2023年9月1日金曜日

『神道とは何か—神と仏の日本史』伊藤 聡 著

神道の歴史を概観する本。

神道とは古代より連綿と受け継がれてきた神祇信仰ではない。今の神道は明治政府の神仏分離政策によって、いわば政策的に生み出されたものである。では元の神道はどうだったか。実は、いつ神道が生まれたのかということすらも、古代から近代(!)までいろいろとあり、定説はまだない。よって本書では、神道以前の神祇信仰から説き起こし、近世に至るまでの仏教を含めた信仰世界の歴史を概観することで神道の形成について述べている。

古代においては、カミやマツリという言葉、崇仏論争、神仏習合、法楽(神のための造寺造仏)、八幡神、本地垂迹説、陰陽道や修験道などについて簡単に整理している。神祇信仰そのものというよりは、紙幅のほとんどは仏教の動向について費やされており、意外と神祇官など神祇制度についての記述は簡略である。

また、道鏡失脚後に光仁天皇が神事から僧侶を遠ざけた平安時代の神仏隔離が取り上げられる。これは高取正男が『神道の成立』で提唱したもので、神道成立の画期とされている。

この趨勢の中で伊勢神宮でも神仏隔離が行われ、僧侶の参拝を禁止した。しかしながら、その理由はいまいち明瞭でない。しかも伊勢神宮の神官(祭主・大宮司・禰宜)には、退職後あるいは死の直前に出家しているものが多く、後の廃仏のような思想はなかったようだ。伊勢神宮の神官は、神と仏の間で苦労していた。

そういう中で、天照大神の本地は観音だとか、大日如来だとかいう説が登場する。観音説は伊勢神宮の内部から出てきており、大日如来説の初見は真言宗小野流の成尊の書『真言付法纂要抄』にある。後者の場合、仏教的には「粟散辺土」(延喜17年(917)の『聖徳太子伝暦』)とされる日本を、天照大神・天皇の存在によって「神国」と逆転させる密教化した神国思想が展開されており、明らかに仏教側が伊勢神宮にすり寄っている気配が感じられる。

東大寺の復興に尽力した重源の場合も、伊勢神宮(内宮・外宮)に大般若経をそれぞれ奉納するよう求め、これにより前例のない神宮法楽供養が行われている。行基信仰においても、彼が東大寺建立のために伊勢神宮に参って天照大神の示現を得たという説話が登場する。この頃、仏教勢力は伊勢神宮の存在にずいぶん頼っていたということは間違いない。

こうした動きに呼応してのことであろう。伊勢神宮周辺でも、後に「両部神道」を形成する教理書の一群が製作された。伊勢神宮の祭神・社殿・由緒等を仏教教理によって説明したのである。中でも重要なのは、志摩国吉津の仙宮院で撰述されたと考えられる『中臣祓訓解(なかとみのはらえくんげ)』である。これらの書では、伊勢神宮の内宮・外宮を胎蔵界・金剛界曼荼羅になぞらえ、社参自体を一種の灌頂作法と見なしている。

さらに鎌倉中期以降は仙宮院以外にも広がり、両部神道書がどんどん登場した。それらの中で後世に大きな影響を与えたのが後醍醐天皇に仮託された『麗気記』であり、「これは南北朝期以降、『日本書紀』と並ぶ中世神道の最も重要な聖典と見なされるようになった(p.96)」。

一方の伊勢神宮では、こうした動きと前後して外宮の渡会氏が「伊勢神道」を形作っていた。外宮が内宮と同格(さらには優越)であることを示すために構築された神道理論である。まず『造伊勢二所太神宮宝基本記』、次いで『倭姫命世記』、その後、文永・弘安頃までに『伊勢二所皇太神御鎮座伝記』『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『豊受皇太神御鎮座本紀』がなった。これを後に「神道五部書」という。これらでは、天照大神は天御中主神と同体とされ、また内外宮を胎金両界とするなど両部神道の理論が援用されている。しかしながら南北朝期には渡会氏は南朝につき、南朝の衰亡とともに力を失った。

南北朝期から室町期では、仏教側では神道書が伝授されることで次第に流派が形成された。細かい違いは省くが、三宝院流、三輪流、西大寺流、御流などが生まれ、中世末期には「神道に十二流あり」と言われている。御流では、天照大神が如意宝珠の垂迹だと考えていたことが面白い。これらは真言系が多いようで、比叡山(天台宗)の方では山王神道が生まれている。黒田俊雄は「神道は仏教の一部だった」としたが、それはこうした状況を述べたものだろう。

鎌倉新仏教では、(1)法然・親鸞は神祇不拝だったが、浄土宗ではだんだん神道説を導入した。(2)時衆は一遍が各地の神社をめぐっており、神祇信仰を全面的に受け入れた。(3)臨済宗では、台・密・禅兼修を基本としたことから神祇信仰と融和的で、特に円爾の聖一派では神宮との関係が深い。室町後期には吉田神道に学ぶものが出、近世神道の揺りかごになった。(4)曹洞宗は、瑩山紹瑾が本地垂迹思想を受け入れ、禅僧が在地の神々を化度・帰伏させていくという説話が生まれた。(5)日蓮宗では護法善神思想を受け入れ、三十番神信仰を導入した。三十番神信仰をめぐって吉田兼倶から論争を仕掛けられているのが面白い。つまり、鎌倉新仏教では浄土真宗を除き、神祇信仰と融和的だったのである。

こうした仏教と神祇信仰の融和により、どんどん新しい神格が追加されていった。本地垂迹説による実神・権神に加え法性神(本覚神)、蛇神(垂迹した神は蛇体と観念されたのが不思議)、神は心に宿るという観念、御霊信仰から発展した人神信仰(豊国大明神、東照大権現)、御法神、習合神(蔵王権現、牛頭天王、荒神)、外来の神(泰山府君、媽祖)、弁財天や鬼子母神などの女神信仰といったものである。「弁財天は宇賀神と同体」などとするような、神格をつなげる理論が盛んになる一方で、神格が整理されるのではなく、むしろ乱立する方向になっていったことが興味深い。

また、多種多様な神道(に関係ある)説も登場。天皇の世は百代をもって滅亡するという「百王思想」、『野馬台詩』や『聖徳太子未来記』といった予言書、そして『日本書紀』の再解釈ともいうべき「中世日本紀」(神話記述の総称である「日本紀」の名のもとに、多くの異説・異伝が付け加えられて成立した新たなテキスト群)が中世国家へと変質していく平安末から出来上がっていった(先述の「神道五部書」などもその一環)。

そういう動きによって出来上がっていったのが「中世神話」である。例えば、大日印文・第六天魔王をめぐる国土創生神話(第六天魔王が三種の神器を授けたとか!)など面白い。それらの神話は、以前からの神話の表面上の記述の背後にある別の意味を見出し、意味を重ね合わせることによって変奏したものであった。

中世神話の中で肥大化し、後世に大きな影響を与えたのが神功皇后の三韓征伐神話。これにより朝鮮蔑視が増幅された。『八幡愚童訓』で「新羅国の大王は日本国の犬」という言説が書かれたことは、後の秀吉の朝鮮出兵へ繋がっていく。

近世神道については、著者の専門である中世に比べだいぶ簡単な記述である。まず吉田兼倶の吉田神道の成立について述べる。それは吉田家の『日本書紀』研究を土台にしてはいたが、密教修法の模倣による祭祀儀礼の創出、捏造による古代からの権威の創出といったことが綯い交ぜになっていた。吉田神道は、独自の教義・経典・祭祀組織を持った、自立した神道を始めて形成した。

また、近世神道では「天道」の概念が重要となった。これは「思想の還俗」を象徴するものであるという。さらに鎌倉期以来の諸教一致思想が進む中で、易・道教(老子)・仏教(密教)・儒教が全て「神道」なのだと吉田兼倶は言っている。これは、神道が根本で、道教や仏教はそこから派生したものなのだ、という倒錯した立場である。しかし神仏儒三教一致思想は、石田梅岩や手島堵庵など心学でも盛んに言われるようになった。

さらに、儒家は神道を再解釈し「儒家神道」を生みだす。林羅山は『神道伝授』『本朝神社考』を著して理当地神道なる独自の神道を早くも生みだしていたが、やはり山崎闇斎の垂加神道の影響が大きかった。これは朱子学の「理」の概念を「神」に結びつけ、習合的理解ではなく、神道を倫理主義的に理解することによって生みだしたものである。

そして、神道は国学と接続していく。これは、基礎的文献の出版によって中世的な附会説が排斥されて、実証的研究が行われるようになったことを背景としていた。中世に生みだされた典籍が偽書として指弾され、神話や古典が批判的に見直されたのである。ところが平田篤胤以降、再びそこに宗教性が導入されていったのは皮肉である。

最後に、「神道」の成立について著者の見解がまとめられており、それを要約すれば、(1)仏教の本地垂迹説の影響を受け神を教理化した中世期が一つの画期であり、それは「神道」の読みが「ジンドウ」から「シントウ」へ変化したことでも根拠付けられる(マーク・テーウェンの説)が、(2)神仏分離・廃仏毀釈によって仏教と分離したことによって民族宗教としての神道が成立した、とまとめられる。

本書は全体として、著者の専門である中世期を中心に神祇信仰の変化を詳述するものであるが、神道成立の画期である近代はほとんど全く触れられず、近世についてもかなり概略的である。特に江戸幕府による神道統制について等閑に付したのはバランスが悪かったと思う。また、時代が行ったり来たりするのは頭の整理に苦労した。ただし中世については新書を超えるレベルの専門性があり、大変参考になる。

なお、神道説の随所に聖徳太子が出てくるのに興味が湧いた。太子信仰と神道の繋がりは本書にはまとまって書いてはいないが、神仏融和の象徴として聖徳太子が扱われていたのかもしれない。

中世神道を中心に、神道の多様な側面を描いた良書。

【関連書籍の読書メモ】
『神道の成立』高取 正男 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/07/blog-post_21.html
神道の成立過程を丹念に辿る本。神道成立前夜の動向を、細かい事実を積み重ねて究明した労作。

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2023年8月19日土曜日

『上野寛永寺 将軍家の葬儀』浦井 正明 著

寛永寺の実態を述べる本。

東叡山寛永寺は、徳川将軍家の祈願寺であり、4代家綱からは菩提寺ともなった。将軍家は政策的に寛永寺の権威を高め、仏教界の頂点においた。

しかし、明治維新が起こると旧幕勢力(彰義隊)がここを本拠地とし(一山の関係者は所払い=追放されていて不在となり、戻ってきたのは明治2年2月26日)、新政府軍がこれを討伐すると上野は火に包まれ、ほとんどの建物は灰燼に帰した。その後、上野は明治政府の象徴的な施設建設用地として使われ、上野公園や動物園、博物館、美術館など「近代国家日本」をアピールする文化風致地区になっていったのはよく知られている通りである。

本書は、寛永寺の在り方と、将軍家および一品法親王の葬儀の実態を資料に即して述べるものである。

寛永寺の本坊落成は寛永2年(1625)。寛永寺は、家康没後、秀忠が天海に上野の台地を寄進し、将軍家の祈願寺として建立された。増上寺(浄土宗)が将軍家の菩提寺であり、祈願寺としては浅草寺があったが、寛永寺はこれらの寺院とは隔絶した壮大なプランをもっていた。

それは、比叡山延暦寺を江戸に模倣するというものであった。天海はその山号を東の比叡山の意で「東叡山」と名付け、延暦寺にならって創建時の年号「寛永」をつけるため、わざわざ勅許を受けている。また立地も、たまたま江戸城の鬼門に近く、山麓には湖(不忍池)があるなど、地取りも比叡山と類似していた。

さらには、つぎつぎに造営された堂塔伽藍は、そのほとんどが比叡山とその周辺のものに倣っていた。また寛永寺の山主は、初代は天海、そして第2代は天海の弟子の公海が継いだが、比叡山が天台座主という門跡を戴いていたように、寛永寺には皇族から法親王を迎え、宗教界の頂点に君臨させた。これが第3代山主の守澄法親王(後水尾天皇の第三皇子※)である。彼は輪王寺の勅号を受け、以後歴代の上野の宮様は輪王寺宮一品法親王と呼ばれるようになった。また東叡山・日光山の山主と、多くの場合は天台座主も兼ねるので三山管領宮(かんりょうのみや)とも呼ばれる。

一品親王(宮)は非常に位が高く、江戸城に登城する際は、通常は将軍と宮にしか許されていない網代の溜塗の駕籠を江戸城表玄関にじかに乗りつけ、法要儀式に関わるときは江戸城中では上段の間で将軍と対座の待遇をうけた。要するに宮は将軍とほぼ対等だったのである(法要儀式以外は徳川御三家と同格)。そして将軍と宮の交流は、対等であるだけにかなり密接であった。

では将軍と寛永寺はどのような関係にあったか。これがなかなか面白い。寛永寺と増上寺への御成を「両山御成」というが、これは歴代将軍霊廟(と位牌所)への参拝で、年回ごとの法要と毎年の祥月命日に行われた。しかし意外なことに、将軍は一切葬儀にはかかわらず参列もしなかった。また正室や将軍生母へも、原則的にはその霊廟に参詣することはなかった。

これは死の穢れが将軍につくことを避けるためだったようだ。ということは、将軍は普通の家督相続者が持っていた祭祀権を、そっくり一品親王に委託していたということになる。また、将軍御成の場合も、「どの将軍霊廟に参詣するときでも、決して山門を潜って正面の根本中堂の方には向かわない(p.77)」というのも面白い。これは上野の東照宮の横を通ることを遠慮したからではないかと考えられるというが、やはり穢れ思想との関連が気になった。

一方、老中や若年寄たちは足しげく寛永寺に通う必要があった。それは、祥月命日以外の毎月の命日(月忌)には老中が将軍名代として歴代将軍霊廟に参拝したからである。将軍の代が増えるにつれ、祥月命日だけの将軍参拝はもちろんのこと、月忌参拝しなくてはならない老中・若年寄の負担は大きかった。著者は偶然としているが、寛永寺関係の7人の将軍(慶喜を除く)の命日が、8日が3人、20日が2人なのは気になるところだ。

なお、本書には将軍御成の跡固(あとがため=御成後の警護)を命じられた島原藩松平家の場合の段取り、手配などを細かく記しているがここでは略す。

このように、寛永寺は将軍家にとって特別な寺院であった。寛永寺には将軍家から次々と寺領が寄進され、寺域30万1870坪、主要な堂塔伽藍32~35、子院36坊、寺領1万1790石といった規模へ成長した。だいたい、享保の頃にこうした規模になったようだ。「幕末期における実質的な東叡山の収入は、3万5000石をも上回ったのではないか(p.70)」ということだ。

本書では、次に将軍家の葬儀(家綱、綱吉の場合)と、一品親王の葬儀(公弁法親王)の次第を詳しく述べているが、将軍家の葬儀のみについて気になったポイントのみ記す。

家綱の場合は、近習37名のうち31名が落髪しているが、これは殉死が禁じられていたためだ、というのが面白い。また、死後、寛永寺と幕府はそれぞれ一日三回の法要を続けていたというのにびっくりする。もちろん幕閣もある程度これに参列したので、とても政務を見られる状況ではなかったという(幕末の家茂の場合なんかはどうだったのだろうか)。

一方で、七日七日の法要を日程通りには一切やっていないのは謎である。葬儀が済んでから、初七日逮夜(前日の法要)、初七日、二七夜逮夜、二七夜…と連日法要を営み、1か月くらいで百ケ日法要まで圧縮してやっているのである。死んでからの日数と全く対応していないのが奇異である。なお百ケ日が済んでから、ようやく新将軍綱吉と一門の人々が霊廟に参詣する(当然、それまでは諸大名も参詣できない)。親族が中心となる普通の葬儀とは全く違うのである。

将軍の葬儀は、天皇のそれに倣って夜儀(やぎ)だったというのも面白い。霊廟の板塀や本堂からの道筋には全て白布が張られ、また敷かれていたというのも天皇家に習っているが、これは仏教的にはどのような教義に基づくものだったのだろうか。

なお将軍の死はすぐには公表されず、全ての段取りが整ってから公表されており、だいたい死後1か月くらいかかったようだ。その間は、もちろん段取りする人たちは将軍の死を知ってはいたが公には将軍は生きているものとして扱われた。(これがあったから命日の操作ができたし、また七日七日の法要を日程通りやらない理由だったように思われる。)

本書は全体として、儀礼・儀式のみならず、それを警護した武士や寛永寺を管理した武士などの様子も詳細に描いており、参考になる情報が満載である。また著者は寛永寺の執事長であるためそれらの情報は堅牢だ。しかし、葬儀を中心にしているため、寛永寺の全体像はわかりにくい。例えば、寛永寺は祈願寺でもあったが、どのような祈願が行われていたのか、といったことはもう少し知りたかった。

また、歴代将軍の墓所は、日光山(東照宮、輪王寺)、寛永寺、増上寺の3パターンがあるが、これはどのように使い分けられていたのかも興味がわいた。

江戸時代の宗教界の頂点であった寛永寺を葬儀を中心として描いた良書。

※第三皇子と本書にはあるが、調べてみると第六皇子のようだ。

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2023年8月18日金曜日

『武士の家計簿―「加賀藩御算用者」の幕末維新』磯田 道史 著

加賀藩の武士の家計簿・書簡を詳細に読み解く本。

近世の武士の懐具合はどんなものだったのだろうか。これが意外にわからない。武士は算盤を遠ざけていたようで、家計簿がほとんど全く残っていないからだ。

ところが著者は、古書店の目録にて「金沢藩士猪山家文書」を見つけ、これを即刻15万円で購入。これに、天保13年(1842)~明治12年(1879)の37年間の「武家の家計簿」が完全な形で残っていたのである。しかもそれはただの家計簿ではない。加賀藩の会計に携わった「御算用者」が作ったもの、つまり会計のプロが作った精巧な家計簿であったのである。

御算用者とは、今風にいえば財務担当者であるが、予算編成をしたり積算したりするだけでなく、複雑な計算が必要だった。それは当時の家禄には「知行取」(土地を領有)と「無足」(俸禄を支給)があり、特に「知行」は領地を分与されているという形態をとりつつ、実際には租税(年貢)徴収業務を藩士に一切やらせず藩庁が代行したためで、その面倒な業務を担当していたのが御算用者だったのである。

そして猪山家は、御算用者として前田家に仕えた家系であったが、これは世襲ではなかった。計算能力がなくては務められなかったからである。だから猪山家は教育熱心で、何代にもわたって算術で身を立てた。特に猪山直之は、江戸の大奥から前田家に迎えた溶姫の婚礼の財務担当となってその業務をつつがなくこなしたのがきっかけとなり、切米50俵(無足)から70石の知行取に取り立てられるのである。

ところがこれが猪山家の財政的な危機を招いた。直之は江戸詰めを命じられたため、生活に必要なお金が増大したからである。また70石はそのままの収入ではなく、70石の農地から徴収される年貢が収入となり、これは22.5石ほどとなったが、切米50俵は加賀藩の場合20石なので、収入はたいして増えていないのだ。こうして、猪山家は年収の2倍ほどの借金を抱えてしまったのである。

幕末の武士はたいてい借金を抱えていたので、これは特にひどい状況ではなかった。武士は親戚内や同僚から金を借りるのが常態化しており、その場合も年18%もの高利なのが普通だった。武士からは担保がとりづらかったことが高利の原因と考えられるという。

ともかく、猪山家が借金経営だったのは特異なことではなかったが、変わっていたのは、直之が断固とした意志をもって財政再建に取り組んだことだった。それがまさに、この家計簿が作成された理由なのだ。彼は家財道具のほとんどすべてを売り払い、借金の返済や有利な条件の借り換えに成功する。この時の家財目録が興味深く、女性(妻、母)にもちゃんと財産権があったことが明瞭である。しかもその財産は、全て衣類であったのも特徴的だ。

では、財政再建後の猪山家の懐事情はどうなったか。これがまた面白い。彼らは当然ながら非常に切り詰めた生活を送っていたのだが、米への出費と同じくらい、頼母子講にお金を出しているのである。銀行がない時代、頼母子講がいかに大きな存在だったかわかる。ちなみに借金返済と頼母子講だけで支出の約3分の1もある。

また、祝儀交際費や儀礼行事入用、寺社祭祀費は全く圧縮されていない。これは武士身分としての格式を保つための支出(これを著者は「身分費用」と呼ぶ)であったためだ。江戸後期には「家格」が次第にうるさくなってきて、家格に応じた祝儀などは必須であったのだ。つまり、武士は親戚づきあいにやたらと金がかかった。武家社会には「連座制」があり、親戚は運命共同体でもあったから親密にする必要もあった。

ただし、本書には収入の欄に「祝儀」がなく不思議だった。祝儀は当然もらう場合もあり、それは収入になったはずだ。つまりかなりの程度、祝儀は相殺されていたように見受けられる。その点は本書ではよくわからなかった。

また几帳面な家計簿には、儀礼行事入用、つまり年中行事に伴う出金が細大漏らさず記載されているがこれがまた興味深い。まず月に2回ほども年中行事があって忙しい。例えば5月は節句と鎮守祭礼、7月はすす払いと七夕、といった調子である。しかしこれらのうち、仏教的なのは盆くらいだったのが意外だった。彼岸とか降誕会といったものはなかったのだ。

ただ、菩提寺へのお布施は金額的に大きく、現在の感覚でいうと年に18万円もあった。脇差まで売りながら菩提寺にこんなにお布施をしていたのは驚きだ。武士にとって祖先祭祀は重要だった。一方、祖先祭祀に関係がない神社には淡白で、祈祷料なども微々たるものだった。

このほか、下男下女への給金もある。これも、雇わなくてはならない類のもので、身分費用の一つである。そういう支出は圧縮できないため、徹底して減らされたのが衣料費であるが、当主の直之の小遣いも信じられないほど少なかった。「家来の草履取りのほうが、むしろフトコロはゆたかであった(p.88)」。また女性へも小遣いは律儀に与えられており、そして女性へは実家からも援助があった。

この時代、女性の立場はかなり保障されており、離婚も多く、独自の財産権を有していた。ちなみに初産は必ず実家でするもので、2回目以降もその費用の半分は実家が出したということだ。女性と実家の結びつきは強く、一般に言われる「武家の女は嫁いだらその家の人間になる」は明確に間違いだ。

ともかく、このような節約生活の中で嫡男・成之(なるゆき、と読むんだろうか)が誕生する。成之の成長過程は、まさに儀礼の連続で、そうした儀礼を踏んでいくことが「武士」を作った。彼は頭がよく、就職試験の「筆算御撰」に合格し、なんと満11歳7か月から職歴をスタートさせた。そもそも就職試験があったところがおそらく御算用場の特色で、非常に興味深い。

ところで、近世の武家では葬儀にもたいへんお金がかかった。猪山家では家計簿の中に4回の葬儀が記録されているが、1回の葬儀で年間収入のほとんど4分の1を費やしている。さらに年忌もあり、百回忌・二百回忌といった法事までやることも珍しくなかったので、代が重なるたびに葬儀・年忌費用は嵩んだ。ただ、寺への回向料も高いが、それ以上に会食費が大きかったのは現在と同じで、「武士が百姓からあつめた年貢で潤っていたのは、金沢城下の料理屋と寺の僧侶であった(p.139)」。

さて、直之は非常にまじめに、正直に勤務に精励したようで、次々と昇進した。幕末には180石の知行取になっている。また、子の成之はいとこと結婚し家庭も持った。親子は順調に人生を歩んだのだった。幕末は非常に政治的な動きが盛んになった時期であるのに、親子には全くそういうそぶりもなかった。

が、成之はいきなり京都の兵站事務に抜擢された。慶応3年(1867)4月のことである。加賀藩は慶喜支持の方針で京都の守衛を担当したが、幕末の混乱のさなかにその難しい兵站の仕事を一手に担ったのが成之であった。そしてこれが認められて、成之は維新後に新政府の「軍務官会計方」にヘッド・ハンティングされる。大村益次郎の部下となったのだ。

新政府でも会計はあってないようなものだったので、成之は重用されて活躍した。ところが大村益次郎が暴漢に殺されてしまったため、軍の要職は薩長閥に抑えられて成之は小役人から出直すことになった。それでも成之は堅実に昇進を重ね海軍の会計に携わることとなった。

ここから先は、家計簿ではなく、成之が保存していた家族からの書簡を読み解くものである。成之は海軍の仕事をするため金沢から東京へ単身赴任していた。そのため金沢の家族(特に父の直之)からの手紙が多く、しかも成之は異常に几帳面でそれらの手紙を保存していたのである。

その手紙は、父の直之が明治維新をどう受け止めたかを生々しく物語っている。彼は、生活に窮した士族が相撲見物で雑役夫と打ち混じっている様子に「自分から庶民になり下がった」と感じ、「最早、我等如きは日雇稼も同段」と意気消沈した。そして華士族と平民との結婚も自由化され、猪山家の親戚も富裕商人と縁組した。直之はこれを止めるどころか歓迎している。

しかし猪山家は、成之が海軍で高給をもらっていたため(現在でいえば年俸3600万円)、直之自身は悠々自適の暮らしだった。没落した親戚を援助さえしていた。だからこそ士族たちは新政府にやとわれること(特に軍人となること)を熱望し、子どもたちの栄達を目指して教育熱心になっていった。なお学問が将来の飯のタネとしてのみ扱われたことは弊害も残した。

直之は家禄の廃止をも素直に受け止め、進んで家禄奉還して有利な条件で財産運用した。もと財務担当だからうまいのだ。しかし面白いのは、太陽暦の採用にはかなり不満そうなことだ。暦が改められてしまうと年中行事が混乱するからだった。

また、天皇は尊重はしているが、忠誠心は維新後も旧君・前田家にあった。にもかかわらず、成之の奏任官昇進と従六位の叙位には大喜びしている。官位をもらったのは旧幕時代は国家老クラスだけだったからである。だがそもそも旧幕時代も、叙位は天皇の名において行われていた。このあたりのねじれの関係が面白い。

本書は全体として、生の史料に基づいているだけに、めっぽう面白い。当時の日記は膨大に残っているが、家計簿は日記どころの生々しさではない。平易で読みやすいこともあって、すぐに読み終わってしまった。

武士の生活実態を平易に知れる労作。

【関連書籍の読書メモ】
『秩禄処分—明治維新と武家の解体』落合 弘樹 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/07/blog-post_9.html
秩禄処分がいかにして行われたかを述べた本。秩禄処分について知りたくなったらまず手に取るべき基本図書。

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2023年8月13日日曜日

『奈良の寺—世界遺産を歩く』奈良文化財研究所 編

奈良の寺の発掘調査の報告。

本書は、奈良文化財研究所が最新の(本書刊行2003年)発掘調査の結果を基に、奈良の代表的な宮跡・寺院・寺院跡について平易に紹介するものである。執筆は同研究所の研究者約50人が分担して行っているが、調子が整っているので論文集的ではなく、通読して全く違和感がない。優れた編集の力を感じる。

紹介されているのは、平城宮跡、法隆寺・斑鳩三塔、薬師寺、興福寺、春日社と春日山、元興寺、唐招提寺、東大寺、西大寺・西隆寺、法華寺、大安寺である。

これら全ての内容は手に余るので、特に面白かったもののみメモする。

まず元興寺の僧房の復原図。元興寺の僧房の建物は今はないが、僧房の部材が極楽坊に再利用されており、その加工跡の様子から元の僧房が復原できるわけだ。

一つの房は間口6.7メートル、奥行き12.9メートル(約50畳)で、これが3つや4つ連なっていた。この房に数人が共同生活をしていた。教授と学生が共同生活するようなものだそうだ。当時の仏教のリアルなあり方を感じさせる。

次に、東大寺戒壇院。戒壇院は、「授戒堂(戒壇堂)、講堂、僧房を備え、平安時代には中門、食堂(じきどう)もあり、独立寺院の体裁を整えて(p.149)」いたというのに驚いた。なぜ戒壇院は独立寺院として運営されなければならなかったのだろうか。

一番心に残ったのが西大寺。道教と称徳天皇が創立した巨大寺院である。この巨大さが異常なほどで、寺域は約50ヘクタール(当時の街割りで31町)。薬師寺などの官寺の3倍もあり、平城京全体71町の中で約40%も西大寺が占めていたのである。東大寺は50町あるが平城京外なので、平城京内でいえばぶっちぎりの巨大寺院なのである。

なぜこれほどまでに巨大な寺院を作ったのかといえば、聖武天皇の娘の称徳天皇は、父にライバル心を持っていて、”東”大寺と並ぶ”西”大寺を建立したのではないかと考えられるという。もちろん寺域が広大なだけでなく個々の建物も想像を絶する壮大さだった。

しかしながら、西大寺だけでなく、他の古代寺院の建築も、作りが異常なまでに巨大なのが心に残った。五重塔など象徴的な意味しかないのに、なぜあんなにも大きさを競ったのか。本書にも「大きさは関係なく、小さくとも塔としての機能は果たす」と述べているのに、実際には奈良人たちは巨大さに憧れていた。

寺院の巨大建築は、実のところ、なんのためだったのだろうか。それが国家や家門の威信を示すものだったからだろうか。そうだとしても、それだけでは説明ができないほどの作りの立派さを感じるのである。本書を読みながら一番感じたことがその点であった。

奈良の古代寺院のリアルに気軽に触れられる本。

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2023年8月9日水曜日

『明治洋食事始め―とんかつの誕生』岡田 哲 著

明治時代の洋食文化の成立について述べた本。

明治維新は、料理維新でもあった。西洋料理に触発されて、日本では新しい料理文化が育った。「洋食」とは、西洋料理そのものではなく、日本の食文化に希薄だった油脂と獣肉という西洋の食材を用いて、パンではなくご飯に合う料理として新たに考案されたものなのだ。

中でもその到達点ともいえるのが、とんかつである。西洋料理にもカツレツはあったが、それは分厚い豚肉を使った揚げ物料理ではなく、薄い牛肉をフライパンで焼く料理であった。とんかつは、西洋料理を様々な工夫によりアレンジして、日本で生まれた料理なのである。本書は、とんかつに至るまでの歴史を、豊富な資料を駆使して描いている。

人間にとって食べものは、最も保守的なものの一つである。新しい料理と出会っても、それをすぐさま取り入れ、それが旧来のものに置き換わってしまうことは少ない。日本人の旅行者が海外にいって、いかに現地の食事が美味しくても、欲しくなるのはご飯と味噌汁、ラーメンなのだ。ではどのようにして西洋料理は日本に根を下ろしたか。

その第一は、明治政府によるキャンペーンであった。政府は、日本人が西洋人に比べ体格が劣っているのは肉を食べないからだとして、「滋養」の観点から食事の西洋化を図った。特に明治5年(1872)1月に天皇が西洋料理の晩餐を食したのは画期的である。この際、天皇が「肉食は養生のためよりも、外国人との交際に必要だから食べたのである(p.25)」と言ったのは興味深い。

元来、日本では獣肉は仏教的な禁忌、つまり「けがれ思想」から食べられていなかった。聖武天皇の「殺生肉食禁止の詔」が発布されたのは7世紀の後半。 1200年もの間、日本人は肉食を遠ざけていた。天皇が肉食した1ヶ月後、御嶽行者10人が皇居に乱入し4人が射殺されるが、彼らは「肉食ヲ致ス故、地位相穢レ(p.26)」と述べている。

しかしながら、元々の仏教には肉食のタブーはなく(中国仏教には肉食禁止はない)、肉食の禁止には野生動物は除外されていた。さらに「薬喰い」と称して、病気の人などが肉食する習慣はあった。江戸には、イノシシ・鹿・熊・兎などの肉を取り扱う「ももんじ屋」が数え切れないほどあった。ただし、その場合でも「けがれ」の観念はあったようで、「赤斑牛だけは食べても身がけがれない」などと都合の良い理屈を付けていたのは、裏を返せば禁忌意識の現れである。

また、明治5年の前にも、西洋料理屋はどんどん出現していた。外国人居留地では肉食が行われたのはもちろんで、文久元年(1860)には横浜の居酒屋が「牛肉煮込み」で評判となり、文久3年(1863)には長崎に初の西洋料理専門店「良林亭」が開店した。さらに慶応元年(1865)、横浜では牛肉の串焼き店が開店。慶応3年(1867)に実業家中川嘉兵衛により武蔵国荏原郡に牛肉処理場が開設(けがれに気を遣い、しめ縄を張って屠殺し、お経を上げて清めた)。その牛肉を利用し、明治元年(1868)、東京の露月町に最初の牛鍋屋が開店することになったのである。

すなわち、明治政府のキャンペーンによるもの以外に、外国人居留地を中心に民衆的な動きとして肉食は幕末から広まってきていた。特に「牛鍋」は牛肉を醤油と砂糖で味付けするという、スパイスを使う西洋料理とは全く違う発想で、牛肉を和食化した庶民が工夫して生まれた料理であった。牛鍋は大流行し、明治8年(1875)頃には東京で100軒、同10年には558軒にも激増。牛鍋は文明開化の象徴とまで見られた。さらに牛鍋は関西で「すき焼き」へと変化した。

また、福沢諭吉や仮名垣魯文は肉食を推奨した。明治4年(1971)の「牛鍋食わねば開化不進奴(ひらけぬやつ)」で始まる『牛屋雑談 安愚楽鍋』(仮名垣魯文)は福沢の「肉食之説」に影響を受けているが、この本には「肉食をすりやア神仏へ手が合わされねへのヤレ穢れるのと、わからねへ野暮をいふのは究理学を弁へねえからのことでげス(p.60)」という言葉があって面白い。要するに「肉食をしないやつはバカ」なのだ。

さらに興味深いのは加藤祐一の『文明開化』(明治6年(1873))。「元来、獣肉魚肉都(すべ)て肉類を忌むは、仏法から移つた事で、我が神の道には其様なことはない(p.62)」としている。先ほどは「神仏」だったのが、ここでは明らかに仏教排斥・神道称揚の立場から肉食が奨励されている。

こうして政府と知識人によって肉食は奨励され、また戊辰戦争の時に負傷兵の治療食として用いられたり、西南戦争のときの兵食となったりして広まっていった。

もちろん、それに反対したものもいなかったわけではない。反対論は、(1)けがれや神仏の信仰、(2)米食で栄養は取れるのだから無用、(3)西洋かぶれは見苦しい、の3点に集約できるが、あまり大きな影響を与えなかった。森鷗外(軍医総監)の「日本兵食論大意」では、兵食には米食が適しているとしてその後大きな影響を与えたが、肉食を退転するものではなかった。

一方、本格的な西洋料理の方はどうだったか。外国人居留地にはホテルや西洋料理店が早くにできていたが(「築地ホテル」は明治元年)、明治5年には東京に「精養軒」ができ、また明治6年頃には本格的な西洋料理店の時代となり続々と開店した。明治5年には、仮名垣魯文『西洋料理通』、敬宇堂主人『西洋料理指南』が出ている。

こうした風潮が最高潮に達したのが明治16年(1883)の鹿鳴館の時代で、連日の大宴会は文明開化の一つのシンボルになった。しかし鹿鳴館は「西洋の猿真似」と批判されて外国からも不評で、わずか3年ほどで幕を下ろした。そしてこれと軌を一にして、本格的な西洋料理屋は次々と閉店。西洋料理は社会の上層部ではもてはやされたものの、庶民には受け入れられなかったのである。だが、西洋料理をアレンジした洋食は、どんどん生まれていく。

明治7年(1874)にはあんパンが登場。パン自体は日本に伝来したのは戦国時代で、幕末には江川坦庵が兵食として研究していたが、日本食には合わないため庶民に広まることはなかった。だがあんパンの登場を機にパンが普及する。あんパンを開発したのは木村安兵衛。彼は明治2年(1869)に東京に「文英堂」という洋風雑貨兼パン店を開店。これは東京のパン屋の始祖である。彼は西洋のパンを模すのではなく、新しいパン作りを志向していた。そして酒まんじゅうをモデルに、パン種の入手が容易でなかったのを米麹を使って克服して、6年の歳月を費やしあんパンを完成させた。西洋のパンと違い、パンをおやつとしてアレンジしたのが大きな発想の転換で、これによってパンが爆発的に広まった。その後、「ジャムパン」(木村屋1900)、「クリームパン」(中村屋1904)、「カレーパン」(名花堂(現在のカトレア洋菓子店)1927)が生み出され、日本の食生活において菓子パンは欠かせないものになっていった。

とんかつは、あんパンとは違って多くの人びとの工夫によって生まれた。まず明治28年(1895)に、東京銀座の「煉瓦亭」が刻み生キャベツをつけたとんかつの前身「豚肉のカツレツ」を売り出した。牛でも鶏でもなく豚肉を使い、たっぷりの油で揚げて(=ディープ・ファット・フライング)、生キャベツを付けたのが常識破りの工夫であった。この頃はデミグラスソースであったが、コロモにソースが絡まったのが米飯にぴったりなので庶民は歓迎。さらに明治30年代にウスターソースが登場してこれがポークカツレツの人気に拍車をかけた。

そして昭和4年(1929)に東京下谷の「ポンチ軒」が分厚い豚肉を揚げたとんかつを売り出した。これは大人気となり、「とんかつ時代」が到来。あまりにもとんかつが人気となり、「強気の料理人が多かったようで、とんかつを食わせてやるというツラガマエ(p.184)」だった、という話は、現代のラーメン屋にも通じるものがありそうだ。

他、親子丼(明治10年頃)、串カツ、ライスカレー、カツカレー(大正7年)、などが陸続と現れた。そしてこれらは、「和食の洋食化ではなく、西洋料理の和食化(p.213)」であったことが重要だ。それらは西洋料理の刺激を受けて生まれたものではあるが、独創的な工夫によって生み出された新しい和食だったのである。明治31年(1898)に著された『西洋料理法大全』(石井治兵衛)でも、洋食は立派な日本料理として評価されている。

また洋食文化を生んだのは、カフェーの力も大きかった。カフェーは最初はコーヒーを飲む店、次に軽食を出す店、次に美人が洋酒をついでくれる店、と変化するが、カフェーの軽食も洋食の普及に一役買った。大正末頃には、洋食が人気になったためにそば屋から客が減り始める。これに危機感を抱いたそば屋が、関東大震災後に洋食を出すようになって受け入れられた。「そば屋でカレー」はこの頃からのことだ。さらにデパートの大食堂は、洋食を集大成して提供した。洋食は「外食」として発展したのである。こうして「庶民の洋食が勢ぞろいし、「食のレベル」として頂点に達したときに、「とんかつの誕生」となった(p.234)」のである。

近代日本の「洋食」が、単に西洋料理の受容ではなく、独自の食文化の創出であったことを詳述した良書。

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2023年7月17日月曜日

『ユダヤ人とクラシック音楽』本間 ひろむ 著

ユダヤ人の作曲家・演奏家について述べた本。

クラシック音楽では、ユダヤ人の作曲家・演奏家はとても多く、特に現代の演奏家ではユダヤ人は非常に大きな存在感がある。本書は、クラシック音楽におけるユダヤ人の存在についてエッセイ風にまとめたものである。

ユダヤ人は元来音楽的な民ではなかった。というのは、彼らにとって非常に重要だったのは当然ユダヤ教であったのだが、シナゴーグ(ユダヤ教の教会)に楽器を持ち込むことが禁止されていたからだ。

よって、ユダヤ教の音楽は、全て器楽伴奏なしの歌であった。17世紀のシリアで生まれた「シラート・ハバカショート」はユダヤ教の伝統的な嘆詠歌唱であるが、これも中近東の旋律を使ったアカペラであり、ユダヤのエスニックなものとは言いがたい。

また、ヨーロッパに広がったユダヤ人たちは、それぞれの土地で教会以外の場所で音楽文化を育んでいた。特にスペインのユダヤ人たちが生んだ「セファラード音楽」(チターやウードを使う)や、東欧のユダヤ人たちが18〜19世紀に生んだ「クレズマー音楽」は(ヴァイオリン、チェロ、クラリネットなど)は、ユダヤ人たちの大衆音楽として重要である。しかし、これらはクラシック音楽には大きな影響を与えていない。

 本書では次に、著名なオペラにおけるユダヤ人・ユダヤ性について述べるが、結論としては「オペラの世界のメインストリームにユダヤ人音楽家はいない(p.54)」。

一方、オペラを「楽劇」にまでスケール・アップしたワーグナーは、周知の如く、ユダヤ人を徹底的に貶めた。彼はK・フライゲンダンクという名で書いた『音楽におけるユダヤ性』という著作の中で、ユダヤ人音楽家のメンデルスゾーンとマイアベーアを激しく非難し、ドイツ国民のユダヤ人嫌いの一因に芸術・音楽を求めて、ユダヤ人の救済は滅亡であると宣言している。また『宗教と芸術』ではユダヤ人解放政策を非難して「アーリア人」の純粋さを保つべしとした。ワーグナーは、筋金入りの反ユダヤ主義者だったのである(なぜ彼が反ユダヤ主義者になったのかの説明は、本書にはない)。

そしてワーグナーは、その音楽に「呪い」をかけたのだと著者は言う。「呪い」の内容は本書では明確に説明していないが、(ワーグナーは楽劇の中ではユダヤ人を登場させてはいないが)ユダヤ性への嫌悪、ないしは反ユダヤ的なものとしてのアイコン性とでも言えるだろう。つまり、ヒトラーがドイツのナショナリズムの高揚のために、ワーグナーの音楽を使ったことで「呪い」がかかったのではなく、「呪い」はワーグナーの音楽に内在していた、というのが著者の考えだ。

私なりにその「呪い」を解釈すれば、それは「音楽的ナショナリズム」であると思う。ユダヤ人は国を失ったために否応なくコスモポリタンになっていった。であるから、ドイツ・ナショナリズムの権化であるワーグナーの楽劇と、ユダヤ人音楽家たちのコスモポリタン的な音楽は、どこか相容れないものがあったのではないだろうか。

本書ではさらに、フルトヴェングラーの秘書、カラヤンの妻がユダヤ人であったことを取り上げ、ナチス政権下で彼らがどのように振る舞ったか述べている。フルトヴェングラーは信念も一貫性もないとか、カラヤンには自分自身の音楽がなかったとか、けっこう辛辣である。また、その他、様々なユダヤ人演奏家についてエピソード的に語っている。

さらに、現代音楽の成立にもユダヤ人が大きく関わっていたとして、十二音技法をつくったシェーンベルク(両親ともユダヤ人だがキリスト教徒として育てられ、ユダヤ教に改宗した)、リゲティ、スティーヴ・ライヒについて簡単に述べて本書を終えている。また巻末にはユダヤ人音楽家のリスト(簡単な紹介つき)がある。

本書は、全体として何かを論証するとか、クラシック音楽の歴史をユダヤ人から見る…というような大上段のテーマがある本ではなくて、いわばつまみ食い的にユダヤ人音楽家のエピソードをちりばめたものである。それでも、「この音楽家もユダヤ人、この人もそう」という事例が列挙されるだけで、けっこう面白い。

ユダヤ人にからめてクラシック音楽を語る気軽な本。

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2023年7月10日月曜日

『博徒の幕末維新』高橋 敏 著

幕末維新期における博徒の動向を追った本。

本書はなかなか変わった本である。幕末を生きた博徒、竹居安五郎、黒駒勝蔵、勢力富五郎、水野弥三郎といったほぼ無名の人物の動向をひたすらに追いつつ、まるで講談や任侠物のような調子で彼らを描いている。しかも、筆致は学術的であるにもかかわらず明確な学術的主張は見当たらない。著者は博徒の生き方に魅せられて、それを再現するために本書を書いたのかもしれない。

私自身は、幕末の治安と博徒の取り締まりに興味があって本書を手に取った。幕末は非常に治安が悪くなった時期であるとともに、人の移動が激しくなった時期でもある。それまでは関所で通行手形を確認していたのが、幕末はその枠組みがあまり働いていない形跡がある。博徒はいろんなところに移動していたのだが、どういった取り締まりを受けていたのか知りたくなったのである。

本書には「無宿」がたくさん出てくる。竹居安五郎も無宿だ(=竹居村無宿安五郎)。無宿とは人別帳から除外された人のことで、今風に言えば無戸籍者ということになるが、人別帳から除外といっても「無宿」として登載されるので完全に無戸籍というわけでもない。彼らは何らかの罪を犯した罰として人別帳から除外された。

人別帳から除外されると、町人とか百姓とかの枠組みから外れ、まともな仕事に就くことができなくなる。そこで彼らは博徒(=今風に言えばヤクザ)となり、裏社会で生きることになったのである。江戸時代の法制はあまり更正のことを考えていなかったので、こういう仕組みで博徒が次々と生みだされることになった。特に19世紀に入ってからは無宿が多く生みだされ、流人になったものも増大した。

安五郎も、最初から無宿だったのではなく、竹居村の名門中村家の出であったが、新島(伊豆大島の南)に流された一人であった。「19世紀の世情、特に関東の世相は無宿者なくして語れな(p.127)」い。

ところで博徒は、どうやって生活の糧を稼いだのだろうか。それは当然博奕なのだが、博奕は巻き上げる対象がなくては仲間内で金が回るだけである。ではどこからお金が流れてきたのか。本書にはそういう体系的考察はないが、それを窺わせるのが韮山代官江川英龍の台場建設である。

黒船が来航すると、幕府は海防のための台場を沿岸に築造し、そこに据え付ける大砲を鋳造するための反射炉を建設することとした。これの責任者に抜擢されたのが、韮山代官の江川英龍である。この工事の実態が興味深い。台場築造では工事請負人が入札されているのだ。かつての幕府であれば、こうした大規模普請は諸藩にやらせるところである。ところが台場築造は、幕府直轄事業として、多額の予算を割いて実行したのである。

この工事には5000人ともいわれる多くの労働力が必要になったが、それをどうやって調達したか。実は、この人足の調達・動員に博徒が関わっていた。幕府・代官としても、納期内に工事を終わらせることが先決で、人足の出自などにこだわっている場合ではなかった。この工事に関わった博徒・間宮久八は莫大な金を稼いだという。

つまり博徒たちは、現代のヤクザがそうであるように、大規模開発工事にともなう浮動労働力の差配によって金をもうけていたのである。こうした工事は終わってしまえば労働力はお払い箱になるから、長期雇用はできない。その場限りの仕事に動員をかけるのが、博徒の「本業」のひとつであった。

であるから、博徒の親分、例えば竹居安五郎は、ただの荒くれものではなく、強力なリーダーシップを持つ切れ者であった。彼の実兄中村甚五郎も、争論の絶えない村をまとめる実力者(名主)であり、無宿者の増加によって治安が悪くなってきた村で「郡中取締役」に任命されて治安警察権を代行してさえいた。しかしその裏の顔は博徒の巨魁であり、大親分として君臨していた。今でいえば警察とヤクザが裏で癒着していたようなものである。

ところで、幕末には水滸伝が流行する。それも中国の水滸伝をモデルにつくられた日本版の水滸伝である。その背景には、無宿者、博徒、侠客の躍動があった。本書には、関東を荒らしまわった博徒の親方・勢力富五郎を関東取締役が捕らえるための大規模な捜索と抗争が描かれているが、これを「嘉永水滸伝」と呼ぶ。彼らは関東一円を移動しているが、関所などはどのようにしていたのだろうか。むしろ、「支配」によって管轄が分断された体制こそが、彼らが活躍する土台であったのかもしれない。

もちろん、ヤクザと同じく博徒同士も抗争した。「嘉永水滸伝」の第二幕は、博徒間の大喧嘩である。台場築造に活躍した間宮久八は、この抗争の主役の一人であった。彼の敵対勢力である無宿幸次郎らは幕府に処分され処刑されたが、なぜか久八はおとがめなしで後に台場に関わるのである。彼らは、殺す、奪う、盗む、脅かすは当たり前の犯罪まみれの集団であったのに、おとがめなしで幕府の工事に携わったのはどういうわけか。やはり、裏では幕府とアウトローとの共存関係があったと考えざるを得ないのである。

幕末が差し迫ってくると、博徒たちは尊攘運動にも関わるようになる。竹居安五郎の弟分だったのが黒駒勝蔵で、彼は安五郎亡き後に博徒たちのリーダーになった。彼も生家は名主を勤める小池家の次男であり、いわば中間層の出身。彼は尊攘運動にかかわるようになり、指名手配されていたにもかかわらず、2年も経たないうちに官軍先鋒の赤報隊に参加していた(正式な隊員ではない)。

勝蔵の盟友で、やはり博徒の巨魁だったのが水野弥三郎。彼も医師の子に生まれた中間層で、博徒となって大親分にのし上がった。彼は新選組の裏方を務め、赤報隊にもかかわった。彼は博徒ではなく、草莽の勤王のつもりであった。しかし赤報隊は「偽官軍」扱いされ、弥三郎が村々をめぐって請書までとった「年貢半減令」は新政府にとって迷惑な存在になってしまう。弥三郎は「勤王の志これある趣相聞き」と、まるで褒美でもくれるような調子で東山道鎮撫惣督府執事から呼び出され、不意打ちで斬罪梟首の判決を受けた。彼は、新政府のために走り回った自分をだまし討ちする処罰に絶望して自死した。

また黒駒勝蔵も明治4年に、微罪(赤報隊からの脱退)を問われて捕らえられ斬罪に処された。博徒たちを裏で動員していたことが新政府にとって都合が悪く、彼らは歴史から消されたのかもしれない。

幕末のアウトローを始めて学術的に取り上げた労作。

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