2022年7月24日日曜日

『維新の衝撃 近代日本宗教史第1巻』(島薗 進、末木 文美士、大谷 栄一、西村 明 編)

幕末から明治10年代くらいまでを中心とした日本宗教史。

『近代日本宗教史(全6巻)』は、多くの研究者の協力の下、平易かつ本格的な近代日本宗教史として企画編纂されたものである。体裁としては通史というよりはトピック毎の論文となっており、その間に短いコラムが挟まっている。

「第1章 総論—近世から近代へ」(末木文美士)は、巻頭に相応しい、端正な歴史の概観である。これまでの研究成果を踏まえつつ、神仏分離から国家神道までの道筋を語り、今後の課題を提出している。国学では「幽界」と「顕界」の問題、仏教教団については特に西本願寺派(の島地黙雷)の動向に注目し、仏教界といえど単なる被害者ではなかったことを述べている。

「第2章 天皇、神話、宗教—明治初期の宗教政策」(ジョン・ブリーン)では、(1)宮中儀礼・祭祀、(2)伊勢神宮、(3)比叡山と日吉神社がケーススタディ的に述べられる。(1)では、神祇官の廃止は福羽美静など津和野派の求めた結果であったとし、国家儀礼としての天皇による祭祀を創出する取組を述べている。本節は、明治政府の当初の宗教政策を述べるものとしてもよくまとまっている。(2)では、伊勢神宮が国家の大廟として変貌した様を簡潔に描く。(3)では、最初に廃仏毀釈の被害者となった日吉神社について取り上げる。これは類書に比べかなり詳細である。さらに、まだあまり研究が進んでいない延暦寺の明治維新について概観している。延暦寺は「座主」に天皇の承認を必要とするなど朝廷との深い関係があったが、それが明治初期に急速に解体されていった。

「第3章 国体論の形成とその行方」(桐原健真)では、まず「国体」という言葉の持つ「魔術的な力」を表す象徴的な事件=金城女学校での「地久節不敬事件」(1908年)が取り上げられる。さらに「国体」という用語の出自について水戸学(特に会沢正志斎と藤田東湖)の思想が検証されるとともに、幕末の国学者たちが儒学的普遍主義の「国体論」から分離して日本固有の論理に基づいた新たな「国体論」に跳躍させたと説く。特に大国隆正は平田篤胤がこだわったあの世=幽界の問題から距離を置き、現世主義の考えから天皇を「世界の総王」であるとして「皇国」の「国体」の優越を説いた。ただし水戸学者たちと国学者たちの思想がどう連結していたかは記載がない。

「第4章 宗教が宗教になるとき—啓蒙と宗教の時代」(桂島宣弘)では、外来の概念"religion"に日本の「宗教」が合わせていった過程を述べている。岩倉使節団は外遊において、ヨーロッパ諸国の文明の基盤には宗教があることを発見し、また信教の自由が外交問題となっていることに衝撃を受ける。また森有礼は藩政時代にイギリス留学し、また維新後はアメリカに赴任していたため、早くから「政教分離」「信教自由」を主張していた。当然森は、明治政府の宗教政策を批判し、「自分でつくったreligionを人民に押しつける政府の企て」と非難した。森は「明六社」の創立者の一人であるが、明六社でも宗教論が様々に議論された。そういった趨勢の中、啓蒙知識人たちの間では、religion以前の宗教と見られた庶民の信仰は文明と相容れないものと見られるようになった。特に病気直しについては、西洋医学を阻害する有害な「迷信」と考えられた。そこで金光教などの新宗教は、本来は病気直しを中心とする素朴な民間信仰であったにもかかわらず、文明国に相応しい「宗教」へ自ら改革していくのである。一方、島地黙雷は神道をreligionと呼べるものではないと批判したが、国家の方でも神道儀礼を国民に強制する都合から、神道は宗教ではないとされた。開明的な仏教者であった島地と国家の思惑が奇妙に一致していたのが興味深い。

「第5章 近代神道の形成」(三ツ松誠)では、西川須賀雄を取り上げて近代神道の形成過程を追っている。西川須賀雄は佐賀藩出身で、六人部是香(むとべ・よしか)の門人となった。六人部は篤胤の門人であった神職である。佐賀藩には六人部の門人となったものが多かった。佐賀藩では学問が家禄や役職維持のための条件として使われ、藩校弘道館から大隈重信や江藤新平など俊英が輩出された。その講道館教授に枝吉神陽がおり、彼は矢野玄道の友人で国学的な思想を持ち、皇派志士に大きな影響を与えていたのである。西川須賀雄は大教院開講式で説教を行い、修験宗廃止令の後、出羽神社(羽黒山)に宮司として赴任。須賀雄の下で旧来の修験組織は「赤心報国教会」へ改変(!)、その他多方面に教化活動を展開した。

「第6章 新宗教の誕生と教派神道」(幡鎌一弘)では、幕末に遡って新宗教の動向が述べられる。明治政府は「神道は宗教ではない」と整理したので、神社神道から宗教としての「教派神道」が分離された。一見、新宗教(黒住教、金光教、天理教など)と教派神道は全く別の動きをしているがその動向は緩やかに繋がっていた。国家・社会の近代化なしに新宗教の勃興もあり得なかったからである。

「第7章 胎動する近代仏教」(近藤俊太郎)では、仏教勢力が国家の中に位置づけを得て自らを近代化していく様子が述べられる。神仏判然令以降、仏教は国家から冷たくあしらわれていたが、西本願寺の僧侶大洲鉄然は寺院寮を設けて諸国の寺院を管理させるよう政府に建議を提出した。これを受け1870年閏10月に民部省の中に寺院寮が設けられたものの、わずか1年後の1871年(明治4年)7月、民部省は廃止。以後、「社寺に関する庶務は戸籍寮のなかに設けられた社寺課で処理された(p.218)」。同年9月、島地黙雷は教部省の設置を求めた建言を提出。10月、左院では江藤新平が寺院省の設置を建議し、1872年3月には神祇省が廃止されて教部省が設置された。また、同年6月には「政府は仏教七宗に教導職管長を置き、それを通じて仏教を統制することとした(p.220)」。一方この時代は真宗にとっては画期的な意義を有し、「真宗」公称許可、真宗各本山住職の華族化、親鸞への大師号宣下などが教部省の下で実現した。教部省は各宗管長に「従来の宗規を調べて届け出よ」との達しを出し、これによって仏教教団は規則の調査・整備の必要に迫られ、近代化を進める契機となった。本節では、浄土真宗(特に本願寺派(西本願寺))がどのように自己改革をしていったのかを述べているが、その内容は、国家との関係でいえば、常に天皇・国家に融和的であったといえる。さらに本節では、自己修養と社会矯風を目指す「反省会」が取り上げられる。一種の仏教青年会であった彼らは、真宗を「新仏教」として規定し直し、過去の仏教との決別を図った。

「第8章 キリスト教をめぐるポリティクス」(星野靖二)では、幕末から明治初期のキリスト教・キリスト者の動向が述べられる。初期のプロテスタント集団「三バンド」(横浜、熊本、札幌)、札幌農学校のクラークのキリスト教的教育、漢文聖書による活動など、明治にキリスト教が徐々に広まっていく様子が概略的に理解できた。特にキリスト教を受容したのに旧幕臣が多かったという指摘は面白い。彼らは「キリスト教に日本の精神面における維新を仮託していた(p.260)」。明治初期には、キリスト教は文明の宗教であったが、一方でキリスト教は学問的知見と矛盾するという批判もあった。明治期、日本人は西洋文明をほぼ無批判に受け入れたが、キリスト教だけは必ずしも全面的に受容しなかった。そこに日本人や明治維新の特質が見られるように思う。

本書は全体として、「関心のある人には誰にも読めるような平易な通史を目指したい(巻頭言)」との意気込みがありながらも、「平易な通史」とは言えない。まず、各章ごとの独立性が高く、編年的に書かれていないために通史の体裁を為していない。また、何年に何があったというような年表風の記載がなく、各章で時代が行ったり来たりするのがわかりにくい。そして出来事の記述よりもその分析や論述の方が中心であるために、「誰にも読める」ものになっていないと思う。せめて巻末に年表をつけたらよかったのにと思う。

それから不思議なことに、本書では神仏分離と廃仏毀釈についてはごく簡単にしか触れていない。第2章で日吉神社の廃仏毀釈が取り上げられるくらいである。明治初期における宗教政策の動向を語る上で、神仏分離と廃仏毀釈については不可欠だと思うが、なぜ記述が軽いのか気になった。

一方で、既にこの分野の類書を手にしているある程度詳しい人にとっては、多角的に明治期の宗教史が検証できるので、本書は参考になるものだと思う。とはいえ、本書は多角的ではあっても体系的ではない。やや散漫な論文集の印象があるのは否めない。

近代日本の国家と宗教の関係に焦点を当てた論文集。

 

 

2022年7月18日月曜日

『壱人両名—江戸日本の知られざる二重身分』尾脇 秀和 著

「壱人両名」を通じ江戸時代の身分制を再考する本。

「壱人両名」とは、村の百姓「利左衞門」が、同時に公家の家来「大島数馬」である、というように、一人で二つの名前を持ち、それぞれで活動しているものをいう。

ある村の百姓・A右衛門が、別の村の百姓・B左衞門であるというケースや、百姓〜町人、町人〜町人、町人〜武士など、様々な場所や身分を横断して一人二役をしていたのが「壱人両名」なのである。

江戸時代は身分差別の時代であり、百姓・町人と武士の間には超えられない壁があったと考えられてきた。しかし実際にはそうではなく、百姓や町人が武士になることは金があれば簡単にできたということは近年広く知られるようになった。ところが本書を読むと、百姓を兼ねる武士とか、親が百姓で同居の子どもが武士である(しかもそれぞれ相続していく)といった事例を通じ、そもそも江戸時代の身分とは何なのか? と改めてわからなくなってしまう。

身分を横断する「壱人両名」なるものが、どうして生まれたのか。

第1に、それは江戸時代の「名前」の在り方が関わっていた。江戸時代には、百姓は百姓らしい、武士には武士らしい名前であることが求められていた。名前が社会的立場を表示するものだったからである。そもそも、百姓は名字を公称することはできなかった。そこで、二つの社会的立場を兼ねる場合には、自然と名前も別になる素地があったのである。

第2に、江戸時代は徹底的に縦割りの社会であった。国家による一元的な国民管理などは存在せず、各「支配」に人々が所属し、その中での秩序が優先されていた。「支配」とは、今の用語とは違い、「上位のものから配分された仕事や領域、更には、分配されたそれらを管轄・統治することを意味(p.32)」する言葉である。百姓なら領主が「支配」であるが、これも○○村の領主は誰々…というような単純なものではないこともあった。村は各百姓ごとに領主が定まっている場合も多く(「相給」という)、この集落の領主は誰々…というような切り分け方ではなかったのである。「支配」はあたかもモザイクのように社会を切り分け合っていた。そして「支配」内の秩序は重視される代わり、幕府も各「支配」に統治を委任し、それぞれの「仕来り」を承認する考えであったので、「支配」間の整合性はどうでもよかった。

では、「支配」にまたがって活動する場合はどうなのだろうか。18世紀以降、様々な立場を兼ねる、つまり兼業するものが多くなったが、例えば町人が、勘定奉行の下でその「御用」(公務)にも従事するようになったらどうなるのか。町人は「町」の「支配」で、勘定奉行の下での仕事は、勘定奉行の「支配」である。このように二つの支配系統に属するものを「両支配」という。もちろん勘定奉行での仕事がフルタイムのものなら、「支配替」を行い、町人を辞めて武士になることもできた。ところが商売も続けるということになると、武士になることはできない(武士には商売は禁じられていた)。そこで、勘定奉行の仕事の間だけ武士になる、といういわばパートタイム武士(その間のみ苗字帯刀が許される)が生まれたのである。

第3に、江戸時代の戸籍ともいえる「人別」の仕組みが関係していた。「人別」は各「支配」ごとに作成されたが、それを統合する仕組みはなく、「支配」内で整合していればそれでよかった。ここでX村の百姓・A右衛門が、Y村の百姓・B右衛門の土地を購入して耕作することを考えてみる。A右衛門がY村に移住する場合は、X村の「人別」から抹消する手続き(「人別送り」)が必要である。これは、必ずしも法令では定まっていなかったが自然発生的に行われた慣習である。ところが、こうした手続きは個人ではできず、五人組などの共同申請が必要だった。そしてX村で元々耕作していた土地は誰かが耕作し続けなければ村としては困る。百姓ですらも名前が名跡となる「株」となっていた。

X村の土地も、Y村の土地も問題なく耕作され、年貢が納められることが大事であり、「人別」の仕組みを考えれば、A右衛門とB右衛門の「株」が欠番にならないことが大事だったのである。そこで、A右衛門がどちらの村に住んでいたにしても、X村ではA右衛門、Y村ではB右衛門としてそれぞれの土地を耕作すれば、何の問題もないというわけだ。このように一人が別の人別に登録されることを「両人別」といい、表向きは禁止されていたが、これは村の必要に応じたうまいやり方であり、A右衛門が何か問題を起こさない限りは決してバレなかったのである。ポイントは、A右衛門の事情と同じくらい、村の都合で生まれたのが「両人別」だったということだ。

もちろん、こうしたことはやらないで済むならそれに越したことはないので、例えばX村のA右衛門の「株」は息子のC次郎に継がせ、自分がY村でB右衛門の「株」を継承することで「両人別」を避けることができる。ところがC次郎が早死にした場合はどうするか。A右衛門(C次郎)の「株」が欠番になってしまうのを避けるためにB右衛門がX村のA右衛門を兼ねる、といった対応が必要になるわけだ。江戸時代の「人別」が非常に細かい範囲で縦割りに作られており、「人別」上の秩序が優先されることでこういう事態が生じるのである。また、百姓だけでなく武士や町人(商人)においても、それぞれの社会的立場は「株」化していた。そしてその「株」の欠番を避けるため、継承に適当な人物がいない場合でもそれが「空き株」として名跡(名義)が残され、別の人物がその役目を果たしている、ということが多かった。

であるから、「何屋何兵衛」が実在する人間か、それとも非実在の名跡であるかを、名前はもちろん「人別」を見て判断することもできないのである。 

第4に、武士の格式とその経済的な豊かさが見合っていなかったということがある。江戸時代、武士は支配階級として幅をきかせていたと思いがちだが、例えば植民地の支配階級のように我が物顔に振る舞えていたわけではない。それどころか、先述の通り商売が禁止されていたなど、制限も多かった。本書には書かれていないが、石高と格式にも対応関係はないのである。そして江戸時代中頃から、経済的に没落する武士が多くなり、武士の「株」は金銭で売買されるようになった。金さえ積めば百姓が旗本になることも簡単だった。

そこで、百姓や町人が武士の「株」を買って武士になることがよく見られたのだが、問題は武士には商売はおろか、町や村の土地を所有することもできず(居住もできず)、耕作も認められていなかったという点である。そこでこれまで通りの収入を確保するためには、武士であると同時に、百姓や町人としての経済活動を続け(町人名義で土地を所有して商売をし)なくてはならない。こうして「壱人両名」の状態になるのである。

また逆に、元は武士であるが小禄であるため、村の土地を買って耕作しようとする者も出てくる。その場合も武士のままでは土地の所有も耕作もできないため、百姓の名義にして購入・耕作ということが行われるのである。

なお、町人が百姓でもあるような「壱人両名」は「人別」を偽る行為であったので罪ではあったが、単なる公文書偽造であって重罪ではなかった(過料が通例)。ところが百姓と武士を兼ねるのは重罪で、これは明らかになれば追放刑などが科された。また当然、公議は名義上での土地の所有などを禁じていたが、ここには武士の経済という抜き差しならない問題が横たわっていた上、「支配」が徹底的に縦割りであるという仕組みがあったので、そういった「壱人両名」が横行したのである。

第5に、庶民の身分上昇への思惑があった。これまで見たように、江戸時代の身分は移動できないものではなかったので、身分・格式を高めようとする庶民がいた(だが、武士になったからといって実利はあまりなかったのに、やはり身分上昇を図ったのは今から見ると少し不思議である)。例えば、京都では町人が「地下官人」(朝廷の仕事を行う人)を兼ねることがよく見られた。地下官人は苗字帯刀が許されていたからである。

もちろん、「地下官人」は朝廷の「支配」であり、町の「人別」から抜け出ることになる。ところで今まで述べてこなかったが、「人別」は、武士や公家は対象外としていた。 それは、武士や公家には所属する「支配」の長=支配頭がいたので、庶民の「人別」に当たる「宗旨改一札」はあったものの、その「社員名簿」に登録されることが「人別」の代わりであり、身分の確認においては支配頭に確認すれば事足りたためである。

そこで庶民には、「人別」を抜けることが高い格式を得ることだといった意識が生じた。 そこで例えば「地下官人」になることが身分上昇の手段となった。ところが「地下官人」が専業だったら問題はないが、これは裕福な町人が名誉職的に得るものであり、無給であることも多かった。そこで元の職業を続けながら町人としての経済活動を続ける必要から、「壱人両名」が生じたのである。

類似の事例で興味深いのは、神職の場合である。神職の場合、吉田家が許状を出していた、という、「株」で理解される他とは異なる事情がある。吉田家は全国の神職の元締めとして、神職として認める(=神職としての名前を許す)許状を金銭と引き換えに出していたのである。例えば百姓が吉田家から苗字帯刀を認められれば、祭礼の間は武士身分と見なされる。それだけなら問題はないが、「自分は百姓ではなく神職である」と「人別」にそのように登録するように求めたらどうなるか。「壱人両名」が、次第に「人別」の離脱を図っていったのである。

このように、江戸時代の中頃から「壱人両名」は広く見られた現象であった。合法のものも非合法のものもあったが、非合法の場合であってさえ、おおっぴらにならなければ誰の迷惑にもならなかった。社会の秩序を維持する一つの手段だったのである。

ところが、明治維新になると「壱人両名」は終わりを告げる。京都府が明治元年に定めた「戸籍仕法書」では、村や町だけでなく武士・神職・僧侶など族籍ごとの戸籍を作ったが、このような縦割り戸籍では「壱人両名」が生じるなど、国民の正確な把握が困難であった。しかし明治4年4月には族籍別を廃止し、同じ町や村に住む人間を全て対象にした戸籍を編成することとした(=壬申戸籍)。さらに12月には華・士族・卒に農工商の職業を営むことが許可され、また身分別の土地設定が解消された。また明治5年には名前を一つだけにするという布告が出、「壱人両名」を成立させていた、制度的な基盤や身分格式の別がなくなっていった。

本書は「壱人両名」をテーマにしながら、「人別」の説明が丁寧で、また明治政府の戸籍行政の変遷もわかりやすくまとめている。これは意外と丁寧に説明されることがない事項なので参考になった。

また、本書を読みながら疑問だったのが、僧侶とその他の身分の「壱人両名」はあったのかどうか、ということである。神職と違い、僧侶の場合は剃髪するので、簡単に2つの身分を兼ねることができないように思う。本書には医師と町人を兼ねるケースが紹介されているが、医師も剃髪している場合があるので、髪型は関係なかったのかどうか気になった。髪型も身分格式を表示する重要な表象だったはずである。

それから、江戸後期に「株」の売買によって従前の身分と格式が非常に流動的になっていたことは、本書のテーマからは逸れるが興味を引いた。フランス革命の場合も、その前夜に売官の制によって新興の階級が実質的に貴族化していく現象が見られたが、江戸時代も全く同じ様相を呈している。江戸幕府を存立させる重要な前提であった「身分」が解体したことにより、黒船が来なかったとしても革命前夜の条件が整っていたのかもしれない。

江戸時代の社会の在り方を「人別」から見る良書。

【関連書籍の読書メモ】
『氏名の誕生 ——江戸時代の名前はなぜ消えたのか』尾脇 秀和 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/02/blog-post_21.html
今の日本人の「氏名」がどうして生まれたのか解明する本。日本人の「名前」について知るための必読書

『日本の近世7 身分と格式』朝尾直弘 編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/05/blog-post_8.html
江戸時代の身分について考察する論文集。近世の身分について多角的に検討した充実した好著。

 

2022年7月4日月曜日

『渋沢栄一 近代の創造』山本 七平 著

維新前後の渋沢栄一を描く。

渋沢栄一は、文久3年に攘夷の示威行動「高崎城乗っとり」のグループにいたが(後述)、その11年後には第一国立銀行の総監役となった。死をも辞さない熱狂的な攘夷主義者であった栄一が、なぜたった11年で近代化政策の推進者となったのか。本書は、その変化を描きつつ、一貫していたものとは何かを探るものである。

渋沢栄一は、埼玉の百姓に生まれた。といっても才覚ある祖父や父によって彼の家は豪農となり、藍玉の商売によって巨利を得ていたから、百姓というよりは商人であった。渋沢家は領主を凌ぐほどの富を持ち、文化にも遠慮なく金を使っていた。一方で、栄一が贅沢品を買ったのを見て父が非常に落胆したことがある。必要なお金は大胆に使うが、華美を嫌い、「百姓」としての誇りを持っていたのが彼の父であり、生涯、栄一はこの父を尊敬した。

そして彼は、義兄で従兄でもある、10歳年上の尾高藍香(おだか・らんこう)に大きな影響を受けた。藍香は石門心学流の実学を重んじ、経営や技術にも明るい上、儒学にも造詣が深い教養人であった。そんな彼はあくまでも江戸時代の学問の枠内から(つまり洋学の影響ではなく)、幕府の倒壊は間近であると見通すとともに、郡県制・実力主義の人材登用の新制度へと変えなければならない、と確信する。埼玉の一農民でしかなかった藍香はこうして革命を夢見て倒幕=尊皇攘夷運動に身を投じ、カリスマ的魅力でグループを組織していった。その一員となったのが従弟の渋沢栄一、従弟の喜作であり、弟の尾高長七郎であった。

そしてその決起計画が「高崎城乗っとり」であった。横浜にある外国の商館を焼き討ちするため、まずは領主の居城高崎城を夜襲して武器弾薬を奪おうというのである。そして関東一円に趣意を喧伝してその動きに呼応させ、天下の形勢を一変させようとするものであった。彼らは長州がこれによって挙兵すると考えていたらしい。

しかしこの計画は、藍香が京都に派遣していた弟・長七郎の必死の説得によって中止される。決起の準備が整った頃、同志69名が帰郷した長七郎を取り囲んで会議を行ったところ、長七郎が意外にも反対したのである。彼らの計画は一言で言えば空想的すぎた。京都で坂下門外の変などに間近に接してきた長七郎には、それが単なる犬死にで終わることが分かっていた。こうして会議は激論となった。しかし激論となったこと自体に注目すべきである。というのは、異論を唱えた長七郎を「切って捨てろ」とはならなかったからだ。彼らは狂信的な攘夷主義者であったが、「激論」を戦わせて答えを出すという、文明的な態度を持っていたのである。

こうして藍香たちは36時間もの議論をぶっ続けで行い、長七郎がもたらした時事情報を吟味した結果、計画は中止となった。議論によってこうした決断が出来たということが、彼らが血気にはやる若者集団なだけでなかったことを窺わせる。

計画中止により、一転、栄一たちは捕縛の危険にさらされることとなった。それまで計画の遂行のために大枚をはたいて武器を買い集めていたからだ。やむにやまれず栄一らは故郷を去る。逃亡同然だったが、栄一の父は出奔に際して「思うままにせよ」と述べ100両を餞別に与えた。「これは父の豪(えら)い所だと思う(p.185)」。

なお出奔に際して、栄一は父に自分を勘当するよう申し出たが(これは自分に事件があった時に実家に迷惑がかからないようにするため)、父は今すぐに勘当する必要はなかろうといい、栄一は妻子を実家に残し、喜作とともに京都に旅立った。

ところで、なぜ埼玉の農民グループが激論によって答えを出すという態度を身につけていたのか。著者はその背景に「詩」を見る。栄一が17歳の時、藍香と二人で藍の売り込み旅行に信州に出かけたことがあった。セールスの出張である。その際、二人は旅の様子を漢詩にしたため、『巡信記詩』という詩集を作った。「十七歳の農家の一青年がセールスをしながらこういう詩を作っていた時代が日本にもあった(p.166)」。二人には相当な漢文の知識があり、それは特別なことではなかった。そして詩の世界に遊ぶことは、「絶対管理されない「一貫している詩の心」(p.184)」を持っていることであった。言い換えれば、彼らはいつでも世界を日常語と違う論理によって見ることができた。しかもそれは、どこまでも個人の内面のみから生じる自由な世界であった。著者はこの漢詩の能力こそ幕末明治の人の「思考の武器」だったという。

京都へ着いた栄一たちは、しばらく旅館に泊まって志士気取りをしていたが、彼らは一介の田舎ものに過ぎず「藩」の後ろ盾がないので相手にもされない。不安になって長七郎を京都に呼び出したところが上京の途上で捕縛されてしまう。これは後に「高崎城乗っとり」とは無関係であることがわかったが、この知らせに栄一らは震え上がる。またその時既に栄一たちは無一文どころか25両の借金もあった。進退窮まった彼らに手をさしのべたのが、一橋家に仕えていた平岡円四郎という男。京都で知り合って意気投合していた相手だった。

元々栄一たちは幕府の倒壊間近と感じていたので一橋家に仕えるつもりは毛頭無かったが、平岡に説諭されて一橋慶喜の下で働くことになった。しかし自分たち自身が納得するためにも、その際に慶喜に倒幕を勧めるという異例の建言をした上で臣下になっている。よほど平岡は栄一らに目をかけていたのだろう。それに平岡にとっても、自分の手足となって絶対に裏切らない、有能な部下が欲しかった時期であった。こうして栄一は「武士」になる。百姓と武士という「身分」の移動を妨げる障壁は何もなかった。武士として雇われれば武士なのである。

平岡の下で、栄一は諜報員のような働き(大坂で、薩摩藩出身の折田要蔵を探る)をして認められ、今度は一橋家の兵隊をリクルートする命を帯びて関東で集めるが、その折りに平岡が水戸藩士に暗殺されてしまった。だが平岡の後を継いだ黒川嘉兵衛にも栄一は認められ、今度は関西で兵隊をリクルートする仕事(歩兵取立御用掛)をした。慶喜は京都守護職であったにもかかわらず、手兵がいなかったからである。栄一は456人もの応募者を連れて京都に帰った。そうなると今度は、この手兵を養うためのお金が必要になる。こうして栄一は一橋家の勘定組頭となって財政改革に取り組むのである。

当時の大坂は、為替や先物取引、両替(江戸時代の貨幣制度は複雑で、しかも幕府は紙幣を発行していなかったので両替が発達した)、質(しち)といった金融面で非常に発達していた。栄一はこうした仕組みを学び、一橋家の財政改革を推し進めた。ところが、主君一橋慶喜が将軍となってしまう。主君が将軍となれば臣下は喜びそうなものだが、栄一は幕府の倒壊は近いと思っていたから、将軍にならぬよう、と建言していたほどだった。こうして、今度は栄一は幕臣となった。倒幕論者だった栄一が幕臣となったのは皮肉なものである。

しかしここで転機が訪れる。慶喜からの命で、慶喜の弟・徳川昭武に随行してフランスへ行かされるのである。昭武はパリの万国博覧会に出席するとともにヨーロッパを巡遊し、ナポレオン3世より招待されてフランスに留学する予定だった。そこには攘夷派の志士が護衛のため随行することとなっていたが、攘夷派の心情も分かり、会計や実務に明るい栄一に白羽の矢が立ったのである。もちろん栄一自身もかつては強硬な攘夷派だったのだが、すでにその頃栄一は開国指向へと変わっていた。幕臣となっては面白くないから百姓に戻ろうとまで思っていたので、栄一はこの話に飛びついた。

この栄一の洋行で、特徴的なことが2つある。

第1に、栄一は西洋を毛嫌いしたり、逆に感化されて西洋礼讃になるようなところがなかったことである。彼は慣れない食べ物も「うまい」と食べ、西洋の新技術に感心したが、今風にいえば「フラット」だった。栄一は技術や実務といった面から西洋を見ていたから、自分の感情を交えず社会を冷静に観察した。一方、思想や宗教といったものはあまり関心がなかったようである。

第2に、彼は一行の中で会計実務を一手に担ったので、特に西洋の会計制度に熟達するようになったことだ。そして合本組織(株式会社)の存在を知り、これこそが日本の悪弊「官尊民卑」を是正する切り札になると確信するのである。一株は武士が持っても百姓が持っても一株で平等。そして利益は株式に従って分配される。財利のことを武士がいうのはみっともないという日本の常識と違い、彼は西洋諸国の君主が殖産興業(特に製鉄)に力を入れているのを目の当たりにして衝撃を受けた。しかしそれを国家による官営工業で実現するのではなく、民間の零細な資本を集めて実現するべきと考えたところに彼の非常な独自性がある。

こうして西洋の社会を実地で学んでいたところに幕府瓦解の報が入った。彼らを派遣していた政権がなくなってしまったのだ。同行者は次々と帰国。一方、栄一はなるだけフランスに留まり続けようとし、母国からの送金なしに昭武とともに留学を続けようと画策した。ところが幕府瓦解によりナポレオン3世の態度も冷淡となり、フランスに居続けることは不可能だった。滞仏2年弱。道半ばでの帰国だった。栄一29歳の時である。

帰国後、栄一の戻るべき場所はなかったから、駿河に行って慶喜に仕えることにした。ただしこれは仕事がなく困って慶喜を頼ったということではなく、慶喜への恩に報いるために百姓になってでも奉公しようという考えだった。そういう栄一にも慶喜は冷淡だったが、彼を勘定組頭に任命するなど手元に置こうとした。慶喜は情は薄かったが栄一の有能さは買っていた。だが栄一には宮仕えをする気はなかった。それよりも、フランスで学んだ「合本組織」による商業の振興に興味があった。彼は一橋家の協力も得て、民間の資本も募り「商法会所」を設立する。これは銀行と商社を足したような組織であった。栄一はこの頭取となって積極的な商社活動を行い、「水を得た魚」のように活躍した。彼はこの活動をライフワークとし、家族も呼び寄せて駿河に永住するつもりであった。

が、明治2年に突然新政府よりスカウトされて栄一は「大蔵省租税司」となる。栄一としては自分の事業を中断することを意味したからこの出仕は残念であり、新政府には反発心もあった。しかも新政府には栄一の知人は一人としていなかったから、政府内でもこの起用に反対する人がいたらしい。著者は、慶喜から栄一という有能な駒を引きはがすための人事ではなかったかと推測している。ともかくこうして栄一は新政府の一員となり、それは不本意でもあったが結果的には目覚ましい働きをする。新政府の役人はかつての志士上がりばかりで、政局に聡いばかりで実務には疎かったから、実務経験豊富な栄一が重宝された。

そして栄一は、大隈重信の下、大蔵省の「改正局改正掛長」(兼務)として制度改革に大なたを振るうことになった。これは今風に言えば政策研究所である。ここでは自由闊達な議論が行われ、アメリカの制度を参考として多くの改革が実施された(栄一はフランスへの留学経験があったのにアメリカの制度をより多く参考にした)。「明治政府における渋沢栄一の政治上の最大の業績といえば、この改正局をつくったことであろう(p.575)」

ここで栄一が提言・研究したことは、例えば全国測量、度量衡の改正、貨幣制度、禄制改革、駅伝制の改正、外資を導入しての鉄道の敷設、金納による租税納入(実施は明治7年)などである。栄一が関与したこうした改正事業は200近くあるという。なお明治3年8月には改正掛が「穢多非人の称を廃して平民籍に編入」する措置も行っている。

明治4年の廃藩置県では、藩札や藩の借金の扱いに苦心しつつも乗り切った。そして栄一は大蔵大丞(事務次官)に昇進するが、ここで新政府最大の実力者大久保利通と対立する。その要点は、栄一は各省に予算をつけて、その中で事業を推進する考えであったが(つまり今から見れば当然のやり方)、大久保らは予算(使えるお金の上限)など設定する必要はなく、その都度の必要に応じてお金を支出すればよい、という考えだったのである。陸海軍に大きな支出決定をしようとした大久保と対立して、栄一は辞職を決意した。

大久保らが岩倉使節団で外遊に出発すると、政治的対立が棚上げされたことを奇貨として近代化政策はさらに進められたが、やはり予算の対立があって栄一は井上馨とともに政府を去った。

政府を去った渋沢は、「国立第一銀行」の総監役(頭取)となる。「国立第一銀行」は栄一が設立したもので、三井組・小野組が共同で運営する国立銀行である。三井・小野は全くの対等であったから、組織が綱引きで立ちゆかなくなることを怖れ、彼らを調停する頭取として渋沢を雇ったのである。渋沢は頭取といっても雇用契約に基づく「雇われ社長」であった。なお、本書での説明は簡潔だが、この「国立銀行」は敢えて言えばアメリカの連邦準備銀行(これは民間の銀行)に近い。ポイントは紙幣の発行がこの銀行を通じてなされることである。その原資は何かというと、新政府が乱発してきた巨額の不換紙幣(太政官札など)であり、これを回収して兌換紙幣に替えてゆくことがこの銀行の当初の大きな役割であった。また大蔵省の出納事務もこの銀行でなされた。

なお、この銀行の設立にあたっても、栄一は広く株主を募っているのが面白い。実際には三井・小野の出資が大部分であるが、5分の1ほどが一般の株主の出資であった。国立銀行を株式会社的に運営しようとしたことに栄一の信念を感じる。

本書は「第一国立銀行」出発の時点で筆が擱かれている。ただし、強硬な攘夷主義者の一農民であった渋沢栄一が、たった11年後に「国立第一銀行」の頭取になる経緯が詳細に語られ、「そこには常に変わらない一貫したものを感ずる(p.658)」とされながらも、一貫したものは何か、変化したものは何か、というまとまった考察は本書にはない。

本書を通じて私なりに感じたのは、まず栄一の中で変化した点は経済観念である。栄一は豪農の息子であり何不自由なく育っている。京都に行った時も残金の計算もせずに旅館に泊まり、結果無一文になっている。そして喜作とともにネズミを捕まえて食べるのである。この時、栄一は、経済の裏付けがなかったら、いくら立派な思想や主張があっても役に立たないと悟る。ここに大きな転向があった。そしてちょうどその時に一橋家の勘定組頭という会計責任者となったことで、栄一は会計・金融の道へと入っていくのである。

次に、変化しなかった点は、おそらく身分平等の意識であろう。栄一は百姓時代、父の名代として代官に呼び出されて500両の御用金(要するに強制的な寄附)を申しつけられた。一般には500両は大金だが、渋沢家にとってはなんでもない。だが金を出させる方が偉そうにして、こちらを軽蔑しているものだから栄一は憤慨した。身分の差、というもののバカらしさを感じた原体験だったようだ。その後も一貫して、栄一は身分の差の解消に取り組んでいるように見える。彼にとって経済は、身分の平等を実現するための方策だったように思えてならない。

本書は全体として、栄一の自伝の引用を基調として、それを一つひとつ読み解いていくような形で書かれている。扱っているのは人生のたった11年間であるが非常に丁寧な評伝である。しかしながら、「近代の創造」を副題としているのに、維新政府で栄一が何を行ったかは極めて概略的にしか述べられないのは少し物足りない。彼の携わった近代化施策はもう少し詳しく知りたかった。「穢多非人廃止」にしても一言だけで終わっている。

私自身の興味としては、渋沢栄一と戸籍法の関わりについて知りたくて本書を手に取った。戸籍法も、栄一が「改正掛」で調査して公布したものの一つであるが、本書ではそれについての詳細はない。ただ、どのような経緯や環境でそういった仕事を手がけたのか、ということはよく理解できた。

渋沢栄一の若き日の11年間を追う大著。

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2022年6月18日土曜日

『メンデルスゾーンの宗教音楽—バッハ復活からオラトリオ≪パウロ≫と≪エリヤ≫へ』星野 宏美 著

メンデルスゾーンの宗教音楽をオラトリオを中心に述べる本。

メンデルスゾーンといえば、バッハ≪マタイ受難曲≫の伝説的な復活上演で知られる。本書は、≪マタイ受難曲≫と、全曲演奏を果たせなかったバッハの≪ミサ曲 ロ短調≫について述べ、メンデルスゾーンがいかにバッハに傾倒し、その伝統を継承していこうとしたか示している。さらに自作オラトリオ≪パウロ≫と最後の大作となった≪エリヤ≫について詳細に検討し、メンデルスゾーンがこの2つのオラトリオに懸けた思いを考察している。

メンデルスゾーンはユダヤ系ドイツ人であったが、ユダヤ人の両親は子どもたちをキリスト教徒として育てる(具体的にはプロテスタントの洗礼を受けさせた)。その理由は、子どもたちには「キリスト教が教養ある人々の信仰のかたちだからである(p.227)」と述べているが、それは両親がユダヤ教徒として生きる不利を感じていたからに他ならない。

両親はユダヤ系の「メンデルスゾーン」という姓の代わりに「バルトルディ」というドイツ系の姓を名乗る許可を得、子どもたちには「バルトルディ」と名乗るよう命じた。しかしメンデルスゾーンはフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディとダブルネームを使った。

彼は、偉大な祖父モーゼス・メンデルスゾーンを誇りとしており、ユダヤ教徒としての出自を捨て去りたくはなかったのである。しかし自身のユダヤ性に向き合っていたからこそ、メンデルスゾーンは産まれながらのキリスト教徒以上にキリスト教徒らしい音楽を作り、そしてドイツ音楽の正統な継承者としてバッハの復活に熱意を注ぐのである。

今から見れば少し奇異な感じすらするが、当時の人はバッハの音楽を退屈で難解なものと感じ、それは単に忘れられていただけでなく、いわば「音楽性」の合わないものであった。よってメンデルスゾーンはなるだけ原典に基づきつつ、当時の聴衆に受け入れられる形でバッハの作品を復活させた。その成功例が≪マタイ受難曲≫であり、なかなかうまくいかなかったのが≪ミサ曲 ロ短調≫であった。メンデルスゾーンの熱意にもかかわらず、遂に≪ミサ曲 ロ短調≫の全曲演奏を果たせなかったのは(部分的には実現した)、彼自身の多忙のせいもあるが、この大曲が技術的に難しかったという点も大きいようだ。

本書はさらに≪パウロ≫と≪エリア≫の成立の事情、バッハの影響の検証、さらには一曲ごとの分析を加えている。これはかなり細かい話である。ところが、なぜか本書には一つも楽譜が掲載されていないので、楽曲の分析はやや分かりづらい。楽譜が掲載されていれば(楽譜を読める人には)もう少し分かりやすかったと思う。一方、歌詞については細かな点まで考察しており、信仰の内容の分析は重厚である。ただし、私はキリスト教には疎いのでこの部分はあまり頭に入らなかった。

私自身の興味としては、≪エリア≫とメンデルスゾーンの宗教性について知りたくて本書を取った。≪エリア≫はメンデルスゾーンの絶頂期に作曲され、初演では空前の成功を収めた。音楽的には≪パウロ≫の方が優れているという見方もあるが、最後の大作であることもあって、メンデルスゾーンの代表作であるのは間違いない。

新約聖書に基づく≪パウロ≫は、キリスト教徒としての強い自覚があったメンデルスゾーンにとってうってつけの素材であった。ユダヤ教からキリスト教に改宗したパウロに、自身をなぞらえていたのではないかというのだ。その当否はともかく、「パウロ」という素材がキリスト教的なものであり、メンデルスゾーンの宗教性と関わっていたことは事実であろう。ただし、この作品が教会ではなくコンサートホールで初演されたことは重要だ。当時はオラトリオが「脱宗教化」していく時代でもあった。

 一方、≪エリヤ≫は旧約聖書に基づく。ではこれはメンデルスゾーンが決別したはずのユダヤ性と改めて向き合って作ったものなのだろうか? 本書ではそのような見方をしていない。むしろユダヤ教とかキリスト教とか、 カトリックとかプロテスタントとかいう宗教の違いを超えた普遍的な真理を表現する素材としてエリヤを選んだのではないか? と著者は推測している。それはメンデルスゾーンの父の教えでもあった。どのような宗教を信仰していようとも、宗教の表面的な違いを超えた「唯一の真理」に到達できる、というのが父の考えだった。≪エリヤ≫の作曲には、その考えが影響しているのかもしれない。

しかし、メンデルスゾーンは厖大な手紙を書いているが、作品についての個人的な考えを語ることが極端に少なく、実際にどうであったかはわからない。とはいえ≪パウロ≫と≪エリヤ≫は、メンデルスゾーンという天才が、並大抵でない思いを抱いて作曲したことは確実であり、彼の音楽を理解する上でも重要な位置を占めているのである。

ところで、メンデルスゾーンは日本ではなぜか人気がいまいちで、現在では一冊の伝記も(新刊では)販売されていない。日本人にとって、メンデルスゾーンの思想は勿論、生涯の基本的な事項すらも謎に包まれている。そういう状況の中で、限定的なテーマであるとはいえ、メンデルスゾーンをテーマにした本が出版されたことは喜ばしい。この調子で新しい伝記が出版されて欲しいと願うばかりである。

メンデルスゾーンのオラトリオを宗教性から読み解く堅実な本。


2022年6月16日木曜日

『文明国をめざして—幕末から明治時代前期(日本の歴史13)』牧原 憲夫 著

明治時代、どのようにして民衆が「文明化」されたかを述べる本。

本書は非常に刺激的である。明治時代の歴史というと、政権の中枢にいた人たちを主役に描かれることがほとんどだが、本書の主役はそれに翻弄されていた民衆の方なのだ。そのため本書では、新聞や雑誌、戯画や戯作の類まで動員して、民衆の心象を探っている。

明治を表象するコンセプトは「開化」と「復古」である。「開化」は言うまでもなく近代化=西洋化のことだ。それは政体の西洋化に留まらない。政府は「文明国」に相応しい人民となるよう風俗を矯正した。一方「復古」は明治維新の大義名分であり、「神武創業の始め」に戻ることが明治政府の正統性を保証した。この2つのコンセプトは一見相反するように見えたが、実は「江戸時代を否定する」という点で共通しており、相補的なものであった。

「第1章 幕末の激動と民衆」では、幕末の民衆意識が概観される。

幕末には大地震が頻発した。嘉永6年(1853)に小田原大地震、安政元年(1854)には伊賀上野大地震、東海大地震、南海大地震が立て続けに起こり、安政2年(1855)には江戸で安政大地震、安政4年、5年にも各地で地震が起こった。これにより職人は引っ張りだことなり賃金が上昇。財産をあまり持たない庶民は地震の被害が相対的に小さかったから、打ちひしがれるどころか「世直し」への期待が高まった。

一方、開国によって大量の小判が海外に輸出されたことに対応し(金銀の交換レートの内外差によって金が流出した)、幕府は金銀の交換レートを改訂。その結果、名目の貨幣総領が急に増えたためインフレが引き起こされた。特に慶応2年(1866)には一揆・打ちこわしが頻発し、江戸時代を通じて最大の件数に達した。しかし民衆は開国や攘夷といったことに関心はなく、ただ適正な米の価格を求めただけのことだった。

一転して慶応3年には豊作となり、それまで猖獗をきわめたコレラも落ち着き、長州戦争も終結した。この年はインフレが農民・商人の収入を増やす結果になり「庶民は悉く繁盛」した。この楽天的ムードが西日本を中心に「ええじゃないか」をもたらす。伊勢神宮のお札が降ったのをきっかけに、異様な身なりをして富裕者へ酒食を強要、秩序を無視して歌い踊ったのである。それは世直しを求めたものではなかったが薩長を歓迎するものではあった。朝廷が機能不全に陥っていることは庶民の目にも明らかだったからだ。

一方、関東では慶応4年に大規模な世直し一揆が起こった。生活に困った貧民が質屋や商人などの家屋を襲った。その要求は決して無茶・無法なものでなく無秩序な破壊ではなかった。権力は、そうした要求に対して「徳義」で応えるべきとの観念があった。

ところが新政権が発足すると、年貢半減令などは早々に撤回され、富商に献金を強要したり御用金を命じた。その結果大坂の両替商の多くが「分捕り」のために破綻。 また慶応4年の世直し一揆の頭取は処罰され、質物・質地などを質屋や地主に返すように命じた。「新政府は庶民の味方ではなかった(p.54)」。そして戊辰戦争では後の日本陸軍に見られるような「分捕り」や「リンチ」が行われ、遺体の埋葬が禁じられるなど凄惨な光景が繰り広げられた。

それまでも、「殺人・強奪・放火を大義名分で正当化した水戸の天狗党(p.59)」などの志士たちが暴力を公然と行使するムードをもたらしていたが、このようにして明治は「暴力の時代」になっていった。

「第2章 「御一新」の現実」では、明治維新の政権を巡る動向が改めて触れられる。

維新は徳川幕府の廃止とともに、朝廷の改革=西洋化を意味した。維新政府は天皇を「文明国」の君主として恥ずかしくないものにしつらえる必要を感じていたのである。東京に天皇を移したのも伝統や格式に囚われた旧勢力から引きはがす目的があった。

また、徳川慶喜征討の勅が出る1日前という緊迫した状況で、「皇族・公卿の涅歯(お歯黒)・点眉は<古制>でないからやめてよい」という一見瑣末な通達が出たのは注目される。「復古」を目的に「開化」を促し、公家らしい外見を捨てるよう進めたのだ。これは公家自体の否定を暗に含んでいたのだろう。 

そして摂政・関白といった旧来の朝廷の仕組みは撤廃され、「太政官」が復興された。「太政官」という名称は復古的だったものの、内容はアメリカの制度を参考にした三権分立の体裁を整えた機構だった。ここでも「復古」と「開化」は一体となっていた。そして、「公議所」が設けられ様々な近代化政策が議論された。政府首脳は議論を必ずしも歓迎したのではないが、未だ政権基盤が脆弱だった維新政府は「公論」を尊重せざるを得なかった。

ところが、政府は民衆の「公論」は全く尊重した気配はない。明治2年は天保以来の大凶作であり年貢の半減・全免を余儀なくされる藩が多かった。ところが政府直轄領では年貢を軽減するといった措置を全くとらなかった。それどころか年貢軽減の嘆願をしたものを牢に入れ次々に獄死させた。こうした高圧的な対応に憤慨して西日本各地で大一揆が起こる。これに対し大隈重信が「千人迄は殺すも咎めざるべし」といって鎮圧を命じたのは有名な話である。

また、明治政府は神仏分離を断行し、それに触発されて廃仏毀釈も引き起こされた。 人々が素朴に信仰していた神仏が否定され、信仰までも作りかえていったのである。人々は信仰世界の破壊を目の当たりにし、神道国教化政策は本来はキリスト教対策が眼目だったにも関わらず、「太政官は異人が牛耳っている」とか、「廃仏政策はキリシタンの仕業ではないか」と疑った。

 「占領軍のような態度で民衆を抑圧し、凶作でも年貢を軽減せず、そのうえ生きる拠所である信心世界まで破壊する——これが「御一新」の現実(中略)であり、ここに近代天皇制の特質を見てとる(p.97)」ことができる。

「第3章 自立と競争の時代」では、開化に伴って人々が「競争社会」に飲み込まれていく様子が述べられる。

廃藩置県が封建的な社会機構を一気に整理した後、留守政府は急進的な改革を進めた。その一つに身分制の解体がある。「四民平等」を謳った布告はないものの、様々な面で人々の同質化を進めたのである。

また、廃藩置県後の行政機構として「大区小区制」を敷いた。これは全国を「大区小区」として機械的に分割し、旧来の「村」を解消して行政を行うものだった。これはあまりにも無理があったので後に修正されるが、明治政府は「村」だけでなく、身分に伴う各種の中間団体を否定して人々をバラバラの個人に再編した。

また「開化」は人々の風俗を改変した。裸は文明的でないからと「裸体禁止」をし、「断髪」は当初は髪型の自由化を意味したが、次第に「開化度」を測る指標となって事実上強制されていった。そうした風俗の矯正を行ったのは封建的な圧制者ではなく、開化思想の地方指導者層だった。彼らは自らが「国民」であることを自覚し、進んで国風の改善に努めたのである。

さらに、そうした指導者層は祭礼を無駄として休止させたり、神仏分離政策にともなって仏教信仰を無駄として切り捨てた。人々の楽しみとなっていた各種の講が廃止され、重要な祭日だったお盆も禁止された。休んでばかりいないで働きなさい、というわけだ。また芸能者や宗教者への施しが禁止された。彼らが働かないのは自己責任なのだから慈悲を施すのは無用だというのだ。その上、障害者なども社会にとって無用な存在だから施しを与える必要はない、と切り捨てた。

初期明治政府の社会経済政策は「自由主義経済」だ。これは一見人々の自由を尊重するように見えて、結局は「強者の自由」を保障するものでしかなかった。社会的弱者は切り捨てられる弱肉強食の社会が到来した。

そして身分を否定し、建前として平等な世の中になったことで、「学歴社会」が出来した。当時の小学校は試験ずくめで、合格しなければ卒業できなかったため中退者が続出した。等しく教育を授けるよりも、刻苦勉励するものを選抜していこうとする思想が強かったのかもしれない。明治政府にとっての「開化」は、野蛮・不潔・無駄なものを切り捨て、勤勉・清潔・有用なもので置き換えることだった。政権の原理は、「徳」から「合理性」へ変容したのである。

「第4章 平等と差別の複合」では、徴兵制と賤民への差別が「開化」をキーに繙かれる。明治政府は徴兵制を敷いたが、これは全員が徴兵されるのではなくクジで当たった人が合計10年も兵役を課される仕組みだったので、庶民は徴兵逃れに奔走した。そういう庶民を横目で見て、武士たちは自分たちの出番だと意気込んだが、新政府は武士の志願制を認めれば実質的に士族復権となることがわかっていたので、民衆にも武士にも敵視された徴兵制を続けるしかなった。

また軍隊の生活は、時計に基づく生活をし、整列して行進するなど、それまでの武士の在り方とも全然異なっていた。軍隊こそが「文明的生活」を養成する場だったのだ。そして近代的な軍隊=国民軍を編成する上で、武士の復権はありえなかった。

実際、明治維新を成し遂げたのは武士であったが、「御一新」の勝者は農民であった。武士は特権を失い、家禄を失い、路頭に迷った。武士は江戸時代には土地と遊離していたから、地主になり損ねたのである。そして現実に耕作している農民に土地所有権が認められた。

しかしそれは、農民が引き続き納税者になるということでもあった。「地租改正」で土地の私有が認められ、その代わりに地価のに応じた納税が必要になったからである。これは土地に紐付いた税という意味では江戸時代の年貢と似ていたが実際には大きな違いがあった。それは地主制への道を開いた点である。

年貢は村請制であり、納税責任を負うのは「村」だった。ところが地租の場合は納税責任はあくまで個人にある。さらに土地の共同所持を否定し、土地は個人の所有物とした。村請制では原理上、他村の土地を大量に持つのは難しい。ところが村単位の仕組みがなくなり、「徳義」ではなく「合理性」が幅をきかせるようになると、少数の強者が土地を集積していくのは自然のなりゆきだった。

明治6年(1873)には地租改正、断髪反対などを主眼とする騒動が西日本各地で起こった。民衆は開化政策を拒否したのだ。そこでは被差別民の焼き討ちなど、「穢多」の解放に反対する主張があったのが注目される。これは直接には開化政策の一つである明治4年の賤民制廃止令に基づくものだったが、人々の意識の中でも「開化」と「差別」の問題は繋がっていた。

江戸時代の賤民(穢多=かわた)は、被差別階級を為していたとはいえ、清めの役割や皮革の取り扱いといった経済的特権も付与されており、決して貧困に喘いでいたわけではない。それどころか百姓よりも裕福なかわたは多く、関東のかわたの頭である弾左衞門は3000石の旗本並みの存在だった。しかし維新政府は賤民制を廃止した一方で、彼らの清めの役割や特権も剥奪して形の上で「平等」にした。

結果的には、彼らは百姓並みになるどころか自由競争の社会に投げ出されて経済的に没落し、彼らの「「穢れ」は「不潔」に置き換えられ(p.166)」、文明社会に対応できなかったものとして新たな「差別」の対象となっていった。「「地域と生まれ」が固定された「部落」の差別が、ほんとうに苛酷になるのは文明開化期以降(同)」なのだ。そうしてこうした差別意識は、アイヌ、琉球、朝鮮、中国の人々へも広がっていく。日本は「文明化」を成し遂げた一等国であり、こうした地域は未だに遅れた野蛮な場所だから差別してもよい、というのである。

「第5章 近代天皇制への助走」では、結果的に近代天皇制を準備することになった変節が述べられる。

明治天皇は当初、むしろ親しみやすい君主として登場する。江戸時代の将軍に対するように平身低頭する必要はないと政府は民衆に伝えた。天皇自身が文明開化の象徴であり、西洋の君主のように人々と親密な関係を結ぶ必要があった。皇后も西洋の王妃と同じように外交の場に出てきた。

明治政府は朝廷を西洋化したが、それは「開化」であるとともに「復古」でもあった。西洋近代は日本古代と通ずるとされたのである。

人々の生活を劇的に変えてしまった「開化」が、太陰暦から太陽暦への「改暦」だった。民衆はすぐにこれに順応したのではないが、祝日が全て天皇関係(新嘗祭、天長節、元始祭など)に置き換えられたり、五節句が廃止されたりといったことで太陽暦は国民生活に浸透していった。そして旧来の行事は廃止され、または太陽暦の日程では季節感が合わなくなったため低調になった。ちなみに定時法(一日24時間)はあまり抵抗なく受け入れられた。

一方、政府は一度は神道を国教化したものの、仏教界と妥協し、神仏合同の「国民教化運動」を進めた。ところが、先述の明治6年の西日本各地の一揆を受けてこれも修正を余儀なくされる。「三条の教則」と呼ばれる原則に対する「兼題」(具体的な行動の模範を示すもの)の変化にそれが窺われる。「西欧化との対決を目的とした教導政策が、一転して開化政策を民衆に浸透させるものになった(p.191)」のである。

もちろん神道派はあくまでも「復古」を主張し、例えば古式に則って「火葬禁止令」を出したが、これは埋葬箇所が足りないといった現実的問題からすぐに撤回された。何が古制であるか、何が仏教的(神道的でない)かは、恣意的であり、どうにでも解釈できた。それが神道派の弱さでもあったが、神道派のリーダーたちは神道は宗教ではなく国家の「政典憲章」であるとし、この見解は神道の国教化を防ぎたい島地黙雷や大内青巒などの仏教家と奇妙に一致していた。結果、神道は宗教ではないこととされ、宗教を超越した「国家神道」への道を歩むこととなった。

「第6章 「帝国」に向かって」では、明治政府の対外政策が述べられる。

これ以降の章は、庶民の心情よりも政府の動向が中心だ。明治初年には早くも朝鮮との外交に問題が起き、征韓論が萌芽した。神功皇后の朝鮮征伐を事実と見なし、朝鮮は日本の属国であるとする「復古」の論理もその背景にあった。明治6年には「明治六年政変」(征韓論争)が起きて薩摩出身者が大量に政府を去った。

台湾出兵も大義名分なき侵略だった。明治政府は万国公法的へりくつによって東アジアの伝統的秩序を無視して台湾に兵を送る。台湾は「無主の地」だからこれを分捕るのは自由だという論理だった。これに対しイギリスやアメリカが抗議。思わぬ批判に驚いた政府は矛を収めようとしたが、すでに出動していた軍隊は勝手に行動し、それを政府も追認した。後の戦争でお決まりのパターンになるやり方だった。

しかし明治の初めまでは、庶民は外国人を敵視する態度は持っていなかった。だが次第に日本人は自らを「文明化」されたと信じ、清国人や黒人を野蛮なものとして蔑視し、優越感を抱くようになった。これは西洋人のそういう態度を受け継いだのかもしれないし、文明化の副作用でもあっただろう。「むろん、それをあおったのは新聞(p.227)」だった。

この蔑視の目は琉球や北海道にも向けられる。明治12年、政府は琉球に沖縄県を置いた。それまで琉球は薩摩藩の属国であったが対外的には独立の体であり、清国にも独立国として朝貢していた。それを勝手に日本に組み入れたのである。当然清国も抗議し、琉球人も反発。イギリスからも批判を受けたがなし崩し的に占領を続け、人々の心情を無視して同化政策を行った。「琉球問題の最終解決は日清戦争まで持ち越された(p.231)」。

樺太、千島、北海道に至っては、最初から「無主の地」であると決めつけて分捕った。アイヌが生活していることは知っていたが、それは「土人」であるからものの数には入らない、というのだ。北海道の場合、アイヌの存在を無視して政府や藩で開墾地を割り当て、アイヌに対しては和人化政策を行った。彼らの文化は否定されたのだ。

しかし「琉球の民衆やアイヌが受けた同化政策、「姓・名」の確定、断髪、小学校、日本語(標準語)等々の強制は、「生蕃並み」といわれた本土の民衆がこうむったものと基本的に変わらない。(中略)文明開化とは何よりもまず日本自体の「自己植民地化」(p.241)」だったのである。

明治10年、鹿児島では西南戦争が起こった。鹿児島の士族は文明開化を否定し、士族の特権の解体を認めなかった。これは激闘の末政府に鎮圧されたが、結果的に尊攘派志士を潰滅させることとなった。明治維新は尊攘派志士が成し遂げたものであったが、「開化」に否定的だった彼らが潰滅したことで、明治政府は「開化」を完遂することができるようになったのである。

「第7章 国民・民権・民衆」では、国会開設に向けた様々な動向が語られる。

明治の世論を語る上で見逃せないのが新聞である。明治6年頃から新聞は盛んに創刊された。新聞は建白を掲載し、これまで国政に参与したことのなかった平民までが国民の一員として「国恩に報いる」ことを考えて建白し、時には政府への献金まで呼びかけ実現させた。

しかし政府は介入を嫌い、献金も受け取らなかった。政府と民衆の間には、見た目以上に断絶があったのだ。それを痛感した人々は「民撰議院」の設立を指向しはじめる。国家と自分たちを同一視し、一蓮托生の存在と考えたからだ。「民権論と愛国心は不可分(p.261)」なのである。なおこの時期に、政府と国民を一体視せず、「客分」的な論理で「政府の借金は官債であり自分たちの借金ではない」とラディカルに考えた窪田次郎の例は興味深い。

明治13年には町村議会ができる。しかしここでは、江戸時代の村の寄合では当然参加出来た女戸主や貧民は排除された。国家にとって議会は火種も抱えていたが、代議員制は権力者の都合のいいように代表を設定することができたから御しやすくもあった。

一方、板垣退助らは明治10年に「民撰議院設立建白書」を提出したが、議会開設を求める運動を政府は弾圧した。明治15年には「官吏侮辱罪」が成立し、官吏に反抗すると些細なことでも逮捕できるようになった。しかし自由民権運動が政府への抵抗運動だったわけではない。それどころか自由民権運動は政府へ「国民の権利」を求めると同時に、民衆にも「国民の自覚」を喚起する「愛国的運動」だった。そしてここでも、天皇が持ち出された。「「天皇は国民の味方だ」という観念を浸透させる上で一定の役割を果たしたのは、政府よりも民権運動の側だった(p.274)」 。

「明治十四年政変」では、それまで憲法について調査し、民権派の意見を容れて案を作ってきた大隈重信が政権から排除され、政権は薩長が独占するに至った。翌日明治23年の国会開設を約束する勅諭が出され、政権は国会開設に向けて動き始める。

一方、民権運動は昏迷する。民衆は穏当・理性的な議論よりも、過激・感情的な煽動の方によく反応した。民権家たちも民衆の支持がなければ活動が成り立たなかったので、そうした民衆の心情を汲まないわけにはいかなかった。また明治16年頃には民権運動自体が不況のために低調化した。そしてそれは、主義よりも公共事業の配分を巡る争いになっていく。

明治17年、朝鮮における日本派がクーデターを起こし失敗した「甲申政変」が起き、日本の朝鮮政策は頓挫する。この政変では日本の公使館員・居留民らが40名殺されたことで、福澤諭吉が『脱亜論』で朝鮮や清国を切り捨てた他、民衆も激しく反応し、ナショナリズムが高まっていった。

「第8章 帝国憲法体制の成立」では国会開設に至るまでの政府の動きを述べている。

明治10年頃には、政府が生活習慣にまで口を出す啓蒙的専制の時代は終わり、むしろ自由放任的なムードになってきた。農村も豊作に恵まれて好景気になったが、明治13年には好況が終わり15年にはデフレに陥っていく。そして経済が地主・大企業中心になり「経済的・文明的強者が自己の利益を追求する——そういう時代の始まり(p.303)」だった。

明治19年(1886)の帝国学校令・師範学校令・中学校令・小学校令では、学校と社会的地位が明確にリンクするようになり、明治20年には試験で官吏を選抜するようになった。小学校の学費が無料化され卒業試験がなくなるなど、国民が広く学校に通うようになる。また運動会が兵式体操の一環で始まるなど、軍隊式集団主義が小学校に導入されていった。 

女子教育については、「良妻賢母」を育成するための教育だった。つまり女性のための教育ではなく、その子どもや夫のための教育なのだ。また明治31年の民法では戸主(男性)の権限が強化され女性は「二級市民」とならざるをえなかった。

また、皇室財産が設定されて皇室の基盤が確立するとともに、ご真影・日の丸・君が代・万歳という国民統治の「四点セット」が勢揃いした。皇室への讃仰を通じて国家の一員となる政策がどんどん進んでいく。

同時に、日本文化や歴史の見直しがなされるようになり、「日本国民」としての自覚が促されたのもこの時期だ。しかしいくら「日本国民」としての自覚があっても、現実には多くの人には参政権はなく、国政に関与していくことはできなかった。帝国憲法体制では「我々人民はもはや前日の無権力・無責任なる国民ではない(朝野新聞)(p.334)」と言われたが、現実には「直接国税15円以上を納める25歳以上の男性」しか衆議院議員選挙権は持っていなかった。圧倒的多数の人民が「非−国民」の立場におかれたのだ。だから結局、議会は人民の議会ではなかった。しかしそれでも、天皇は人民の天皇だった。だから政府は、民主制ではなく、天皇を通じて人民を国家に統合したのである。人々が「天皇の赤子(せきし)」=「臣民」と呼ばれるようになったのは、それを象徴していた。

そして「帝国憲法は、天皇主権と立憲主義の複合体(p.337)」であり自縄自縛の状態に陥った。伊藤博文や陸奥宗光は、その不具合を清国との戦争によって脱しようとしていくのである。

本書は全体として、庶民の側から見た「文明開化」を検証するものとなっている。それは、我々が通常の「通史」で見る明治維新とは随分違っている。もちろん一般的な通史においても、文明開化が強制的なものであり歓迎しない庶民は多かった、ということは語られる。しかし本書では当時の多くの「生の声」を拾い集め、それを使って明治初期の歴史をヴィヴィッドに浮かび上がらせている。特に第5章までの記述は非常にオリジナリティがあり、必読書のレベルに達している。

文明開化を庶民から見るスリリングな論考。

【関連書籍の読書メモ】
『明治のむら』大島 美津子 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/02/blog-post_14.html
明治時代の農村政策を描く。明治政府が、どのように村落を再構築していったのかを克明に語る出色の農村史。

 

2022年6月11日土曜日

『維新史再考—公議・王政から集権・脱身分化へ』三谷 博 著

幕末の政局を見通しよく描く本。

本書は、幕末の政局が直面した課題を主役にして維新史を編んだものである。つまり、志士たちの活躍とか激動する事件とかは主役ではなく、時の政権が直面した構造的な課題を読み解き、それをどう解消していったのかという視点で明治維新に至る歴史を語っている。

本書前半(第1章〜第4章)は、近世の社会が置かれていた状況がグローバルな視野から再検討される。著者は近世日本の政治体制を「幕藩体制」ではなく「双頭・連邦国家」と呼ぶ。禁裏(天皇・朝廷)と公儀(徳川幕府)という双頭の下に、大名の領国が半独立に存在していたからである。

その下で日本には極端に「忠」を肥大させた国家主義が発達したが、実際の政策決定はボトムアップ式であり、幾多の上申を経て老中が決裁する仕組みだった。また家格と決定権が分離しており、むしろ大大名であればこそ政権の意志決定からは排除されていた。彼らが外様大名であったという事情もあるが、外様の場合も小大名からは老中が輩出されていた。島津のような外様の大大名は、政権から排除されていることを不満とし、政権への参画を様々な形で図っていくのである。

また当初は厳格であった身分も、学問や武芸といった面では徐々に混ざり合い、また「塾」などを介して全国規模のネットワークが育っていった。そして人々は一方的に統治されるのではなく、「国民」として「御国(おくに)」のことを考える土壌が育っていた。

一方、幕末にかけて西洋諸国は東アジアに関心を寄せるようになり、特にロシアとの関係が緊張した。このような中、「日本知識人の世界像は、中国を主軸に構成するものから西洋を中心に構成するものへと、はっきりと転換した(p.97)」。そして西洋に対抗するため、日本を「より統合性の高い軍事強国として再建する(p.98)」ことが考えられるようになった(会沢正志斎『新論』)。

本書中盤(第5章〜第11章)は幕末から王政復古までの政局の変転を丁寧に描いている。 天保期からペリー来訪までの政策課題は「鎖国」「避戦」「海防」であり、幕府(公儀)は大きく鎖国・海防へと傾いたが、ペリー来航によって開国へと政策転換した。公儀主導の挙国一致への動きが、「大名や武士の間に広く参加願望を生みだし(p.133)」、特に大大名たちは「公儀の決定権を、譜代の小大名からなる老中から、家門・外様の大大名の連合体に移そうと考え始めた(p.134)」。橋本左内はさらに土地や身分を問わず有能な人物を政権に登用することも構想した。当初の左内の構想に天皇中心といったアイデアはなかったのだが、安政5年に左内は政体変革構想に「朝廷」を組み込むことを思いつき、後に「王政」の下の「公儀」という政体へと行き着くことになった。

ところでアメリカへの条約勅許を朝廷に申請したことで「朝廷の拒否権」が明確化され、これが次なる政策課題となった。特にハリスが予定より1年早く来航したため、大老井伊直弼が勅許を待たず即日調印したことが大問題となる。一橋慶喜を将軍に待望する一派はこの不備を突いて江戸城に登城したがかえって弾圧され、「安政の大獄」が始まった。こうして幕閣専制が復活したかに見えたものの、桜田門外の変で井伊直弼が白昼堂々暗殺されると幕府の威光はガタ落ちとなった。しかし幕府は海軍を大規模に編成して近代的軍制へと舵を切った。

そして条約勅許問題によって朝廷と幕府の間がギクシャクすると、これを周旋することに政治的価値が生まれた。特に長州藩が朝廷と近づいた。諸藩の周旋の結果、将軍が上洛して天皇に謁見して幕府は攘夷を公約させられることとなり、朝幕の地位は完全に逆転した。このあたり(文久年間)から「王政復古」が公家(三条実美)や長州過激派などにより視野に入ってくるようになる。ちなみに早くも安政5年(1858)には久留米の神官真木和泉が王政復古を構想し『大夢記』というシナリオまで書いている。

しかし文久3年(1863)、薩摩・会津が中心になって起こしたクーデター「八月十八日の政変」により攘夷派公家と長州藩が京都から排除され、天皇と将軍が和解して「公武合体体制」が作られた(一会桑政権)。この体制では大名が朝義に参与し、幕議にも参画していくことが構想されたが、幕府はこれを拒否。島津久光は「公武合体体制」による「公議」によって幕政に参加していくことを考えていたのであるが、それどころか幕府は大大名の朝義への関与権まで否定し京都から追い出した。こうして薩摩は幕府に強い不信を抱くようになるのである。

一方、クーデターからの再起を図り「禁門の変」を起こして京都を奪還しようとした長州はあえなく鎮圧され「朝敵」となった。こうして長州の処分をどうするかが朝幕で問題となる。その際の一つの焦点が、「公武合体体制」において大大名たちをどう取り込み長州問題に結論を出すかであったが、結果的には大大名の招集は棚上げになった。他方、長州は下関戦争で外国に屈すると攘夷をあっさりと捨て、軍事機構を大胆に西洋風に組み替え、幕府との戦争に備えた。そして土佐の中岡慎太郎の仲介で薩長が接近し、裏で「薩長盟約」が成立。王政復古の実現のための協力が謳われるのである。

長州は幕府による処分案を拒否し、慶応2年(1866)年に長州戦争が起こった。しかし幕府は苦戦し、戦争中に将軍家茂が病死。こうして政局が不安定になったことを逆手に取り、一橋慶喜は将軍に就任するとともに政敵(山階宮や正親町三条)を排除した。さらに同年、孝明天皇も天然痘で亡くなる。慶喜は意欲的に幕政改革に取り組むととに、西洋への華々しい外交を展開した。

これに対し、島津久光(薩摩)、山内容堂(土佐)、伊達宗城(宇和島)、松平春嶽(越前)の四侯は政体の一新のために協調し、慶喜に対し「反正」を求める議論をふっかけたが、慶喜の方が一枚上手であり、徹夜の会議は慶喜の粘り勝ちとなった。徳川慶喜は、歴代将軍の中でも特に有能で雄弁、自負心があり実際に全ての問題を自ら裁量していた。将軍という立場も考えれば、誰も慶喜に言論で対抗できるものはいなかったのである。

であればこそ、慶応3年(1867)、薩摩は「政治交渉を断念し、基本方針を武力動員による政体一新に転換した(p.257)」。ここからは、「個々の争点は後景に退き、政体転換をめぐる赤裸々な権力闘争が主題となった(p.258)」。 大まかに言えば、大政奉還による政権の一元化と、大藩の連合による「公議」の実現については多くの陣営で共通した目標だった。違うのは、その来るべき政体において引き続き徳川家(徳川慶喜)が中心になるのか、それとも徳川家を排除するのか(薩長)、という点である。朝敵とされていた長州は政局の蚊帳の外におり、薩摩にも来たるべき政体へのヴィジョンはなかったが、土佐の後藤象二郎らが政策転換して「制度一新、政権朝に帰し、諸侯会議・人民共和」の体制を創出するという構想を固めて、これに薩摩が乗って方向性が定まった(薩土盟約)。

ただし、島津久光は武力行使に消極的で、土佐の山内容堂の参加によって平和裏に政権移行が可能だと期待していた。ところが後藤象二郎の京都到着が遅れたため機会を逸し、盟約は事実上棚上げされて互いの妨害をしないというところまで後退した。そして薩摩は単独挙兵の道を探ったがリスクが大きすぎ、また国元でも挙兵反対論があって一枚岩ではなかった。このため朝廷の裏工作によって「討幕の密勅」を下してもらったものの、慶応3年(1867)10月14日、徳川慶喜は自ら政権返上を申し出て事態が大きく動く。

慶喜は政権を投げ出したのではなく、「天皇の直下に大大名の連合政権を組織し、自らその首班となって日本を強国とする(p.275)」ために政権返上を申し出た。これにより、天皇に対して恭順の意を示し、自身への批判をかわす意図もあった。そして朝廷には自ら政権を担っていこうとする意志も能力もなかったから、結局は武家が政権の実務を担うことは既定路線であった。よって慶喜は再び政局を手中に収めるため猛烈に運動を開始した。

しかし薩摩は岩倉具視と結んで武力クーデターを計画し、土佐にも事前に知らせた。土佐→越前を通じクーデター計画は慶喜にまで漏れたが、慶喜は京都での戦乱を回避することとし、全面対決しなかった。こうして薩・土・尾・越・芸の5藩は朝廷を封鎖し、その状態で朝議が行われて慶喜の排除が決定された。さらに12月14日には王政復古が布告され、復古に基づく「公議」が謳われた。ところが尾・越はこれまでの徳川家との関係から慶喜の政権参加を周旋した。これでは何のためのクーデターか分からない。クーデターに参加した5藩のうち、徳川の打倒に執心したのは薩摩のみだったのだ。そこで薩摩は長く朝敵とされていた長州と手を結び、徳川方と薩摩・長州の間で鳥羽伏見の戦いが勃発し幕軍は敗退した。これは小規模な戦闘だったが、日和見を決め込んでいた諸大名はなだれをうって薩長に合流し、なし崩し的に新政府が発足した。

本書後半(第12章〜終章)は、それまでの緻密な記述とは違い、いきなり駆け足で歴史をなぞっていく。まるで講義の時間が足りなくなってしまったような感じである。著者自身が「学生時代以来、久しぶりの勉強となった(あとがき)」と述べており、通説の要約以上の内容がないため、ない方が全体的なまとまりはよかったように思う。

とはいえ、この部分で本書の重要なテーマである「脱身分化」が述べられる。新政府は、無位無官の武士たちが参画していたためもあり、身分や家格に囚われない運営が当初から指向された。「人材登用」の結果、無能な公家が排除されるとともに、幕末のギリギリの政局をくぐり抜けてきた大名家臣(徴士)たちが政権の中心に躍り出ていった。そして政権では「公議」「公論」が強調された。明治政府の当初には、上意下達的ではない、ボトムアップ式の議会主義が胚胎していたのである。

そしてもう一つ、武士身分の解体に与ったのは皮肉なことに戊辰戦争だった。従来の武士の戦いが使いものにならないことが明らかになり、近代的な銃隊が編成されたからである。さらには戊辰戦争への動員は各藩の財政を急激に悪化させ、上級武士の俸禄が相対的に大きく削られたことで武士身分内の平準化が思わぬ形で進むことになった。

戊辰戦争後は、軍事的発動が困難な情勢になっていったため、「公議」すなわち言論によって中央集権国家に再編成するしかなかったが、大藩においてこれは簡単には受け入れがたい変革であった。ところが西郷隆盛は最終的には武力をちらつかせてあっさりと廃藩置県を成し遂げた。藩がなくなったことで武士は失業。「廃藩の直後、政府は世襲身分を解体する様々の措置を一気に展開した(p.344)」。散発脱刀、婚姻の自由化、穢多・非人の称の廃止などである。これらは大蔵省の渋沢栄一が中心になって進められたが、それは彼の出自が百姓(豪農商)であったことが関係しているのではないかという。しかし結果的には、身分を平等化したことは徴税を平等化することにつながり、このせいで負担増になった階層も多かった。

さらに教育、徴兵、人口と国土の把握、交通・インフラ整備などを進め、地租改正を行って土地の売買を自由化するとともに、家禄処分を行った。このあたりの記述は極めて概略的である。さらに留守政府、征韓論争、西南内乱(西南戦争)と続くが、やや旧い学説のまま書かれているような印象を受けた(参考文献に毛利敏彦氏の著作がない。これは意図的に避けているのだろうか)。ただし島津久光の動向を詳しく追っているのは興味を引いた。終章では、明治維新が改めてグローバルな立場から位置づけられ、「公議」が「自由民権」へと受け継がれていったと述べる。

本書は全体として、政局の変転を緻密に追うもので、少なくとも王政復古までは最近の学説が援用されてかなりよくまとまっている。しかし政局の変転がメインであるために、個人の履歴や思想はほとんど顧みられることがなく、「その状況で、なぜそのような選択がなされたのか」という考察はほとんどない。さらには民衆の動向は完全に閑却されている。例えば幕末の「ええじゃないか」運動などは政局にも影響を与えたのは確実であるが全く触れられない。つまり本書は「政局中心史観」とでも言うべきもので記述されており、幕末明治の歴史を多角的に捉えたものとはいえない。

しかしながら、王政復古までの記述については非常に説得力が高くかつ平易である。古典的な価値を有する力作といえると思う。

「政局中心史観」で書かれた明治維新の新しい教科書。

【関連書籍の読書メモ】
『明治維新』遠山 茂樹 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/03/blog-post_6.html
唯物史観から見た明治維新の分析。明治維新について考える際には必ず手に取るべき古典。

 

2022年5月21日土曜日

『泉光院江戸旅日記——山伏が見た江戸期庶民のくらし』石川 英輔 著

日本を巡った山伏の旅日記。

佐土原藩の山伏、野田泉光院成亮(しげすけ)は、文化9年(1812)から6年2ヶ月にわたって托鉢しながら全国を旅し、その様子をマメに日記に記した。本書は、その日記『日本九峰修行日記』を読み解くものである。

彼は山伏としては大先達という非常に高い位を持ち、佐土原島津家から27石の禄を受ける家臣でもあった。僧侶であり同時に武士であったのは不思議だが、彼は元は薩摩国出水の野田庄の武家の流れだった。安宮寺という山伏寺を世襲しつつ、同時に武士の身分も受け継いでいったようだ。

ともかく泉光院は主君の命を受け、平四郎という合力(剛力=荷物持ち)を連れて、全国を巡る旅に出るのである。

私は本書を2つの興味から手に取った。第1に、当時の旅について知りたいということ、第2に、宗教者の回国がどのようなものであったか知りたいということである。

第1点からまず興味を引いたのが往来手形のことである。当時は、檀那寺や役所から往来手形というパスポートを発行してもらい旅をした。そして各地の関所で往来手形を確認した……ということになっている。ところが本書を読むと、まず関所・番所自体が少ない(泉光院は、番所の大規模なものが関所、というような用語の使い方をしている)。領国(藩)を超えるときも関所などないことがほとんどである。関所がないのだから、手形は見せようがない。また番所がある場合も、手形を見せなくても通過できるところが多い(何を確認していたのだろうか?)。これは幕府の番所でもである。逆に、通行の際に手形は改めずにお金を取る番所もあった。全体的に言って、往来手形の扱いや番所の通行はかなりいいかげんである。なお、泉光院が泊まる際も一度を除いて往来手形を見せて欲しいと言われることはなかった。ただし、唯一の例外が薩摩藩で、薩摩藩では非常に厳しい「出入国管理」をしていた。薩摩藩の特殊性はここでも際立っている。

そして、泉光院たちは旅の途中に大勢の旅人に出会う。当時、勝手気ままにふらふら旅している庶民がかなり多かったようだ。特に六部(六十六部廻国聖)とはよく出会う。六部というのは、ちゃんとした(専門の)修行の回国もあったが、自称の六部も多かったようだ。妻を尼といって連れ歩く夫婦の回国者もかなり見受けられる。ほとんど観光旅行のような感じである。なお泉光院は、「妻を尼といって連れ歩くとはけしからん」と思っているが、しかし泉光院自身も妻帯しており、宗教者として妻帯すること自体を非難しているわけではないと思う。

ではその旅人たちはどうやって旅を続けていたのかというと、托鉢しながら普通の民家に泊めてもらっていた。本書を読んで一番驚かされるのはここで、当時の日本には見ず知らずの人を喜んで泊める人たちが日本全国にいたのである。泉光院たちも、6年以上の旅でただの一度も野宿していない。宿に困った時もすんでのところで親切な人が現れて泊めてもらえるのである。

というのは、当時の農村の人々は情報に飢えていた。日本中を回っている旅人から話を聞くことは楽しい娯楽でもあったのだ。とはいえ、世の中がみんなそうだったわけではない。特に都市部では泊めてくれる家が少なく、泉光院たちも木賃宿や旅籠に泊まっている。また農村部でも一向宗と日蓮宗の村では苦労し、ことに日蓮宗の村は托鉢も出来ず回国者を一切泊めないためおおむね素通りしている。

また、村の申し合わせで旅人を泊めないことになっている土地もあった。ところがそういうところにも辻堂(数軒が集まって檀那寺以外に維持した無住の小さなお堂)があって、そこを使わせてもらうことができた。逆に回国者を泊めることを誇る土地もあり、そういう場所では家々が「今年はうちは何人を泊めた」と自慢しあっていたり、回国千人宿という回国者ばかりを泊める場所があった。回国者の扱いはこのように色々だが、日蓮宗以外の村ではたいてい親切な人が困った人を泊めていた。

そして、当時の回国には「年宿(としやど)」という風習があった。どうやら、年末年始というのは托鉢や移動をしないという了解があったらしい。よって回国者は12月25日頃から2週間〜1ヶ月くらい、一つの家に逗留して年末年始を過ごすのである。これが「年宿」である。見ず知らずの人を1ヶ月も泊める家を見つけるのはなかなか難しい、と感じるがさにあらず。泉光院は年末が近くなると「今年の年宿はもうお決まりですか」などと声を掛けられ、「決まっていなかったらうちへお越し下さい」などといって毎年あっさりと年宿の家が見つかるのである。驚くべき親切さである。

ちなみに、そのようにして泊まるのはタダだったか? 泉光院の日記には、「謝礼を断られた」という表現がしばしば出てくるので、泊めてもらった家には普通はそれなりの謝礼はしたらしい。しかし彼らが謝礼目当てに旅人を泊めたのではないことは明白であり、謝礼は少なくとも木賃宿などの宿泊料よりも安かったようである。

ともかく、当時の人たちが今から見れば度外れた親切心を持っている、ということには本書を読みながら何度も驚かされた。宿泊だけでなく、托鉢についてもそれは言える。六部などの回国者は、托鉢をしながら日々の糧を得て旅を続けたのであるが、托鉢について再考を促される事例が途中に出てきた。

ある時、合力の平四郎が、「札を配って托鉢をするのは、札を作る手間もあり効率が悪い。自分は札なしで、泉光院は札ありで托鉢をして、どちらが多く托鉢を集めるか競争しよう」と言い出したようなのである。その結果は、平四郎が米4合に対して、泉光院が米5合と銭百文で勝ち、結局それまで通り札を配りながら托鉢をすることになった模様である。

この事例で非常に驚くのは、平四郎は僧侶でもなんでもない町人である、ということだ。町人が托鉢をしても、高位の山伏の托鉢と同じくらい米や銭を集めることができたのである(少なくとも平四郎はそう考えていた)。他の箇所でも平四郎は泉光院とは別に托鉢をしてそれなりの実績を上げている。泉光院は、身をやつしていたとはいえ職業的宗教者であり、服装も山伏の恰好だったはずである。泉光院に喜捨する人々がいたのはわかる。しかし平四郎は全くの俗人だ。泉光院の弟子でもなんでもない。その平四郎が一人で托鉢してもそれなりに集まったということは、人は何に対して喜捨していたのだろうか。

私はこれまで、回国者や山伏というのは決まった服装があり、その服装をしている者は宗教者と見なして人々は喜捨をしたのだ、と考えていた。しかし平四郎のことを考えるとそうではないらしい。宗教者であるか否かに関わらず、托鉢には人々は協力していたようなのだ。しかも、泉光院と平四郎が托鉢勝負をしたことを考えても、宗教者だからといってたくさん托鉢に応じる、というわけでもなかったのだ。もちろん、人々は喜捨が作善の行為であるという意識はあった。だが誰に施すかはそれほど重要ではなかったようなのである。困っている人を助けること自体が作善だと思っていたのかもしれない。

そしてもう一つ気付いたのは、托鉢では結構お米をもらっているということである。江戸時代の農村では、白い米を食べられるのは限られた日だけだった、というようなイメージがあるがそうではない。泉光院たちはよく白い米をもらっている。控えめに見積もっても、白い米が非常な贅沢品であったということはありえない。

ちなみに、托鉢には様々な人が応じたが、人が多いところで多くの米や銭が集まったかというとそうでもなく、むしろ農村の方が托鉢はしやすかった。日蓮宗以外で一番やりづらかったのは、商業都市だったようだ。商業が盛んになると親切心や真心が失われるということはあるらしい。とはいえ、托鉢に応じるかは貧富の問題というよりライフスタイルの問題なのかもしれない。泉光院自身、「田舎の方が面白い」といって田舎では悠々と楽しく過ごしている。

泉光院は当時としては非常な知識人である。田舎に彼がやってくると、その学識や全国を廻った経験、そして祈祷の能力といったものが買われて、田舎では引っ張りだこになるのである。 泉光院はしょっちゅう病気平癒の祈祷をやっている。そして滞在するうちに、うちにも祈祷してくれという依頼が舞い込んだかと思うと、四書の講義を頼まれたりする。四書(孔子、孟子、大学、中庸)など、田舎の人たちに何の関係があったのかと思うが、泉光院自身も「田舎の青年を教えるのは楽しい」といって熱心に講義する。すると近所の人が大勢集まってきて、老若男女が四書の講義を熱心に聞く、ということになる。どうも田舎の人は向学心がすごくあったようだ。

向学心というより、田舎の人にとって知識も娯楽の一つだったのかもしれない。そしてそういう滞在をする際には、ほとんど例外なくその地方の人と俳句、連句、短歌のやりとりがある。どんな農村にもこうした短文詩を嗜む人がいて、コミュニケーションに使われていた。現代ではすっかり失われてしまったが、このように文学的な素養が全国の寒村にまで行き渡っていたなんて夢のようである。

ところで、泉光院と平四郎の関係は面白い。平四郎は荷物持ちとして雇用されており、二人は主従ではあるが、その関係は我々が想像する「江戸時代の主従関係」とはほど遠い。例えば、平四郎はときどき泉光院に説教をしている。 平四郎は経済合理性を重視するタイプで、泉光院が効率を考えないのが気に食わないようなのだ。先ほどの托鉢勝負もそういう考えからもちかけられた。泉光院は身分の高い武士で、平四郎は泉光院に雇用された町人なのに、全くへいこらしていないのである! 平四郎はちょっと変わり者ではあったらしい。しかし、二人の関係はほとんど対等と言って差し支えなく、武士と町人に厳然とした上下関係はなかったと判断するほかない。

その他ビックリしたのが洗濯。泉光院は洗濯のために何日も一つの家に滞在することがある。どうして洗濯に何日もかかるのかと思っていたが、この頃は着物を解いてから洗って糊をつけ、仕立て直すのが正式の洗濯だったらしい。洗濯とは仕立て直しまで含んでいたのである。しかし、どうして洗うためにいちいち解いたり仕立て直ししたりする必要があったのだろう。

このように、泉光院の旅は、江戸時代の社会が垣間見えるものとなっており滅法面白い。宮本常一もその日記を当時の庶民の暮らしが記録されたものとして本に書いている(『野田泉光院』)。本書は庶民の暮らしというより、旅の足取りを追うことが主眼になっていて、泉光院が記録した地名を現代の地名と照らし合わせて、ほとんどの地名を同定している。こうして泉光院の足取りを辿れることは、地名がそれほどは変更されていないからで、著者は「地名が文化遺産」であるという。無定見な地名の変更は、土地の歴史を断絶させることでもあると感じた。

最後に、泉光院は何のために日本を巡る旅に出たのかというと、本書にははっきりと書いているわけではない(日記にもはっきり書いていないようだ)が、まとめると次の3つである。第1に、主君の佐土原島津家の代参として日本三大虚空蔵を巡ること。すなわち柳津(やないづ)=福満虚空藏菩薩圓藏寺、常陸那珂郡=村松山虚空蔵堂、安房郡天津小湊=千光山清澄寺にある虚空蔵菩薩である。第2に、日記のタイトルにもなっている霊山九峰に登攀することである。すなわち英彦山、羽黒山、湯殿山、富士山、金剛山、熊野山、大峰山、箕面山、石鎚山である。泉光院は常識外れの体力を持っており、その気になれば一日に平気で60キロくらい歩く。日記では登山もあっさりとしか記録されていないが、肉や魚を食べない人がこのような強靱な肉体を持っていたことにも驚かされる。そして第3に、西国三十三ヶ所、板東三十三ヶ所、秩父三十四ヶ所 合計百ヶ所の「百番札」を納めることであった。

本書は全体として、泉光院の日記を順を追って読み解いていくという地味なものであるのに、非常に面白く読んだ。親切な人々との温かい交流、びっくりするような当時の社会の有様、泉光院と平四郎の関係(途中、仲が悪くなったりする!)、そして旅そのものの行方まで、いろんな要素で読ませる本である。

江戸時代のイメージが一変する、読んで楽しい日記の解説。

【関連書籍の読書メモ】
『江戸の旅』今野 信雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/04/blog-post_24.html
江戸時代の旅がどんな風であったかを述べる本。江戸の旅の実態をわかりやすく知れる良書。