている。名主は町や村の責任者であるが、それが離婚というプライベートなことにまで巻き込まれるというのが今から考えると興味深い。名主にとっても夫婦喧嘩は頭痛の種だったに違いない。

こうして女の父兄を召喚すると、まずは協議離婚が勧められる。夫側と相談して平和裏に離縁しなさいというのである。これを「内済(ないざい)離縁」という。東慶寺に駆込まれた時点で夫側には勝訴の見込みはなく、それどころかお叱りを受けて無理やり三くだり半(離婚状)を書かされるのが目に見えているため、ほとんどはこの内済離縁が成立した。なので実際には足掛け3年の逗留を行ったのはそれほど多くない。

内済離縁が成立しなかった場合は、夫側へ「出役達書(でやくたっしがき)」が出される。出張裁判のお知らせで、寺役人が出向くから首を揃えて待っていろという書類である。これに恐れをなして離縁状を出す場合も多い。しかしそれでも折れなかった場合は、紋付きの桐箱に「寺法書」を入れた飛脚が夫のもとに走る。これは「松岡御所御用」という差札をつけた格の高い飛脚で、大名行列にぶつかっても遠慮する必要がない。何しろ大名より御所の方が偉いのだ。そしてこれを受け取るのも夫本人ではなくて名主である。そこに何が書かれているかというと、「お前の女房は預かった。もうお前の女房じゃない」といったことである。

しかしこれでも厳密には離婚は成立していない。これを受けて、夫が離縁状を書かなくてはならないのである。これを「寺法離縁状」といって、五人組・家主が連署押印し、名主が奥書を加えて東慶寺宛に差し出すものである。離婚一つでオオゴトなのだ。

なお、夫にも言い分があったり強情であったりして、離縁状を書かない場合は寺社奉行へ願い出た。離婚訴訟を取り扱うのが寺社奉行なのが今から見ると面白い。そして実際に裁判が行われると、東慶寺の場合は常に女の味方をして、女の幸せを優先して裁定を行った。

こうして「寺法離縁」になった女は、東慶寺で足掛け3年過ごさなくてはならなかった。ちなみに東慶寺は禅宗であるが、何宗の女でも駆け入ることができた。

駆込みの逗留は無料ではなく、寺入りの時に一定の冥加金を納め、それに応じて寺での生活の格が決まった。これではお金がないと駆け込みができないように見えるがそうではない。というのは、女の実家にこのお金が出せない場合は、名主が責任を持って都合をつけたからである。さらに夫が悪く慰謝料が必要な場合も、夫にその負担能力がない場合、夫側の名主がそれを支払った。人の離婚の慰謝料まで払わされるとは、名主はなかなか大変だ。今とは全く違った連帯責任の仕組みである。

一方、女性は寺でどのような生活を送ったかというと、当たり前だが結構厳しかった。そのためせっかく駆込んだのに脱走する女性もいたそうである。

記録上では、明治3年12月の内済離縁の一件を最後に駆込女の取り扱いは終了した。しかし東慶寺が明治4年に縁切寺法の存続許可を神奈川県に願い出ていることは注目される。需要があったということなのだろうか。それとも伝統を固守しようとしたのか。しかしこの願いは明治政府に却下された。そして明治6年には太政官布告第162号によって「婦ノ父兄弟或ハ親戚ノ内付添、直ニ裁判所ヘ訴出不苦候事」によって女性からの離婚請求権が与えられ縁切り自体が不要になった。なお、この太政官布告で女性本人だけでは離婚請求ができず「父兄弟或ハ親戚ノ内付添」が条件になっているのは気になるところである。

本書ではさらに満徳寺の縁切が詳説されているが、こちらのメモは省略する。東慶寺との大きな違いは、満徳寺では離縁状を書かせることを最終目的としており、足掛け3年の寺入りが実際にはほとんど行われなかったということである。要するに満徳寺では早く離婚できた。そのわけは、満徳寺の方が幕府への依存度が大きく、宗教的権威よりも幕府の権威が背景にあったということが言えそうだ。

さらに本書は、東慶寺に残る文化財や記念物の概説、東慶寺に眠る各界の代表的人物――西田幾多郎、岩波茂雄、鈴木大拙、出光佐三、和辻哲郎、小林秀雄などについて述べている。また東慶寺の墓地には旧制一高(岩波、和辻も一高)の卒業生が多く、旧制一高の記念塚である「向陵塚」がある。戦後の新民法をつくりげた法学者の中川善之助が家族法研究のため東慶寺を何度も訪れ、この寺に眠ることを選んだのは感慨深い。

著者は東慶寺の前住。非常に柔らかい語り口であるが、学術的にもしっかりしているように見受けられ、伝説を真に受けた郷土自慢的なものではない。私自身の興味としては、江戸時代の家族法と尼寺の実態にあったが、本書は駆け込みがテーマの中心であるため、尼寺としての東慶寺の説明は少なかった。それでも全体が興味深く、特に名主が庶民の離婚に巻き込まれているのが面白かった。

東慶寺による女性保護を詳細に述べた良書。


【関連書籍の読書メモ】
『増補 無縁・公界・楽』網野 善彦 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/11/blog-post_11.html
日本の中世・近世に存在した「無縁の原理」について述べる本。無縁」の世界という沃野を切り拓いた、荒削りだが触発されるところも多い論考。


2022年12月11日日曜日

『日本近代化の思想』鹿野 政直 著

あり得たかもしれない「もう一つの近代」を探る本。

明治維新は、日本の近代化の起点として高く評価されがちだ。しかしその後の歴史を見てみれば、明治政府は江戸幕府以上に専制的になって民衆を弾圧し、また天皇制を狂信的なまでに高めて海外を侵略することになった。

しかしそうした動きに抵抗した人々たちがいなかったわけではない。彼らは、もっと民主的で、自由で、人々の暮らしに立脚した社会を希求した。本書はそうした人々を取り上げ、あり得たかもしれない「もう一つの近代」を浮かび上がらせるものである。

「序章」では、鹿鳴館と地方の窮乏が対比して描かれる。鹿鳴館に象徴される欧化政策華やかな頃、明治政府は富国強兵の政策を推し進めるために民衆からの収奪を強化していた。さらに日露戦争が勃発すると戦費調達のために一層増税される。そして日本は、「開化」されて豊かな生活を送る上級国民と、貧民に二極分化していくのである。農民の収奪を進めたことは、民権運動の担い手だった地方の豪農層が掘り崩されることとなり、民権運動敗北の遠因とさえなった。

「1 近代化と伝統」では、幕末からの民衆側の思想が象徴的ないくつかの事例から述べられる。

豊後国日田(大分県)の広瀬淡窓には、幕末までに4千人以上もの門人があった。しかも平民の入塾者が多かった。庶民が学問を志すことが社会の変化を物語っていた。彼らは古典を学ぶ中で、新しい国家観を育みつつあった。「19世紀初頭は、自生的な変革の理念がいっせいに芽をふきはじめた時期だった(p.47)」。少なくとも彼らは、既存の秩序に飽き足らなくなっていたのだ。

1830年の「おかげまいり」はそれまでにない規模だった。おかげまいりとは、伊勢神宮に男女群れをなして参拝することである。彼らは一時の解放感を味わったが、それは一揆とは違い世直しの意味はなかった。ところが1837年に大塩平八郎の乱、そして越後国ではそれに倣った生田万(よろず)の乱が起こる。それらは「世直しの想念」を人々に形作る役割をした。関東では動乱が続き、相楽総三の赤報隊はその最後の象徴である。幕末、人々が「世直し」を求めていたことが明治維新の前提となった。しかし相楽総三は、新政府軍によって下諏訪の地で処刑される。人々が求めた「世直し」を抹殺することで明治政府は成立したのである。

文明開化を唱導した明治初期の知識人たちは、民衆を露骨に愚民と見なし、伝統を全否定すべきものと考えた。そして福沢諭吉の『文明論之概略』に象徴されるように、西欧文明への移入を「実学」として当面の目標に定めたことは、「自生的な近代への構想力を衰弱させてしまった(p.76)」。そして世直しの想念は西欧化にとって邪魔なものとして一層抑圧された。まさに文明開化たけなわの明治7年、中山みき(天理教)は「おふでさき」で開化に対する神の怒りを表明した。彼女は明治維新の当初では、新しい社会の到来として歓迎していたのにだ。

明治16年、小室信介は『東洋民権百家伝』を出版した。「幕藩体制下の百姓一揆についての最初の包括的な著作である(p.81)」。福沢諭吉らが一揆を全く評価しなかったのに対し、小室はこれまでの英雄や聖人の価値を相対化し、一揆の指導者を称揚した。しかし民衆による反体制の伝統は断絶する。圧倒的な西欧文明の流入は人々を目覚めさせたが、目覚めた人々は西欧文明をモデルに専制体制の打破を考え、民権運動へと流れていくのである。そして政府は民権思想に対抗すべく、自然科学、道徳主義教育、二宮尊徳の報徳思想などを動員した。

民権運動が終熄し帝国憲法が発布された頃、陸羯南は日本新聞社の社主・主筆として、国粋主義の言論人として突き動かされていた。彼はいわば乗り遅れた側なのだった。彼は、中央本位・藩閥本位・特恵資本本位の近代化、つまり中央にコネのある小さなサークルだけでの近代化からあぶれた側にいた。 政府が進める自由主義は、弱肉強食を肯定して強者の支配を正当化した。それが国際関係にも敷衍され、植民地化が進められる。羯南はそれを批判し、西洋文明への無条件な追随ではない、新しいありようの文明を模索した。そしてその批判の上に、「近代化のおくれた要素とみなされてきた伝統=国粋を、逆に基軸としつつ、近代化を構想しようと(p.101)」した。

雪嶺三宅雄二郎は、その日本新聞社に論説を寄せた一人であるが、彼は1891年に『偽悪醜日本人』を出版。近代日本の病弊を全篇にわたって指弾した。彼はいたずらに富国強兵にはしらない文化国家としての道を主張した。無批判な西欧化の弊害は様々なところで認識されはじめ、正岡子規が俳句と短歌の革新運動を起こすなど、文化面でも日本の伝統を見直すことで新たな国家のアイデンティティを形成する方向が模索された。その課題を突き詰めた思想家が北村透谷である。透谷は物質文明に偏った日本の近代化を痛歎し、抑圧された人々の立場で社会を見た。そして借り物の文明ではなく、元禄文学から読み取れる「平民の声」、「国民の元気」によって創造的文明をうちたてようとする。しかし彼の孤立した戦いは「偽文明」によって押しつぶされ、明治27年についに縊死したのである。

南方熊楠は、明治中頃から進められた神社合祀政策に傲然と反対した。彼の住んでいた和歌山県は、隣の三重県とともに最も激しく神社合祀が進められたところである。神社合祀は人々の生活に即した信仰を破壊し、「国家の栄光に直結する信仰を導入しようとした政策(p.117)」であった。明治政府は西洋化を進めながら、明治中期頃になると「ことさらに伝統的な文化を強調する姿勢(同)」を見せはじめ、にもかかわらず伝統を破壊して神社や信仰を画一化していった。そして神社合祀は、それによって神林の公売が増え、山林の濫伐が行われることで、国家に繋がる村の有力者層にうま味をもたらした。明治政府は、人々の生活と信仰、伝統と景観を破壊し、国家に従属させていった。夏目漱石は「開化が進めば進む程競争が益(ますます)劇しくなって生活は愈(いよいよ)困難になる(p.125)」とその病弊を率直に指摘した。

「2 集権化と自治」では、人々の間に芽生えはじめた「自治」が摘み取られ、全国民が国家に従属させられていく次第が語られる。

嘉永6年(1853)、8千〜9千人もの南部藩の農民集団が、120キロメートルもの道を歩き通し他領へ逃散した。指導者の一人三浦命助はやがて捉えられるが逃亡。そして彼は京都に向かう。彼は幕藩体制への反発から王朝的なものへと期待したのである。つまり既存の体制からの離脱が、自立的な体制の樹立を目指すのではなく、それに変わるより大きな権威に幻想を託す形として現れた。中央集権を目指したのは明治政府だけではない。人々が幕藩体制の限界を感じ取り、自律的に「思想」を形成していく中で、中央志向への滔々たる流れが出来ていった。

明治15年(1882)、福島県で専制的に土木事業を進める県令三島通庸(みちつね)に対決したのは、33歳の県議会議長野中広中であった。三島は、国家が先にあり、その代行者としての中央官僚がいて、その下に地方官僚がいるという明治国家の思想で県会を無視しようとした。一方、野中は、まず民意があり、それを実現するために地方政府がある、という逆の思想を持っていた。彼は明治政府を国家ではなく「中央政府」にすぎないと捉え、その専制支配に基づく恣意性を「私」とし、むしろ「住民の個々の日常的な要求の集合体をこそ「公」ととらえ(p.146)」た。そこには「自治」を中心とした国家観が芽生えていた。しかしその運動は弾圧され、三島通庸の政策は貫徹された(福島事件)。その後、専制性を強める政府をよそに、野中は三春町の戸長として自治に邁進した。しかし「三新法(郡区町村編成法・府県会規則・地方税規則)」(明治10年)にもとづく地方自治制度は、徴兵や戸籍といった国の事務を町村に押しつけ、形ばかりの議会でガス抜きするようなものだったから、地方自治は形無しになっていった。この自治制は「人々の関心を地域社会にとじこめるのを目的として(p.156)」、古い共同体(名望家支配)の温存を基調としていたからだ。

明治維新によって東京は急速に巨大化した。そこに天皇が移ったことは他の都市と隔絶した意味を東京に与えた。東京の巨大化は天皇制の強大化と歩調を等しくしていた。東京には大小の学校が林立し、若者たちの青雲の志をもやす対象になった。そして明治20年(1887)前後、「東京語」が成立。「中央対地方、表日本対裏日本、都会対田舎、そうして舶来対国産という二極分解を促進していった(p.172)」。東京は「辺境」を作ったのである。その辺境の最たるものが沖縄だった。その統治においては「住民の意向はすべて邪悪なものとしてしりぞけられ、ひたすら中央の意向の貫徹のみがめざされ(p.178)」た。「琉球王」の異名をとった薩摩出身の知事・奈良原繁の支配はまさにその悪例である。住民は「同化」を拒否する愚かな存在として表徴され、差別を助長していった。

教育は、近代日本の歴史のなかで、集権化を促進し正当化するための、イデオロギー上のもっとも重要な装置であった(p.185)」。教育を通じ「日本人の国家主義化・画一化がひろくふかく進行した(同)」。教育は自治・自立への志向を抑圧し、「従順なる臣民」を作るためにあった。私立学校ではもっと自由な教育が行われていたが、やがて国家はそこにも容喙した。近代日本の教育行政は、文部省だけでなくさまざまな官庁が関与したことが特徴だ。内務省は青年団の組織化を通じて社会教育に介入したし、陸軍省は学校教育に軍事教練を導入、そして内務省は教育勅語を推進した。ことに「軍事と教育は、天皇の意志がもっともつよい拘束力をもった二大部門(p.194)」であり、教育勅語、戊申詔書、国民精神作興ニ関スル詔書、青少年学徒ニ賜ハリタル勅語のように、教育法規の重要なものは議会を経ない「勅語」「勅書」の形式で出された。教育は治安対策として構想され、「学習するがわの、多様性への志向や自発性や創意が抑圧された(p.196)」。明治13年(1880)に「修身」が筆頭学科となったことはその象徴である。教育は国家にとって都合のよい「道徳」を画一的に押しつける場だった。

一方、都会に出て学問を身につける機会がなく、田舎に閉じ込められていた青年たちは、青年会などを組織して夜学会を開き勉強や議論を行った。こうした青年たちの自発的な結社の動きは明治20年代に盛んになった。彼らは選挙権も被選挙権も持たなかったが、かえってそこには自治・自立の志向を認めることができる。しかしその活動には、「善行」の励行によって、国家から認めてもらおうとする傾向が強かった。それに呼応するかのように、政府の方でも地方自治に関心を寄せるものが現れた。特に精鋭の内務官僚においてである。そして彼らは、「青年会・教育会・農会の組織化を鼓吹し(p.208)」、行政の末端としてそれらを位置づけることで、全国民を国家の手足とする構想を抱いた。それはやがて「地方改良運動」として実現化する。特にそれは「租税の滞納を一掃する運動」となった。

「3 大国化と公理」では、日本の帝国主義化への道程が描かれる。

文久元年(1861)、福沢諭吉は幕府からヨーロッパ出張を命じられた。福沢にとってアメリカに次ぐ2度目の海外である。彼はヨーロッパの現状を封建的夷狄観から解放された目で見、西洋文明の全面的な受容こそ日本にとって必要だと断ずるに至った。日本では尊皇攘夷運動が高揚した時期である。この時期の福沢にとってはヨーロッパこそが善であった。アヘン戦争も100%イギリス側の視点で見ている。一方で吉田松陰はアヘン戦争を列強が中国を侵略したものと見た。西欧は、福沢にとっては「文明」で、松陰には「列強」だったのである。やがて日本は文明化された列強を目指していく。

明治15年(1882)、牛場卓蔵は福沢諭吉の推薦を受け、金玉均とともに朝鮮へ渡った。朝鮮を「開化」するための顧問のような役割だった。福沢は朝鮮人を露骨に愚民と見なして強硬論を唱え、日本の「文明」を上から目線で輸出しようとしたのである。2年後、金玉均らが計画したクーデター(甲申事変)にも福沢が裏で関わっていた。福沢が朝鮮を「開化」しようとしたのは、日本が列強になるための道具として朝鮮の保護・改革を考えた結果だった。福沢も、文明開化を喧伝したころは公理の感覚を持っていたが、もはや国際関係における力の政策を臆面もなく説くようになった。福沢と違い自由平等を叫んでいた人たちも、朝鮮に対しては大国意識をもって臨み、押しつけがましく「朝鮮は独立すべきだ」と独善的に主張した。結局は、日本が「大国」であるために、踏みつける対象が必要だったのだ。こうして公理の思想は根絶やしになった。

内村鑑三は、当初日清戦争を支持していたが、戦後は非戦論者になった。それが高邁な理想ではなく、単なる力の論理で行われたという現実を思い知ったためだった。内村には国家と違って「良心」があった。「「真理は国家より大なり」と宣言して、かれは、世に流行する国家主義との絶縁を宣言(p.253)」する。彼は軍事強国となり腐敗した日本の近代化を否定し、むしろ古き良き時代に憧れ、古風なピューリタリズムの信仰を敬慕した。そして日本によって圧迫される国、押しひしがれている人々との連帯を強め、軍備ではなく教育、支配階級の解体と平等の実現、地方自治、といった大国化と逆の理想を追求していくのである。しかし社会矛盾に苦しんでいた国民はそうした理想を共有することなく、むしろ現状打破の希望を対外的な強硬論に託し、積極的に大国化を支持していったのである。

民権論者の宮崎滔天は、中国革命の夢を抱き中国に渡る。しかし他の中国浪人=大アジア主義者とは違い、彼は利益や名誉を求めていなかった。滔天は失敗と窮乏の中で落伍していったが、身を落としていくことで、彼はかえって自由になった。彼に中国人を率いようとする独善はなく、孫文らを支援し、自らを助力者と限定することで最も深く中国革命に関わり得た。彼は資本主義列強に圧迫されたアジアの恢復の主導力を日本ではなく中国に期待し、その革命に未来の文明の光を見た。にも関わらず、現実の日本は中国や朝鮮の利権に目が眩み、公理を無視して侵略を続けていった。

与謝野晶子は「君死にたまうこと勿れ」と戦争にいく弟に呼びかけた。しかしこの肉親に対する素直な情愛が「乱臣、賊子」(評論家大町桂月)として強烈に批判される。なぜ生きてほしいという当たり前のことを書いて悪いのか。軍国日本にとって「生命の尊重」こそ最も斥けてきたものだったのだ。与謝野晶子は反戦者だったのではない。むしろ戦争に模範的に協力する主婦であった。だが「そのなかにあって彼女には、なにかうべなえぬものがあった(p.286)」。「生命」の尊重が否定されたとき、「彼女には、秩序の全構造がまやかしとみえてくるのであった(同)」。女性は特にそのまやかしの矛盾を押しつけられていた。男性本位の社会秩序と、それと表裏一体の軍国主義の中で、女性は道具に貶められた。彼女は女性の論理でそのことを糾弾した。しかしその彼女であってすら、軍国主義の中に身を投じてゆくことになるのである。

全体として本書は、異常な迫力があり、まるで疾走するような文体で書かれている(ひらがなが多いのも特徴)。著者の追求した「もう一つの近代」は本書に登場する様々な人々の理想の集積であるが、それをまとめた文章はなく、唐突に本書は擱筆されている。野暮とは思うがそれをまとめれば、それは「虐げられた人々の視点に立ち、民衆の暮らしに立脚して、伝統や文化や信仰を大事にし、地方自治と国家・階級・男女間の平等を実現した、より自由で多様性を受け入れる社会」とでもなろう。

もし、そうした方向に日本が進んだ場合、日本は独立を保てたのだろうか? と人はいうだろう。西欧の列強に対抗できなかったのではないかと。もしかしたらそうなのかもしれない。しかし「もう一つの近代」の構想はほぼ例外なく、その全てが切って捨てられているところを見ると、全面的に採用しないにしても、もう少し斟酌してもよかったのではないか、と思わずにはいられない。まさにこの、国家の意向と少しでも異なるものを全否定して生まれたのが近代日本であったのだ。本書はこの単純な事実を、生き生きとしたエピソードで語るものである。

ただし、本書は象徴的な事例で畳み掛けるような書き方をしているため、事実を単純化して述べる点が散見される。例えば相楽総三の赤報隊の処分については、本書では「世直しの否定」として描かれているが、実際には相楽が処分されたのは何度も上官の指示に従わなかったためも大きく、形式的には世直し的な部分(年貢半減の約束など)が主たる理由ではなかった。とはいえこういういことをいちいち指摘するのはあまり意味がないだろう。大筋として、「もう一つの近代」を近代日本が否定し去ったのは動かしがたい事実である。

近代日本の軍事大国化を、それに抗った人々を通じて描いた異色の思想書。


【関連書籍の読書メモ】
『文明国をめざして—幕末から明治時代前期(日本の歴史13)』牧原 憲夫 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/06/blog-post_16.html
明治時代、どのようにして民衆が「文明化」されたかを述べる本。文明開化を庶民から見るスリリングな論考。本書と重なる視点が多い。


2022年12月4日日曜日

『幕末の天皇』藤田 覚 著

光格天皇と孝明天皇を中心に、幕末における天皇の政治的権威の上昇を描く本。

戦国時代末、天皇の権威は地に落ちていた。それが幕末には政治の焦点となり、維新後には天皇制が鞏固なものとなっていく。その政治的権威の上昇は何によってもたらされたのか。それが本書のテーマである。

江戸幕府において、当初は天皇が政治的実権を握っているとはとてもいえなかった。しかし官職・位階の授与は形式的であれ朝廷が行ったし、東照大権現の神号を家康におくったのは天皇だ。ここに、将軍が真似しようとしてもできない朝廷・天皇の機能が象徴されていた。

もちろん幕府は朝廷を支配してもいた。武家伝奏・議奏(=両役)を通じて朝廷を運営しており、また朝廷の責任者である関白も幕府の承認を経て就任した。 江戸時代の関白は「天皇を補佐するとともに、天皇を監視、規制する役目ももっていた(p.29)」。朝廷財政を担当した旗本の禁裏付は、自身はせいぜい従五位下ほどの官位しかないのにもかかわらず、正二位とか従一位の伝奏を呼びつけて打ち合わせした。なお天皇家の領地(禁裏御料)が3万石(宝永2年(1705)の時点)、上皇や公家たちの所領を合わせても朝廷の領地はほぼ10万石にしかならなかった。

それがどうして幕末にかけて天皇の権威が高まっていったか。それは幕府の権威「御威光」が下がっていったことが遠因であった。荻生徂徠は『政談』において、形式的であれ天皇から官位を授与されることが君臣の意識に影響を及ぼすことを早くも憂慮している。天明の大飢饉や田沼時代に反発した一揆・打ちこわしに直面し、幕府自身が朝廷・天皇の「効用」に期待するようになるのである。

Ⅰ 光格天皇

天皇の権威上昇に一役も二役も買ったのが、光格天皇であった。彼は天皇在位39年という異例の長さに続き、上皇としても23年間君臨した。その歴史的役割は誠に大きく、それが九百数十年ぶりに復活した「光格天皇」という諡号に象徴されている(後述)。彼は閑院宮家という傍系(新井白石の意見によって創設された新しい宮家)に生まれ、皇位継承の予定もないため将来は聖護院門跡を継ぐことが予定されていた。

しかし先帝の急死によってわずか9歳の彼に白羽の矢が立ち、新天皇となった。彼は傍系から天皇になったがゆえに、天皇の正統(=皇統)を強く意識し、天皇と朝廷のあるべき姿を模索した。

そのターニングポイントになったのが天明7年(1787)6月。御所の築地塀を多くの老若男女が取り囲み、御所へ向けて参拝したのである。数日後には1日7万人もの人が御所の周りを廻った。著者はこれを「御所千度参り」と呼ぶ。上皇はこれを追い払うどころかりんごを配るなどもてなした。天明の飢饉で疲弊した民衆が、町奉行所に訴えても埒があかないと見て、御所への参拝という宗教的装いで徳政を求めたのである。光格天皇はこれを受けて、おずおずとした態度ではあったが幕府に対し窮民の救済策を採るように申し入れた。朝廷から幕府への申し入れは前代未聞のことだった。

結果、幕府は救い米を放出。朝廷の申し入れを受け入れた形になった。こうして失政により民の信頼を失う幕府と、万民の安穏と無事を祈る朝廷・天皇というコントラストが出来ていくのである。50年後の天保8年(1837)には、この先例があったため、朝廷は当然のように幕府に窮民救済の申し入れを行っている。光格天皇が先例を作った意義は大きい。

光格天皇の事績で特筆すべき事は、朝廷の儀式の再興・復古である。例えば(1)11月1日が冬至にあたる日に天皇が酒と肴を振る舞う「朔旦の旬」を天明6年(1786)に約340年ぶりに再興、(2)新嘗祭を古儀に基づいた形へ復古させ、そのための神嘉殿を幕府の許可を得ずに造営、自らの大嘗祭(即位して初めて行う新嘗祭)を天明7年11月に行った、(3)天明8年(1788)に京都の大火により焼失した御所・仙洞御所を復古的に造営した、(4)朝廷神事の真の再興のための神祇官の再興に取り組んだ(実現はしなかった)、といったことが挙げられる。

特に(3)は、かなりゴリ押しした模様である。御所の造営は幕府の責任であったが、当時の幕府は財政的に逼迫していた。よって幕府としては焼失した御所(宝永度造営)と同じものをなるだけ質素に再建する意向であり、松平定信はそのように関白を説得した。しかし天皇の意志は堅く、裏松光世が宝暦事件で咎められた謹慎中の約30年をかけてまとめた『大内裏図考証』に基づいた復古的造営に拘り、朝廷を押し切ったのである。光格天皇はなかなかの政治的手腕があったようだ。

さらに光格天皇は自らの実父に「太上天皇」(上皇)の尊号を送ることを企図した。先述したように光格天皇は傍系から天皇になったので実父は天皇ではなかった。しかしそのため父の朝廷での席次が低い。これが耐え難かった光格天皇は、父を「太上天皇」にしたかったのである。ちょうどその時、関白と武家伝奏が幕府に反発を抱いていた人物であったこともあり、光格天皇は尊号問題についても強行突破を図った。まことに異例なことに、天皇は41名もの公卿に尊号宣下の可否を問う勅問を下し、その結果を背景に幕府に実現を迫ったのである。しかし幕府はこれを認めなかったため、光格天皇は一方的に尊号宣下を行った。幕府は「そこに従来とは異なる朝廷の動向を見抜き(p.117)」、こちらも強硬な態度で尊号宣下を見合わせるよう通告、撤回させた。

この結果、武家伝奏の正親町公明、議奏の中山愛親は江戸に召還され松平定信に尋問を受け、責任を問われて閉門・逼塞などの刑罰が科された。まさに幕府の完全勝利であったのだが、不思議なことにこの事件を題材にした実録ものでは、中山が松平を論破して揚々と京都へ帰るというように事実とは真逆の描かれ方をしている。

また光格天皇は、石清水八幡宮と賀茂神社の臨時祭(臨時とはあるが毎年行われるもの)を、これも幕府に反対されながらも強い熱意で説得し、文化10年(1813)、約380年ぶりに再興させた。 

しかし、天皇・朝廷の権威を光格天皇がゴリ押しで高めていったのかというとそうでもない。むしろ松平定信は天明8年に「六十余州は禁廷より御預かり遊ばされ候」と将軍家斉に諭している。<朝廷ー将軍ー大名>の上下関係が幕府によっても強調されるような状況になりつつあった。幕府は現実には武力で政権を樹立したのであるが、朝廷からの委任によって政権をになっているという「大政委任論」が定説化していく。

また、蝦夷地へロシアが南下してきて、ロシアとの関係が緊張すると、文化4年(1807)に幕府は朝廷にその件を報告してきた。これが異例な「事件」だったのだ。幕府が「大政委任論」によって朝廷から政権を委託されているとすれば、外交問題も幕府の専決で担えるはずである。実際外交問題にも朝廷には何の権限もなかった。ところが幕府は朝廷にロシア軍艦が樺太を攻めてきた一件を報告したのである。幕府は朝廷の威光を借りて挙国体制を作ろうとしたのかもしれない。しかしこれが後に朝幕関係をこじらせることになる。

そして光格天皇の人生最後の仕上げが、まさに「光格天皇」という「諡号+天皇」号である。天皇の歴史では、第63代の冷泉院以降、天皇は「○○院」という院号で呼ばれ、「○○天皇」としては呼ばれていなかった。近世では在位中も通常は「主上」「禁裏」と呼んでいた。「諡号+天皇」号が復活したのは実に940年ぶりのことだった。なお「○○天皇」とは長く呼ばれていなかった歴代天皇を「「……天皇」と称するようになったのは、大正14(1925)年に時の政府が決めたからである(p.141)」。「諡号+天皇」号の復活には、光格天皇の生前の強い希望(叡慮)があったことはいうまでもない。

Ⅱ 孝明天皇

孝明天皇は、仁孝天皇の子、光格天皇の孫にあたる。光格天皇が発意し、仁孝天皇の代で実現した学習所で教育を受けた。孝明天皇の時代には、外国船の来航がそれ以前とは比べものにならないほど多くなった。そこで弘化3年(1846)、孝明天皇は海防の強化を幕府に命じる勅書を出す。この先例が文化4年の幕府の報告ということになるが、海防の強化を「命じ」たのは、朝幕関係の大きな飛躍だ。

そして天皇・朝廷としては、国家の安穏を各所の神仏に盛んに祈っている。祈願がこのように政治的になったのは幕末以前にあったのだろうか。また安政元年の12月、「諸国の寺院の梵鐘を「皇国擁護の器」である大砲に鋳かえることを、「五畿内七道諸国司」に命じる太政官符を出した(p.173)」ことは注目される。実態のない太政官から、存在しない国司へ命令が下された。これは水戸藩主徳川斉昭の主張の結果らしい。これは結果的には実行に移されなかったが、「朝廷が諸国に命令を出す、という画期的な出来事であった(p.174)」。

その後、日米和親条約の勅許を巡るゴタゴタにおいて、幕府が重要な決定をするためには勅許が必要だというムードができあがっていく。そして朝廷では、概ね幕府に協調的だった首脳部(特に鷹司政通)とは対照的に、強硬な攘夷を主張する中下級の公家が数の論理で議論を左右していった。そして「「対外屈従」売国の将軍・幕府と「対外強硬」救国の天皇・朝廷(p.199)」という構図になっていくのである。

さらに、幕府は日米和親条約を勝手に調印。また徳川斉昭らを処分した。これに激怒した孝明天皇は徳川斉昭の処分を遺憾とし幕政の再考を促す「戊午の密勅」を下した。しかも幕府のみならず、水戸藩、それを通じて三家・三卿・家門大名に伝達した。これは大政委任の枠組みを逸脱する行為であった。安政5年から万延元年までは天皇自身の行動が政権を左右した。

しかし孝明天皇にも攘夷派の公家たちを御すことができなくなり、文久年間に入るとむしろ彼らからの突き上げを喰らうことになる。天皇は幕府に厳しいことを言いつつも公武合体路線で一貫していたが、尊攘派に押されその意志を貫徹できなくなっていった。にもかかわらずこの時期に天皇・朝廷の権威はピークに達し、文久2年には老中奉書その他の文書の書式が改められたり、関白と武家伝奏の人事の幕府への事前承認がなくなるなど、形式の上でも朝廷が上位であるように変更された。そして尊攘派は「大政委任」ではなく天皇親政を構想するようになった。

しかし「八月十八日の政変」によって尊攘派が排除され、朝廷は公武合体路線に修正されたものの、それは同時に朝廷・天皇の政治力が減衰する結果となった。幕府を追認する方針だったからである。朝廷は幕府に対抗して攘夷を掲げていたからこそその政治的命脈があったと言える。ところが孝明天皇はついに日米修好通商条約も追認する勅許も出してしまった。こうなると朝廷の存在価値はない。尊皇の志士たちは、幕府へのカウンター勢力として朝廷を捉えていたのだから。そして朝廷が幕府に長州追討の勅許を与えると、大久保利通は「非義の勅命は勅命にあらず」と言い切った。たとえ勅命でも道理が通らないなら従う必要はない、というのだ。天皇・朝廷への不信任の表明に等しかった。天皇・朝廷の権威は一転地に落ちたのである。

そんな中、孝明天皇は突然の死を迎えた。明治天皇のところに昼夜問わず鍾馗のような亡霊が現れ、それが孝明天皇の亡霊だと騒がれたという逸話は非常に興味深い。

本書は全体として、幕末に天皇の権威が高まっていったその道程を見通しよく述べている。特に光格天皇の事績については、類書で詳しく述べられないものだけに価値が高い。儀式や御所の造営といった部分で復古・再興していったことは、直接に朝廷の権威の上昇をもたらしたわけではないが、それが幕末に繋がっていく伏線になっていたといえる。また本書には簡単に書いているが、神祇官の再興は光格天皇の悲願だったらしい。それが復古神道と合流して明治政府に繋がっていくわけだ。

孝明天皇については、幕末維新史の定説から孝明天皇に関する部分を要領よくまとめている。もう少し私的な部分(結婚など)について書いてもらえると有り難かった。

朝廷の復古を進めた光格天皇の存在に光を当て、幕末の天皇について認識を深める良書。