2022年12月4日日曜日

『幕末の天皇』藤田 覚 著

光格天皇と孝明天皇を中心に、幕末における天皇の政治的権威の上昇を描く本。

戦国時代末、天皇の権威は地に落ちていた。それが幕末には政治の焦点となり、維新後には天皇制が鞏固なものとなっていく。その政治的権威の上昇は何によってもたらされたのか。それが本書のテーマである。

江戸幕府において、当初は天皇が政治的実権を握っているとはとてもいえなかった。しかし官職・位階の授与は形式的であれ朝廷が行ったし、東照大権現の神号を家康におくったのは天皇だ。ここに、将軍が真似しようとしてもできない朝廷・天皇の機能が象徴されていた。

もちろん幕府は朝廷を支配してもいた。武家伝奏・議奏(=両役)を通じて朝廷を運営しており、また朝廷の責任者である関白も幕府の承認を経て就任した。 江戸時代の関白は「天皇を補佐するとともに、天皇を監視、規制する役目ももっていた(p.29)」。朝廷財政を担当した旗本の禁裏付は、自身はせいぜい従五位下ほどの官位しかないのにもかかわらず、正二位とか従一位の伝奏を呼びつけて打ち合わせした。なお天皇家の領地(禁裏御料)が3万石(宝永2年(1705)の時点)、上皇や公家たちの所領を合わせても朝廷の領地はほぼ10万石にしかならなかった。

それがどうして幕末にかけて天皇の権威が高まっていったか。それは幕府の権威「御威光」が下がっていったことが遠因であった。荻生徂徠は『政談』において、形式的であれ天皇から官位を授与されることが君臣の意識に影響を及ぼすことを早くも憂慮している。天明の大飢饉や田沼時代に反発した一揆・打ちこわしに直面し、幕府自身が朝廷・天皇の「効用」に期待するようになるのである。

Ⅰ 光格天皇

天皇の権威上昇に一役も二役も買ったのが、光格天皇であった。彼は天皇在位39年という異例の長さに続き、上皇としても23年間君臨した。その歴史的役割は誠に大きく、それが九百数十年ぶりに復活した「光格天皇」という諡号に象徴されている(後述)。彼は閑院宮家という傍系(新井白石の意見によって創設された新しい宮家)に生まれ、皇位継承の予定もないため将来は聖護院門跡を継ぐことが予定されていた。

しかし先帝の急死によってわずか9歳の彼に白羽の矢が立ち、新天皇となった。彼は傍系から天皇になったがゆえに、天皇の正統(=皇統)を強く意識し、天皇と朝廷のあるべき姿を模索した。

そのターニングポイントになったのが天明7年(1787)6月。御所の築地塀を多くの老若男女が取り囲み、御所へ向けて参拝したのである。数日後には1日7万人もの人が御所の周りを廻った。著者はこれを「御所千度参り」と呼ぶ。上皇はこれを追い払うどころかりんごを配るなどもてなした。天明の飢饉で疲弊した民衆が、町奉行所に訴えても埒があかないと見て、御所への参拝という宗教的装いで徳政を求めたのである。光格天皇はこれを受けて、おずおずとした態度ではあったが幕府に対し窮民の救済策を採るように申し入れた。朝廷から幕府への申し入れは前代未聞のことだった。

結果、幕府は救い米を放出。朝廷の申し入れを受け入れた形になった。こうして失政により民の信頼を失う幕府と、万民の安穏と無事を祈る朝廷・天皇というコントラストが出来ていくのである。50年後の天保8年(1837)には、この先例があったため、朝廷は当然のように幕府に窮民救済の申し入れを行っている。光格天皇が先例を作った意義は大きい。

光格天皇の事績で特筆すべき事は、朝廷の儀式の再興・復古である。例えば(1)11月1日が冬至にあたる日に天皇が酒と肴を振る舞う「朔旦の旬」を天明6年(1786)に約340年ぶりに再興、(2)新嘗祭を古儀に基づいた形へ復古させ、そのための神嘉殿を幕府の許可を得ずに造営、自らの大嘗祭(即位して初めて行う新嘗祭)を天明7年11月に行った、(3)天明8年(1788)に京都の大火により焼失した御所・仙洞御所を復古的に造営した、(4)朝廷神事の真の再興のための神祇官の再興に取り組んだ(実現はしなかった)、といったことが挙げられる。

特に(3)は、かなりゴリ押しした模様である。御所の造営は幕府の責任であったが、当時の幕府は財政的に逼迫していた。よって幕府としては焼失した御所(宝永度造営)と同じものをなるだけ質素に再建する意向であり、松平定信はそのように関白を説得した。しかし天皇の意志は堅く、裏松光世が宝暦事件で咎められた謹慎中の約30年をかけてまとめた『大内裏図考証』に基づいた復古的造営に拘り、朝廷を押し切ったのである。光格天皇はなかなかの政治的手腕があったようだ。

さらに光格天皇は自らの実父に「太上天皇」(上皇)の尊号を送ることを企図した。先述したように光格天皇は傍系から天皇になったので実父は天皇ではなかった。しかしそのため父の朝廷での席次が低い。これが耐え難かった光格天皇は、父を「太上天皇」にしたかったのである。ちょうどその時、関白と武家伝奏が幕府に反発を抱いていた人物であったこともあり、光格天皇は尊号問題についても強行突破を図った。まことに異例なことに、天皇は41名もの公卿に尊号宣下の可否を問う勅問を下し、その結果を背景に幕府に実現を迫ったのである。しかし幕府はこれを認めなかったため、光格天皇は一方的に尊号宣下を行った。幕府は「そこに従来とは異なる朝廷の動向を見抜き(p.117)」、こちらも強硬な態度で尊号宣下を見合わせるよう通告、撤回させた。

この結果、武家伝奏の正親町公明、議奏の中山愛親は江戸に召還され松平定信に尋問を受け、責任を問われて閉門・逼塞などの刑罰が科された。まさに幕府の完全勝利であったのだが、不思議なことにこの事件を題材にした実録ものでは、中山が松平を論破して揚々と京都へ帰るというように事実とは真逆の描かれ方をしている。

また光格天皇は、石清水八幡宮と賀茂神社の臨時祭(臨時とはあるが毎年行われるもの)を、これも幕府に反対されながらも強い熱意で説得し、文化10年(1813)、約380年ぶりに再興させた。 

しかし、天皇・朝廷の権威を光格天皇がゴリ押しで高めていったのかというとそうでもない。むしろ松平定信は天明8年に「六十余州は禁廷より御預かり遊ばされ候」と将軍家斉に諭している。<朝廷ー将軍ー大名>の上下関係が幕府によっても強調されるような状況になりつつあった。幕府は現実には武力で政権を樹立したのであるが、朝廷からの委任によって政権をになっているという「大政委任論」が定説化していく。

また、蝦夷地へロシアが南下してきて、ロシアとの関係が緊張すると、文化4年(1807)に幕府は朝廷にその件を報告してきた。これが異例な「事件」だったのだ。幕府が「大政委任論」によって朝廷から政権を委託されているとすれば、外交問題も幕府の専決で担えるはずである。実際外交問題にも朝廷には何の権限もなかった。ところが幕府は朝廷にロシア軍艦が樺太を攻めてきた一件を報告したのである。幕府は朝廷の威光を借りて挙国体制を作ろうとしたのかもしれない。しかしこれが後に朝幕関係をこじらせることになる。

そして光格天皇の人生最後の仕上げが、まさに「光格天皇」という「諡号+天皇」号である。天皇の歴史では、第63代の冷泉院以降、天皇は「○○院」という院号で呼ばれ、「○○天皇」としては呼ばれていなかった。近世では在位中も通常は「主上」「禁裏」と呼んでいた。「諡号+天皇」号が復活したのは実に940年ぶりのことだった。なお「○○天皇」とは長く呼ばれていなかった歴代天皇を「「……天皇」と称するようになったのは、大正14(1925)年に時の政府が決めたからである(p.141)」。「諡号+天皇」号の復活には、光格天皇の生前の強い希望(叡慮)があったことはいうまでもない。

Ⅱ 孝明天皇

孝明天皇は、仁孝天皇の子、光格天皇の孫にあたる。光格天皇が発意し、仁孝天皇の代で実現した学習所で教育を受けた。孝明天皇の時代には、外国船の来航がそれ以前とは比べものにならないほど多くなった。そこで弘化3年(1846)、孝明天皇は海防の強化を幕府に命じる勅書を出す。この先例が文化4年の幕府の報告ということになるが、海防の強化を「命じ」たのは、朝幕関係の大きな飛躍だ。

そして天皇・朝廷としては、国家の安穏を各所の神仏に盛んに祈っている。祈願がこのように政治的になったのは幕末以前にあったのだろうか。また安政元年の12月、「諸国の寺院の梵鐘を「皇国擁護の器」である大砲に鋳かえることを、「五畿内七道諸国司」に命じる太政官符を出した(p.173)」ことは注目される。実態のない太政官から、存在しない国司へ命令が下された。これは水戸藩主徳川斉昭の主張の結果らしい。これは結果的には実行に移されなかったが、「朝廷が諸国に命令を出す、という画期的な出来事であった(p.174)」。

その後、日米和親条約の勅許を巡るゴタゴタにおいて、幕府が重要な決定をするためには勅許が必要だというムードができあがっていく。そして朝廷では、概ね幕府に協調的だった首脳部(特に鷹司政通)とは対照的に、強硬な攘夷を主張する中下級の公家が数の論理で議論を左右していった。そして「「対外屈従」売国の将軍・幕府と「対外強硬」救国の天皇・朝廷(p.199)」という構図になっていくのである。

さらに、幕府は日米和親条約を勝手に調印。また徳川斉昭らを処分した。これに激怒した孝明天皇は徳川斉昭の処分を遺憾とし幕政の再考を促す「戊午の密勅」を下した。しかも幕府のみならず、水戸藩、それを通じて三家・三卿・家門大名に伝達した。これは大政委任の枠組みを逸脱する行為であった。安政5年から万延元年までは天皇自身の行動が政権を左右した。

しかし孝明天皇にも攘夷派の公家たちを御すことができなくなり、文久年間に入るとむしろ彼らからの突き上げを喰らうことになる。天皇は幕府に厳しいことを言いつつも公武合体路線で一貫していたが、尊攘派に押されその意志を貫徹できなくなっていった。にもかかわらずこの時期に天皇・朝廷の権威はピークに達し、文久2年には老中奉書その他の文書の書式が改められたり、関白と武家伝奏の人事の幕府への事前承認がなくなるなど、形式の上でも朝廷が上位であるように変更された。そして尊攘派は「大政委任」ではなく天皇親政を構想するようになった。

しかし「八月十八日の政変」によって尊攘派が排除され、朝廷は公武合体路線に修正されたものの、それは同時に朝廷・天皇の政治力が減衰する結果となった。幕府を追認する方針だったからである。朝廷は幕府に対抗して攘夷を掲げていたからこそその政治的命脈があったと言える。ところが孝明天皇はついに日米修好通商条約も追認する勅許も出してしまった。こうなると朝廷の存在価値はない。尊皇の志士たちは、幕府へのカウンター勢力として朝廷を捉えていたのだから。そして朝廷が幕府に長州追討の勅許を与えると、大久保利通は「非義の勅命は勅命にあらず」と言い切った。たとえ勅命でも道理が通らないなら従う必要はない、というのだ。天皇・朝廷への不信任の表明に等しかった。天皇・朝廷の権威は一転地に落ちたのである。

そんな中、孝明天皇は突然の死を迎えた。明治天皇のところに昼夜問わず鍾馗のような亡霊が現れ、それが孝明天皇の亡霊だと騒がれたという逸話は非常に興味深い。

本書は全体として、幕末に天皇の権威が高まっていったその道程を見通しよく述べている。特に光格天皇の事績については、類書で詳しく述べられないものだけに価値が高い。儀式や御所の造営といった部分で復古・再興していったことは、直接に朝廷の権威の上昇をもたらしたわけではないが、それが幕末に繋がっていく伏線になっていたといえる。また本書には簡単に書いているが、神祇官の再興は光格天皇の悲願だったらしい。それが復古神道と合流して明治政府に繋がっていくわけだ。

孝明天皇については、幕末維新史の定説から孝明天皇に関する部分を要領よくまとめている。もう少し私的な部分(結婚など)について書いてもらえると有り難かった。

朝廷の復古を進めた光格天皇の存在に光を当て、幕末の天皇について認識を深める良書。


2 件のコメント:

  1. 光格天皇に光を当てた類書に、藤田覚氏の『近世天皇論』(清文堂出版、2011年)もあります。ぜひご一読ください。

    返信削除
    返信
    1. ご教示いただきありがとうございます!このブログにこのようなコメントをいただくのは大変珍しいことでビックリしております。

      削除