幼い時に会津戦争によって人生を狂わされ、塗炭の苦しみの中で生き抜き、やがて軍人として大成した柴五郎の前半生の自伝。
会津は、明治維新において一方的に朝敵とされ、会津からみれば言いがかりのような理由によって薩長連合軍に蹂躙された。城下は火の海と化して藩士たちは戦いに倒れ、婦女は生きて辱めを受けぬため、また兵糧を徒に費やさぬためとして次々に自刃、そして幸か不幸か生き残った者たちにも過酷な運命が待ち構えていた。
敗北した会津藩はかろうじて恩赦され下北半島に移封となり、新たに斗南藩となって藩士は集団移住するが、そこは冬は氷に閉ざされる荒れ地であった。会津藩は30万石弱あったが、斗南藩はたったの3万石、しかもそれは帳簿上だけのことで、実態は僅か7000石ほどしか生産高がなく、移封というよりも、ほとんど追放・流罪に等しい境遇だったのである。本書の主人公柴五郎は、武士の子として育てられながら、この時代の濁流に呑み込まれて零落し、下北半島の地で乞食同然の暮らしを強いられる。それでもどうにかして再起を果たそうと足掻いたのは、ひとえに薩長、特に薩摩への恨みをなんとかして雪がなければならないという、強烈な復讐心だった。五郎の祖母、母、姉妹は、会津戦争において自刃し兄弟は離散、この過酷な運命への反抗こそが五郎の前半生だ。
本書は、薩長への強い復讐心を抱きつつ、明治の混乱を生き抜いたこの青年の目を通して、敗者からの維新史を綴るものである。時代としては、明治維新から西南戦争までのほぼ10年を中心としており、西南戦争に兄たちが参戦することで薩摩へと一矢報いたところで擱筆されている。
しかし、その内容は単に薩長への恨み辛みだけではない。むしろ、書こうと思えば恨み辛みはもっとたくさん書けたはずなのに、幼い自分が経験したことを素直に記録しておこうという真面目な記述が多い。自らの人生に託して薩長の悪逆を糾弾するという部分はなく、あくまで経験に即した事実だけが述べられている。
私は鹿児島に育ったが、会津戦争のことは学校教育でほとんど教えられていないと記憶している。逆に会津の方では、会津の人の運命を狂わせ、多くの人の命を奪った会津戦争をかなりしっかり伝えている印象があり、会津の人の持つ薩摩人への敵意にはビックリすることがある。本書を読むまで、その敵意にピンと来ていなかったが、ようやく私はその敵意の理由に合点がいった。
我々が知っている明治維新史は、勝者の作った歴史でしかなかったのであり、敗者の側からの歴史は、また違ったものだったのだ。しかし、本書は勝者がなしてきた歴史の修飾を糾弾するものでもない。本当に淡々と、自らの経験を述べるものであって、だからこそ一層、踏みにじられたたくさんの会津人を思い起こさせる。記録に残らなかった、過酷な人生の数々が、本書の裏に見え隠れする。
本書は、柴五郎が80歳を超えてようやく書けるようになった苦難の前半生であり、そうした機会を持たなかった多くの会津人の不運の一片(ひとひら)でも記録し、失われた魂の菩提を弔うためにものされたものであろう。
鹿児島県人には必読と思える、会津人の鎮魂の書。
2016年8月18日木曜日
2016年8月14日日曜日
『バガヴァッド・ギーターの世界―ヒンドゥー教の救済』上村 勝彦 著
ヒンドゥー教最高の聖典「バガヴァッド・ギーター」の解説書。
インドに古い大叙事詩「マハーバーラタ」というのがあって、これは複雑で複合的なシナリオと厖大な登場人物によって非常にややこしいものなのだが、その一節に「バガヴァッド・ギーター(神の歌)」がある。これは、主人公のアルジュナという戦士が、親族同士で殺し合うことに悩み戦意喪失した時、御者に扮していた最高神クリシュナがアルジュナに対して語った一幕で、その内容を一言で述べれば「なすべきことをなせ」と諭すものである。
これは要するに、ウジウジ考えずに戦いなさい、というものなのだが、その内容は古代ヒンドゥー教の要諦を凝縮したものになっており、マハトマ・ガンジーを始め多くの人が「ギーター」を座右の書としてきた。今でも、インドでは「ギーター」が国民的聖典とされているそうだ。それあたかも、我が国の般若心経のようなものであろう。
具体的に何が書いてあるかというと、本書「おわりに」にまとめられているように、
この考え方を好意的に解釈すれば、無私の境地でやるべきことをやるという求道者的なものであることは間違いない。しかし、私などは心が汚れているためか、どうもブラック企業の経営者が言いそうなことだ、と思ってしまう。「執着を捨て」とか「結果にとらわれず」というのが「給料が安くて労働環境が悪くても」に変換しうるように思う。いや、もっと言うと、クリシュナのいうことを聞いていると、全体主義的、軍隊的、思考停止的なところが多いと感じる。
行為の善悪や結果を考えてはダメで、やるべきことをやりなさい、というのは自分の頭で考えるのを辞めなさいと言っているように聞こえるし、しかも行為の全てを最高神への捧げものとして行うというのはどう考えてもおかしい。例えば、お風呂に入るとか、水を飲むといったことすら最高神への捧げものということになるんだろうか。やっぱり、清潔にするため、喉が渇いたから、という考えの方がずっと素直だと思う。そういったことすら、最高神のために行わなくてはならないというのがちょっと理解できない。
そもそも「目の前の敵を倒しなさい」という内容なのだから軍隊的なのはしょうがないとしても、全体の目的のための駒になりなさい、歯車になりなさい、と諭しているようで非常に気持ち悪い。そして、歯車になりきることに疑問を覚えてはだめで、結果を顧みずにやるべきことをやるのですよ、と思考停止を求める。一段高い境地から考えると、それは尊い生き方にもなりうるが、言葉通り受け取るととても危険な思想のようでもある。
しかし、「ギーター」はこうした内容だけでなく、ヒンドゥー教の哲学的な部分をも含んでおり、大乗仏教の「如来蔵思想」や「本覚思想」、「念仏」の元になった考えが開陳されているなど、ただ「あなたの義務を盲目的に遂行しなさい」というだけのものではない。自己や知性、瞑想や苦行に対しての考え方などは、現代からみても高尚なものであり、共感を抱いた。
とはいってもやはり疑問なのは、個人と全体(組織)の問題である。戦いたくない、というアルジュナに対して、全体(組織)を優先させて戦いを鼓舞するクリシュナを、私は認めることはできない。あるがままの個人でいられること、それがアートマン(真実の自己)なのではないのだろうか? どうも組織の論理を優先させて、個人を埋没させる思想のように思えてしまう。
「ギーター」の紹介(訳文)は平易で解説もわかりやすいが、個人的にはその思想が合わなかった本。
インドに古い大叙事詩「マハーバーラタ」というのがあって、これは複雑で複合的なシナリオと厖大な登場人物によって非常にややこしいものなのだが、その一節に「バガヴァッド・ギーター(神の歌)」がある。これは、主人公のアルジュナという戦士が、親族同士で殺し合うことに悩み戦意喪失した時、御者に扮していた最高神クリシュナがアルジュナに対して語った一幕で、その内容を一言で述べれば「なすべきことをなせ」と諭すものである。
これは要するに、ウジウジ考えずに戦いなさい、というものなのだが、その内容は古代ヒンドゥー教の要諦を凝縮したものになっており、マハトマ・ガンジーを始め多くの人が「ギーター」を座右の書としてきた。今でも、インドでは「ギーター」が国民的聖典とされているそうだ。それあたかも、我が国の般若心経のようなものであろう。
具体的に何が書いてあるかというと、本書「おわりに」にまとめられているように、
この世にうまれたからには、自分に定められた仕事をひたすら遂行せよ。行為には罪悪がつきまとうが、行為をしても悪い結果を残さないためには、執着を捨て、行為の結果を顧慮しないことが肝要である。そして、そのように執着なく、結果にとらわれずに行為するには、すべての行為を最高神(絶対者)に対する捧げものとして行うべきである。ということだ。そして、このような生き方をすれば、やがて最高の存在(ブラフマン)は真実の自己(アートマン)と同一であることが自覚され、行為を超越する存在へとなっていくという。
この考え方を好意的に解釈すれば、無私の境地でやるべきことをやるという求道者的なものであることは間違いない。しかし、私などは心が汚れているためか、どうもブラック企業の経営者が言いそうなことだ、と思ってしまう。「執着を捨て」とか「結果にとらわれず」というのが「給料が安くて労働環境が悪くても」に変換しうるように思う。いや、もっと言うと、クリシュナのいうことを聞いていると、全体主義的、軍隊的、思考停止的なところが多いと感じる。
行為の善悪や結果を考えてはダメで、やるべきことをやりなさい、というのは自分の頭で考えるのを辞めなさいと言っているように聞こえるし、しかも行為の全てを最高神への捧げものとして行うというのはどう考えてもおかしい。例えば、お風呂に入るとか、水を飲むといったことすら最高神への捧げものということになるんだろうか。やっぱり、清潔にするため、喉が渇いたから、という考えの方がずっと素直だと思う。そういったことすら、最高神のために行わなくてはならないというのがちょっと理解できない。
そもそも「目の前の敵を倒しなさい」という内容なのだから軍隊的なのはしょうがないとしても、全体の目的のための駒になりなさい、歯車になりなさい、と諭しているようで非常に気持ち悪い。そして、歯車になりきることに疑問を覚えてはだめで、結果を顧みずにやるべきことをやるのですよ、と思考停止を求める。一段高い境地から考えると、それは尊い生き方にもなりうるが、言葉通り受け取るととても危険な思想のようでもある。
しかし、「ギーター」はこうした内容だけでなく、ヒンドゥー教の哲学的な部分をも含んでおり、大乗仏教の「如来蔵思想」や「本覚思想」、「念仏」の元になった考えが開陳されているなど、ただ「あなたの義務を盲目的に遂行しなさい」というだけのものではない。自己や知性、瞑想や苦行に対しての考え方などは、現代からみても高尚なものであり、共感を抱いた。
とはいってもやはり疑問なのは、個人と全体(組織)の問題である。戦いたくない、というアルジュナに対して、全体(組織)を優先させて戦いを鼓舞するクリシュナを、私は認めることはできない。あるがままの個人でいられること、それがアートマン(真実の自己)なのではないのだろうか? どうも組織の論理を優先させて、個人を埋没させる思想のように思えてしまう。
「ギーター」の紹介(訳文)は平易で解説もわかりやすいが、個人的にはその思想が合わなかった本。
『人間の家』ル・コルビュジエ、F・ド・ピエールフウ共著、西澤 信彌 訳
ル・コルビュジエとド・ピエールフウによる、住みよい家をつくるための都市計画提案の書。
本書が書かれたのは、第二次大戦中。ル・コルビュジエ自身が疎開していたさなかのことである。破壊されつつあったパリの街をどう再建するか、という切実な問題意識の下、単に壊れた建物を作り直すというのではなく、これを機にパリをもっと人間的な街に変えていこうという意欲的な都市計画案を二人は考察していった。
例えば、パリの住居はあまりに狭すぎて、近接しすぎ、道路交通が非効率で、また緑が足りないという課題。狭すぎる住居で暮らすことは、衛生上も、精神面でもよくなく、ル・コルビュジエは「人びとの住宅事情は悪い、現在の大混乱のふかい原因、真の原因だ」と述べる。
本書で開陳されるその解決策は、高層の集合住宅だ。住宅を集団化・高層化して床面積と緑地面積を広くし、日当たりもよくする。また自動車道路と歩行者用道路を分けて、自動車道は街の中心部を通らないようにする、といったものである。
この提言は、ル・コルビュジエの代表作『輝く都市』へと受け継がれ、パリでは異端視されて相手にされなかったものの、ブラジリアなど新興の都市における都市計画に影響を与えたという。
本書は、共著の形を取っているが、不思議な構成になっている。右ページに本文が、左ページが挿絵や短文が書いてあって、右の本文をド・ピエールフウ、左をル・コルビュジエが書いているのである。右ページと左ページは、つかず離れずというか、決して挿絵は本文の解説ではないし、かといって本文が挿絵を説明するのでもない。が、無関係というわけでももちろんない。敢えて言えば、二人が同じようなもの(「同じもの」ではない)を違う角度と方向から述べている、という感じだろうか。
そして、ド・ピエールフウの筆は理念的・説明的であり、ル・コルビュジエのそれは具体的・啓示的である。読者は、右ページだけ読んでいっても、左ページだけ読んでいっても本書を理解できるのではないかと思われるが、両方を併せて読むとさながら二重奏のように違った読書体験が絡まり合うという仕組みになっている。
本書で提言されている都市計画は、現代においては少し無味乾燥なものに思われるかもしれない。彼らの提言を真に受けて都市を建築すると、世界中のどこでも似たような高層住宅や商業施設が建築されそうである。日本で言えば、六本木ヒルズのような場所ばかりになってしまう危惧がある。
彼らが盛んに攻撃する”パリの狭苦しい街並み”というのも、我々日本人からすると統一感がありこぢんまりして品のいいものであるし、確かに住宅の狭さなど改善すべき点もあろうが、その解決策が高層マンションであるとすれば、随分味気ないもののように思われる。
しかしながら、彼らの都市計画案は、十分に広い住居と、たくさんの木々と眺めの良い場所、そこを自由に逍遙できるような歩行者用通路が都市になければ健康な生活は送れない! という現代的な視点に立脚しており、決して時代遅れの高層礼賛ではない。むしろ、彼らの問題意識は現代日本の都市計画でももっと考慮されてしかるべきもので、実際に高層マンションをつくるのがいいのかどうかはともかくとして、改めて「人間の家」がどうあるべきか考えるために再読される価値があると思う。
本書が書かれたのは、第二次大戦中。ル・コルビュジエ自身が疎開していたさなかのことである。破壊されつつあったパリの街をどう再建するか、という切実な問題意識の下、単に壊れた建物を作り直すというのではなく、これを機にパリをもっと人間的な街に変えていこうという意欲的な都市計画案を二人は考察していった。
例えば、パリの住居はあまりに狭すぎて、近接しすぎ、道路交通が非効率で、また緑が足りないという課題。狭すぎる住居で暮らすことは、衛生上も、精神面でもよくなく、ル・コルビュジエは「人びとの住宅事情は悪い、現在の大混乱のふかい原因、真の原因だ」と述べる。
本書で開陳されるその解決策は、高層の集合住宅だ。住宅を集団化・高層化して床面積と緑地面積を広くし、日当たりもよくする。また自動車道路と歩行者用道路を分けて、自動車道は街の中心部を通らないようにする、といったものである。
この提言は、ル・コルビュジエの代表作『輝く都市』へと受け継がれ、パリでは異端視されて相手にされなかったものの、ブラジリアなど新興の都市における都市計画に影響を与えたという。
本書は、共著の形を取っているが、不思議な構成になっている。右ページに本文が、左ページが挿絵や短文が書いてあって、右の本文をド・ピエールフウ、左をル・コルビュジエが書いているのである。右ページと左ページは、つかず離れずというか、決して挿絵は本文の解説ではないし、かといって本文が挿絵を説明するのでもない。が、無関係というわけでももちろんない。敢えて言えば、二人が同じようなもの(「同じもの」ではない)を違う角度と方向から述べている、という感じだろうか。
そして、ド・ピエールフウの筆は理念的・説明的であり、ル・コルビュジエのそれは具体的・啓示的である。読者は、右ページだけ読んでいっても、左ページだけ読んでいっても本書を理解できるのではないかと思われるが、両方を併せて読むとさながら二重奏のように違った読書体験が絡まり合うという仕組みになっている。
本書で提言されている都市計画は、現代においては少し無味乾燥なものに思われるかもしれない。彼らの提言を真に受けて都市を建築すると、世界中のどこでも似たような高層住宅や商業施設が建築されそうである。日本で言えば、六本木ヒルズのような場所ばかりになってしまう危惧がある。
彼らが盛んに攻撃する”パリの狭苦しい街並み”というのも、我々日本人からすると統一感がありこぢんまりして品のいいものであるし、確かに住宅の狭さなど改善すべき点もあろうが、その解決策が高層マンションであるとすれば、随分味気ないもののように思われる。
しかしながら、彼らの都市計画案は、十分に広い住居と、たくさんの木々と眺めの良い場所、そこを自由に逍遙できるような歩行者用通路が都市になければ健康な生活は送れない! という現代的な視点に立脚しており、決して時代遅れの高層礼賛ではない。むしろ、彼らの問題意識は現代日本の都市計画でももっと考慮されてしかるべきもので、実際に高層マンションをつくるのがいいのかどうかはともかくとして、改めて「人間の家」がどうあるべきか考えるために再読される価値があると思う。
2016年8月6日土曜日
『昔の鹿児島—かごしま新聞こぼれ話—』唐鎌 祐祥 著
明治・大正・昭和初期の鹿児島の新聞記事を眺めて、昔の鹿児島を知る本。
内容は、風俗、行事、興行、天文館の街の様子が中心。新聞記事といっても、政治・経済についてはあまり触れられず、今で言えば「地方欄」に当たる部分からの話題が多い。
本書によって、今では廃れた風習や行事を知ることができた。例えば「加世田参り」。旧暦6月22〜23日にかけて、鹿児島から加世田へと「兵児」たちが駆け抜け、往復20里(80キロ)を競争する行事があったらしい。今で言えばトレイルランみたいなものだろうか。随分過酷な年中行事があったものである。
このほか、鹿児島で最初に自動車が導入された時の話、街道沿いあった松並木が売却された話など、たくさんの些細な話が収録されている。一つひとつの記事は、文庫本1ページ分くらいのもの。著者はそれに対して考察を加えるというでもなし、淡々と記事紹介を行っている。ここに挙げられた記事の数々は、それ自体どうということはないが、当時の社会の雰囲気を如実に伝えるものだと思う。
なお、当時の社会を知るために最も有効なのは、新聞広告を眺めることだと思うが、本書には広告そのものの記事はあまり多くない。もう少し広告そのもの(当時はこんなものの広告がありました、というような)も取り上げたら面白かったと思う。
著者は、高校教諭を経て図書館行政等に携わり、鹿児島県の教育委員長も務めた人。特別なテーマなく興味の赴くままに記事を収録しているので、本書で何が分かるというものでもないが、昔の鹿児島を垣間見る新聞記事が淡々とまとめられた実直な本。
内容は、風俗、行事、興行、天文館の街の様子が中心。新聞記事といっても、政治・経済についてはあまり触れられず、今で言えば「地方欄」に当たる部分からの話題が多い。
本書によって、今では廃れた風習や行事を知ることができた。例えば「加世田参り」。旧暦6月22〜23日にかけて、鹿児島から加世田へと「兵児」たちが駆け抜け、往復20里(80キロ)を競争する行事があったらしい。今で言えばトレイルランみたいなものだろうか。随分過酷な年中行事があったものである。
このほか、鹿児島で最初に自動車が導入された時の話、街道沿いあった松並木が売却された話など、たくさんの些細な話が収録されている。一つひとつの記事は、文庫本1ページ分くらいのもの。著者はそれに対して考察を加えるというでもなし、淡々と記事紹介を行っている。ここに挙げられた記事の数々は、それ自体どうということはないが、当時の社会の雰囲気を如実に伝えるものだと思う。
なお、当時の社会を知るために最も有効なのは、新聞広告を眺めることだと思うが、本書には広告そのものの記事はあまり多くない。もう少し広告そのもの(当時はこんなものの広告がありました、というような)も取り上げたら面白かったと思う。
著者は、高校教諭を経て図書館行政等に携わり、鹿児島県の教育委員長も務めた人。特別なテーマなく興味の赴くままに記事を収録しているので、本書で何が分かるというものでもないが、昔の鹿児島を垣間見る新聞記事が淡々とまとめられた実直な本。
2016年6月25日土曜日
『現代焼酎考』稲垣 真美 著
焼酎蔵を巡りながら、焼酎の復権について考える本。
著者は、もともと焼酎を好んで飲む方ではなかったが、趣味の酒蔵巡りが高じて清酒の品評会の審査員などを務めるうち、焼酎の美味しさに気づいて全国各地の焼酎蔵を訪ね歩くようになった。本書は、その飲み歩きの中で考えたことをエッセイ風に述べる本である。
主な訪問地は沖縄(泡盛)、熊本の球磨地方(球磨焼酎)、種子島(芋焼酎)、南西諸島(黒糖焼酎)、八丈島(芋焼酎)。
酒造所を訪ね歩いているだけあって、製造法に関する具体的な記載がかなり多い。特に麹と蒸留に関して比較的詳しく述べているのが参考になった。ただし、蒸留については焼酎造りの核心の一つなので、図版などももう少しあった方がよかったと思う。どのような蒸留器を使って蒸留しているのかということはもっと注目されてよいことである。
また、イオン交換樹脂による不純物の除去については初めて知ったが、これの登場で焼酎から雑味が減ったということは焼酎史においてなかなか大きな出来事だと思った。
本書が書かれたのは80年代の第1次焼酎ブームのまっただ中である。
それまで焼酎は、安くてマズい酒という印象が強かった。ブランデーやウイスキーといった世界の他の蒸留酒は高級品に位置づけられているのに、同じ蒸留酒でも焼酎は不当に安酒という烙印を押されてきた。それは、実際に粗悪な焼酎が製造されてきたという事実もあるが、明治時代にできた酒造法に「焼酎とは清酒粕(清酒を醸造したときの搾り粕)を蒸留したもの」と規定され、そもそも余り物として製造されるものと規定されていたことの影響も大きいらしい。そのせいで焼酎の近代史はゆがめられ、我々は焼酎の真の姿を見失っていたのかもしれないと思わされた。
焼酎の来し方行く末を思う本。
著者は、もともと焼酎を好んで飲む方ではなかったが、趣味の酒蔵巡りが高じて清酒の品評会の審査員などを務めるうち、焼酎の美味しさに気づいて全国各地の焼酎蔵を訪ね歩くようになった。本書は、その飲み歩きの中で考えたことをエッセイ風に述べる本である。
主な訪問地は沖縄(泡盛)、熊本の球磨地方(球磨焼酎)、種子島(芋焼酎)、南西諸島(黒糖焼酎)、八丈島(芋焼酎)。
酒造所を訪ね歩いているだけあって、製造法に関する具体的な記載がかなり多い。特に麹と蒸留に関して比較的詳しく述べているのが参考になった。ただし、蒸留については焼酎造りの核心の一つなので、図版などももう少しあった方がよかったと思う。どのような蒸留器を使って蒸留しているのかということはもっと注目されてよいことである。
また、イオン交換樹脂による不純物の除去については初めて知ったが、これの登場で焼酎から雑味が減ったということは焼酎史においてなかなか大きな出来事だと思った。
本書が書かれたのは80年代の第1次焼酎ブームのまっただ中である。
それまで焼酎は、安くてマズい酒という印象が強かった。ブランデーやウイスキーといった世界の他の蒸留酒は高級品に位置づけられているのに、同じ蒸留酒でも焼酎は不当に安酒という烙印を押されてきた。それは、実際に粗悪な焼酎が製造されてきたという事実もあるが、明治時代にできた酒造法に「焼酎とは清酒粕(清酒を醸造したときの搾り粕)を蒸留したもの」と規定され、そもそも余り物として製造されるものと規定されていたことの影響も大きいらしい。そのせいで焼酎の近代史はゆがめられ、我々は焼酎の真の姿を見失っていたのかもしれないと思わされた。
焼酎の来し方行く末を思う本。
2016年6月21日火曜日
『南のくにの焼酎文化』豊田 謙二 著
鹿児島の焼酎のあゆみを明治期から説く本。
著者の豊田謙二は福岡県立大学教授(専門は社会政策および地域づくり。執筆当時)。前職の鹿児島国際大学教授であったときに調査した内容を元に書いたのが本書のようだ。
本書は、南九州の焼酎文化そのものについてはさほど詳しく書いていない。むしろ、その焼酎文化が生まれた歴史的経緯に重きを置いていて、特に明治・大正期の酒税(酒造税)と税務署による酒造所の整理がその成立に大きな影響を及ぼしているという立場である。
酒造税は明治国家の税収の柱であったので、焼酎の税制を巡る国家と地域の対立は今では考えられないくらい鋭いものがあったらしく、著者は「西南の役が明治国家への[鹿児島の]最初の対決とすれば、税務当局との衝突は第二の対決とでも言えようか」と述べている。
私の興味を引いたのは、鹿児島の伝統的杜氏集団である黒瀬杜氏・阿多杜氏の動向をかなり詳しく追っていることで、その黎明から近年に至るまでの雰囲気を摑むことができた。黒瀬杜氏などはよく名前を聞くが、実際どれくらいの数が県内の酒造メーカーに行っていたのか知らなかったので、具体的な人数までわかり大変参考になった(これが、著者が鹿児島国際大学時代にやった調査に基づくものらしい)。
また、本書では奄美の黒糖焼酎についても1章が設けられている。私も知らなかったのだが、原則としてサトウキビで作る蒸留酒は税法上は「ラム」であるが、奄美に限っては、黒糖で作る蒸留酒を奄美振興の一環としてこれを「焼酎」として扱う特例措置がなされているということである。もちろん本土においても黒糖焼酎は造れるのだが、その際には「ラム」としての高い税金を支払わねばならないのである。
この他、近年の焼酎を巡る状況を主に統計面で辿り、宮崎県の焼酎の状況を紹介し、軽い提言みたいなものをして本書は終わっている。
本書は、焼酎のうんちく的なものはほとんど出てこず、一般には閑却されがちな税務当局の動きのような業界的なところを丁寧に追っており、業界史を繙くものとして好感を持った。編集は若干散漫なところがあり、話が飛びがちなのはちょっと気になったが全体としては読みやすい。
あまり顧みられない鹿児島の焼酎業界史を繙く真面目な本。
著者の豊田謙二は福岡県立大学教授(専門は社会政策および地域づくり。執筆当時)。前職の鹿児島国際大学教授であったときに調査した内容を元に書いたのが本書のようだ。
本書は、南九州の焼酎文化そのものについてはさほど詳しく書いていない。むしろ、その焼酎文化が生まれた歴史的経緯に重きを置いていて、特に明治・大正期の酒税(酒造税)と税務署による酒造所の整理がその成立に大きな影響を及ぼしているという立場である。
酒造税は明治国家の税収の柱であったので、焼酎の税制を巡る国家と地域の対立は今では考えられないくらい鋭いものがあったらしく、著者は「西南の役が明治国家への[鹿児島の]最初の対決とすれば、税務当局との衝突は第二の対決とでも言えようか」と述べている。
私の興味を引いたのは、鹿児島の伝統的杜氏集団である黒瀬杜氏・阿多杜氏の動向をかなり詳しく追っていることで、その黎明から近年に至るまでの雰囲気を摑むことができた。黒瀬杜氏などはよく名前を聞くが、実際どれくらいの数が県内の酒造メーカーに行っていたのか知らなかったので、具体的な人数までわかり大変参考になった(これが、著者が鹿児島国際大学時代にやった調査に基づくものらしい)。
また、本書では奄美の黒糖焼酎についても1章が設けられている。私も知らなかったのだが、原則としてサトウキビで作る蒸留酒は税法上は「ラム」であるが、奄美に限っては、黒糖で作る蒸留酒を奄美振興の一環としてこれを「焼酎」として扱う特例措置がなされているということである。もちろん本土においても黒糖焼酎は造れるのだが、その際には「ラム」としての高い税金を支払わねばならないのである。
この他、近年の焼酎を巡る状況を主に統計面で辿り、宮崎県の焼酎の状況を紹介し、軽い提言みたいなものをして本書は終わっている。
本書は、焼酎のうんちく的なものはほとんど出てこず、一般には閑却されがちな税務当局の動きのような業界的なところを丁寧に追っており、業界史を繙くものとして好感を持った。編集は若干散漫なところがあり、話が飛びがちなのはちょっと気になったが全体としては読みやすい。
あまり顧みられない鹿児島の焼酎業界史を繙く真面目な本。
2016年6月8日水曜日
『幕末の薩摩―悲劇の改革者、調所笑左衛門』原口 虎雄 著
幕末の薩摩藩の財政改革を成し遂げた調所笑左衛門の実像を探る本。
幕末の薩摩藩は、他藩以上の慢性的な赤字財政に苦しんでいた。 参勤交代の過重な負担や幕府から命ぜられる大規模土木工事、そして農村の疲弊によって日本一の貧乏藩になりはて、その借金は500万両にも及んでいた。当時の経常収入がおよそ15万両と考えられており、年間利息の60万両すらも全く支払えない有様だった。
この崩壊した藩財政を立て直すため、島津重豪(しげひで)は調所笑左衛門広郷(ずしょ・しょうざえもん・ひろさと)を抜擢する。調所は元は身分の低い武士で茶坊主(接待係)から重豪の秘書的な役目(御小納戸頭取)に取り立てられて栄進し、町奉行になっていた人物。御小納戸頭取は主君の意を汲んで各所に取次をするという仕事で、ここで調所は重豪に大変重用された。どうも、調所は人の感情の機微をよく理解し、様々なことに気が利いてことをうまく進める能力に長けていたらしく、英邁ではあったが苛烈で傲岸不遜な重豪に足りない部分を持っていたようだ。
調所は財政は全くの素人だったから最初は固辞したが、重豪からほぼ全権委任的な言質をとって家老となり財政改革に取り組んだ。重豪としては、自分の意を完璧に理解して、いわば「自分の分身」として物事を進められる人材として調所を抜擢したようである。
調所は自分が素人であるという自覚があったから、有能な人材を家格や身分の上下によらず積極的に登用して重役につけた。そして自分自身でも寸暇を惜しんで勉強と視察に励み、財政立て直しに邁進した。
薩摩藩は表向きは様々なことが統制されていたけれども、実際には「穴だらけの統制」であった。調所はこれを様々な面で厳しく取り締まり、 薩摩藩を本当の統制経済に変えていった。例えば出来高に応じて納税(年貢)の量が変動する制度があったが、これが悪用されているとして廃止し、一定の年貢へと変更している。しかしただ苛斂誅求を推し進めるだけでなく、調所は流通経路の徹底した合理化とともに旧習の打破にも努めた。
そして奄美の黒糖生産は全てを統制して自由貿易を禁止。藩の専売とするだけでなく島民には黒糖生産以外のほとんどの農業を禁止し、貨幣までも廃止してしまった。奄美の人にはひたすら黒糖のみを生産させ藩はそれを安く買いたたき、藩外に高くで売るという今日から見れば非人道的な貿易を行って暴利を得た。
しかし調所の改革のハイライトはなんといっても500万両の借金踏み倒しである。古い証文を認め替えるという名目で借金の証文を集めて焼き捨て(!)、上下貴賤の別を問わず全ての借金を勝手に「250カ年の無利子償還」へと書き換えてしまった。250年と言えば関係者は誰も生きていないどころか、子や孫でも生きていないわけだから、これは事実上の借金棒引きであった(ただし、旧藩債消滅の命令が発布される前年の明治4年までの間、250年割として律儀に少しずつ返済はした)。
どうしてこんな暴挙が可能であったのかはよくわからない。普通、このような勝手な借金棒引きが行われたら貸し主らから暴動がおきそうなものだが、さほどのことは起きなかった。根回しの周到な調所のことだから、要所で緻密な調整を行っていたのかもしれない。
調所の改革は重豪の死後も藩主斉興(なりおき)の下で進められた。斉興も調所をよく信頼し、持ち前の頑固で一徹な決断力によって調所の改革を断行させた。これにより日本一の貧乏藩だった薩摩藩の財政が徐々に好転し、普段の生活もままならない貧乏藩から対外的に売って出る雄藩へと変貌していく。明治維新において薩摩藩の活躍が甚だしかったのは、調所の改革の成果という側面が大きいのである。
ところがいざ財政が黒字化してくると、苛烈な緊縮策と統制の厳格化への反動が起こらざるを得ない。調所は徹底的な能力第一主義で人材を登用したから、その人材は清廉潔白の徒とはいえず、汚職もかなりあったようだ。調所は仕事さえできれば素行には目をつぶった。調所自身は仕事一徹で公明正大だったらしいがこうした部下の評判は甚だ悪く、次第にアンチ調所派が形成されてくる。
その首魁が島津斉彬(なりあきら)であった。斉彬は嫡子でありながら40歳になっても家督を譲られず、その原因の一つが調所らの妨害工作にあると斉彬派は考えた。斉彬が藩主になれば、曾祖父の重豪ゆずりの蘭学趣味や蕩尽癖によってせっかく立て直した財政がまた傾くおそれがあるということで、斉興と調所には斉彬の登場をできるだけ遅くしたいとの思惑があったのは事実のようだ。
そこで斉彬は奇手に出る。調所は幕府からは禁じられていた琉球との貿易を民間の業者に秘密裏に行わせて莫大な利益を生みだしていたが、斉彬はあろうことかこれを幕府の家老阿部正弘に密告したのである。薩摩藩自体を危殆にさらす可能性もある密告であった。これをうけて調所は幕府から取り調べにあう。まさか斉彬が密告したとは知らない調所は、薩摩藩が禁を犯したということで処分されることを案じ、罪を自分一人で負って真相をうやむやにするため、ついに服毒自殺したのである。しかし実際には、斉彬と阿部との間には「薩摩藩は処分しない」という密約が裏では交わされていた。全ては調所を失脚させるためのシナリオだったのである。
明治維新を進める大きな力となった斉彬の敵対勢力であったということで、調所笑左衛門は正当に評価されていない、と著者は嘆く。そのためこの一書をものしたということだ。出版は1966年(昭和41年)。その甲斐あってか、近年ではかなり調所の仕事は見直され、薩摩藩が雄藩として飛躍する基礎をつくった人物として評価が定まっているように見受けられる。
本書を読むと、反感の嵐の中で改革を断行した調所の人格と振る舞いにも興味が湧く。藩主(斉興)と時期藩主(斉彬)の対立にも巻き込まれ、素行のよくない部下にも振り回されつつ、非常に温厚に穏便に、そして驚くほど精力的に仕事を進めたという。
財政再建の大業を成し遂げながら非業の死を遂げた調所広郷を知る好著。
【関連書籍】
『島津重豪』芳 即正 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/03/blog-post_21.html
薩摩藩が雄飛する基礎をつくった型破りの藩主、島津重豪(しげひで)の初の本格的評伝。500万両の借金が正当な条件によるものではなく高利による不当なものであったことを論証している。
幕末の薩摩藩は、他藩以上の慢性的な赤字財政に苦しんでいた。 参勤交代の過重な負担や幕府から命ぜられる大規模土木工事、そして農村の疲弊によって日本一の貧乏藩になりはて、その借金は500万両にも及んでいた。当時の経常収入がおよそ15万両と考えられており、年間利息の60万両すらも全く支払えない有様だった。
この崩壊した藩財政を立て直すため、島津重豪(しげひで)は調所笑左衛門広郷(ずしょ・しょうざえもん・ひろさと)を抜擢する。調所は元は身分の低い武士で茶坊主(接待係)から重豪の秘書的な役目(御小納戸頭取)に取り立てられて栄進し、町奉行になっていた人物。御小納戸頭取は主君の意を汲んで各所に取次をするという仕事で、ここで調所は重豪に大変重用された。どうも、調所は人の感情の機微をよく理解し、様々なことに気が利いてことをうまく進める能力に長けていたらしく、英邁ではあったが苛烈で傲岸不遜な重豪に足りない部分を持っていたようだ。
調所は財政は全くの素人だったから最初は固辞したが、重豪からほぼ全権委任的な言質をとって家老となり財政改革に取り組んだ。重豪としては、自分の意を完璧に理解して、いわば「自分の分身」として物事を進められる人材として調所を抜擢したようである。
調所は自分が素人であるという自覚があったから、有能な人材を家格や身分の上下によらず積極的に登用して重役につけた。そして自分自身でも寸暇を惜しんで勉強と視察に励み、財政立て直しに邁進した。
薩摩藩は表向きは様々なことが統制されていたけれども、実際には「穴だらけの統制」であった。調所はこれを様々な面で厳しく取り締まり、 薩摩藩を本当の統制経済に変えていった。例えば出来高に応じて納税(年貢)の量が変動する制度があったが、これが悪用されているとして廃止し、一定の年貢へと変更している。しかしただ苛斂誅求を推し進めるだけでなく、調所は流通経路の徹底した合理化とともに旧習の打破にも努めた。
そして奄美の黒糖生産は全てを統制して自由貿易を禁止。藩の専売とするだけでなく島民には黒糖生産以外のほとんどの農業を禁止し、貨幣までも廃止してしまった。奄美の人にはひたすら黒糖のみを生産させ藩はそれを安く買いたたき、藩外に高くで売るという今日から見れば非人道的な貿易を行って暴利を得た。
しかし調所の改革のハイライトはなんといっても500万両の借金踏み倒しである。古い証文を認め替えるという名目で借金の証文を集めて焼き捨て(!)、上下貴賤の別を問わず全ての借金を勝手に「250カ年の無利子償還」へと書き換えてしまった。250年と言えば関係者は誰も生きていないどころか、子や孫でも生きていないわけだから、これは事実上の借金棒引きであった(ただし、旧藩債消滅の命令が発布される前年の明治4年までの間、250年割として律儀に少しずつ返済はした)。
どうしてこんな暴挙が可能であったのかはよくわからない。普通、このような勝手な借金棒引きが行われたら貸し主らから暴動がおきそうなものだが、さほどのことは起きなかった。根回しの周到な調所のことだから、要所で緻密な調整を行っていたのかもしれない。
調所の改革は重豪の死後も藩主斉興(なりおき)の下で進められた。斉興も調所をよく信頼し、持ち前の頑固で一徹な決断力によって調所の改革を断行させた。これにより日本一の貧乏藩だった薩摩藩の財政が徐々に好転し、普段の生活もままならない貧乏藩から対外的に売って出る雄藩へと変貌していく。明治維新において薩摩藩の活躍が甚だしかったのは、調所の改革の成果という側面が大きいのである。
ところがいざ財政が黒字化してくると、苛烈な緊縮策と統制の厳格化への反動が起こらざるを得ない。調所は徹底的な能力第一主義で人材を登用したから、その人材は清廉潔白の徒とはいえず、汚職もかなりあったようだ。調所は仕事さえできれば素行には目をつぶった。調所自身は仕事一徹で公明正大だったらしいがこうした部下の評判は甚だ悪く、次第にアンチ調所派が形成されてくる。
その首魁が島津斉彬(なりあきら)であった。斉彬は嫡子でありながら40歳になっても家督を譲られず、その原因の一つが調所らの妨害工作にあると斉彬派は考えた。斉彬が藩主になれば、曾祖父の重豪ゆずりの蘭学趣味や蕩尽癖によってせっかく立て直した財政がまた傾くおそれがあるということで、斉興と調所には斉彬の登場をできるだけ遅くしたいとの思惑があったのは事実のようだ。
そこで斉彬は奇手に出る。調所は幕府からは禁じられていた琉球との貿易を民間の業者に秘密裏に行わせて莫大な利益を生みだしていたが、斉彬はあろうことかこれを幕府の家老阿部正弘に密告したのである。薩摩藩自体を危殆にさらす可能性もある密告であった。これをうけて調所は幕府から取り調べにあう。まさか斉彬が密告したとは知らない調所は、薩摩藩が禁を犯したということで処分されることを案じ、罪を自分一人で負って真相をうやむやにするため、ついに服毒自殺したのである。しかし実際には、斉彬と阿部との間には「薩摩藩は処分しない」という密約が裏では交わされていた。全ては調所を失脚させるためのシナリオだったのである。
明治維新を進める大きな力となった斉彬の敵対勢力であったということで、調所笑左衛門は正当に評価されていない、と著者は嘆く。そのためこの一書をものしたということだ。出版は1966年(昭和41年)。その甲斐あってか、近年ではかなり調所の仕事は見直され、薩摩藩が雄藩として飛躍する基礎をつくった人物として評価が定まっているように見受けられる。
本書を読むと、反感の嵐の中で改革を断行した調所の人格と振る舞いにも興味が湧く。藩主(斉興)と時期藩主(斉彬)の対立にも巻き込まれ、素行のよくない部下にも振り回されつつ、非常に温厚に穏便に、そして驚くほど精力的に仕事を進めたという。
財政再建の大業を成し遂げながら非業の死を遂げた調所広郷を知る好著。
【関連書籍】
『島津重豪』芳 即正 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/03/blog-post_21.html
薩摩藩が雄飛する基礎をつくった型破りの藩主、島津重豪(しげひで)の初の本格的評伝。500万両の借金が正当な条件によるものではなく高利による不当なものであったことを論証している。
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