2023年8月18日金曜日

『武士の家計簿―「加賀藩御算用者」の幕末維新』磯田 道史 著

加賀藩の武士の家計簿・書簡を詳細に読み解く本。

近世の武士の懐具合はどんなものだったのだろうか。これが意外にわからない。武士は算盤を遠ざけていたようで、家計簿がほとんど全く残っていないからだ。

ところが著者は、古書店の目録にて「金沢藩士猪山家文書」を見つけ、これを即刻15万円で購入。これに、天保13年(1842)~明治12年(1879)の37年間の「武家の家計簿」が完全な形で残っていたのである。しかもそれはただの家計簿ではない。加賀藩の会計に携わった「御算用者」が作ったもの、つまり会計のプロが作った精巧な家計簿であったのである。

御算用者とは、今風にいえば財務担当者であるが、予算編成をしたり積算したりするだけでなく、複雑な計算が必要だった。それは当時の家禄には「知行取」(土地を領有)と「無足」(俸禄を支給)があり、特に「知行」は領地を分与されているという形態をとりつつ、実際には租税(年貢)徴収業務を藩士に一切やらせず藩庁が代行したためで、その面倒な業務を担当していたのが御算用者だったのである。

そして猪山家は、御算用者として前田家に仕えた家系であったが、これは世襲ではなかった。計算能力がなくては務められなかったからである。だから猪山家は教育熱心で、何代にもわたって算術で身を立てた。特に猪山直之は、江戸の大奥から前田家に迎えた溶姫の婚礼の財務担当となってその業務をつつがなくこなしたのがきっかけとなり、切米50俵(無足)から70石の知行取に取り立てられるのである。

ところがこれが猪山家の財政的な危機を招いた。直之は江戸詰めを命じられたため、生活に必要なお金が増大したからである。また70石はそのままの収入ではなく、70石の農地から徴収される年貢が収入となり、これは22.5石ほどとなったが、切米50俵は加賀藩の場合20石なので、収入はたいして増えていないのだ。こうして、猪山家は年収の2倍ほどの借金を抱えてしまったのである。

幕末の武士はたいてい借金を抱えていたので、これは特にひどい状況ではなかった。武士は親戚内や同僚から金を借りるのが常態化しており、その場合も年18%もの高利なのが普通だった。武士からは担保がとりづらかったことが高利の原因と考えられるという。

ともかく、猪山家が借金経営だったのは特異なことではなかったが、変わっていたのは、直之が断固とした意志をもって財政再建に取り組んだことだった。それがまさに、この家計簿が作成された理由なのだ。彼は家財道具のほとんどすべてを売り払い、借金の返済や有利な条件の借り換えに成功する。この時の家財目録が興味深く、女性(妻、母)にもちゃんと財産権があったことが明瞭である。しかもその財産は、全て衣類であったのも特徴的だ。

では、財政再建後の猪山家の懐事情はどうなったか。これがまた面白い。彼らは当然ながら非常に切り詰めた生活を送っていたのだが、米への出費と同じくらい、頼母子講にお金を出しているのである。銀行がない時代、頼母子講がいかに大きな存在だったかわかる。ちなみに借金返済と頼母子講だけで支出の約3分の1もある。

また、祝儀交際費や儀礼行事入用、寺社祭祀費は全く圧縮されていない。これは武士身分としての格式を保つための支出(これを著者は「身分費用」と呼ぶ)であったためだ。江戸後期には「家格」が次第にうるさくなってきて、家格に応じた祝儀などは必須であったのだ。つまり、武士は親戚づきあいにやたらと金がかかった。武家社会には「連座制」があり、親戚は運命共同体でもあったから親密にする必要もあった。

ただし、本書には収入の欄に「祝儀」がなく不思議だった。祝儀は当然もらう場合もあり、それは収入になったはずだ。つまりかなりの程度、祝儀は相殺されていたように見受けられる。その点は本書ではよくわからなかった。

また几帳面な家計簿には、儀礼行事入用、つまり年中行事に伴う出金が細大漏らさず記載されているがこれがまた興味深い。まず月に2回ほども年中行事があって忙しい。例えば5月は節句と鎮守祭礼、7月はすす払いと七夕、といった調子である。しかしこれらのうち、仏教的なのは盆くらいだったのが意外だった。彼岸とか降誕会といったものはなかったのだ。

ただ、菩提寺へのお布施は金額的に大きく、現在の感覚でいうと年に18万円もあった。脇差まで売りながら菩提寺にこんなにお布施をしていたのは驚きだ。武士にとって祖先祭祀は重要だった。一方、祖先祭祀に関係がない神社には淡白で、祈祷料なども微々たるものだった。

このほか、下男下女への給金もある。これも、雇わなくてはならない類のもので、身分費用の一つである。そういう支出は圧縮できないため、徹底して減らされたのが衣料費であるが、当主の直之の小遣いも信じられないほど少なかった。「家来の草履取りのほうが、むしろフトコロはゆたかであった(p.88)」。また女性へも小遣いは律儀に与えられており、そして女性へは実家からも援助があった。

この時代、女性の立場はかなり保障されており、離婚も多く、独自の財産権を有していた。ちなみに初産は必ず実家でするもので、2回目以降もその費用の半分は実家が出したということだ。女性と実家の結びつきは強く、一般に言われる「武家の女は嫁いだらその家の人間になる」は明確に間違いだ。

ともかく、このような節約生活の中で嫡男・成之(なるゆき、と読むんだろうか)が誕生する。成之の成長過程は、まさに儀礼の連続で、そうした儀礼を踏んでいくことが「武士」を作った。彼は頭がよく、就職試験の「筆算御撰」に合格し、なんと満11歳7か月から職歴をスタートさせた。そもそも就職試験があったところがおそらく御算用場の特色で、非常に興味深い。

ところで、近世の武家では葬儀にもたいへんお金がかかった。猪山家では家計簿の中に4回の葬儀が記録されているが、1回の葬儀で年間収入のほとんど4分の1を費やしている。さらに年忌もあり、百回忌・二百回忌といった法事までやることも珍しくなかったので、代が重なるたびに葬儀・年忌費用は嵩んだ。ただ、寺への回向料も高いが、それ以上に会食費が大きかったのは現在と同じで、「武士が百姓からあつめた年貢で潤っていたのは、金沢城下の料理屋と寺の僧侶であった(p.139)」。

さて、直之は非常にまじめに、正直に勤務に精励したようで、次々と昇進した。幕末には180石の知行取になっている。また、子の成之はいとこと結婚し家庭も持った。親子は順調に人生を歩んだのだった。幕末は非常に政治的な動きが盛んになった時期であるのに、親子には全くそういうそぶりもなかった。

が、成之はいきなり京都の兵站事務に抜擢された。慶応3年(1867)4月のことである。加賀藩は慶喜支持の方針で京都の守衛を担当したが、幕末の混乱のさなかにその難しい兵站の仕事を一手に担ったのが成之であった。そしてこれが認められて、成之は維新後に新政府の「軍務官会計方」にヘッド・ハンティングされる。大村益次郎の部下となったのだ。

新政府でも会計はあってないようなものだったので、成之は重用されて活躍した。ところが大村益次郎が暴漢に殺されてしまったため、軍の要職は薩長閥に抑えられて成之は小役人から出直すことになった。それでも成之は堅実に昇進を重ね海軍の会計に携わることとなった。

ここから先は、家計簿ではなく、成之が保存していた家族からの書簡を読み解くものである。成之は海軍の仕事をするため金沢から東京へ単身赴任していた。そのため金沢の家族(特に父の直之)からの手紙が多く、しかも成之は異常に几帳面でそれらの手紙を保存していたのである。

その手紙は、父の直之が明治維新をどう受け止めたかを生々しく物語っている。彼は、生活に窮した士族が相撲見物で雑役夫と打ち混じっている様子に「自分から庶民になり下がった」と感じ、「最早、我等如きは日雇稼も同段」と意気消沈した。そして華士族と平民との結婚も自由化され、猪山家の親戚も富裕商人と縁組した。直之はこれを止めるどころか歓迎している。

しかし猪山家は、成之が海軍で高給をもらっていたため(現在でいえば年俸3600万円)、直之自身は悠々自適の暮らしだった。没落した親戚を援助さえしていた。だからこそ士族たちは新政府にやとわれること(特に軍人となること)を熱望し、子どもたちの栄達を目指して教育熱心になっていった。なお学問が将来の飯のタネとしてのみ扱われたことは弊害も残した。

直之は家禄の廃止をも素直に受け止め、進んで家禄奉還して有利な条件で財産運用した。もと財務担当だからうまいのだ。しかし面白いのは、太陽暦の採用にはかなり不満そうなことだ。暦が改められてしまうと年中行事が混乱するからだった。

また、天皇は尊重はしているが、忠誠心は維新後も旧君・前田家にあった。にもかかわらず、成之の奏任官昇進と従六位の叙位には大喜びしている。官位をもらったのは旧幕時代は国家老クラスだけだったからである。だがそもそも旧幕時代も、叙位は天皇の名において行われていた。このあたりのねじれの関係が面白い。

本書は全体として、生の史料に基づいているだけに、めっぽう面白い。当時の日記は膨大に残っているが、家計簿は日記どころの生々しさではない。平易で読みやすいこともあって、すぐに読み終わってしまった。

武士の生活実態を平易に知れる労作。

【関連書籍の読書メモ】
『秩禄処分—明治維新と武家の解体』落合 弘樹 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/07/blog-post_9.html
秩禄処分がいかにして行われたかを述べた本。秩禄処分について知りたくなったらまず手に取るべき基本図書。

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