2024年8月23日金曜日

『江戸のはやり神』宮田 登

近世に流行した神について述べる本。

近世にはたくさんの流行(はやり)神が登場した。何かのきっかけで熱狂的な信仰を集め、しばらくするとそれが廃れてしまう。流行という、ありふれた現象のようであるが、神仏にそれが起こったということに近世の特色がある。それは「朝観音夕薬師、鰯の頭も信心から」という、中世とは異なった神仏の受け止め方が反映しているのである。

本書は、この流行神について近世の随筆等を膨大に渉猟して事例を探したものだ。それは「これもあるあれもある」式で、一つ一つはあまり深く考究されない。解説で小松和彦が「はっきりいって、宮田さんの本は、この本に限らず、スキだらけである(p.298)」と述べる通り、脈絡がないほどの事例の列挙がなされ、そこから何が言えるのか、わかったようでわからない。小松和彦の「問題解決のための文章ではなく、問題発見の文章なのである(p.291)」の言葉がぴったり当てはまる。

つまり、本書は「江戸のはやり神」の研究ノート的な本であり、大上段の結論はない。ところが、この本はなかなか鋭い指摘が随所で見られる本で、はっとさせられる部分が多い。

日本ではどこへ行っても八幡神や伊勢神が祀られ、稲荷社や恵比須社、お諏訪さんや祇園社がある。祀られている神仏にはかなりの共通性があるのだ。このうち、八幡、伊勢、諏訪、祇園は中世までに広まったものとみられるが、稲荷や恵比須は近世に広まった。私が本書を読む興味の一つは、こうした信仰がどのようにして広まり定着したのか、という点にあった。

流行神の発生は、おおむね次のような経過をたどる。(1)神仏が現れる。夢中の託宣、神仏が空中から飛来、海や川に流れつく、地中から掘り出されるなど。(2)病気が治るなど、何らかの奇蹟や奇瑞が起こる。ここに民間宗教者(特に山伏)の関与があることが多い。(3)祠堂等に祀られ、地域社会でその神仏が熱狂的に支持を集めて参詣が引きも切らなくなる。遠方の場合は講が組織される。(4)いつの間にかその熱狂は過ぎ去り、祠堂も忘れられる。ところが何かのきっかけで再び流行することもある。また流行から定着する場合もある。

本書ではまず、古峯信仰(栃木県の日光連峰にあり、火難除け)、愛宕信仰、恵比須信仰が取り上げられているが、このうち愛宕信仰については、特に若狭地方について分析している。若狭地方では、天文13年(1544)に愛宕を信仰していた人の娘に神が乗り移って託宣するなど、幾人かに夢告や託宣があった。そして地域の小高い丘や山に愛宕の祠が祀られ、またしばしばその丘が愛宕山と呼ばれた。そうした祭祀を主導したのは愛宕修験の山伏であった。彼らは愛宕講を組織し、またお盆の送り火と習合した愛宕の火祭りを唱導することを職能としていた。「修験の強力な宣伝を背景として流行神が伝播する事例は多(p.78)」い。

一方、修験とはあまり関係なく流行したのが福の神系で、本書では文化文政年間に流行した七福神詣でが取り上げられている。七福神の宝船は、「福徳が海のかなたからやってくる」という観念を表している。この点ですでに山とのつながりが深い修験とは色彩が異なる。大黒が民衆に親しまれたのは、大国主命の出雲信仰との習合と混同にあったという。また大黒舞が踊られた他、子(ね)の方角を司る神だとされ、干支の思想から甲子の日に祀ることになった。様々な情報が付加されてありがたさが強調され、また祀り方が出来上がったことにより広まったのであろう。エビスの場合は西宮戎社が全国的にその信仰を広めた。エビスは本来荒ぶる神であったが、西宮の戎舞の神人たちが福徳をもたらす神として広めた。エビスは主に商家において家毎に信仰された。

なお、吉田神道では人を神に祀ることが理論的に認められていたらしく、吉田神道の関与の下で貴顕の家(藩主など)の人が祀られるようになったケースもある。ただしそうした政治的権威での新しい神は爆発的に人気を集めることはないようだ。

疱瘡神の場合は流行の意味が明白だ。疱瘡(天然痘)が流行した時に祀られ、疱瘡がなければ祀る必要はないからだ。疱瘡神は、恐ろしい疫病をもたらす神であるはずなのにそれ自体は祟りを起こすような恐ろしいものとは表象されず、むしろ疱瘡神の来訪をめでたいとして丁寧にもてなして帰ってもらうというパターンが多いのは面白い。また病人が高熱にうなされていろいろと口走ったことが神がかり的とみなされて疱瘡神の託宣と解釈したのではないかという。

疱瘡神そのものではないが、疱瘡除けの神として芋大明神があったと『耳袋』は記す。神奈川宿の本牧(横浜市中区)にあって芋大明神の池の水が疱瘡に効いたのだという。なお、山梨県西山梨郡では種痘後に疱瘡神を祀る習俗があったというのが興味を引いた。種痘と信仰は両立していたのだ。

このように、近世の民衆は様々な神仏を次々に拝んでいた。それは「神仏信仰の軽薄ぶりを示すものだが、一方では、庶民たちが絶えず救済を諸々の仏や神に求めていた証拠でもある。ということは、絶対帰依を受け入れられるような救済者の出現がなかったことを意味している(p.150)」。すなわち、様々な神仏が繁盛した背後には「救済観のむなしさ」があるのだ。この指摘は本書の中で一番ハッとさせられた。絶対的救済者としての阿弥陀仏を信仰する浄土真宗では種々の迷信を否定していることが思い起こされる。

つまり、人々は手当たり次第にすがれるものを探していた。例えば、眼病、歯痛、出産、虫よけといったものにそれぞれ専門の神仏が割り当てられ、どこそこの地蔵は何に効く、というように神仏の機能分化が甚だしかった。ような状態で、ひとたび奇蹟や奇瑞、祟りといったものであらたかな霊験が示されると、わっと人々がそこに殺到することになったのである。

実際、「近世初期から中期にかけて、幕藩体制がもっとも安定した時期とみられる寛文~元禄には、流行神、流行踊りの現象はほとんど見られていない(p.187)」。だからといって、流行神の現象を社会不安と直結させるわけにはいかないが(例えば、都市化の進展のような別の要素も考える必要がある)、社会不安が流行神を助長するということはいえる。そして社会全般の先行きが見えなくなると、眼病や歯痛のようなものではなく、人々はもっと大きな救済を必要とするに違いない。そしてそこには、潜在的な世直し・世直りの意識、終末観があった。だが幕末、人々が熱狂したエエジャナイカには具体的な救済者やユートピア実現の構想を欠いていたため、その運動はその場の熱狂だけで終わるよう運命づけられていた。

こうした流行神の系譜とは別に、近世では木食聖への信仰もあった。穀断ちをするなどの苦行を行い、各地を遍歴した聖である。彼らが厳しい修行を行い、また時に入定(自殺)すら行うことに人々は強い関心を示し、生仏として帰依した。しかし木食聖たちは現世の生活を精一杯送ることへのエールとはなったかもしれないが、やはり救済の世界観を持ち合わせておらず、その信仰は稔りあるものにはならなかった。

天理教や大本教といった例外はあるが、総じていえば江戸の流行神は人々の身近な願いが託されたものが多く、スケールの大きな信仰へ発展していったものは少ない。その背景として、流行神の多くが真に民衆の自然発生的な行為によって発生したのではなく、修験者を中心とした(あえて言えば小粒の)宗教家たちによって「プロデュース」されていたことが想起される。修験者たちは、民衆を煽動することによって儲けていた。今風にいえば「バズり」を期待していたのである。知識人たちが流行神を冷ややかに見ていたのは、それらが非科学的だからというだけでなく、それがビジネスに過ぎないと思っていたからなのかもしれない。

そして天理教や大本教といったものは、明らかにそうしたものとは異なった出自を持っている。それは個人の苦悩と救済へのやむにやまれぬ情熱に基づいており、少なくともその当初は全くビジネス的ではなかった。

そう考えると、近世に流行神が次々に出現し、例えば稲荷や恵比須が全国で祀られるに至ったのは、ビジネスの成功によるものといえるかもしれない。それは、全国どこへ行ってもファミリーマートとかセブンイレブンといったコンビニがあることと、たいして違わないことなのかもしれないのだ。

なお、本書には詳細な流行神関係年表が付属しており、これが非常に興味深く参考になる。

流行神から近世の神仏の特質を描き出す好著。

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※上記のメモはちくま学芸文庫版によるが、法蔵館文庫で復刊している。

2024年8月18日日曜日

『バテレンの世紀』渡辺 京二 著

異国船来訪の一世紀を描く本。

明治維新前後には、大勢の西洋人が日本を訪れた。そして彼らは日本がまるでおとぎの国のようであることに驚いた。本書の著者渡辺京二はそれを『逝きし世の面影』に描き、外国人の視点から近世末の社会を投射した。

しかしそれは日本人と西洋人のファーストコンタクトではなかった。ファーストコンタクトというべき出会いは、戦国時代末にあった。本書は、このファーストコンタクトがどのような経過をたどったか、約一世紀間の出来事を詳しく述べるものである。

幕末における西洋人と日本人の出会いでもたらされたのは、大雑把にいえば「科学」であったが、戦国末での出会いにおいて、それは「キリスト教」であった。よって著者はこの一世紀を、バテレン(=宣教師、神父のこと。ポルトガル語に由来)の世紀と呼ぶ。

日本にまずやってきたのは、ポルトガル人たちであった。彼らはヨーロッパではいち早く「大航海時代」に突入したプレイヤーであり、その目的は当然に金儲けであった。彼らはアフリカで金(きん)や奴隷を獲得するため武力を使っていた。そしてそこには、キリスト教世界を拡大するという目的も存在していた。ローマ教皇は、ポルトガルが征服する土地の支配権を、異教徒を改宗させる権利も含めて承認した。ヨーロッパ人は、現地人は奴隷にしてでもキリスト教徒となる方が幸せなのだと考えていた。

ポルトガル人は、伝説的な東方のキリスト教の聖王「プレスター・ジョン」に出会うことをも期待して、徐々に交易の手を広げた。そしてインド洋を事実上支配するに至る。そこには、東洋の二大国である中国とインドが、ともに海上交易に無関心であったという事情があった。ポルトガルのアルブルケは1510年にインドのゴアを占拠してポルトガル領にし、さらにここを拠点にして翌年インドネシアのマラッカ(現在のシンガポールの近く)を陥落させた。南洋貿易の交通の要衝である。

もっとも、インド洋やインドネシアには、イスラム商人たちのネットワークが存在していた。それに対抗するため、ポルトガルは「カルタス制度」というものを使った。カルタスとは通行許可証であり、これを持っていない船は一方的に没収の対象としたのである。これはあまりに一方的かつ暴力的であったのでうまくいかなかったが、後に通行税を徴収する制度に改められ、ポルトガルはインド洋貿易から多くの利益を上げた。

ところで、15世紀には琉球王国が海外交易で栄えていた。琉球国をハブにして中国(明)や東南アジアとの交易が盛んに行われた。これが16世紀に入ると急速に終わりをつげ、その空隙に入り込んだのが倭寇とポルトガル人なのである。「ポルトガルを日本へ導いたのは倭寇集団(p.60)」だという。ポルトガルは、当初は明と正式な国交をひらくつもりであったが明に対等な国交という概念はなく、門前払いを食らい、明の水軍に放逐されてしまった。

1540年頃、ポルトガル人は寧波に近い舟山群島の一角、雙嶼(リャンポー)に定着した。ここは密貿易の基地で、ここへポルトガル人を案内したのは海賊の首領許棟だったという。この雙嶼のポルトガル人が中国船ジャンクに乗って日本へやってくるのである(なんと同じ船に倭寇の巨頭王直が乗っていた)。その年は記録によって違うが、1542年か43年である。ポルトガル人にとって日本は極めて有望な市場であった。なぜなら、この時代の日本はアジア最大の銀産出国で、中国の絹を持っていけば大儲けできたからだ。こうしてポルトガル人は「連年薩摩・大隅あるいは豊後の諸港を訪れるようになった(p.67)」。

中国にとっては海賊(倭寇)は好ましくなかったので、ポルトガル人がそれに代わることを期待してか、中国はポルトガル人のマカオ定住や交易を黙認した。胡椒貿易が頽勢へ向かう中、ポルトガルにとって日本はアジア経営のカンフル剤になる存在となった。

一方、1542年にはイエズス会のフランシスコ・ザビエルがゴアに到着した。イエズス会はその2年前にローマ教皇庁により認可されたばかりだった。イエズス会は、静かに瞑想にふける修道士の在り方とは全く違い、伝道活動にすべてをささげる軍隊的な布教組織であった。だが形ばかりの信者が増えても布教活動ははかばかしくなかった。そんな中、ザビエルはアンジロウという30代の薩摩士族の若者と出会い、その知識欲と怜悧さに魅せられ、「こんな若者がいる国なら」と日本布教を志した。

ザビエルの滞日は2年3か月で、うち約1年間は鹿児島にいた。島津貴久は最初こそ布教の許可を与えたが、ザビエルが異教排撃をするのを歓迎するはずがない。ザビエルは司祭トルレスらと京を目指し、その往還の道すがら平戸の松浦(まつら)隆信や山口の大内義隆と親交を結んだ。その頃の京は無政府状態だったのでなんら成果はなかったが、山口では盲目の琵琶法師ロレンソを得た。彼はフロイスによれば「日本で有したもっとも重要な説教師の一人(p.84)」である。またザビエルは豊後の大友義鎮(よししげ)と会い、ポルトガル国王との修好を望んでいることを知った。ザビエルは日本人に好感を持ち高く評価したが、トルレスに後事を託して日本を去った。

さらに1555年、ルイス・デ・アルメイダが日本での布教に参画した。彼は元商人で、イエズス会に2000クルザードの大金を寄附し、これが生糸貿易に投資されてイエズス会の日本での活動資金となった。このために日本のイエズス会は(他国でのあり方とは違い)貿易に深入りした。

イエズス会の当初の足掛かりは山口であったが、大内義長が毛利元就に敗北。次なる拠点は大友宗麟のいる豊後となった。さらにポルトガルの貿易の拠点だった平戸(長崎の西にある島)に血気逸るパードレのヴィレラが赴任。しかし彼は神社仏閣の仏像を破壊するなどしたため、領主大内隆信は教会を閉鎖させヴィレラを追放した。

この結果、イエズス会は新たな拠点を求めた。そして大村湾の横瀬浦(大村湾の入り口)を大村純忠から寄進され、その住民を全員キリシタンとした。1563年、純忠自身も受洗した。イエズス会の基本方針は、領主を改宗させその領民をまるごと改宗させるというものだった。これにより、イエズス会の日本の本拠地は横瀬浦となり、寂しい田舎港だった横瀬浦がポルトガルの対日貿易の重要拠点になるかに見えた。が、純忠が廃仏的行動をとり、養父純前の位牌を焼き捨てるなどしたことで家臣からの反発を買って失脚。横瀬浦はわずか1年で滅びた。一方、平戸ではポルトガル船の入港を希望していた。本来、ポルトガルの対日貿易とイエズス会の活動は別であるが、ポルトガル人にとっても教会は不可欠な施設であるため、事実上、イエズス会の拠点がポルトガルとの交易には必要だった。隆信はしぶしぶ教会の建立や司祭の駐在を認めた。イエズス会はポルトガルとの交易を左右する立場になっていたのである。

平戸を追放されたヴィレラはロレンソを伴って畿内布教に赴いた(説教を行ったのはロレンソ)。当時の京は法華宗が力を持っており、都市部での布教はうまくいかなかったが、奈良の結城山城守忠正、清原枝賢(しげかた)、高山飛騨守図書(高山右近の父)らが入信した。彼らは貿易の利ではなく、創造主の観念などキリスト教の教義に惹かれたらしい。これがきっかけになって堰を切ったように畿内国人層が改宗し、キリシタン武将が登場した。著者はその理由を「畿内の小領主層は切に戦国状況を生き抜く信仰を求めていたものと思われる(p.114)」としている。「彼らはこの新来の神の呪力を信じた(p.117)」。ただし朝廷では宣教師追放(デウスはらい)が決められ、追放されたルイス・フロイスは堺に潜伏することになる。

九州では大村純忠が復権し、大村に福田港を設けて再びイエズス会を後援するようになった。さらに純忠に臣従する長崎純影もキリシタンとなり、長崎が開港された。トルレスは口之津(島原半島の南)にいて、口之津の住民1200人を全てキリシタンにしていた。トルレスや宣教師は九州各地の領主から招聘されている。それは、キリスト教に惹かれたというより、貿易を求めてのことだったが、天草の天草鎮尚(しげひさ)は心の底からキリスト教に傾倒していたらしい。天草は最も安定したキリシタン領国となった。

1570年にはフランシスコ・カブラルがトルレスの後任の日本布教長として赴任。その1年後、トルレスは死去した。トルレスは多くの人々を感化し、敬愛された。「この人こそ日本開教の祖というべき存在(p.130)」である。ちなみにカブラルはトルレスとは逆に日本人を蔑視した。

なお、大村純忠はキリシタンでありながら仏教徒として出家もしており、神仏とキリスト教の両方を信仰するのに矛盾を感じていなかった。これを憂慮したのがガスパル・コエリュである。彼は純忠へ領内の一切の偶像崇拝を禁止し、異教徒をなくするように勧告しした。イエズス会と一蓮托生になっていた純忠はやむなくこれを受け入れ、神奈仏閣に対する徹底的な迫害を実施した。純忠の家臣もすべて改宗を強制され、大村領は日本最初のキリシタン王国となった。ただ、このような神社の破壊行為はコエリュの独断ではなくイエズス会の根本方針であった。

1568年、信長が入京すると、堺に潜伏していたフロイスは一転して信長の厚遇を受けることになった。信長は自身はキリシタンではなかったが、宣教師に京都居住の朱印状を与えた。仏僧たちへ対抗させようという意図と、宣教師たちを国際社会の窓口として見ていたことが主な理由であったと考えられる。

1578年、大友宗麟がついに受洗する。彼は次男を先に受洗させており、キリシタンに敵意がある夫人を離縁し、さらに神社仏閣の破壊も行っていた。彼は貿易の利のためというより、心からキリスト教に惹かれていたらしい。さらに島原半島の有馬領では、有馬義貞が入信し、領民も競って受洗した。その子有馬晴信は一時キリシタンと距離を置いたが、次第に接近した。その頃巡察師のアレッサンドロ・ヴァリニャーノが口之津に到着。ちょうど有馬領内で反乱が起こり、イエズス会は有馬晴信とともに籠城し物資を支援した。その籠城中に晴信は受洗している。

同時期、大村純忠はヴァリニャーノを通じて長崎をイエズス会に寄進している。その頃、龍造寺隆信の圧迫を受け臣従せざるを得なかった純忠は、龍造寺に奪われるよりはイエズス会に知行してもらった方がよいと考えたのである。ただし、後の史料によれば彼はバテレンに多額の借財を負っており、その返済のために長崎を譲ったとされる。なお、龍造寺隆信は貿易を夢見てイエズス会の領有を許した。

なお、ヴァリニャーノはイギリス生まれで哲学・物理も学んだ当代第一級のエリートで、日本のイエズス会の刷新を図った。例えば、彼は宣教師が日本語を学ばなければならないと考えた。だがもともと日本人を蔑視していたカブラルはこれに反発した。一方、これを歓迎したのが「ウルガン・バテレン」の名で親しまれたオレガンティーノである。彼は徹底した日本人びいきで、なんと安土城の一角に土地を与えられ、また安土城下に修道院を建てていた。オレガンティーノを中心として畿内では九州とは違った教勢となっていた。

1582年、ヴァリニャーノは日本巡察の任務を終えて離日。この時、九州のキリシタン大名の名代として4人の少年を伴っていた。天正少年使節である。だが、大名の名代というのはヴァリニャーノの作為であり、本当は下級の身分の少年だったようだ。この頃、日本のイエズス会は(生糸貿易の上りはあったが)資金が乏しく、少年使節の形で成果を見せることで本国からの支援を引き出そうとの目論みがあった。4人はヴァティカンで教皇グレゴリオ13世に謁見。これは最高の礼遇であった。これが契機となり、ローマでは人々が少年使節に熱狂。ヨーロッパ各国からも招待された。なお『天正遣欧使節記』は、少年たちの備忘日記を編纂したという形をとっているが、実際にはヴァリニャーノが書いたものであり、少年たちがヨーロッパをどう見たかは不明である。ただ、4人のうち3人は帰国後も信仰を守り抜いた。

信長が本能寺の変で斃れると、安土の修道院も破壊された。また畿内のキリシタン武将の所領は高山右近の高槻だけとなっていた。なお高槻では寺院の破却や領民の強制的な改宗はなく、穏和な形でキリシタン化が行われていた。右近のとりなしでオレガンティーノが秀吉を訪問すると、意外にも秀吉は彼らを歓待した。また、秀吉のスタッフには小西行長などキリシタンが元々含まれていたが、1585年頃、右近の働きで秀吉麾下の武将が続々と入信。蒲生氏郷や黒田官兵衛らである。

1586年、コエリュはオレガンティーノやフロイスを伴って秀吉に謁見。秀吉は最大限の歓待をし、雰囲気は和気藹々としたものだったが、通訳を務めたフロイスの言葉が禍根を残した。彼は秀吉の朝鮮出兵に話が及んだ時に、イエズス会の助力を依頼するがよい、(コエリョは九州の)「ほぼ全域を指揮下に置いているし、大型帆船をポルトガル人の操縦のもとに提供することができる(p.202)」と述べたのである。この発言のため、秀吉は「イエズス会が九州の諸大名に対し、相当の支配力をもっているらしい(同)」と警戒感を抱いたのである。

九州では島津氏が九州を制圧する勢いになっていたが秀吉はこれを下し、豊後を大友義統に安堵、宗麟には日向を与えた(が宗麟は辞退した)。直後に大友宗麟は死去。またほどなくして大村純忠も死んだ。秀吉はキリシタンに好意的であったから、秀吉麾下の武将たちもキリスト教に関心を示していた。だが九州制圧の凱旋で箱崎に滞在していた時、突如として秀吉の態度は変わった。秀吉は高山右近に使者を送って棄教を迫り、右近がそれを拒否すると、秀吉は即座に右近から領地を剥奪して追放したのである。なぜ秀吉が変心したのかは全くの謎であるが、絶対君主であるはずの秀吉の命を右近が拒んだことは秀吉を大いに刺激したと考えられる。キリスト教は秀吉の全国支配とは相いれないものだったのだ。

秀吉はさらにコエリュに3か条の詰問状を突き付けた。その内容は(1)地方巡業で説教するのをやめろ、(2)牛馬を殺して食べるな、(3)日本人を奴隷にして海外に売るのはやめろ、の3つである。さらに秀吉は寺院の破壊を咎め、司祭らは全員20日以内に日本を退去すべしという通告を与えた。これが伴天連追放令である。1587年であった。

有馬領や天草では、追放令が出ても多くは様子見で、鳴りを潜めるだけだった。だが畿内・豊後では影響は深刻で、動揺が広がった。コエリュはこれに軍事的に対抗すべく、武器を集めるなど準備をしていたが、折あしく(折よく?)死亡。

そんな中、ヴァリニャーノが再来日する。彼はコエリュの計画をもみ消し、布教のためではなく「インド副王の使節」として、秀吉に平和裏に謁見した。なお、この時に同席していたのが、ロドリゲス・ツズことジョアン・ロドリゲスである。彼は日本で成人しており、ポルトガル語より日本語が得意で、後に日本語文典の研究を行い『日本大文典』『日本小文典』『日本教会史』などをまとめた。

ちなみにバテレン追放令の後、天草では出版事業が開始されており、『平家物語』や『伊曾保物語』がローマ字表記で出版されている。これは天草学林(コレジョ)で日本語を教えていた修道士不干斎ハビアンが問答体で再話したものだ。このような事業が追放令後に行われていることは注目される。社会の方でも、キリシタンへの逆風はなく、むしろポルトガル風ないしキリシタン風ファッションが流行してさえいた。

また、追放令では布教は禁止されていたが、キリスト教自体は禁止されていない。追放令下でも蒲生氏郷は信仰を堅持していたし、イエズス会は鳴りをひそめながらも活動を続け、キリスト教徒は徐々に増加していた。オレガンティーノによれば追放令後に増えた信者が4万人いたという。

ところがここで、スペインの植民地であるフィリピンが、フランシスコ会のペドロ・バウチスタを日本に送る。フランシスコ会は日本布教をイエズス会が独占しているのを快く思わず、秀吉に謁見して居住を認められると、公然とした布教活動を開始したのである。彼らはイエズス会士が修道服を着ずに和服を着ているのに衝撃を受け、殉教覚悟で堂々と活動を行った。

このような状況で、サン・フェリーペ号事件が起こった。スペイン船サン・フェリーぺ号が台風のため土佐に漂着したのである。秀吉は大量の積み荷を没収し、増田長政を派遣して取り調べさせた。その結果「スペインは宣教師を先兵として送りこんで侵略の足掛かり(p.234)」としていたことが分かった、というのである。これを聞き秀吉は激怒。バテレン追放令を再公布した。

イエズス会に同情を抱いていた石田三成のとりなしでイエズス会は対象から外されたが、バウチスタ以下フランシスコ会士や日本人のキリシタン合計26名が長崎で磔刑に処された(ただし名簿作成の手違いから3名のイエズス会士も含まれていた)。有名な「二十六聖人」である。

彼らにしてみればとんだとばっちりであったが、フランシスコ会士は異国の地で殉教することを名誉と考えていたし、それに宣教師が植民地支配の先兵となったというのは、あながち間違った情報ではなかった。一方、イエズス会では退去令を無視できなかったので、形だけ11名の会士をマカオに退去させた。しかし日本には大部分の会士が残っていた。

1598年、秀吉が死去して家康が実権を握ったことは、イエズス会には明るい兆しとなった。家康はロドリゲスと面会し、追放令をすぐに撤回することはできないが、いずれ定住が許可されるだろうと答えている。だが家康は内心ではキリスト教を嫌悪しており、貿易を促進したい気持ちから消極的に認めていたにすぎなかった。

そして17世紀に入ると、日欧交流は新たな段階を迎えた。これまでのポルトガルによる長崎貿易+イエズス会の布教という単純な構図に、スペインとの交渉、フランシスコ会・ドミニコ会の参画、オランダ・イギリスとの貿易という要素が付け加わった。オランダ・イギリスはキリスト教布教には関心はなく、またスペイン・ポルトガル(当時、両国は同じ王権)との対立を日本に持ち込んだ。

さらに日本人自身も、朱印船貿易によって東南アジアへ進出しており、倭寇的な日本人はマニラへ定住していた。当時はルソンが金を産出しており、フィリピンは重要な交易拠点だった。松浦鎮信にはフィリピン征服の野望があったという。江戸時代初期に海外へ出た日本人の延べ人数は10万人を下らず、7000~1万人が南洋に定住したのではないかという。

1606年、家康は日本司教ルイス・セルケイラを引見、さらに翌年にはイエズス会日本準管区長フランシスコ・パシオも引見。家康は貿易に対するイエズス会の影響力を認識し、その活動を容認したのである。

イエズス会は相も変わらず財政上の問題を抱えていたし、スペイン系修道会(フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスティノ会)との抗争も本格化した。それまでローマ教皇から認められていた日本布教の独占権が1611年に解除されてしまったからである。さらにオランダは露骨にポルトガル船を略奪するようになり、スペインはスペインで(ポルトガルと共同の王権ではあったが)日本とメキシコとの貿易を目論んで策動した。この頃、日本としては貿易の利を求めただけなのだが、国際貿易をめぐる複雑な構図の中、追放令によるグレーゾーン的な状態もあり、いろいろなゴタゴタが起こった。結果的に、日本とスペインとの関係は実質的に断絶。布教抜きで商売だけしてくれるイギリス・オランダの方が日本にとって都合がよかった。

ここで、岡本大八事件が起こった。大八は家康の寵臣本田正純の家臣で、有馬晴信に口利きをして多額の金品を受け取っていたのである。これが明らかになって1612年に彼は火刑に処された。彼はパウロという洗礼名を持つキリシタンであった。一方、包囲された晴信には切腹の上意が伝えられたが、自殺はカトリック教会が厳禁している。そこで晴信は家臣に自分を斬首するように命じたのである。家康は、晴信が自分の命よりも教会の教えに従ったことを重大視し、駿府家臣団の取り調べを行った。そしてキリシタンと判明したもののうち棄教を肯んじなかったもの14名を追放した。家康の膝元で、家康の命より教会に従うものが14名もいたのだ。この年、駿府・江戸・京都など天領における禁教が発令された。追って禁令5か条が出て、大名領でも禁教を行うよう求めた。

だがこの禁令は徹底を期すものではなく、イエズス会は存続を認められていたし、大坂の教会は豊臣秀頼に保護されていた。イエズス会はこの年も前年並みの4500人に受洗しており、禁令があまり影響を与えていないことが見て取れる。

一方、有馬晴信の子直純は岡本大八事件の後に襲封を認められており、幕府に対して忠誠を示すため自ら棄教し、また家臣・領民に棄教を迫った。だが棄教したものは少なく、禁教を徹底することはできなかった。棄教しなかった家臣3名は火刑に処されたが、処刑場は聖なる殉教を見物しようという2万人の群衆に取り囲まれ、彼らは遺体を聖遺物として持ち去った。家康は1613年、改めて全国を対象とする禁教令を発し、宣教師の国外追放を命じた。また金地院崇伝の「伴天連追放文」が将軍秀忠の名のもとに布告された。これは、これまでの禁教令よりもかなり実効的なものであった。高山右近も追放された。だが意外なことに禁教下でも修道会の勢力争いが激しく行われている。

同年(1613年)、元漂流者で幕臣になっていたウィリアム・アダムズ(三浦按針)の仲立ちもあり、イギリスとの国交が開けた(平戸商館)。イギリスは略奪を主とするオランダとは違って真面目に商売をしようとしていたが、家康はもはや貿易を盛んにする意欲を失っており、海外でのいさかいに巻き込まれることの不利を強く感じていた。1616年に家康が死去すると海外との交易を平戸・長崎に制限する法令が出た。

宣教師やキリシタンはマカオに追放されたが、マカオでもゴタゴタが起こっていた。パシオを引き継いだ日本準管区長のカルヴァーリョは日本人を嫌い、日本の風俗になじもうとしなかった。そういう彼が行き場を失った日本人(イエズス会士)の面倒を見なくてはならなかったのだから、彼らを扶養したくなかったのも無理はない。彼は会士の大量解雇・除籍を行った。

日本では、宣教師たちを追放はしたものの、キリシタンに対する嫌悪感などはなかったようで、役人から民衆に至るまでキリシタンに同情的で、あまり厳しい取り締まりはなかった。キリシタンの拠点であった長崎でも、積極的に宣教師を捕縛してはいない。ところが1618年、末次平蔵政直が長崎代官に就任すると宣教師追補が激化した。彼はもともとイエズス会系の信者であったがすでに棄教していた。1619年には京都でも53人の信徒が火刑に処された。明らかにキリシタンへの空気が変わっていた。大村でも1622年、火刑25人、斬首30人の「元和の大殉教」が起こった。

だが例外の地域が二つあった。島原と東北である。島原は、元は有馬領であったが、有馬直純は領内のキリシタン対策に手を焼いて転封を願い出て1616年に板倉重政に与えられていた。重政は領民へ配慮し、宣教師も黙認してキリシタンを野放しにしていた。イエズス会司祭ペトロ・パウロ・ナバロを処刑した時も、できれば処刑はしたくないと寛容な態度を見せている。結果的には彼は火刑に処されたが、その後は弾圧はなかった。しかし将軍家光からキリシタン対策の手ぬるさを叱責されると一転して苛酷な迫害が始まった。次々に宣教師が火刑に処され、また日本人のキリシタンは穴吊りの拷問によって棄教を迫られた。こうしてキリシタンたちは東北や蝦夷地へ逃亡していくのである。

オランダは、公然と海賊行為を行っていたが、台湾にゼーランディアと称する城砦を築き、貿易の拠点として整備した。こうして1625年からオランダの対日輸出は急増し、オランダによる貿易が盛んになった。一方で、イギリスは平戸商館を置いていたものの、中国から生糸を輸入することが思うようにできず、大きな損失を計上して1623年には撤退した。

このような状況で、長崎代官の末次平蔵は台湾の領有を企図して策動し、オランダ船とオランダ人を抑留するという事件を起こした。このために日蘭関係はこじれ、1609年に設立されていた平戸商館も活動を停止したが、1630年に彼が死んで事件は解決し、平戸商館での貿易も正常化した。

1635年、幕府は日本人の海外渡航禁止と海外在住者の帰国を禁止した。このため朱印船貿易が停止。その穴を担ったのはポルトガル船による委託貿易であった。しかし幕閣はポルトガル人を嫌うようになっていた。度重なる禁令にもかかわらず執拗に宣教師を送り込んできたからである。宣教師たちは、迫害が厳しいほどやりがいもある、という考えで全く布教を辞めるつもりがなかった。為政者たちは、狂信的な宣教師たちに辟易していた。

そしてついに、寛永14年(1637)10月、「島原半島の松倉領で、突如として旧キリシタンが蜂起し、即座に天草がそれに呼応(p.377)」した乱が起こった。この乱について述べた史料は多いが、意外と当事者の証言は少なく、謎が多い。乱のきっかけは、北有馬村・南有馬村の15名をキリシタンとして役人が捕らえたことであった。その地域の住民はもうキリスト教を棄教していたはずであったが、キリシタンに立ち返ったものが大勢出ていた。彼らは仲間が捕らえられたことに刺激され、「役人、僧侶、神官をことごとく殺せ」と蜂起したのである。

キリシタン立ち返りの起点の一つが、天草(大矢野)四郎の存在だった。彼は「生まれながらの才智」があり、「天人」「天使」として扱われていた。彼はキリシタン5人によって「バテレンの予言」の通り現れたと持ち上げられ、奇跡を起こしたと吹聴された。また、寛永11年(1634)以来、連年の凶作や島原藩の収奪によって農民が追い詰められていたことも乱の背景にあった。

なお、本書ではこの蜂起軍を「一揆」と呼称しているが、この時代の「一揆」とは契約に基づく集団の運動であり、蜂起軍が言葉の素直な意味での「一揆」であったのか、それとも偶発的な暴動だったのか本書には明確に書いていない。かなり早い段階で天草の参加があったことを鑑みると、それなりの計画性があったようには思われる。なお、「一揆」というと、この時代には「起請文」という神仏に誓うタイプの契約書が作成されるのがふつうである。しかしキリシタンが神仏に誓うはずはなく、契約書が作成されたとしてどのようなものだったのか興味深い。

近隣の諸藩は幕府の指示なく隣国に派兵してはいけないという規定のため手出しできず、幕府も地方の小反乱という意識しかなかったため対応が遅れた。その間に蜂起軍は島原の「原(はる)城」に立てこもった。その数3万7000人(といわれるが2万数千人が実数だという)。その翌日、幕府から派遣された板倉重昌が到着。直ちに原城を包囲した。

記録によれば、城の中では「持ち口をよくかためる者は天上へゆき、さもなくば地獄に落ちる」と触れ回っていた。ここで露骨に軍事と宗教が結び付けられていることは注目される。一方、包囲軍の士気は上がらず、しびれを切らした板倉重昌が自ら塀に手をかけたところ狙撃されて死んだ。蜂起軍はかなりの鉄砲を持っていた。幕府は本腰を入れてを編成包囲軍し、その数は10万に達した。

この状態で、城の中と外で矢文によりやり取りが行われたがその内容もまた興味深い。蜂起軍は年貢の減免など生活改善要求は一切なく、「ただ宗旨に従いたいだけだ」というのだ。だが、通説では「島原の乱はキリシタン蜂起の形だが、実質的には領主の苛政に対する反乱だった」とされてきた。なぜそのように変換されたのか。それにはオランダの存在が鍵になっている。オランダ平戸商館長クーケルバックは幕府の要請を受けて、なんとオランダ船を原城に派遣し(原城は海沿いにある)、砲撃したのである。オランダはヨーロッパではキリスト教徒迫害に加担したと批判されたが、彼らは「これは宗教戦争ではなく、領主の苛政に反抗した農民一揆だ」と強調したのだ。

確かに松倉領では苛政が行われていたらしい。だが蜂起軍が年貢や課役に対する不平など一切言っていないことを見ると、これが信仰を求めた宗教戦争であったことは疑いの余地はない。農民は、最初から死ぬためにことを起こしたようなところがある。なお著者は、「島原・天草一揆を農民一揆か、宗門一揆かと問う(p.418)」のはそもそもナンセンスだという。

蜂起軍からはほとんど脱落者はなかったが、これは勝つ見込みのない籠城戦であった。入念に計画されたものではなく、物資も乏しかったからだ。それにもかかわらず蜂起軍は善戦し、包囲軍には大きな被害があった。攻め手側の戦死者だけで、1130名もいるのだ。落城は翌年(1638)の2月。蜂起軍はほとんど皆殺しだった。

1639年、ポルトガル船の来航を禁ずる老中奉書が出され、貿易はオランダに集約された。こうしてオランダは日本の生糸需要を一手に引き受ける形となり、「1640年には22万9000斤という、幕末に至る商館史上最高額を達成(p.371)」した。しかし家光は1639年、「奢侈禁止令」を出し、社会階層のほとんどで絹の着物を禁止した。「当時の日本人は身分の上下を問わず、華美な絹織物を競って着用(p.428)」しており、それが貿易の土台となっていた。奢侈禁止令はこの土台を壊した。

さらに、幕府はオランダ商館にキリスト生誕年が記されていると難癖をつけて破壊させ、平戸から長崎の出島に移転させた。1642年と43年、イエズス会は2度の日本宣教団を送った。イエズス会は日本から手を引くつもりであったが、イタリア人神父のアントニオ・ルビノの強い意志から出たことだという。これが結果的に最後のイエズス会の来日になった。こうして「バテレンの世紀」は終わった。

著者が強調するのは、この時代には日本には大勢の外国人がおりインターナショナルな雰囲気であったこと、西欧と日本には文明の程度は同じくらいだったこと、よって幕府には外国からの軍事的侵略は全く恐れていないこと、いわゆる鎖国によってこの西欧とのファーストコンタクトの記憶が意図的に抹殺されたことなどである。宣教師たちは、絶対神デウスを教え、日本の神仏はそれに劣る存在であるとした。そしてデウスさえ承認すれば洗礼に値するとしていた。それはかなり切り詰めたキリスト教にならざるを得なかった。例えば隣人愛の観念などは教えられていたのだろうか。

宣教師たちがキリスト教を単純化して伝えたのは、彼らのほとんどが日本語ができなかったという事情も大きかった。結果的に、キリスト教を肯定するにしろ否定するにしろ、単純な議論にしかならなかったと著者はいう。さらに「もし宣教師たちに十分な時間が与えられ、スコラ哲学的思考の訓練が日本に根づいたら、どんな展開が見られたことか(p.446)」と述べるが、これはちょっと一面的な見方ではないだろうか。日本では仏教を通じてかなり高度な観念操作の議論があったからだ。

私の本書を読むうえでの関心は、日本人はキリスト教をどのように受容あるいは反発したのか、という点にあったが、本書はこの思想的対決については極めて簡潔にしか書いていない。ハビアンの『妙貞問答』(キリスト教擁護の本)と『破提宇子(はだいうす)』(棄教後にキリスト教を否定した本)についても「立場はかなり単純な合理論にすぎなかった(p.446)」と手厳しい。

本書には詳らかでないが、当時の日本人のキリスト教に対する「素朴な疑問」は、宣教師たちをかなり困らせている。キリスト教の本質を突いた議論を日本人はしていたようである。にもかかわらず、そうした議論が深まらなかったとすれば、日本人がスコラ哲学的思考ができなかったからというより、宣教師の日本語力不足こそが問題であったのだと思う。

またもう一つの私の興味は、キリシタンはなぜ火刑にされるのか、という点にあった。管見の限り、それまで日本には火刑という処刑法はない。本書の記載によるかぎり、初めて火刑されたのは岡本大八事件の大八であり、1612年のことである。彼はキリシタンであったがその罪状はキリシタンであることではなく、収賄なのである。となれば極刑であるとしても「打ち首・獄門」が適当だ。にもかかわらずなぜ彼は火刑に処されたか。

そこには宣教師たちの教唆があったとしか考えられない。ヨーロッパの刑法でも火刑は通常の刑罰となっていないと思う。火刑が用いられたのは魔女裁判など宗教裁判だったのではないだろうか。私は、キリシタンの処刑を行うに際して、ほかならぬ宣教師たちこそが火刑という手段を用いることを求めたのだと思う。つまり宣教師たちは、宣教師たち自身やキリシタンの処罰を「殉教」にしつらえることでその死に特別な意味を付与した

火刑は、キリスト教を「邪教」と見なし、その信者を残虐に処罰する方法として広まったと言われることもあるが、板倉重政がナバロを火刑に処した場合を考えるとそれは妥当ではない。板倉重政はナバロに同情的で、残虐に殺したいとは全く思っていないのである。にもかかわらずなぜナバロは火刑に処されたか。「キリシタンは火刑」という観念に従ったまでともいえるが、であったにしてもあえて残虐に処刑するために火刑を選択したということは考えられないのである。

さらにさかのぼれば、最初の大規模な殉教事件である「二十六聖人」が磔刑に処されていることは注目される。なぜ彼らは斬首ではなく磔刑だったのか。それは、宣教師たちが自らをキリストになぞらえ、磔刑をあえて望んだとするのが自然だ。でなければ、代官たちが磔刑などというものを実施するはずがないのである。

彼らの少なくとも一部は、殉教に対する熱烈な気持ちを持って日本に来ていた。極端に言えば、殉教が目的だったようなところがないとはいえない。特に追放令以降は、迫害されるのがわかっているのに来日しているのだ。それを宗教的熱情ということは可能だが、反面では狂信であるともいえる。その意味では、宣教師たちも宗教の犠牲者なのである。

本書はあくまでも「詳しい通史」であるので、あまり一つの内容に深入りしない。特に元は雑誌の見開き1ページの連載だったそうなので、込み入った内容を語ることはできなかったのだろう。文字数を減らすためであろうと思うが、いろいろな用語が定義されずに、または意味が説明されずに使われていることが多い。例えば「バテレン」や「パードレ」が何を示すのかはどこにも説明がないと思う。

またところどころに地図が挿入されており、巻末に簡潔な年表があることで理解はしやすいはずだが、意外なことになかなかすんなりとは頭に入らなかった。多くの事項を手際よくまとめるために、大著であるにもかかわらずかなり簡略化された記載となった箇所があったためかもしれない。これも見開き1ページの連載の副作用かと思う。

少し読みにくいが大量の情報が盛り込まれた、教科書風のキリシタン史。

【関連書籍の読書メモ】
『倭寇―海の歴史』田中 健夫 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/12/blog-post_22.html
倭寇を軸に、14〜16世紀の東シナ海の歴史を描く。倭寇の動きを追うことで、東シナ海の激動の歴史を垣間見られるエキサイティングな本。

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2024年8月9日金曜日

『日本仏教史―思想史としてのアプローチ』末木 文美士 著

日本仏教史を、思想を中心として述べる本。

本書は、『図説日本の仏教』全6巻(太田博太郎・中村元・濱田隆監修)で著者が書いた項目(主に各巻の思想の概説)を基に、若干書き足して再編集したものである。

本書は日本仏教史としてはかなり短く簡潔である。本文は350ページほどしかなく、しかも下の方は註になっているため、普通の文庫本に換算すると250ページ分くらいだと思われる。いきおい、日本仏教史を丁寧に叙述するというわけにはいかず、いくつかの重点を中心とした記述となっている。

古代仏教については、大乗仏典についての解説が重点。様々な内容を持つ大乗仏典がどのように成立したかが述べられ、中国での古訳・旧訳・新訳と、それらの仏典間を体系づける教相判釈などが述べられる。これは類書ではあまり触れられない部分である。日本では漢訳を翻訳することなく受容したため、思想体系の翻訳という難事業をスキップして仏教を受容することができたが、著者は「試行錯誤の過程を省くことができたことが、果たして日本の仏教にとって本当によいことだったのであろうか(p.71)」と問題提起している。

さらに『法華経』の方便思想が詳しく解説される。『法華経』では、相矛盾する教えを方便と位置付けることで、いくつかに分裂した仏教の考えを統合するとともに、信仰を護るための実践的な活動を鼓吹した。日本では天台宗で重んじられたことで、『法華経』は日本仏教の中心的な経典となり、法華経信仰は中国とは違った発展をすることになった。

平安時代の仏教は、密教がその中心となるが、「平安仏教は所詮、祈禱仏教であって、思想内容に乏しいと考え(p.87)」られていたものの、それに対して「果たしてそうであろうか(同)」と疑義を呈している。著者は最澄と空海の生涯に触れ、最澄については特に徳一(とくいつ)との論争内容と大乗戒壇の設置運動を記述している。大乗戒壇については「大乗仏教だから大乗の戒と、一見、当然の主張のようであるが、じつはインド以来、このような主張はなされたことがな(p.105)」いと指摘。そこには「真俗一貫」の平等主義があるという。

空海については、密教教理が比較的詳しく取り上げられる。仏教の教えの根本原理には「空」がある。全てのものに絶対の実体はないという思想だ。ところが「密教の絶対者大日如来は永遠の宇宙的実体であり、それまでの仏教の仏が究極的には空に帰するのと根本的に異なっている(p.109)」と、思想的な転換を明確に指摘している。密教では、大日如来と一体化することで自我も絶対性を獲得できるとし、この立場を大乗をも超えた「金剛乗」と位置付けた。

また、大日如来との一体化「即身成仏」について曼荼羅と関係づけて説明されており、それによれば、「物質および精神の具体的・現象的事実の世界がそのまま根源的原理と認められ、それが大日如来の法身(本質的なあり方)とされるのである(p.113)」としている。それは「いわば一種の汎神論(汎仏論?)(同)」なのだ。なお個人的には、ここで物質のみならず精神についても真理の世界の現れとされていることに強い興味を覚える。このような現象的事実の世界を表したのが曼荼羅に他ならない。これは現象的事実を「空」をみなす従来の仏教と対立しているが、その対立が大きな問題となった形跡はない。

そうした対立が起こらなかったのは、そもそも日本人がそうした思想的な転回に無頓着であったか、あるいは空海の思想体系が巧妙だったか、その両方かであろう。空海は淳和天皇の勅命に応え大著『秘密曼荼羅十住心論』を著し、仏教の諸宗の教理を10段階に位置づけて説明した。ここでは凡夫が迷いの状態にある段階から、小乗や天台を経て密教の立場まで、全ての教えが包摂された。

このように空海は壮大な体系化を行い、また密教の呪術性は貴族から重宝されたため、天台宗でも密教を導入することが必要となり、円仁、円珍、そして安然によって台密(天台密教)は完成した。最澄は円教(円=完全な教え)としての天台宗を把握したが、これを密教化したのが円仁・円珍という「円」を名乗った僧侶だというのは皮肉めいている。

さらに、平安期の仏教については、末法と浄土について述べている。最澄の著とされる『末法灯明記』(実際にはだいぶ後の作である可能性が高い)は末法思想に影響を与えた。そこでは、末法の世では教えのみあって実践がないのだから戒は成り立たないとし、無戒の名ばかりの比丘を尊重しなければいけない、という開き直りのようなことが書かれている。このようなことが堂々と主張された時代の趨勢は興味深い。この救いのなさが、人々を阿弥陀仏の他力に向かわせたのであろう。

浄土思想の鼓吹者としては源信を取り上げ、その『往生要集』はやや詳しく内容を紹介している。またその実践としての念仏結社「二十五三昧会」を述べている。そして「大乗仏教の二つの流れ、すなわち、浄土教の他力救済的な側面と、般若系の仏教本来の流れにつらなる三昧の思想を結びつけようとする動き(p.149)」として般舟三昧(はんじゅざんまい)を位置づけている。ここで、著者は時間を遡って浄土教の成立について述べ、浄土教の日本への定着には円仁の五台山念仏の導入が大きな役割を果たしたとする。

そして摂関期末から院政期にかけては、弥勒信仰・地蔵信仰・観音信仰・法華信仰・山岳信仰・神仏習合など、末法観を背景に多様な信仰が展開されており、著者はこの時代を「日本の宗教史上きわめて注目される時代(p.157)」としている。

さらに著者が重視するのが、この時代に形成された本覚思想である。「本覚」とはもともと『大乗起信論』に出てくる言葉で、「衆生に内在する悟りの本性」を意味し、「仏性」や「如来蔵」と類似する。「本覚」は、院政期頃に「仏性」にかわって多用されはじめ、内容も「「本覚」が単なる内在的な可能性ではなく、現実に悟りを開いている、という意味に転化してしまう(p.158)」。そして逆に、修行して悟りを求めること(=始覚門)は低次元の考えであるとまでみなされるようになった。

また、良源が書いたとされる『草木発心修行成仏記』に述べられているように、日本の仏教では山川草木悉有仏性の説が広まった。草木成仏説は中国でも見られたが、それは仏(空)の立場からみると全世界は平等に心理そのものであり、衆生と草木の区別はないというものであった。ところが『草木発心修行成仏記』では、「一本一本の草や木がそれぞれそれ自体で完結し成仏している(p.171)」とするものになっている。より実在論的なのだ。

本覚思想は、本書の中心をなすものである。日本の仏教思想は、インドはもちろん中国のそれとも異なっているが、その独自性の核心にあるのが本覚思想であると著者はみなしている。しかし従来、本覚思想はあまり注目されてこなかった。その一因は本覚思想が著述ではなく口伝法門(師匠から弟子への秘密の口伝え)によって伝えられたことである。

なお、天台宗では本覚思想が本門思想と結びついた。本門思想とは、『法華経』の本門(後半)を究極的な真理と見なすもので、天台宗では本門を具体的な事実性の段階と見なした。迹門(前半)が抽象的な真理とされたから、これは理念・理論より事実・現実を重視する考えになっているわけである。天台宗では止観(心を静めて観想する)を重視したが、やがて「天真独朗の止観」を主張するようになった。これは「凡夫のあるがままの日常の心を、そのまま本来的に真実で(天真)他に汚されずに輝いている(独朗)悟りの姿と観ずること(p.183)」である。

しかしこうなると、修行も不要となり、なるがまま主義、あるがまま主義へと堕する危険性を帯びていた。「本覚思想は仏教思想として行き着くところまでいって自己崩壊(p.190)」した。そんな中で、仏教の在り方に対する再定義が必要になり、本覚思想は新しい思想を生み出す媒介となったと著者はいう。鎌倉仏教の発生にも、本覚思想は大きく影響しているという。

鎌倉仏教については、意外とあっさりとした記述である。黒田俊雄の顕密体制論に基づいた見方で、3期に分けて述べている。

第1期が12世紀後半から13世紀始めの承久の乱まで。ここでは法然と栄西が取り上げられる。建久9年(1198)には、それぞれの主著、法然『選択本願念仏集』と栄西『興禅護国論』が著された。彼らはともに弾圧さらながらも教えを説いたが、栄西は権力に接近し、法然はあくまで在野を貫いた。この他、この時期には重源・貞慶・俊芿・慈円らが活躍している。

第2期は承久の乱以後の執権政治期。ここでは明恵、親鸞、道元が取り上げられる。明恵は『摧邪輪』を著し、法然の専修念仏を批判した。悟りを求める心(菩提心)がないのに、阿弥陀仏を信じて念仏すれば救われるというのはおかしいと。彼は菩提心を重視し、仏光観(毘盧遮那・文殊・普賢や理法を書いた上段と、菩提心を鼓吹する文章を下段としたものを観想の対象とするもの)の実践と思想を円熟させた。親鸞と道元は、本覚思想と向き合い、それを乗り越えた。親鸞は悟りの世界をあくまで浄土に置き、そこに至るためには念仏という実践が必要だとし、一方、道元は修行そのものが悟りだとした。どちらも、本覚思想の「なすがまま・あるがまま」だけではダメだとしたのである。

第3期は、13世紀後半以後の社会的変動期。ここでは日蓮、一遍、叡尊、忍性が取り上げられる。日蓮は本門を絶対視するとともに、護法の実践を重視した。一遍は全てを捨て去って念仏のみに身をゆだねた。そして叡尊・忍性は戒律の復興運動に身を投じる。それぞれが、本覚思想の「なすがまま・あるがまま」とは全く異なる地平を切り開いているのである。

室町期になると禅宗、特に五山派が興隆し、また日蓮宗は町衆文化をはぐくむ役割をするが、この時期については本書は極めて簡潔で短い記述である。

近世仏教については、類書に比べるとかなり肯定的に述べている。著者は近世仏教堕落論への再考を促し、「他の思想潮流に主流の座を明け渡し(p.242)」たとしながらも、仏教界にも活気があったとする。

ただしキリスト教との思想対決、排仏論など、仏教界には当時から批判の目が注がれていた。「もともと超世俗主義の立場をとる仏教には、かえって世俗に対して厳しい倫理性が欠けていた(p.252)」こともあり、体制側の思想となってしまっていたことは否めない。そして民衆は、体制の枠に収まらない思想を持ちつつあったのである。さらに、富永仲基や山片蟠桃は合理的な思想から仏教の理屈に合わない点を批判した。しかし、仏教界はそうした批判へ真正面から応えていない。これは近世仏教の限界であった。

しかし、仏教界が停滞していたわけではない。戒律の復興運動や教学の振興が図られている。それでも体制に従順だったことは否定できない。浄土真宗ではひたすら無欲で従順な人物を「妙好人」として称揚した。近世後半に新宗教が次々と生まれてくるのは、既成教団への物足りなさがあったに違いない。

ここで著者は「仏教土着」と題して、日本の仏教の受容のされ方について考察している。その要点を述べれば、日本の仏教はまず「葬式仏教」であったということと、「先祖供養」と習合したということである。葬式も先祖も、元来の仏教ではそれほど中心的なものではなく、特に先祖に至っては輪廻転生を前提とする限り仏教とはきわめて遠い存在なのである。にも拘わらず、日本仏教ではこの二つが仏教の流布に大きく与っている。なお、著者は「葬式仏教」を肯定的に(とは言いすぎでも一概には否定できないというような調子で)述べている。

以上が本書の通史部分であるが、さらに「神と仏」と題した章が設けられている。これは、本書の元となった『図説日本の仏教』全6巻に『神仏習合と修験』の巻があったことと対応している。本章は神仏習合論として優れている。近世には本地垂迹観念が人間中心に変化しているという指摘などは鋭いと思った。また、神道理論を育てたのは本地垂迹を中心とする仏教思想であったということも明快に示しており、そこで慈遍の『豊葦原神風和記』の内容が紹介され、特に原初の純粋性に神道の優位性を見ているという指摘が面白かった。その先に天皇論が位置づけられてくるのである。

続いて修験道について述べられているが、教科書風で簡潔な記載である。

終章は「日本仏教への一視角」と題し、それまでと違って「ですます体」で書かれている。ここでは、日本仏教への研究方法や向き合い方が述べられる。最後に、遠藤周作の小説『沈黙』で、宣教師フェレイラが言う台詞が紹介されているのが面白い。それは「この国は沼地だ。(中略)どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。(中略)我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」というものだ。要するに、日本は外来の宗教を自分風に換骨奪胎してしまうということなのだ。「仏教の根は果たして腐らずに長らえることができたのでしょうか(p.364)」「日本人として外来の思想・宗教を受け入れるということはどういうことなのか。仏教はあまりに日本の中に溶け込んでいるように見えるだけに、よりいっそう強く、かつ慎重に問い直さなければならないのでしょうか(p.366)」と本書を結んでいる。

最後に丁寧な文献案内と仏教史年表が付属しており、特に文献案内は大変参考になる。

全体として、本書はとても読みやすい。日本仏教の通史としては、最も読みやすいと思う。また「本覚思想」を中心に据えて日本仏教思想を読み解くという試みは、独創的で、説得的でもある。ただし、冒頭にも書いたように短い著作であるために捨象されたものは多く、特に室町時代の禅宗と近世の修験道はほとんど全く記述されていない。また、読みやすくはあるのだが、短くまとめるために丁寧な説明がない部分がある。大まかな日本仏教の流れを知った上で読む方が面白い本だと思う。

本覚思想をキーにして日本仏教への再考を促す名著。

【関連書籍の読書メモ】

『日本宗教史』末木 文美士 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/10/blog-post_14.html
古代から現代に到る日本宗教史を概観する本。「<古層>の形成・発見」はピンと来ないが、日本宗教史の詩論として価値ある本。

『中世の神と仏(日本史リブレット32)』末木 文美士 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/06/32.html
中世の神仏の在り方を概説した本。神仏習合から神道理論が育っていたことを簡潔に示す、これ以上ないほどの概説書。 

『近世の仏教―華ひらく思想と文化』末木 文美士 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/07/blog-post_17.html
近世の仏教の概説。近世仏教の世界を平易に案内する試論。

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2024年7月20日土曜日

『宗教以前』高取 正男・橋本 峰雄 著

近代以前の宗教意識を民俗から探る本。

本書は、「民俗から見た日本人の宗教意識」を考えた1967年のNHKの番組「宗教の時間」を基にまとめたものである。著者の二人は、番組では対談したのではないかと思うが、どんな番組であったのかは本書からはわからない。また、著者二人の担当部分が明確に分けられているわけではなく、全章が二人で書いた体裁になっている。

本書の前半は、様々な民俗を取り上げている。主なものを挙げると、(1)死穢を避けること、(2)女人(特に出産出産)を穢れたものとする意識、(3)名前のない神(土間の神)を祀る行為と名前のある神(座敷の神)を祀る行為の併存、(4)神仏習合などである。

特に強調されるのは(3)で、神道では神はとらえどころのないもの(=「神道不測」)であったとされ、より正確には、「土間の神」「座敷の神」に「天皇神」を加えた三重構造であったという。

次に、神道の基層にあるシャーマニズムが取り上げられる。日本の神はしばしば託宣し、それはシャーマンによって伝えられる。古代には託宣が頻発したため、国家は卜占によって託宣の虚実を判定したほどだ。中世になると託宣が見られなくなるのに代わり、夢想・夢告が多くなる。また中世には神仏の性格の違いが明確になり、「神仏の分業」の体制が成立したとする。

次に、産土神と祖先祭祀が取り上げられる。産土神は共同体の神であり、祖先は家の神である。家の者が死ぬと、その魂は一年の一定の時期に家に戻ってきて祭りを受けるという観念があった。しばらくたつと、その魂は固有の名前を失って漠然と「祖先」となった。私が興味を抱くのは、祖先祭祀は果たしてそんなに古い民俗なのだろうか、ということである。さらには、産土神への信仰と、祖先祭祀はどのような関係であったのだろうか。

祖先祭祀は家の形態と深い関係があることは言うまでもない。著者は「西日本の開発の古い地域には同族の組織はもともとなかったのではなかろうか(p.158)」と述べているが、同族組織がなければ当然祖先祭祀もない。また、祖先祭祀は父系の意識が強く、しばしば女性を排除した祭りが行われるが、「古い時代ほど女性が神祭に重要な役割を果たした(同)」ことを考えると、父系の祖先祭祀は後発の民俗であることは間違いない。

逆に、「父母双系出自を重視すれば(中略)、通婚範囲である一定地域、したがって村落全体に拡散する(p.159)」。小さな村なら、何代かさかのぼれば全員が親戚ということになってしまうかもしれず、産土神と祖先祭祀は一致するのである。これは極端な仮定であるが、祖先祭祀や産土神は自明なものではないのである。

また本書では、柳田国男の祖先崇拝の理論(『祖先の話』)を批判的に紹介している。その要点は「極端ないいかたをして一言でいえば、柳田氏は日本の神々すべてを祖霊に還元する(p.163)」が、一方で「日本人の古い宗教が家父長制的な「家」の観念から出発したものであるかは、きわめて疑問(p.165)」だということに尽きる。柳田国男の宗教観には、家の祭祀から国家の祭祀までがつながる国家神道的なものが濃厚だ。

さらに日本人の死生観が世界の諸宗教と比べられ、特に「祖先祭祀」「魂の不死/普遍・個」「輪廻」「顕幽交通」の4つの観点から分析されている。「日本の宗教の特異な点は、死者の霊魂のあの世での浄化を、生者がこの世から援助できるということであろう(p.195)」という指摘は面白い。ただ、これは厳密に言えば正しくないような気はする(例えば、チベット仏教にもあると思う)。そして著者は葬式仏教を積極的に評価するが、その死生観は現代の日本人にまともに受け取られていないとして、仏教は「家の宗教という外面的な宗教から必然的に個人の内面的な宗教に転換ないし回帰せねばならなくなっている(p.198)」という。

最後に、国家・科学・宗教の相互の関係が西欧社会(キリスト教社会)と対比しつつ整理される。しかしそれは歴史的にどうであったかということよりも、これからの宗教はどうあらねばならないか、ということが中心だ。ここは、同時多発テロやその後のイスラーム社会とキリスト教社会の反目などを知っている現代のわれわれからすると、ずいぶん理念的で楽観的な宗教の将来像と言わざるを得ない。

全体として本書は、(おそらく橋本による)哲学や宗教学の考察が展開されながらも、本格的な論考に入る前に話題が移ってしまうようなところがあり、なんだか消化不良な読後感がある。ただしヒントになるような事例が随所に盛り込まれているのが面白い。一番面白かったのは、本書冒頭に紹介される、著者(おそらく高取)が昭和34年に奈良県で老人に猪狩りについて聞き取りをしたエピソードだ。老人は猪の習性について理路整然と語りつつ、「弾丸が逸れたときはどうするのか」との質問に対して平然と「そのときは暦をみる」といい「猪は暦でふさがっている方角へ逃げるから、そちらへ先まわりしてもう一度マチウチしたらよい」と答えたのである。これはもちろん迷信だ。だが、老人の中では猪の習性に対する経験的知識と、暦云々の迷信的知識は矛盾したものではなかったのだ。これは日本人のかつての生活態度を濃厚に残しているといえる。

本書を読みながら一番気にかかったのは、「宗教」なる概念を自明のものとしているところである。日本人はかつて「宗教」という概念で神仏を見ていたのではないし、「宗教」と「科学」という別の体系があるとも認識してはいなかった。だからこそ、本書はタイトルに「宗教以前」を掲げているのである。そして「「宗教以前」は、いわゆる近代の宗教「以前」、前近代の宗教を意味している(p.26)」というが、「宗教以前」のなかに「前近代の宗教」という「宗教」が入っているのは、概念整理の結果とはいえ、いささかおかしい。

結局、「宗教以前」を取り扱うにあたり、「宗教」を自明なものとしていることが違和感の元にある。「日本人の民俗宗教」とはいったいどのような「宗教」なのか。このあたりのことを曖昧にして、西欧社会との対比を中心に民俗文化を分析しているので、何か地に足がつかないものを感じるのである。とはいえ、1963年に出版されたものであることを考えると、本書は当時としてはかなり多角的に民俗文化を捉えたものとして評価できる。先駆的と言って差し支えないであろう。名著とされるのもゆえなしとしない。

「宗教以前」の考察は少し物足りないが、日本の民俗文化を考え直すヒントに溢れた先駆的な本。

※引用のページ数は原著のNHKブックス版による。

【関連書籍の読書メモ】
『神道の成立』高取 正男 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/07/blog-post_21.html
神道の成立過程を丹念に辿る本。神道成立前夜の動向を、細かい事実を積み重ねて究明した労作。

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2024年7月17日水曜日

『近世の仏教―華ひらく思想と文化』末木 文美士 著

近世の仏教の概説。

辻善之助の『日本仏教史』において、近世の仏教は堕落していたとされ、それが通説となってきた。近世の仏教界は檀家制度に安住し、僧侶は戒律を守らず肉食妻帯し、思想的な発展もなかったのだと。しかしそれは一面的な見方だと今では修正が必要になっている。転機になったのはヘルマン・オームスの『徳川イデオロギー』だ。歴史を振り返れば戒律を守っていない僧侶はいつでもいたし、近世に仏教の学問的発展がなかったわけでもない。そこで近世の仏教について改めて総合的に捉えたのが本書である。

中世末期は、非常に宗教の力が強かった。浄土真宗(一向一揆)が約1世紀の間、加賀国に宗教国家を実現させたのはその象徴である。日蓮門流が京都の自治権を獲得したものそうである。よって強大な宗教勢力を打破することが近世の統一政権樹立にあたって必要であり、そのために近世では強力な宗教統制が行われた。

江戸幕府では本末制度が定められて、本山から末端寺院までが上下関係で結ばれ、本山を幕府が抑えるという形ができあがった。またキリシタン対策のために、民衆は必ずどこかの寺の檀家になるという寺壇制度が整えられた(仏式以外の葬祭は禁止された)。幕府の政策に直接影響を与えたわけではないが、鈴木正三がこの理念を非常に近い形で提示している。それは寺院を世俗社会に役立てようとする企てであった。

さらに幕府は、家康を神格化した。それには家康・秀忠・家光三代の師として権勢を振るった天海の影響が大きい。彼の影響で家康を天台宗の山王一実神道(日光中心の新しい山王神道)の形式で日光東照宮に祀るようになり、また寛永寺が仏教界の中心となった。なお日光東照宮に色濃い現世主義の基盤には、中世の本覚思想の影響があるのではないかと著者はいう。

近世は儒教の時代だと言われることがある。藤原惺窩や林羅山は禅寺を出て儒者になっており、仏教から儒教への流れがあったことは間違いない。しかし儒者は僧侶のような独自の集団をつくれず、また日本社会は儒教を全面的に受容してもいなかった。林羅山と松永貞徳(不受不施派の日蓮宗の在家信者)による儒仏の優劣を争った論争で、来世の問題が取り上げられているのは興味深い。儒教では祖先祭祀を重視するが、なぜ祖先祭祀が必要なのかという理由を突き詰めれば、死後の観念に行きつかざるを得ないからである。羅山は天海の山王一実神道に対抗して理当心地神道を唱え、『本朝神社考』を著わすなど、神道を神仏習合から解放するとともに天皇に結び付けようとした。

キリスト教への対応はどうか。日本人は戦国時代末にはキリスト教に好意的で、ザビエルもまた日本人に好感を持った。しかし特に地獄や創造神をめぐる日本人の疑問は宣教師たちにも手ごわいものであった。そんな中ハビアンの『妙貞問答』で仏教とキリスト教が比較されキリスト教が選ばれているのが面白い。そこでは、「仏教の立場に立つ以上、極楽であっても本当の実在ではない(p.72)」から後生の願いはむなしい。キリスト教の方が死後の幸せを実現できる、といった論法がとられている。ところが、その後の禁教政策もあり、キリスト教批判の書が多くなり、ハビアンも棄教した。

江戸幕府の成立時は、中国では明と清の交代期にあたっていた。明末は仏教復興の機運があった時代で、この時代の仏教が日本に直接入って来た。その中心となったのが隠元隆琦である。隠元はたびたび日本側からの招請を受け来日。宇治に黄檗山万福寺を建立し、黄檗宗(臨済宗の一派)を伝えた。万福寺は純中国風の寺院で、13代までは中国僧が住持を勤めた。黄檗宗は社会活動を重視し、また教学の振興を図った。近世仏教の多様な側面を支えたのは黄檗宗である。隠元は分かりやすく理路整然と教えを説いた。「娑婆・極楽は只当人の心念浄染(しんねんじょうぜん)の間にあり(p.83)」とする唯心主義的な教説は注目される。

江戸時代には、日本で初めて大蔵経が開版された。まずは天台宗の宗存が着手し、それを天海が上野の寛永寺に経局を設けて完成させた。民間では、隠元に学んだ鉄眼道光が大規模な募金活動を展開して資金を集めて完成させた。初刷は後水尾天皇に献上されている。この普及に力を尽くしたのが同じく黄檗宗の了翁道覚。彼は欲望を断つために男根を断ち、左の小指を叩き砕いたが、その痛みを抑えるために調合した薬(錦袋円)がヒット商品となった。彼はこの売上で鉄眼版を各宗の寺院に寄進したのである。そして大蔵経は死蔵されたのではなく、学問に活用された。

この他にも、妙心寺の道忠は中国語の俗語に通じて、理解が困難だった禅籍を正確に読み込んだ。これは荻生徂徠の古文辞学と通じる成果だった。卍元師蛮は通宗派的な『本朝高僧伝』をまとめた。

このように、「近世前半の仏教界はきわめて活気に満ちて、全国規模で大きな事業が起され、成果を挙げ(p.101)」た。特に印刷物の流通は、写本による口伝の継承よりも、公開された合理的な解釈が力を持つようになった。それにより批判的な仏教解釈もなされるようになる。

霊空光謙は本覚思想を批判した。東照大権現には、中世天台の檀那流の「玄旨帰命壇」の本尊である摩多羅神が家康とともに祀られているが、霊空はこれを『闢邪編』で批判。本覚思想でありのままを肯定するのは、善を勧め、悪を止む仏の教えと相容れないというのである。本覚思想の批判は広がりをもち、そこから浄土とは何かという問題も引き出された。

近世には、各宗派で戒律の復興運動が行われた。その中でも大きな問題となったのは天台宗の安楽律運動である。これは霊空光謙らが、最澄以来の大乗戒だけでなく、中国で正統とされた四分律も必要だとして政治的に運動したものである。権力闘争の末、安楽律派が勝利したが、こうした運動が行われた根底には「釈尊への復帰」がある。徳門普寂は宗派の枠にはまらず、小乗を再評価した南山律宗への復帰を唱えた。彼の主著『顕揚正法復古集』では仏教を歴史的に把握し、小乗に回帰することを志向した。

慈雲飲光(おんこう)も、「正しい作法に則った仏法に復古することの必要を痛感(p.117)」して、戒律復興に取り組み、また『梵学津梁』一千巻を著してサンスクリットの研究をまとめた。彼の十善戒は著名である。また、神道の研究も行っており、「雲伝神道」と呼ばれる独自の神道説を完成させた。 

鳳潭僧濬(そうしゅん)は、「鉄眼、霊空という当代最新の仏教を学び、それをもとに先入観に捉われない独自の仏典解釈を展開した(p.120)」。それは中国華厳の系譜を検証し、第四、五祖を認めないというものだった。伝統的に認められた相承説を堂々と否定したのは画期的だ。なお、普寂は鳳潭の学問を受け継ぎつつも批判も加えている。

富永仲基は、教団外から仏教を研究して、各種の経典は釈尊が説いたものではなく、歴史的に形成されたものであるという画期的な説を提唱した(『出定後語』)。そして仲基は釈迦の教えの原形、つまり原始仏教を志向した。これは普寂と同様の考えであるが、普寂が大乗仏教も仏教と考えたのと違い、仲基は大乗仏教は仏教(釈迦が説いた教え)ではないという衝撃的な結論に至り、仏教の信仰の前提を壊した。

このような仏教の原点に帰ろうとする運動とは別に、世俗道徳を肯定する仏教も盛んになった。その先駆けになったのは鈴木正三で、彼は『万民徳用』で日常の暮らしがそのまま仏道修行であるとしている(「修行ノ為ニハ奉公ニ過タル事ナシ」)。近世中期には、盤珪永琢や白隠はわかりやすく庶民に禅の教えを説いた。彼らの教えは難しい仏教教理ではなく、世俗倫理や封建体制を前提とする善悪を基本とするものだった。真宗でも『妙好人伝』に代表される、模範となる篤信者が称揚された。仏教者から封建体制を乗り越える言説は現れなかった。

近世に排仏論も盛んになった。儒教の方で大きな問題になったのが、先述した来世の扱いで、新井白石は『鬼神論』で仏教の輪廻説を批判した。魂の輪廻では祖先崇拝、家の倫理は成り立たない。祖先の善悪が積み重なって子孫に及ぶ、と考えなければならないからだ。だが儒教ではどうしても死後の問題が曖昧であった。そこで平田篤胤は『鬼神新論』を著し、新たな霊魂観を提唱している。

一方、仏教側は排仏論に対抗し、神仏儒の調和を説いた。これは世俗倫理を前提とする反論である。また三教一致の典拠として『先代旧事本紀大成経』が用いられた。これは実は黄檗宗の潮音道海が神道家水野采女と制作した偽書であり、禁書となったにもかかわらず広く流布した。

ところで、こうした宗教界は外国人からどう見えていたか。エンゲルベルト・ケンペルはドイツ人の医師で、オランダ商館付の医師として長崎に5年間滞在した。その間の日本研究をまとめたのが大著『日本誌』である。この本の第三部には宗教についてまとめられているが、神道に関する記述が大部分を占め、仏教はあまり触れられていない。シーボルトの『日本』でも、やはり神道のほうが中心である。ただし、『日本』では土佐秀信の仏教図鑑『仏像図彙』のドイツ語訳が付録として収録されており、これは単なる翻訳を超えた学術的な成果である。これはシーボルトの助手ヨハン・ヨーゼフ・ホフマンの仕事である。外国人は、仏教を認知しつつも、神道をより重要な宗教として認識していた。

しかし仏教の信仰には、意外と広がりがあった。『近世畸人伝』では貧困の中に自由な生き方をした僧・出家者がたくさん登場する。仏道修行をする女性も多く、本書では大奥で仏法を説き心の在り方を重視し形式的な参禅を批判した祖心尼、柳沢吉保の側室で我が子を三人失うという過酷な経験から実践的に禅を深めた橘染子が取り上げられている。

そのほか、民衆の間ではご利益を求めて多様な神仏が信仰され、巡礼・遍路も盛んになった。仏教とは違うが、近世には妖怪の存在がクローズアップされてくるのも面白い現象である。また旧来の宗教に飽き足らず、如来教や天理教など新しい宗教が幕末に起こってくるのも注目される。しかもそこに世界創造の最高神が措定されているのは、仏教にない考えが求められていることを示唆する。

造形については、鉈彫りの円空や、素朴な木喰などが注目される。また白隠や仙厓の自由な禅画など、民衆的で従来の枠にはまらない表現がなされるのが近世の特徴である。

これまで述べたように、近世の仏教は、封建制肯定の側面はあったが、ずっと停滞していたわけではない。しかしながら、幕末には次第に活力を失っていった。その代わりに勃興したのが、国学であり、それは時代を逆行する観がある霊魂論や神話を伴っていた。

本書は、おそらくは近世仏教の初めての概説書であり、それだけで価値が高い。しかし200ページ余りの小著に抑えるため、各事項についてはかなり簡潔にまとめている印象である。もう少し詳しく書いてほしかった項目は多い。特に後半は駆け足であったような気がする。また、辻善之助以来の近世仏教研究では、制度面が割と大きく取り上げられてきた。本書ではおそらくそこを意識的に捨象し、これまで看過されがちだった教学の面を大きく取り扱っている。例えば門跡寺院とか、触頭寺院のようなものは本書では取り上げられないが、門跡寺院に残された華麗な文化については記述があってもよかったかもしれない。

とはいえ、本書は興味深いことが盛りだくさんで、特に前半はたいへん参考になった。

近世仏教の世界を平易に案内する試論。

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2024年7月12日金曜日

『中世芸能講義――「勧進」「天皇」「連歌」「禅」』松岡 心平 著

中世の芸能について、勧進・天皇・連歌・禅の視点から語る本。

本書の原著(『中世芸能を読む』)は、岩波セミナーで講義した速記録を加筆修正したもので、それを若干修正し4つのコラムを付け加えたのが本書である。

勧進

勧進は、近年様々な面で注目されている。中世、勧進聖は一種の企業体・商社のような集団を形成し、お金を集め、プロジェクトを行って、再配分していくような流れがあった。そのモデルになったのが重源の大仏再建である。意外だったのは重源が「南無阿弥陀仏」という名前を名乗っていることだ。阿弥号を持つハシリなのだ。

勧進の際、お金がちゃんとプロジェクトに投資されるという信頼がなければ金は集まらない。その信頼をつくったのは律僧だと著者はいう。戒律を厳粛に守るからお金にクリーンだったというのだ。一方、重源は律僧でなく、なぜ重源が信頼されたのか不明な面もあるという(やはり入宋三度が信用をつくっていたのかも)。

勧進の背景には、貨幣経済の進展もある。中国から大量の銭が入ってきたのだ。中世には徴税のシステムが脆弱で、小さな国家であったことも、勧進が重用される理由だった。融通大念仏会のような大規模な宗教イベントを勧進聖がプロデュースし、そこにはいろんな芸能者も集められた。金を集めるには人呼びが必要だからである。これが興行型勧進である。さらには勧進聖自身が芸能化していくことになった。なお、こうしたイベントでは、仏教的には正統ではない「亡者の供養のため」が目的として押し出されている。勧進の性質上、民衆の需要に沿った来世観になっているのが興味深い。

芸能化した勧進聖としては、まず「踊り念仏」の一遍と、踊る説教師の自然居士(じねんこじ)が注目される。彼らは身体的パフォーマンスを仏教に持ち込んだが、当然ながらこれは旧仏教(天台宗)から強く批判された(『天狗草紙』)。自然居士が、有髪だったというのは面白い。「ヒッピー的な禅者といっていい(p.48)」。

文保元年(1317)、勧進興行に猿楽が参加した最初の例が現れる(『嘉元記』)。そこでは法隆寺の神社(惣社)で法華八講(法華経を八座に分けて購読する法会)が行われ、合わせて猿楽の太夫が芸をしているのである。著者は、このように勧進興行に芸能が入っていって「宗教的な磁場からあぶり出され(p.52)」て成立したのが複式夢幻能だと考えている。勧進聖たちの話を踏まえた劇にすることで複式夢幻能が生まれたというのだ。また、その場はギャラもとてもよかったと考えられ、芸能の側はそれで活性化したと考えられる。

天皇

著者は能楽の成立を天皇制や国家との関係に注目して語っているが、あまり明快ではなく正直よくわからなかった。まず、触穢思想が取り上げられ、天皇を中心とする同心円状に穢れが排除されていたとする。天皇は清浄であらねばならなかったからである。では、能楽の元になった猿楽はどうであったか。著者は「芸能者としての猿楽もまた、穢れの側にいる存在と考えられていただろうと思います(p.84)」としているが、実ははっきりしない。

一応、天皇から遠ざけられていたと思われる猿楽が、どうして国家の芸能になり、能になっていったか。それを解く鍵は仮面にあると著者は考える。猿楽では仮面はなく、能になってから仮面劇となっている。この仮面は、修正会の追儺(ついな)から来ているのではないか。院政期には、法勝寺など大寺院が天皇によって建立され、そこで国家の行事として修正会が行われた。修正会は一週間ほど行われたが、その間には法会だけでなく様々なパフォーマンスがあったらしい。そこに芸能者が「呪師」として関与していたのである。最終日に行われる追儺は、悪鬼を追い払う儀式であるが、その悪鬼の役を務めたのがステータスの低かった猿楽であると推測される(詳細は「毘那夜迦考」)。

そして追儺は、法会の中で最も重要なパートであり、諒闇(天皇の喪中)でも行われていた。本来、穢れた賤民として天皇から最も遠ざけられるはずだった猿楽が、悪鬼を演じるために仮面をつけて国家の中枢に入り込んだことが、能の成立につながったというのである。ただし、同時代に朝鮮半島でも仮面戯が成立していることも視野に入れる必要がある。

連歌

中世は連歌の時代でもあった。上皇から庶民まで連歌に熱狂したのが中世である。連歌は5・7・5と7・7の句を繋いでいく芸能であるが、重要なのは場面の転換である。その基盤となったのは本歌取り。本歌の世界を単に踏まえるだけでなく、その意味をズラしたり読み替えたりして変換することで、新しい世界を構築するのが本歌取りであった。次々に場面を転換させていく面白さが連歌を成立させた。

しかし連歌は、なんでも句を継いでいけばいいというのではなく、宗匠が司り、また煩わし規則があり、宗匠が認めなければ句が却下された。連歌は当初こそ貴顕の人々の遊びであったが、そういうルールがあったからこそ、人々は身分の上下に捉われず、優れた句を認めるようになったのだろう。連歌の一大行事が「花の下(もと)連歌」と呼ばれる、枝垂桜の木の下で行われるお花見兼大連歌会である。これは一般大衆にも開かれた場で(一般ギャラリーからも自由に句を出してよかった)、しかも採用された句には懸賞がかけられた。「かなりいいものがかけられたに違いない(p.134)」という。

花の下連歌は1240年頃から百年ほど盛んに行われた。その場として重要なのが法勝寺や毘沙門堂である。ここで、世俗の身分がある程度無効化される寺院という場が新しい文化の揺籃の地となっていることは注目される。

花の下連歌が寺院で行われたのには、「花鎮め」の要素もある。桜の花びらが散る頃に疫神がまき散らされるため、それを鎮めるというものだ。そこには枝垂桜の下には冥界があるという意識がある。花の下連歌は、この冥界の霊たちを鎮めるための花見であり、どんちゃん騒ぎであり、芸能なのである。連歌の一座を構成する宗匠や連衆は、主に念仏聖だったことも注目される。14世紀からは、連歌の中心は北野神社に移ったが、北野天神を本尊としてその前で連歌会を催したのも怨霊鎮魂の意味があるのだろう。「連歌自体の面白さが呪術力をも生む(p.164)」。

なお、一揆(新しい社会結合)も連歌とのかかわりが深い。誰でも参加できる連歌が、徐々に人々のサークル(連歌講)とつながっていくのが面白い。逆ではないのだ。

禅は、日本文化に大きな影響を与えた……とされているが、それは「考えられているようで、じつはあまりちゃんと考えられていないところでもある(p.171)」とし、著者はいわば試論として、禅と日本文化の関わりを述べている。

禅は、日本にとってかつてないインターナショナルなものだった。村井章介は、13世紀中頃からの約100年間を「渡来僧の世紀」と呼んでいるが、中国からエリート僧が来て、日本からも中国へ盛んに留学した。中国僧(例えば竺仙梵遷)も日本語を解し、また日本僧も中国語を話した。京都では従来の仏教の力が強く禅はストレートには入ってこなかったが、鎌倉へはかなり大量に入っていった。そして東国の武士たちはこれに強く影響されるのである。その一つの象徴が、禅宗風の遺偈を詠んで死ぬ人が多くなったことである。禅は日本人の新たな死のスタイルをさえもたらした。

禅と連歌にも関連がある…と著者はいうが、具体的にはっきりとはわからない。一瞬の勝負の連続という連歌の性質が禅と通じるところがある、ということのようだ。連歌は鎌倉でも流行した。

鎌倉で生まれた早歌(そうか)は、「日本の歌謡史上革命的な歌謡(p.214)」である。それまでの歌では母音を長く伸ばして詠唱していたのを、八拍子のリズムをとって一字一音で歌いこんでいくのが早歌である。これを演劇に取り込んでいったのが観阿弥であり世阿弥で、「早歌というベースがなければ能の謡も可能にならなかったというくらいの大きな革命(p.218)」である。ただし禅とのかかわりは不明である。

鎌倉では、闘犬と田楽が流行したのも注目される。田楽とはアクロバチックな身体芸である。また、闘犬については『太平記』では鎌倉の町に4、5千匹も犬がいたとされ、それは誇張としても、かなり多くの犬が飼われ、しかもそこには「錦を着たる奇犬」がいたというのだから面白い。この時代、早いスピードで行われる、派手な芸能が人気となっていったということだ。こういう趨勢がバサラ文化を生む。

禅といえば幽玄とか侘び寂びと思いがちだが、「禅は感覚的なレベルでも精神的なレベルでも、バサラのきらびやかでエキセントリックな、日本文化全体からすると異質な文化と思われている文化を支えていた可能性がある(p.225)」。

著者はこのように指摘するものの、禅と日本文化のかかわりについては、先述のように試論的であることを差し引いても、明快さに欠け、一面的であるように感じた。例えば茶については法華宗が大きな存在感があったし、芸能では阿弥衆のことは看過できない。禅が日本文化にインターナショナルな新しい要素をもたらしたことを強調するあまり、それ以外の要素が過度に捨象されているように感じた。

本書は全体として、講義の文字起こしであるため大変読みやすい。しかしそれだけに、記述はあまり論理的でない。、特に「天皇」と「禅」については話があっちにいったりこっちに行ったりしており、「結局どういうことだったんだろう」とわからなくなった。

ただ、そうはいってもいろいろ面白いことが述べられていて、特に芸能における法勝寺の重要性については蒙を啓かされた思いである。平安京遷都以降、国家仏教に懲りていたのか、天皇家は仏教と一定の距離を置いていたが、白河天皇はこの政策を転換し、巨大寺院を建立して六勝寺の先駆けとなった。これにより、天皇―寺院―一般民衆というクロスオーバーな場ができたのではというのが本書の面白い視点で、もしかしたら賤民が皇子を始祖として仰いだり、賤民的芸能民が朝廷とつながったりすることの淵源はこのあたりにあったのかもしれないと思った。

論理的一貫性はいまいちだが、読みやすく刺激的な講義録。

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2024年7月10日水曜日

『もう一つの中世像――比丘尼・御伽草子・来世』バーバラ・ルーシュ 著

女性や絵解きなど、看過されがちだったものに光を当てる論文集。

著者のバーバラ・ルーシュは、コロンビア大学の大学院生だった時、京都大学に在籍して中世の小説の研究をしていた。そして京都で偶然、浮世絵を扱う古物商らしきイギリス人と食堂で出会い、奈良絵本について語り合う。そしてそのイギリス人は「アイルランドのダブリンにある小さな図書館に、そういう作品がたくさんあったはずだ」と言った。この不確かな情報は、著者の心にひっかかる。そもそも、奈良絵本について知っている外国人がいるだけでびっくりなのだ。そして著者はアイルランドに行き、ほうぼうで訪ね歩いて、それがチェスタービーティ図書館であることを突き止め、たくさんの中世の絵巻物が無造作に所蔵されていることを発見するのである。

この劇的なエピソードは、中世の絵入り絵本について著者が本格的に研究するきっかけとなり、著者は後に第1回奈良絵本国際研究会議を発足させることになるのである。

こうした奇縁もあって、著者は、日本で顧みられていなかったものを、女性で外国人、という二重のマイノリティの目で発見していった。それをまとめたのが本書である。

本書で提起されるそれらのものの第1は、尼僧である。中世、実に多くの女性が剃髪した。しかし尼僧や尼寺の歴史はいまだ本格的に研究されていない。「中世社会で尼僧であるとはどういうことであったのか。尼寺というのはそもそもどういう制度であったのか。実はこれらについては誰にも正確なことはわかっていない(p.12)」。

本書ではケーススタディ的に無外如大が取り上げられる。彼女は無学祖元のもとで禅を学び、その後継者となり、京都に景愛寺を建てた(応仁の乱で焼失されたと伝えられる)。旧仏教では、「女性は罪深く悟りに達することはできない」とされていたが、鎌倉新仏教の諸派では「仏の慈悲は男女の別なく及ぶ」と説き、道元は徹底して男女平等の立場に立った。こういう趨勢の中で無外が現れた。彼女の生涯は、恵信尼、阿仏尼(『十六夜日記』や『うたたねの記』の作者)、『とはずがたり』を書いた二条殿とも重なっている。

阿仏尼や二条殿は、出家する前は貴族だったが、「二人が尼になったことの意味、尼僧としての生活といった面はまだ誰も十分な検討を加え(p.20)」ていない。しかし中世では、女性が出家すれば、母とか妻といった枠組みから離れ、自由で独立した、いわば社会規範から逸脱した生き方をすることが受け入れられていたのだとは言える。これは「一つの解放の道」「革命的な自由の道(p.24)」であった。

第2に取り上げられるのは、中世文学である。これは著者の専門であるだけに多面的に語られる。中世文学は、それが広く語られるものであったということが平安時代のサロン文学と著しい対照をなす。絵解法師や熊野比丘尼は絵解きし、琵琶法師や瞽女(ごぜ)は謡った。写本の流通よりも、それを「上演」する者の移動によって広まったのが中世文学である。そしでその上演に携わったものが、宗教的遊行芸人であったことは注意される。著者は中世文学(絵巻と絵冊子(奈良絵本))こそ「日本最初の国民文学」だという。

そしてそれらの物語は、特に神仏の加護がテーマになっていた。「一寸法師は住吉明神の申し子であり、物ぐさ太郎は善光寺の申し子(p.147)」なのだ。成功の秘訣は、神仏の加護にあり、しかもそれは求めて得られるというよりも、運命的なものなのだ。「中世文学の中心的な原動力は運命であり、野心ではなかった(p.148)」。そして、それらを読むことは、どうやら神聖な力を呼び起こすと考えられていたようだ。『物ぐさ太郎』では、その結語部で少なくとも日に一度音読するように勧めているが、これはそうすることで「所有者を護り、ご利益をもたらすお守りだった(p.167)」からに違いない。『物ぐさ太郎』だけでなく、熊野比丘尼たちが配布した小冊子にも魔術的宗教的性質があったし、「神仏の前で病いが治ることを願って能楽や連歌を奉納した例(p.170)」は多い。芸能は一種の呪術なのだ。

なお、これを上演する者が各地に移動することができたのは、古代よりもずっと移動が容易になっていたからだ。また中世人は新しい経済観念を持ち、起業家的な行動をするものが現れた。観音や大黒、恵比須、毘沙門天といった現世利益的な神が人気となったのも経済観念と関係があろう。

「こうして中世は、日本全土にはじめて共通の神々が生まれた時代だった。(中略)一つには巡礼、二つには労働を通じて、(中略)あらゆる土地の人々を、いわば全国的な信者のネットワークへと結びつけることになったのである(p.43)」。大げさにいえば、この共通の神が、一つの国としての日本をつくった。

第3には、女性芸能者が取り上げられる。あずさ巫女、傀儡子(くぐつ)、そして傀儡子から派生したとみられる白拍子など。「平安時代末期以後の歌謡や舞の分野では、少なくともその重要なジャンルはすべて、今様にしろ小歌にしろ(中略)あるいはややのちの、人形浄瑠璃、歌舞伎、そして三味線語りなど、みななんらかの形で女性の歌い手、踊り手の影響を帯びている形跡があるという事実(p.57)」がある。

第4に、平家物語を創作した明石覚一について。平家物語は誰でも知っているが、なぜかその作者覚一はあまり知られていない。覚一は書写山で仏道修行し、盲目になってからはそこで琵琶法師として修練を積んだ。そして平氏と源氏の戦いの歴史を、勧善懲悪的ではなく、仏教的な無常観で編集し、女性への救済を織り交ぜ、新しい神話といえる作品を作り上げた。著者はこれをバッハの作品に比している。これは初めての国民的叙事詩であった。「これほど広範な規模で厖大な人々に語りかけ、訴えかけた作品(p.77)」はかつてなかった。

このほか、顧みられていないものではないが、中世の来世観が取り上げられる。これは短いながら的確な指摘が多い。通説とは違い、日本人は輪廻転生を額面通りには受容せず、来世観は「みごとに非論理的で(p.252)」折衷的であったと著者はいう。そして「今日の学者に従えば当時の人々がひろく受け入れていたはずのパラダイムを、むしろ軽蔑しているように思われる場合すら少なくはない(p.216)」。『源氏物語』でも六道が言及されるのは1カ所であり、「宿業の結果」と述べられてもそれが惨めな境遇に生まれ変わることを意味してはいない。死んだ人の霊魂はいつまでも現世にとどまり続けるというのが普通の感じ方だったのだ。

そして、極楽という存在は、美徳に対する報奨としてではなく、「ごく普通の人間が、特別に徳が深くなくとも、親にも似た仏や菩薩の慈悲によって、恩恵として往生できる所(p.230)」とされることが多い。仏教の来世観の中で、人々を救済したのは極楽の観念であったと著者は考える。黄泉の国や常世の国よりも、死者が極楽で憩うと考えることは悲しみをやわらげただろう。

一方、地獄については、「地獄破り」という新しいテーマが注目される。地獄に赴いた武者が、地獄の連中を打ち負かすという話だ。『義経地獄破』や『朝比奈物語』がそれにあたる。そこに示されるのは、僧や宗派の力など借りなくても閻魔大王や鬼を打ち負かすことができるということで、つまり地獄が超越的でない存在だと認識されているのである。

中世は地獄や六道が絵画にたくさん描かれ、しばしば暗黒時代とされてきた。しかし多彩な明るい絵巻も同じくらいたくさんある。「庶民の姿は、なるほど見すぼらしい身なりではあるにしても活気があり、いかにも健康な雰囲気がある(p.250)」。

本書は全体として、中世の思想を通説とは別の面から述べるものとなっている。だがその主張は穏当で、非常に説得的である。私自身の興味としては、尼僧や尼寺について興味があり本書を手に取ったが、その重要性を主張しつつも「研究がまだ進んでいない」として具体論はほとんどなかった。本書の刊行は1991年。それから30年以上が経過しているが、現在でも尼についてはあまり研究が進展していない。ただし尼門跡の研究は次第に進んだ(著者も研究に取り組んだ)。

なお本書は翻訳ではなく、著者自身が日本語で執筆した。第1回南方熊楠賞・第7回青山なお賞受賞。本書を含め、尼門跡寺院の研究などが認められ、著者は第18回山片蟠桃賞を受賞している。

尼や奈良絵本の重要性について指摘した慧眼の書。

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