インドというつかみ所のない国を、「多様と統一」「本音と建前」というキーワードを用いながらその横顔を紹介する本。
この本は「生活の世界歴史」のシリーズに入っているが、ほとんど歴史的なことは語られない。それに、インド民衆の生活の変遷(例えば、カースト制の変遷など)を知りたいという人にも役に立たない。インドの民衆がかつてどうであったか、ということは資料があまりにも限定されていて、実際のところよくわからないそうだ。
というのも、インドにおいては書記階級はずっとバラモンであったので、バラモンの目からだけの「建前」の世界が記述されてきた。しかし実際とは食い違いがあったようで、その実態は茫洋としている。カースト制度も、実は本音と建前が入り乱れていて、その運用は複雑怪奇なのである。
ただ、現在のインドの姿の紹介は非常に丁寧で、インドに在住していた著者達ならではの実感のこもった記述が溢れている。一般の日本人にとってあまりイメージがないインド民衆の衣食住について、このように整理・紹介してくれる本は稀有である。
また、インドというと「とにかく多様な国だ」、と語られがちなのであるが、本書では多様な民俗や言語を包容するインド亜大陸が、どのように「インド」として統一されているかを説明する。それを乱暴に要約すれば、ヒンドゥーとカースト制(この2つは不可分であるが)による社会の規定が、良くも悪くもインドを統一しているのだ、となる。それが妥当な見解なのか私にはよくわからないが、ナルホドと唸らされる説明ぶりである。
本書は、インドの文化論としては論旨が明快で説得力があり、バランスの取れたものであると思う。とはいえ、文化論を謳っているわけではないから、その記述は体系的でないし、あくまでインド文化の軽い紹介のレベルに留められている。それは少し残念だが、そのためもあってか語り口は平易で、読みやすい。
「生活の世界歴史」の本なのかというのが疑問ではあるが、良書だと思う。
2012年10月27日土曜日
2012年10月1日月曜日
『日本神話の源流』 吉田 敦彦 著
日本神話が大陸および南洋(ポリネシア等)から様々な影響を受けて成立したことはよく指摘されるとおりで、特に海幸彦・山幸彦の釣り針喪失譚などはポリネシアにも類似の神話が多数散見されるなど、神話の分布の様相は人類史的にも興味深いテーマである。
しかし、釣り針喪失譚についてはよく指摘されるもののそれを体系的に述べた本は実はあまりなく、本書においてもつまみ食い的に紹介されるに過ぎない。著者は印欧神話の比較神話学の大家ジョルジュ・デュメジルに師事しており、その専門は印欧神話、特にギリシア神話なのでこれはしょうがない面がある。
つまり、印欧神話との比較の部分以外は著者にとっても専門外であるため、少し物足りない部分もあるのは否めない。しかしながら、むしろ本書の面白さは、バリバリの日本神話の学者ではなく、印欧神話を中心にした比較神話学者が日本神話を見るとどう映るか、という点にある。
正直、その見解は「こうとも考えられる」「これはあれと似ていなくもない」のような憶測に頼った弱い面が散見され、説得力は強くない。私自身は、著者の見解にはかなり懐疑的だ。 とはいうものの、日本神話がこうして様々な地域の神話との比較を受けるという機会はあまりないので、その意味では貴重な本だと思うし、憶測が多いとは言っても著者は学術的スタンスを崩さないので安心して読める。
著者が一貫してその主張を支持した民俗学者の大林太良や松本信広の本も読んでみたいと思った。
2012年9月23日日曜日
『正義と嫉妬の経済学』 竹内 靖雄 著
「世間ではこう思われているけど、よく考えてみるとこうでないの?」ということを時事問題を中心にして述べる本。
本書は「経済倫理学」なるものを提唱した著者が、世相に対して経済学的視点から気の利いたことを言おうとした本であり、出版当時においては、実際に少し気の利いた本だったのだと思う。
しかし、本書の出版は1992年で現在から20年も前のため、取り上げる時事的な世相が既に過去のもので、それだけで本書の意義は半減している。さらに著者の見解は、当時は独創性があったのかもしれないが、今では常識化しているものばかりで、はっきり言えば陳腐である。しかもそれは、著者が時代を先んじていたわけでもない。本書には言及がないが、その見解の主要な部分はミルトン・フリードマンなどに負っていると思われ、正直、本書を読むよりも例えば『資本主義と自由』を読む方が、より体系的かつ理論的に著者の主張を摑めると思うし、普遍的価値がある。
さらに、書名となっている「正義と嫉妬の経済学」は、本書の内容とほとんど何の関係もない。著者の提唱する「経済倫理学」自体についての説明はほとんどないが、要は「倫理的問題と思われていることを経済的な領域に落とし込んで考える」ということのようで、それはそれで一つの立場だと思う。しかしそういう分析手法は本書にほとんど登場しないし、正義も嫉妬も何の関係もない話が多いのは残念だ。
しかも、本書で多少触れられる倫理学的な問題についても、ピーター・シンガーの動物倫理を「無理がある」の一言で片付けるような乱暴なところがあり、とても真面目に倫理問題を検証したことがあるような言とは思えない。経済倫理学などというならば、厚生経済学についても触れるのが当然と思うが、本書にはケネス・アローもアマルティア・センも登場しない。著者のいう経済倫理学は、せいぜい「正義感に基づいて管理しようとするより市場に任せる方がうまくいく」程度のものでしかないように思われる。
ついでに言えば、著者の専門であるはずの経済学についても、バブル経済的な浮かれ気分から冷静な分析ができておらず、バブル崩壊後にもかかわらず依然として「世界一好調なのは日本経済」というような根拠なき自信に溢れており、バブル崩壊によってもたらされる影響を過小評価している。それだけでも著者の主張は眉唾して見るべきだ。
本書は今で言えば経済評論家がブログで書くようなことが並んでいて、世相の分析についても解説ともいえないような通俗的なことが連ねられているし、なんら意味のある主張もなされず、「だから何?」というような内容である。出版当時は多少気が利いていたのかもしれないが、20年の間に完全に陳腐化した本。
本書は「経済倫理学」なるものを提唱した著者が、世相に対して経済学的視点から気の利いたことを言おうとした本であり、出版当時においては、実際に少し気の利いた本だったのだと思う。
しかし、本書の出版は1992年で現在から20年も前のため、取り上げる時事的な世相が既に過去のもので、それだけで本書の意義は半減している。さらに著者の見解は、当時は独創性があったのかもしれないが、今では常識化しているものばかりで、はっきり言えば陳腐である。しかもそれは、著者が時代を先んじていたわけでもない。本書には言及がないが、その見解の主要な部分はミルトン・フリードマンなどに負っていると思われ、正直、本書を読むよりも例えば『資本主義と自由』を読む方が、より体系的かつ理論的に著者の主張を摑めると思うし、普遍的価値がある。
さらに、書名となっている「正義と嫉妬の経済学」は、本書の内容とほとんど何の関係もない。著者の提唱する「経済倫理学」自体についての説明はほとんどないが、要は「倫理的問題と思われていることを経済的な領域に落とし込んで考える」ということのようで、それはそれで一つの立場だと思う。しかしそういう分析手法は本書にほとんど登場しないし、正義も嫉妬も何の関係もない話が多いのは残念だ。
しかも、本書で多少触れられる倫理学的な問題についても、ピーター・シンガーの動物倫理を「無理がある」の一言で片付けるような乱暴なところがあり、とても真面目に倫理問題を検証したことがあるような言とは思えない。経済倫理学などというならば、厚生経済学についても触れるのが当然と思うが、本書にはケネス・アローもアマルティア・センも登場しない。著者のいう経済倫理学は、せいぜい「正義感に基づいて管理しようとするより市場に任せる方がうまくいく」程度のものでしかないように思われる。
ついでに言えば、著者の専門であるはずの経済学についても、バブル経済的な浮かれ気分から冷静な分析ができておらず、バブル崩壊後にもかかわらず依然として「世界一好調なのは日本経済」というような根拠なき自信に溢れており、バブル崩壊によってもたらされる影響を過小評価している。それだけでも著者の主張は眉唾して見るべきだ。
本書は今で言えば経済評論家がブログで書くようなことが並んでいて、世相の分析についても解説ともいえないような通俗的なことが連ねられているし、なんら意味のある主張もなされず、「だから何?」というような内容である。出版当時は多少気が利いていたのかもしれないが、20年の間に完全に陳腐化した本。
2012年9月16日日曜日
『街道をゆく(19) 中国・江南のみち』司馬 遼太郎 著
ご存じのシリーズ。江南の地をゆく司馬遼太郎のエッセイ。
江南地方は日本文化に非常に大きな影響を与えているが、具体的にはよくわからない部分が大きい。華北的な儒教や律令といった政治の道具と違って、江南の地からもたらされたものは文化であるために、その有り様は茫洋としている。
元より「街道をゆく」は気軽なエッセイで、体系的な考察ではないし、ときに見聞の記録ですらない。しばしば、「ところで…」と脱線してしまうし、いろいろ準備しているとはいえ、数日間の強行日程で深い考察などできるはずもない。よって、その茫洋とした江南の文化を本書で知ることは不可能で、ただ少し垣間見ることができるだけに過ぎない。
「街道をゆく」はおそらく20冊以上読んでいるが、やはり中国については現地の事前知識が少ないためか本書にはおざなり感がある。読んでいて退屈な部分もある。いろいろとヒントや小ネタが満載なので、決して価値の低い本ではないけれども、紀行文として読むと少し物足りない。
日本国内の「街道をゆく」であれば、「もしかしたら〜は〜だったのかもしれない」というような、良くも悪くも自由な発想で「司馬史観」が展開されるわけだが、本書の場合は背景の解説のみに止まっている部分が多く、それが退屈なのかもしれない。悪い本ではないし、著者のファンならば全く問題なく楽しめると思うが、同シリーズの中においては凡庸な本。
江南地方は日本文化に非常に大きな影響を与えているが、具体的にはよくわからない部分が大きい。華北的な儒教や律令といった政治の道具と違って、江南の地からもたらされたものは文化であるために、その有り様は茫洋としている。
元より「街道をゆく」は気軽なエッセイで、体系的な考察ではないし、ときに見聞の記録ですらない。しばしば、「ところで…」と脱線してしまうし、いろいろ準備しているとはいえ、数日間の強行日程で深い考察などできるはずもない。よって、その茫洋とした江南の文化を本書で知ることは不可能で、ただ少し垣間見ることができるだけに過ぎない。
「街道をゆく」はおそらく20冊以上読んでいるが、やはり中国については現地の事前知識が少ないためか本書にはおざなり感がある。読んでいて退屈な部分もある。いろいろとヒントや小ネタが満載なので、決して価値の低い本ではないけれども、紀行文として読むと少し物足りない。
日本国内の「街道をゆく」であれば、「もしかしたら〜は〜だったのかもしれない」というような、良くも悪くも自由な発想で「司馬史観」が展開されるわけだが、本書の場合は背景の解説のみに止まっている部分が多く、それが退屈なのかもしれない。悪い本ではないし、著者のファンならば全く問題なく楽しめると思うが、同シリーズの中においては凡庸な本。
2012年9月15日土曜日
『西欧古典農学の研究』 岩片 磯雄 著
18世紀初頭から19世紀中葉までのイギリス及びドイツの農学の流れについてまとめた本。
この本は、テーマが非常に限定されていて、また内容も学術的であり読者を選ぶ本ではあるが、類書もほとんどなく価値が大きい。
内容は、著者の農業経営に対する見方を示す序章の後、農学の流れの概要を解説、その後イギリスについてはジェスロ・タルとアーサー・ヤングの業績をまとめ、次にドイツについてはアルブレヒト・テーアとチューネンの業績をまとめる。
既出の論文等の改稿が多く、若干体系的でない部分があることと、学術的な記述ぶりのため英語及びドイツ語が頻出するものの、近代農学が成立する流れについてはある程度理解できる。とはいっても、各農学者の主張については、かなり取捨選択している感があり、例えばテーアにおいて簿記の導入が記載されないなど、粗密があるように見受けられた。特に休閑については、著者自身がこれを重要視しているにもかかわらず、些末な点に拘泥するあまり、休閑をどのように克服したのかということが最後までよくわからない部分があった。
それに最大の問題は、「西欧古典農学」を謳いながら、その対象をイギリスとドイツのみに絞っていることだ。 ヨーロッパの農学史は詳しくないが、フランスには農書の名著も少なくないと聞く。せめてフランスの農学についても概略を記載してもらいたかった。
と、いろいろと批判する点はあるものの、先述の通り類書もほとんどなく、書かれている事自体は様々な資料を縦横に駆使し、極めて堅実に書かれており、古い本なのでちょっと気になる部分もあるが全体的には明快で、この分野においては基本図書と言うべき重要な本である。
内容については別のブログにまとめたのでそちらもご参照されたい。
この本は、テーマが非常に限定されていて、また内容も学術的であり読者を選ぶ本ではあるが、類書もほとんどなく価値が大きい。
内容は、著者の農業経営に対する見方を示す序章の後、農学の流れの概要を解説、その後イギリスについてはジェスロ・タルとアーサー・ヤングの業績をまとめ、次にドイツについてはアルブレヒト・テーアとチューネンの業績をまとめる。
既出の論文等の改稿が多く、若干体系的でない部分があることと、学術的な記述ぶりのため英語及びドイツ語が頻出するものの、近代農学が成立する流れについてはある程度理解できる。とはいっても、各農学者の主張については、かなり取捨選択している感があり、例えばテーアにおいて簿記の導入が記載されないなど、粗密があるように見受けられた。特に休閑については、著者自身がこれを重要視しているにもかかわらず、些末な点に拘泥するあまり、休閑をどのように克服したのかということが最後までよくわからない部分があった。
それに最大の問題は、「西欧古典農学」を謳いながら、その対象をイギリスとドイツのみに絞っていることだ。 ヨーロッパの農学史は詳しくないが、フランスには農書の名著も少なくないと聞く。せめてフランスの農学についても概略を記載してもらいたかった。
と、いろいろと批判する点はあるものの、先述の通り類書もほとんどなく、書かれている事自体は様々な資料を縦横に駆使し、極めて堅実に書かれており、古い本なのでちょっと気になる部分もあるが全体的には明快で、この分野においては基本図書と言うべき重要な本である。
内容については別のブログにまとめたのでそちらもご参照されたい。
2012年9月8日土曜日
『アイガモがくれた奇跡 失敗を楽しむ農家・古野隆雄の挑戦』 古野 隆雄 著
本書はアイガモ農法そのものの話ではなく、著者の人生の振り返りとも言うべきものである。ただし、話の流れ上アイガモ農法の利点も学べることができ、その雰囲気や、どのような背景で成立したのかといったことも知ることができる。
一農家にすぎなかった著者が、完全有機栽培を始めアイガモに出会い、苦労をしながらもアイガモ農法によって成功し、各国で講演をしたり、本を出版したり、スイスのシュワブ財団より2001年「傑出した社会起業家」の一人に選出されたりするというのは、話として面白い。
また、これは純粋な著書ではなくて聞き書き(取材したことを編集者が書いて、それを著者が校正する)だし、元は新聞連載なので大変読みやすい。ワクワクドキドキというような展開はないが、ひどく退屈な部分もない。
人生を通して何かを言う、のような偉ぶったところもなく、教訓めいた話もない。同時に、深い洞察や哲理も述べられないが、そこはあっさりとしていて逆によい。
とはいうものの、これはアイガモ農法を確立した著者の人生に関心がある人だけが読む意味がある本である。これを読んで勉強になる! などということは、農業をしていない人にはないと思う。でも農業従事者であれば、著者の生き方には何か感じるところがあるかもしれない。
2012年9月7日金曜日
『生活の世界歴史(4) 素顔のローマ人』 弓削 達 著
頽廃するローマの社会を、そこに生きた人々の叙述を通して描き出す本。
本書はローマの社会を学ぶ本ではなく、むしろ頽廃した社会の中で人がどのように生きたかを学ぶ本であり、極めて現代的な側面がある。
よく知られているように、帝政ローマでは拝金主義、奢侈、堕落、不信、嫉妬、残酷、度を超えた美食といった悪徳がはびこり、性の頽廃とそれによる家庭崩壊によって価値観が崩壊し、さらに度重なる戦争も相まって社会が乱れに乱れていた。
もちろん現代から見ても先進的な制度や、誇るべき言論もあったが、全体として社会は卑俗なものとなっていた。だがそこで生きる人の中にも、悪徳を告発し、高貴な精神を保ちたいと願った人はいて、それが本書の主人公だ。
具体的には、哲学者としても名高いセネカ、『博物誌』を書いた大プリニウスの甥の小プリニウスが中心になる。彼らは社会の悪徳を嫌悪しつつも、その社会の中で勝ち上がった現実的な人間であった。そして、そうした勝ち組も冷ややかに見つめるのが、詩人のマールティアーリスであり、彼の毒舌が本書のアクセントとなっている。
この中で最も魅力的なのがセネカで、「自らもまた罪と悪に染まったところの、この社会における加害者の一人たることを嫌悪をもって実感しつつも、加害者たることをやめ切れず、罪と悪から逃れえない心の弱さと矛盾に悩む奈落の底から、救いを求める求道者がセネカであった」(p.92)という説明に要約されるように、複雑な内省を抱えた憎めない人間像に惹かれる。
本書の難点としては、資料の引用が非常に多く、時に冗長であることだ。当時のローマ人の手紙の長ったらしさは異常で、それを抜粋とは言えかなりの分量引用するので読むのが疲れる。もう少し簡潔に叙述できたのではないかという気もするが、当時の雰囲気をよく理解することができるという利点もある。社会が乱れつつある今、帝政ローマで何が起こったかを知ることは有益だろう。
登録:
投稿 (Atom)