2020年3月1日日曜日

『梵字悉曇』田久保 周譽 著、金山 正好 補筆

梵字(悉曇文字)についての総合的な手引き。

梵字とはサンスクリット語を表記するためのブラーフミー系文字の総称であるが、その中のシッダマートリカ文字——悉曇(しったん)文字が日本では梵字として相承されてきた。

本書は、(1)悉曇文字が日本へ伝来するまでの歴史、(2)日本での受容とその批判的検証、(3)悉曇文字の解説、が掲載されており、現在手に入る中では最も総合的かつハンディな悉曇文字の手引き書であると思う。

(1)悉曇文字が日本へ伝来するまでの歴史
仏典は始め文字に書かれることはなかったが、大乗仏教徒が文字による聖典の編纂に取り組んだ。特に最初期の仏教文献と見なせるのは紀元前3世紀のアショーカ王碑文(ブラーフミー系文字)であり、本書では割合丁寧にこの文字を紹介している。

悉曇文字は4世紀〜のグプタ朝に使われた文字に由来する。中国では梵字は旧訳(玄奘以前)の漢訳仏典に全く残存しておらず、6世紀頃までは梵語は必要な場合は音写によって表示するものであった。しかし隋代には梵字の知識が進み、唐代に玄奘が出て旧訳を批判し、また義浄は『梵語千字文』を撰して梵字そのものを紹介するとともに一種の辞書として活用可能とした。

さらに中唐になり善無畏、金剛智、不空らが純密の教典や儀軌を翻訳する。これには漢字音写ではなく梵字がそのまま使われ、次第に経典は梵字の原文でなければ満足しないという風潮になっていった。こうして梵字学は中国の学僧の必須科目となり、文字の構成や字義などが盛んに研究された。そういう解説書の中で著名なのが唐智広の『悉曇字記』である。

しかしインドにおける文字の変遷に合わせて中国では梵字が遷移し、悉曇文字は唐宋をもって使われなくなり、その後継文字であるナーガリー文字が使われるようになった。さらに明代以降にはチベットから伝わったランツァ文字が標準となった。

(2)日本での受容とその批判的検証
一方日本では、空海が『悉曇字記』をはじめとした梵字資料をもたらして梵字時代が幕を開けた。空海自身も『梵字悉曇字母并釈義』『大悉曇章』を著し日本人による梵字研究の嚆矢となった。こうして平安時代には日本梵字学が大成された。比叡山五大院安然の『悉曇蔵』8巻はその最大の成果である。

ところが鎌倉時代になると梵字研究は停滞期に入る。梵字は師匠から弟子へと秘密裡に奥義として相承されるものとなり、批判や訂正を受ける機会もなく、次第に独断と主観的推測が累積して、本来の語学としての形から逸脱していったからである。何よりも日本では梵字は仏典の有り難い神聖文字としてだけ受け取られ、語学として実用することもなかった。そのため「日本の学僧の間では、梵字悉曇学の本質は十中八九までは理解されていなかった(p.1)」。

日本の悉曇学を復興する努力をしたのは江戸時代の学僧である。彼らは平安時代以来の伝承資料に基づき梵字の字形を再吟味するとともに、梵語の語義を研究した。例えば浄厳は『悉曇三密鈔』を著し、従前の悉曇学の成果を集大成した。ちなみに国学の契沖は浄厳の弟子で、『悉曇三密鈔』の音韻学はその国語学の基礎となっているといわれる。

そして慈雲飲光(おんこう)は梵学資料の一大叢書『梵学津梁』を完成し、それに基づいて梵字資料の解読を行い、梵字学を語学として蘇生させた。「複雑な梵語の文法については極めて断片的な知識しか得られず、特に梵語を解する人物の皆無な状況下にあって、梵文を解読するための可能な限界にまで尽くした努力は、杉田玄白等の『解体新書』訳出に遭遇した困難の比ではなかった(p.137)」。また宗淵は梵字の重要資料を原寸大に臨摹(りんも)した『阿叉羅帖(あらしゃちょう)』を刊行した。これは『梵学津梁』とは別の方向性の輝かしい業績であった。

(3)悉曇文字の解説
悉曇文字の解説は伝統的な切り継ぎ18章(悉曇文字の作字を18章に分けて段階的に学ぶもの)によらず、より実用的な形で説明している。また日本悉曇学の伝承を批判し、より簡明で正確な悉曇文字の確定を試みている。ただし、この部分は文字学習というよりは、日本悉曇学の批判の意味合いが強いため、情報量は多いがこの解説を読んで悉曇文字が書けるようにはならないと思う。悉曇文字を書きたいという向きには、川勝政太朗『梵字講話』の方が参考になる。

さらに本書では梵字真言集、梵字般若心経が資料的に掲載されている。ただし、一般民衆にとっての梵字の大きな受容方法であった種子(しゅじ:諸尊を表す梵字)については、ほとんど触れられていない。種子は語学とはほど遠く、記号の組み合わせ術でしかなかったため記載しなかったのだと思われるが、一般には梵字は種子として目に触れるものなのでもっと解説が欲しかったのが正直なところである。

そういう部分もあるにしろ、全体として梵字(悉曇文字)について総合的に学ぶ本としてこれほど学術的で視野が広くしかも読みやすいものは珍しく、非常に参考になった。なお、本書は田久保周譽が残した原稿を元に、金山正好が再編集し、若干補足した本であり、例えば中国での梵字の変遷などは別の田久保の本にあるものをリライトして挿入している。そういう再編集をしたのは、一冊で梵字の世界を学べるようにした工夫で、初学者にとって大変有り難い本になったと思う。

梵字について知りたくなったらまず手に取るべき基本図書。

【関連書籍】
『密教―インドから日本への伝承』松長 有慶 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/09/blog-post.html
密教が日本に伝わってくるまでの、その教えを受け継いだ人々について述べる本。
梵語の中国への導入に大きな役割を果たした善無畏、金剛智、不空についても詳しい。


2020年2月17日月曜日

『シチリアの晩禱—十三世紀後半の地中海世界の歴史』スティーブン・ランシマン 著、柳原 勝・藤澤 房俊 訳

「シチリアの晩禱」を極点にして13世紀の地中海世界を描く大著。

「シチリアの晩禱」とは、1278年、復活祭の礼拝を知らせる鐘を合図に、シチリアの住民がフランス人の圧制者に対して起こした暴動である。一晩で約2000人ものフランス人が殺され、その後も虐殺は続いた。

この「シチリアの晩禱」はなぜ起こったのか。

ことの発端はシチリア国王にして神聖ローマ帝国皇帝であったフリードリヒ2世があまりにも傲岸不遜すぎたことだった。

シチリアは今のヨーロッパを中心に考えれば辺境の島にすぎないが、ローマやギリシアといった文明を育んだのは地中海であり、地中海世界の中心にあったのがシチリアだった。シチリア王国は、ギリシア文明を受け継ぎ、アラブ人が活躍し、ノルマン人が支配するハイブリッドな国家であり、地中海世界に君臨する強国だった。

しかしシチリア王国は徐々に衰微し、王権は婚姻関係からドイツのホーエンシュタウフェン家へ移った。そして1198年、フリードリヒ2世が即位する。彼の知性は同時代人の中で卓抜しており、仏独伊語、ラテン語、ギリシア語、アラビア語にも堪能だった。彼は冷酷で独裁的であったがその有能さによってシチリアを繁栄させた。フリードリヒ2世は追って神聖ローマ帝国の皇帝になり、また北イタリアも支配した。

彼を神聖ローマ帝国皇帝として任命したのはローマ教皇であったが、フリードリヒにとって教皇など何ほどのものでもなかった。歴代の教皇は彼に翻弄された。とはいえ神聖ローマ帝国はフリードリヒの個人的な力量によって一見強力だったものの、実際には衰退の途上にあった。帝国の土地を実際に支配しているのはドイツの各地の王で、皇帝の称号は多分に理念的なものだったからである。

フリードリヒ2世の死後、その王国は子孫に分割されたが、一族の内情は必ずしも円満でなかった。教皇もドイツとシチリアの両方をホーエンシュタウフェン家が支配するのを望まず相続を妨害した。フリードリヒのような強大な王に手玉に取られるのにすっかり懲りていたのだった。フリードリヒの息子マンフレーディは教皇が自分たちの敵であると認識した。彼は実力行使によって教皇軍を撃破し、本来のシチリアの継承者である弟コンラーディンが死んだという噂を利用してシチリア王の地位についた。彼は父親譲りの知性と野心を持ち、シチリアを踏み台にして父親がつくろうとした広大な帝国を建設しようとしたのだ。1261年までにイタリア全土は彼の前に屈し、教皇は孤立した。

だがマンフレーディは教皇たちの力を軽視していた。フリードリヒ2世の存命時、すでに教皇インノケンティウス4世はフリードリヒを破門してシチリア王国の包囲網を準備していた。次の教皇アレクサンデル4世もマンフレーディを破門しキリスト教徒の敵だと位置づけた。さらにシチリア国王の地位をイングランド王国のエドマンド王子にすげ替えた。これは一種の売官であったが、教皇はイングランドに対して度外れた金額を要求したため沙汰止みとなった。

次の教皇は、フランス出身のウヌバヌス4世だった。彼はフランスの聖王ルイにシチリア王国の譲渡を打診し、マンフレーディを打倒するための十字軍(!)を呼びかけた。そして莫大な年貢や一方的に教皇に有利な条件と引き換えに、聖王ルイの弟シャルルをシチリア国王に就任させた。

しかしそれはあくまでローマ法王庁として王権のお墨付きを与えたに過ぎない。実際にはシチリアはマンフレーディが支配していたのだ。だから今やシチリア国王となったシャルルは自力でシチリアを征服する必要があった。一方その頃、マンフレーディは権力の絶頂にあった。たった一人でキリスト教世界を敵に回す程度には。しかしその足下はぐらついていた。シチリアの住民は、イタリア本土にいてシチリアを顧みないマンフレーディを不満に思っていたのである。

マンフレーディは自らを過信しすぎた。教皇の後援と、マンフレーディに脅威を感じていた諸侯の支援を受けたシャルルとの戦いは思った以上に不利だった。腹心たちの忠誠心もぐらついていた。シャルルとマンフレーディは「ベネヴェントの戦い」で激突し、マンフレーディは無惨に死んだ。

新しい統治者シャルルは、シチリアに温情を示して寛大な政策を掲げたが、シチリア人には人気がなかった。シャルルは有能ではあったが人間味に欠けていたからかもしれない。シチリア人たちはマンフレーディも嫌っていたが、シャルルの官僚的なやり方(特に徴税)にも我慢がならなかった。こうしてシチリア島全体が反乱状態となり混乱した。この機に乗じて、兄マンフレーディから王位を簒奪された弟コンラーディンがシチリアの奪還のために出陣する。

コンラーディンは美貌と魅力を備えた少年王だった。彼はローマの民衆に熱狂的に迎えられた。ローマ教会の公然たる敵と位置づけられていたのにだ。コンラーディンにはほとんど封建的な地盤はなかったが、賛同するものが合流して大軍となり、「タリアコッツォの戦い」でシャルルと決戦した。コンラーディン軍はシャルル軍を圧倒し、その勝利は確実に見えた。しかし寄せ集めだったコンラーディン軍はギリギリのところでシャルル軍の奇襲に敗北した。

シャルルはまだ16歳のコンラーディンを公開斬首の刑に処した。当時の慣習では敗軍の将を処刑することは不法行為だと思われていたにもかからず。ダンテは半世紀後にコンラーディンは無実の犠牲者であると述べている。シャルルを後援していたフランス人によってさえも、この公開斬首は非難の対象となった。

こうしてシャルルはシチリアと(シチリア王国の一部だった)南イタリアを手に入れた。今度は、シャルルはシチリアに冷酷にあたった。反乱軍には厳しい処罰を下した。シチリアの名家たちの土地は没収され、フランス人の支配者がそれを封土として得た。シャルルの独裁的ではあるが効率的な政策によりシチリアの秩序は回復したが、その副作用として激しい憎悪がシチリア人たちに渦巻いた。

シャルルはシチリア王国を基盤に、北イタリアのほとんどを支配する上級君主(封建領主を統べる君主)となり、ローマ執政官でもあった。彼は地中海帝国の建設という、フリードリヒ2世やマンフレーディと同じ野心を持っていた。

一方、歴代の教皇たちは、強大すぎる世俗権力が生まれることを恐れていた。教皇こそが世界の支配者であらねばならなかった。だからホーエンシュタウフェン家を打倒するためにシャルルを担ぎ出したのだ。しかしいざマンフレーディが排除されてみると、今度はシャルルが侮りがたい世俗権力として教皇に立ちはだかることになった。今度の教皇の敵は、皮肉なことにシャルルだった。

しかしシャルルはマンフレーディとは違い、表向きには教皇と対立しないよう慎重に立ち回った。シャルルの利害は教皇とは対立してはいたが、教皇から得られる権威の利用価値もよくわかっていた。シャルルは、自らに都合のよい人物が教皇に選出されるよう、陰に陽に影響力を及ぼした。

シャルルの手の内で踊らされる危惧を感じていたローマ法王庁は、シャルルに対抗できる世俗権力をつくり出すため、フリードリヒ2世以来空位になっていた神聖ローマ帝国皇帝を指名することにした。白羽の矢が立てられたのはハプスブルク家のルードルフ。だがルードルフはシャルルに対抗するには小粒すぎ、教皇もルードルフをイマイチ信頼しきることができなかった。そのためルードルフは神聖ローマ帝国皇帝として内定していたものの、実際にはずっと戴冠させてもらえずドイツ王のみの称号だった。

ローマ教会のこの頃の懸案は、なんといっても十字軍であった。聖地を奪還するための戦力や資金(十分の一税)が必要だったし、そのためにはキリスト教国同士が争うことは避けたかった。またビザンツ帝国(現トルコ)は、ギリシア正教会を奉じていたからカトリックではないとはいえ同じキリスト教国だったので、十字軍の遂行のために同盟を模索した。衰微しつつあったビザンツ帝国は、この同盟を受け入れてギリシア正教を維持しながらカトリックの傘の下へと収まる決定をした。

しかしシャルルにとっては、この2つのキリスト教圏の同盟は好ましくなかった。なぜならシャルルはコンスタンティノープル(ビザンツ帝国の首都)を征服したくてたまらなかったからである。シャルルの夢、地中海帝国実現のためには、ビザンツ帝国を手中に収めることが必要だった。しかしその野望は、教皇グレゴリウス10世によって巧妙にルードルフが牽制球として使われ、悉く妨害されていたのだった。

だが東西教会の大合同を目前として、グレゴリウス10世が死去した。続く教皇たちは、思っていたほど教会大合同が簡単にいかないことを認めざるを得なかった。大合同は決定していたし、ビザンツ皇帝ミカエルは誠実に義務を果たそうとしたにもかかわらず、具体的な条約締結の作業は遅々として進まなかった。教皇とシャルルは互いに足を引っ張り合っていた。

ところが穏健な反フランス派の教皇ニコラウス3世が死去すると、シャルルはどさくさに紛れて軍を投入し、枢機卿たちを宮殿に閉じ込めてフランス人のマルティヌス4世を教皇として選出させた(1281年)。マルティヌス4世はシャルルの傀儡であった。彼は東西教会の大合同政策を躊躇なく打ち切り、ビザンツ皇帝ミカエルを問答無用で破門した。教皇を陰で操ったシャルルは急速に力を取り戻していった。1282年においてシャルルは、シチリア・イェルサレム・アルバニア王で、フランス各地の伯であり、またその他様々な要職を兼ねたヨーロッパ最大の権力者であり、地中海の支配者となる一歩手前であった。

その頃、遠く離れたスペインでは、シャルルが権力の絶頂へと上り詰めようとしたその裏で、密かな陰謀が組み立てられつつあった。マンフレーディの娘コンスタンツァがアラゴン王国(現スペイン東部)に嫁いでおり、そこにフリードリヒ2世の遺臣ジョヴァンニ・ダ・プロチダという稀代の策士が亡命していたのである。

プロチダはホーエンシュタウフェン家を再興しようとした。シチリアはシャルルからコンスタンツァの手に取り戻されなくてはならなかった。彼はコンスタンツァとその夫アラゴン王ペドロ3世に取り入って宰相となり、その野心を実現する仕事に着手した。

伝説では、プロチダは変装してヨーロッパ各地の宮廷を遍歴し、君主や女王の支持をとりつける反シャルルの地下活動を繰り広げたという。彼の冒険譚は存命中すでに広く流布していたほどだったが、すでに70歳近かったプロチダにはありえない話だ。しかしプロチダが彼のエージェントを派遣して反シャルル工作をしたことは事実のようだ。彼はシチリアで反シャルルの住民感情を煽ると同時に、ビザンツ帝国、そしてシャルルと貿易の上で競争関係だったジェノーヴァに協力を求めた。

特にビザンツ帝国は、シャルルの軍事侵攻の危険に怯えていた。シャルルはコンスタンティノープル征服の準備を着々と進めていた。独力でシャルルを打倒することはできないビザンツ帝国は、藁をもすがる思いで同盟者を捜していた。そういうわけだから、ビザンツ帝国はプロチダの工作に黄金を潤沢に提供したという。

アラゴン王ペドロ3世も艦隊の準備を始めた。表向きにはチュニジアへの十字軍ということになっていたが、シャルルへ対抗する意味合いも裏には含まれていた。

そしてシチリアでは、反シャルル、反フランスの住民感情が爆発しかかっていた。フランス人は決してシチリア人の言葉を覚えようとせず、要職は全てフランス人が握り、シチリアから遠い所で重要な決定がなされていた。フランス人による支配はシチリアに何の利益ももたらさないように見えた。島にはギリシア的要素がまだ強く残っており、フランスよりはビザンツ帝国のギリシア人にいくばくかの共感を持った。その上、ビザンツ帝国はシチリア人の反シャルル活動に秘密裏に資金援助してくれていた。

そんな中、遂にシャルルのコンスタンティノープルへの侵攻が始まる。シチリア人はシャルルの艦隊に強制的に編入されることになった。シャルルの大艦隊がシチリアにやってきた。シチリア人には、憎いシャルルのためにビザンツ帝国と戦うことなど耐え難かった。

そして1282年3月、シチリアは「晩禱」の日を迎える。

きっかけはシャルル軍の下士官が民衆の女にからんだことだった。彼女の夫は怒り、下士官を刺し殺した。すぐにフランス人が仲間の報復に向かったが、たちまち武装し怒り狂った大勢のシチリア人に囲まれ全員殺された。その時、教会の晩禱を知らせる鐘が鳴り始めた。

鐘を合図に、パレルモ(シチリアの大都市)では圧制者に対する蜂起を呼びかける使者が走り抜け、翌朝までに約2000人のフランス人男女が殺され、町は自治都市となったと宣言した。パレルモの蜂起は直ちにシチリア全土に燃え移った。こうしてシャルルのコンスタンティノープル侵攻はすんでのところで頓挫し、ビザンツ帝国は首の皮一枚で繋がった。

これが圧政に耐えかねた単なる民衆蜂起であったなら、シャルルの大艦隊に速やかに駆逐されただろう。それに5月には教皇が反乱を起こしたシチリア人と彼らを援助するもの全てを破門する勅書を出した。シチリア人はキリスト教世界を敵に回して戦わねばならなかった。

だが戦いの当初において、シチリア人は強大なシャルル軍に対して互角以上の戦いをした。彼らはフランス人の支配に激しく憎悪していた。戦いに展望はなかったが、彼らはアンジュー家(シャルルの一族)にあまりに苦しめられたため、自分たちの誇りに目覚めたのだ。彼らには不平等に対して戦う決意があった。だから装備は十分ではなかったが、誇りが彼らを強くしていた。

さらにシチリア人はアラゴン王を後援に恃むことができた。フランス人よりもアラゴン王ペドロとコンスタンツァを自分たちの国王・女王として受け入れることが賢明のように思われた。コンスタンツァは、かつてのシチリア王マンフレーディの娘であり、シャルルよりは正統な王位継承者に見えたからだ。シチリア人の蜂起はアラゴン王にとって必ずしも計画通りではなかったが、その提案は彼の野心を満足させた。こうしてシチリア人とシャルルとの戦いは、アラゴン王ペドロとシャルルとの戦いに変質した。

ペドロはシャルルと同じく野心家であったし、プロチダの策謀によって反シャルルの同盟を組織していた。彼らが正面衝突すれば大規模な戦いにならざるをえなかった。シャルルは一時退却し、ペドロはシチリアを手に入れたが、戦いは膠着状態へと入っていった。そして両者ともさかむ戦費に苦労するようになった。そのためシャルルは世にも奇妙な提案を行った。王同士の決闘で雌雄を決しようというのだ。

総力戦になれば不利だったペドロはこれを受け入れた。ただし追ってその条件は王と100人の騎士での決闘と改められた。決闘は当人たちには最も金のかからない解決策だったが、当人たち以外には無責任な方法に映った。これは紛争を神の裁定に委ねる意味合いがあったにしても、教皇はそんな騎士道精神は馬鹿げたものとみなしたし、シチリア人にとっても自分たちがあずかり知らぬ決戦でまたフランス人支配に戻る危険性を感じた。

周囲からの評判の悪さの上に、当人たちも冷静になってみれば失う物が多すぎる決闘には嫌気が差し、決闘のその日には両者が時間をずらして現れて、それぞれ「不戦勝」を宣言するという茶番が行われた。

決闘は喜劇的な茶番ですんだが、資金不足はそれぞれ現実だった。両陣営は金欠に苦しみ、特にシャルルは資金の面で苦境に立っていた。陣営内の連携ミスや小さな戦闘の敗北が積み重なり、いつの間にかにっちもさっちもいかなくなっていた。1285年の1月、シャルルは58歳で病没した。

彼は20年にわたって地中海を支配した。意志は強く、自らに厳しく、壮大な計画を立て、緻密に実行した。地中海帝国は、彼のものとなる一歩手前だった。それに反旗を翻したのは、彼が警戒を怠らなかったヨーロッパの王たちではなく、シチリアの住民たちだった。シャルルにとって、力のない民衆たちが自由を求めて蹶起することなど思ってもみなかった。シャルルに足りなかったのは人間理解だった。皮肉なことに、シャルルはシチリア人を弾圧することで自らの敵を育てるという墓穴を掘っていたのだ。

しかし「シチリアの晩禱」でシチリア人が得たものは、それほど輝かしくはなかった。シャルル亡き後も、教皇は新しいシチリアの支配者アラゴン王国を教会の敵として十字軍を派遣する。アラゴンに侵攻した十字軍は、マラリアの蔓延のせいもあって屈辱的な失敗となったがその後も争いは続いた。和平工作とその失敗が絶え間なく繰り返され、やがてどちらの陣営にも、泥沼が続くこの戦いが高くつきすぎるという厭戦的な雰囲気が漂ってきた。最後まで教皇はシチリア国王の任命権を持っているという面子にこだわっていたが、もはや戦いを続ける意味はあまりなかった。それにヨーロッパの中心はもう地中海ではなくなっていた。

最終的には1302年、「カルタベロッタの条約」でシチリアは「トリナクリナ国」として独立を果たす。この奇妙な国名は、「シチリア」は名目的にはアンジュー家のものだが、今のシチリアは「トリナクリナ(シチリアの古名)」だからそれとは無関係だ、という子供じみたレトリックに基づくものだった。こうしてようやく戦いは終わったものの、もはやシチリアは重要な国でも、繁栄した国でもなくなっていた。それでもシチリアはやっと自由で独立した国になったのだ。

歴史を概観してみて、シチリア王国の歴史を引っかき回したのがローマ教皇だったことは疑い得ない。マンフレーディやシャルルはもちろん、アラゴン王ペドロもシチリアにとって有り難い支配者ではなかった。にしても彼らは彼らなりにシチリアの現実を見ていた。しかし歴代教皇たちはシチリアの現実よりも自分たちの面子を優先させ、分不相応な権威を軽々しく行使した。シチリア王を選ぶのは教皇だ——という住民を無視した支配権を信じていたのが、そもそもの間違いだった。

そして教皇の政権は、短命が続き不安定だった。フリードリヒ2世を破門したインノケンティウス4世から、アラゴン王ペドロを破門したマルティヌス4世までちょうど10代。彼らは就任から5年ほどで死去し、代が変わるたびにその政策は変転した。教皇は無責任だったのに宗教的権威だけは高かったのが災いした。教皇のせいで、シチリアはしなくてもいい苦労をたくさんする羽目になった。

だがその苦労の裏で、現代なら「ナショナリズム」と呼ぶべきものがシチリア人の中に育った。シチリア人は人種的には混淆していた。そのナショナリズムは、民族性というより、「シチリア人」としてのアイデンティティに基づくものだった。そして「シチリアの晩禱」は、フランス革命のような市民革命を先取りしていた。シチリアは至上の宗教的権威にも、絶対的と見えた王権にも逆らって民衆が蜂起し、ある程度の自由を獲得したのである。

本書は、本文で500ページ近い分量があり、お世辞にも読みやすいとは言えない。中世ヨーロッパに関するある程度の知識を前提としているので初学者には向かない。登場人物や言及される地名も夥しい数にのぼり、索引だけで40ページもある。ヨーロッパ全土の政治状況や王族の婚姻関係が縦横に繋がり、時間も行ったり戻ったりしてこんがらがる。私も最初の3分の1くらいは理解するのに苦労した。

ところが半分を過ぎて、当時の地中海世界を巡る政治や人間関係が頭に入ってくるようになると、俄然、熱中して読んでしまった。しかもそれは小説的な面白さではない。マンフレーディにもシャルルにも、全く感情移入することはできないのに、白熱する地中海世界の行く末が気になって目を離せなくなるのだ。これぞ歴史書の醍醐味だと思う。

ところで本書にはもう一つ特筆すべきことがある。それは本書の訳者・榊原 勝のことだ。榊原は肺がんに冒され、治療法がなく、余命幾ばくもない状態で、生きる意欲を失い鬱病になった。だが共訳者・藤澤 房俊(義理の兄)の勧めで本書の翻訳をスタートさせ、それは生きる意欲に繋がっていく。死を待つ日々、痛み止めのモルヒネを打ちながら規則正しく本書の翻訳を続け、完成させて死んだ。本書は残された人々がその原稿を元に図版、系図などを新たに作成して出版したものである。このような大著が、闘病生活の中で生を賭して訳出されたというだけで驚異的なことである。

西洋中世の転換期をシチリアを中心に描く名著。

【関連書籍】
『中世シチリア王国』高山 博著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2014/10/blog-post_14.html
『シチリアの晩禱』の約1世紀前の、シチリア王国の全盛期を描く本。


2020年2月1日土曜日

『西域文明史概論・西域文化史』羽田 亨 著

西域の文明および文化の概論。

本書には『西域文明史概論』と『西域文化史』が収録されている。『概論』は遺物を中心にして西域の文化をテーマごとに概観するもの、『文化史』は西域の文化史を中心とした歴史概論である。なお両書で「西域」の用語の定義が違うが、広義にはシルクロード諸国、狭義には天山南路と天山北路の間にあたる地域(東トルキスタン——今の中国の新疆ウイグル自治区)を指している。

羽田 亨(とおる)は、内藤湖南、桑原隲蔵(じつぞう)とともに京大において中央アジア史研究の黄金期を築いた人物であり、宮崎市定や田村實造を育てたことでも知られる。本書はその羽田が中央アジアの文化・文明の性格・特徴を世界の学界に先んじて明解に述べたもので、西域史研究における先駆的業績である。

19世紀から20世紀の初めは西域研究が長足の進歩を遂げた時代である。それまで全く未知の世界だった西域が発掘調査によってどんどん明らかになっていった。象徴的なのは楼蘭の発見(へディン)、敦煌文書の発見(スタイン)といったものだろう。こうしたフィールドワーク(といっても当時の考古学はずいぶん乱暴なので現代でいうフィールドワークではない)によってかつての西域の栄華が明らかになっていったのである。

西域は今でこそ沙漠が広がる荒涼とした世界であるが、シルクロードの交易が盛んだった頃は、西に東に隊商が行き交って富が集まり、仏教、ゾロアスター教、マニ教、キリスト教などが競い合うように様々な文化を花開かせた、文字通り東西文明の中心であった。

羽田は、戦前・戦中という厳しい時代背景もあってフィールドワークに出かけることはできなかったが、天才的な語学力によって世界各国の研究成果を糾合した。羽田は英独仏露中の現代語と、中国古典語、トルコ語、モンゴル語、満州語、チベット語、ペルシア語、サンスクリット語などに通じ、文献史学的な手法によって西域の歴史を地道に繙いていった。特に中央アジア出土のウイグル語の宗教的文献の研究は国際的な名声を博した。それまでの西域の文献研究といえば中国の漢文文献によるものしかなかったが、羽田はその語学力によって現地語による文化の解明に端緒をつけたのであった。

本書はそうした地道な研究と、世界各国の研究成果を踏まえ、極めて堅牢かつ慎重に歴史を述べたものであり、現代から見ると誤りもあるものの(特にティムールの項)、西域史の当時の到達点である。特に先見的であったのは、ソグド人の活動を大きく取り上げ、西域におけるソグド人の果たした役割を評価したことである。

それから改めて興味深かったのは、西域の文化は中国にかなり影響を与えたが、逆に中国の文化はあまり西域には影響を与えていない、ということだ。西域では西に東に人が行き交っていたのに、文化の流れは一方方向で、西域はもっぱら西南(ギリシアやインド)からの文化に影響を受け、それは中国にまで伝えられていったのである。西域が中国文化を受け入れるようになるのは、晩唐時代にウイグル人が西域に民族移動してきてからである。ウイグル人は自身あまり高度な文化を持っていなかったので、東西の優れた文化をこだわりなく受け入れた。

なお本書の表記法は現代の読者にはちょっと読みにくい。例えばウイグルは「回鶻」、ティム—ルは「帖木児」と書かれているなどだ。また先述のように、現代の研究水準からは古びた部分がある。もし西域の歴史に関心があれば、羽田 明 他『世界の歴史(10) 西域』(なお著者は羽田 亨の息子)や三上次男・護 雅夫 他『人類文化史(4) 中国文明と内陸アジア』などがオススメである。

ちょっと内容が古いものの、西域史の古典的名著。

【関連書籍】
『シルクロードの天馬』森 豊 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/06/blog-post_11.html
シルクロードにおける天馬の図像史。

2020年1月30日木曜日

『本朝幻想文学縁起 [震えて眠る子らのために]』荒俣 宏 著

日本の古代から江戸時代までの幻想の系譜。

本書は「幻想文学」を掲げているが、江戸川乱歩や小栗虫太郎、海野十三とか澁澤龍彦、夢野久作などといった、いわゆる「幻想文学」を取り扱うものではない。そうではなくて、未だ「幻想文学」という西洋から輸入された概念がなかった江戸時代までの日本の文芸を、幻想性をキーにして著者なりに繙くというものである。

構成としては百物語の形で、体系的というよりは、あれもあるこれもある式に、様々な事例が登場する。とはいえその配列はだいたい時代ごとになっているから、大まかには中世から幕末までの幻想の系譜を辿るものである(ただし江戸時代が中心で中世はほんのちょっと)。

本書を通読して思ったのは、現実と思えない奇譚の類は、まさにそれが現実ではありえないからこそ拡大再生産され、様々に料理され変形され、糾合していく性質があるということである。つまり、幻想は幻想を呼ぶのである。

本書の劈頭を飾るのは、小野小町伝説である。よく知られているように、小野小町は花の盛りが過ぎてから遊女となり、世を儚む老婆となって無惨に死んだという(全く史実に基づかない)伝説がある。この伝説は様々に変転して、遂には小野小町は菩薩の化身だったという面白い展開となっていく。まさに幻想はさらなる幻想を生んだのだ。

また似たような事例として、空海(弘法大師伝説もたいがい荒唐無稽で面白い)、安倍晴明も取り上げられる。

本書の白眉は『南総里見八犬伝』の読み解きである。この巨大な作品は、曲亭馬琴の周到なプロット作成とこれでもかと言わんばかりの暗号的・言霊的な言語世界によって表現された。『八犬伝』は江戸時代の幻想文学の最高峰の一つだということである。私は『八犬伝』は未読なので非常に読みたくなった(しかし長さも超弩級なので手に取るのが怖ろしい)。

本書の最大の特徴は、神道・国学関係についてかなり詳しく紹介しているということである。特に平田篤胤について著者は思い入れがあるのか何度も登場する。確かに篤胤は面白い。地味な古文辞学を修めた本居宣長は、死後の世界についてまことに恬淡としていた。ところが宣長を師と仰いでいた篤胤は宣長が黙して語らなかった死後の世界について異常にこだわり、神仙の世界や幽冥界(現世と並行的に存在している見えない世界)を実在するものと考えて厖大に叙述した。そうした死後の世界のイメージを獲得したことが、国学が普及する要因となったのではないかという。

また、篤胤の説を継承してさらに狂気じみた思想を展開したのが佐藤信淵(のぶひろ)で、彼は篤胤の神学を具現化し、日本が世界を征服して支配するための『宇内混同秘策』という世界征服計画書までつくった。

同じ国学者でも篤胤と対称的なのが上田秋成である。秋成は他の国学者たちが荒唐無稽な神の世界を無批判に受け入れているのについていけず、その立場の違いは本居宣長との有名な論争(日の神論争)にまでなった。しかし宣長の古文辞学を受け継いでそれを文学作品として具現化したのは秋成だったかもしれない。伝統的な幻想の材料をふんだんに使ってつくられた秋成の『雨月物語』は国学者最大の文学的精華であろう。「かれは江戸時代中期の夢みる魂が一斉にあこがれた<古えの日本>、<神代の美>についての思いを、ロマンスという新文学の実作を通じて完璧に実現させた、ほとんど唯一無二の人物だった」(p.382)。

江戸時代、歌舞伎や浄瑠璃、能といった芸能では、ごく普通に超自然的存在が登場した。能の基本プロットは、旅人が不思議な人物に会い昔話を聞いて、やがてその人物は昔話に登場する人物そのものの霊であるということが明らかになる、というものだし、歌舞伎や浄瑠璃には複雑怪奇な因縁をちりばめた伝奇的な話が溢れかえっていた。文芸においては、現実を写実的に表現するより、不思議な巡り合わせが次々にやってきたり、妖術や占いが登場したり、魔道士が活躍したりするほうが、ずっと面白いと考えられていた。しかもその話は作り話ではなく、歴史的な事実に基づいているとみなせる方がさらに有り難かった。だから人々は過去の幻想的な言い伝えを積極的に転用し、さらなる幻想を追加して拡大再生産していったのである。

つまり江戸時代までの人々の想像力を刺激したのは、現実よりも「夢幻」であった。秋成や馬琴がつくったのは、そうした夢幻の集成であったと言える。新しい物語を作るためにも、作家は古い夢幻に立ち返る必要があった。逆説的なことだが、夢幻は夢幻であるがゆえに「歴史性」を獲得していった。

だが、(本書にはそこはかとなくしか書いていないが、)そうした夢幻の物語は明治維新後にはあまり受け継がれなかった。近代文学は夢幻よりも現実を活写することを望んだ。そうして江戸時代までの長い間に培われてきた日本的夢幻は、いつしか忘れられてしまったのである。

本書は、そうした日本的夢幻に改めて光を当てるものである。

【関連書籍】
『本居宣長(上・下)』小林 秀雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/04/blog-post.html
小林秀雄の語る本居宣長。
かなり難解であるが、宣長の言語に向かう研究態度について徹底的に思索し尽くした労作。「日の神論争」についても詳しい。

2020年1月26日日曜日

『大英博物館展: 100のモノが語る世界の歴史』

同名の博物館展の図録。

「100のモノが語る世界の歴史」は、BBCと大英博物館が制作した全100回のラジオ番組で、イギリスでは社会現象となるほど人気を博した。これはBBCラジオの記念碑的作品となり、博物館長ニール・マクレガー著による同名書籍も発売された。

その書籍は日本でも翻訳出版され、さらに実際に3館で展覧会も開催された。本書はその図録である。図録というものは普通は写真がメインで解説は巻末モノクロページの方にまとまっているものだが、本書は展覧会図録でありながら普通の読み物として通読できるようになっていて、写真と解説がセットになった構成である。これは嬉しい。

同名書籍(日本語訳は、筑摩選書で3巻分ある)に比べ、写真がメインで解説が簡略であり、概観にはちょうどよい。たぶん1時間もあれば読める。逆に言えば、原著の方では縦横無尽に展開していた解説が、かなり素っ気ないものになっているので、「モノが語る世界の歴史」というほどの深みはないようだ。

それに、同名書籍とは取り上げられた100のモノがかなり違っている(計数していないが4分の1くらい違っている)。大英博物館から借りることができなかったものがあったのかもしれない。 それはそれでよいが、そのことがしっかり説明されていないのは不誠実な感じがした。

「100のモノが語る世界の歴史」で取り上げられているのは、立派なものというよりも、世界の歴史を語るのに象徴的な役割を果たす品である。例えば日本のものとしては、羽黒山(山形県)の神社の池の底から発見された銅鏡が取り上げられている(他に縄文土器、柿右衛門、北斎)。しかしこれは特に立派な銅鏡だということではなく、日本人の鏡に対する信仰、奉納品を池に投げ入れることの意味、平安期の日本人の美意識など様々な歴史語りを呼び起こすために選ばれているのである。展覧会図録ではそうした内容が捨象されるのはしょうがないとしても、「モノが語る世界の歴史」としては解説が2倍くらい欲しかったというのが実感だ。

ところで本書には一つのモノごとにキャッチコピーがついているが、これが全体の内容にそぐわないほど軽薄で、ない方がよかった。また軽薄なだけでなく内容的にも不正確な感じがした。例えば先ほどの銅鏡には「独立独歩の平安文化」というキャッチコピーがあるが、平安時代の文化を「独立独歩(海外からの影響がない日本独自の、という意味らしい)」と表現するのはどうかと思う。

編集面ではちょっと物足りないが、気軽に読んで見て楽しめる本。

【関連書籍】
『砂糖の世界史』川北 稔 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2013/05/blog-post_5316.html
砂糖の生産と消費の動向を巡って世界史を物語る本。


2020年1月19日日曜日

『仏像—仏教美術の源流』杉山 二郎 著

仏像の成立を図像学的に述べる本。

インドで仏教が成立した時は、仏像というものはなかった。まず初めに生じたのはストゥーパ(仏塔)の造立である。仏陀は生前、自分の遺体を信仰するのではなく「法(ダルマ)」を拠り所にせよ、と述べておいたにもかかわらず、死後には遺灰の争奪が起こる。人々は抽象的な「法」よりも、具体的な礼拝の対象としての遺灰を有り難がった。

なので、遺灰(舎利)の安置施設であるストゥーパが造営され、礼拝されるようになるのである。このストゥーパの門柱などには、仏陀の生涯を絵解き的に説明する浮き彫りが作られ、仏陀がいかに超人的な生涯をたどったかが喧伝された。インドの民話伝説が次々に仏陀に付託され、またさらに大量の民話が集積されて仏陀の前世譚(ジャータカ)が成立していった。であるから、仏伝は史実としての仏陀の生涯というよりも、インドの口承文芸の世界の集大成のようなものとなり、それを石彫で表したのが最初の仏教芸術であった。紀元前2〜1世紀頃ごろである。

しかしそこでは、仏陀自身は表現されず、仏足とか法輪のようなもので象徴表現された。具象的な絵解きの中で、仏陀があからさまには表現されなかったのは、超越的な存在を普通の人間と同じように表現することへの遠慮があったのだろう。

仏陀を具象的に表現するようになったのは、 2世紀くらい、有名なカニシュカ王の治世からのことで、ギリシア・イランの影響を強く受けたガンダーラと、純インド的なマトゥラーとで同時並行的に起こった。ただし本書ではガンダーラについては詳しく述べるが、マトゥラーについてはちょっと触れるのみである。

最初仏陀は他の登場人物と大きさや衣服などでは区別されなかったが、やがて後背がつけられ、身長も大きく表現されていった。そうした特徴は共有しながらも、ガンダーラでは深刻で荘厳な仏像が作られ、マトゥラーでは明るく官能的な仏像が作られた。

さらに本書では、図像表現の変遷を概観することで、印相(手の形)、特に施無畏印の起源がイラン的な誓約のジェスチャーに起源を持つこと、また菩薩像の登場は仏教が貴族や王侯の保護に依存するようなったためではないか、といったことが推測されている。また各論的に弥勒菩薩と観音菩薩の起源についても関連する彫像を多数挙げて考察している。

本書は西アジアの古代美術や東西文化交流史を研究した著者が一般向けに仏像の起源を語ったものであるが、当時の最新の研究や学説も博引旁証されており、研究史的な部分も充実している。図版(白黒)も豊富で眺めるだけでもかなり仏像彫刻史が理解できる。

ただちょっと物足りなく思ったのは、本書では表現内容については関心が高いが、石材など表現の材質についてはあまり触れていないということだ。どのような石に刻むかによっても表現方法はかなり異なってくる。塑像のストゥッコについても簡略に触れるに過ぎない。もう少し素材の変遷についても取り扱えばさらに理解が進んだと思う。

仏像が産まれた時代を豊富な図版で手軽に学べる良書。

2020年1月18日土曜日

『かつお節と日本人』宮内 泰介・藤林 泰 著

かつお節を巡る近代史。

かつお節は伝統食品ではあるが、庶民にまで普及するようになったのは最近のことで、かつお節の生産量は明治からごく最近まで(戦中・戦後の一時期を除いて)ずっと増え続けてきた。2011年のかつお節の供給量は3万5000トン以上。現代は歴史的に見れば空前のかつお節ブームといえるのだ。

ではそのかつお節はどのように生産されてきたか。 まず明治から大正までは日本国内の産地間競争が起きる。かつお節は伝統食品であっても元来の生産量は僅かだったから、新たな産地が勃興する余地があった。その競争に勝利したのが静岡の焼津である。

またかつお節は軍隊の携行食としても活用された。調理の必要がなく保存性がよいかつお節は軍用食にぴったりであった。戦時中にかつお節になじんだ復員者によって、日清日露戦争後には各地にかつお節の味が伝えられ、日本全体に普及していった。

ところが日本ではカツオは回遊魚であるため年中は穫れない。そこで一年中カツオが回遊している南洋がカツオの漁場として注目され、またそこでのかつお節生産(「南洋節」)が行われることになったのである。言うまでもなくその背景には、日本の軍国主義による南進政策(南洋諸島の植民地化)があった。

まず昭和初期には沖縄と台湾でかつお節生産が広がった。そして植民地化を後押しする政府の後押しを受け、パラオ、ボルネオのシアミル島、インドネシアのビドゥンといったところで日本人がかつお節生産に乗り出す。こうした動きの中心にいたのは沖縄からの移民だった。わずか10年あまりの短期間で、そうしたかつお節生産は企業的に発展し、一部は国策会社へと規模拡大して国内の産地を脅かすほどになった。ところが戦争が激しくなってまともに生産ができなくなり、また敗戦によって南洋節は潰滅することとなった。

敗戦後には一時的にかつお節生産は低迷したが、復興によって再び生産量は増加する。消費量の増加に画期的なインパクトを与えたのが、削り節のパック商品の登場である(1969年)。そしてパックの花カツオは脂があまりのっていない荒節の方が美味しそうに見せることができるので、再び南洋のカツオが注目され、遠洋漁業が盛んになっていった。

またダシやめんつゆなどの商品にかつお節を「贅沢につかう」ことが価値となっていったことで、かつお節は家庭で消費するものというより、そうした商品の原材料としての側面が強くなっていく。 1980年代からのことである。こうなると、かつお節製造会社は大手調味料メーカーの下請けのような形にならざるをえない。価格決定力を大手メーカーに奪われ、より競争が厳しくなっていった。それには、輸入かつお節の増加も一枚噛んでいた。

輸出元はインドネシアのビドゥン。先述の通り、ビドゥンは戦前に日本人によりかつお節生産が行われた街である。その事業の先鞭をつけたのは、鹿児島の坊津生まれの原耕(はら・こう)という人物。1927年(昭和2年)のことであった。そこに沖縄からの移民が加わり、ビドゥンにはかつお節の一大生産地が形作られた。

戦後には生産は一時期途絶えたものの、冷凍カツオ輸出からかつお節製造へと再び発展して行く。それには日本の商社や日本人の生産者も絡んでいた。ビドゥンのかつお節は当初は品質はそれほどでもなかったが、最近では「インドネシア産」を売りに出来るほど品質も高まり、輸入量もどんどん伸びている。

一方で、枕崎や山川(鹿児島)といった国内の産地は、大手メーカーの下請けのような形となったため「空前のかつお節ブーム」の中でも経営は楽ではない。今の生産の中心は高級品の本枯れ節ではなく荒節だ。しかし職人たちは品質を高め、あくまでいいものを作ることで生き残ろうとしている。ところが消費者がそれについてこれるかは心もとない。消費者がかつお節に求めるものはなんなのか。産地にもよくわからない時代なのだ。

本書を読みながら、『バナナと日本人』(鶴見 良行)を髣髴とした。それもそのはずで、本書は『バナナと日本人』に直接間接に影響を受けた人たちの勉強会の成果として執筆されたものだからだ。しかし本書は、同じ南洋を舞台とした開発経済学のフィールドワークでありながら『バナナと日本人』とは大きな違いがある。それは、バナナの場合は国際資本が参画し現地の労働者を巧妙に収奪する体系をつくり上げたのに対し、かつお節の場合はどちらかというと才覚ある個人の動きの集積として産業が出来ていったということだ。

そのため、似たようなテーマを扱いながらも、本書の場合は暗澹たる気分になることがない。かつお節は国際資本が収奪の道具にするにはあまりにもローカル食すぎた。そのおかげで、ある意味では人間的な、そして自由度が高い産業が形作られたのかもしれない。

日本と南洋でのかつお節生産を通して産業の成立発展を垣間見る良書。

【関連書籍】
『バナナと日本人―フィリピン農園と食卓のあいだ』鶴見 良行 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/01/blog-post_30.html
日本人のバナナ需要に応えるため、フィリピンのバナナ・プランテーションがいかにして成立し、またそこで労働者がいかに苦しんでいるかを告発した本。
綿密な調査から、国際資本の商社がいかにしてフィリピン人を合法的に搾取する体制を作ったかを克明に記録した名著。