南方熊楠の『十二支考』は驚異的な本である。
これは十二支に宛てられている動物たち(もっとも牛は除く)に関する蘊蓄を縦横無尽に語っている本なのだが、蘊蓄のレベルが超人的だ。古今東西の文献を博引旁証し、仏典のようなお堅い本から現代のゴシップのような話まで自由自在に飛び交っている。
これはある意味ではスクラップブック的な本であって、体系的に何かを論証・分析しようというよりは、興味の赴くままに面白話を乱打しまくるものだ。にも関わらず全体としては熊楠の世界観を提示する大曼荼羅という趣がある。
しかもその文体が、日本語として空前絶後とも言うべきものなのだ。
学術的なことを語ったかと思えばエロ話もあり、ところどころにダジャレや諧謔も差し挟まれ、そうかと思えば自分のことも剽軽に語りだす。さらには社会風刺や政府への批判、時事問題に対する警告(特に神社合祀問題)なども随所に登場し、天才・南方熊楠の人格がそのまま文章になったような天衣無縫、唯一無二の文体なのである。
私は若い頃本書を読んだとき、内容よりもその文体の自由さに惚れぼれして、こんな文章を書けるようになりたいと憧れたものである。もちろん内容の方もすさまじく、神話伝説、伝承、民俗を凄いスピードで駆け巡っており、ある時期、この本は私のタネ本にすらなっていた。
『十二支考』ですっかり熊楠の虜となった私は、東洋文庫の『南方熊楠文集(1)(2)』や中沢新一編集の『南方熊楠コレクション』(河出文庫、全5巻)などを買い集めたものである。十数カ国語を操り、博覧強記、熊野の田舎にいながら世界的研究を進めた(雑誌「ネイチャー」に掲載された論文数は、未だに日本人では最高という)熊楠は、私にとって知的ヒーローだった。
そんな南方熊楠を「日本民俗学最大の恩人」として尊敬していたのが日本民俗学の創始者・柳田國男である。
柳田は熊楠と知り合う前、既に『遠野物語』などを著して民俗学への歩みを進めていたが、熊楠との文通でその考えが具体化され、また熊楠から『The handbook of folklore(民俗学便覧)』を貸してもらったことは日本民俗学の大系化に大きな影響を与えたと言われている。
しかし柳田は熊楠から教唆された舶来の「民俗学」を翻訳して日本民俗学を作ったわけではない。それは二人の書いたものを読んでみればすぐに分かることだ。
熊楠の場合、その研究は今で言えば「博物学」に分類され、良くも悪くも19世紀的な自由さと乱雑さに満ち、分析よりも事実のコレクションの方に重点が置かれている(もちろん分析も緻密であるが)。一方柳田の方は、伝承や昔話をコレクションするという採集者的な側面はありながらも、それをメタ的に解釈する、つまり「どうしてそういう伝説が生まれたのか」を考えることで民衆の思想を再構築しようとするのである。
例えば『山の人生』では、かつて日本には里に暮らす人々とは一風変わった山に暮らす民族がいたという考えの下、残された伝承や民俗からそうした山人たちの実態を推測しているが(なおこれ自体は現代の科学からは全面的には承認されていない)、「たった一つの小さな昔話でもだんだんに源を尋ねていくと信仰の変化が窺われる」として普通の人々の山に対する態度や考えの変化を示しており、柳田國男の想像した「山人」がここに描かれたものではなかったとしても『山の人生』は興味深い論考なのである。
ところで柳田國男を読んでいて感じるのは、様々な伝説や昔話が動員されてはいるものの、いわばそれが「不思議なこと」「ごく稀にしかない変わった出来事」などが中心となっているということである。これは考えてみればこれは当たり前のことで、平凡な毎日は伝説として残されるわけはないのだから、彼の研究の中心が妖怪や怪異が出発点となったのは必然だった。そして柳田の手法の要諦は、そうした奇異な出来事を語る語り口の変化から、人々の平素の思想の移り変わりを読み取る部分にあったように思う。
これは柳田の論考を読む上での最大の醍醐味でもあって、何気ない昔話や怪談から、その背後に隠れた意外な事実をスルスルと引き出して見せるところはまさに快感である。また柳田の文章は文学としても大変に優れているもので、熊楠の文章が唯一無二のものでしかありえないのとは違い、日本語としての普遍的なプロポーションを備えている。民俗学に興味のない人でも、「文学」として読めるのが柳田國男だと思う。
一方、初めて読んだ時に「挫折」したのが宮本常一の『忘れられた日本人』だった。
当時、私は別段民俗学に思い入れがあったわけでもなく、単に「名著だから」というような理由で本書を手に取った。
しかしどうも内容が頭に入ってこない。熊楠はもちろん柳田と比べても、随分内容が地味なのだ。当時私は東京にいて、いわゆる「コンクリートジャングル」で仕事をしていたのだから、この静かな本に耳を傾けることが出来なかったのも当然かも知れない。それで、面白くない本を無理して読むようなタイプではないので、途中まで読んだ『忘れられた日本人』は書架に戻されたのだった。
ところが、鹿児島のド田舎に移住してから本書を読んでみると、こんなに面白い本もなかったのである!
田舎に暮らす人々の、ありのままの暮らしがワーっと目の前に立ち上がってくるようで、しかも普通の人(これを宮本は「常民」と呼ぶ)のありさまが記述されているだけでなく、その暮らしや行動の底流にある「論理」がゆっくりと紐解かれていくのである。
同じフィールドワークをするのでも、柳田國男の場合、かなり意図的に「価値ある話」を選別して記録している感じがするのに比べ、宮本常一の場合は「そこらへんにいる普通の人の身の上話」をある意味で見境なく記録して、そこから社会の古層に入っていこうとする。
だから宮本常一のフィールドワークはすさまじく、日本全国を隈無くと言ってよいほど歩いており、歩いた距離では民族学者中で圧倒的だという。ちなみに宮本常一は、私が今住む南さつま市大浦町にも来たことがある。
しかしそれにしても、こんなに面白い宮本常一を、東京にいた頃は全く面白く思わなかったのだから不思議というか、本と自分との関係性は固定的なものではないということを改めて思い知った。
ところで私は娘たちに毎日読み聞かせをしていて、その基本図書が『日本の昔話 全5巻』(福音館書店)である。
これは昔話の第一人者である小澤俊夫が「おざわとしお」名義で出したもので、「子どもに読み聞かせられるちゃんとした昔話が少ない」という問題意識の下、福音館書店の総力を挙げて編集したものである。
「ちゃんとした昔話」って何? と思うかも知れないが、これは「昔話本来の形を残し、余計な脚色や文学的な表現をせず、耳で聞いて理解しやすいクリアな語り口で、しかも標準語で書かれた昔話」のことである。
というのは、よく売られている昔話絵本は、「残酷だから」という理由で結末が改編されるといったことは論外としても、かなりの程度脚色や補筆、現代化、幼児化(内容が単純化される)がなされており、我々の先祖が営々と伝えてきた昔話が破壊されてしまっているのである。これに対し、昔話のそのままの形を残しつつ、わかりやすく現代語に置き換える語り方を「再話」といい、小澤俊夫はこの強力な推進者なのだ。
また小澤は、「昔話大学」という昔話の保存、記録、読み聞かせ技法の習得などを行う学習会のようなものを全国各地で主催し、昔話の豊穣な世界を次の世代に伝えていくために精力的に活動した。
さて、長々とこういう話をしたのは、実は小澤俊夫が柳田國男から連なる民俗学の系譜に位置づけられる人だからで、柳田國男の弟子の関敬吾、のそのまた弟子が小澤俊夫にあたり、いわば彼は柳田の孫弟子なのである。
実は柳田國男自身も昔話の収集を行っており、それは『日本の昔話』『日本の伝説』にまとめられている。柳田は官僚であったため、全国の市町村に照会して昔話を収集するという、公権力を民俗学の研究に使うような、ちょっと今では考えられない手法で昔話を収集した。しかしそのおかげで全国津々浦々に残る昔話をかなり整理し、『日本の昔話』ではエッセンス的に表現した。
弟子の関敬吾も昔話の収集を行っていて、関の場合はただ収集するだけでなく、ヨーロッパの民俗学の知見を取り入れて昔話の類型分けを行った。ちなみに昔話の類型分けは世界的なプロジェクトであって、現在ではアールネ=トンプソン=ウター分類(Aarne–Thompson–Uther type index、ATU分類)というのが標準になっている。
この類型分けの最新版をまとめたのが分類の名前にも掲げられているドイツのハンス=イェルク・ウター。小澤俊夫は関敬吾に師事した後、ドイツに留学してウターにも学んでいる。小澤俊夫は、柳田から続く昔話収集の学統を継いだエキスパートで、さらにそれをこども向けの書籍へと普及させた人と言える。
こんなわけなので、おざわとしお再話の『日本の昔話 全5巻』は読み聞かせに最適なだけでなく学問的にもしっかりとしており、万人にオススメできる昔話読み物である。
2019年6月14日金曜日
2019年6月9日日曜日
『中世薩摩の雄 渋谷氏(新薩摩学シリーズ8)』小島 摩文 編
中世の渋谷氏に関する論文集。
渋谷氏とは、通称「渋谷一族」などと呼ばれる5つの氏族によって構成され、鎌倉時代から戦国時代にかけて北薩を中心に活躍した一族である。
島津氏とは五族がそれぞれ対立と融和を繰り返し、またこの頃は島津氏の内部でも争いがあったため非常に複雑な敵味方関係が入り乱れた。その経緯はかなりわかりづらいが、最終的に近世まで生き残ったのは五族のうち入来院氏のみであった。そして入来院氏は、600年間入来の統治を続けたことからその伝来文書群は「入来文書」として武家文書中の白眉とされており、エール大学の朝河貫一が"The Document of Iriki"として発表したことで世界的にも有名になった。
「第1章 史料と史跡からみた渋谷一族」(三木 靖)では渋谷氏の系譜が概略的に描かれる。渋谷氏の祖渋谷基家は武蔵国の東側沿岸地を開発し、本拠地として相模国渋谷庄(神奈川県綾瀬市、藤沢市、海老名市等にまたがる地域)を領有した。その孫となる重国は源頼朝の御家人となり、1247年の宝治合戦で薩摩半島北部を領有していた千葉常胤が討たれた結果、その領地(薩摩川内市を中心とする地域)が重国の子光重に与えられた。
光重は薩摩国の所領を次男以下の五男に分割(東郷、祁答院、鶴田、入来院、高城)。当初は相模にいながらの支配だったが、やがてその子孫達は所領地に移住した。その移動は、一族はもちろん家臣を引き連れてのものであり、一家につき50家500人程度の規模が推測され、最小でも全体で2500人規模の移住が行われたと考えられる。こうして関東からやってきた渋谷一族が、北薩に一大勢力を持つことになったのである。
「第2章 南北朝・室町期における渋谷一族と島津氏」(新名 一仁)では、 渋谷一族の動向が島津氏との関係を軸に語られる(この章の内容については備忘メモとして後述する)。
「第3章 八幡新田宮の入来院・祁答院支配に関する一考察」(日隅 正守)では、新田宮がどのように入来院氏や祁答院氏に宗教的支配を及ぼしていたかをケーススタディ的に述べている。
「第4章 中世城館から見る渋谷氏の動向」(吉本 明弘)では、渋谷一族の主な拠点—鶴ヶ岡城(東郷氏)、虎居城(祁答院氏)、鶴田城(鶴田氏)、清色城(入来院氏)、妹背城(高城氏)—の城館跡が紹介され、その特徴を述べた後、歴史的事件や戦乱(を記録した史料)においてそうした城がどのように登場しているかを分析している。
「第5章 薩摩川内市湯田町の中世に関する検討」(上床 真)では、渋谷一族の争乱の舞台となったと推測される湯田町について、考古学的・歴史学的・地理学的に述べるもので、渋谷一族の話は直接にはあまり出てこないが、彼らが活躍した土地について深く知ってみようという内容である。
「第6章 近世・近代に描かれた中世渋谷氏」(岩川 拓夫)では、入来院三兄弟(有重、致重、重尚)の武勲顕彰の意味を持つ神社建立(江戸時代)、大正時代の正五位の追贈、皇紀二千六百年事業での純忠碑の建立といったことが取り上げられる。実際の入来院氏は南朝方、北朝方を転々としていたにも関わらず、南朝の忠臣として顕彰された。本章では、入来院氏が近世・近代にどのように受容され、「利用」されたのかがテーマである。
本書には、これらの論考の他、渋谷氏関連年表、系図、文書(歴史的文書)目録、文献(論文等)目録が付随しており(本書の1/3ほどを占める)、渋谷氏研究の便覧的に利用出来るようになっている。
全体を通して、あまり体系的ではなく研究ノート的な部分があることは否めないが、渋谷氏研究にあたって座右に置くべき本である。
**備忘メモ**(第2章の覚書)
「建武の新政」開始時、渋谷一族は足利方であったようだが、祁答院氏、鶴田氏、追って入来院氏が南朝に与するようになる。こうした事態を憂慮した幕府は守護島津貞久を下向させたが、これに応じて南朝方として激戦を繰り広げたばかりの入来院氏は一転して武家方に復帰。しかし入来院氏は島津氏に帰順したわけではなく、足利尊氏の直属の家臣として島津氏と同列で戦った。一方、後醍醐天皇の命により九州に下向した征西将軍宮懐良(かねよし)親王が薩摩に上陸し、南朝方国人の結束も高まり武家方と南朝方の抗争が展開した。
貞和5年(1349年)「観応の擾乱」が起こると、全国は足利尊氏・足利直義(尊氏弟)・南朝方の鼎立状態になる。この際、直義の養子の足利直冬(ただふゆ)は九州に逃れ、正統な将軍権力の代行者であるかのように振る舞って九州の国人(在地権力者)を統率。入来院氏はこれに応じて直冬方となり、尊氏方の島津氏とは再び対立。足利直義が南朝に帰順すると入来院氏も自然と南朝に与したが、直冬が没落して九州を去ると、入来院氏は再び武家方(尊氏方)に復帰して島津氏と協力態勢に入った。と思ったのもつかの間、薩摩国で南朝方が優勢となると孤立無援に陥っていた島津氏は南朝方に転じ、入来院氏と対立。かと思えば、入来院氏も南朝方に寝返った。さらに延文5年(1360年)には島津氏と入来院氏は再度武家方に復帰。ところが正平23〜25年(1368〜70年)に北薩・大隅・日向にまたがる地域で大規模な国人の騒乱「第一次南九州国人一揆」が起こると、渋谷一族はこれに参加し島津氏の攻略に参加。対立と和平がめまぐるしく繰り返され、誰が誰の敵なのかもよくわからない状況だった。
応安4年(1371年)、幕府が今川了俊を九州探題に抜擢して九州へ派遣すると、これが次なる台風の目になる。今川了俊はまたたく間に征西将軍府勢力を圧倒し太宰府を陥落して宮方勢力を駆逐。了俊は九州の有力守護、少弐冬資、大友親世、島津氏久を召集したが、あろうことか了俊は冬資を謀殺。これに反発した島津氏は宮方に帰順して今川了俊と対立した。
そこで了俊は幕府に要求して、薩摩・大隅国の守護を島津氏から了俊への改替を獲得。さらに子息今川満範を島津氏追討の対象として九州に派遣した。そして今川満範の主導のもと、「第一次南九州国人一揆」の構成員を中心に肥薩隅国境付近の反島津の国人領主が結集し、「第二次南九州国人一揆」が結成された。「第一次」は宮方が旗印になったが、「第二次」では反島津の立場が一致した幕府(武家方)のもとに騒乱が起こったのである。入来院氏は当初はこの一揆には参加していなかったがやがて参戦、だが渋谷一族全体としては島津方に与するものもいた。
ところが島津氏への総攻撃の直前、島津氏は今川了俊に帰順し所領安堵を得た。これに納得がいかないのが一揆を構成した国人たち。再び一揆契状を作成して反乱軍がまとまり、渋谷一族からは祁答院氏と東郷氏が参加。これを受けて今川了俊は再び島津氏追討を一揆側に命じる。こうして都城合戦、簑原合戦が起こり、双方に多くの死傷者が出たが結局島津氏の勝利に終わった。こうして一揆は崩壊したが、最後まで今川方に留まった入来院氏は独自の立場を強めていった。一方今川了俊は反島津の抵抗を続けたものの島津氏の支配領域は揺るがず、応永2年(1395年)京都へ召還された。
室町期に入ると、島津氏は今川方として行動してきた渋谷一族の掃討に着手する。これにより入来院氏の本拠清色城は落城。しかし同時に薩摩国山北では反島津の国人勢力が再び結集しようとしていた。相良氏、牛屎氏などが反島津の立場を鮮明にしていく。またこの時期、奥州家と総州家に別れた島津両家の確執が表面化。この対立において、鶴田氏を除く渋谷一族、相良氏、牛屎氏、和泉氏、菱刈氏が総州家方についた。こうした勢力を味方につけた総州家は鶴田において一度は奥州家に勝利。この戦いにおいて鶴田氏は本拠地を追われ、以後渋谷一族は鶴田氏を除く四氏となる。
一方入来院氏は、総州家から奥州家に寝返り、両島津家の対立を利用して本領に復帰、逆に両家の境界領域にある立地を活かしてキャスティングボートを握るようになっていく。入来院氏や伊作氏を味方につけた奥州家は総州家を圧倒するようになり、応永16年(1409年)、奥州家島津元久は薩隅日三か国の守護職を統一した。
ところが、またしても渋谷一族四氏は総州家に寝返り、奥州家に反旗を翻した。このため元久は出陣するが陣没。そこで家督相続争いが起こって奥州家は混乱。これによって総州家が勢力を挽回し、再び薩摩国の大部分が総州家方となり、奥州家との抗争の時代に入る。この抗争の鍵を握ったのは伊集院頼久であったが、激戦の末に谷山で伊集院氏は討たれ、この抗争は奥州家島津久豊の勝利に終わる。
この勝利を受けてか、渋谷一族四氏は一転して奥州家側につき、総州家への総攻撃に転じる。こうして総州家は急激に衰え、奥州家島津久豊は政権を確立したのであった。このことを示すのが「福昌寺仏殿造営奉加帳」(応永30年前後)であり、島津一族や国衆89名が名を連ね、薩摩国山北全域が久豊政権を承認していたことが窺える。
応永32年(1425年)に久豊が没し嫡子貴久(のち忠国)が家督を継承すると再び戦乱の時代となる。貴久が日向国山東の奪回に失敗した間隙を縫って、薩摩国全域で反島津氏国人が蜂起して長期にわたる未曾有の内乱が勃発したのである。いわゆる「国一揆」である。
内乱の中心となったのは、薩摩半島においては伊集院煕久、北薩においては渋谷一族をはじめとする山北国人であった。島津貴久は内乱を収めることができなかっただけでなく島津家内部の対立でも弱い立場となり弟好久(のち持久・用久)に指揮権を委譲。好久は「国一揆」の鎮圧に成功し、一時は家督相続一歩手前となったが、貴久は幕府から命じられた足利義昭追討の功によって立場を強め一転して有利に事を進め、文安5年(1448年)忠国・持久兄弟は和睦。これによって「国一揆」の戦乱は完全に終熄した。
この長期にわたる戦乱は、島津氏にとって大きな画期となった。例えば(1)南薩最大の勢力を誇った伊集院総領家の滅亡、(2)島津持久を祖とする島津薩州家の誕生(和泉庄、山門院(やまといん)、莫祢院(あくねいん)を中心とする政権)、(3)山北国人に対する支配の強化、といったことが挙げられる。
(3)については、渋谷一族にも「算田」が施されている。これは、所領に対して銭を賦課する、つまり課税措置のための検地である。「国一揆」で敵対した山北国人全てに対して算田が実施されたと見られる。忠国の「国一揆」の戦後処置は苛烈を極め、伊集院氏だけでなく、牛屎氏、和泉氏、野辺氏、平山氏といった平安・鎌倉以来の有力国人の没落を見た。
しかし忠国が没して嫡子立久が後を継ぐと、敵対関係にあった有力国人との和解政策が進められる。例えば入来院氏は知行宛行と引き換えに島津氏を認め、また島津氏は伊東氏とも婚姻を結んで和睦を成立させた。 こうして島津立久は室町期においてもっとも安定した政権を築いた。
立久が没して嫡男忠昌が継ぐと、今度は島津氏の同族争い(奥州家(守護家)vs薩州家vs豊州家)が有力国人を巻き込み、再び戦乱が起こる。 祁答院氏、北原氏、入来院氏、東郷氏、吉田氏、菱刈氏は結託して守護家に反旗を翻して争乱は三か国全土に及んだ。ここで台風の目になったのが豊州家で、豊州家は山北国人らから反守護家の旗印とみなされ、やむを得ず守護家との戦闘に突入。さらにこれに薩州家が加わり事態は複雑化。ちなみに渋谷一族では、祁答院氏が守護方に、入来院氏と東郷氏が豊州方についており一族が分裂して争った。
この争乱は島津家同士の和睦により収まったが、結果的に反乱の首謀者となった豊州家(島津忠廉)は排除され、 薩州家の影響力が強まる一方、島津本宗家(守護家)の求心力が低下して島津氏領国は本格的な戦国争乱に突入していくのである。
しかしそれにしても、鎌倉から戦国時代初めに至るまで、渋谷氏の節操のなさというか、敵味方をめまぐるしく転々とした行動には呆れざるを得ない。それはよく言えば争乱のキャスティングボートを握ったとも言えるし、悪く言えば日和見主義的であった。南北朝の動乱期においては、渋谷氏のみならず多くの在地領主が「昨日の敵は今日の友」式の合従連衡を繰り返したのであるが、渋谷氏のように節操なく敵味方を渡り歩いたのは数少ないだろう。
そして、渋谷氏のように簡単に寝返ってしまう人は、一度味方に引き入れたとしても簡単には信用してもらえないと思うし、むしろ味方にするには危険な存在であったように思うのだが、実際には渋谷一族は時に国人衆たちと、時に島津氏と協力関係になり、決して孤立してはいなかった。それが私にとっては疑問なのだ。簡単に味方を裏切ってしまうのに、なぜ渋谷氏はそれなりに重んじられていたのだろうか。不思議である。
渋谷氏とは、通称「渋谷一族」などと呼ばれる5つの氏族によって構成され、鎌倉時代から戦国時代にかけて北薩を中心に活躍した一族である。
島津氏とは五族がそれぞれ対立と融和を繰り返し、またこの頃は島津氏の内部でも争いがあったため非常に複雑な敵味方関係が入り乱れた。その経緯はかなりわかりづらいが、最終的に近世まで生き残ったのは五族のうち入来院氏のみであった。そして入来院氏は、600年間入来の統治を続けたことからその伝来文書群は「入来文書」として武家文書中の白眉とされており、エール大学の朝河貫一が"The Document of Iriki"として発表したことで世界的にも有名になった。
「第1章 史料と史跡からみた渋谷一族」(三木 靖)では渋谷氏の系譜が概略的に描かれる。渋谷氏の祖渋谷基家は武蔵国の東側沿岸地を開発し、本拠地として相模国渋谷庄(神奈川県綾瀬市、藤沢市、海老名市等にまたがる地域)を領有した。その孫となる重国は源頼朝の御家人となり、1247年の宝治合戦で薩摩半島北部を領有していた千葉常胤が討たれた結果、その領地(薩摩川内市を中心とする地域)が重国の子光重に与えられた。
光重は薩摩国の所領を次男以下の五男に分割(東郷、祁答院、鶴田、入来院、高城)。当初は相模にいながらの支配だったが、やがてその子孫達は所領地に移住した。その移動は、一族はもちろん家臣を引き連れてのものであり、一家につき50家500人程度の規模が推測され、最小でも全体で2500人規模の移住が行われたと考えられる。こうして関東からやってきた渋谷一族が、北薩に一大勢力を持つことになったのである。
「第2章 南北朝・室町期における渋谷一族と島津氏」(新名 一仁)では、 渋谷一族の動向が島津氏との関係を軸に語られる(この章の内容については備忘メモとして後述する)。
「第3章 八幡新田宮の入来院・祁答院支配に関する一考察」(日隅 正守)では、新田宮がどのように入来院氏や祁答院氏に宗教的支配を及ぼしていたかをケーススタディ的に述べている。
「第4章 中世城館から見る渋谷氏の動向」(吉本 明弘)では、渋谷一族の主な拠点—鶴ヶ岡城(東郷氏)、虎居城(祁答院氏)、鶴田城(鶴田氏)、清色城(入来院氏)、妹背城(高城氏)—の城館跡が紹介され、その特徴を述べた後、歴史的事件や戦乱(を記録した史料)においてそうした城がどのように登場しているかを分析している。
「第5章 薩摩川内市湯田町の中世に関する検討」(上床 真)では、渋谷一族の争乱の舞台となったと推測される湯田町について、考古学的・歴史学的・地理学的に述べるもので、渋谷一族の話は直接にはあまり出てこないが、彼らが活躍した土地について深く知ってみようという内容である。
「第6章 近世・近代に描かれた中世渋谷氏」(岩川 拓夫)では、入来院三兄弟(有重、致重、重尚)の武勲顕彰の意味を持つ神社建立(江戸時代)、大正時代の正五位の追贈、皇紀二千六百年事業での純忠碑の建立といったことが取り上げられる。実際の入来院氏は南朝方、北朝方を転々としていたにも関わらず、南朝の忠臣として顕彰された。本章では、入来院氏が近世・近代にどのように受容され、「利用」されたのかがテーマである。
本書には、これらの論考の他、渋谷氏関連年表、系図、文書(歴史的文書)目録、文献(論文等)目録が付随しており(本書の1/3ほどを占める)、渋谷氏研究の便覧的に利用出来るようになっている。
全体を通して、あまり体系的ではなく研究ノート的な部分があることは否めないが、渋谷氏研究にあたって座右に置くべき本である。
**備忘メモ**(第2章の覚書)
「建武の新政」開始時、渋谷一族は足利方であったようだが、祁答院氏、鶴田氏、追って入来院氏が南朝に与するようになる。こうした事態を憂慮した幕府は守護島津貞久を下向させたが、これに応じて南朝方として激戦を繰り広げたばかりの入来院氏は一転して武家方に復帰。しかし入来院氏は島津氏に帰順したわけではなく、足利尊氏の直属の家臣として島津氏と同列で戦った。一方、後醍醐天皇の命により九州に下向した征西将軍宮懐良(かねよし)親王が薩摩に上陸し、南朝方国人の結束も高まり武家方と南朝方の抗争が展開した。
貞和5年(1349年)「観応の擾乱」が起こると、全国は足利尊氏・足利直義(尊氏弟)・南朝方の鼎立状態になる。この際、直義の養子の足利直冬(ただふゆ)は九州に逃れ、正統な将軍権力の代行者であるかのように振る舞って九州の国人(在地権力者)を統率。入来院氏はこれに応じて直冬方となり、尊氏方の島津氏とは再び対立。足利直義が南朝に帰順すると入来院氏も自然と南朝に与したが、直冬が没落して九州を去ると、入来院氏は再び武家方(尊氏方)に復帰して島津氏と協力態勢に入った。と思ったのもつかの間、薩摩国で南朝方が優勢となると孤立無援に陥っていた島津氏は南朝方に転じ、入来院氏と対立。かと思えば、入来院氏も南朝方に寝返った。さらに延文5年(1360年)には島津氏と入来院氏は再度武家方に復帰。ところが正平23〜25年(1368〜70年)に北薩・大隅・日向にまたがる地域で大規模な国人の騒乱「第一次南九州国人一揆」が起こると、渋谷一族はこれに参加し島津氏の攻略に参加。対立と和平がめまぐるしく繰り返され、誰が誰の敵なのかもよくわからない状況だった。
応安4年(1371年)、幕府が今川了俊を九州探題に抜擢して九州へ派遣すると、これが次なる台風の目になる。今川了俊はまたたく間に征西将軍府勢力を圧倒し太宰府を陥落して宮方勢力を駆逐。了俊は九州の有力守護、少弐冬資、大友親世、島津氏久を召集したが、あろうことか了俊は冬資を謀殺。これに反発した島津氏は宮方に帰順して今川了俊と対立した。
そこで了俊は幕府に要求して、薩摩・大隅国の守護を島津氏から了俊への改替を獲得。さらに子息今川満範を島津氏追討の対象として九州に派遣した。そして今川満範の主導のもと、「第一次南九州国人一揆」の構成員を中心に肥薩隅国境付近の反島津の国人領主が結集し、「第二次南九州国人一揆」が結成された。「第一次」は宮方が旗印になったが、「第二次」では反島津の立場が一致した幕府(武家方)のもとに騒乱が起こったのである。入来院氏は当初はこの一揆には参加していなかったがやがて参戦、だが渋谷一族全体としては島津方に与するものもいた。
ところが島津氏への総攻撃の直前、島津氏は今川了俊に帰順し所領安堵を得た。これに納得がいかないのが一揆を構成した国人たち。再び一揆契状を作成して反乱軍がまとまり、渋谷一族からは祁答院氏と東郷氏が参加。これを受けて今川了俊は再び島津氏追討を一揆側に命じる。こうして都城合戦、簑原合戦が起こり、双方に多くの死傷者が出たが結局島津氏の勝利に終わった。こうして一揆は崩壊したが、最後まで今川方に留まった入来院氏は独自の立場を強めていった。一方今川了俊は反島津の抵抗を続けたものの島津氏の支配領域は揺るがず、応永2年(1395年)京都へ召還された。
室町期に入ると、島津氏は今川方として行動してきた渋谷一族の掃討に着手する。これにより入来院氏の本拠清色城は落城。しかし同時に薩摩国山北では反島津の国人勢力が再び結集しようとしていた。相良氏、牛屎氏などが反島津の立場を鮮明にしていく。またこの時期、奥州家と総州家に別れた島津両家の確執が表面化。この対立において、鶴田氏を除く渋谷一族、相良氏、牛屎氏、和泉氏、菱刈氏が総州家方についた。こうした勢力を味方につけた総州家は鶴田において一度は奥州家に勝利。この戦いにおいて鶴田氏は本拠地を追われ、以後渋谷一族は鶴田氏を除く四氏となる。
一方入来院氏は、総州家から奥州家に寝返り、両島津家の対立を利用して本領に復帰、逆に両家の境界領域にある立地を活かしてキャスティングボートを握るようになっていく。入来院氏や伊作氏を味方につけた奥州家は総州家を圧倒するようになり、応永16年(1409年)、奥州家島津元久は薩隅日三か国の守護職を統一した。
ところが、またしても渋谷一族四氏は総州家に寝返り、奥州家に反旗を翻した。このため元久は出陣するが陣没。そこで家督相続争いが起こって奥州家は混乱。これによって総州家が勢力を挽回し、再び薩摩国の大部分が総州家方となり、奥州家との抗争の時代に入る。この抗争の鍵を握ったのは伊集院頼久であったが、激戦の末に谷山で伊集院氏は討たれ、この抗争は奥州家島津久豊の勝利に終わる。
この勝利を受けてか、渋谷一族四氏は一転して奥州家側につき、総州家への総攻撃に転じる。こうして総州家は急激に衰え、奥州家島津久豊は政権を確立したのであった。このことを示すのが「福昌寺仏殿造営奉加帳」(応永30年前後)であり、島津一族や国衆89名が名を連ね、薩摩国山北全域が久豊政権を承認していたことが窺える。
応永32年(1425年)に久豊が没し嫡子貴久(のち忠国)が家督を継承すると再び戦乱の時代となる。貴久が日向国山東の奪回に失敗した間隙を縫って、薩摩国全域で反島津氏国人が蜂起して長期にわたる未曾有の内乱が勃発したのである。いわゆる「国一揆」である。
内乱の中心となったのは、薩摩半島においては伊集院煕久、北薩においては渋谷一族をはじめとする山北国人であった。島津貴久は内乱を収めることができなかっただけでなく島津家内部の対立でも弱い立場となり弟好久(のち持久・用久)に指揮権を委譲。好久は「国一揆」の鎮圧に成功し、一時は家督相続一歩手前となったが、貴久は幕府から命じられた足利義昭追討の功によって立場を強め一転して有利に事を進め、文安5年(1448年)忠国・持久兄弟は和睦。これによって「国一揆」の戦乱は完全に終熄した。
この長期にわたる戦乱は、島津氏にとって大きな画期となった。例えば(1)南薩最大の勢力を誇った伊集院総領家の滅亡、(2)島津持久を祖とする島津薩州家の誕生(和泉庄、山門院(やまといん)、莫祢院(あくねいん)を中心とする政権)、(3)山北国人に対する支配の強化、といったことが挙げられる。
(3)については、渋谷一族にも「算田」が施されている。これは、所領に対して銭を賦課する、つまり課税措置のための検地である。「国一揆」で敵対した山北国人全てに対して算田が実施されたと見られる。忠国の「国一揆」の戦後処置は苛烈を極め、伊集院氏だけでなく、牛屎氏、和泉氏、野辺氏、平山氏といった平安・鎌倉以来の有力国人の没落を見た。
しかし忠国が没して嫡子立久が後を継ぐと、敵対関係にあった有力国人との和解政策が進められる。例えば入来院氏は知行宛行と引き換えに島津氏を認め、また島津氏は伊東氏とも婚姻を結んで和睦を成立させた。 こうして島津立久は室町期においてもっとも安定した政権を築いた。
立久が没して嫡男忠昌が継ぐと、今度は島津氏の同族争い(奥州家(守護家)vs薩州家vs豊州家)が有力国人を巻き込み、再び戦乱が起こる。 祁答院氏、北原氏、入来院氏、東郷氏、吉田氏、菱刈氏は結託して守護家に反旗を翻して争乱は三か国全土に及んだ。ここで台風の目になったのが豊州家で、豊州家は山北国人らから反守護家の旗印とみなされ、やむを得ず守護家との戦闘に突入。さらにこれに薩州家が加わり事態は複雑化。ちなみに渋谷一族では、祁答院氏が守護方に、入来院氏と東郷氏が豊州方についており一族が分裂して争った。
この争乱は島津家同士の和睦により収まったが、結果的に反乱の首謀者となった豊州家(島津忠廉)は排除され、 薩州家の影響力が強まる一方、島津本宗家(守護家)の求心力が低下して島津氏領国は本格的な戦国争乱に突入していくのである。
しかしそれにしても、鎌倉から戦国時代初めに至るまで、渋谷氏の節操のなさというか、敵味方をめまぐるしく転々とした行動には呆れざるを得ない。それはよく言えば争乱のキャスティングボートを握ったとも言えるし、悪く言えば日和見主義的であった。南北朝の動乱期においては、渋谷氏のみならず多くの在地領主が「昨日の敵は今日の友」式の合従連衡を繰り返したのであるが、渋谷氏のように節操なく敵味方を渡り歩いたのは数少ないだろう。
そして、渋谷氏のように簡単に寝返ってしまう人は、一度味方に引き入れたとしても簡単には信用してもらえないと思うし、むしろ味方にするには危険な存在であったように思うのだが、実際には渋谷一族は時に国人衆たちと、時に島津氏と協力関係になり、決して孤立してはいなかった。それが私にとっては疑問なのだ。簡単に味方を裏切ってしまうのに、なぜ渋谷氏はそれなりに重んじられていたのだろうか。不思議である。
2019年5月30日木曜日
鹿児島と廃仏毀釈を巡って
私の生きる鹿児島という土地は、突き進むときは歯止めがかからないというか、実行力がありすぎる部分があって、思慮分別をかなぐり捨てて行動のみに生きるような、そんな風土がある。
その象徴が、幕末から明治にかけて行われた廃仏毀釈である。
神社から仏教的要素を排除しようとする明治政府の政策、すなわち「神仏分離」は全国的な現象であった。しかしそれにしても、実行された程度には地域でかなりの差がある。
廃仏毀釈は、行きすぎた神仏分離の暴動的現象であり、そもそも実行された地域自体がさほど多くはないが、鹿児島のように徹底的に行ったのは、私の知る限り苗木藩(岐阜県中津川市苗木)のみである。だが苗木藩は非常に小さな藩であって、領内の寺を全廃したのは確かだがその数はおよそ25カ寺以下である。
一方薩摩藩では、領域内の全寺院1066カ寺を全廃し、仏像や仏具を破壊し、全僧侶を還俗(俗人に戻すこと)せしめた。藩内から一切の仏教的要素を取り除き、盂蘭盆のような民衆的習俗までも否定し去ったのである。これほどに狂信的な宗教破壊が、民衆の草の根の抵抗を除いて、ほとんど何の障碍もなく実行されたというだけで、鹿児島という土地の特異性がわかろうというものだ。
そういう鹿児島の廃仏毀釈についてわかりやすくまとめた本が『鹿児島藩の廃仏毀釈』(名越 護)である。
↓読書メモ
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/10/blog-post_18.html
本書は、市町村郷土史を紐解き、また著者自身もフィールドワークを行って堅実な取材の下にまとめられたものである。
市町村郷土史を下敷きにしているため、事例の列挙的な部分があってやや時系列的でないというきらいがあるとはいえ、廃仏毀釈の背景から実行の経緯までも記述の対象としており、2019年現在、鹿児島の廃仏毀釈について最もまとまった本である。
また、著者が元新聞記者であるため、神道への過度な敵愾心もなく、割合にフラットな立場から廃仏毀釈が描かれていることも好感の持てる点である。鹿児島藩の廃仏毀釈について知りたい時はまず手に取るべき本であろう。
ところで、幕末から明治初期において薩摩藩の一部であった宮崎南部も、同様に廃仏毀釈の被害を受けた。
そういう宮崎の側から鹿児島の廃仏毀釈について強く糾弾したのが『廃仏毀釈百年―虐げられつづけた仏たち』(佐伯 恵達)である。
↓読書メモ
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/01/blog-post_11.html
本書は鹿児島の廃仏毀釈の全容を示そうと言うよりは、宮崎におけるケーススタディの部分(13例の廃寺が記述)が大きい。しかし地元に限っているだけに情報は精密であり、鹿児島の人間としては参考になった。また神社創建の歴史を年表(全国編・宮崎編)にしているがこれが力作で、この年表を見るだけでいろいろと考えさせられる。
著者は僧侶であるため、神道への糾弾がヒートアップしている部分も見受けられるが、この怒りは仏教徒としては至極当然のものであろう。かなり感情がこもった本である。
一方、これまでの2冊とは全く違ったスタンスで書かれた重要な本が『神道指令の超克』(久保田 収)である。
↓読書メモ
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/10/blog-post_15.html
著者の久保田 収は「皇国史観」の歴史家であった平泉 澄の弟子で、国家神道を肯定する立場から本書を書いている。
本書に収録された論文「薩藩における廃仏毀釈」が、管見の限り鹿児島の廃仏毀釈について最も初期にまとめられた論文であって、しかも実行の経緯や思想的背景がかなり詳しく論じられている。特に著者はこの論文を書いた頃に鹿児島の第七高等学校造士館(現・鹿児島大学)で教鞭を執っていたため、廃仏毀釈運動に大きな役割を果たした造士館「国学局」の動向が詳細に記述されているのが価値が高い。鹿児島の廃仏毀釈を考える上での基本文献といえる。
著者は、廃仏毀釈を実行した人びとにかなり共感しており、普通には「蛮行」とされる廃仏毀釈の行為を「理想の実現」と位置づけて書いている。非常に偏った見方と言わざるを得ないが、そういうスタンスで悪びれる様子もなく神道側から廃仏毀釈を詳しく書いているというのが歴史的には貴重で、私としては大変参考になった。
論文の最後で、明治9年に鹿児島でも信仰自由になったことに触れ、著者は廃仏毀釈運動が終了したことを嘆く。曰く「神道国家主義はこのようにして失敗に帰した。それは明治維新の理想が一般の人々に十分に理解されず、(中略)ついに国学者の夢は瓦解したのであった。鹿児島県は、こうした国学的理想の最後の牙城であった」のだそうだ。
この文章には私自身は全く共感できず、信仰自由の方がいいに決まっていると思うが、ただ鹿児島が「国学的理想の最後の牙城」たりえたという現象自体に大変な興味を覚えるのである。なぜ鹿児島は国学の理想で突き進めたのか、そこに鹿児島の特異な体質が現れていると思うのである。
一方、鹿児島が徹底的な廃仏毀釈と神道国家主義一色になっていた頃に、全国的には何が起こったかということも理解しなければ、鹿児島の特異性がわからない。
『神々の明治維新—神仏分離と廃仏毀釈』(安丸 良夫)はそれを理解するための最良の入門書である。
↓読書メモ
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/05/blog-post_2.html
本書は、廃仏毀釈や神仏分離はなぜ起こったのか、どのようなことがあったのか、そしてそれはどう終熄していったのかを述べるもので、込み入った動きを見せる明治の宗教行政史を非常にわかりやすくまとめており、しかも決して概略的な記載に留まらない深みがあるため、読むたびに発見があるような本である。
著者の安丸は、民衆宗教を中心的研究テーマとしているだけに、廃仏毀釈を政治史的でなく民衆のレベルで理解しようとしているところも独自の視点で面白い。興福寺のような大寺院が抵抗らしい抵抗をすることもなく、唯々諾々と廃仏毀釈に従って仏像・仏具の破壊に荷担した一方で、信心深い無学な民衆が身命を賭して仏像を守ろうとした事例を見るにつけ、当時の仏教がどのようなものだったかも考えさせられる。
本書には鹿児島の事例はほとんど全く触れられないが、廃仏毀釈を考える上では必読の最重要文献であろう。
鹿児島の廃仏毀釈を違った視角から捉えたのが、最近出版された『鹿児島古寺巡礼―島津本宗家及び重要家臣団二十三家の由緒寺跡を訪ねる』(川田 達也 写真・文、野田 幸敏 系図監修)である。
↓読書メモ
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/02/blog-post.html
本書は、島津本宗家およびその家臣団の墓所を巡るという構成になっているが、そうした墓所は元々菩提寺が建っていたところにあるため、これは廃仏毀釈で破壊された廃寺跡を巡る旅にもなっているのである。
そしてそれらの廃寺跡は顧みられることもないまま、今まさに朽ち果てつつある。著者は「消えゆく光景を見るたび廃仏毀釈は過去の出来事ではなく、現在進行形なのだと思ってしまう」という。
つまり本書は、廃仏毀釈を幕末明治だけの現象ではないと捉え、廃寺跡の美しさを訴えることによりそれに歯止めを掛けようとした未来志向な本なのだ。
廃仏毀釈はただ批判すればよい対象ではなく、現代の我々が乗り越えるべきものでもあるのかもしれない。なにしろ、今現在でも多くの歴史的遺物がその価値を顧みられることもないまま、朽ちるに任せているのが鹿児島県の現状なのだ。たとえそれが県指定史跡などとして保存されている場合もである!
我々は廃仏毀釈という愚行を通じて、鹿児島の人々に備わった過度に行動的な性向を自省しなくてはならないと思う。そして沈思黙考して立ち止まることを学び、過去の遺産を継承していくことの価値を思い起こすべきなのかもしれない。
※宣伝※
2013年に、自費出版で『鹿児島西本願寺の草創期—なぜ鹿児島には浄土真宗が多いのか』という小冊子を出しました。鹿児島は浄土真宗門徒の割合がかなり多いのですが、これには廃仏毀釈と明治初期の宗教行政が深く関わっていることを論じたものです。現在私自身は直販していませんが、鹿児島市の古本屋「つばめ文庫」さんで取り扱ってもらっています。
→ ネット販売もあります。(日本の古本屋)
https://www.kosho.or.jp/products/list.php?transactionid=efdb971c89372aa08c9d413c73d43b76aac729d8&mode=search&search_only_has_stock=1&search_word=%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E8%A5%BF%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E3%81%AE%E8%8D%89%E5%89%B5%E6%9C%9F
その象徴が、幕末から明治にかけて行われた廃仏毀釈である。
神社から仏教的要素を排除しようとする明治政府の政策、すなわち「神仏分離」は全国的な現象であった。しかしそれにしても、実行された程度には地域でかなりの差がある。
廃仏毀釈は、行きすぎた神仏分離の暴動的現象であり、そもそも実行された地域自体がさほど多くはないが、鹿児島のように徹底的に行ったのは、私の知る限り苗木藩(岐阜県中津川市苗木)のみである。だが苗木藩は非常に小さな藩であって、領内の寺を全廃したのは確かだがその数はおよそ25カ寺以下である。
一方薩摩藩では、領域内の全寺院1066カ寺を全廃し、仏像や仏具を破壊し、全僧侶を還俗(俗人に戻すこと)せしめた。藩内から一切の仏教的要素を取り除き、盂蘭盆のような民衆的習俗までも否定し去ったのである。これほどに狂信的な宗教破壊が、民衆の草の根の抵抗を除いて、ほとんど何の障碍もなく実行されたというだけで、鹿児島という土地の特異性がわかろうというものだ。
そういう鹿児島の廃仏毀釈についてわかりやすくまとめた本が『鹿児島藩の廃仏毀釈』(名越 護)である。
↓読書メモ
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/10/blog-post_18.html
本書は、市町村郷土史を紐解き、また著者自身もフィールドワークを行って堅実な取材の下にまとめられたものである。
市町村郷土史を下敷きにしているため、事例の列挙的な部分があってやや時系列的でないというきらいがあるとはいえ、廃仏毀釈の背景から実行の経緯までも記述の対象としており、2019年現在、鹿児島の廃仏毀釈について最もまとまった本である。
また、著者が元新聞記者であるため、神道への過度な敵愾心もなく、割合にフラットな立場から廃仏毀釈が描かれていることも好感の持てる点である。鹿児島藩の廃仏毀釈について知りたい時はまず手に取るべき本であろう。
ところで、幕末から明治初期において薩摩藩の一部であった宮崎南部も、同様に廃仏毀釈の被害を受けた。
そういう宮崎の側から鹿児島の廃仏毀釈について強く糾弾したのが『廃仏毀釈百年―虐げられつづけた仏たち』(佐伯 恵達)である。
↓読書メモ
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/01/blog-post_11.html
本書は鹿児島の廃仏毀釈の全容を示そうと言うよりは、宮崎におけるケーススタディの部分(13例の廃寺が記述)が大きい。しかし地元に限っているだけに情報は精密であり、鹿児島の人間としては参考になった。また神社創建の歴史を年表(全国編・宮崎編)にしているがこれが力作で、この年表を見るだけでいろいろと考えさせられる。
著者は僧侶であるため、神道への糾弾がヒートアップしている部分も見受けられるが、この怒りは仏教徒としては至極当然のものであろう。かなり感情がこもった本である。
一方、これまでの2冊とは全く違ったスタンスで書かれた重要な本が『神道指令の超克』(久保田 収)である。
↓読書メモ
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/10/blog-post_15.html
著者の久保田 収は「皇国史観」の歴史家であった平泉 澄の弟子で、国家神道を肯定する立場から本書を書いている。
本書に収録された論文「薩藩における廃仏毀釈」が、管見の限り鹿児島の廃仏毀釈について最も初期にまとめられた論文であって、しかも実行の経緯や思想的背景がかなり詳しく論じられている。特に著者はこの論文を書いた頃に鹿児島の第七高等学校造士館(現・鹿児島大学)で教鞭を執っていたため、廃仏毀釈運動に大きな役割を果たした造士館「国学局」の動向が詳細に記述されているのが価値が高い。鹿児島の廃仏毀釈を考える上での基本文献といえる。
著者は、廃仏毀釈を実行した人びとにかなり共感しており、普通には「蛮行」とされる廃仏毀釈の行為を「理想の実現」と位置づけて書いている。非常に偏った見方と言わざるを得ないが、そういうスタンスで悪びれる様子もなく神道側から廃仏毀釈を詳しく書いているというのが歴史的には貴重で、私としては大変参考になった。
論文の最後で、明治9年に鹿児島でも信仰自由になったことに触れ、著者は廃仏毀釈運動が終了したことを嘆く。曰く「神道国家主義はこのようにして失敗に帰した。それは明治維新の理想が一般の人々に十分に理解されず、(中略)ついに国学者の夢は瓦解したのであった。鹿児島県は、こうした国学的理想の最後の牙城であった」のだそうだ。
この文章には私自身は全く共感できず、信仰自由の方がいいに決まっていると思うが、ただ鹿児島が「国学的理想の最後の牙城」たりえたという現象自体に大変な興味を覚えるのである。なぜ鹿児島は国学の理想で突き進めたのか、そこに鹿児島の特異な体質が現れていると思うのである。
一方、鹿児島が徹底的な廃仏毀釈と神道国家主義一色になっていた頃に、全国的には何が起こったかということも理解しなければ、鹿児島の特異性がわからない。
『神々の明治維新—神仏分離と廃仏毀釈』(安丸 良夫)はそれを理解するための最良の入門書である。
↓読書メモ
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/05/blog-post_2.html
本書は、廃仏毀釈や神仏分離はなぜ起こったのか、どのようなことがあったのか、そしてそれはどう終熄していったのかを述べるもので、込み入った動きを見せる明治の宗教行政史を非常にわかりやすくまとめており、しかも決して概略的な記載に留まらない深みがあるため、読むたびに発見があるような本である。
著者の安丸は、民衆宗教を中心的研究テーマとしているだけに、廃仏毀釈を政治史的でなく民衆のレベルで理解しようとしているところも独自の視点で面白い。興福寺のような大寺院が抵抗らしい抵抗をすることもなく、唯々諾々と廃仏毀釈に従って仏像・仏具の破壊に荷担した一方で、信心深い無学な民衆が身命を賭して仏像を守ろうとした事例を見るにつけ、当時の仏教がどのようなものだったかも考えさせられる。
本書には鹿児島の事例はほとんど全く触れられないが、廃仏毀釈を考える上では必読の最重要文献であろう。
鹿児島の廃仏毀釈を違った視角から捉えたのが、最近出版された『鹿児島古寺巡礼―島津本宗家及び重要家臣団二十三家の由緒寺跡を訪ねる』(川田 達也 写真・文、野田 幸敏 系図監修)である。
↓読書メモ
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/02/blog-post.html
本書は、島津本宗家およびその家臣団の墓所を巡るという構成になっているが、そうした墓所は元々菩提寺が建っていたところにあるため、これは廃仏毀釈で破壊された廃寺跡を巡る旅にもなっているのである。
そしてそれらの廃寺跡は顧みられることもないまま、今まさに朽ち果てつつある。著者は「消えゆく光景を見るたび廃仏毀釈は過去の出来事ではなく、現在進行形なのだと思ってしまう」という。
つまり本書は、廃仏毀釈を幕末明治だけの現象ではないと捉え、廃寺跡の美しさを訴えることによりそれに歯止めを掛けようとした未来志向な本なのだ。
廃仏毀釈はただ批判すればよい対象ではなく、現代の我々が乗り越えるべきものでもあるのかもしれない。なにしろ、今現在でも多くの歴史的遺物がその価値を顧みられることもないまま、朽ちるに任せているのが鹿児島県の現状なのだ。たとえそれが県指定史跡などとして保存されている場合もである!
我々は廃仏毀釈という愚行を通じて、鹿児島の人々に備わった過度に行動的な性向を自省しなくてはならないと思う。そして沈思黙考して立ち止まることを学び、過去の遺産を継承していくことの価値を思い起こすべきなのかもしれない。
※宣伝※
2013年に、自費出版で『鹿児島西本願寺の草創期—なぜ鹿児島には浄土真宗が多いのか』という小冊子を出しました。鹿児島は浄土真宗門徒の割合がかなり多いのですが、これには廃仏毀釈と明治初期の宗教行政が深く関わっていることを論じたものです。現在私自身は直販していませんが、鹿児島市の古本屋「つばめ文庫」さんで取り扱ってもらっています。
→ ネット販売もあります。(日本の古本屋)
https://www.kosho.or.jp/products/list.php?transactionid=efdb971c89372aa08c9d413c73d43b76aac729d8&mode=search&search_only_has_stock=1&search_word=%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E8%A5%BF%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E3%81%AE%E8%8D%89%E5%89%B5%E6%9C%9F
2019年4月29日月曜日
『江戸の蔵書家たち』岡村 敬二 著
江戸時代の蔵書家たちの世界を垣間見る本。
江戸時代に書物が流通するようになると、書物の収集家、それも何万巻もの書物を有し、書物を中心として文人のネットワークを築き、学問を追求する「大蔵書家」とよびうる人物が出てきた。
さらに時を同じくして国学が隆盛するようになると、歴史や神祇について諸本の異同を校勘し考証を行う必要があることから、ただ大量の書物を収蔵するだけでなくそれらを糾合していこうという動きが生じてきた。
本書は、そうした動きを「書物の集大成」「類わけの書籍目録」「書物の解題」「群書の索引」といった視点からまとめ、そこに心血を注いだ人物について述べるものである。
本書で取り上げられるそれらの成果は次のようなものだ。
『群書類従』:盲目の天才、塙保己一(はなわ・ほきいち)による国学や歴史に関する書物の集大成(叢書)。さらに塙は時の政府に働きかけ、和学の公的研究機関である和学講談所も設立した。寛永5年(1793年)より順次刊行。
『古今要覧稿』:故事や起源を考証し、分類して編集した類書(書物を類にわけて引用した書物)。塙保己一の弟子、屋代弘賢(ひろかた)編纂。八代は『群書類従』の編纂作業にも参加。
『合類書籍目録大全』:それまでの書籍目録の総合累積版として多田定学堂が刊行。分類方法として、「正史」・「神書」を筆頭にするという国学重視の類わけを採用。享和元年(1801年)。
『群書一覧』:国学を中心として刊行された書物を渉猟し、さらにそれに解題を付した編纂目録。尾崎雅嘉の編纂。明治20年代まで再版再刻され続けたロングセラー。享和2年(1802年)。
『群書捜索目録』: 50音順に並べた事項毎に、掲載された書物とその抄録を挙げた索引集。稀代の蔵書家・小山田与清(ともきよ)が自身の万巻の蔵書の集成として30年以上かけて編纂し2千巻に上ったが遂に未完に終わった。
要するに、江戸時代には「本をまとめた本」がたくさん編纂されたのである。その背景には、文人たちの自由な討議の会合とネットワークがあった。蔵書家たちは互いに書物を融通し合い、知識を交換し合った。例えば京都にあった以文会という月一回開かれた文人の会合は、参加者がレジュメを提出して研究報告(「随筆」と呼んでいる)を行うというもので、50年間も継続した。このような会が50年間も続いたというだけで、民間の文運の隆盛が分かろうというものである。
そして書物を糾合していこうという動きから感じられるのは、書物をストック(財産)と視、その書物の世界をいかに継承していくかという観点である。現代においては書物はほとんどフロー(流れ)であり、現れては泡沫のように消えていくが、江戸時代においては書物は一度刊行されたらずっと継承していくべき財産と見なされていた。だから書物の目録が幾度も編纂され、どのような書物が今存在しているかをキッチリ網羅しようとしたのである。
こうした動きを見ると、現代の書物文化が江戸時代から後退している部分があるような気がしてしまう。もちろん江戸時代の書物は今とは比べものにならない高級品であった。蔵書家たちは豪商や幕府の旗本であったし、庶民には手が届かない本が多かっただろう。蔵書家たちは自らの蔵書を公開してもいたが、図書館はなかった。
しかし江戸時代の書物の世界は、価値のあるもので充満していた。少なくとも、人びとは書物の世界は価値で溢れていると信じ、それにアクセスするための抄録や索引、一大叢書などを編纂したのである。翻って今はどうか。名著名作は数多いにしても、それと同時に書物の世界のほとんどは一顧だに値しないクズ本に埋め尽くされていないかどうか。ちょっと考えさせられる。
なお著者は、大阪府立図書館司書(著作時)であり、本書は図書館司書としての視点が面白い。「本をまとめた本」について豊富な事例を引いて書いてあるのも、本の世界をどうまとめるかという図書館の現場にいる人ならではのことだと思う。
そのため、記載は学術的ではなく親しみやすい。だがその副作用としてあまり体系的な書き方ではないので、一つひとつの事実をしっかり把握するには適さない。
体系的ではないが、蔵書家の活動を通じて文運の来し方行く末を考えさせる真面目な本。
【関連書籍】
『江戸の本屋さん—近世文化史の側面』今田 洋三 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/03/blog-post.html
江戸時代の出版・流通事情をまとめた本。
書商という文化の裏方から見る江戸の文化史。
江戸時代に書物が流通するようになると、書物の収集家、それも何万巻もの書物を有し、書物を中心として文人のネットワークを築き、学問を追求する「大蔵書家」とよびうる人物が出てきた。
さらに時を同じくして国学が隆盛するようになると、歴史や神祇について諸本の異同を校勘し考証を行う必要があることから、ただ大量の書物を収蔵するだけでなくそれらを糾合していこうという動きが生じてきた。
本書は、そうした動きを「書物の集大成」「類わけの書籍目録」「書物の解題」「群書の索引」といった視点からまとめ、そこに心血を注いだ人物について述べるものである。
本書で取り上げられるそれらの成果は次のようなものだ。
『群書類従』:盲目の天才、塙保己一(はなわ・ほきいち)による国学や歴史に関する書物の集大成(叢書)。さらに塙は時の政府に働きかけ、和学の公的研究機関である和学講談所も設立した。寛永5年(1793年)より順次刊行。
『古今要覧稿』:故事や起源を考証し、分類して編集した類書(書物を類にわけて引用した書物)。塙保己一の弟子、屋代弘賢(ひろかた)編纂。八代は『群書類従』の編纂作業にも参加。
『合類書籍目録大全』:それまでの書籍目録の総合累積版として多田定学堂が刊行。分類方法として、「正史」・「神書」を筆頭にするという国学重視の類わけを採用。享和元年(1801年)。
『群書一覧』:国学を中心として刊行された書物を渉猟し、さらにそれに解題を付した編纂目録。尾崎雅嘉の編纂。明治20年代まで再版再刻され続けたロングセラー。享和2年(1802年)。
『群書捜索目録』: 50音順に並べた事項毎に、掲載された書物とその抄録を挙げた索引集。稀代の蔵書家・小山田与清(ともきよ)が自身の万巻の蔵書の集成として30年以上かけて編纂し2千巻に上ったが遂に未完に終わった。
要するに、江戸時代には「本をまとめた本」がたくさん編纂されたのである。その背景には、文人たちの自由な討議の会合とネットワークがあった。蔵書家たちは互いに書物を融通し合い、知識を交換し合った。例えば京都にあった以文会という月一回開かれた文人の会合は、参加者がレジュメを提出して研究報告(「随筆」と呼んでいる)を行うというもので、50年間も継続した。このような会が50年間も続いたというだけで、民間の文運の隆盛が分かろうというものである。
そして書物を糾合していこうという動きから感じられるのは、書物をストック(財産)と視、その書物の世界をいかに継承していくかという観点である。現代においては書物はほとんどフロー(流れ)であり、現れては泡沫のように消えていくが、江戸時代においては書物は一度刊行されたらずっと継承していくべき財産と見なされていた。だから書物の目録が幾度も編纂され、どのような書物が今存在しているかをキッチリ網羅しようとしたのである。
こうした動きを見ると、現代の書物文化が江戸時代から後退している部分があるような気がしてしまう。もちろん江戸時代の書物は今とは比べものにならない高級品であった。蔵書家たちは豪商や幕府の旗本であったし、庶民には手が届かない本が多かっただろう。蔵書家たちは自らの蔵書を公開してもいたが、図書館はなかった。
しかし江戸時代の書物の世界は、価値のあるもので充満していた。少なくとも、人びとは書物の世界は価値で溢れていると信じ、それにアクセスするための抄録や索引、一大叢書などを編纂したのである。翻って今はどうか。名著名作は数多いにしても、それと同時に書物の世界のほとんどは一顧だに値しないクズ本に埋め尽くされていないかどうか。ちょっと考えさせられる。
なお著者は、大阪府立図書館司書(著作時)であり、本書は図書館司書としての視点が面白い。「本をまとめた本」について豊富な事例を引いて書いてあるのも、本の世界をどうまとめるかという図書館の現場にいる人ならではのことだと思う。
そのため、記載は学術的ではなく親しみやすい。だがその副作用としてあまり体系的な書き方ではないので、一つひとつの事実をしっかり把握するには適さない。
体系的ではないが、蔵書家の活動を通じて文運の来し方行く末を考えさせる真面目な本。
【関連書籍】
『江戸の本屋さん—近世文化史の側面』今田 洋三 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/03/blog-post.html
江戸時代の出版・流通事情をまとめた本。
書商という文化の裏方から見る江戸の文化史。
『アウトロウ(ドキュメント日本人6)』谷川健一、鶴見俊介、村上一郎 編集
スケールの大きいはみ出し者達の物語。
「ドキュメント日本人」は、明治から昭和に至るまでの様々な人々を(脈絡なく)取り上げ、日本にとっての近代化・現代の意味を浮かび上がらせるシリーズ。本書はその第6巻。
取り上げられているのは、川上音二郎、五無斎保科百助、村岡伊平治、添田唖蝉坊、宮武外骨、伊藤晴雨、梅原北明、宗 不旱、江連力一郎、小日向白郎の10人。
「アウトロウ」とは無法者の意だが、無法の程度にもいろいろある。例えば川上音二郎は、一般に言う無法者ではない。彼は自らの劇団を引き連れて渡米し、金がなくなって劇団を餓死寸前にまで困窮させながらもやがて認められ、米国やヨーロッパにおいて日本風の芝居で一世を風靡した人物。彼の場合は無法者というよりも、社会の埒外に生きた規格外の人物だ。
一方、完全な無法者が江連(えづれ)力一郎。オホーツクに砂金採取に行くという名目で乗組員を集めて航海に出発したものの、乗組員を騙して海賊行為を行わせ、ロシア人12人を殺害、さらに無抵抗の中国人4人、朝鮮人1人も殺害した。彼は帰国後に処罰されたがその行動には一片の同情も感じなかった。
特に印象深かったのは村岡伊平治。彼は単身南洋に渡り様々な職業を転々とした後、女衒(ぜげん=女郎屋に女性を売り飛ばす人物)として名をなした人。ところが本書収録の自伝によると、彼が女衒となっていく発端は、騙されて南洋に連れてこられ奴隷的に働かされていた女性の救出にあった。当時、南洋に行けばよい仕事があるとブローカーに持ちかけられ、良家の子女などが大勢連れてこられていたらしい。そうした不遇な女性に同情した村岡は大勢の女性を救出。ところがいざ救出しても彼には彼女らを養うすべがなかった。そこで村岡は女性達と夫婦の契りを結び(!)、しばらくの辛抱だとして女郎屋で働き帰国資金を稼ぐように持ちかける。このようにして村岡は大勢の女性を妻にして女郎屋にたたき込んだ。
さらには、南洋に出稼ぎに来ている男達は前科者ばかりで社会に害悪をもたらすとの考えから、その前科者を更正させようとする。その方法がまた無法者らしく、自分と同じく女性を掠ってきて女郎屋で働かせるというもの。それのどこが更正なのかわからないが、村岡の論理では、金を稼げば悪事は働かない、というのだ(たとえ悪事によって金を稼いだにしても!)。彼は女衒としてマフィアのボス的な存在になったが、彼なりの正義に基づいて行動した。だがその正義は今の正義から見るとやはり悪と言わざるを得ない。彼は多くの女性を奴隷からは救出したが、彼自身も女性をモノとして扱ったのである。
本書中、最も心躍ったのが小日向白朗。小日向は単身満州に渡り、ひょんなことから馬賊として頭角を現していく。馬賊というのは、日本で言えばヤクザにあたり、みかじめ料をもらう代わり街の自衛(?)を担うのである。小日向は他の馬賊との抗争に打ち勝ち、やがて馬賊の頭領となり全中国を手中に収めていくのである。彼は馬賊として確かに殺人も多くしている。しかしそれはいわばヤクザ同士の抗争であるから読んでいてもそれほど嫌悪感はない。ところが彼は恋人をもその銃で撃ち殺した。これは手違いであったのだが、一瞬の手違いで恋人を殺してしまうあたりが無法者である。しかし抗争ばかりで心の安寧を失った彼は、千山無量観(道教のお寺)で葛月潭老師に弟子入りする。本書での記載は弟子入りしたところで終わっているが、その後の彼の人生が非常に気になる所である。
全体を通じてみて、明治生まれの無法者のスケールの大きさにはびっくりさせられることが多かった。今の多くの人たちよりももっと国際的に縦横無尽に行動している。だが同時に、女性をモノとして扱う態度は多くの人に共通していて、しかもそれが無法者であるためというよりも、当時の普通の価値観としての態度なのだ。本書を読みながら、昔の女性観をも改めて考えさせられた。
「ドキュメント日本人」は、明治から昭和に至るまでの様々な人々を(脈絡なく)取り上げ、日本にとっての近代化・現代の意味を浮かび上がらせるシリーズ。本書はその第6巻。
取り上げられているのは、川上音二郎、五無斎保科百助、村岡伊平治、添田唖蝉坊、宮武外骨、伊藤晴雨、梅原北明、宗 不旱、江連力一郎、小日向白郎の10人。
「アウトロウ」とは無法者の意だが、無法の程度にもいろいろある。例えば川上音二郎は、一般に言う無法者ではない。彼は自らの劇団を引き連れて渡米し、金がなくなって劇団を餓死寸前にまで困窮させながらもやがて認められ、米国やヨーロッパにおいて日本風の芝居で一世を風靡した人物。彼の場合は無法者というよりも、社会の埒外に生きた規格外の人物だ。
一方、完全な無法者が江連(えづれ)力一郎。オホーツクに砂金採取に行くという名目で乗組員を集めて航海に出発したものの、乗組員を騙して海賊行為を行わせ、ロシア人12人を殺害、さらに無抵抗の中国人4人、朝鮮人1人も殺害した。彼は帰国後に処罰されたがその行動には一片の同情も感じなかった。
特に印象深かったのは村岡伊平治。彼は単身南洋に渡り様々な職業を転々とした後、女衒(ぜげん=女郎屋に女性を売り飛ばす人物)として名をなした人。ところが本書収録の自伝によると、彼が女衒となっていく発端は、騙されて南洋に連れてこられ奴隷的に働かされていた女性の救出にあった。当時、南洋に行けばよい仕事があるとブローカーに持ちかけられ、良家の子女などが大勢連れてこられていたらしい。そうした不遇な女性に同情した村岡は大勢の女性を救出。ところがいざ救出しても彼には彼女らを養うすべがなかった。そこで村岡は女性達と夫婦の契りを結び(!)、しばらくの辛抱だとして女郎屋で働き帰国資金を稼ぐように持ちかける。このようにして村岡は大勢の女性を妻にして女郎屋にたたき込んだ。
さらには、南洋に出稼ぎに来ている男達は前科者ばかりで社会に害悪をもたらすとの考えから、その前科者を更正させようとする。その方法がまた無法者らしく、自分と同じく女性を掠ってきて女郎屋で働かせるというもの。それのどこが更正なのかわからないが、村岡の論理では、金を稼げば悪事は働かない、というのだ(たとえ悪事によって金を稼いだにしても!)。彼は女衒としてマフィアのボス的な存在になったが、彼なりの正義に基づいて行動した。だがその正義は今の正義から見るとやはり悪と言わざるを得ない。彼は多くの女性を奴隷からは救出したが、彼自身も女性をモノとして扱ったのである。
本書中、最も心躍ったのが小日向白朗。小日向は単身満州に渡り、ひょんなことから馬賊として頭角を現していく。馬賊というのは、日本で言えばヤクザにあたり、みかじめ料をもらう代わり街の自衛(?)を担うのである。小日向は他の馬賊との抗争に打ち勝ち、やがて馬賊の頭領となり全中国を手中に収めていくのである。彼は馬賊として確かに殺人も多くしている。しかしそれはいわばヤクザ同士の抗争であるから読んでいてもそれほど嫌悪感はない。ところが彼は恋人をもその銃で撃ち殺した。これは手違いであったのだが、一瞬の手違いで恋人を殺してしまうあたりが無法者である。しかし抗争ばかりで心の安寧を失った彼は、千山無量観(道教のお寺)で葛月潭老師に弟子入りする。本書での記載は弟子入りしたところで終わっているが、その後の彼の人生が非常に気になる所である。
全体を通じてみて、明治生まれの無法者のスケールの大きさにはびっくりさせられることが多かった。今の多くの人たちよりももっと国際的に縦横無尽に行動している。だが同時に、女性をモノとして扱う態度は多くの人に共通していて、しかもそれが無法者であるためというよりも、当時の普通の価値観としての態度なのだ。本書を読みながら、昔の女性観をも改めて考えさせられた。
2019年4月12日金曜日
『仮往生伝試文』古井 由吉 著
古井由吉による往生伝と随想。
「往生伝」は、たとえば『法華験記』とか『今昔物語集』、『日本霊異記』など中世の文学で大きなモチーフになった文学ジャンルであり、立派な(あるいは変わった)僧侶がどう往生したかを物語るものである。
ここでいう「往生」というのは、単に死を迎えるということを意味しない。文字通り西方浄土に赴くことが往生であり、その証拠として天上から楽の音が聞こえてくるとか、かぐわしい香りがするとか、花びらが舞うとか、確かに「往生」した証しが求められる実証的な現象なのである。古い時代の高僧には、そういう瑞祥に満ちた死に様があったようなのである。
当然、現代の我々からすれば、そうした「往生」はフィクションとしか考えられないのであり、リアリティを感じることはできない。往生自体もそうだが、そういう高僧の生き様にはちょっと常人離れしたところも多いから、往生伝には、まるで別の世界のホラ話といった雰囲気もある。
ところが本書では、著者の古井はかつての往生伝をリアリティある形で肉付けし、現代の我々の世界に引き寄せて再解釈した。例えば本書冒頭の「厠の静まり」は奇行で知られた増賀上人の話だが、増賀上人の一見不可解な現行が丁寧に繙かれており、それが史実に沿っているかどうかはともかく、我々は増賀上人の心を理解したつもりになれるのである。
しかしそういう往生伝の再解釈は本書の半分ほどでしかない。半ば脈絡なく、「○月○日、××へ行き〜」というような著者の日記というか随想のようなものが差し挟まれ、しかもその内容は往生伝とは一見無関係なのだ。最初は、この随想パートは一体何だろうと訝しんだ。だが読み進めるうち、随想の朧気なテーマとして「生と死」が浮かび上がってくる。著者は往生伝と向き合ううち、現代の人間にとっての死を改めて捉え直したかったのかもしれない。
それは、かつての高僧が立派な伽藍で、あるいは行き倒れに近いあばらやで往生を迎えたのとは違い、団地で迎える死とはどんなものかという視点であるように思われる。著者自身が本書執筆時に団地に住んでいたようだ。
団地と、往生——。全く似つかわしくないのである。団地という、生活のリアリティのカタマリのようなところで、例えば天上から楽の音が聞こえたり、かぐわしい香りがしたり、花びらが舞うといったような往生は、どう足掻いてもありえようがない。だから、往生伝の再解釈と団地での随想は、いつまでたっても出会うことなく、互いに独立して話が進んでいく。
そして次第に、往生伝は閑却され、むしろ随想パートの方が主役になってくる。この頃の著者はちょど50歳くらい。自分自身、老いと死を意識し始める頃である。病院では検査が必要と言われ、次第に知人の葬儀へ参列する機会も増える。そういう生活実態と往生伝が重奏してくる。さらに後半になると随想の方が分量的に多くなり、往生伝ではない短編小説も差し挟まれる(「去年聞きし楽の音」)。そのあたりではテーマが「生と死」から「性」へと転換。作品としては迷走しているような感じもするが、おそらく著者としては筆の赴くまま自然に往生伝を飛び越えていったのであろう。
そんなわけで、本書は往生伝の再解釈を中心とした前半、往生伝と随想が独立しながら絡み合う中盤、随想とも小説ともつかない筆すさびのような後半、とだいたい3つの顔を持っているのである。本書は「試文」である。実験的な作品、という意味だろう。長い連載の間に、内容も書き方も自由に変えている。だから細かく見れば本書にはこの3つ以外にもいろいろな顔がある。
ただし全篇にわたり文章は濃密で、練りに練られている。前半は割合に平易で具体的な書き方をしており、後半は次第に夢と現(うつつ)を行きつ戻りつするような調子となる。最後にはスラスラとは読めない、ある意味で謎解きのような文章になる。私は内容的にも前半の調子が好きで大変面白く読んだが、後半の方はまどろっこしい感じがしてやや退屈だった。でも人によっては最後の方の謎めいた文章がいいというかもしれない。
本書は、文芸評論家の福田和也が百人の作家を点数評価した『作家の値うち』(2000年)で最高得点を与えられ一躍脚光を浴びたことで知られる。『作家の値うち』は未読なのでどんな評価なのか不明だが、まあ簡単に評価の俎上に載せられるような作品ではないことだけは明らかだ(そもそも読者をかなり選ぶ作品だと思う)。
ちなみに私は20歳くらいの頃に本書を一度読んでいるが、その時は全くピンと来なかった。自分自身が40歳に近づき、徐々に肉親の死や自らの老いを考えるようになってきて、ようやく本書と向き合えるようになったのだと思う。人に勧める作品かというと分からないが、意識のどこかに長く沈潜していくような作品だ。
「往生伝」は、たとえば『法華験記』とか『今昔物語集』、『日本霊異記』など中世の文学で大きなモチーフになった文学ジャンルであり、立派な(あるいは変わった)僧侶がどう往生したかを物語るものである。
ここでいう「往生」というのは、単に死を迎えるということを意味しない。文字通り西方浄土に赴くことが往生であり、その証拠として天上から楽の音が聞こえてくるとか、かぐわしい香りがするとか、花びらが舞うとか、確かに「往生」した証しが求められる実証的な現象なのである。古い時代の高僧には、そういう瑞祥に満ちた死に様があったようなのである。
当然、現代の我々からすれば、そうした「往生」はフィクションとしか考えられないのであり、リアリティを感じることはできない。往生自体もそうだが、そういう高僧の生き様にはちょっと常人離れしたところも多いから、往生伝には、まるで別の世界のホラ話といった雰囲気もある。
ところが本書では、著者の古井はかつての往生伝をリアリティある形で肉付けし、現代の我々の世界に引き寄せて再解釈した。例えば本書冒頭の「厠の静まり」は奇行で知られた増賀上人の話だが、増賀上人の一見不可解な現行が丁寧に繙かれており、それが史実に沿っているかどうかはともかく、我々は増賀上人の心を理解したつもりになれるのである。
しかしそういう往生伝の再解釈は本書の半分ほどでしかない。半ば脈絡なく、「○月○日、××へ行き〜」というような著者の日記というか随想のようなものが差し挟まれ、しかもその内容は往生伝とは一見無関係なのだ。最初は、この随想パートは一体何だろうと訝しんだ。だが読み進めるうち、随想の朧気なテーマとして「生と死」が浮かび上がってくる。著者は往生伝と向き合ううち、現代の人間にとっての死を改めて捉え直したかったのかもしれない。
それは、かつての高僧が立派な伽藍で、あるいは行き倒れに近いあばらやで往生を迎えたのとは違い、団地で迎える死とはどんなものかという視点であるように思われる。著者自身が本書執筆時に団地に住んでいたようだ。
団地と、往生——。全く似つかわしくないのである。団地という、生活のリアリティのカタマリのようなところで、例えば天上から楽の音が聞こえたり、かぐわしい香りがしたり、花びらが舞うといったような往生は、どう足掻いてもありえようがない。だから、往生伝の再解釈と団地での随想は、いつまでたっても出会うことなく、互いに独立して話が進んでいく。
そして次第に、往生伝は閑却され、むしろ随想パートの方が主役になってくる。この頃の著者はちょど50歳くらい。自分自身、老いと死を意識し始める頃である。病院では検査が必要と言われ、次第に知人の葬儀へ参列する機会も増える。そういう生活実態と往生伝が重奏してくる。さらに後半になると随想の方が分量的に多くなり、往生伝ではない短編小説も差し挟まれる(「去年聞きし楽の音」)。そのあたりではテーマが「生と死」から「性」へと転換。作品としては迷走しているような感じもするが、おそらく著者としては筆の赴くまま自然に往生伝を飛び越えていったのであろう。
そんなわけで、本書は往生伝の再解釈を中心とした前半、往生伝と随想が独立しながら絡み合う中盤、随想とも小説ともつかない筆すさびのような後半、とだいたい3つの顔を持っているのである。本書は「試文」である。実験的な作品、という意味だろう。長い連載の間に、内容も書き方も自由に変えている。だから細かく見れば本書にはこの3つ以外にもいろいろな顔がある。
ただし全篇にわたり文章は濃密で、練りに練られている。前半は割合に平易で具体的な書き方をしており、後半は次第に夢と現(うつつ)を行きつ戻りつするような調子となる。最後にはスラスラとは読めない、ある意味で謎解きのような文章になる。私は内容的にも前半の調子が好きで大変面白く読んだが、後半の方はまどろっこしい感じがしてやや退屈だった。でも人によっては最後の方の謎めいた文章がいいというかもしれない。
本書は、文芸評論家の福田和也が百人の作家を点数評価した『作家の値うち』(2000年)で最高得点を与えられ一躍脚光を浴びたことで知られる。『作家の値うち』は未読なのでどんな評価なのか不明だが、まあ簡単に評価の俎上に載せられるような作品ではないことだけは明らかだ(そもそも読者をかなり選ぶ作品だと思う)。
ちなみに私は20歳くらいの頃に本書を一度読んでいるが、その時は全くピンと来なかった。自分自身が40歳に近づき、徐々に肉親の死や自らの老いを考えるようになってきて、ようやく本書と向き合えるようになったのだと思う。人に勧める作品かというと分からないが、意識のどこかに長く沈潜していくような作品だ。
2019年3月30日土曜日
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』塩野 七生 著
チェーザレ・ボルジアの生涯を描く本。
チェーザレ・ボルジアはルネサンス末期の1435年〜1507年のイタリアに生きた。彼は法王アレッサンドロ6世の庶子(正式な結婚によって生まれたのではない子ども=愛人の子)としてまずは枢機卿にのし上がる。
枢機卿と言えば、当時のイタリアでは社会の支配者の一員であり、十分な高給と社会的地位があった。しかし枢機卿の地位に満足していなかったチェーザレは突如として辞職し、一人の武将として生きる道を選ぶ。
公式にその野望が表明されたことはなかったが、彼はイタリアを統一し自らの王国を建設する夢があったようだ。僧職上がりのこの男は、それまで戦争の経験などなかったのに、いざ事を起こすと疾風迅雷、怖ろしいまでの怜悧な戦略で近場の小国を(実際にはほとんど戦うことなく)次々と平定、さらにフランス王と姻戚関係で結ばれその後援を得、巧みな外交によってほんの数年でイタリアにおける新時代の為政者として押しも押されぬ存在となる。その国土建設、都市計画の右腕となったのがレオナルド・ダ・ヴィンチであり、また対立していたフィレンツェからチェーザレ対策のため派遣されたのが若きニコロ・マキャベリであった(マキャベリは後年、チェーザレを素材として『君主論』を書く)。
しかしチェーザレはその権力の絶頂で運命に見放される。強力な後ろ盾だった法王アレッサンドロ6世が病気で急逝。さらに自らも罹病して死の淵をさまよった。なんとか恢復したものの病床にあるうちにチェーザレが征服した小国たちが次々に再独立。チェーザレは自分を後援してくれそうなジュリオ2世を法王に就かせるが、ジュリオ2世はチェーザレに恨みがあり、結果的にこの法王によってチェーザレは破滅させられる。
落ち延びたスペインでまた武将として活躍する機会が巡ってきたものの、かつての怜悧さが嘘のように彼は悲惨な最期を遂げたのであった。
本書は、いわゆる歴史書ではない。参考文献は掲げられているが本文と対応したものではないし、創作的部分も多い。概ね史実に沿っている(らしい)とはいえ、どこからどこまでが著者の創作かわからないので、分類としては歴史小説ということになる。
なお私としては当時のイタリアの社会に興味があって本書を手に取ったが、 この物語はチェーザレの行動、征服の有様を描写するのに忙しく、その背景となる社会の動態については語らない。この時期のイタリアはなぜチェーザレという稀代の小君主を生んだのか、そういう考察も欲しかったし、対外関係(特にスペインとイタリアの関係)や社会の仕組み(そもそも枢機卿の持っていた権力とはいかなるものか等)についての情報はチェーザレを理解する上でも不可欠と思われるのでもっと詳細に記述して欲しかった。
ちなみに本書は題名が大変魅力的であるが、チェーザレは冷酷ではあってもあまり優雅とは思えない。確かに彼は容姿に恵まれ、端正な顔立ちと品のよい衣装によって非常に高貴な雰囲気を持っていたようだ。ところがその人生は血みどろであり、文化や芸術の香りはなく、優雅というよりは果断、徹頭徹尾行動の人であり、今から見るとサイコパス的な部分がある。
蛇足ながら、本書は塩野七生の第2作で、彼女がようやく30歳の頃に書いた作品である。気軽な歴史読み物ではあるが、30歳の作者によって書かれた本としては水準は高い。
考察や背景の説明は不足気味だが、チェーザレ・ボルジアを知るためには手軽な本。
チェーザレ・ボルジアはルネサンス末期の1435年〜1507年のイタリアに生きた。彼は法王アレッサンドロ6世の庶子(正式な結婚によって生まれたのではない子ども=愛人の子)としてまずは枢機卿にのし上がる。
枢機卿と言えば、当時のイタリアでは社会の支配者の一員であり、十分な高給と社会的地位があった。しかし枢機卿の地位に満足していなかったチェーザレは突如として辞職し、一人の武将として生きる道を選ぶ。
公式にその野望が表明されたことはなかったが、彼はイタリアを統一し自らの王国を建設する夢があったようだ。僧職上がりのこの男は、それまで戦争の経験などなかったのに、いざ事を起こすと疾風迅雷、怖ろしいまでの怜悧な戦略で近場の小国を(実際にはほとんど戦うことなく)次々と平定、さらにフランス王と姻戚関係で結ばれその後援を得、巧みな外交によってほんの数年でイタリアにおける新時代の為政者として押しも押されぬ存在となる。その国土建設、都市計画の右腕となったのがレオナルド・ダ・ヴィンチであり、また対立していたフィレンツェからチェーザレ対策のため派遣されたのが若きニコロ・マキャベリであった(マキャベリは後年、チェーザレを素材として『君主論』を書く)。
しかしチェーザレはその権力の絶頂で運命に見放される。強力な後ろ盾だった法王アレッサンドロ6世が病気で急逝。さらに自らも罹病して死の淵をさまよった。なんとか恢復したものの病床にあるうちにチェーザレが征服した小国たちが次々に再独立。チェーザレは自分を後援してくれそうなジュリオ2世を法王に就かせるが、ジュリオ2世はチェーザレに恨みがあり、結果的にこの法王によってチェーザレは破滅させられる。
落ち延びたスペインでまた武将として活躍する機会が巡ってきたものの、かつての怜悧さが嘘のように彼は悲惨な最期を遂げたのであった。
本書は、いわゆる歴史書ではない。参考文献は掲げられているが本文と対応したものではないし、創作的部分も多い。概ね史実に沿っている(らしい)とはいえ、どこからどこまでが著者の創作かわからないので、分類としては歴史小説ということになる。
なお私としては当時のイタリアの社会に興味があって本書を手に取ったが、 この物語はチェーザレの行動、征服の有様を描写するのに忙しく、その背景となる社会の動態については語らない。この時期のイタリアはなぜチェーザレという稀代の小君主を生んだのか、そういう考察も欲しかったし、対外関係(特にスペインとイタリアの関係)や社会の仕組み(そもそも枢機卿の持っていた権力とはいかなるものか等)についての情報はチェーザレを理解する上でも不可欠と思われるのでもっと詳細に記述して欲しかった。
ちなみに本書は題名が大変魅力的であるが、チェーザレは冷酷ではあってもあまり優雅とは思えない。確かに彼は容姿に恵まれ、端正な顔立ちと品のよい衣装によって非常に高貴な雰囲気を持っていたようだ。ところがその人生は血みどろであり、文化や芸術の香りはなく、優雅というよりは果断、徹頭徹尾行動の人であり、今から見るとサイコパス的な部分がある。
蛇足ながら、本書は塩野七生の第2作で、彼女がようやく30歳の頃に書いた作品である。気軽な歴史読み物ではあるが、30歳の作者によって書かれた本としては水準は高い。
考察や背景の説明は不足気味だが、チェーザレ・ボルジアを知るためには手軽な本。
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