2019年6月26日水曜日

『紀州—木の国・根の国物語』中上健次 著

中上健次による、紀州の旅。

本書は、昭和57年の春から年末にかけて断続的に行った紀州の旅のルポルタージュである。言うまでもなく、中上健次は紀州(新宮)の被差別部落に生まれた小説家で、差別はその小説の大きな主題となっているが、ここでも旅のテーマは差別・被差別である。

中上の小説に出てくる被差別者は、決して虐げられてだけいる弱い人間ではない。むしろ彼の小説では、被差別者があたかも別の世界から来た強者であるかのように、異能力者であるかのように、いやむしろ一種のステータスであるかのように感じさせる部分がある。

例えば、一人の女が途方に暮れて、岬の崖に、父のいない乳飲み子を抱えて立っている。

このまま、いっそ死んでしまおうか、と崖の下の水しぶきを見つめる。だがしばらく身じろぎもしなかった後で、やはり死ぬのを辞めることにする。その瞬間、女は強くなるのである。居直らざるを得なくて居直った強さ、なりふり構わず生き抜かなければならない強さを身につける。

そして、その父のいない子は宿命を負う。自分たちを見捨てた社会を、父親を見返すという宿命である。宿命を負った人間は、強い。

しかしそれは、小説の中だけの話じゃないか、という部分もある。中上は被差別者からその強さを抽出して小説化したけれども、事実そのものを書いたわけではない。

だからこそだからと思うのだが、このルポルタージュでは、中上は「事実・事物」にこだわっている。司馬遼太郎の『街道をゆく』のように文人趣味の旅をするのではない。今ここに生きる人の事実・事物を知りたい。差別・被差別の本当のところを知りたい。そういう切実な旅である。

そういう思いが強すぎて、古座について書いたルポは掲載雑誌を見た古座の人から反論される。古座には、中上が書いたような差別はない、というのだ。

中上はもう一度、古座に取材に行く。関係者は怒っているわけではなかった。ただ事実誤認を正したいという。確かに中上の誤解があった。いろいろ聞いて結論づける。「差別はない」。でもやはり「差別はある」。そのどちらもが事実だ。

差別は解消されつつある、差別を解消する取組は続けられている。それはそうだ。でも被差別部落は、いつまでも貧しいままで、いつまでも生産の場から阻害されている。

被差別者を阻害する決まりがあるわけではない。あったとしてもそれは撤廃された。——だから差別はない。でも差別の構造は、何一つ変わっていない。「差別はない」のに!

本書は、読んで面白いものではない。中上は、行く先々で少し煙たがられる。出来ればそっとしておいてもらいたい差別・被差別の問題を、ほじくり返そうとするからだ。まるで、「差別はある」という言質を取ろうとするかのように。

だがこれは、出色のルポルタージュだ。そうまでしなくては、差別があること自体が語られなかったという証左なのだ。差別は常に隠され、ないことにされている。被差別者本人たちですら、差別があることが見えなくなってしまう。

例えば、(本書にそういう事例が挙げられているわけではないが)女性がいつまでも政治や企業経営など社会の表舞台にあまり出てきていない、ということについても同じことが言える。女性も男性と同様に被選挙権を持つ。女性が幹部社員になれない決まりはない。だから女性差別はない。男女平等なのだ。——本当だろうか?

女性たちですら、こうしたことがはっきりとした女性差別に依るものだとは思わないかもしれない。だがやはりその底流には、女性を差別する構造がある。その構造をはっきりと明示は出来なくても、女性を阻害する見えない何かが厳然として存在している。

本書において中上が紀州を巡り、見つめようとしたのはそういう何かである。その試みは、成功したとはいえないかもしれない。端正にまとめられた紀行文とはお世辞にも言えない。学術的に分析しようというのでもないから、差別の構造を解明したわけでもない。それに、差別の内実を暴く本なら、もっと赤裸々なものがわんさかある。

でも本書の価値は、はっきりとしない差別・被差別の事実を、ほとんど行き当たりばったりに、のたうち回って探ろうとしたことそのものにあると思う。

言葉にできないもの、されないものを、なんとか取り出そうと足掻いた旅の記録。

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