明治初年の神仏分離政策を中心とした、明治政府の神祇行政史。
本書は、廃仏毀釈や神仏分離はなぜ起こったのか、どのようなことがあったのか、そしてそれはどう終熄していったのかを述べるものである。
「Ⅰ 幕藩制と宗教」では、明治政府の根本思想とも言うべき「復古神道」に至るまでの思想史が信長の一向宗弾圧や秀吉のキリシタン禁制にまで遡って簡潔に述べられる。近世後期に至って、荻生徂徠、太宰春台、中井竹山、会沢安(正志斎)など儒学者、水戸学者が廃仏論を展開し、「祭祀による人心統合」が次第に企図されていった。
「Ⅱ 発端」では、慶応4年に「神祇官」が復興され、「国体神学」が政府の正統性を担保する思想として確立し、具体的施策として神仏分離政策が実施していく過程が述べられる。神祇官は政治的には弱小勢力であり、職掌も狭く、祭祀と宗教政策と国民教化のみが活動を許された領域であったが、そこに結集した国学者たちは情熱をもって彼らの理想の実現に取り組んだ。
その具体的活動が神仏分離政策であり、それは神社から仏教的要素を取り除くという簡単な指示でしかなかったが、これが時代の趨勢という見えない力の手を借りて巨大な影響を社会に及ぼしていく。例えば、神仏分離政策そのものは必ずしも廃仏を意図したものではなかったものの、それが恰も仏教的要素の「破壊」までも含意していると(半ば意図的に)誤解したものたちは、興福寺や日吉山王社のような大寺院を破却したのであった。
一方、国体神学は仏教的要素の破壊だけでなく、新たな神道の構築をも企図していた。例えば国家の功臣を祀る神社(楠木正成を祀る「湊川神社」や後の「靖国神社」)を創建し、天皇家の葬祭を神道式に改め、国家規模で新たな神道を実現しようとした。だがこの動きに釘を刺したのが西本願寺で、西本願寺は元来尊皇的で政府と近く、多額の献金をしていたことなどを背景に、神道優遇策に反対する力となっていく。
「Ⅲ 廃仏毀釈の展開」では、実際に地方で展開した廃仏毀釈運動について述べられる。具体的には、明治政府の神仏分離政策を先取りして実施していた津和野藩、狭い範囲で廃仏が強行的に実施された隠岐、佐渡、苗木藩が取り上げられる。こうしたところでも、廃仏に最も抵抗したのは真宗門徒であり、一度廃仏されても速やかに復興を果たしたのも真宗が多かった。富山藩や松本藩の場合、廃合寺政策が推し進められながらも、真宗の抵抗によって挫折している。この他廃仏毀釈が行われた地域として、薩摩藩、土佐藩、平戸藩、延岡藩などがある。
廃仏毀釈は、明治政府の政策そのものではなく、神仏分離政策を過激に解釈して起こった地方的な運動であったから、隠岐や佐渡、薩摩といった、他の地域と隔絶し地方権力が強力だったところで展開しやすかった。
「Ⅳ 神道国教主義の展開」では、国体神学を全国的に実現するために行われた種々の政策について述べられる。明治政府が国教化しようとした「神道」は、全ての宗教行為を祖霊祭祀と皇室崇拝に組み替え、それを総括するものとして産土社から国家的大社までの神社を据える一方、記紀神話に位置づけられない信仰を異端として圧殺するものであった。これを実現するため、国民教化の役割を担う「宣教使」の設置、伊勢神宮を国家の宗廟として改変すること、神職の世襲を禁じ全ての神社を国家の管理下に置くとともに全国の神社をヒエラルキー的に整理統合すること、国家的祝祭日(元始祭、天長節など)の設定などが矢継ぎ早に行われた。こうして新たな宗教大系が民衆に強制されていった。
「Ⅴ 宗教生活の改変」では、こうした新たな宗教大系がどのような影響を及ぼしたかがケーススタディ的に述べられる。修験道については特に影響が大きく、神仏混淆が最も進んだ宗教だったことから、元来の信仰が大胆に組み替えられ、神道的に再解釈されてしまった。また古来より信仰されてきた地域の小社については、記紀神話に基づかないものが多かったため、各種の民俗信仰や民俗行事・習俗が淫祠邪教とされて廃止された。こうした動きは、強権的なものというよりも、「迷信を打破する」といったような「啓蒙や進取のプラスの価値」として人々に迫り、強力にその信仰を組み替えていった。
「Ⅵ 大教院体制から「信教の自由」へ」では、このように推し進められた神道国教化政策がどのように挫折していったかが述べられる。神道へ露骨な優遇は西本願寺を中心とした仏教勢力の働きかけによって改められ、神仏合同で国民教化を担う「教部省」が設置され、具体的教化の機関として「大教院」等を置き、その根本原則として「三条の教則」が定められた。ところが人々に新たな信仰を強制することには、軋轢を生まずにはおかなかった。また当初は協力的だった仏教側も次第に離反的となり、ヨーロッパの宗教事情を踏まえた西本願寺の島地黙雷の運動によって「信教自由」を求めるようになった。一方で明治政府としても、不平等条約の改正の条件として諸国から信教の自由を求められるなどし、明治8年5月に大教院は解散、以後各宗が独自で布教活動をするようになった。こうして神仏分離政策から始まった一連の宗教政策は挫折した。
ところが、これは国家のイデオロギー的要請に対して各宗派がみずから有効性を証明する自由競争、すなわち各宗派が自主的に国家へ奉仕していく体制への端緒を開いた。こうして、後の「国家神道」という、宗教を超越した宗教の誕生へと繋がっていくのだった。神仏分離と廃仏毀釈は、その政策意図が貫徹できなかったという意味では失敗した政策であったが、それは、「国家神道」へと至る道筋となるものだったのである。
全体を通読して、西本願寺の対応に多くの紙幅が割かれ、神仏分離政策を挫折せしめた大きな力である仏教勢力の動きがよく理解できる。また上述のまとめでは触れなかったがキリスト教対応についても詳しい。キリスト教への対応が、神道国教化の大きな目的だったのである。一方、「国体神学」の生みの親である本居宣長や平田篤胤の思想については簡潔な記載しかなく、明治初年の神祇行政に巨大な影響力をもった津和野派の思想的はほぼ触れられていない。本書は国学思想についてあまり立ちっていないのが憾みの一つである。
しかしながら、込み入った動きを見せる明治の宗教行政史を非常にわかりやすくまとめており、しかも決して概略的な記載に留まらない深みを持っている。私は本書を数年前にも通読しているが、この分野の他の文献をいくつか読んで改めて本書に向かったとき、やはり本書はこの分野の基本文献となる重要な本であると確信したところである。
「国家神道」まで繋がる明治初年の宗教的激動を、わかりやすくしかも深く学べる名著。
【関連書籍】
『明治維新と国学者』阪本 是丸 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/02/blog-post_11.html
国学者が近代天皇制国家の創出に果たした役割と限界について考察する重厚な論文集。
2018年5月2日水曜日
2018年5月1日火曜日
『靖国神社』大江 志乃夫 著
靖国神社とは何か、丁寧に解き明かした本。
著者の大江志乃夫は、靖国神社や忠魂碑に関する訴訟において原告側の証人として意見陳述することになった。しかしとても半日足らずの尋問では回答できない難しい内容であるため、予め「意見書」を裁判所に提出し、法廷ではそれを補足するという形を取った。本書は、その際の「意見書」を元に、全面的に書き改めたものである。
この訴訟は、靖国神社や忠魂碑へ行政が公式に関与することが信教の自由や政教分離に反し違憲であるという訴えであった。よって彼は靖国神社が「国体」と一体不可分のもので、軍国主義と宗教とを結びつける施設であったことを緻密に論証していった。
第1章では、現在の靖国神社にまつわる問題が概観され、その成立史をまとめている。靖国神社は政教一致の戦前日本を象徴する存在であったため、戦後はその形を変えたものの、「私的な宗教法人」であることを盾にしてその性格は大きな変更なくして現在に至った。
第2章では、靖国神社を生みだした「国家神道」の成立が簡単にまとめられている。大日本帝国憲法において天皇が統治権を持つとされた唯一の根拠は「天壌無窮の皇統」にあるとされた。このことは、天皇の権威の源泉が(武力ではなく)宗教性であるために無制限の権力の拡大を招き、「国家神道」があらゆる宗教を超越し、全ての国民を統御する力を持つまでになった。
第3章では、靖国神社の成立史を、より多面的に分析している。靖国神社は陸海軍が管轄する軍事施設であったが、その思想的背景には古くからの御霊信仰があった。しかし元来の御霊信仰は現世に恨みを以て死んだ人を祀るというものであるが、靖国神社ではこれが忠臣を神として祀るというものへと転換された。これは新たに創出された信仰であるために、すぐには軍人においてすら受け入れがたかった。しかし天皇が靖国神社を伊勢神宮と並ぶ最高の宗教施設として遇したことや教育(祭祀の強制)等、大規模な顕彰の行事などにより、日露戦争後に戦前の靖国神社信仰が確立した。
第4章では、当初は軍の管轄ではなかったが、やがて在郷軍人会の関与の下で事実上の靖国神社の地方での分祀になっていく「忠魂碑」や「護国神社」についてまとめている。本章は、本書成立の直接の契機である訴訟に関するものであり、靖国問題を考える上でのケーススタディと捉えることができる。多くの地方で残されている「忠魂碑」や「護国神社」がその成立の事情から説き起こされ、非常に参考になった。
「おわりに」では、本書成立の事情が述べられるとともに、著者の強烈な問題意識「一身を天皇に捧げた戦死者の魂だけでもなぜ遺族のもとにかえしてやれないものか、なぜ死者の魂までも天皇の国家が独占しなければならないのか」が提起される。まさに靖国神社は、国家へ尽くすことのみを最高の徳行とし、本来悲劇であるはずの戦死が栄光に満ちた名誉であると転換させる宗教装置として働いた。それは、本来は私的領域に属する戦死者の魂の行方までも国家が管理することによって完成したのである。
著者が当事者として強烈な問題意識のもとに書き上げ、靖国神社成立の事情が豊富な一次資料によって明かされた名著。
著者の大江志乃夫は、靖国神社や忠魂碑に関する訴訟において原告側の証人として意見陳述することになった。しかしとても半日足らずの尋問では回答できない難しい内容であるため、予め「意見書」を裁判所に提出し、法廷ではそれを補足するという形を取った。本書は、その際の「意見書」を元に、全面的に書き改めたものである。
この訴訟は、靖国神社や忠魂碑へ行政が公式に関与することが信教の自由や政教分離に反し違憲であるという訴えであった。よって彼は靖国神社が「国体」と一体不可分のもので、軍国主義と宗教とを結びつける施設であったことを緻密に論証していった。
第1章では、現在の靖国神社にまつわる問題が概観され、その成立史をまとめている。靖国神社は政教一致の戦前日本を象徴する存在であったため、戦後はその形を変えたものの、「私的な宗教法人」であることを盾にしてその性格は大きな変更なくして現在に至った。
第2章では、靖国神社を生みだした「国家神道」の成立が簡単にまとめられている。大日本帝国憲法において天皇が統治権を持つとされた唯一の根拠は「天壌無窮の皇統」にあるとされた。このことは、天皇の権威の源泉が(武力ではなく)宗教性であるために無制限の権力の拡大を招き、「国家神道」があらゆる宗教を超越し、全ての国民を統御する力を持つまでになった。
第3章では、靖国神社の成立史を、より多面的に分析している。靖国神社は陸海軍が管轄する軍事施設であったが、その思想的背景には古くからの御霊信仰があった。しかし元来の御霊信仰は現世に恨みを以て死んだ人を祀るというものであるが、靖国神社ではこれが忠臣を神として祀るというものへと転換された。これは新たに創出された信仰であるために、すぐには軍人においてすら受け入れがたかった。しかし天皇が靖国神社を伊勢神宮と並ぶ最高の宗教施設として遇したことや教育(祭祀の強制)等、大規模な顕彰の行事などにより、日露戦争後に戦前の靖国神社信仰が確立した。
第4章では、当初は軍の管轄ではなかったが、やがて在郷軍人会の関与の下で事実上の靖国神社の地方での分祀になっていく「忠魂碑」や「護国神社」についてまとめている。本章は、本書成立の直接の契機である訴訟に関するものであり、靖国問題を考える上でのケーススタディと捉えることができる。多くの地方で残されている「忠魂碑」や「護国神社」がその成立の事情から説き起こされ、非常に参考になった。
「おわりに」では、本書成立の事情が述べられるとともに、著者の強烈な問題意識「一身を天皇に捧げた戦死者の魂だけでもなぜ遺族のもとにかえしてやれないものか、なぜ死者の魂までも天皇の国家が独占しなければならないのか」が提起される。まさに靖国神社は、国家へ尽くすことのみを最高の徳行とし、本来悲劇であるはずの戦死が栄光に満ちた名誉であると転換させる宗教装置として働いた。それは、本来は私的領域に属する戦死者の魂の行方までも国家が管理することによって完成したのである。
著者が当事者として強烈な問題意識のもとに書き上げ、靖国神社成立の事情が豊富な一次資料によって明かされた名著。
2018年4月24日火曜日
『江戸の思想史—人物・方法・連環』田尻 祐一郎 著
江戸時代のさまざまな思想を紹介する本。
本書は大学の講義に基づいて書かれており、「宗教と国家」「太平の世と武士」「禅と儒教」といったテーマにそって江戸時代の思想・思想家を紹介していくというものである。
それぞれの思想の紹介はかなり簡潔で物足りなく感じる部分もある。例えば熊沢蕃山についてはたった2ページしか述べられていない。他も、伊藤仁斎と荻生徂徠がやや詳しく説かれる程度で、思想史とはいえほんのサワリだけを見ていく感じである。とは言っても、記載の密度は高く、原典からの引用も豊富であり、決して辞典風の要約ではなく、著者の思い入れが感じられる文章である。
全体として見ると、これだけ手軽に江戸時代の思想の流れを概観できる本は少ないので、初学者向け案内書として読むのに好適と思う。ただし、さらに深く知ろうと思った時のためのブックガイドや参考資料が掲げられていないのが残念である。
本書の「思想史」として不十分な点は、基本的に「思想家」の歴史が描かれていて、思想家以外の部分についてあまり述べられていないことである。例えば、本書では「寛政異学の禁」については全く述べられていないが、これは思想史上でも重要な事件であるので取り上げた方がよいと思ったし、主流派の朱子学者がどういった思想を持っていたのかということももう少し解きほぐして欲しかった。
また、町人の思想の伝達や彫琢に一役買った連歌・俳諧といったものも取り上げてもよかったかもしれない。それに近松門左衛門、井原西鶴といった文芸分野で活躍した人の思想が全く閑却されているのも少し一面的だと思った。要するに本書は江戸の思想史全体を射程に収めるものではなくて、政治思想史として見た方がいいと思う。
そういう視野の狭さも感じるものの、「政治思想史」としては非常に手際よくまとまっており、取っつきにくい江戸の思想家に親しむのにはちょうどよい本。
本書は大学の講義に基づいて書かれており、「宗教と国家」「太平の世と武士」「禅と儒教」といったテーマにそって江戸時代の思想・思想家を紹介していくというものである。
それぞれの思想の紹介はかなり簡潔で物足りなく感じる部分もある。例えば熊沢蕃山についてはたった2ページしか述べられていない。他も、伊藤仁斎と荻生徂徠がやや詳しく説かれる程度で、思想史とはいえほんのサワリだけを見ていく感じである。とは言っても、記載の密度は高く、原典からの引用も豊富であり、決して辞典風の要約ではなく、著者の思い入れが感じられる文章である。
全体として見ると、これだけ手軽に江戸時代の思想の流れを概観できる本は少ないので、初学者向け案内書として読むのに好適と思う。ただし、さらに深く知ろうと思った時のためのブックガイドや参考資料が掲げられていないのが残念である。
本書の「思想史」として不十分な点は、基本的に「思想家」の歴史が描かれていて、思想家以外の部分についてあまり述べられていないことである。例えば、本書では「寛政異学の禁」については全く述べられていないが、これは思想史上でも重要な事件であるので取り上げた方がよいと思ったし、主流派の朱子学者がどういった思想を持っていたのかということももう少し解きほぐして欲しかった。
また、町人の思想の伝達や彫琢に一役買った連歌・俳諧といったものも取り上げてもよかったかもしれない。それに近松門左衛門、井原西鶴といった文芸分野で活躍した人の思想が全く閑却されているのも少し一面的だと思った。要するに本書は江戸の思想史全体を射程に収めるものではなくて、政治思想史として見た方がいいと思う。
そういう視野の狭さも感じるものの、「政治思想史」としては非常に手際よくまとまっており、取っつきにくい江戸の思想家に親しむのにはちょうどよい本。
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2018年4月23日月曜日
『西南戦争―西郷隆盛と日本最後の内戦』小川原 正道 著
西南戦争のコンパクトな伝記。
西南戦争について書かれた本は厖大にあるが、新書という形でコンパクトにまとめられることは少なく、本書は西南戦争の入門編として珍しい。
入門編であるだけに記載はわかりやすく、特に戦争に突入してからの説明は簡潔で要を得ている。
一方、類書に比べて記載が充実しているところは西南戦争と民権派の関係についてである。西南戦争は、全体として見れば不平士族の封建揺り戻し闘争であった。彼らは明治政府の急進的な改革を不満とし、その不満のはけ口として戦争が起こったのであるが、一方で明治政府の改革が民主的でないとして不満を抱くグループも政府に対峙していく機会を窺っており、西南戦争の蜂起は民権拡充の好機と捉えられた。
例えば中江兆民は、自身が西郷隆盛を擁したクーデターを構想したし、政府と鹿児島の対立を煽った『評論新聞』は、士族反乱を支持し政府の開化政策を批判する一方、言論の自由や地方民会・民撰議院の設立、立憲政体の樹立なども要求している。さらに熊本では民権党も薩軍に加わったが、その中に宮崎滔天の兄で「九州のルソー」と呼ばれた宮崎八郎もいた(彼は『評論新聞』の記者もしていた)。
薩軍は、全体として士族意識によった反革命的性格を持ちながら、そこに民権拡大、言論の自由など民主的な主張が奇妙に同居していた。西郷隆盛と共に政府の改革を目指した人々は、そのさまざまな主義主張を西南戦争に託したのである。
ところが肝心の西郷隆盛は、この戦争では黙して語らなかった。というよりも、語らせてもらえなかったというのが正しい。彼はまさに「玉」として扱われたように見える。蹶起の正統性は、実際には何もなかった。ただ、「西郷を擁している」ことそのものが正統性と考えられたため、戦争の現場へ関与すらさせられず、恰も人質のように扱われたのが西郷その人であった。そして西郷は、その役割を甘んじて受け入れたかのようだ。
本書の記載がさほど充実していない点は、私学校党の動向である。「私学校とは何か」ということは、戦争の主体であるのだからもう少し丁寧に書いてもよいと思う。特に、実質的な戦犯である篠原国幹、桐野利秋などについては戦争前の動向を丁寧に追うべきだ。別府晋介、淵辺群平、辺見十郎太については「反乱の本当の首謀者」(西郷従道)とまで言われるので、人物像まで知りたいところである。また、私学校が成立するにあたって大きな役割を果たした大山綱良(県令)についてはその動きが本書にはほとんど書いていないが、これはちょっと残念だった。
本書では、最後に「西郷星」など西郷伝説についても触れ、そうした伝説が生まれた背景を簡単に考察している。曰く「西郷は、明治国家が成長過程を歩むなかで切り捨て、廃除してきたさまざまな可能性と、まだ見ぬ未来の可能性とを象徴していた」(p235)とのことである。
西南戦争が持つ多様な側面を切り出しつつ、経過をわかりやすくまとめた好著。
西南戦争について書かれた本は厖大にあるが、新書という形でコンパクトにまとめられることは少なく、本書は西南戦争の入門編として珍しい。
入門編であるだけに記載はわかりやすく、特に戦争に突入してからの説明は簡潔で要を得ている。
一方、類書に比べて記載が充実しているところは西南戦争と民権派の関係についてである。西南戦争は、全体として見れば不平士族の封建揺り戻し闘争であった。彼らは明治政府の急進的な改革を不満とし、その不満のはけ口として戦争が起こったのであるが、一方で明治政府の改革が民主的でないとして不満を抱くグループも政府に対峙していく機会を窺っており、西南戦争の蜂起は民権拡充の好機と捉えられた。
例えば中江兆民は、自身が西郷隆盛を擁したクーデターを構想したし、政府と鹿児島の対立を煽った『評論新聞』は、士族反乱を支持し政府の開化政策を批判する一方、言論の自由や地方民会・民撰議院の設立、立憲政体の樹立なども要求している。さらに熊本では民権党も薩軍に加わったが、その中に宮崎滔天の兄で「九州のルソー」と呼ばれた宮崎八郎もいた(彼は『評論新聞』の記者もしていた)。
薩軍は、全体として士族意識によった反革命的性格を持ちながら、そこに民権拡大、言論の自由など民主的な主張が奇妙に同居していた。西郷隆盛と共に政府の改革を目指した人々は、そのさまざまな主義主張を西南戦争に託したのである。
ところが肝心の西郷隆盛は、この戦争では黙して語らなかった。というよりも、語らせてもらえなかったというのが正しい。彼はまさに「玉」として扱われたように見える。蹶起の正統性は、実際には何もなかった。ただ、「西郷を擁している」ことそのものが正統性と考えられたため、戦争の現場へ関与すらさせられず、恰も人質のように扱われたのが西郷その人であった。そして西郷は、その役割を甘んじて受け入れたかのようだ。
本書の記載がさほど充実していない点は、私学校党の動向である。「私学校とは何か」ということは、戦争の主体であるのだからもう少し丁寧に書いてもよいと思う。特に、実質的な戦犯である篠原国幹、桐野利秋などについては戦争前の動向を丁寧に追うべきだ。別府晋介、淵辺群平、辺見十郎太については「反乱の本当の首謀者」(西郷従道)とまで言われるので、人物像まで知りたいところである。また、私学校が成立するにあたって大きな役割を果たした大山綱良(県令)についてはその動きが本書にはほとんど書いていないが、これはちょっと残念だった。
本書では、最後に「西郷星」など西郷伝説についても触れ、そうした伝説が生まれた背景を簡単に考察している。曰く「西郷は、明治国家が成長過程を歩むなかで切り捨て、廃除してきたさまざまな可能性と、まだ見ぬ未来の可能性とを象徴していた」(p235)とのことである。
西南戦争が持つ多様な側面を切り出しつつ、経過をわかりやすくまとめた好著。
2018年4月7日土曜日
『西郷隆盛紀行』橋川 文三 著
西郷隆盛を巡る思索と対話の記録。
橋川文三は西郷隆盛の評伝を書くように依頼された。しかし西郷をどう評価していいのか、そして既に汗牛充棟する西郷本がある中でどういう視角から描けばこれまで見過ごされてきた一面が表現出来るのか思案する。そしてそのヒントを見つけるため、様々な人と対話し、小文をまとめた。本書はそうして出来上がったものである。
本書で最も面白かったのは島尾敏雄氏との対談である。周知の通り西郷は二度遠島に処されている。一度目は大島に、二度目は(徳之島を経て)沖永良部島に。この島暮らしの中で西郷はどう変わったのか。
島尾によれば、一度目の島暮らしは西郷をさほど変えなかった。失意の中で荒れた生活をしていたし、大島での生活は、実際には服役ではなかったものの幽閉に等しい感覚だったという。だから島から呼び戻された時は当然喜んだ。
しかし沖永良部島での暮らしは違った。土持政照という地元の利発な青年と出会って慕われ、幽閉の形はとっていたが悠々と過ごすことが出来た。また絶海の孤島は、逆に恰も世界の中心にいるかのような感覚を催したのではないかという。そうして著者は、西郷は本土へ帰る気が失せたのではないか、と推測する。少なくとも、本土の方で繰り広げられている幕府と勤皇派の争い、そういうものが何か違うんじゃないか、そう思うようになったのではないか。ここで西郷の思想は他の志士たちとは違うものへと転化したのかもしれない。
本書の半分は、征韓論をどう考えるかということと、それに付随して西南戦争をどう評価するかという議論に当てられている。征韓論については、基本的に毛利敏彦『明治六年政変』(中公新書) の立場に賛成している。一方、西南戦争についてはこれといった見方は提出していない。封建主義の揺り戻しであり反革命と見るか、それとも明治維新の理想が現実には骨抜きになっていく中であくまで明治維新の革命を貫徹するための戦いと見るか、それすらも決められないという。
結局、西郷を評価することは、近代日本の歩みを評価することと等しい作業となる。あまりにも対象が大きく、つかみどころがない。著者は結局、病気(パーキンソン病)のためもあって、遂に西郷隆盛の評伝を書き上げることはなかった。本書は、この書かれなかった評伝のために準備した7、8年間の思索の記録である。
西郷の評価を考える上でヒントに溢れた小著。
【関連書籍】
『明治六年政変』毛利 敏彦 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/03/blog-post_21.html
いわゆる「征韓論」の虚構を暴き、その真相を究明する本。
明治六年の政界を実証的に解明した名著。
橋川文三は西郷隆盛の評伝を書くように依頼された。しかし西郷をどう評価していいのか、そして既に汗牛充棟する西郷本がある中でどういう視角から描けばこれまで見過ごされてきた一面が表現出来るのか思案する。そしてそのヒントを見つけるため、様々な人と対話し、小文をまとめた。本書はそうして出来上がったものである。
本書で最も面白かったのは島尾敏雄氏との対談である。周知の通り西郷は二度遠島に処されている。一度目は大島に、二度目は(徳之島を経て)沖永良部島に。この島暮らしの中で西郷はどう変わったのか。
島尾によれば、一度目の島暮らしは西郷をさほど変えなかった。失意の中で荒れた生活をしていたし、大島での生活は、実際には服役ではなかったものの幽閉に等しい感覚だったという。だから島から呼び戻された時は当然喜んだ。
しかし沖永良部島での暮らしは違った。土持政照という地元の利発な青年と出会って慕われ、幽閉の形はとっていたが悠々と過ごすことが出来た。また絶海の孤島は、逆に恰も世界の中心にいるかのような感覚を催したのではないかという。そうして著者は、西郷は本土へ帰る気が失せたのではないか、と推測する。少なくとも、本土の方で繰り広げられている幕府と勤皇派の争い、そういうものが何か違うんじゃないか、そう思うようになったのではないか。ここで西郷の思想は他の志士たちとは違うものへと転化したのかもしれない。
本書の半分は、征韓論をどう考えるかということと、それに付随して西南戦争をどう評価するかという議論に当てられている。征韓論については、基本的に毛利敏彦『明治六年政変』(中公新書) の立場に賛成している。一方、西南戦争についてはこれといった見方は提出していない。封建主義の揺り戻しであり反革命と見るか、それとも明治維新の理想が現実には骨抜きになっていく中であくまで明治維新の革命を貫徹するための戦いと見るか、それすらも決められないという。
結局、西郷を評価することは、近代日本の歩みを評価することと等しい作業となる。あまりにも対象が大きく、つかみどころがない。著者は結局、病気(パーキンソン病)のためもあって、遂に西郷隆盛の評伝を書き上げることはなかった。本書は、この書かれなかった評伝のために準備した7、8年間の思索の記録である。
西郷の評価を考える上でヒントに溢れた小著。
【関連書籍】
『明治六年政変』毛利 敏彦 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/03/blog-post_21.html
いわゆる「征韓論」の虚構を暴き、その真相を究明する本。
明治六年の政界を実証的に解明した名著。
2018年4月6日金曜日
『本居宣長(上・下)』小林 秀雄 著
小林秀雄の語る本居宣長。
本書は、本居宣長の評伝ではない。宣長の仕事が時系列的・体系的に語られるわけでもないから、宣長を知らない人には読みにくい。本書は11年半にも及ぶ連載によるもので、著者自身がどこに着地すればよいやもわからないままに書き綴ったもののように思える。いうなれば、本書は「本居宣長研究ノート」とでもいうべきものだ。
この長大な作品において、著者が執拗に主張したこと、それを一言で言うなら、「宣長の研究は、古事記に書かれた荒唐無稽な神話をそのまま首肯するところが弱点だったと思われているが、これはむしろ宣長学の核心であり、弱点どころかこの態度こそが古典文学の読解に必要なものだったのである」とでもなるだろうか。
このような例が本書中に出されているわけではないが、話を簡単にするためにフランス文学に譬えて、この主張を少し解説してみよう。
フランス文学を真面目に研究しようとすれば、誰しもフランス語を習得する必要があると思うだろう。日本語への翻訳作品によっても、フランス文学の一端を捉えることはできるし、普通の人が楽しむ分には十分だ。しかしその機微、空気感といった微妙な芸術の襞を理解しようと思ったら、やはりフランス語を習得する意外にはなさそうだ。
その上、例えば18世紀のフランス文学を研究しようとすれば、18世紀の風俗や社会情勢、その当時の人々の心のありようがどんなだったか理解しなければ、本当に文学作品を理解したことにはならないだろう。当時の人が、どんな気持ちでその文学を読んだかということが自らの中に再現できて初めて、作者の意図や表現の価値が分かってくる。
こういったことが、『源氏物語』や『古事記』を読解する上でもいえるのである。『古事記』を本当の意味で読もうと思えば、『古事記』が生まれた社会のことを理解し、その言語を習得して読まなければならない。象徴的ないい方をすれば、『古事記』を「翻訳」せずに、『古事記』当時の人のこころになりきって読む必要がある。
ところがこの『古事記』当時の人のこころ、というのがくせ者である。この頃の言葉は、どこにも残っていないからだ。 『古事記』そのものは、当時の人の言葉ではない。これは変則的な漢文で書かれているが、当時の人が漢文でしゃべっていたわけはないからだ。よって、『古事記』として残された変則的な漢文から、まず『古事記』当時の肉声を再現するという作業をしなくては、そもそも『古事記』を「読む」ということすらできないのである。これが、宣長の『古事記伝』という決定的な『古事記』研究であった。
宣長は、言語というものは翻訳が不可能なものだ、と考えていたのではなかろうか。凡百の古典文学研究家が、古典に「何が」書かれているか理解しただけでそれを読解したと思ったのとは対蹠的に、宣長は「どう」書かれているかまで理解しない限り古典を読めたとは考えなかった。意味を摑むだけならば「何が」書かれているかだけで十分だ。だが言語の本質は意味のみにないと宣長は考えていたようだ。むしろ「書きざま」の方が重要であると彼は考えていた。そして「書きざま」を味わうには、当時の人のこころになりきるしかないというのだ。
しかし、もはや後代の人間には「当時の人のこころ」がどんなだったか分からない。なぜなら、日本語は「漢字」を受容したからだ。漢字のない日本語など、今になっては考えられない。そして受容したのは「漢字」だけではない。「漢字」を受容したことで、必然的に日本語には中国風の観念が導入されたはずだ。それを宣長は「漢(から)ごころ」と呼び、『古事記』を理解するためにはそれをどうしても排除しなければならないと考えた。
というのは、神話は漢字がないころから口伝えで生き残ってきたはずである。漢字を知らない人々によって語られてきたはずである。だから宣長は「漢ごころ」を棄て、古代人になりきって古典を読むという、知的な荒行ともいうべき読解を試みた。彼は実際に、古代人になりきったと信じた。
しかしこの読解方法には、決定的な弱点が内在していた。それは、「古代人になりきる」以上、古典に対する批判精神を失うことを意味していたのだ。現代の科学では、古典の文献を研究する場合には必ずテキスト・クリティークすなわち「史料批判」をする。史料自体の正当性や妥当性を批判検証することだ。文書というものは、現代においてすら現実の社会を丸のまま写したものではない以上、こうした作業を経なくては、古代の本当の姿は見えてこないのである。史料をそのまま事実だと信じれば、文辞によって飾った歴史しか理解し得ないだろう。
一方で、史料批判を行うことと、文学を理解することは別の次元の話である。例えば、「吾輩は猫である」という文章を味わうことは、その猫が実在したかどうかというようなこととは全く関係がない。「私は猫です」でも「拙者は猫でござります」でもなく、「吾輩は猫である」という表現をとっていることを味わうのが文学を理解するということの一端であって、これを"I am a cat."とだけ理解して、その猫の実在性について議論しているようでは、いつまでも文学を理解することはできまい。
そういうすれ違いが、上田秋成と本居宣長との間に、後に「日の神論争」と呼ばれる論争を引き起こした。秋成は神話がそのまま事実とは考えられないという常識的なことを述べ、宣長は神話は全てありのままの事実だと反駁にならない反駁をした。今日から見ると、筋の通った主張をする秋成に対して、滑稽なまでに狂信的な宣長と思われるのであるが、小林秀雄は、あくまで宣長を擁護するのである。
私が本書で理解できなかったところはそこである。著者も、この論争は議論の土台からすれ違っていて、いわば議論の体を成していないということは認めている。しかしそれでもあくまで宣長を擁護していて、秋成については文学に対する理解が浅いとでもいわんばかりの態度である。だが議論がすれ違っている以上、宣長を擁護するにしても秋成の「史料批判」も首肯することはできたはずである。いやむしろ、宣長の研究態度は言語の本質にまで通暁した徹底的なものであると称揚するにしても、やはり神話をそのまま事実と認めることは科学的ではなかった、と批判すべきだったように思う。
宣長の態度は科学的なものではなかったが、彼の文学上・言語学上の業績は失われるものではないし、実際に宣長の古事記訓は、記紀神話が事実として認められなくなった今でも通用している。であるから、著者が執拗といえるほどに宣長を擁護する、その気持ちが私にはよく分からなかった。ただ、作品と同一化してしまうほどに言葉の世界に没入した宣長を見習って、小林秀雄も、『古事記伝』と同一化しようのであろう。一切の批判を棄てて、その作品を味読することによって作品の真価を体得しようとしたのだ。
本書は、長大で引用も多く、論旨は不明確であって、表現が文飾に流れがちであり、決して端正な評論とは言い難い。重複や繰り返しも多く、著者自身が何をいおうとしているのかよく分かっていないような箇所もある。一方で、言語や文学作品といったものに対して真摯な思索が繰り広げられており、その重複や論旨の不明確といったことは、言語という捉えがたいものをどうにか捉えようとしている苦闘の跡のように見える。
かなり難解であるが、宣長の言語に向かう研究態度について徹底的に思索し尽くした労作。
本書は、本居宣長の評伝ではない。宣長の仕事が時系列的・体系的に語られるわけでもないから、宣長を知らない人には読みにくい。本書は11年半にも及ぶ連載によるもので、著者自身がどこに着地すればよいやもわからないままに書き綴ったもののように思える。いうなれば、本書は「本居宣長研究ノート」とでもいうべきものだ。
この長大な作品において、著者が執拗に主張したこと、それを一言で言うなら、「宣長の研究は、古事記に書かれた荒唐無稽な神話をそのまま首肯するところが弱点だったと思われているが、これはむしろ宣長学の核心であり、弱点どころかこの態度こそが古典文学の読解に必要なものだったのである」とでもなるだろうか。
このような例が本書中に出されているわけではないが、話を簡単にするためにフランス文学に譬えて、この主張を少し解説してみよう。
フランス文学を真面目に研究しようとすれば、誰しもフランス語を習得する必要があると思うだろう。日本語への翻訳作品によっても、フランス文学の一端を捉えることはできるし、普通の人が楽しむ分には十分だ。しかしその機微、空気感といった微妙な芸術の襞を理解しようと思ったら、やはりフランス語を習得する意外にはなさそうだ。
その上、例えば18世紀のフランス文学を研究しようとすれば、18世紀の風俗や社会情勢、その当時の人々の心のありようがどんなだったか理解しなければ、本当に文学作品を理解したことにはならないだろう。当時の人が、どんな気持ちでその文学を読んだかということが自らの中に再現できて初めて、作者の意図や表現の価値が分かってくる。
こういったことが、『源氏物語』や『古事記』を読解する上でもいえるのである。『古事記』を本当の意味で読もうと思えば、『古事記』が生まれた社会のことを理解し、その言語を習得して読まなければならない。象徴的ないい方をすれば、『古事記』を「翻訳」せずに、『古事記』当時の人のこころになりきって読む必要がある。
ところがこの『古事記』当時の人のこころ、というのがくせ者である。この頃の言葉は、どこにも残っていないからだ。 『古事記』そのものは、当時の人の言葉ではない。これは変則的な漢文で書かれているが、当時の人が漢文でしゃべっていたわけはないからだ。よって、『古事記』として残された変則的な漢文から、まず『古事記』当時の肉声を再現するという作業をしなくては、そもそも『古事記』を「読む」ということすらできないのである。これが、宣長の『古事記伝』という決定的な『古事記』研究であった。
宣長は、言語というものは翻訳が不可能なものだ、と考えていたのではなかろうか。凡百の古典文学研究家が、古典に「何が」書かれているか理解しただけでそれを読解したと思ったのとは対蹠的に、宣長は「どう」書かれているかまで理解しない限り古典を読めたとは考えなかった。意味を摑むだけならば「何が」書かれているかだけで十分だ。だが言語の本質は意味のみにないと宣長は考えていたようだ。むしろ「書きざま」の方が重要であると彼は考えていた。そして「書きざま」を味わうには、当時の人のこころになりきるしかないというのだ。
しかし、もはや後代の人間には「当時の人のこころ」がどんなだったか分からない。なぜなら、日本語は「漢字」を受容したからだ。漢字のない日本語など、今になっては考えられない。そして受容したのは「漢字」だけではない。「漢字」を受容したことで、必然的に日本語には中国風の観念が導入されたはずだ。それを宣長は「漢(から)ごころ」と呼び、『古事記』を理解するためにはそれをどうしても排除しなければならないと考えた。
というのは、神話は漢字がないころから口伝えで生き残ってきたはずである。漢字を知らない人々によって語られてきたはずである。だから宣長は「漢ごころ」を棄て、古代人になりきって古典を読むという、知的な荒行ともいうべき読解を試みた。彼は実際に、古代人になりきったと信じた。
しかしこの読解方法には、決定的な弱点が内在していた。それは、「古代人になりきる」以上、古典に対する批判精神を失うことを意味していたのだ。現代の科学では、古典の文献を研究する場合には必ずテキスト・クリティークすなわち「史料批判」をする。史料自体の正当性や妥当性を批判検証することだ。文書というものは、現代においてすら現実の社会を丸のまま写したものではない以上、こうした作業を経なくては、古代の本当の姿は見えてこないのである。史料をそのまま事実だと信じれば、文辞によって飾った歴史しか理解し得ないだろう。
一方で、史料批判を行うことと、文学を理解することは別の次元の話である。例えば、「吾輩は猫である」という文章を味わうことは、その猫が実在したかどうかというようなこととは全く関係がない。「私は猫です」でも「拙者は猫でござります」でもなく、「吾輩は猫である」という表現をとっていることを味わうのが文学を理解するということの一端であって、これを"I am a cat."とだけ理解して、その猫の実在性について議論しているようでは、いつまでも文学を理解することはできまい。
そういうすれ違いが、上田秋成と本居宣長との間に、後に「日の神論争」と呼ばれる論争を引き起こした。秋成は神話がそのまま事実とは考えられないという常識的なことを述べ、宣長は神話は全てありのままの事実だと反駁にならない反駁をした。今日から見ると、筋の通った主張をする秋成に対して、滑稽なまでに狂信的な宣長と思われるのであるが、小林秀雄は、あくまで宣長を擁護するのである。
私が本書で理解できなかったところはそこである。著者も、この論争は議論の土台からすれ違っていて、いわば議論の体を成していないということは認めている。しかしそれでもあくまで宣長を擁護していて、秋成については文学に対する理解が浅いとでもいわんばかりの態度である。だが議論がすれ違っている以上、宣長を擁護するにしても秋成の「史料批判」も首肯することはできたはずである。いやむしろ、宣長の研究態度は言語の本質にまで通暁した徹底的なものであると称揚するにしても、やはり神話をそのまま事実と認めることは科学的ではなかった、と批判すべきだったように思う。
宣長の態度は科学的なものではなかったが、彼の文学上・言語学上の業績は失われるものではないし、実際に宣長の古事記訓は、記紀神話が事実として認められなくなった今でも通用している。であるから、著者が執拗といえるほどに宣長を擁護する、その気持ちが私にはよく分からなかった。ただ、作品と同一化してしまうほどに言葉の世界に没入した宣長を見習って、小林秀雄も、『古事記伝』と同一化しようのであろう。一切の批判を棄てて、その作品を味読することによって作品の真価を体得しようとしたのだ。
本書は、長大で引用も多く、論旨は不明確であって、表現が文飾に流れがちであり、決して端正な評論とは言い難い。重複や繰り返しも多く、著者自身が何をいおうとしているのかよく分かっていないような箇所もある。一方で、言語や文学作品といったものに対して真摯な思索が繰り広げられており、その重複や論旨の不明確といったことは、言語という捉えがたいものをどうにか捉えようとしている苦闘の跡のように見える。
かなり難解であるが、宣長の言語に向かう研究態度について徹底的に思索し尽くした労作。
2018年2月13日火曜日
『明治維新と国学者』阪本 是丸 著(その2)
(前回からのつづき)
伝統的神祇道家である白川・吉田両家も国学による学校を設立することは幕末から企図しており、特に白川家は慶応3年に学寮を設立している。吉田家はこれに対抗し、本来はあまり好ましいと思っていなかった平田派を取り込むため矢野を学頭に招いて学館設立運動に乗り出した。 なおこの周旋には薩摩藩が動いていたらしい。吉田家と薩摩藩には密接な連絡があったらしく、薩摩藩はその廃寺政策を強力に進めるためにも吉田家を主とした神祇道復古に期待を寄せていた。要するに、吉田家と薩摩藩の政治的利害が一致したため矢野を担ぎ出したということのようだ。
こういう経緯であったためか、やがて矢野は白川家・吉田家の両家ともに神祇行政から排除すべきと考えるようになるのだが、ともかくこれが矢野が学校問題に手をつける端緒となり、維新後、矢野は学制取調を命ぜられることになる。
矢野ら平田派国学者は、明治政府の初期神祇行政で重んぜられたが、津和野派との主導権争いに破れ、やがて本務とも言うべき神祇事務行政からは遠ざけられ、学校設立の事務へと追いやられていく。だが矢野にとっては、学校問題の方がより熱心だったのでこれは本人の希望に沿ったものでもあったかもしれない。
ともかく、明治政府は学制立案という最初の教育・学校行政を矢野玄道、平田鉄胤、玉松 操という三人の平田派国学者に一任したのであった。三人は内国事務局に籍を置き、神祇行政とは無縁のところで(しかし彼らの構想が国学に基づくものであることは言うまでもない)学制立案に情熱を傾けた。
ところがこの努力は、政府からは評価されるどころかほとんど無視された。その内容が漢学や儒学を無視した国学びいきのものでありすぎたからだ。
そして矢野らの構想が無視された形で、公家向けの教育機関である学習院が開校され、 内国事務局は廃止となり、矢野たちは自然廃官となって学制取調は宙に浮いた格好になった。
とはいっても、政府は一度は国学者たちに学制立案を一任したほどであったから、さほど重きを置かなくなっていったとはいえ、矢野たちには追って改めて学校掛を命じて彼らは学校設立に向けて運動を再出発させた。
しかし彼らの構想は、京都に国学主体の大学校を設立し、さらには諸藩にもその分校を設けるという壮大なもので現実性がなかった。開明路線へと走っていく明治政府にとって、このような構想は滑稽ですらあったろう。政府が彼らの構想を実現する気がないと悟るや、平田は岩倉や政府首脳に対して建白書を盛んに出したが、その建白にはもはや政府を説得する力はなかった。
政府は江戸において旧幕府の医学所や昌平学校を復興し、また学校問題については岩下方平・長谷川昭道へ軸足を移した。そして長谷川の意見が受け入れられ、明治元年、京都に皇学所・漢学所が並行しておかれることとなった。これは漢学を感情論から攻撃して目に余るものがあった国学を牽制し、漢学との政治的なバランスをとったものであって、あくまで国学を最高の地位において教育をしたかった矢野らの構想の挫折であった。
矢野らはこうしたことから自然と政府とは疎遠になり、立場も不安定なものになっていく。
結論的に言えば、皇学所は学校規則やカリキュラムの面では立派に見えこそすれ、その内容はほとんど伴っていなかった。これを主導した矢野は自身が勉学に打ち込み続けた人間であったから、普通の人に必要な教育が何かということを考えていなかったようだ。
さらに大きな問題は、皇学所が漢学に対して敵意を持ち、講義内において漢学への誹謗中傷を繰り返したということだ。皇学所・漢学所という横並びの存在であったことがライバル意識を生み、元来そうであった以上に対立の構図をもたらしたのかもしれない。
もう一つは、皇学所の中心であった玉松操をその代表として、守旧的意見をどんどん強くしていったということがある。これには、国学を漢学や洋学と差別化し、「皇朝」の伝統を継承しようとする意識が働いていたように見える。このため、授業は烏帽子・直垂を着用して受けることにすらなっていった。しかしこうなると、政府の首脳としてはもはやついて行けない。玉松は岩倉や中御門経之らにとっては師匠格に当たる存在であったが、やがてその間は不調和になっていった。
政府では、東京に大学校を設けてこれに平田派国学の総帥平田鐵胤を抜擢し、皇学所から平田が去ることになった。皇学所は見るべき成果も上げられないまま弱体化していった。そして国学(皇学所)と漢学(漢学所)の次元の低い感情的な争いに辟易していた政府は、両校を廃止・統合し、明治2年12月、京都に仮大学校を設立させた。
これには、当然のことながら矢野は大不服であったが、多くの教員は素直に大学教官に再任させられたことを喜んだらしい。皇学所は内部からも限界を迎えていたということだ。しかしこの仮大学校の命脈も、一年と持たなかった。
というのは、時代の中心がもはや東京へと移っていたからだ。京都の仮大学校には生徒が300名近くいたが、多くの教授陣は東京へ移らざるを得なかった。強硬な守旧派だった玉松すら、明治3年3月には東京へ移った。さらに6月には、仮大学校の幹部級国学者であった後醍院真柱が宣教使として東京へ引き抜かれた。こうして仮大学校はどんどん先細りになっていった。
その上、国学と漢学の対立は仮大学校にも持ち越されていた。学校が先細りになり予算的にも窮屈になってくるとその対立が表面化し、辞表を出すものが続出。こうして内部の対立によって仮大学校は崩壊した。時を同じくして、京都以上に両派の対立が激化していた東京の大学校も崩壊。東京の大学校が閉校したのが明治3年7月、京都の仮大学校が閉校したのが同8月であった。
大学校で教鞭を執った国学者は、こうしてちりぢりになっていった。そして国学と漢学が抗争し共倒れした果てにひとり無傷で残ったのは、洋学のみであった。
角田忠行といえば、島崎藤村『夜明け前』で「暮田正香」として登場し、主人公青山半蔵と深く関わった人物だ。
角田は天保5年に生まれ、安政2年に平田篤胤の没後の門人となった。門人の中では出色の存在であり、後年、矢野玄道とともに平田家の後見人のような立場にもなる。角田の存在が門人の中で際立つきっかけとなったのが彼が文久2年に著した『古史略』である。『古史略』は古事記の神代7代から神武天皇崩御までの歴史を略説したもので、学問的な価値はともかくとして、同門の中で重要人物と認識されるにはかなり効果があったらしい。角田はこれを著した年、京都へと登った。角田は京都で平田鐵胤の秘書のような働きをした。
角田が世に出たのは、いわゆる「足利将軍木像梟首事件」である。これは角田ら京都でくすぶっていた平田派門を中心とする数人が、等持院に安置されている足利将軍三代の木像の首をはねて三条河原に梟首し、傍らにその罪状を掲げた事件を指す。これは朝廷を軽んじた足利将軍を糾弾することで、幕府への公然たる挑戦を行うものであった。これは計画的犯行ではなく、犯人たちも大事件になるとは思っていなかったようであるが、京都守護職はこれを重く見て犯人検挙に乗り出し相次いで捕縛した。このため角田は信州伊那谷へ逃亡する。
角田は 慶応2年まで信州に潜伏していたが、「米川要人」と名を変えて京都へ上った。彼は山階宮晃親王の知己を得、また薩摩藩の客分として遇された。薩摩藩の家老であった岩下方平が力になったらしい。彼は薩摩藩の京屋敷に身を寄せていたのである。そういう縁からなのか詳細は不明だが、角田は公家の澤為量(ためかず)の家令となることができ、再び志士としての活動を始めた。角田は為量の手足となり、情報収集や志士たちとの連絡にあたった。
為量の嗣子には「七卿落ち」(廷臣八十八卿列参事件)で失脚した澤宣嘉(よしのぶ)がいたが、維新後、角田は復権した宣嘉に従って行動。戊辰戦争で九州鎮撫総督兼外国事務総督を命じられた宣嘉とともに長崎へと下った。この際、長崎に近い島原藩にいた平田派国学者丸山作楽と繋がりができ、丸山・澤・角田の三者には特別に親密な関係が築かれた。また、角田は矢野玄道とも同門の先輩後輩を越えた深い関係があった。矢野を通じて岩倉具視の知遇も得、角田は国学者として押しも押されぬ人物になっていた。
角田は明治2年、矢野が実質的に主催する皇学所に監察として赴任した。矢野にとっては心強い援軍であり、二人は親友としてともに力を合わせて皇学所の運営に取り組んだ。しかし皇学所ははかばかしい成果も上げられず廃止となり、角田は翌明治3年には東京へ向けて出発する。
東京に着いてから暫くは無職で矢野の元で雌伏していたらしい。大学校が廃止されると、矢野は免官になったが、平田派国学者の集団を無視できなかった政府は、矢野、角田など平田派国学者と西周など洋学者を学制取調御用掛に命じた。こうして政府の要職に起用された角田であったが、順調な時間は数ヶ月と続かなかった。
明治4年3月に、角田、矢野、丸山作楽、権田直助、宮和田胤影らが「ご不審の筋これあり」として突然拘束され、それぞれ諸藩お預けの処分を受けた。丸山作楽の征韓の陰謀に関わったというのが名目とされたらしい。これを「平田派国事犯事件」という。この事件の原因・背景はよくわかっていない。祭祀の中心を東京に移そうとした神祇官少副の福羽美静が、それに強硬に反対していた角田・矢野を抑圧するために拘禁させたともいわれるが真相は定かでない。
翌明治5年にはお預け処分が解かれたが、もはや角田は政府の要路からは排除されていた。角田は明治6年に官幣大社賀茂御祖神社の少宮司、翌7年には熱田神宮の少宮司となり、以後熱田神宮の待遇改善に尽力し、神官・神職として活躍、大正7年に85歳で没した。
熱田神宮は三種の神器の一つとされる草薙の剣を祀る神社である。古来より皇室からの崇敬を受けてきたが、それがにわかに強化されたのが幕末においてだった。攘夷祈願のために孝明天皇が熱田神宮に重きを置いたからだ。
維新後、明治天皇もその動きを踏襲したが、元来の熱田神宮の存在感を越えてこの神社の地位向上・待遇改善に与ったのが角田忠行だった。神祇行政・学校設立に挫折した角田は、教部省から熱田神宮の少宮司に任じられた。当時教部省は、伝統ある大社に公家や国学者を大少宮司として送り込み、神社の改革に従事させようとしていた。
熱田神宮に赴任した角田は、大宮司千秋季福とともに同社を特別な神社へと引き上げる運動を行った。彼が赴任しての最初の大仕事は、熱田白鳥古墳・陀武夫古墳を日本武尊の陵として公認・保存させることだった。角田はこのため古墳の由緒を記した『熱田地陵墓考』を著すなど国学者らしい仕事を行い、見事公認を勝ち取った。
しかし角田の仕事は、世襲で熱田神宮に奉斎してきた勢力との軋轢を生まずにはいられなかった。角田の登場は旧社家の世界を徹底的に破壊することも意味していた。明治9年には千秋季福が自殺。その原因は不明であるが角田にとっても衝撃は大きかった。
角田は千秋の自殺後に一時広田神社へ転任したが、明治10年にはまた熱田神宮に大宮司として戻ってきた。角田は周囲との軋轢を抱え、また人望を失いながらも熱田神宮の地位向上のために一層力を入れた。彼の構想は、熱田神宮を官幣大社の列から脱し、神宮(伊勢神宮)と並ぶ「両宮」の地位を獲得することだった。要するに、伊勢神宮と同格にするのが最終目標だった。
彼は国学者らしい考証力と人脈を使い、社殿改造費用を国庫から支出させることに成功し、また熱田神宮を「尾張神宮」として伊勢神宮並の社格に引き上げる企画を政権に認めさせた。しかしこれは伊勢神宮派からの猛反対を受けることになり、また考証の上でも、それほどの由緒を証明することができず、実現の一歩手前で廃案になった。とはいえ角田の運動はかなりの程度実を結び、実際に熱田神宮を伊勢神宮に次ぐ立場まで押し上げた。
こうして角田の宿願は実現することはなかったが、これほどまでに一個人の執念が神社の在り方に影響を与えた例は全国的にも稀有なことであった。まさに近代の熱田神宮をつくり上げたのは、角田忠行その人だったのである。
……
こうして章ごとのメモを書き終えたので、改めて本書の感想について述べたい。
本書は『明治維新と国学者』とは銘打っているが、実際に中心とするのは、概ね慶応3年から明治5年という短い期間の、しかも矢野玄道を中心とする平田派国学者の動向であって、明治維新と国学者の全体像が見えるとは言えない。
平田派国学者の構想は一度は実現したものの、大した成果を上げられないまま頓挫し、その後に手がけた学校問題でも挫折した。そういう次第であるから、本書のみを読むとあたかも国学者たちは政権にほとんど影響を与えられないまま退場したという印象を抱く。
しかし政権に与えた影響という点では亀井茲監(これみ)・福羽美静(びせい)ら津和野派の動向も重要だ。むしろ神祇行政を担ったのは津和野派と言ってよく、本書では津和野派についてあまり語られていないのは残念だ。彼らの構想が近代天皇制の創出に大きく寄与しているというのは間違いないと思う。
そして本書では、神仏分離政策と国学者の関わりがさほど述べられていないのも不満な点である。神仏分離政策そのものの成否はともかく、少なくとも日本全国に大きな影響を与えているのは事実であり、国学者たちの構想が実際の政策に色濃く反映した事例であろう。本書がこだわるのは神祇官復興から教部省設立までの行政史であって、それ以外の点については記載が簡潔すぎる。
なお、私が本書を手に取ったのは、明治初期の宗教行政について知りたいということの他に、薩摩藩と国学勢力との関わりについても興味があったからだ。本書には、それについての論考はなかったが、全体を通じてみると次のように言える。
薩摩藩の国学者は、明治初期の段階まではまとまった勢力になっていなかった。むしろ平田派国学者が世に出るための踏み台的な役割を果たした。例えば、薩摩藩出身で近衛家に仕えていた井上石見は蟄居中の岩倉の片腕となり、国学者たちと岩倉、そして薩摩藩を繋ぐ役割をした。神祇官再興は、国学者たちの構想を岩倉が咀嚼し、薩摩藩の力によって実現したものと言える。王政復古までの井上石見の動きはもっと注目されてよい。
また、薩摩藩は吉田家と深い繋がりがあったようである。その廃寺政策を進める上で吉田家をブレーン的に頼りにしていたのだろう。元来は敵対関係にあった矢野玄道を吉田家に引き合わせたのも薩摩藩であり、また潜伏中の角田忠行をかくまったのも薩摩藩であることを考えると、薩摩藩は国学者を厚遇している印象があるが、おそらくその中心にいたのは、家老だった岩下方平(みちひら)だ。
岩下方平については本書では詳しい記載がないが、西郷や大久保らのグループ「誠忠組」において、彼は最も家格が高く名目上のリーダーだった。岩下は平田国学(気吹舎)に入門して国学を学んでおり、平田派国学者と薩摩藩を結ぶ働きをしたようだ。なお岩下は維新後には政府の宗教行政に携わることになる。この他、本書には全く言及がないが、薩摩藩出身で近衛家に仕えた葛城彦一も平田篤胤に弟子入りしており、平田派国学者と近衛家、薩摩藩を結ぶ役割をした。
このように、幕末において薩摩藩は平田派の国学者とは親密な関係があったと考えられる。しかし薩摩藩自身は表舞台には出てきていない。せいぜい後醍院真柱など一部の薩摩藩出身の平田派国学者が活躍する程度である。よってその動きは明瞭には分からず、裏で蠢いている感じがする。薩摩藩が国学勢力のパワーバランスにどのように影響していたのかというのが、非常に興味深いところである。
【関連文献】
『夜明け前』島崎 藤村 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/08/12.html
幕末明治の社会を、ひとりの町人の一生を通して描いた大河的小説。
国学者たちの挫折が活写される。
第6章「矢野玄道と学校問題」
国学による国民的な学校を作りたいという構想を抱き、その実現に邁進したのはなんといっても矢野玄道(はるみち)であった。伝統的神祇道家である白川・吉田両家も国学による学校を設立することは幕末から企図しており、特に白川家は慶応3年に学寮を設立している。吉田家はこれに対抗し、本来はあまり好ましいと思っていなかった平田派を取り込むため矢野を学頭に招いて学館設立運動に乗り出した。 なおこの周旋には薩摩藩が動いていたらしい。吉田家と薩摩藩には密接な連絡があったらしく、薩摩藩はその廃寺政策を強力に進めるためにも吉田家を主とした神祇道復古に期待を寄せていた。要するに、吉田家と薩摩藩の政治的利害が一致したため矢野を担ぎ出したということのようだ。
こういう経緯であったためか、やがて矢野は白川家・吉田家の両家ともに神祇行政から排除すべきと考えるようになるのだが、ともかくこれが矢野が学校問題に手をつける端緒となり、維新後、矢野は学制取調を命ぜられることになる。
矢野ら平田派国学者は、明治政府の初期神祇行政で重んぜられたが、津和野派との主導権争いに破れ、やがて本務とも言うべき神祇事務行政からは遠ざけられ、学校設立の事務へと追いやられていく。だが矢野にとっては、学校問題の方がより熱心だったのでこれは本人の希望に沿ったものでもあったかもしれない。
ともかく、明治政府は学制立案という最初の教育・学校行政を矢野玄道、平田鉄胤、玉松 操という三人の平田派国学者に一任したのであった。三人は内国事務局に籍を置き、神祇行政とは無縁のところで(しかし彼らの構想が国学に基づくものであることは言うまでもない)学制立案に情熱を傾けた。
ところがこの努力は、政府からは評価されるどころかほとんど無視された。その内容が漢学や儒学を無視した国学びいきのものでありすぎたからだ。
そして矢野らの構想が無視された形で、公家向けの教育機関である学習院が開校され、 内国事務局は廃止となり、矢野たちは自然廃官となって学制取調は宙に浮いた格好になった。
とはいっても、政府は一度は国学者たちに学制立案を一任したほどであったから、さほど重きを置かなくなっていったとはいえ、矢野たちには追って改めて学校掛を命じて彼らは学校設立に向けて運動を再出発させた。
しかし彼らの構想は、京都に国学主体の大学校を設立し、さらには諸藩にもその分校を設けるという壮大なもので現実性がなかった。開明路線へと走っていく明治政府にとって、このような構想は滑稽ですらあったろう。政府が彼らの構想を実現する気がないと悟るや、平田は岩倉や政府首脳に対して建白書を盛んに出したが、その建白にはもはや政府を説得する力はなかった。
政府は江戸において旧幕府の医学所や昌平学校を復興し、また学校問題については岩下方平・長谷川昭道へ軸足を移した。そして長谷川の意見が受け入れられ、明治元年、京都に皇学所・漢学所が並行しておかれることとなった。これは漢学を感情論から攻撃して目に余るものがあった国学を牽制し、漢学との政治的なバランスをとったものであって、あくまで国学を最高の地位において教育をしたかった矢野らの構想の挫折であった。
矢野らはこうしたことから自然と政府とは疎遠になり、立場も不安定なものになっていく。
第7章「皇学所・仮大学校と国学者の動向」
平田派国学者にとっては不本意であった皇学所の設立であったが、彼らはそこを立派な「天朝の学校」にしたいと意気込んだ。しかるにそこで行われた教育がどうであったか。結論的に言えば、皇学所は学校規則やカリキュラムの面では立派に見えこそすれ、その内容はほとんど伴っていなかった。これを主導した矢野は自身が勉学に打ち込み続けた人間であったから、普通の人に必要な教育が何かということを考えていなかったようだ。
さらに大きな問題は、皇学所が漢学に対して敵意を持ち、講義内において漢学への誹謗中傷を繰り返したということだ。皇学所・漢学所という横並びの存在であったことがライバル意識を生み、元来そうであった以上に対立の構図をもたらしたのかもしれない。
もう一つは、皇学所の中心であった玉松操をその代表として、守旧的意見をどんどん強くしていったということがある。これには、国学を漢学や洋学と差別化し、「皇朝」の伝統を継承しようとする意識が働いていたように見える。このため、授業は烏帽子・直垂を着用して受けることにすらなっていった。しかしこうなると、政府の首脳としてはもはやついて行けない。玉松は岩倉や中御門経之らにとっては師匠格に当たる存在であったが、やがてその間は不調和になっていった。
政府では、東京に大学校を設けてこれに平田派国学の総帥平田鐵胤を抜擢し、皇学所から平田が去ることになった。皇学所は見るべき成果も上げられないまま弱体化していった。そして国学(皇学所)と漢学(漢学所)の次元の低い感情的な争いに辟易していた政府は、両校を廃止・統合し、明治2年12月、京都に仮大学校を設立させた。
これには、当然のことながら矢野は大不服であったが、多くの教員は素直に大学教官に再任させられたことを喜んだらしい。皇学所は内部からも限界を迎えていたということだ。しかしこの仮大学校の命脈も、一年と持たなかった。
というのは、時代の中心がもはや東京へと移っていたからだ。京都の仮大学校には生徒が300名近くいたが、多くの教授陣は東京へ移らざるを得なかった。強硬な守旧派だった玉松すら、明治3年3月には東京へ移った。さらに6月には、仮大学校の幹部級国学者であった後醍院真柱が宣教使として東京へ引き抜かれた。こうして仮大学校はどんどん先細りになっていった。
その上、国学と漢学の対立は仮大学校にも持ち越されていた。学校が先細りになり予算的にも窮屈になってくるとその対立が表面化し、辞表を出すものが続出。こうして内部の対立によって仮大学校は崩壊した。時を同じくして、京都以上に両派の対立が激化していた東京の大学校も崩壊。東京の大学校が閉校したのが明治3年7月、京都の仮大学校が閉校したのが同8月であった。
大学校で教鞭を執った国学者は、こうしてちりぢりになっていった。そして国学と漢学が抗争し共倒れした果てにひとり無傷で残ったのは、洋学のみであった。
第8章「角田忠行と明治維新」
代表的な平田派国学者である角田忠行の人生について概説的に述べる。角田忠行といえば、島崎藤村『夜明け前』で「暮田正香」として登場し、主人公青山半蔵と深く関わった人物だ。
角田は天保5年に生まれ、安政2年に平田篤胤の没後の門人となった。門人の中では出色の存在であり、後年、矢野玄道とともに平田家の後見人のような立場にもなる。角田の存在が門人の中で際立つきっかけとなったのが彼が文久2年に著した『古史略』である。『古史略』は古事記の神代7代から神武天皇崩御までの歴史を略説したもので、学問的な価値はともかくとして、同門の中で重要人物と認識されるにはかなり効果があったらしい。角田はこれを著した年、京都へと登った。角田は京都で平田鐵胤の秘書のような働きをした。
角田が世に出たのは、いわゆる「足利将軍木像梟首事件」である。これは角田ら京都でくすぶっていた平田派門を中心とする数人が、等持院に安置されている足利将軍三代の木像の首をはねて三条河原に梟首し、傍らにその罪状を掲げた事件を指す。これは朝廷を軽んじた足利将軍を糾弾することで、幕府への公然たる挑戦を行うものであった。これは計画的犯行ではなく、犯人たちも大事件になるとは思っていなかったようであるが、京都守護職はこれを重く見て犯人検挙に乗り出し相次いで捕縛した。このため角田は信州伊那谷へ逃亡する。
角田は 慶応2年まで信州に潜伏していたが、「米川要人」と名を変えて京都へ上った。彼は山階宮晃親王の知己を得、また薩摩藩の客分として遇された。薩摩藩の家老であった岩下方平が力になったらしい。彼は薩摩藩の京屋敷に身を寄せていたのである。そういう縁からなのか詳細は不明だが、角田は公家の澤為量(ためかず)の家令となることができ、再び志士としての活動を始めた。角田は為量の手足となり、情報収集や志士たちとの連絡にあたった。
為量の嗣子には「七卿落ち」(廷臣八十八卿列参事件)で失脚した澤宣嘉(よしのぶ)がいたが、維新後、角田は復権した宣嘉に従って行動。戊辰戦争で九州鎮撫総督兼外国事務総督を命じられた宣嘉とともに長崎へと下った。この際、長崎に近い島原藩にいた平田派国学者丸山作楽と繋がりができ、丸山・澤・角田の三者には特別に親密な関係が築かれた。また、角田は矢野玄道とも同門の先輩後輩を越えた深い関係があった。矢野を通じて岩倉具視の知遇も得、角田は国学者として押しも押されぬ人物になっていた。
角田は明治2年、矢野が実質的に主催する皇学所に監察として赴任した。矢野にとっては心強い援軍であり、二人は親友としてともに力を合わせて皇学所の運営に取り組んだ。しかし皇学所ははかばかしい成果も上げられず廃止となり、角田は翌明治3年には東京へ向けて出発する。
東京に着いてから暫くは無職で矢野の元で雌伏していたらしい。大学校が廃止されると、矢野は免官になったが、平田派国学者の集団を無視できなかった政府は、矢野、角田など平田派国学者と西周など洋学者を学制取調御用掛に命じた。こうして政府の要職に起用された角田であったが、順調な時間は数ヶ月と続かなかった。
明治4年3月に、角田、矢野、丸山作楽、権田直助、宮和田胤影らが「ご不審の筋これあり」として突然拘束され、それぞれ諸藩お預けの処分を受けた。丸山作楽の征韓の陰謀に関わったというのが名目とされたらしい。これを「平田派国事犯事件」という。この事件の原因・背景はよくわかっていない。祭祀の中心を東京に移そうとした神祇官少副の福羽美静が、それに強硬に反対していた角田・矢野を抑圧するために拘禁させたともいわれるが真相は定かでない。
翌明治5年にはお預け処分が解かれたが、もはや角田は政府の要路からは排除されていた。角田は明治6年に官幣大社賀茂御祖神社の少宮司、翌7年には熱田神宮の少宮司となり、以後熱田神宮の待遇改善に尽力し、神官・神職として活躍、大正7年に85歳で没した。
第9章「近代の熱田神宮と角田忠行」
角田忠行が後半生を掛けて実現しようとした熱田神宮の地位向上運動について述べる。熱田神宮は三種の神器の一つとされる草薙の剣を祀る神社である。古来より皇室からの崇敬を受けてきたが、それがにわかに強化されたのが幕末においてだった。攘夷祈願のために孝明天皇が熱田神宮に重きを置いたからだ。
維新後、明治天皇もその動きを踏襲したが、元来の熱田神宮の存在感を越えてこの神社の地位向上・待遇改善に与ったのが角田忠行だった。神祇行政・学校設立に挫折した角田は、教部省から熱田神宮の少宮司に任じられた。当時教部省は、伝統ある大社に公家や国学者を大少宮司として送り込み、神社の改革に従事させようとしていた。
熱田神宮に赴任した角田は、大宮司千秋季福とともに同社を特別な神社へと引き上げる運動を行った。彼が赴任しての最初の大仕事は、熱田白鳥古墳・陀武夫古墳を日本武尊の陵として公認・保存させることだった。角田はこのため古墳の由緒を記した『熱田地陵墓考』を著すなど国学者らしい仕事を行い、見事公認を勝ち取った。
しかし角田の仕事は、世襲で熱田神宮に奉斎してきた勢力との軋轢を生まずにはいられなかった。角田の登場は旧社家の世界を徹底的に破壊することも意味していた。明治9年には千秋季福が自殺。その原因は不明であるが角田にとっても衝撃は大きかった。
角田は千秋の自殺後に一時広田神社へ転任したが、明治10年にはまた熱田神宮に大宮司として戻ってきた。角田は周囲との軋轢を抱え、また人望を失いながらも熱田神宮の地位向上のために一層力を入れた。彼の構想は、熱田神宮を官幣大社の列から脱し、神宮(伊勢神宮)と並ぶ「両宮」の地位を獲得することだった。要するに、伊勢神宮と同格にするのが最終目標だった。
彼は国学者らしい考証力と人脈を使い、社殿改造費用を国庫から支出させることに成功し、また熱田神宮を「尾張神宮」として伊勢神宮並の社格に引き上げる企画を政権に認めさせた。しかしこれは伊勢神宮派からの猛反対を受けることになり、また考証の上でも、それほどの由緒を証明することができず、実現の一歩手前で廃案になった。とはいえ角田の運動はかなりの程度実を結び、実際に熱田神宮を伊勢神宮に次ぐ立場まで押し上げた。
こうして角田の宿願は実現することはなかったが、これほどまでに一個人の執念が神社の在り方に影響を与えた例は全国的にも稀有なことであった。まさに近代の熱田神宮をつくり上げたのは、角田忠行その人だったのである。
……
こうして章ごとのメモを書き終えたので、改めて本書の感想について述べたい。
本書は『明治維新と国学者』とは銘打っているが、実際に中心とするのは、概ね慶応3年から明治5年という短い期間の、しかも矢野玄道を中心とする平田派国学者の動向であって、明治維新と国学者の全体像が見えるとは言えない。
平田派国学者の構想は一度は実現したものの、大した成果を上げられないまま頓挫し、その後に手がけた学校問題でも挫折した。そういう次第であるから、本書のみを読むとあたかも国学者たちは政権にほとんど影響を与えられないまま退場したという印象を抱く。
しかし政権に与えた影響という点では亀井茲監(これみ)・福羽美静(びせい)ら津和野派の動向も重要だ。むしろ神祇行政を担ったのは津和野派と言ってよく、本書では津和野派についてあまり語られていないのは残念だ。彼らの構想が近代天皇制の創出に大きく寄与しているというのは間違いないと思う。
そして本書では、神仏分離政策と国学者の関わりがさほど述べられていないのも不満な点である。神仏分離政策そのものの成否はともかく、少なくとも日本全国に大きな影響を与えているのは事実であり、国学者たちの構想が実際の政策に色濃く反映した事例であろう。本書がこだわるのは神祇官復興から教部省設立までの行政史であって、それ以外の点については記載が簡潔すぎる。
なお、私が本書を手に取ったのは、明治初期の宗教行政について知りたいということの他に、薩摩藩と国学勢力との関わりについても興味があったからだ。本書には、それについての論考はなかったが、全体を通じてみると次のように言える。
薩摩藩の国学者は、明治初期の段階まではまとまった勢力になっていなかった。むしろ平田派国学者が世に出るための踏み台的な役割を果たした。例えば、薩摩藩出身で近衛家に仕えていた井上石見は蟄居中の岩倉の片腕となり、国学者たちと岩倉、そして薩摩藩を繋ぐ役割をした。神祇官再興は、国学者たちの構想を岩倉が咀嚼し、薩摩藩の力によって実現したものと言える。王政復古までの井上石見の動きはもっと注目されてよい。
また、薩摩藩は吉田家と深い繋がりがあったようである。その廃寺政策を進める上で吉田家をブレーン的に頼りにしていたのだろう。元来は敵対関係にあった矢野玄道を吉田家に引き合わせたのも薩摩藩であり、また潜伏中の角田忠行をかくまったのも薩摩藩であることを考えると、薩摩藩は国学者を厚遇している印象があるが、おそらくその中心にいたのは、家老だった岩下方平(みちひら)だ。
岩下方平については本書では詳しい記載がないが、西郷や大久保らのグループ「誠忠組」において、彼は最も家格が高く名目上のリーダーだった。岩下は平田国学(気吹舎)に入門して国学を学んでおり、平田派国学者と薩摩藩を結ぶ働きをしたようだ。なお岩下は維新後には政府の宗教行政に携わることになる。この他、本書には全く言及がないが、薩摩藩出身で近衛家に仕えた葛城彦一も平田篤胤に弟子入りしており、平田派国学者と近衛家、薩摩藩を結ぶ役割をした。
このように、幕末において薩摩藩は平田派の国学者とは親密な関係があったと考えられる。しかし薩摩藩自身は表舞台には出てきていない。せいぜい後醍院真柱など一部の薩摩藩出身の平田派国学者が活躍する程度である。よってその動きは明瞭には分からず、裏で蠢いている感じがする。薩摩藩が国学勢力のパワーバランスにどのように影響していたのかというのが、非常に興味深いところである。
【関連文献】
『夜明け前』島崎 藤村 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/08/12.html
幕末明治の社会を、ひとりの町人の一生を通して描いた大河的小説。
国学者たちの挫折が活写される。
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