2019年4月12日金曜日

『仮往生伝試文』古井 由吉 著

古井由吉による往生伝と随想。

「往生伝」は、たとえば『法華験記』とか『今昔物語集』、『日本霊異記』など中世の文学で大きなモチーフになった文学ジャンルであり、立派な(あるいは変わった)僧侶がどう往生したかを物語るものである。

ここでいう「往生」というのは、単に死を迎えるということを意味しない。文字通り西方浄土に赴くことが往生であり、その証拠として天上から楽の音が聞こえてくるとか、かぐわしい香りがするとか、花びらが舞うとか、確かに「往生」した証しが求められる実証的な現象なのである。古い時代の高僧には、そういう瑞祥に満ちた死に様があったようなのである。

当然、現代の我々からすれば、そうした「往生」はフィクションとしか考えられないのであり、リアリティを感じることはできない。往生自体もそうだが、そういう高僧の生き様にはちょっと常人離れしたところも多いから、往生伝には、まるで別の世界のホラ話といった雰囲気もある。

ところが本書では、著者の古井はかつての往生伝をリアリティある形で肉付けし、現代の我々の世界に引き寄せて再解釈した。例えば本書冒頭の「厠の静まり」は奇行で知られた増賀上人の話だが、増賀上人の一見不可解な現行が丁寧に繙かれており、それが史実に沿っているかどうかはともかく、我々は増賀上人の心を理解したつもりになれるのである。

しかしそういう往生伝の再解釈は本書の半分ほどでしかない。半ば脈絡なく、「○月○日、××へ行き〜」というような著者の日記というか随想のようなものが差し挟まれ、しかもその内容は往生伝とは一見無関係なのだ。最初は、この随想パートは一体何だろうと訝しんだ。だが読み進めるうち、随想の朧気なテーマとして「生と死」が浮かび上がってくる。著者は往生伝と向き合ううち、現代の人間にとっての死を改めて捉え直したかったのかもしれない。

それは、かつての高僧が立派な伽藍で、あるいは行き倒れに近いあばらやで往生を迎えたのとは違い、団地で迎える死とはどんなものかという視点であるように思われる。著者自身が本書執筆時に団地に住んでいたようだ。

団地と、往生——。全く似つかわしくないのである。団地という、生活のリアリティのカタマリのようなところで、例えば天上から楽の音が聞こえたり、かぐわしい香りがしたり、花びらが舞うといったような往生は、どう足掻いてもありえようがない。だから、往生伝の再解釈と団地での随想は、いつまでたっても出会うことなく、互いに独立して話が進んでいく。

そして次第に、往生伝は閑却され、むしろ随想パートの方が主役になってくる。この頃の著者はちょど50歳くらい。自分自身、老いと死を意識し始める頃である。病院では検査が必要と言われ、次第に知人の葬儀へ参列する機会も増える。そういう生活実態と往生伝が重奏してくる。さらに後半になると随想の方が分量的に多くなり、往生伝ではない短編小説も差し挟まれる(「去年聞きし楽の音」)。そのあたりではテーマが「生と死」から「性」へと転換。作品としては迷走しているような感じもするが、おそらく著者としては筆の赴くまま自然に往生伝を飛び越えていったのであろう。

そんなわけで、本書は往生伝の再解釈を中心とした前半、往生伝と随想が独立しながら絡み合う中盤、随想とも小説ともつかない筆すさびのような後半、とだいたい3つの顔を持っているのである。本書は「試文」である。実験的な作品、という意味だろう。長い連載の間に、内容も書き方も自由に変えている。だから細かく見れば本書にはこの3つ以外にもいろいろな顔がある。

ただし全篇にわたり文章は濃密で、練りに練られている。前半は割合に平易で具体的な書き方をしており、後半は次第に夢と現(うつつ)を行きつ戻りつするような調子となる。最後にはスラスラとは読めない、ある意味で謎解きのような文章になる。私は内容的にも前半の調子が好きで大変面白く読んだが、後半の方はまどろっこしい感じがしてやや退屈だった。でも人によっては最後の方の謎めいた文章がいいというかもしれない。

本書は、文芸評論家の福田和也が百人の作家を点数評価した『作家の値うち』(2000年)で最高得点を与えられ一躍脚光を浴びたことで知られる。『作家の値うち』は未読なのでどんな評価なのか不明だが、まあ簡単に評価の俎上に載せられるような作品ではないことだけは明らかだ(そもそも読者をかなり選ぶ作品だと思う)。

ちなみに私は20歳くらいの頃に本書を一度読んでいるが、その時は全くピンと来なかった。自分自身が40歳に近づき、徐々に肉親の死や自らの老いを考えるようになってきて、ようやく本書と向き合えるようになったのだと思う。人に勧める作品かというと分からないが、意識のどこかに長く沈潜していくような作品だ。


0 件のコメント:

コメントを投稿