2023年4月25日火曜日

『漂泊—日本思想史の底流』目崎 徳衛 著

日本における漂泊の思想をエッセイ風に探る本。

著者によれば日本の思想史には3つの類型が登場するという。第1に、宗教的な志向、第2に、政治的・社会的な志向、そして第3に、そうした規範ではなく、旅をしつつ生の実相を見つめる志向である。すぐに看取されるとおり、この類型はあまりに大雑把で、しかも第3の類型については理念的すぎ、ちょっと導入からひっかかる。

ともかく、本書は日本思想史に登場する第3の類型である(と著者が考える)漂泊的志向について、歴史に沿って述べるものである。ただし、本書では「漂泊」が厳密には定義されていない。著者が何を持って漂泊と見なすか、やや恣意的であるように見受けられる(後述)。このように、枠組みがあやふやであるために、本書は残念ながら思想史としては成り立たず、著者自身が述べるようにエッセイの範疇だ。

日本における漂泊の原型は、ヤマトタケルの軍旅である。それはなぜか。記紀神話によれば、ヤマトタケルはただ戦いに赴いたのではなく、そこに詩心が伴っていた。漂泊者の原型とは、運命的悲劇によってよるべない放浪に赴く詩人なのである。

しかし万葉集は未だ漂泊以前である。それは、万葉集には夥しい羇旅歌が収められてはいるものの、大和から離れて故郷を懐かしむ気持ちが濃厚で、旅そのものに生きる態度が見られないからだ。ただし遊行女婦(うかれめ)という、旅先にある男を慰めた女たちには、漂泊的な性格が看取できる。彼女たちのよるべない暮らしは、例えば大伴家持のような高位の官人の旅よりも、漂泊の詩心を育んだのに違いない。なお本書には指摘がないが、「遊行女婦」という当て字も興味深い。彼女たちの存在は「遊行」であると見えたのだろうか。

最初に漂泊の思想が形をなしたのは、伊勢物語であるという。在原業平のありし日の色好みと老いて後の零落は、放浪の悲劇を鮮明な形で表現している。一方、女性がよるべない境遇に陥り、放浪して生きながらえるというモチーフは源氏物語の宇治十帖にも描かれ、小野小町が零落して遊女になって漂泊したという伝説にも見られる。才女や美女が哀れな末路を辿りさすらうという物語を人びとは好んだのだ。

それはフィクションの世界だけではない。後深草院の寵愛を受けた女房二条は宮仕えを辞して諸国行脚をし『とはずがたり』にまとめている。そこには「妄執と信仰の間をたえず揺れ動く心情」が表現された。それが「中世漂泊者特有のエネルギー」であった。

中世には、漂泊が一つの形をなすようになる(=著者曰く「中世的漂泊観念」)。漂泊に形を与えたのは「名所」と「歌枕」だった。名前を出すだけで情感が生じる「名所」、そしてその地名を読み込んだ名歌、そしてその名歌を本歌取りにした作品の続出が、「歌枕」を成立させた。特に陸奥の「歌枕」は特異な魅力をもった。中将実方(さねかた)は政争の果てに陸奥へ赴き、歌枕を訪ね歩いた。それは観光というようなものではなく、むしろ「痴(をこ)」なる行為であった。端正な王朝文化から逸脱して風狂に近づいたのだ。漂泊は反俗精神を内包していた。

能因も陸奥・出羽を訪れ、大漂泊者の劈頭となった。彼は数寄者であり、遁世(出家)の形をとってはいたが、宗教的な修行の跡はなく、歌道に沈潜することが目的であったと見られる。彼は非僧非俗(世俗的生活も捨てなかった)の暮らしの中で数寄心に殉じて漂泊した。

その能因を手本にしたのが西行である。西行は、実際に旅に出ていた期間はたった3年ほどだが、信仰と数寄を共に高いレベルまで高め、命がけの修行の中でも消えない詩心、「甘美な何か(p.188)」を漂泊に託し、「魂の漂泊」をなした。しかし次第に信仰と数寄に引き裂かれ「いかにすべきわが心」と嘆ずるようになった。

なお、中国への渡航のように、理想郷への脱出・まだ見ぬ国への憧れも漂泊思想に影響を与えた。本書には宋の五台山へ参詣しようとした源実朝の事例が述べられているが、現実を打開する術がない時に、脱出の衝動を持った実朝は、実際には旅をしていなかったとしても漂泊者の系譜に位置づけられる。

『一言芳談』は念仏行者・遁世者の言葉を収録したものであるが、ここに「人生そのものが旅(今生は一夜の宿り)」とする中世漂泊思想が表明されている。人生は仮のもので、旅の宿り(一時的なもの)にすぎないとすれば、教学までも否定の対象となりうる。

その虚無主義を超克したのが一遍である。彼の旅は苦悩や零落によるものでなく、大衆に崇められ、法悦に乱舞する大勢に囲まれてのものだったが、彼はどこか孤独で、あらゆるものを捨て去って遊行した。それは自らを超越的立場におくもので、人間的な営みである漂泊とは対極的なものであった。

連歌師宗祇の旅も、漂泊とは似ても似つかない、ビジネスライクなものであった。戦国たけなわのころに宗祇は各地に招かれ悠々と旅をし、城に着けば至れり尽くせりでもてなしされた。しかし制作された連歌には、そうした実態は出てこず、「今生は一夜の宿り」の無常観、旅と人生の連結が表現されている。漂泊が現実から遊離し、類型化した語りになっているのである。それでも宗祇の中には、日常性に埋没しきれない数寄心が蠢いていた点で、漂泊者とみなせる。

そして近世に向かうにつれ、宗教が地獄を恐れる切実なものから遊興じみたものへと転化したように、旅も恐ろしいものから楽しいものへと変わっていった。近世には物見遊山の旅は厖大に行われたが、かえって漂泊のような反俗的な旅は少なくなった。著者はこれを「漂泊不在の季節」と呼ぶ。 そんな中で漂泊に足を踏み入れたのが芭蕉である。

彼は人生に行き詰まり隠遁し、さらに生活の後ろ盾の全く無い中で漂泊に身を委ねた。その旅は、西行を追慕して名所を周到に巡るものだったから漂泊とはいえない。しかしその精神は、全てを捨て、数寄心に殉じ、おのれを詩人としつつも、それを「妄執」と見なす漂泊の定型に合致していた。

ここで筆者の考察は終えられているが、さらに近世後期については、架空遍歴譚(例えば、平賀源内の『風流志道軒』、春川恋町の「異国奇談和荘兵衛」など)が少し取り上げられる。それは解放への欲求を反映したものと見られ、また近代になると西洋への憧れ、逃走が新たな漂泊の局面をなしてくる。

しかしそうしたものよりも、田山花袋が「東京の十三年」で書いている次の言葉は、近代における旅の本質を突いている。「旅に出さへすると、私はいつも本当の私となつた。」

著者が「あとがき」で述べるところによれば、「この一巻で追求しようとした主題は、古来日本人の心の底を流れてやまない漂泊の思いの、思想史的位置づけである(p.315)」ということだが、この意図は成功しているとはいえない。本書の方法論には問題が2つある。

第1に、漂泊を定義づけておらず、著者が漂泊と思いたいものを漂泊と見なし、漂泊者とみなしたい人を漂泊者としているということだ。西行は、たった3年ほどしか旅をしていないのに漂泊者としているし、逆に全国を巡りに巡った一遍が漂泊者ではないというのも首肯しがたい。著者は最初から「漂泊の思想とはこのようなものだ」と決めて、その結論に合致するように人物を当て嵌めていっている。だから歴史を繙いても著者が最初に措定した思想以上のものが出ていない。また近世には、よるべない旅に生きた人びとが大勢いたのであるが、そうした人びとを全て漂泊者でないと片付け、「漂泊不在の季節」としたのは大きな瑕疵であろう。

第2に、漂泊と仏教の関係を正面から取り上げなかったことである。仏教においては、遍歴することに大きな意味があり、勧進しながら、托鉢しながら諸国行脚をすることが非常に重要な修行であった。古来信仰によって日本を回ったものは数えきれぬほど存在する。それらは、よるべない放浪とは違ったものもあったが、著者のいう漂泊の性格のいくらかは持っていた。確かにそれらが詩心を常に伴っていたとは言えない。しかし漂泊に詩心がなぜ必須なのか、本書では遂に説明されない。仏教思想による漂泊を捨象したことは、漂泊の思想を大きく切り詰めるものである。

このような問題があるため、本書では漂泊の思想が十分に展開しない。意地悪な言い方をすれば、著者のいう「漂泊」は単なるセンチメンタルな旅にすぎない。著者自身が「気楽なエッセー」と述べているのだから、「思想史」として批判するのはフェアではないとは思うが、思想を記述する堅牢な枠組みを設けた上で書けば、全然違ったものになったように感じられ、惜しまれる。

曖昧な枠組みで書いているため、漂泊を十分に書ききれなかった惜しい本。


2023年4月23日日曜日

『蘭方医桑田立斎の生涯』桑田 忠親 著

幕末を生きた蘭方医の伝記。

桑田立斎は、小児への種痘に取り組んだ蘭方医である。幕末には西洋医学がさかんに流入し、特に天然痘のワクチン「種痘」についてはかなり普及した。種痘の接種に取り組んだ蘭方医は多く、特に長与専斎は有名だ。そうした中で、本書の主人公の桑田立斎はそれほど有名な人物とはいえない。

立斎がやや独特だったのは、彼が小児科の開業医だったことと(当時「小児科」という概念があったのか不明であるが、本書では「小児科医」ということになっている)、幕命で蝦夷地(北海道)に行き種痘をしたこと、7万もの人に種痘をしたことである。

私は本書を2つの興味から手に取った。一つは、幕末の蘭方医がどんな存在だったか知りたかったこと、もう一つは、蘭方医がどんな髪型をしていたかということである。どうして髪型が気になるのかと訝しむ向きも多いだろうが、当時の髪型は社会的地位を示すものなのである。

ただし、本書は史料に基づいた評伝ではなく、桑田立斎を広く知ってもらうための小説である。よって、髪型のことも触れられてはいるが、それが事実なのかフィクションなのか判断がつかず、本書は私の興味に完全には応えてくれなかった。以下、髪型を踏まえつつ簡単にメモする。

桑田立斎は、文化8年(1811)、新発田藩の下級武士の次男、村松五八郎として生まれた。彼は明王院という地蔵菩薩を祀る寺院で生まれ地蔵菩薩のお弟子となっていたので、元服を過ぎても稚児髪を剃り落とした時のままの坊主頭であった。武士ではない、という徴(しるし)だろう。

ちなみにその頃、蘭方医の町医者(島田本道(竹斎))は総髪をしていた、とある。既に蘭方医の町医者がいた、ということ自体が興味深い。では蘭方医ではない医者(つまり漢方医の医者)は、どういう髪型をしていたか。医者は法橋とか法印といった僧侶としての位を持っていた(持っているものもいた)ので、剃髪していたようにも思うが本書には髪型の記載はなかった。

村松五八郎、改め村松和は蘭方医を志し、江戸に2度遊学する。しかし十分に西洋医学を学ぶことはできず、帰郷後、島田竹斎の蔵書に接して勉強した。ここには『西説内科撰要』18巻などがあった。西洋医学書は、維新前に漢訳され、少ないながら流通していた。

村松和は再度江戸に出て、蘭方医坪井誠軒の日習塾に入った。和はこの頃も坊主頭だったという。当時、江戸には戸塚静海、大月俊斎、竹内玄同、伊東玄朴ら蘭方医の大家がいた。彼らは幕府か諸藩に仕えて侍医となっていた。また高野長英、渡辺崋山、小関三英、鈴木春山らの尚歯会も西洋文明の積極的輸入を図っていたが、尚歯会は「蛮社の獄」で弾圧される。彼らは政治批判の廉によって捕縛されたが、西洋医学自体は弾圧の対象とはなっていない。

村松和は坪井誠軒の紹介で蘭方医桑田玄真の養嗣となり、32歳の時に深川西大工町に小児科医院を開業した。結婚して子どもを設けた後、嘉永2年に伊東玄朴から牛痘種痘の痘苗を分けてもらい、牛痘種痘を開始。それを機に立斎と号した。39歳の時である。

立斎は種痘を進めるために『済幼私説』『済幼問答』という小冊子、『牛痘発蒙』という本を出版。そして実際に多くの人びとに種痘を施した。また小児養育に関する本『愛育茶譚』や『宝ハ子ニ勝ル物無きの弁』という冊子も出版するなど、多くの啓蒙書・パンフレットを送り出した。立斎は、民衆に種痘を広めるための啓発活動に力を入れたのである。

こうした活動が注目されたのか、彼は老中阿部正弘から幕命を受け、当時天然痘が流行していた蝦夷地に渡ってアイヌに種痘を施すことになった(深瀬洋春という江戸の蘭方医も同じ幕命を受けて蝦夷地に渡ったが、二人は別々に行動)。

アイヌへの種痘は狩り出して無理矢理接種するというようなものだったらしいが、立斎は人道的な方法によって行った。また立斎と助手などの一行は、箱館から十勝へ渡り、根室から国後島にまで行った。これは当時、立斎の養父桑田玄真の実子、関谷順之助が国後島(箱館奉行所国後出張所)で勤めていたからであった。なお蝦夷地行きから立斎は頭髪を生やすようになった、とされている。総髪になったのだろうか。

蝦夷地では、幕府から出た費用の他に200両ほどの私財も投じ、6400人に種痘を施した。江戸に帰還して安政5年(1858)には、江戸でコレラが大流行する。また同年、伊東玄朴らが種痘所を江戸に設置することを幕府に申請し認められた。これは蘭方医82人の醵金による私設の種痘所である。これは文久元年(1861)に西洋医学所と改称され、東京大学医学部につながっていくものである。

文久2年(1862)には、麻疹が江戸に大流行した。麻疹は天然痘以上に致死率が高かったので、江戸市中だけで26万人以上の人が亡くなった。「坂下門外の変や生麦事件よりも、全国的に大流行した麻疹のほうが、一般庶民にとって、はるかに身近な大事件だったのである(p.179)」。麻疹の治療にも立斎が必死で当たったことは言うまでもない。

立斎は、生涯で10万人に種痘を施すという目標を立てており、維新の混乱で江戸から避難する人が出る中でも医院を開き続けた。ところが種痘の注射を打とうとしたところ、注射器を握ったまま突然死した。慶応4年(1868)、享年58歳。生涯に種痘を施したのは約7万人であった。「幕末のジェンナー」と評される。

本書の著者、桑田忠親は立斎の子孫で(忠親の曾祖父が立斎)、本家に蔵されていた『桑田立斎年表』と『遺言状』という史料に基づいて、フィクションを適宜交えて本書を書いている。著者の専門は戦国時代から織豊時代、特に茶道の歴史について研究した。よって幕末を舞台にした本書は、専門から外れる。

先述の通り、蘭方医やその髪型についての情報は期待通りのものではなかったが、本書を読みつつ、幕末における西洋医学の受容について改めて興味が湧いた。さらには、それは洋学全体の受容の中でどのように位置づけられるのか。今後勉強してみたい。

 

2023年4月6日木曜日

『旅のなかの宗教—巡礼の民俗誌』真野 俊和 著

四国遍路を中心に日本における巡礼について述べた本。

巡礼とは、聖地に赴くことをいう。メッカ巡礼とか、エルサレム巡礼といったように。そして日本の場合、特定の目的地を持たず、神社仏閣を(しばしば当てもなく)巡る巡礼もある。

気軽に旅行に行けなかった近世以前の社会においては、旅はほとんど宗教的な目的のものに限られていた。そして同時に、宗教そのものが旅を通じて形作られてきた。聖たちはひたすらに歩き、遊行することそのものが修行の本質だと考えていた。だから巡礼は、日本の宗教の核心といってよい。 

そしてまた、定住し農業を営むことを基本とした日本において、そこからあぶれたものが頼ったのが旅でもある。旅は「もうひとつの生存様式(p.40)」であった。

旅に生きた人々には、空也、一遍のような高僧もいたが、「鉢叩き」「鉦打ち」といった半僧半俗の下級宗教者、「すたすた坊主」や「高野行人」のような乞食芸能者もいた。また「熊野比丘尼」「歌比丘尼」といった、春をひさぎつつ宗教的に漂泊した女性も決して少なくなかった。こうした人々は、生きるために旅をしていたのだ。

そして彼らの旅は、常に物乞いを伴っていた。それは糊口をしのぐために必要なものであると同時に、彼らの宗教の本質的部分でもあった。モノをもらって集めること自体に、聖性があったようなのだ。

また日本の巡礼には、古くは特に順路の定めがなかったが、やがて西国三十三観音、秩父三巡山観音、四国八十八箇所(以下「四国遍路」という)といった定型的な巡礼コースとそのやり方が確立していった。

なかでも四国遍路は、組織的に形成されたものではなく、民衆の側からの自然発生的な行為として産まれ、何らの教義的位置づけもなかった点で他の巡礼コースと異なる。どの寺が札所となりどの寺が番外札所となるか、といったことも正確な理由付けを与えることは難しい。それどころか、近代になるまで札所寺院では遍路を誘致することも、教理化することもなく、信者として扱うこともなかった。どちらかというと巡拝者は寺院にとって厄介者であった。よって「四国霊場には、ほとんどあらゆる宗教に共通してみられる、神・仏と人間との間の仲介役である神職・僧侶と信者たちという二元的な関係にもとづく宗教行為や宗教体験の一切が存在しない(p.61)」。

遍路の宗教的な核心は弘法大師信仰であり、遍路は弘法大師と直接に関係を結ぶための修行であった。遍路は「同行二人」(弘法大師と共に巡る)を標榜し、個別の寺院よりもそちらの方が重要な意味を持った。

では遍路はどうやって生まれたか。西国三十三観音などと比べ、遍路の起源は謎に包まれている。もちろん空海が開創したという伝説は事実ではない。どうやら遍路は、補陀落渡海の信仰と空海ゆかりの金剛頂寺(金剛定寺とも)の乞食(こつじき)が核となって出来上がったものらしい。早ければ11世紀後半、遅くとも平安時代末には、四国の海岸を回る信仰が成立した。遍路では寺院が先にできたのではなく、まず「道」が出来て、巡拝者たちの拠点として寺院が出来上がっていったというように考えられる。

四国遍路の祖とされる伝説的人物が「右衛門三郎」だ。彼は富と権力を持っていたが、托鉢の僧侶をすげなく打擲したため八人の子どもが次々と死に、乞食しながら巡礼して改心、大師の加持を得る(生まれ変わる)、といった伝説が伝わっている。現実には、この伝説が出来上がったのは四国遍路が成立した後のことだが、この伝説において既に大師と巡拝者とが直接関係を結ぶことが述べられているのが象徴的だ。

次に、どのような人々が遍路を旅したか。遍路は苦行であるから、遍路に行かざるを得ないくらい追い詰められた人が遍路を歩いた。例えば、家から追われ故郷から追われた、寄る辺ない人々、病気になった人々といったものだ(病気も前世の業罰のためと考えられていた事情もある)。例えば「金比羅宮のあの長い石段の両側には、ほとんど一段ずつといってよいほどに、参拝客の喜捨をあてにした癩者たちが並んでいた(p.98)」。しかしともかく遍路を巡りさえすれば、なにがしかの喜捨を受け、とりあえず生きていけるという社会福祉のような意味もあった。

しかし辻堂や岩穴に寝起きする彼ら乞食遍路は、人々から嫌われ蔑まれた。それが戦前までの遍路のかなりの部分を占めていた。

なお本書では、巡礼者の事例として、遍路ではないものの野田泉光院の場合が詳述されている。しかし野田泉光院については別途読書メモに書いたことがあるのでここでは割愛する。

江戸時代初期の貞享4年(1687)、遍路の歴史にとって画期的な本『四国辺路道指南(みちしるべ)』が上梓された。作者は諸国を行脚する修行僧、宥弁真念。これによって四国霊場のまとまった案内が初めて公になった。札所の数や順序などもこの真念によるものだという説がある。ついで元禄2年(1689)、高野山の学僧石堂寂本は大著『四国遍礼霊場記』全7巻を出した。さらに翌元禄3年(1690)、真念は遍路の信仰説話集である『四国遍礼功徳記』上下巻を著した。彼は遍路屋を開設したり、標石の建立といった仕事もしている。真念の宗教は、「雑然とした、どちらかといえば完成度の低い要素を多分に含んでいた(p.118)」が、民衆宗教としての四国遍路の確立に大きな影響を及ぼした。

とはいえ、遍路を巡った巡拝者たちが、皆がみな切羽詰まった信仰を持っていたわけではなかった。その一例として、江戸時代後期の文政2年(1819)に四国遍路の旅に出た新井頼助の様子が詳しく紹介される。その旅は物見遊山のためだった。それは各地をついでに観光しつつ、木賃宿(米は持参でたきぎ代のみの宿)や善根宿(遍路を無料で泊まらせる宿)に泊り、のんきに札所を巡るものだった。それでも村に帰ると、「十日近くにわたって祝いの人びとが訪れ(p.131)」、四国遍路の成就を祝った。遍路の大部分は乞食で嫌われていた、ということと、遍路を終えた人への祝賀とが、同時に存在していた。

一方、哥吉という少年は11歳から14歳まで苦難に満ちた巡礼を行った。彼は養母とともに四国遍路に入った。村にいても食っていけないので、托鉢に頼って生きようとしたのだ。しかし途中で母と弟が死亡。哥吉は遍路を続け、途中である六部と出会い行動を共にする。ところが彼は親元に送ってやるといいながら、自分の巡礼につきあわせ、九州、西日本、東日本と巡ることになった。その六部が死んで哥吉はようやく故郷に帰った。無一文でも、親無しでも、遍路・巡礼に出れば生きていけたという実例だ。

大正時代、後に女性史の分野で名をなす高群逸枝は、24歳の時に四国遍路に出た。四国遍路を志した理由は明確にはわからないが、 彼女には「観音の申し子」として育てられた宗教的なバックボーンがあった。道すがら伊藤宮次という老人と出会い、この老人と同行してお修行=托鉢をしながら(実際には老人が托鉢して)遍路を歩いた。なお遍路には、一日に3軒ないし7軒、もしくは遍路中に21軒のお修行をしなければならないという不文律があった。彼女は不潔な遍路宿・木賃宿に苦しめられ、病気に冒された醜い遍路たちに言葉を掛けることもできず、「遍路旅へのそこはかとない憧れ」は打ち砕かれた。しかし彼女はその経験を「遍路愛」として昇華させた。

しかし遍路を歩いた巡拝者には、やはり最後にすがる信仰として旅に出たものが現代でも少なくない。事実、医師からも見放された難病が遍路で劇的に快癒したり、躄(いざり)が歩けるようになったりといった奇跡は、今でも続々と生みだされている。そしてそういう霊験にあずかることの出来た人々は、それを文章にして公開し、持ち物を奉納した(いざり車、ギプス、松葉杖等)。立江寺には、小指を切って奉納するという奇妙な風習まであったという。

そして、それらの霊験譚は乞食遍路によって各地に伝播され、四国遍路の名を高からしめたのだろう。四国遍路の霊験譚には、普通のはやり神や神社仏閣の場合とは違う特徴がある。それは、特定の寺院や本尊、特定の霊験に期待するのではなく、仮にある寺で霊験を得たとしても、遍路全体のおかげによるものと見なしていることだ。それは「多彩な状況のすべてを一挙に解決するオールマイティとしての、大師(p.191)」にすがることが遍路の本質であったからなのだろう。よって、現代でも霊験は生みだされてはいるが、それらには札所寺院側の関与の程度が希薄なのだ。四国遍路は特定の宗教的エリートによってではなく、民衆によって維持され再生産される霊場なのである。

他方、遍路を受け入れる民衆社会には、接待の文化があった。 巡拝者にお茶や果物を振る舞うことである。遍路は札所よりも、地域社会との関わりの方が深かった。接待にはいくつかの形態があり、遠方からの出張である「接待講」による組織的なものもあれば、個人的なもの、村全体で接待するものもある。

では村落社会は温かく遍路を迎えたかというと、これがなかなか複雑だった。先述の通り遍路は嫌われ蔑まれていた。だが遍路は、ある意味で敬われてもいた。村の人びとは彼らを接待することに意義を感じていた。それは単なる同情心ではなく、畏れに近かった。接待は、おそらくは巡拝者のもたらす災厄を避けるための供物だったのであろう。

また、巡礼は様々な人が交錯したから、文化の運搬も担っていた。四国には様々な文化が持ち込まれ、また全国各地へと広めてもいった。遍路には文化的価値があった。

しかしながら近代になると、遍路への風向きは悪くなる。明治9年、植木枝盛が主筆だった『土陽新聞』は、体系的かつ理路整然とした遍路排斥論を掲載した。これに先駆け、高知県は遍路を追放する禁令を出している。遍路を規制・管理下に置こうとするのは近世から始まっており、例えば天保4年(1833)の土佐国では「他国遍路の出入国の場所、領内の通過日数、順路の指定と脇道にそれることの禁止、呪的行為、勧進、托鉢等の禁止からはじまって、遍路に対する規制はさまざまな面にまでおよんでいた(p.224)」。反面、藩当局には遍路を保護する姿勢もあったのが興味深い。

遍路を規制しながらも、同時に遍路の存在を是認していたのが近世であったが、近代になると旅人を受け入れる人びとの側の方の意識が変わり、「巡礼は乞食・物乞いにほかならない」と見なされていった。そして日本は「乞食を貧民として、社会脱落者として遇するしかできない社会(p.230)」となった。ここに近代的乞食観の形成の一端が窺える。

今でも四国遍路は盛況であるが、その点では近世までのあり方とは異なっているのである。

全体として、本書は四国遍路については歴史・習俗・社会的認知まで含め、多面的に記述しておりとてもわかりやすい。しかし「旅をする宗教」というテーマとしては、四国遍路のみに終始した観があり、やや物足りなくも感じた。巡礼・勧進・乞食に生きた宗教者は古来たくさん存在した。そういう巡礼する宗教のあり方の中で、四国遍路はどう位置づけられるのか、そういう疑問が浮かんでくる。

なお著者は、東京教育大学理学部数学科を卒業後、同大学院で日本史に転向している。私も数学科卒なので親近感を抱いた。本書は初の単著のようだ。

四国遍路を理解するための平易な良書。

【関連書籍の読書メモ】
『泉光院江戸旅日記——山伏が見た江戸期庶民のくらし』石川 英輔 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/05/blog-post_21.html
日本を巡った山伏の旅日記。江戸時代のイメージが一変する、読んで楽しい日記の解説。

 

 

2023年4月2日日曜日

『開国と幕末の動乱(日本の時代史20)』井上 勲 編

幕末から明治維新までを通史とトピックで述べる本。

私は「開国」に興味があって本書を手に取ったが、本書では「開国」が真正面から扱われていない(むしろ同シリーズ『明治維新と文明開化(日本の時代史21)』の方が「開国」について述べている)。なお、私の言う「開国」とは西洋文明の流入と開港・貿易のことである。

さらには、「幕末の動乱」についても普通に考える幕末の動乱——安政の大獄、天狗党の乱、天誅の流行といったような——は、簡単にしか触れられない。「開国と幕末の動乱」という枠組みで書いてあるのは、井上 勲による冒頭の通史のみである。よって、本書はタイトルと内容に不一致があると言わざるを得ない。

では本書には何が書いてあるか。

一言で言えば、それは「幕末明治の横顔」である。通常の幕末維新史では取り上げられないニッチなテーマを盛り込んだのが本書である。

通史「開国と幕末の動乱』(井上 勲)では、ペリー来航から王政復古に至るまでの政治史を描いている。印象に残ったのは、近世社会の秩序が開国直後から緩んでいっていることだ。対アメリカ外交の方針について広く意見を聞いたのもそうだし、朝廷が幕府の人事にまで容喙したり、「戊午の密勅」を水戸藩士に手渡したりといったことも含まれる。形式面でも内容面でも、近世社会を支える枠組みが早くも形無しになっていた。

枠組みが流動していった結果、幕府が委任されていると考えられた「大政」の枠外に「国事」という、朝廷が最終決定権を持つ領域が形作られていった。また雄藩と呼ばれる外様の大藩は、その藩主が幕政から排除されていたため、「国事」に参画していこうとする意欲を持っていた。ここに、雄藩(有志大名)が幕府機構から離脱して直接朝廷と結びついていく構造があった。

雄藩の活動は、当初は公武合体運動として具体化し、次に尊皇攘夷運動へと進んだ。こうした活動の中で、藩を基盤とする身分格式は次第に無意味化した。京都の治安維持のため新設された「京都守護職」に就任した会津藩主松平容保が配下にしたのが新撰組だったが、彼らは会津松平氏の家臣ではなく浪士集団であった、ということにもそれが象徴されている。

長州勢力を朝廷から駆逐した「八月十八日の政変」後に設けられた参与会議では、徳川慶喜とともに有志大名が参与に任命された。既に徳川ー譜代・親藩ー外様といった格式秩序は失われ、有志大名は「朝廷と幕府の最高の政策決定に参加し得る権限(p.58)」を身につけた。しかし参与会議は話がまとまらずあえなく瓦解し、いわゆる一会桑政権が時局を担った。

この時に徳川慶喜が将軍後見職を辞して就いたのが、「禁裏守衛総督兼摂海防御御指揮」という新設の職である。「総督」とか「御指揮」という役職名が、幕府の旧来の機構からすでにはみ出していた。 慶喜は幕府と有志大名の双方から調停の役割を期待されたが、幕府と有志大名は対立していたのだから、結果的には板挟みにならざるを得なかった。そしてその板挟みの中で、長州藩が朝敵としてスケープゴートになっていく。

長州藩では、攘夷の戦争に備えて「武士ならびに農工商また猟師また神職・僧侶等を構成員とする軍事集団が編成されていた(p.67)」。ここでは幕府よりもずっと先鋭的に身分格式が崩壊していた。

時局の問題は、開国か攘夷か、長州をどうするか、という2点が大きかったが、第1の点は開国やむなしと時勢は収束した。あとはそれをどうやって正当化するかという手続き論だった。しかし長州問題については政争の末に分極化し、慶喜と薩摩藩がそれぞれの極に位置した。にもかかわらず、慶喜は極としての十分な権威を持っていなかった。14代将軍家茂が長州戦争の最中に死去しても、将軍職を固辞して受けなかったのもそのためだ。

慶喜は将軍就任の大義を得るため諸侯会議の開催を構想。20名の諸侯に上洛令が出された。そこでは「藩主ではないにもかかわらず指名された者が五名いて、徳川慶勝・鍋島斉正・山内豊信・伊達宗城・島津久光の有志大名がそれ(p.84)」であった。将軍ー藩主ー家臣という身分秩序は、ここでも形無しになっている。身分よりも実力がものをいう社会になっていた。しかし結果的には一人の有志大名も上洛せず、慶喜の権威は不完全なまま将軍となった。

慶喜は、直接手を下したわけではないが幕政を広範に改革し(慶応幕政改革)、積極的な外交を行った。パリ万博に参加し、徳川昭武を将軍名代としてヨーロッパに派遣。また慶喜は、松平慶永・山内豊信・伊達宗城・島津久光を招集して四侯会議を開催したが、長州問題で意見が折り合わずこれも瓦解した。幕府と有志大名の最終的な決裂であった。

極めて流動的な時局の中で、大政奉還と王政復古の政変があり、幕藩体制の統治機構の根幹が一括して精算された。だがこの王政復古とは、文字通りの復古ではなく、会議体の構築をそう呼んだに過ぎなかった。その会議体のトップが総裁・有栖川宮熾仁親王。「皇族ないし親王が、摂家を措いて朝廷の主宰者の地位に就くことは前例をみな(p.107)」かった。

徳川慶喜はこの体制から排除されていたが、辞官・納地を受け入れ、体制に参入しようとした矢先に鳥羽伏見の戦いが勃発し、討薩を表明。しかし直後に逃亡して戦線が瓦解、新政府はここに確立したのである。

「Ⅰ 幕末の「世直し」待望」(宮崎ふみ子)では、「世直し」「世直り」を求めた幕末の民衆宗教を取り上げる。幕末には、物価高騰、治安の悪化、災害、大地震、コレラなどが民衆を襲い、人々は社会の変革を希求した。当時の錦絵には、地震の化身であるナマズがかえって救済者として描かれているものがあるほどだ。では民衆は「世直し」後にはどのような世界を期待したか。本章では、不二道と黒住教、「ええじゃないか」を取り上げそれを考察している。

富士講の一種である不二道では「みろくの世」という理想世界が近づいているとしていた。そして「みろくの世」に近づくために肝要なのは「心」であるという、二宮尊徳・石田梅岩的な唯心論を説いた。その教義には幕府にとって危険な面はあまりなかったが、幕府は嘉永2年(1849)に富士講・不二道を「新義之異法」として禁止した。だがこの取り締まりは徹底されず、不二道はさほど打撃を受けなかった。

一方、黒住教は病気治しから初まり、吉田神道を援用して権威を得、太陽神としての天照大神への信仰を強調した。黒住教では「神代」「神世」が理想の世とされたが、それは「三千年の昔」の再来であり、大和風の文化が再興される時であった。

「ええじゃないか」は、伊勢神宮のお札等が降ったことををきっかけに起こった民衆の祝祭であるが、本章ではこのケーススタディとして三河国牟呂村、東海道藤沢宿の場合を取り上げて、その祭礼等がどのように行われたのかを分析している。その中で注目されるのは、藤沢宿で葬礼の仮装行列が行われていることで、これは明らかに伝統とは異なる要素である。また祝祭が20日間も続くことも異例だった。

「ええじゃないか」で謳われた「世直し」は、生活条件の改善を求めていた。しかし「ええじゃないか」は心情的にはそれを基調としながらも、その要求を正面から掲げることはせず、祝祭の中に日常性から逸脱することで消極的にそれを表現した。

なお「ええじゃないか」は伊勢神宮のお札をきっかけにすることが多かったが、おかげ参り(伊勢参宮)に行くことは少なく、人々は近隣の名社に参詣した。多くの人が手近に神社参詣を楽しむことができるようになっていたから、伊勢神宮の重要性は低下していた。「ええじゃないか」を伊勢信仰や天照大神信仰に短絡的に結びつけることはできない。

明治維新後、為政者たちは幕末の庶民信仰に類似した形式と内容で、宗教的色彩を帯びつつ民衆を告諭した。明治維新は民衆が求めていた「世直し」そのものであるとしつらえたのである。しかしそこでは、真の要求であった生活条件の改善は置き去りにされており、神話の世の中が具現化したということだけが謳われていた。

「Ⅱ 動乱の時代の文化表現」(延広 真治) は、本書中異色の論考。文久以降の舌耕文芸(講談・落語・浮世草子・歌舞伎などの大衆文芸)における怪談話についてその変遷を詳細にまとめている。ところが、怪談話の内容に深入りしているために、それが「動乱の時代」とどう結びつくのか全くわからない。本編は完全に「文芸史」の範疇である。

本編では「怪談牡丹灯籠」に先行する怪談話を分析。それは、「幽霊が恨みを晴らすために現れるがお札が貼ってあって家へ入れない。そこに第三者が通りかかり、幽霊がお札を剥がすことを依頼。その人物によりお札が剥がされて幽霊が対象者を呪い殺す」といった基本的な筋を持つ。そこで私が気になったのは、この「お札」が「二月堂の牛王(のお札)」である話がとても多いということである。二月堂とは明示されなくても「牛王」であることが多い。どうやらこの頃の家には、戸口に戸守(とまもり)と呼ぶお札が貼ってあり、その代表が「二月堂の牛王」であったらしい。

二月堂とは、言うまでもなく東大寺二月堂(お水取りが行われている場所)。それで私はかつて二月堂には牛王こと牛頭天王が祀られていたのかと思ったが、(以下、読書メモの範疇を超えるが)調べてみるとそうではないらしい。普通には「牛王のお札」とは「牛王宝印」のことで、熊野の牛王が有名であるが、二月堂でも「牛玉(ごおう)刷り」というお札があり、今でも作られているということである。

「Ⅲ 「武威」の国—異文化認識と自国認識」(池内 敏)では、近世の日本人が、自国をどのような国として認識したかが述べられる。まず為政者の側では、将軍を「日本国大君」と対外的に呼ばせたのが注目される。これは実質的には対朝鮮の自国認識であった。日本は自らを小中華に位置づけ、朝鮮はそれになびく国と見なしていた。

それは朝鮮との交流窓口であった対馬においてもいえる。対馬は異文化衝突の現場でもあったが、それがやがて「優れた日本」と「劣った朝鮮」との問題であると捉えられるようになり、外交交渉においても朝鮮を武威でもって押さえつけることへの憧憬すらも表明された。日本は、朝鮮よりも武力のある強い国でなければならなかった。そういう為政者の態度は民衆にも共有されていたものと見られる。

また、「武威」の国として重要な神話が神功皇后三韓征伐であり、歴史的事実として秀吉の朝鮮侵略があった。ただし神功皇后の神話の流布は、常に朝鮮への蔑視や武威の強調に力点があったのではないということにも注意が必要である。

「武威」は自国認識としては広く共有されていたと見られるが、現実の日本は長く武力行使することはなく、その統治も江戸時代中頃からは「礼」に基づくものに変質し、「武威」は観念的なものになっていた。それでも「武士」は武力の現実・限界を感じていたようだ。幕末には、むしろ国家運営から排除されてきた人々の方が、対外危機に際して好戦的な意見を持ち、武力行使を願望していたのである。

「Ⅳ 徳川の遺臣—その行動と論理」(井上 勲)では、徳川の遺臣について述べている。

まず、「遺臣」とは何か。遺臣とは、王朝交代が激しかった中国で、前王朝に仕え、現王朝に仕えることをよしとしなかった人々である。とすれば、形式上であれずっと天皇が統治してきた日本には遺臣はいない。水戸藩の「大日本史」の「隠逸伝」でも、俗世間から遠ざかった隠者が語られるだけで、遺臣は登場しない。ところが徳川は、朝廷とは別に王朝と呼ぶに足る機構を持っていた。よって幕府の崩壊に伴い「遺臣」が生まれることとなった。

大政奉還後に朝廷が諸侯に上洛を命じた時、朝廷に従うことを潔しとしなかった諸侯は官位を返上しようとした。官位が無ければ朝廷とは関係がなく、上洛令に応える必要はないからだ。官位返上の嘆願書を出した譜代大名は94名もいた。しかし頼るべき徳川慶喜は、新政府軍の攻撃を受ける前に自ら権力を解き、彼らをほとんど見捨てた。新政府に恭順の態度を取ったからである。徳川の臣であろうとした人々は、梯子を外された恰好になった。幕府に殉じて自刃した川路聖謨(としあきら)は間違いなく遺臣である。

また、新政府に反発した諸藩は奥羽列藩同盟を結成。蝦夷地に「徳川の一族を迎えて君主とし、遺臣による政治体を構築(p.252)」しようと夢想した。遺臣であろうとした人々の最後の夢であった。

幕府に殉じなかった旧幕臣は、新しい時代をそれぞれに生きた。旧幕臣や朝敵とされた藩の士族にキリスト教徒が多かったことは注目される。世の中の波に乗れなかった人々が、キリスト教に惹かれたのだ。例えば奥野昌綱がそうである。

一方、旧幕臣であった成島柳北は朝野新聞主宰して言論人になり、文明開化の世の中を批判的に見た。同じく福沢諭吉は、新しい世の中を批判的に見ながらも、流れに棹さした。福沢諭吉は「士族の精神」の振起を期待しながらも、西郷を擁護した「丁丑公論」、勝海舟の江戸城無血開城を批判した「痩我慢の説」を筐底に蔵し続けたのである。福沢の死後これらが公刊されると、「痩我慢」を続けていた旧幕臣にとっても、新政府で栄達した旧幕臣にとっても、これは明治維新をどう見るかという問題提起となった。

「Ⅴ 明治維新とアジアの変革」(山室 信一)では、 明治維新がアジアの国々にどう見られたのかを述べている。

明治維新は、アジアの国々にとって自らの変革のお手本と捉えられた。中国での洋務運動でも日本の経験は参照された。しかし暦法や服制など、生活文化までも西洋を盲目的に真似したのは批判されている。

さらに日清戦争後には、旧体制を変革するためにより真摯な関心が明治維新に寄せられ、黄遵憲の『日本国志』が大きな影響を与えた。特に康有為は日本に学び、『日本政変考』を編んで光緒帝に進呈。康有為は明治維新の経過を自らの都合のいいように改竄して皇帝に報告し、それが受け入れられ「百日維新」が実されたが、西太后によるクーデターにより頓挫した。ただしその中で教育の重要性は普遍的だったので、日本への留学や日本書の翻訳はその後も続けられた。

一方孫文にとっては、明治維新はお手本でありながらも、その神権政治などは受け入れがたかった。むしろどうして革命(明治維新)を起こすような人物が生まれたかという、教育や思想、精神の方に関心があり、西郷隆盛は革命家であると同時に日本の象徴として受け取られた。しかし日本があからさまに中国を蚕食するようになると、明治維新は批判の対象となっていった。

 

全体として、先述したように、本書は「開国と幕末の動乱」という自ら設定したテーマから逸脱した論考が多い。特にⅣとⅤは維新後を扱っており、論考自体の質はともかくとして、本書に掲載することは適当ではなかったと思う。

その上、全体を通じて浮かび上がってくるものがあるかというと、そうでもなく、構成が散漫であると言わざるを得ない。かなり自由に書いた論考の集成だ。せめて「開国と幕末の動乱」という時代の枠組みを守って書いて欲しかった。編集の井上勲自身が維新後を中心とした論考(Ⅳ)を書いているので、自由な編集方針だったのだろうが残念だ。

幕末明治の横顔を様々な角度から書いた論考集。


2023年3月28日火曜日

『後水尾天皇』熊倉 功夫 著

後水尾天皇の評伝。

後水尾天皇は、江戸幕府初期の天皇である。戦国時代よりは持ち直したとはいえ時の朝廷の権威は未だ弱く、徳川の支配を受けなくてはならなかった。この難しい時代において、幕府に翻弄されつつも天皇・朝廷の復興に力を尽くしたのが後水尾天皇である。彼は幕府に従いながらも、江戸とは違う中心として朝廷を文化面で盛り上げた。本書はその事績を辿るものである。

戦国時代、朝廷の権威は地に落ちていた。しかし信長・秀吉の時代には急速に高められる。権力者にとって下剋上は望ましいことではなかったので、天皇の権威を借りて秩序を固定化しようとしたからである。すでに戦乱の時代が終わり、現実に下剋上を成し遂げることが不可能になったとき、成り上がりに乗り遅れたものたちは下剋上を風俗化し、「かぶき者」として異風異体で異様な名前を名乗り、封建道徳に従わず町で名を売った。身分の低い牢人たちだけでなく、そのような者が若公家にもいた。

その一人に猪熊教利(のりとし)がいた。慶長14年(1609)、彼は仲間とともに後陽成天皇の寵愛を受ける官女と密通。朝廷は検断権がなかったので、幕府に処分を依頼。彼らは処分されたが、面目丸つぶれとなった後陽成天皇は公家衆はもちろん母親や皇后とも逢わなくなり、ひたすら譲位を願うようになった。

その以前、慶長3年(1598)に、すでに後陽成天皇は譲位を望んでいた。しかし皇位を継ぐべき一宮・二宮(長男・次男)はなぜか門跡寺院へと送られた。そして官女密通事件を受け、後陽成天皇の譲位希望が改めて幕府に伝えられたのである。しかし家康(とそのブレーン金地院崇伝)は譲位に際していろいろと注文を付けた。天皇は反発したが、朝廷は財政的にも幕府に依存しており家康のいうとおりにする以外はない。天皇は「ただなきになき候」と涙に暮れながら承諾。結果、慶長16年(1611)、遂に三宮・後水尾天皇が即位。このゴタゴタによって後陽成院と後水尾天皇は不和となり、それは終生解けることはなかった。

慶長18年(1613)には、新内裏が完成した。幕府はその実力を示威し、また朝廷を掣肘する意図を持って、厖大な費用をかけ比類なき内裏を造営した。さらに幕府は公家衆法度・勅許紫衣法度を制定。寺院人事は幕府の許可を要するようになり、公家の自由が制限された。

元和元年(1615)、家康は朝廷対策の仕上げとして禁中並公家諸法度を制定。禁裏に対して法制を発布したのは、武家政権として前代未聞のことであった。ここでは公家衆法度が天皇にまで適用されるとともに、武家官位と公家官位を分離し、朝廷の任官に幕府が介入しうる余地を作った。ただし公家については、その「家業(家々之学問)」が公的に認定され、一面でその権利が保護されたことは見逃せない。

そして、禁中並公家諸法度では、天皇のつとめは「諸芸能之事」と規定された。天皇は文化面の権威であるとされたのである。後に述べるように、後水尾天皇はこれを体現した。

ところで家康は、元和6年(1620)、後水尾天皇に二代将軍秀忠の娘和子(まさこ)を入内させた。後水尾天皇には、すでに女官との間に皇子賀茂宮・皇女梅宮という二人の子どもが誕生していたためこの結婚には難色を示した。彼は譲位してこの結婚を避けようとしたが、藤堂高虎が恫喝して公家衆が従い、やむを得ず受け入れた。入内の道具は厖大であり、幕府の力はここでも朝廷に見せつけられた。和子入内は、朝幕の親和を示すというよりは、朝幕の軋轢を生んだ。

その軋轢もようやく和らいだ頃、家光が三代将軍に就任。秀忠と家光は将軍宣下のために参内。その派手な行列と物量に公家は驚いた。また禁裏御領として1万石が寄進された。後水尾天皇はこれに応え、また旧儀復興の意図から和子を中宮とした。南北朝以来廃絶していた中宮の復活である。またこの行幸を記念して年号が「寛永」に改まった。

そして秀忠は後水尾天皇を二条城に招き、寛永3年(1626)、5日間にわたる二条城行幸が行われた。将軍の私第(邸)への行幸は、これ以後江戸時代を通じて行われなかった。将軍の権威が確立し、天皇の権威を借りる必要がなくなったからである。なおこの時の行幸では、天皇の膳具は全て黄金であり、小堀遠州が調整した風呂釜など茶道具も全て黄金であったという。未だ「かぶき者」的な絢爛さを世の中は残していた。

こうして融和的になっていた朝幕間は、寛永4年(1627)、「紫衣事件」がおこって再びギクシャクした。勅許紫衣法度によって寺院人事・紫衣勅許は事前に幕府の許可を得ることになっていたが、朝廷が幕府の許可を経ずに行っていたことが明らかになり、金地院崇伝らが起草した「上方諸宗出世法度」でその間の出世入院を無効とし、綸旨を破棄させたのである。

これは当然に各宗に大混乱をもたらし、また寺院では強硬派と従順派に分かれて争いが起こった。特に強硬派だった大徳寺の沢庵や妙心寺の僧らには配流など厳罰が処された。そして自らの発行した綸旨が無効だとされた天皇は面皮を欠くことになり、女一宮に譲位したいと幕府に申し入れた。後水尾天皇はまだ30代であった。

なお後水尾天皇はこの頃腫れ物で苦しんでおり、灸治を受けるために譲位を希望したという説もある(天皇在位中は体を傷つける灸治は受けられない)。

譲位の希望を受けて、幕府は難色を示し譲位引き延ばしを試みた。そして家光の乳母江戸の局を上洛して拝謁を要求。朝義復興が念願だった天皇としては、この無位無官の女性の参内は不快であった。そして幕府の容認は得られないと悟った天皇は、公家衆にも知らせずゲリラ的に儀式を行い、勝手に譲位してしまった。

そこまでして譲位したのは、「中宮和子以外の女官に生まれた皇子が、殺されたり、流産せしめられていた(p.117)」ことが背景にあると考えられている。後水尾天皇には18人の皇子と19人の皇女がいたが、この時期には不自然に和子以外からは子どもが生まれていないのである。幕府はなんとしても和子の血統で次の天皇を出したかったから、他の子どもを暗殺したのはありそうなことだ。しかし肝心の和子の生んだ皇子は生まれてすぐに死亡し、皇女しか残らなかった。

秀忠は突然の譲位に激怒したが、朝廷には表立って処分は下らなかった(武家伝奏の中院通村が更迭された程度)。こうして和子の生んだ皇女が女帝・明正天皇として即位した。奈良時代以来、約860年ぶりの女帝であった。そして、院の住居である仙洞御所と、和子改め東福門院の女院御所が造営され、後水尾院の真価が発揮される寛永時代が始まった。

ところで、朝幕関係のキーパーソンになったのが京都所司代である。京都所司代板倉勝重は人柄がよく思慮深く、家康のみならず後陽成天皇にも信頼されていた。対朝廷の幕府政策は実質的には京都所司代によって決定されており、京都所司代は一官僚ではなく、西日本の最高司令官であった。これを継いだのが息子の板倉重宗で、彼は和子入内や後水尾天皇の譲位という難しい問題を処理し、朝幕融和の時代を作りあげた。

重宗は後水尾院と協力して町方の儒者松永尺五を応援したり、本阿弥光悦に領地を与えたりするなど、文化の後援者となった。彼は京都の町衆を幕府の手中に取り込み、特に上層町衆には代官職を与えて幕府の御用商人化するなど、町衆、文化人、職人などをある意味では籠絡した。しかしそれは政治的な思惑ばかりでなく、例えば安楽庵策伝の『醒睡笑』は重宗が面白がったことがきっかけで公刊されたものであるなど、「板倉所司代一個人の判断で文化人が庇護され新しい創作に成功(p.144)」するような、見識のある文化の庇護者であった。

板倉所司代とならぶ寛永文化のサロンだったのが、鹿苑寺。住持鳳林承章は後水尾院の近縁で、公家、僧侶、絵師や医者、町人ら多くの人が鹿苑寺に集い詩文・芸能を楽しんだ。茶の湯も盛んで、千宗旦(利休の孫)、小堀遠州も招かれ鳳林和尚と親しく付き合っている。絵師の山本友我もサロンメンバーで、その子で漢学者の山本泰順は23歳で『洛陽名所集』を完成させているが、この高度な仕事が20代の若者によって成し遂げられた背景にはサロンでの交遊があった。

後水尾院自身も禁裏(天皇在位中)や仙洞でサロンを主宰していた。その最大の成果は立花(花生け)である。花は単なる飾りを超え、自立した鑑賞の対象、文化となった。後水尾院は自らも花を生け、立花をコンクール形式にして多くの人に生けさせた。殊に伝説的なのは「宮中大立花」というイベントだ。後には禁中には人が自由に出入りすることはできなくなるが、後水尾院のサロンは近世的身分秩序に捕らわれておらず、「宮中大立花」には出家・町人のみならず立花に優れていれば誰でも選ばれて参加できた。なお立花の採点者は後水尾院と、池坊専好。専好は院の意を受けて法橋に叙せられている。

女帝明正天皇はいわばショート・リリーフで、幕府としては東福門院に皇子の誕生を期していたが、結局皇子が生まれなかったため、東福門院以外の女性が生んだ子が次の天皇となった。それが後光明天皇である(東福門院の養子。なお後西天皇、霊元天皇も東福門院の養子)。後光明天皇の即位の儀式は、幕府の意向で非公表で行われた。幕府は身分制を貫徹するため、禁中に誰でも入れることをよしとしなかった。鳳林和尚はこの措置に憤慨している。

後光明天皇は和歌はあまり詠まなかった代わりに朱子学に傾倒し、『藤原惺窩文集』に序文を贈ったり、町の儒者朝山意林庵を禁中に招いて儒書を講義させたりした。この頃までは、在野の学問と禁中の学問が交流していた。後水尾院は才気溢れる後光明天皇に期待し、禁中の有職(しきたり)を書き記した『当時年中行事』を後光明天皇に与えている。これは後醍醐天皇の『建武年中行事』を引き継ぎ、朝廷の儀礼を復興させるための書であった。しかし後光明天皇は22歳の若さで急死してしまう。

ところで、後水尾院は大量に著述した。著述の量でいえば天皇としては空前絶後だ。内容は有職研究、和歌・物語の注釈、歌集といったものが中心である。禁中並公家諸法度では天皇の務めは「諸芸能之事。第一御学問也」とされていたが、この学問に後水尾天皇は命をかけていた。数多くの年中行事をこなしながら、古書を見、自ら著述するだけでなく、早くも元和7年(1621)には勅版『皇朝類典』を編纂させている。 

また後水尾院は儒学にも明るく、社家出身の赤塚芸庵(うんあん)を出仕させていた。 彼は約55年間に渡って院に近侍した最も院に近い人物で、かなり反幕的であった。芸庵は朱子学的名分論から天皇が君で将軍は臣と考えていた。後水尾院の儒学の背景にはそういう思想があった。

後水尾院が異常なほど力を入れたのは和歌の道である。「和歌の道を王朝の盛時にもどすこと、それが後水尾院の最大の関心事であった(p.209)」。後水尾院は、天皇・上皇の地位にありながら幕府の頤使(いし)を甘んじて受けなければならない自らの無力さを歌に託し、あるいは求道の思いを込め、逆に幕府を賞讃するにも歌を以てした。院にとって歌は内面を表現する道具であるよりも、歌を通じ王朝の復興を実現しようとしたと言える。その表現は自由自在であり、クロスワードのような歌まで作っている(東照宮三十三回忌にあたってつくった「蜘蛛出」)。

やがて仏道に惹かれていった院は、慶安4年(1651)、何の前触れもなく突然落飾した。以前から入道の希望がありながら、家光の反対で実現しなかったという事情があり、その前月に家光が歿したことから行われたものと見られる。

後水尾院が仏道に惹かれる契機となったのは、禅僧一糸文守(いっし・ぶんしゅ)との出会いである。院は一糸から文通によって教えを受け傾倒。また一糸は院の娘梅宮と深い関係にあったから、一糸は梅宮(文智尼)を院を結ぶ紐帯でもあった。一糸は正保3年(1646)に39歳の若さで死んだが、その30年後には「仏頂国師」の号を贈っている。一糸没後も院の禅への傾倒は沢庵、龍渓性潜を通じ、黄檗宗へと進んだ。

後水尾院の晩年の大プロジェクトに修学院の造営がある。後光明天皇没後の後水尾院は、所司代に自由に御幸できるよう切々と訴えて認められ、洛北の地をたびたび訪れた。そこには山荘を造営したいという企図があった。文智女王の円照寺が修学院の地に創建されたのも、その伏線として位置づけられる。修学院の山荘は、当初は隣雲亭という茶屋一宇に過ぎなかったが、院は壮大な構想を持っており、それが順次実行に移された。そして鳳林和尚らの協力の下、長期間かかって遂に独創的かつ大規模な山荘、修学院離宮が完成。

修学院離宮は上中下、3つの茶屋が小径によって結ばれる類例を見ない構成で、上の茶屋は浴竜池という人口の大池を持っているが、この池は地盤から15メートル近く盛り土して造成されたものである。これだけでも修学院離宮がどれだけの労力を使って造営されたものか窺える。ちなみに、院にはここに門跡寺院を建立する計画があったが、それは実現しなかった。

修学院離宮は、決して後水尾院の秘密の山荘ではなかった。それどころか庶民の田畑とも交錯していたし、様々な人が離宮を訪れた。さながら今の団体見学のようなことまで行われていた。公家・町人社会が隔絶していない、寛永文化の名残があったのだ。そして修学院は新たな文化の揺籃地にもなった。離宮では茶の湯が盛んに行われ、「修学院焼」という焼き物が修学院で生みだされた。

修学院を訪れる後水尾院は、必ずと言っていいほど東福門院を伴った。二人は政略結婚であったが、晩年は円満だった。東福門院は幕府から後援されていたからお金があり、大量の衣装を派手に注文していた。それは武家風として反発されたが、羨望されもした。そしてその財力は衣装だけでなく、寺社に対する数多くの寄進、寺院の創建などにも使われたから、東福門院は寺社の庇護者として重要な役割を果たした。そして37人にものぼる後水尾院の子どもたちのよき母親であり、彼ら彼女らを自らの養子として経済的にバックアップした。梅宮こと文智女王もその篤い後援を受けた一人である。

こうして延宝8年(1680)、後水尾院は85歳で天寿を全うし、静かに亡くなった。

なお、後水尾院の十男に天台座主の「獅子吼院」こと妙法院堯恕法親王がいる。この人は俊敏熾烈なところのある人であったが、画才があった。今に残る後水尾院の肖像画の顔は、堯恕法親王が描いたものである(体は狩野探幽)。

全体として本書が強調するのは、「寛永文化」である。著者の強調以前には、寛永期の文化は過渡期的なものと扱われて、例えば「元禄文化」のような独立した価値を与えられていなかった。しかし著者は寛永文化を、朝幕の融和を基調とし、京都所司代を軸として公家・武士・町民が近世的身分秩序に囚われず交流して生みだした文化と表徴した。そしてその文化の後援者であったのが後水尾院であった。

後水尾院は、天皇時代は朝幕の軋轢に苦しめられた。しかし譲位後は比較的自由になり、自身も和歌や著述を中心に創造性を発揮し、また修学院離宮という寛永文化の到達点を作りあげた。本書はそうした後水尾院の生涯を描き、その価値を浮かび上がらせている。

しかし、やや不足に感じたのは、東福門院についてである。後水尾院は昭和天皇・平成天皇(存命中の上皇陛下)に次ぐ長寿であったが、東福門院も延宝6年(1678)まで生きており、人生を共にしている。東福門院の活動は後水尾院の活動と補足的な関係になっているように見受けられ、そこをもう少し知りたいと思った。本書に描かれる東福門院は概略的である。

後水尾天皇と寛永文化の価値を詳述した名著。

 

【関連書籍の読書メモ】
『徳川家の夫人たち(人物日本の女性史 8)』円地 文子 監修
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/01/blog-post_6.html
徳川家の女性たちを描く本。水江漣子による東福門院和子の評伝がある。

『信仰と愛と死と(人物日本の女性史 7)』円地 文子 監修
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/01/blog-post_2.html
信仰に生きた女性を江戸時代中心に述べる本。安田富美子による文智尼の評伝がある。 


2023年3月25日土曜日

『将軍の生活』石井 良助 著

江戸時代の将軍と法令、行政などについての読み物。

著者の石井良助は法制史の泰斗。本シリーズは「時の法令」に連載したものを「江戸時代漫筆」「続江戸時代漫筆」などとして刊行されたものの復刊で、その最終刊にあたる(連載時期は昭和38〜40年)。

主な内容は、江戸時代の朝廷、朝幕の関係、将軍の生活、大奥と御台所、幕府の財政の変遷、天保の改革、公事方御定書、人別帳、村のこと、などとなっている。分量としては公事方御定書と人別帳が多い。

本書は一つのテーマでまとめられたものでなく、エッセイ風にいろいろな話題が出てくるので、以下気になったもののみメモする。

【江戸時代の宮廷】

  • 朝廷の石高はおよそ10万石だったが、天皇の日常費である3万21石6斗を差し引き、1万3000石を上野の輪王寺宮で取り、残りを宮家、五摂家、その他の朝臣に分配した。輪王寺宮の存在が意外である。
  • 摂家の中で一番家領が多いのが近衛家で2860余石。それでも生活に不足するので、子女を寺院に入れた。摂家の子女が入寺すると(摂家門跡)、年に50石なり100石なり摂家に相応の御手伝い(上納金)があった。 
  • 公家にはいろいろな家職があった。例えば久我家は盲人に官位を与えた。小森家は日本国中の医師の取り締まりで多額の収入があった。
  • 医師は「法体では御門を入れないので、付髷をして、冠を頂き、法橋なら六位の袍、法眼なら五位の袍をつけて天脈拝診に上が(p.28)」った。法体では御門を入れないという規制が不思議である。例えば正月には、7日間の「御修法(みしほ)」として、紫宸殿を仏壇として真言宗の僧侶によって玉体安穏の法事が行われたのだが、これはどうやっていたのか。
  • 五摂家から天皇にはいろいろなものを献上するが、献上したものはそっくりそのまま朝廷から返された。

 【将軍の生活】

  • 将軍が死去した際、御三家や譜代大名、諸番頭らは21日間、 外様大名は14日間、月代を剃ることが禁止された(喪に服すため)。意外である。
  • 幕府は殉死を禁止し、寛文年間に行われた宇都宮藩家臣の殉死では遺族に厳罰を処した。以後、殉死に変わって「薙髪」(頭髪の結び目から切ること)が行われるようになった。
  • 高級幕臣人事の発表は将軍自身の口から発表され、将軍は書付を見ずに申し渡した。
  • 毎月17日に行われた東照宮遺訓拝聴という儀式では、将軍は(家臣が読み上げる)遺訓を恭しく拝聴した。これを読む役人は尻込みしたという。
  • 林羅山の孫、林鳳岡は元禄4年(1691)に将軍綱吉の命によって束髪にした。それまで儒者は法体だったのが、このときから俗体になった
  • 将軍吉宗が紀州から連れてきたものの子孫が務めた「御庭番」は、スパイ活動をして民情を探った。

 【幕政】

  • 幕府は全般的に予算制度を設けたことはなかった。財政の計算をしていなかったのではないが、そのお金の使い方は今の会計学から見るととてもわかりにくいものだった。
  • 吉宗は、参勤交代による大名の江戸在府がそれまで1年であったのを半年にする代わり、高1万石につき百石ずつの米を幕府に収めさせる制度にしたことがある(享保7〜16年のみ)。

【公事方御定書】

  • 江戸時代前半には体系的な法典はなく、裁判は判例主義で行われた。そのため先例が重要となり、労帳の記録を分類編集した「御仕置裁許帳」が綱吉の頃に作られた。その一部を条文の形にしたのが「元禄御法式」。
  • 吉宗は法律好きで、評定所一座に犯罪と刑罰の分類を作成させた。これが「享保度法律類寄」であるが、これは当時行われている法を記したものであった。こうして法典編纂の機運が高まった。
  • 吉宗は評定所一座に「公事方御定書」の編纂を命じ、寛保2年(1741)に81通の法令を収めた上巻、刑罰を定めた下巻が完成。しかしこれは秘密法典だった。その下巻は三奉行(寺社・町・勘定奉行)以外には見ることを禁じていたからだ。犯罪と刑罰の組み合わせを秘密にしたのは、刑罰の威嚇的効果を狙ったと考えられている。
  • 御定書は秘密法典といっても、徐々にその内容を筆写するものが現れ、実際上秘密でなくなっていった。誤りの多い写本が流布して不都合があったので、天保12年(1841)に公刊されたのが『棠蔭秘鑑』である。
  • 「公事方御定書」は完成直後から改訂作業が行われた。それを担当したのが大岡越前守である。
  • 御定書編纂における立法者の意図を知るための資料集(コンメンタール)である『科条類典』は明和4年(1767)に完成。ただしこれも奉行だけが見られる秘密資料であった。『科条類典』の各条に、類例、裁許例、比例を加えたものが『徳川禁令考後集』である。

 【人別帳】

  • 天和3年(1683)に、人別帳によって町内の住人を改めて毎年町年寄方へ届け出すべしとされており、その目的は町内に「徒(いたずら)者」を置かないためだった。しかし江戸時代前半における人別帳の詳細は不明である。
  • 「徒者」とは、例えば借家人が家主に断らないで同居人を置き、人別帳には「出居衆(商売をするために江戸に出てきたもの)」としながら、商売もせずにフラフラしているような者である。
  • 人別帳は次のように作成する。(1)家主(家守)が、自分の差配する一筆ごとにそこの住民を書き上げ、各人に実印を押させ、毎年4月25日までに名主に提出する。なお女は通常実印を持っていないので印は押さない。(2)転入・転出は毎月調べて書き出し、翌月1日に名主に差し出す。これを4月〜翌3月分までまとめたのが「出人別帳」「入人別帳」。
  • 天保14年(1843)に、天保の改革の一環として人別改令が出された。これは農民の江戸への流入を規制するもの。その要点は次の通り。
    • 【町方】 (1)在方から新たに江戸の人別に加わることを厳重に禁止、(2)特別に必要のある者や職人、奉公の場合は、手続きに従って免許状などを取得すること(ビザ制度)、(3)町方の者が出家したり、神道家や陰陽師などになる場合は町役人から町奉行所へ申し出ること、(4)人別帳の作成手順の定め、その他転居や一時滞在の手続きなど。
    • 【在方】基本的には【町方】と同様だが、百姓が廻国修業や六十六部巡礼などに出る場合は、これまでは村役人または菩提寺から往来手形をもらえばよかったのが、村役人から代官、領主、地頭に願い出て、出稼者の振合で許状を受けるようにした。
    • 【大名・旗本】上記に対応したもの。出家を願い出たものは十分に吟味して許可を出すようにとしている。 
  • 本書には、このようにして決まった「人別帳」「仮人別帳」(一時滞在者用)の様式が掲載されている。

【江戸時代の村】

  • 年貢は村を単位に課税された。個人や一筆ごとの土地に課税されたのではないが、課税される土地は決まっており、検地によって「高」(玄米に換算された標準生産高)を付せられた土地を持っている者が「高持百姓」。村役人になるのは彼らの特権だった。
  • 田畑屋敷への課税を本途物成という。山・原野・池沼などにも若干の租税が課せられることがあり、それを小物成という。
  • 江戸時代前期には中地主が主体で小作人は少なかったが、後期になると少数の大地主と小作人とで形成されるようになった。 
  • 村には自治の機関である村役人(名主、組頭、百姓代)=村方三役があり、村寄合という総村民の集会があった。なお村は村民と独立した法人ではなく、村の財産は村民の財産であり、村の訴訟は村民の訴訟であった。村は村民の集合体と考えられていた。なお、明治以降になると村は法人となっていった。
  • 町方でも公役を負担したり、後にそれが銀納になったり、営業税にあたる冥加・運上などの租税負担があった。

本書は全体として、近世の行政システムを様々な面から述べるものとなっている。その構成は体系的なものではないので、本書を読めばこれがわかるというものではないが、専門的なテーマにしては語り口が柔らかく読みやすい。

個人的な興味としては人別帳と宗教関係のこと(例えば人別帳の作成に菩提寺はどう関与したか)を知りたかったが、意外と宗教関係についてはあっさりとした記述でよくわからなかった。

江戸時代の行政システムに関する専門的なのに気軽な読み物。

 

2023年3月21日火曜日

『葬式と檀家』圭室 文雄 著

檀家制度がいかにして生まれ、それが何をもたらしたか述べる本。

日本人の多くが仏教的葬儀を行うようになったのは300〜350年前くらいからにすぎない。では何をきっかけに仏教的葬儀が行われるようになったのか。

その大きな契機となったのがキリシタン対策であった。慶長18年(1613)、幕府は伴天連追放令を出し、キリシタンを厳重に調査・改宗させるよう全国に迫った。本書ではこれに対する事例として小倉藩の動きが紹介されている。小倉藩の細川忠興・忠利親子はかつてはキリシタン布教に極めて好意的であったが、伴天連追放令以降は弾圧に乗り出した。小倉藩では慶長19年に「宗門改め(切支丹改め)」を行い、キリシタンが発覚した場合は改宗させ、改宗した証拠に「転び証文(転切支丹改請文(ころびきりしたんあらためうけぶみ))」を出させた。これは本人だけでなく、村民(保証人)、村役人、檀那寺にも責任を持たせた文書で、これが寺請証文の原点である。

寺請証文は、キリスト教徒の摘発と、それを改宗させた証拠として作成される文書であったが、これが10〜20年後の寛永年間(1623〜43)になると日本人全員に作成されるものとなる。これは全国一斉につくられるようになったのではなく地域差があり、本書では早い時期に作成が進んだ京都の例が紹介される。京都では、キリシタン以外の庶民に対して寺請証文が作成された初見は寛永12年(1635)である(幕府が天領で寺請証文の提出を命じたのも寛永12年)。なぜキリシタン以外の住民にも寺請証文をつくらせたのかというと、キリシタンの根絶が目的であった。

なお寺請証文の作成にあたり、勧進など遍歴する宗教者を警戒するよう領主が命じているのが気になった。例えば熊本藩では、諸勧進僧・虚無僧・簓摺・乞食・病者等が村の外から入ってきた場合は「念を入れてあい改め書類を作成すべし」、としている。

寛永14年(1637)には、島原の乱が起こる。これは領主の苛烈な農民支配への反抗が理由であったが、その首謀者はキリシタンが中心となっており、各地で代官だけでなく僧侶を殺し寺院を焼き払うなど、既存宗教への攻撃が行われた。島原の乱の戦後処理では幕府は乱に参加したものだけでなく、領主にも非常に厳しい処罰を行った。

そして島原の乱を契機として、「寺請制度をいちだんと強化するとともに、人心の完全な把握のため、宗門人別帳(戸籍)の村ごとの作成、さらには五人組組織の形成にともなう五人組帳の作成など、村落内部においてきめ細かく民衆の把握につとめることを目指した(p.60)」。これにあわせて高額な報奨金をともなうキリシタン密告の制度も設けている(後述)。

寛文15年(1638)、幕府はまず天領に案文を明示し、日本人全員がそれにならって寺請証文を作成するよう命じた。これはキリシタンであるという疑いがかけられた場合、菩提寺(葬式をする寺)の住職が申し開きをしなくてはならないということを意味する。しかしその時点で、日本人全員に菩提寺が定まっていたわけでもなく、また日本人全員を受け入れられる寺があったわけでもなかった。このため僧侶を定住させたり、季節的に使っていた堂宇を寺に昇格させるなど、寺を急いでつくる動きが見られた。

また寺側としても、戸籍調査が住職の手に委ねられたことによって、「幕府の権威を背景に檀家制度を形成させていく絶好の機会(p.65)」が訪れた。

ところでそれから時代を少し遡った元和元年(1615)、幕府は「寺院法度」を出して仏教教団の統制を行っている。これには各宗を本山を頂点とする組織化の原理が組み込まれており、各宗本山は末寺の把握に努めた。さらに寛永8年(1631)には新寺建立禁止令を出している。そして寛永9〜10年に「寺院本末帳」を提出させ、教団の固定化を図った。この帳面に登載されていることが寺請寺院になるための条件であった。

大本山の大僧正は将軍が任命、将軍の推薦により紫衣と勅賜号が贈られるなど幕府は本山の権威を認めるとともに、江戸等に本山直轄の「触頭寺院」を置かせて幕府との窓口寺院を定め教団を幕府の支配機構に組み込んだ。すなわち、仏教教団は幕府の統治機構の一翼を担う代わりに統制も受けた。そして、この仕組みに最も適合的で、教線を拡大させたのが一向宗である。

その理由として、一向宗では妻帯が許されて血縁によって財産が相続されていったことが挙げられているが、 葬祭に特化した教義にもその一因を見ることができよう(臨済宗妙心寺派・曹洞宗も葬祭を軸としていたので発展した)。その理由はともかく、一向宗が慶長6年〜元禄13年(1601〜1700)の50年間に教団を急拡大させたのは事実である。

では、そういった情勢の中で地方寺院はどのような状態に置かれていたか。本書では熊本城下の一向宗(西本願寺系)寺院の様子が描かれている。地方寺院は、本山に「寺」として認められ(紙寺号:末寺名を付けてもらう)、「木仏」を下付され、また「親鸞絵像」や「蓮如絵像」などを本山から下付される必要があった。もちろんこうしたものは無料でもらったのではなく、かなり高額の謝礼をともなっていた。しかし寺請寺として認められなければ寺の存立意味が薄まるため、檀家から金を集めて本山に上納したのである。これを本山から見れば、寺請制度を背景にして、金を集めるビジネスをしていたということになる。

事実「江戸時代を通じて東・西本願寺には多くの絵師・書家・彫刻家が寄生していた(p.90)」が、その背景には「絵伝・木仏・歴代上人絵像などを注文生産していた(同)」ことがある。末寺からの注文に応じて製造する仕組みができあがっていたのだ。

なお東本願寺では西本願寺よりもさらに収奪が甚だしかった。東本願寺では多くのアイテム(モノだけでなく、寺格や僧侶の継ぎ目(相続)にともなうものも含む)を用意し、それを末寺に競わせるような形で集めさせた。寺院経営が檀家の信仰心を置き去りにしたものであったことは明らかである。

一方、幕府の「寺院法度」などの仏教統制策を受け、寛文年間に廃仏毀釈を行った大名が3人いた。岡山藩主池田光政、会津藩主保科正之、水戸藩主徳川光圀である。本書ではこのうち最も徹底した政策を実施した岡山藩について紹介している。そこで注目されるのが、池田光政は藩内の半数以上の寺院を整理するとともに、寺請ではなく「神道請」を強力に推進したことである(領民の98%が神道請になった)。しかし葬式が神道式になったのではなく、儒葬祭だったのも同様に注目したい。彼は神社の合祀を進めるなど神社整理も強行した。

では、池田光政が廃仏政策を行ったのはなぜか。それは、大飢饉で領民が苦しんでいる中でも僧侶たちが華美な生活を続け、農民を苦しめ、藩政に協力しなかったからであった。光政は強引に仏教から神道へ改宗させたのでもない。むしろ彼の政策は合理主義に基づくもので、葬式の簡素化を認めるなど、いわば「無駄を省く」理念によって行われた。光政は、僧侶は堕落し、寺院は領民からの支持を失っていたという。光政によれば「出家は役に立たず、地獄・極楽などわけもないことをいう」のだ。

そして光政のもう一つのターゲットが、日蓮宗不施不受派への弾圧であった。備前国周辺は不施不受派の一大拠点だったのである。

しかしもちろんこの動きに仏教各派は反発し、特に天台宗寺院が寛永寺に上訴して輪王寺宮を動かしたことを光政は窮地に陥れた。光政の廃仏政策は挫折し、貞享4年(1687)には寺請制度に戻った。

では、岡山藩では肝心のキリシタン対策はどうであったか。幕府は寛永17年(1640)に宗門改役を置き、キリシタン弾圧の総司令部的な役割を果たしたが、この指導の下で岡山藩でもキリシタン弾圧が行われた。特にその手段となったのが密告制度である。一度密告されると、キリシタンから改宗したといっても、キリスト教を信仰した証拠がなくても拷問され、摘発された人は牢死するか、長い間獄舎に閉じ込められた。寺の住職が身分保障しなければ、人はいつでもそういう境遇に落ちたのである。

しかしそうした厳しい弾圧によっても、信仰を捨てない人がいた。そこで幕府は貞享4年、キリシタン本人のみならず、親類・縁者を「類族」として戸籍(切支丹類族戸籍)を別に作成するという政策を打ち出した。類族は継続的な監視の対象となり、しかも死んでも一般の墓に葬られることはなく、墓石を作り戒名が彫り込まれること自体が無かったようである。そして類族は文字通りネズミ算式に増えるので、かなり大量の人が類族扱いされて差別を受けた。

そしてこの「切支丹類族戸籍」は、元禄元年(1688)に全国の大名が提出してから、キリシタンとして摘発される人がいなくなった後も、明治4年の壬申戸籍によって廃止されるまで基本台帳として活用された。

他方、普通の戸籍である「宗門人別帳」の方はどうであったかというと、こちらは「切支丹類族戸籍」より50年前の寛永15年(1638)に寺請証文が日本人全員に義務づけられた時に、これを村・町単位でまとめて台帳にしたことで始まった。全国的に帳面が仕立てられたのが万治3年(1660)〜寛文9年(1669)、幕府がその書式を統一したのが寛文11年(1671)であった。なお、この間の寛文4年(1664)に全国の大名に対して「宗門改役(宗門奉行・寺社奉行などとも)」の設置を命じている。 

「宗門人別帳」は幕府で全て集めるのではなく、幕府へは村単位の一紙手形(総数を記したもの)だけが提出された。これは戸籍であるから調査は一軒単位であり、形式的には毎年作成された(朱書きで修正するなどもあった)。またこれは寺院が作ったのではなくて村役人が作った。寺院は「宗門人別帳」に対応する寺請証文を作成し、その寺請証文をまとめて村役人に提出した。よって寺院によって檀家として認められなければ戸籍に掲載されなかったというわけである。

この体制の中では、寺の方に問題があって離壇しようとしても、ほとんど不可能であった。本書には、住職の不義密通を理由に檀家が離壇しようとした件や、熊本藩の宗門奉行が曹洞宗から日蓮宗へ転宗しようとした件が紹介されているが、どちらのケースでも離壇は認められなかった(後者では認められなかっただけでなく、役儀を取り上げられ蟄居も命ぜられた)。幕法では離壇が禁止されていたのではないが、菩提寺の反発によって離壇が不可能だったのである。それだけ菩提寺が力を持っていたということだ。

ちなみに寺請制度を鞏固なものにするために寺院側で偽作されたのが「宗門檀那請合之掟」である(『徳川禁令考』にも所収された巧妙な偽法)。そこでは、檀那寺の言うことを聞かない檀家の身分は寺の一存で落とす(宗門人別改帳に載せない)ことができるとされている。「檀家は寺の要求する檀那役をよろこんで負担し、仏恩の報謝のため僧侶には多額の不施をし、死去したときはすべて僧侶の言分通りに事を運ぶ(p.188)」のが義務だった。寺は強大な宗判権を背景に檀家から収奪したのである。

一方で、金次第で院号や道号、立派な戒名を付けてもらえるようになると、生前の身分を超えて高い位階の戒名が濫発されるようになった。幕府はこれを問題視し、天保2年(1831)には、百姓・町人に院号・居士号を禁止し、墓塔も台石を含めて4尺までに規制している。宗教が金次第になったことは一面では堕落であるが、それによって既存の秩序をはみ出す庶民が生まれていることは興味深い。

本書は全体として、いわゆる「近世仏教堕落史観」に立って記述され、現今の「寺離れ」もやむなしとする論調である。しかしながら、本書に提出された事例は限られたもので、やや一斑を見て全豹を卜すきらいがないとはいえない。例えば離壇はほぼ不可能だったされているが、結構簡単に転宗している藩もある。また「宗門人別改帳」も、全国統一書式は一応示されていたが、帳面自体を提出したのではないからその作成作業における檀那寺の関与も諸藩で違ったらしい。封建体制はよくも悪くも分権の体制であるから実態は複雑であり、本書は少し単純化しているように感じた。

また、江戸時代は庶民がお墓を建てられるようになった時代である。「墓を建てさせられる」「葬儀をやらされる」という(現代と似た)面もあったかもしれないが、墓については葬祭と違って義務づけられたものではなく、本人や遺族の希望によって建立されていたと見られる。にも関わらず江戸時代には前時代と比べて圧倒的に多くの墓が残されている。これは、庶民が仏教式に葬られ、供養されることを望んでいた証拠と見なさざるを得ない。檀那寺は一方的に檀家を収奪していたのではなく、やはり庶民の側も仏教を欲していたのである。

そうした部分、つまり民衆が檀家制度の中でどのような宗教生活を送ったのかは、本書では例外的な事例(離壇しようとしたなど)を除いて述べられていない。圧倒的多数の普通の人々が、寺請制度の中でどのように信仰していたか、そこが本書ではよくわからない点である。

ただし、そうした不足は、現在の檀家制度の淵源を要領よく記述した本書の価値を減じるものではない。本書はあくまで制度史の枠組みで記述されたものだということだ。

近世の檀家制度成立をわかりやすくまとめた良書。

【関連書籍の読書メモ】
『江戸幕府の宗教統制(日本人の行動と思想 16)』圭室 文雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/05/16.html
江戸時代の仏教への統制についてはこちらがよりまとまっていて、詳細でもある。内容は重なっている点も多いが、キリシタン対策については『葬式と檀家』が詳しい。