2019年6月9日日曜日

『中世薩摩の雄 渋谷氏(新薩摩学シリーズ8)』小島 摩文 編

中世の渋谷氏に関する論文集。

渋谷氏とは、通称「渋谷一族」などと呼ばれる5つの氏族によって構成され、鎌倉時代から戦国時代にかけて北薩を中心に活躍した一族である。

島津氏とは五族がそれぞれ対立と融和を繰り返し、またこの頃は島津氏の内部でも争いがあったため非常に複雑な敵味方関係が入り乱れた。その経緯はかなりわかりづらいが、最終的に近世まで生き残ったのは五族のうち入来院氏のみであった。そして入来院氏は、600年間入来の統治を続けたことからその伝来文書群は「入来文書」として武家文書中の白眉とされており、エール大学の朝河貫一が"The Document of Iriki"として発表したことで世界的にも有名になった。

「第1章 史料と史跡からみた渋谷一族」(三木 靖)では渋谷氏の系譜が概略的に描かれる。渋谷氏の祖渋谷基家は武蔵国の東側沿岸地を開発し、本拠地として相模国渋谷庄(神奈川県綾瀬市、藤沢市、海老名市等にまたがる地域)を領有した。その孫となる重国は源頼朝の御家人となり、1247年の宝治合戦で薩摩半島北部を領有していた千葉常胤が討たれた結果、その領地(薩摩川内市を中心とする地域)が重国の子光重に与えられた。

光重は薩摩国の所領を次男以下の五男に分割(東郷、祁答院、鶴田、入来院、高城)。当初は相模にいながらの支配だったが、やがてその子孫達は所領地に移住した。その移動は、一族はもちろん家臣を引き連れてのものであり、一家につき50家500人程度の規模が推測され、最小でも全体で2500人規模の移住が行われたと考えられる。こうして関東からやってきた渋谷一族が、北薩に一大勢力を持つことになったのである。

「第2章 南北朝・室町期における渋谷一族と島津氏」(新名 一仁)では、 渋谷一族の動向が島津氏との関係を軸に語られる(この章の内容については備忘メモとして後述する)。

「第3章 八幡新田宮の入来院・祁答院支配に関する一考察」(日隅 正守)では、新田宮がどのように入来院氏や祁答院氏に宗教的支配を及ぼしていたかをケーススタディ的に述べている。

「第4章 中世城館から見る渋谷氏の動向」(吉本 明弘)では、渋谷一族の主な拠点—鶴ヶ岡城(東郷氏)、虎居城(祁答院氏)、鶴田城(鶴田氏)、清色城(入来院氏)、妹背城(高城氏)—の城館跡が紹介され、その特徴を述べた後、歴史的事件や戦乱(を記録した史料)においてそうした城がどのように登場しているかを分析している。

「第5章 薩摩川内市湯田町の中世に関する検討」(上床 真)では、渋谷一族の争乱の舞台となったと推測される湯田町について、考古学的・歴史学的・地理学的に述べるもので、渋谷一族の話は直接にはあまり出てこないが、彼らが活躍した土地について深く知ってみようという内容である。

「第6章 近世・近代に描かれた中世渋谷氏」(岩川 拓夫)では、入来院三兄弟(有重、致重、重尚)の武勲顕彰の意味を持つ神社建立(江戸時代)、大正時代の正五位の追贈、皇紀二千六百年事業での純忠碑の建立といったことが取り上げられる。実際の入来院氏は南朝方、北朝方を転々としていたにも関わらず、南朝の忠臣として顕彰された。本章では、入来院氏が近世・近代にどのように受容され、「利用」されたのかがテーマである。

本書には、これらの論考の他、渋谷氏関連年表、系図、文書(歴史的文書)目録、文献(論文等)目録が付随しており(本書の1/3ほどを占める)、渋谷氏研究の便覧的に利用出来るようになっている。

全体を通して、あまり体系的ではなく研究ノート的な部分があることは否めないが、渋谷氏研究にあたって座右に置くべき本である。


**備忘メモ**(第2章の覚書)

「建武の新政」開始時、渋谷一族は足利方であったようだが、祁答院氏、鶴田氏、追って入来院氏が南朝に与するようになる。こうした事態を憂慮した幕府は守護島津貞久を下向させたが、これに応じて南朝方として激戦を繰り広げたばかりの入来院氏は一転して武家方に復帰。しかし入来院氏は島津氏に帰順したわけではなく、足利尊氏の直属の家臣として島津氏と同列で戦った。一方、後醍醐天皇の命により九州に下向した征西将軍宮懐良(かねよし)親王が薩摩に上陸し、南朝方国人の結束も高まり武家方と南朝方の抗争が展開した。

貞和5年(1349年)「観応の擾乱」が起こると、全国は足利尊氏・足利直義(尊氏弟)・南朝方の鼎立状態になる。この際、直義の養子の足利直冬(ただふゆ)は九州に逃れ、正統な将軍権力の代行者であるかのように振る舞って九州の国人(在地権力者)を統率。入来院氏はこれに応じて直冬方となり、尊氏方の島津氏とは再び対立。足利直義が南朝に帰順すると入来院氏も自然と南朝に与したが、直冬が没落して九州を去ると、入来院氏は再び武家方(尊氏方)に復帰して島津氏と協力態勢に入った。と思ったのもつかの間、薩摩国で南朝方が優勢となると孤立無援に陥っていた島津氏は南朝方に転じ、入来院氏と対立。かと思えば、入来院氏も南朝方に寝返った。さらに延文5年(1360年)には島津氏と入来院氏は再度武家方に復帰。ところが正平23〜25年(1368〜70年)に北薩・大隅・日向にまたがる地域で大規模な国人の騒乱「第一次南九州国人一揆」が起こると、渋谷一族はこれに参加し島津氏の攻略に参加。対立と和平がめまぐるしく繰り返され、誰が誰の敵なのかもよくわからない状況だった。

応安4年(1371年)、幕府が今川了俊を九州探題に抜擢して九州へ派遣すると、これが次なる台風の目になる。今川了俊はまたたく間に征西将軍府勢力を圧倒し太宰府を陥落して宮方勢力を駆逐。了俊は九州の有力守護、少弐冬資、大友親世、島津氏久を召集したが、あろうことか了俊は冬資を謀殺。これに反発した島津氏は宮方に帰順して今川了俊と対立した。

そこで了俊は幕府に要求して、薩摩・大隅国の守護を島津氏から了俊への改替を獲得。さらに子息今川満範を島津氏追討の対象として九州に派遣した。そして今川満範の主導のもと、「第一次南九州国人一揆」の構成員を中心に肥薩隅国境付近の反島津の国人領主が結集し、「第二次南九州国人一揆」が結成された。「第一次」は宮方が旗印になったが、「第二次」では反島津の立場が一致した幕府(武家方)のもとに騒乱が起こったのである。入来院氏は当初はこの一揆には参加していなかったがやがて参戦、だが渋谷一族全体としては島津方に与するものもいた。

ところが島津氏への総攻撃の直前、島津氏は今川了俊に帰順し所領安堵を得た。これに納得がいかないのが一揆を構成した国人たち。再び一揆契状を作成して反乱軍がまとまり、渋谷一族からは祁答院氏と東郷氏が参加。これを受けて今川了俊は再び島津氏追討を一揆側に命じる。こうして都城合戦、簑原合戦が起こり、双方に多くの死傷者が出たが結局島津氏の勝利に終わった。こうして一揆は崩壊したが、最後まで今川方に留まった入来院氏は独自の立場を強めていった。一方今川了俊は反島津の抵抗を続けたものの島津氏の支配領域は揺るがず、応永2年(1395年)京都へ召還された。

室町期に入ると、島津氏は今川方として行動してきた渋谷一族の掃討に着手する。これにより入来院氏の本拠清色城は落城。しかし同時に薩摩国山北では反島津の国人勢力が再び結集しようとしていた。相良氏、牛屎氏などが反島津の立場を鮮明にしていく。またこの時期、奥州家と総州家に別れた島津両家の確執が表面化。この対立において、鶴田氏を除く渋谷一族、相良氏、牛屎氏、和泉氏、菱刈氏が総州家方についた。こうした勢力を味方につけた総州家は鶴田において一度は奥州家に勝利。この戦いにおいて鶴田氏は本拠地を追われ、以後渋谷一族は鶴田氏を除く四氏となる。

一方入来院氏は、総州家から奥州家に寝返り、両島津家の対立を利用して本領に復帰、逆に両家の境界領域にある立地を活かしてキャスティングボートを握るようになっていく。入来院氏や伊作氏を味方につけた奥州家は総州家を圧倒するようになり、応永16年(1409年)、奥州家島津元久は薩隅日三か国の守護職を統一した。

ところが、またしても渋谷一族四氏は総州家に寝返り、奥州家に反旗を翻した。このため元久は出陣するが陣没。そこで家督相続争いが起こって奥州家は混乱。これによって総州家が勢力を挽回し、再び薩摩国の大部分が総州家方となり、奥州家との抗争の時代に入る。この抗争の鍵を握ったのは伊集院頼久であったが、激戦の末に谷山で伊集院氏は討たれ、この抗争は奥州家島津久豊の勝利に終わる。

この勝利を受けてか、渋谷一族四氏は一転して奥州家側につき、総州家への総攻撃に転じる。こうして総州家は急激に衰え、奥州家島津久豊は政権を確立したのであった。このことを示すのが「福昌寺仏殿造営奉加帳」(応永30年前後)であり、島津一族や国衆89名が名を連ね、薩摩国山北全域が久豊政権を承認していたことが窺える。

応永32年(1425年)に久豊が没し嫡子貴久(のち忠国)が家督を継承すると再び戦乱の時代となる。貴久が日向国山東の奪回に失敗した間隙を縫って、薩摩国全域で反島津氏国人が蜂起して長期にわたる未曾有の内乱が勃発したのである。いわゆる「国一揆」である。

内乱の中心となったのは、薩摩半島においては伊集院煕久、北薩においては渋谷一族をはじめとする山北国人であった。島津貴久は内乱を収めることができなかっただけでなく島津家内部の対立でも弱い立場となり弟好久(のち持久・用久)に指揮権を委譲。好久は「国一揆」の鎮圧に成功し、一時は家督相続一歩手前となったが、貴久は幕府から命じられた足利義昭追討の功によって立場を強め一転して有利に事を進め、文安5年(1448年)忠国・持久兄弟は和睦。これによって「国一揆」の戦乱は完全に終熄した。

この長期にわたる戦乱は、島津氏にとって大きな画期となった。例えば(1)南薩最大の勢力を誇った伊集院総領家の滅亡、(2)島津持久を祖とする島津薩州家の誕生(和泉庄、山門院(やまといん)、莫祢院(あくねいん)を中心とする政権)、(3)山北国人に対する支配の強化、といったことが挙げられる。

(3)については、渋谷一族にも「算田」が施されている。これは、所領に対して銭を賦課する、つまり課税措置のための検地である。「国一揆」で敵対した山北国人全てに対して算田が実施されたと見られる。忠国の「国一揆」の戦後処置は苛烈を極め、伊集院氏だけでなく、牛屎氏、和泉氏、野辺氏、平山氏といった平安・鎌倉以来の有力国人の没落を見た。

しかし忠国が没して嫡子立久が後を継ぐと、敵対関係にあった有力国人との和解政策が進められる。例えば入来院氏は知行宛行と引き換えに島津氏を認め、また島津氏は伊東氏とも婚姻を結んで和睦を成立させた。 こうして島津立久は室町期においてもっとも安定した政権を築いた。

立久が没して嫡男忠昌が継ぐと、今度は島津氏の同族争い(奥州家(守護家)vs薩州家vs豊州家)が有力国人を巻き込み、再び戦乱が起こる。 祁答院氏、北原氏、入来院氏、東郷氏、吉田氏、菱刈氏は結託して守護家に反旗を翻して争乱は三か国全土に及んだ。ここで台風の目になったのが豊州家で、豊州家は山北国人らから反守護家の旗印とみなされ、やむを得ず守護家との戦闘に突入。さらにこれに薩州家が加わり事態は複雑化。ちなみに渋谷一族では、祁答院氏が守護方に、入来院氏と東郷氏が豊州方についており一族が分裂して争った。

この争乱は島津家同士の和睦により収まったが、結果的に反乱の首謀者となった豊州家(島津忠廉)は排除され、 薩州家の影響力が強まる一方、島津本宗家(守護家)の求心力が低下して島津氏領国は本格的な戦国争乱に突入していくのである。

しかしそれにしても、鎌倉から戦国時代初めに至るまで、渋谷氏の節操のなさというか、敵味方をめまぐるしく転々とした行動には呆れざるを得ない。それはよく言えば争乱のキャスティングボートを握ったとも言えるし、悪く言えば日和見主義的であった。南北朝の動乱期においては、渋谷氏のみならず多くの在地領主が「昨日の敵は今日の友」式の合従連衡を繰り返したのであるが、渋谷氏のように節操なく敵味方を渡り歩いたのは数少ないだろう。

そして、渋谷氏のように簡単に寝返ってしまう人は、一度味方に引き入れたとしても簡単には信用してもらえないと思うし、むしろ味方にするには危険な存在であったように思うのだが、実際には渋谷一族は時に国人衆たちと、時に島津氏と協力関係になり、決して孤立してはいなかった。それが私にとっては疑問なのだ。簡単に味方を裏切ってしまうのに、なぜ渋谷氏はそれなりに重んじられていたのだろうか。不思議である。


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