2016年8月14日日曜日

『バガヴァッド・ギーターの世界―ヒンドゥー教の救済』上村 勝彦 著

ヒンドゥー教最高の聖典「バガヴァッド・ギーター」の解説書。

インドに古い大叙事詩「マハーバーラタ」というのがあって、これは複雑で複合的なシナリオと厖大な登場人物によって非常にややこしいものなのだが、その一節に「バガヴァッド・ギーター(神の歌)」がある。これは、主人公のアルジュナという戦士が、親族同士で殺し合うことに悩み戦意喪失した時、御者に扮していた最高神クリシュナがアルジュナに対して語った一幕で、その内容を一言で述べれば「なすべきことをなせ」と諭すものである。

これは要するに、ウジウジ考えずに戦いなさい、というものなのだが、その内容は古代ヒンドゥー教の要諦を凝縮したものになっており、マハトマ・ガンジーを始め多くの人が「ギーター」を座右の書としてきた。今でも、インドでは「ギーター」が国民的聖典とされているそうだ。それあたかも、我が国の般若心経のようなものであろう。

具体的に何が書いてあるかというと、本書「おわりに」にまとめられているように、
この世にうまれたからには、自分に定められた仕事をひたすら遂行せよ。行為には罪悪がつきまとうが、行為をしても悪い結果を残さないためには、執着を捨て、行為の結果を顧慮しないことが肝要である。そして、そのように執着なく、結果にとらわれずに行為するには、すべての行為を最高神(絶対者)に対する捧げものとして行うべきである。
ということだ。そして、このような生き方をすれば、やがて最高の存在(ブラフマン)は真実の自己(アートマン)と同一であることが自覚され、行為を超越する存在へとなっていくという。

この考え方を好意的に解釈すれば、無私の境地でやるべきことをやるという求道者的なものであることは間違いない。しかし、私などは心が汚れているためか、どうもブラック企業の経営者が言いそうなことだ、と思ってしまう。「執着を捨て」とか「結果にとらわれず」というのが「給料が安くて労働環境が悪くても」に変換しうるように思う。いや、もっと言うと、クリシュナのいうことを聞いていると、全体主義的、軍隊的、思考停止的なところが多いと感じる。

行為の善悪や結果を考えてはダメで、やるべきことをやりなさい、というのは自分の頭で考えるのを辞めなさいと言っているように聞こえるし、しかも行為の全てを最高神への捧げものとして行うというのはどう考えてもおかしい。例えば、お風呂に入るとか、水を飲むといったことすら最高神への捧げものということになるんだろうか。やっぱり、清潔にするため、喉が渇いたから、という考えの方がずっと素直だと思う。そういったことすら、最高神のために行わなくてはならないというのがちょっと理解できない。

そもそも「目の前の敵を倒しなさい」という内容なのだから軍隊的なのはしょうがないとしても、全体の目的のための駒になりなさい、歯車になりなさい、と諭しているようで非常に気持ち悪い。そして、歯車になりきることに疑問を覚えてはだめで、結果を顧みずにやるべきことをやるのですよ、と思考停止を求める。一段高い境地から考えると、それは尊い生き方にもなりうるが、言葉通り受け取るととても危険な思想のようでもある。

しかし、「ギーター」はこうした内容だけでなく、ヒンドゥー教の哲学的な部分をも含んでおり、大乗仏教の「如来蔵思想」や「本覚思想」、「念仏」の元になった考えが開陳されているなど、ただ「あなたの義務を盲目的に遂行しなさい」というだけのものではない。自己や知性、瞑想や苦行に対しての考え方などは、現代からみても高尚なものであり、共感を抱いた。

とはいってもやはり疑問なのは、個人と全体(組織)の問題である。戦いたくない、というアルジュナに対して、全体(組織)を優先させて戦いを鼓舞するクリシュナを、私は認めることはできない。あるがままの個人でいられること、それがアートマン(真実の自己)なのではないのだろうか? どうも組織の論理を優先させて、個人を埋没させる思想のように思えてしまう。

「ギーター」の紹介(訳文)は平易で解説もわかりやすいが、個人的にはその思想が合わなかった本。

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