2022年9月13日火曜日

『明治維新と宗教』羽賀 祥二 著(その1)

明治政府が宗教をどう扱い、それがどう変わっていったかを述べる本。

本書はかなり浩瀚な本である。約650ページあり、全11章で展開される論考は明治政府の宗教政策を考える上でのほとんど全ての論点が提出されていると言っても過言ではない(ただし神仏分離・廃仏毀釈を除く。これは安丸良夫の研究に追加すべき点がなかったということだろう)。私は、この分野については比較的よく読書してきた方であるが、このような総合的な研究はもっと早い時期に読んでおきたかったと思ったくらいである。

そして本書の特色は、多くの章で先行研究の整理が丁寧になされることである。特に「序章」「I 明治神祇官制と国家祭祀」については、この分野での研究史の総括がなされている観がある。であるからして、当該分野にあまり詳しくない人が本書を読んだ場合、通読はかえって困難かもしれない。逆にある程度学んできた人が、その知見を深めるとともに、統合して体系化するのには非常に役立つだろう。

しかし私自身、今読書メモを書こうとしているその時にも、まだその全体像を咀嚼できていない。というのは、本書を構成する章は元は独立した論文であり(3つ書き下ろしの章がある)、全体として一つのことを論証しようというよりは、明治維新と宗教の関係を多角的に検証するものだからである。

とはいえそれらはバラバラなものではない。著者によれば、本書は(1)明治維新後の宗教制度の再編成の特徴、(2)国民教化に現れた思想と方法のあり方、(3)日本近代の国家と密着した宗教制度である「神道」の特質を解明すること、の3つを課題として編まれたという(序章)。以下、その観点を念頭に置いて内容をメモしていく。

「序章」では、上述の点も含め、本書の問題意識と内容が概観される。この中で、明治国家における宗教的な課題として、神殿と礼楽論を挙げているところが興味深い。この2つは、いかにして国家の功臣や神を祀るかという形式の問題であると言える。神殿については事実いろいろなすったもんだがあったのだが、礼楽論については議論が活発であったとはいえない。しかしこれは後に(新しい)神道儀礼として結実していくのである。また序章では国家神道研究の視座が反省され、研究史の総括がなされる。国家神道の研究の嚆矢となったのは村上重良であったが、村上の研究には戦中と明治期の国家神道を連続したものとして捉えたきらいがあった。それを修正しより精密に明らかにしたのが安丸良夫や宮地正人の研究だ。また森岡清美は戸籍と宗教の関係に注目し、身分制の解体と宗教の関係について問題提起した。著者は神官と僧侶の身分を解体したのは教導職制であったと位置づけている。

I 明治神祇官制と国家祭祀

「第1章 神祇官制の出発と神祇・皇霊の祭祀」では明治政府の当初の宗教政策が概観される。政府は神祇官を復興させたが、その際に中心的な役割を果たしたのは津和野藩の亀井茲監・福羽美静であり、公家では中山忠能であった。中山は王政復古後「法親王の還俗、坊官の廃止・その諸大夫への取り立て、社人の非蔵人兼勤の停止など」にまず着手すべきと意見しているが、これは興味深い。また職制にも復古を求めたのが中山である。五カ条誓文の成立にあたっても、中山の影響が大きかったと考えられる。

神祇官は当初は伝統的な神道家である白川家・吉田家を包摂するものであったし、神祇官の職務に「神道伝授」はなく、両家の領分を侵すものではなかった。しかし神祇官の推進する神祇道は、両家による神道支配を否定するものに進展していった。また神祇官の全国支配のため府藩県には神祇曹を設置する構想があったが、実現には至らなかった。

「王政復古大号令、五カ条誓文、神祇官再興、万機親祭の詔書、孝明三年祭、祈年祭再興、国是確立の奉告という(中略)諸政策の中に、復古神道家は神武創業・祭政一致の理念を反映させ、成立したばかりの維新政府に確実にその地位を固めて、維新政府を支えた(p.99)」。しかしながら現実としては、当時の祭政一致は、政治に神を祀ることが含まれているのであって、政治が神の権威を背景にして行われるというのではなかった(津田左右吉)。復古神道の思想は、神の権威よりもむしろ封建的な価値観に支えられ、祖先祭祀や敬神を「忠孝」と位置づけた。そして地方統治も律令格式に準拠して藩への強い規制を行う制度を構想した。しかしそれは廃藩置県を目指すよりは、既存の体制を維持することを念頭に置いていた。「敬神と不可分な形での儒教徳目の実践、および各自に即した朝廷への忠勤の意識構造が、何ら旧来の身分的階層序列を解体する方向に働かないことは明らかであろう(p.111)」。

「第2章 神祇官制の展開」では、神祇官制が廃止されるまでの動向が述べられる。明治2年、官制改革により神祇官は太政官から特立した独立部局となった。この改革では門地主義が否定され、政権の中枢から公家が減少したが、以前には亀井・福羽の要望により排除されていた白川資訓が神祇大副に就任したのは注目される。なお神祇官は「宣教」と「諸陵」などを所掌していたが、諸陵については穢れの問題から追って分離され「諸陵寮」が置かれた。

神祇官は神殿を設け、「八神」(皇室が中世まで、近世では吉田家・白川家が祀った神々)と「天神地祇」「歴代皇霊」を祀った。 そして明治3年1月3日に初めて「神殿祭」が行われるとともに、同日「大教宣布の詔」が出されるのである。この神殿祭祀は皇室祭祀とは断絶して構想されたものである。仏教系・陰陽道系の日待・星祭・諸祈祷は廃止させられ、純粋な神道による祭祀が創始された。一方、皇室では「賢所(かしこどころ)」で私的に祭祀が営まれており、これは主に女官にゆだねられていた。国家の祭祀は二元的な様相を呈していたのである。

明治2年には神祇官は全国統一の神社調査を命じている。これは一向に進まなかったため、とりあえず「官幣神社」など大社から進められたが限定的なものだった。ところが明治3年8月、神祇大祐門脇重綾の提起により本格的な調査に乗り出す。「この神社調査は神祇官神殿のもとで、全神社を位階的に編成し、神殿祭祀の統一的な実現、神職身分の再編成を図ることを目的としていた(p.152)」。これも多くの府藩県では早急に調査を行うことはできなかったが、神仏分離を進める中で、国家祭祀を統一的に実施する政策が実行に移される。明治4年5月の布告では、神社は「国家の祭祀にて一人一家の私有すべきに非ず」とされて、根本的な制度的改正を受けたのである。それは、(1)神職への叙爵停止、(2)神職の統一戸籍への編成、地方貫属化、(3)社格の設定、(4)社格相応の神職職員の規定、(5)神職補任の規定、(6)神社財政の規定などであった。要するに、神社を府藩県の管理下におき、身分としての「神官」を廃止して、神職を官吏化するものである。 

こうした大きな改正が行われる一方で、中央集権国家体制の確立に向けた行政改革が行われる。政府官員の削減が行われ、神祇官は小祐以上の官員がほぼ半減している。この趨勢の中、反開化を掲げた平田派は神祇官から排除された。そして未だ神祇官制にこだわる勢力はあったが、そうした勢力に配慮しながらもその後の体制が江藤新平を中心に検討され、神祇省に格下げすることに落着した。しかし福羽は「かへりて斯道は盛になるべき(p.163)」と考えた。それは、神祇官制では、神祇官が祭において天皇を補弼するに過ぎなかったが、天皇が直接国家祭祀を行う体制(天皇親祭体制)の方が適切だと考えていたからである。

「第3章 成立期近代天皇制の国家祭祀」では、やや時間を遡って天皇親祭体制の創出過程を述べている。その画期となったのは明治4年7月の廃藩置県である。これにより維新官僚たちは天皇の権威を確立し、中央集権国家の建設へと舵を切った。当然、神祇政策もその影響を受けざるを得ない。しかも国学者・神道家の思想的狭隘さが祭祀への不信にも繋がっていた。しかし政府は天皇を文明開化的な啓蒙君主としてではなく、むしろ現人神的な存在としてしつらえていく。維新直後の人々にあった「公議論」を後退させたため、国家の求心力として「祭政一致」の権威を代わりに据えようとしたのだ。

そのためには、天皇を束縛してきた仏教的な諸制度を廃止する必要もあった。天皇以上に仏教が権威を持っている、ということになると都合が悪かった。従来、神祇官は寺院・仏教を管轄外として皇室と仏教・寺院の伝統的関係に介入しない方向だったが、明治4年5月から10月にかけて皇室と仏教・寺院との分離作業が矢継ぎ早に行われた。主なものは以下の通りである。

5月 御黒戸の廃止
6月 門跡号、比丘尼御所の廃止、寺院執奏の廃止、撫物の廃止
7月 僧侶任官、僧職継承の献上物廃止
9月 歴代皇霊の宮中への遷座、太元帥法、後七日御修法の廃止、諸寺・諸山勅会の制の廃止
10月 由緒ある寺院への下賜金の廃止

中でも最大の改正は、明治4年9月に行われた「歴代皇霊の宮中への遷座」である。これは天皇親祭体制の実現のため、賢所と神祇官神殿で二元的に行われてきた祭祀を、賢所を中心として統合する方策の一つである。そして従来重視された「天神地祇」への祭祀の重要性が低下して、天皇の神性の基盤となる「歴代皇霊」が重視されるようになった結果でもあった。神祇官神殿に祭られていた歴代皇霊の賢所への遷座は、最大級の国家儀式として実施された。

またこれに伴い、神祇官神殿での祭祀は再構成することが必要となり、「四時祭典定則」が定められたが、神祇官→神祇省が担う役割は減少し、宮中が国家祭祀の中心となった。これには、廃藩置県に伴う改革で宮中から女官層が排除されたことも影響していた。

こうした動きと並行して、伊勢神宮の改革も国家の手によって進められる。特に神祇官(省)員が神宮の神職となることができるようにした制度により、多くの官員を神宮に送り込んだ。また元来神宮の御師だった浦田長民は国家の動きに呼応し、伊勢神宮改革を担っていく。

そして明治4年11月の大嘗会は、「神祇官の廃止、賢所改革、それに伴う国家祭祀の再編成、神宮改革、天皇と仏教・寺院との分離作業という、同一の理念に基づいた相互に関連を有する諸改革の総仕上げの意義をもつものであった(p.235)」。その理念とは、「天皇権力の絶対性・永続性を万世一系の皇統神話によって証明(p.237)」し、政治的君主としての天皇を国家に位置づけるものであったといえる。

II 日本近代の政治と宗教

「第4章 神道国教制の形成」では、神祇官におかれた「宣教使」についての思想闘争が描かれる。維新前の慶応3年に浦上キリシタンが名乗り出ると、幕府は元来は死罪に処する所だったのをフランスとの関係から処罰が緩和され、維新後、政府は彼らを諸藩に預けることとした。そしてキリスト教の棄教を迫る教化活動が行われるのである。そして西洋諸国との軋轢を怖れながらもキリスト教からの防衛を考えていた政府は、神祇官に「宣教使」をおいて国民教化に取り組んだ。

しかし、宣教使が何を教えるのか、ということが定まらなかった。政府の推進する「神道=大教=惟神の道」が未確定だったためである。そんな中でイニシアチブを取ったのが儒者の小野述信である。明治2年に小野が作成した「神教要旨」ではそれが敬神・明倫と儒教道徳に整理されるとともに産土神への信仰を求めつつ、天照大神に最高神格を付与した。

これに反対したのが平田派を中心とする復古神道派で、彼らは最高神格としては天御中主神を措定し、また死後の世界では大国主神の権威を強調した。しかしながら、敬神や明倫、儒教道徳といった内容にはほぼ異論がなかったと言ってよい。

こうした異論に配慮し、明治3年の「大教要旨」では、「惟神の道」が敬神・尊皇・儒教道徳のみの簡素な形へ一歩後退した。また、氏子改と神葬祭の実施が目指されてくる。しかし神社調査も行われていない段階で全国民の氏子帳を作ることは現実的ではなく、またそれは大蔵省が進めつつあった戸籍法の準備ともバッティングした。

一方、各藩に預けられていた浦上キリシタンへの教諭は、当然のことながらうまくいかなかった。禁制の中で保ち続けていた信仰を簡単に捨てるわけもなく、また今や西洋諸国が眼を光らせている中で暴力的に改宗を迫ることは各藩にも不可能だった。その上宣教使は有効に機能せず、実際には僧侶が教諭を担当しており、それはやがて追認されることになる。神仏分離令や廃仏毀釈によって被害を受けていた仏教各派は、キリスト教防禦を自ら担うことで存在意義を示し、宗門体制の維持に繋げようとしていた。

そんな中、明治4年7月には「大教」の説明として「大教旨要」が太政官達として布達された。これは、それまでの「神教要旨」「大教要旨」を踏まえてより平易かつ具体的に述べたもので、敬神、明倫、儒教道徳、産土神などは小野神学を継承しつつも、天照大神や大国主神といった神格の問題には触れずに、天皇への忠誠を求めるものである。これは宗教の相違を超える包括的なイデオロギーとして構想されたものであるが、それは神道派の国家宗教の構想が破産したことを示していた。

またこれと同時に「郷社定則」「氏子改取調規則」「氏子札差出方心得」が定められるとともに、戸籍法に吸収された形で氏子改が制度化された

本章に描かれる小野神学と平田神学のつばぜり合いは、傍目には細かい部分の議論で、その意義がよくわからない部分がある。彼らは、敬神はもちろん儒教道徳の勧奨すらも共通していた。問題だったのは神道のより宗教的な部分であり、そういう神学論争が神祇官の足を引っ張り、遂には神祇官廃止の一因となった。

「第5章 教導職制と政教関係」では、教導職制によって僧侶の身分が解体されていったことを詳細に述べている。私が本書を手に取ったのは本章を読むためといっても過言ではない。廃藩置県の直前、明治4年5〜6月に「近代戸籍法の成立と密接に結びついて宗教制度の根本的な再編成が実施された(p.298)」。具体的には、6月に門跡寺院の廃止、寺院・僧侶の地方官管轄、僧尼志願者への免許付与(明治8年に取り消される)などが実施された。この段階では「寺院・僧侶の地方官管轄」といっても所掌が定められた程度であったと思われるが、追って寺格にかかわりなく地方官が住職任免権を掌握する。寺院は地方官の支配に置かれた。

さらに明治5年3月、神仏合同で国民教化を担う教部省が設置され、4月には大教正以下14級の職制で「教導職」が出発した。これは国民教化を担う無給の国家官吏であり、「神官・僧侶から選出される新しい国家公認の宗教者(p.302)」だった。教導職は、既存の教団(宗派)から選出されていたから、これを統括するために「教導職管長制」が設けられた。国家が公認した宗派(神道東西部、仏教七宗)に「管長」を置き、教導職を管理させたのである。これは「明治17年の各宗派管長制の出発点となった(同)」。

また、教導職設置と同時に、僧侶の肉食妻帯畜髪が許可される。これは僧侶身分の解体が行われることを示した。さらに「得度」が否定され「宗門ノ私称」となった。「得度」とは、族籍から僧籍に身を移すことであり、古代から続いてきた慣習であったがこれが否定された。明治7年1月には、僧侶も本籍を定めることが命じられた。これは新たに得度を行うことが否定されただけでなく、既に得度した(僧籍にある)者も、俗籍に編入することを命じたのである。

これだけではない。各宗の住職になるには教部省(本山)・地方官(一般寺院)から辞令書交付を受けることが必要となり、しかも住職になるには教導職試補以上であることが義務づけられた。本山の住職決定権・任命権の大きな制約であり、これは本末制度の解体を促すことになった。本章ではこのケーススタディとして西本願寺中本寺の興正寺の別派問題が取り上げられている。

さらに、明治9年12月には「僧侶ト公認スル者ハ諸宗教導職試補以上ニ限(p.314)」る、とされた。住職のみならず一般僧侶でも教導職であることが必須となったのである。この規制をクリアするため多くの僧侶たちが教導職へ任命され、管長制が本山制を実態的に吸収して一体化した。これらは宗教身分が教導職制に吸収される形で廃止されたことを意味した。明治10年には教部省が廃止されて、神社・寺院行政は内務省社寺局の担当となる。

内務省時代には、社寺の法的性格が明確化される。明治11年、社寺創建・移転・廃合に関する手続きが規定され、翌明治12年には社寺の厳密な調査を府県に命じ、寺院・仏堂・神社・神祠が「公許公有」のものであることが明確になった。ここで注意すべきことは、神官の身分の取り扱いも一般寺院住職と同一であったということだ。また氏神は宗教ではないとされ、戸籍にも信仰に拘わらず居住地の氏神を記載すべきと指導された。宗教の領域と「国家の祭祀」の領域の切り分けが再検討されていたと思われる。

なお、このような政策により寺院「共有物」論=寺院は公共の存在だとする考えが生まれた。であれば、本山の管長・役員などは公選すべきであるという、公議公論的な主張も生まれてくる。本来私的な領域であるはずの宗教に、公的な性格を与えて内務省がその統治下に置くという政策にはやや無理があったものと思われる。

そうしたことからか、内務卿山県有朋は井上毅に宗教政策の見直しを命じ、明治17年太政官布達19号が出された。これにより教導職が廃止され、寺院住職の任免権を管長に委任した。国家が宗教者を「教導職」という役職で官吏化していたことを廃止し、人事も各宗派に委ねたのである。これは別の面から見れば、管長の権限が強化されたことも意味した。こうして「管長制」が確立する。

明治18年には、明治4年に廃止されていた門跡号が私称として復活。また既に明治16年に戸籍への社寺名記載は簡素化されていたが、戸籍への宗旨記載自体が不必要となった。これらは、神道・仏教の私的性格が確認され、事実上、国家が臣民の宗教を管理しなくなったことを示す。さらに明治20年には宗祖・派祖への師号宣下が廃止される。仏教に公的性格がなくなった以上、自然の処置であると言えよう。

しかしこうした政策は当然に、明治20年代、神道家たちの間に神道を再び国教の地位へ引き上げようとする運動を生みだした。神祇官(神祇院)再興論である。一方で仏教勢力には、古社寺を復興させ国家の歴史として保護していくべきとする議論が起こり、これは明治30年の古社寺保存法で結実する。 

「第6章 明治20年代の宗教行政と教団「自治」」(書き下ろし)では、仏教教団を中心にした「自治」の揺らぎを述べる。「管長制」は、教団の運営を管長に委任する「放任主義」の政策であった。つまり教団はここに至り「自治」の必要に迫られた。それまでは国家に対立しつつも、神仏分離以降の痛手から教団の存続を目的とした取り組みがなされていたが、ここに至り教団が分裂していく傾向となる。それは管長制と歴史的に残存する本山制の対立であった。

本章ではそのケーススタディとして、曹洞宗の総持寺派・永平寺派の争いや浄土宗の五本山の対立が述べられている。浄土宗の場合は、内務省は、人事等は本来は国家が持っている権限として五本山の住職と執事を辞職させたが、これは一般的な姿勢ではなかった。究極的にはこうした措置がありえるとしても、曹洞宗のゴタゴタはやまなかった。

ただし、このあたりの事情は実際の人事が述べられておらずよくわからない。当時の管長が誰で、それがどのように選出され任命されたのか、という具体的な部分が書かれておらず、あくまで一般論としての管長対本山住職として記述されている。ここは少し物足りなく感じた。

こうした教団分裂の危機に対しては、自治の向上ではなく宗教的な祖先の権威の強調によって乗り切ろうとする機運が生じた。それを表すのが明治26年の寺格僧爵制度の提案であった。高位の僧侶に国家から叙爵することにより、上下関係を明確化して教団の秩序を維持しようというのである。しかしこれは、高位の僧侶を国家が認定する、時代に逆行する制度であるため決定されなかった。

そのような中、国家と各宗の新しい関係が意外なところから規定された。明治28年、神道各教派・仏教各宗派に対して内務訓令が出された。そこでは宗派の教師を検定試験によって選出するように求めていた。教団の混乱が学のない僧侶によって起こされたと見なし、試験によって人事を行うよう求めたのである。なお神職については内務省及び地方庁で試験を行った。これは試験を通じて国家が間接的に宗教を管理する体制であった。そうではあるが、同時にそれは教団は国家からの直接的な保護は受けられないことを示してもいた。国家から保護を受けられたのは、皇室と関係ある神社・寺院だけだったのである。こうして、古社寺は歴史的な天皇との繋がりを強調するようになっていく。

(つづく)


2022年9月6日火曜日

『歴史で読む国学』國學院大學日本文化研究所編

国学の発展の歴史を平易に述べる本。

国学とは何だろうか。本書はこの疑問に対してその歴史的発展を丁寧に追うことで答えるものである。普通には、いわゆる国学四大人(したいじん/しうし)、すなわち荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤の人生や活動にフォーカスを当てることで国学を説明するのに対し、本書では編年的に国学に関係する事項を教科書風に述べてゆく。無味乾燥といえばそうかもしれないが、私には非常に読みやすくまたわかりやすかった。

本書は、第1章が元禄期で「水戸光圀と契沖」、第2章が宝永〜享保期で「荷田春満の活動を中心に」、といった具合に、だいたい10年から20年ほどの間隔で章を区切って構成されている。よって前後関係が明確に理解できることはもちろんであるが、編年的な記載を貫徹することで、一般的にはあまり知られていない人物がたくさん登場することも有り難かった。

まず本書では、国学を「近世中期に発生した、(中略)日本古典の文献実証を行い、それを通じて古代の文化を解明しようとする新たな研究方法による学問(p.1)」と定義する。 

江戸中期になると日本の古典が書肆から出版されるようになり、人々に身近になった。また儒学が台頭し、儒学を基盤とした仏教批判が湧き起こってくる。それは仏教の土着化(身近なものになり村・町に定着した)の結果でもあった。さらに神職が吉田家などから許状をもらうことで「神道」が自立していくようになるのも近世である。これら「古典」「儒学」「仏教」「神道」が絡み合うことで国学が発展していく。以下、編年的に内容をメモする。

【元禄期】山崎闇斎は儒学から出発し、口伝などを総合して儒学的に神道を再構成し「垂加神道」を創始した。しかし垂加神道は、実証的な方法論で構成されたものではないという弱点があった。一方、儒教の古典をあくまでも成立当時の原意に沿って理解しようとしたのが荻生徂徠などの古文辞学派であった。彼らは当時の儒学としては傍系であったが、方法論が確立していたこともあり息が長かった。特にこの方法論は国学にも影響を及ぼした。真言宗の僧侶だった契沖は、水戸光圀の依頼を受け、古典の文章の意味を実証的に検証する方法によって『万葉代匠記』を書き、万葉集研究を飛躍的に進歩させた。また『和字正濫鈔』は定家仮名遣いを批判し古代の仮名遣いの規則性を明らかにした。彼には特定の師匠はおらず、門人も少なかったがその著作を通じて大きな影響を与えた。

【宝永〜享保期】神職が「神道」の自覚を深めていく状況で、出雲大社、京都の稲荷社などで「プレ神仏分離」というべき仏教的要素の排除が行われた。その稲荷社の社家を世襲した家の次男として生まれたのが荷田春満(かだの・あずままろ)である。春満は和歌と神道を教授する学者として江戸に出て活動した。神田明神の神主・芝崎好高を門人にしたことで活動の足がかりができた。新井白石は『古史通』など日本古代も研究対象としていたが、春満と白石の違いは契沖の学問を受容するかどうかである。それは儒学における古文辞学派の方法論を採るかどうかの違いであった。そして新井白石が吉宗の代になって冷遇されたのとは対照的に、逆に春満は幕府における古典籍の真偽判定を担うようになった。幕府には由緒に箔を付けるためなど多くの偽書が提出されるようになったからである。また春満は『創学校啓』という国学の学校を作るべきという国学史上重要な文書を起草した。

【元文〜延享期】春満が京都で亡くなったその翌年、賀茂真淵が江戸へ赴いた。江戸には春満の学問を継承する門人やその庇護者が存在していた。そうした基盤があったからこそ、真淵は江戸で活動することができたのである。一方、春満の養子在満(ありまろ)は、幕府から大嘗祭の儀礼の調査を命じられた。吉宗は文治主義の考えから朝廷の儀礼の復興に力を入れたことがその背景にある。その報告書のダイジェスト『大嘗会便蒙』は、初めての大嘗祭概説書であり、朝廷からの抗議で発禁となって処罰されたものの、後々まで大嘗祭研究の基本図書として重んじられた。なお朝廷の儀礼を復興しようとする機運の背景には、礼楽の注目もあった。徂徠派は儒学の元来の形として礼楽も重視したが、日本風の礼楽がまさに朝廷の儀礼であったのだ。桜町天皇即位にあたっての大嘗祭復興後も、続々と朝廷の国家的な祭儀は復興された。またその文脈の中で朝廷の神事における神仏分離規定も復活した。在満は和歌御用を務めながら幕府の朝廷儀礼研究にも関与していたが、在満の後任が賀茂真淵である。ちなみに幕府で彼らを庇護したのが、吉宗の次男である田安宗武である。彼自身が和学に深い関心を寄せ、万葉風に歌を詠むこともしている。

【宝暦・明和期】当時、春満よりも朝廷に大きな影響力を持ったのは垂加神道であった。山崎闇斎を継承した竹内式部は桃園天皇に垂加神道を講義して一つの到達点をなしたが、それに批判的な上層公家や、それを問題視した幕府により式部は追放され、また積極的だった公家は謹慎などの処分を受けた。これが宝暦事件である。一方、賀茂真淵はその関心をより古代に遡らせ、枕詞の画期的な研究書『冠詞考』を出版。また最晩年には万葉集の注釈書『万葉考』も出版した。それまで契沖や春満の研究はほとんど知られておらず、特に春満の著作は一冊も出版されていなかったが、真淵は彼らの学問を継承して研究成果を出版することで世の中に大きなインパクトを与えた。特に『冠詞考』を読んで学問の方向を決定づけられたのが本居宣長である。宣長はたまたま伊勢神宮に参詣した真淵と対面し、入門を許される。二人は生涯でその1回しか会ったことはなく、この出会いは「松坂の一夜」と呼ばれる。真淵は、文芸の本質は人間の感情の発露であるとする「もののあはれ」論を展開し、和歌の教授を通じて「県門の三才女」などの多くの女性門人も得た。一方、荻生徂徠の門人太宰春台の『弁道書』は、(中国の)聖人以前に「道」はない、と言う主張があったため論争が起こり、真淵は『国意考』で日本には日本の道「自然(おのずから)の道」があると主張している。それどころか、戦乱が相次いだ中国より日本の方が、神武天皇よりの皇統が連続しているから優れているとして儒教批判を繰り広げた。この古道論の登場が、仏教思想に依存しない儒教への本格的な批判として日本史における初めてのものであった。またそれは国学の歴史にも大きな転換点となった。この頃が国学の学的な確立期である。

【安永・天明期】荷田春満の子・御風(のりかぜ)、妹・荷田蒼生子(たみこ)を中核とした荷田一門は江戸の国学の有力一派であり、諸大名や幕臣・町人などの求めに応じ和歌の指導や古典講義を行っていた。一方、賀茂真淵が県居(あがたい)と号したことから、その門流を「県門」と呼ぶが、県門は「万葉派」「伊勢派」「江戸派」に分岐したとされる。万葉派には、代表的人物として楫取魚彦(かとり・なひこ)と加藤宇万伎(うまき)がいる。魚彦は中津藩主奥平昌鹿や姫路藩主酒井忠以(ただざね)を弟子にするど学界における有力者であった。他方、宇万伎の弟子には上田秋成がいる。江戸派では、加藤千蔭と村田春海が著名である。なお村田春海は、生涯に一度だけ本居宣長と出会い、宣長に突き動かされるように国学者として活動していく。この頃、宣長の論争活動が目立つようになる。例えば明和8年(1771)に、太宰春台『弁道書』の批判として書かれた『直毘霊』(初稿は『直霊』)。ここでは「儒学の教えを欺瞞と虚飾に満ちたものとし激しく指弾(p.103)」した。これにより儒学者との間で「直毘論争」または「国儒論争」という論争が巻き起こった。宣長は議論を「そっちこそどうなんだ論法」に持ち込む論争家だった。次に有職故実家にして好古家の藤貞幹の『衝口発』への批判『鉗狂人』。これも多くの人を巻き込む大論争に発展した。一方、宣長を批判したのが大坂の上田秋成であった。秋成と宣長の往復書簡を宣長側で整理したのが『呵刈葭(あかいか)』という著作。よって二人の論争を『呵刈葭』論争と呼んでいる。

【寛政期】田安宗武の第三子にあたる松平定信は、「寛政異学の禁」によって幕府の学問としては朱子学以外を禁じた。一方で塙保己一(はなわ・ほきいち)の提案を容れて「和学講談所」が設立され、それが林大学頭(昌平坂学問所)の支配とされた。保己一は国学者ではないが賀茂真淵に師事したこともあった。儒学の補完的なものとして和学が理解されていたことが注目される。この頃、宣長の出版活動は極めて旺盛となり、ほぼ1、2年ごとに著作を発表した。『玉くしげ』(天明7年)では初めて「大政委任論」を主張(本書は宣長の生前は出版はされていない)。これは現実の体制を正当化する論理であったが、これがやがて倒幕に繋がっていくとは皮肉なものである。宣長は、寛政4年(1792)には紀州徳川家に松坂在住のまま召し抱えられた。一介の町医師がその学識を買われて召し抱えられたのには多くの国学者に注目された。寛政10年(1798)、執筆に30年以上費やした『古事記伝』(全44巻)を脱稿。生前に出版されたのは第3帙(〜17巻)までであったがこれは古事記研究の画期的な業績であった。なお第17巻の付巻として、国学的宇宙論を述べた服部中庸の『三大考』が収録されたのは後に種々の軋轢を生んだ。寛政期はこの他、上田秋成による賀茂真淵の著作の刊行、荷田春満の評価の高まり、契沖の著作の出版など国学はかなりの広がりを持ち、近世国学史上の転換期と評価される。またそうした機運の中、光格天皇による様々な朝義の再興・復古が行われた。特に1790年に完成した寛政度内裏の復古様式での造営とそれに伴う種々の出来事は注目される。

【享和〜文政期】古道論を主張する宣長の門流(鈴門)は国学の中でも主流ではなかったが、宣長を継いだ大平は宣長の著書を盛んに刊行した。江戸では、徳川家斉が和学講談所に年額50両の給付を決定し、和学が盛んになる。中でも屋代弘賢の『古今要覧稿』は未完成ながら日本最初の本格的な百科全書である。また県門の江戸派(加藤千蔭・村田春海)は歌文を中心に人気があった。これら文献実証を中心とする学問や歌学がこの頃の国学の中心だった。このような状況の中、平田篤胤は寛政7年(1795)に脱藩して江戸に出、私塾真菅屋(ますげのや)で講義。篤胤は宣長没後にその著書に接してその学問に傾倒していた。そして篤胤は、妻織瀬を亡くした文化9年(1812)、『霊能真柱(たまのみはしら)』を執筆し、初の著書として翌年出版した。これは服部中庸『三大考』を下敷きに、独自の死後の世界を述べたものである。篤胤は死後の世界を黄泉ではなく目に見えない幽世(かくりよ)だと考えた。中庸も篤胤の学問を高く評価し、両者は義兄弟の契りを固めた。篤胤は積極的に学者と交流し、吉田家とも昵懇の仲となった。文政6年(1823)には吉田家江戸役所の学頭に任じられた。「あの世」の話など身近な話題を展開することで、庶民や地域の産土社の神職層など、それまでの和学・国学者がアプローチしていなかった層を開拓していったのが篤胤であった。

【天保期〜ペリー来航】天保期は国学の受容者層が藩校や地域社会に広がった。平田篤胤は著書『大扶桑国考』を朝廷・天皇へ献上したが、幕府からは絶版を言い渡され、しかも江戸追放の処分を受けた。これには篤胤門人の生田万が大塩平八郎に倣って蜂起したことが影響していたのではないかという。篤胤は秋田に移住し、晩年まで旺盛に執筆。没後は養子の銕胤が継ぎ、没後の方が門人が多かった。気吹舎の発展に銕胤が果たした役割は大きい。なお没後門人でありながら平田家から後に絶交されるのが鈴木重胤である。篤胤は江戸追放になったが、この頃は多くの藩で国学が興味を持たれ、国学者が藩校の教授になるなど藩政との関わりが深くなっていった。特に佐藤信淵は多くの藩でその著述が参照された。しかし信淵も天保3年(1831)に江戸から追放された(しかし宇和島藩・薩摩藩から出入りを許され、綾部藩には招かれた)。津和野藩では、神職で国学(宣長系→平田篤胤門人)を学んだ岡熊臣が中心となって神葬祭復興運動が行われる。また藩校養老館の教師に任命されると福羽美静を輩出した。さらに藩校では野々口隆正(大国隆正)が国学教師となった。また地域社会でも、豪農商層や神職によって国学が学ばれ実践された。これを「草莽の国学」という。この時期、山城国乙訓郡の神職で国学者の六人部是香は、篤胤の幽冥論を考究し、産土神が死後の魂を主宰する考えを提出。これは地方神職に信仰共同体の再編の指針を示すことになった。

【ペリー来航後〜慶応3年】それまでの国学は歌学を中心として非政治的なものであったが、この時期に急速に政治的なものとなっていく。特に篤胤没後の「気吹舎(いぶきのや)」は門人や来訪者からの情報を記録・交換することで政治情報ネットワークの結節点として成長した。また篤胤の著作を時事にあわせて再編集して積極的に出版した。さらに国学思想は、中島広足『敏鎌(とかま)』に見られるように日本の優越性の主張や国のために命を捨てる態度などを鼓吹し、イデオロギー化していった。本居家もそれまでの歌学ではなく、本居内遠の「古学本教大意」など国事へ携わるように変化した。政治への影響力の点では、井伊直弼のブレーンとなった長野義言(よしとき)が大きかった。直弼—義言の過酷さの背景には、「諸々の凶事の背後に存在するマガツヒに対抗するためには強く正しい心で悪と穢れを根絶しなければならない、という復古神道神学が存在していた(p.178)」。この時期は天誅が吹き荒れ、気吹舎も『玉襷』『気吹颫(いぶきおろし)』など攘夷をアジテーションする著作を発表。また平田系門人は反幕的立場を鮮明にした足利三代木像梟首事件を起こした。国学者も天誅の対象となり、長野義言の一党は斬殺、和学講談所の塙忠宝(ただとみ)は廃帝の先例を調べているという噂のため伊藤博文に暗殺された。鈴木重胤も平田門人によって養子とともに斬殺された。国学者は危険分子と見なされるようになり、秋田藩は藩士の平田延胤を幽閉処分にした。この時期に延胤が著したのが王政復古の歴史的正当性を示した『復古論』である。なお安政期の西郷隆盛は気吹舎をたびたび訪れ同行者を入門させている。

【明治元年〜明治8年】明治政府は、当初祭政一致の体制で出発し、古代律令制復興の一環で神祇官が設置された。一連の政策には津和野藩の藩主亀井茲監(これみ)と福羽美静が深く関わった。国民がキリシタンにならないように教育するのが神祇官におかれた「宣教使」の役割で、特に長州藩士で儒学者の小野述信がこの実務面での中心を担った。これは歴史上初めて、神道の教義について公的に議論する場でもあったが、特に黄泉国と天津祝詞については宣教使間で話が意見がまとまらず、意見の統一自体が断念された。それを埋め合わせるかのように、国学者たちは国学を教える学校の設立に邁進した。吉田家は矢野玄道を招いた学寮を、白川家も学寮を設置。また政府は「大学校」に平田銕胤を大学博士としたが、銕胤は昌平黌以来の釈奠(せきてん)を廃止して漢学者からの猛反発を招き、大論争へ発展した。こうした争いを背景に明治4年、平田派国学者は政府から排除され、維新政府における影響力は減衰した。しかし国学者たちは明治天皇の教育(侍読)には引き続き携わっている。明治5年には教部省が発足。その事務の一つに教義書の出版の許可があり、教部省編輯課(→考証課)では、小中村清矩など考証派の国学者が神社由緒の考証に活躍した。

【明治8〜明治23年】神道が国教の位置から後退して、神道教育は神道事務局生徒寮神宮教院本教館が中心となった。一方国学・神道学者たちの間で「祭神論争」が勃発し、勅裁によって終止符が打たれた。これによって国学に基づく統一的な「神道」の構築が不可能であることが露呈し、宗教・教化と国学との分離=教学分離がもたらされた。またこれに応じ、教導職と神職が分離する「第二次祭教分離」も行われた。この結果、神道は「神社神道」(祭祀)と「教派神道」(宗教)に分離。また、神道事務局生徒寮は皇典研究所へ発展して国学者の重鎮が参加し、内務省から神職資格の授与を委託されて全国展開した。また東京大学でも、国学者として初めて教授となった小中村清矩によって古典講習科が設置された。この古典講習科はたった6年しか存在しなかったが多数の国学者を輩出し、近代人文学へと接続していった。明治23年(1890)、司法大臣山田顕義(あきよし)、井上毅の尽力により皇典研究所に國學院が設置された。國學院からは三矢重松折口信夫が輩出された。こうして皇典研究所は宗教的な教化から国史・国文・国法などの研究教育といった近代人文学へ軸足を移した。また『古事類苑』が西村茂樹の建議に基づいて行われ、多くの学術結社が設立された。皇室典範や大日本帝国憲法の起草にあたっても古典の知識を持った国学者が参画した。

【明治中期〜昭和20年代】この時代、国学はその方法論を反省し自らを再定義しようと試みた。小中村清矩の弟子で養子の池辺義象は「古典学」の呼称に統一すべきと主張し、やはり小中村清矩に学んだ芳賀矢一は国学を「日本文献学」として転生させようとした。芳賀の『国民性十論』はその実践の一つで、同書により国民性という言葉が広く用いられるようになった。「最後の国学者」とも称される三矢重松は国学が「新国学」として脱皮することを期待した。大正期には、国学は国民道徳論に関与していったが、柳田國男・折口信夫はそれに異を唱えた。柳田は国家にとって必要な国民道徳ではなく、むしろ近代化に伴って消えつつある諸民俗の研究によって真の国民の精神を明らかにすべきと考えた。その研究を柳田は「新国学」と位置づけ、これは民俗学として発展した。三矢重松に教わった折口信夫は國學院の教授となり、柳田國男の研究にも触発され、古代の信仰を明らかにすることを目的とした「新しい国学」を提唱した。昭和に入ると文部省『国体の本義』の刊行など、政府は天皇の聖性を強調するようになっていく。このような中で、従来文壇で顧みられなかった日本古典や古美術に回帰した日本浪漫派が活動。また『国体の本義』編纂に関わった久松潜一など国文学者も、古典の研究ではなく、「日本精神を闡明する」ための「新国学」を指向していく。しかしそれらは「精神論がもっぱら先行し、方法論的な議論はほぼなされなかった(p.245)」。

【明治後期〜現在】明治16年(1883)、井上頼囶らの尽力により荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤へ同時に正四位が贈位され国学の系譜が公認された。「国学」が明確な形をとったのが明治中期以降であり、昭和に入ると国学は政治化し、「日本精神」論の流行とも相まってまとまった学術的著作が陸続と刊行された。そして戦後には、西郷信綱が『国学の批判』を著すなど、国学の本来の在り方が見直され、契沖や本居宣長など近世の国学者が改めて研究されるとともに各全集の刊行などが続いた。現代では国学研究は史料基盤がさらに拡大し、様々な分野での研究が格段に進展したことで、近代において国学とはなんだったのか、より深いレベルでの検証が可能になりつつある。

本書は全体としてかなりよくまとまっている。執筆者は一戸 渉、遠藤 潤、小田真裕、木村悠之介、齋藤公太、武田幸也、問芝志保、古畑侑亮、松本久史、三ツ松誠。多くの執筆者が分担しているにもかかわらず、記述の粗密があまりなく、重複も(後半を除いては)少ない。通史的かつ平易に理解できるものとして、本書は第一に掲げるべき国学史の教科書であると評価できる。

ただし本書には弱点がある。教科書的な内容であるにもかかわらず、事項ごとには参考文献が掲載されていないのである。巻末には「主要参考文献一覧」があるのだが、どこの記載に対応するものなのか全く書かれていない(せめて章ごとに掲載してほしかった)。しかしそういう弱点があるにしても、総合的に見ればこれ以上のものを求めるのは酷というものかもしれない。

国学史の教科書として現時点の決定版。

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2022年8月28日日曜日

『琉日戦争一六〇九:島津氏の琉球侵攻』上里 隆史 著

島津氏の琉球侵攻について述べる本。

江戸幕府の開創間もない1609年、島津氏は琉球に攻め込み、琉球を実質的に属国化した。本書は、その際に琉球が抵抗らしい抵抗もせずに服属したという通説を覆し、それなりの武力を持ち戦ったということを示すことを目的の一つとして執筆されたものである。

著者は、島津氏の琉球侵攻を「琉日戦争」と位置付ける。それは琉球は独立国であったのであり、また島津氏の侵攻は江戸幕府の許可の下に行われたものであったので、これは日本と琉球国の戦争であった、と見なすからである。そしてそれが一方的な侵攻ではなかった(琉球は抵抗し、島津氏側にも損害があった)ことを含意して「戦争」という言葉が使われている。

私が本書を手に取ったのは、「そもそもなぜ島津氏は琉球に侵攻したのだろうか」という疑問からである。それはしばしば「琉球との貿易の利益を独占するため」と説明されるが、そもそも琉球侵攻以前から島津氏は(大名としては)琉球交易の利益を独占していたし、琉球侵攻が明にバレると大きな国際問題に発展する可能性があった。後述するように明との国際関係が微妙だったこの時期に、あえてリスクを冒して琉球を属国化する理由がよくわからなかったのである。本書を読み終えた今でも、その理由には不明確な点が残っているが、私なりに理解したことをメモしておこうと思う。

「第1章 独立国家、琉球王国」では、琉球王国の成立とその繁栄・衰退が述べられる。琉球国はもともと3つの国(三山)からなり、それが尚氏により統一されて琉球王国となった。特筆すべきことに、統一前から琉球三山は明から貿易を優遇され、閔人三十六姓の派遣、無制限の朝貢回数許可などを得ていた。1458年に鋳造された「万国津梁の鐘」はその繁栄を物語っている。琉球は「万国の架け橋」として中継貿易で栄えた。

しかしその繁栄は、あくまで明からの優遇措置に基づいていた。明から供与された大型船とそれを動かす人材がなくては琉球は東南アジアまでの長距離航海をすることができなかった。よって中国沿岸の倭寇問題が沈静化していく15世紀中頃、明が優遇をやめ琉球との貿易を制限すると琉球の優位は失われた。「朝貢貿易の全盛期は三山時代から琉球王国が成立した頃まで(p.23)」であった。

こうした状況で1470年、琉球ではクーデターが起こり第二尚氏王朝が成立。奄美大島から与那国島までが琉球王国の版図となった。この版図拡大の背景には、貿易の衰退を埋め合わせる必要があったことが考えられる。またこの頃、東アジアの交易世界は「銀」をめぐっての新たな局面を迎える。日本では石見銀山の開発と新たな精錬法によって世界の3分の1ともいわれる莫大な銀が算出。逆に中国では銀が貨幣として用いられるようになり大きな需要が生まれた。よって民間の商人が銀を運んだのである。明は海禁政策を実施し、民間貿易を禁止していたから、これは違法な交易だった。すなわち16世紀からの新たな倭寇=違法海商の登場である(倭寇といえども中国人が多かった)。特に暴徒化した倭寇が沿岸を荒らしまわった「嘉靖の大倭寇」は、琉球の那覇まで押し入っていた。

こうした倭寇被害が大きくなったのは厳格すぎる海禁政策の帰結だったとし、明は約200年続いた海禁政策を一部緩和。これによって倭寇出現の根本原因が取り除かれた。日本と琉球は引き続き渡航禁止の対象であったものの、民間交易が認められた漳州の月港は空前の活況を呈する。これは、琉球が中継貿易で担っていた役割が漳州の月港に移ったことを意味した。この頃、(倭寇でない)日本人も東南アジアへ貿易に乗り出し、各地に日本人町が作られた。琉球自体が、日本人町の一つのような存在になっていた。

「第2章 九州の覇者・島津氏と琉球」では、島津氏が琉球とのいびつな関係を築いていく道程が語られる。島津氏・薩摩が琉球といつごろから交易をしていたのかは不明だが、15世紀後半、管領細川氏は日本国として琉球との通商を求め、その取次役として島津氏が活躍するようになった。その背景には細川氏のライバルである大内氏(山口)の交易活動もあったが、島津氏はこちらの取次も行っていた。16世紀前半には細川氏が衰微し、大内氏が琉球交易の中心となった(なお日明貿易は1547年の大内氏の遣明船を最後に途絶した)。

一方島津氏は、同じく16世紀前半頃から南九州から琉球へ向かう商船を印判制度を用いて統制しようとした。1508年、奥州家島津忠治は琉球王に「印判状を持っていない商船の積み荷は没収してかまわない」という島津奥州家が琉球交易を独占できる制度を提案している(『旧記雑録』)。このような提案がされたのは、私貿易の商船が少なからず琉球へ渡海していたからに他ならない。同時期、南九州と朝鮮との交易は途絶し、対琉球交易の比重が高まっていた。しかし琉球にとっては島津氏へ貿易を一本化する理由はなにもなく、この提案は受け入れられることはなかった。

16世紀前半、南九州は島津氏の本家争いである「三国大乱」が起こり、16世紀中頃にそれに勝利し南九州を統一したのが島津忠良である。その子貴久に琉球は「あや船」という正式な通交船を送り、倭寇対策として島津氏の印判制度が適用されることになった。琉球では尚元王の冊封が直前に迫っており、(交易品を売りさばく必要があるため)外来の商船や治安維持を必要としていたから、一時的な措置として印判制度を認めたものと思われる。ところが、当然のことながら、島津氏ではこれを恒常的制度として確立しようとした。ただし、島津氏直轄領と服属した国人領主の港では発給が確認されているが、どの範囲で印判制度が機能したのかはわからないそうだ。島津氏は印判(朱印状)を持たずに渡航する商船の取り締まりを琉球へ求めるようになる。

島津氏は琉球が思うように違反商船を取り締まらないことを咎め、円覚寺を通じての外交ルートも使い、圧力をかけた(この頃の琉球では禅僧たちが派遣され外交を担っていた)。これに応じる意味もあったのか、1575年、琉球はあや船を島津義久の家督相続を祝賀するために派遣。すると島津氏は印判のない船の入港をはじめ、数々の琉球の「非礼」を問いただした。これは「琉球側にしてみれば理不尽な話(p.83)」であったが、琉球の国力が低下していたことから、これらには琉球側が大きく譲歩して決着した。

またその10年後、琉球から天王寺の祖庭和尚が鹿児島へ派遣されたが、その際も使者の派遣が途絶えていることや進上物が軽微なことなどを非難された。この頃から島津氏は明らかに琉球を意図的に一段低いものとして扱うようになっている。かつてとは違い、島津氏は九州の大部分を手中に収め、強大な戦国大名となっていた。その軍事力・政治力を背景に印判制度は領国外にまで機能した。1852年に堺から琉球に渡海した商人川崎利兵衛はわざわざ鹿児島に立ち寄って家老の「添状」を取得している。おそらく「添状」のみならず印判状も発給されたのだろう。境の民間人にまで印判制度が浸透していることがわかる。

「第3章 豊臣秀吉の東アジア征服戦争」では、豊臣政権下における琉日関係の変化が述べられる。島津氏は九州統一の一歩手前まで行きながら、豊臣秀吉の圧倒的な力の前に全面的な戦争を経ることなく降伏。当主の島津義久は剃髪して龍伯と名乗った。ここに琉球への外交権は秀吉に移り、島津氏はその取次役となった。秀吉は琉球を日本の属国であるとみなしており、琉球の入貢が行われなければ島津氏を亡ぼすとまで恫喝した。しかし島津氏の家臣は秀吉へ反発しており、義久は秀吉に面従腹背の態度をとった。それでも義久は、1588年、秀吉へ服属するようハッタリを交えて勧める使節を送った。

折悪しくその頃、琉球では尚永王が30歳の若さで死去。世継ぎがいなかったため、傍系の浦添尚家より26歳の尚寧王が即位した。こうして1589年、尚寧王の使節は京都を訪れ秀吉に謁見した。琉球が日本の中央政権と接触するのは約100年ぶりのことであった。琉球は、秀吉の恫喝に屈した面もあるが、それ以外の事情もあった。尚寧王の即位は、明に冊封のための入貢を行う必要があることを意味していた(明に王として認めてもらうため)。そのために多額の費用が必要で、それに日本の銀を当て込んでいたのだ。明への冊封を見据えて、明に敵対的だった秀吉に従属したのは皮肉というほかない。

このあたりから秀吉・島津氏・琉球・明の外交は怒涛の勢いで進んでいく。秀吉は明を征服することを表明。島津氏にも軍役の負担を求めた。島津氏は琉球を属国扱いとしてその軍役の一部(兵糧)を琉球に割り振った。著者は、この割り振りの背景に亀井茲矩(これのり)の存在を推測している。というのは、秀吉は茲矩に琉球国を褒美として与えており、茲矩は「琉球守」(!)を名乗っていたのである。つまり名目上は琉球は改易され茲矩に与えられるのが筋であった。島津氏としてはそれは困る。そこで軍役の一部を琉球に負担させ、実質的に琉球が島津氏に従属していることを示し、琉球の改易を阻止しようとしたのではないかという。これは功を奏し、1592年、秀吉より琉球が島津氏の「与力(従属国)」であると公式に認められた。ちなみに茲矩には、まだ征服してもいない明の台州(浙江省)が代わりに与えられ「亀井台州守」を名乗った。

このような緊迫した状況で、同年、琉球はようやく正式な国交船「あや船」を関東平定を祝賀するという名目で秀吉に送った。しかし進上物は粗略で、割り当てられた兵糧についても無回答の状態であった。結局、秀吉に会うこともないまま「あや船」は帰され、義久のメンツはつぶされた。「与力」の失態は主である義久の責任だからである。それでなくても島津氏は失点続きだった。朝鮮出兵には割り当てられた人数を供出せずしかも出兵が遅れた(義久が後ろ向きだった)。その上、反秀吉の性格がある梅北国兼の乱が起こって義久の弟の歳久は自刃させられていた。

一方、琉球は明に秀吉の計画を裏で通報していた。しかもその背後には、義久の周辺にいた明人の存在もあった。琉球も薩摩も、表向きには秀吉に従いながら、背後では反秀吉の動きが蠢動していたのである。しかしながら表立って秀吉に歯向かえば滅ぼされる。そこで琉球は、薩摩藩に指定された兵糧は求められた半額であるが供出した。薩摩藩でも、義久は一貫して秀吉に面従腹背だったものの、朝鮮に渡海した島津義弘(義久の弟)は奮戦し、泗川の戦いでは少ない手兵で獅子奮迅の働きをした。しかしその裏で、薩摩在住明人や禅僧のネットワークによって、明と琉球・薩摩の間で停戦(反秀吉)工作が続けられたようである。そんな中、秀吉が死去。秀吉以外、誰も日明間の戦争は望んでいなかったので戦争は即刻終結したが、問題はその戦後処理であった。

「第4章 徳川政権の成立と対明交渉」では、琉球が対明戦後処理に巻き込まれていく次第が語られる。家康は、明との講和交渉を島津氏に命じた。泗川の戦いで島津氏が捕虜にしていた茅国科を明に送還し、それにあわせて交渉しろというのだ。しかし家康が提示した条件は、秀吉のそれを引き継いで高圧的なものだったので交渉は決裂。一方、琉球はそれまで「国方多事」を理由に明に尚寧王の冊封を求めていなかったが、戦争が終結してようやく明に冊封の要望を行った。明は治安の懸念などを理由にこれまで通りの冊封には難色を示したものの、琉球の必死の説得によって尚寧王の冊封が決まった(実際の冊封は後述)。もちろんこれには、これまでの反秀吉の蠢動が効いていた。琉球は、徳川政権とは距離を取ろうとしていた。

ところで、この時期の琉球の交易船には難破や漂着などの事故が多かった。先述の通り、明からの技術支援(閔人三十六姓、大型船の供与)なしでは、琉球の造船・操舵の技術は未熟であったためである。1602年、琉球船が東北伊達領へ漂着。家康はこれを手厚く送還した。薩摩藩は琉球にその返礼を送るように諭したが琉球はそれを無視。1604年には琉球の進貢船が平戸に漂着。続いて甑島(鹿児島)にも琉球船が漂着した。これが琉球を窮地に追い込んでいく。

薩摩藩からすれば、従属国である琉球の船が他藩領に漂着した場合、それを監督する責任は薩摩藩にあると解釈される。よって平戸に漂着した琉球船の交易品を回収した。が、琉球船は薩摩藩の監督なく勝手に帰国してしまう。島津側はこれに対する報復として甑島の漂着船とその船員を抑留。義久は琉球の非礼を難詰した。他方、徳川幕府としては漂着物の管理は公儀の権利として平戸の琉球船の積み荷を回収しようと試みた。島津氏としてはこの介入は無視できない。またこの頃、琉球は室町時代に島津氏に与えられたものだとする「嘉吉附傭説」を義久は主張し、琉球に従属を求めた。しかしいつまでも琉球は家康に聘礼を行わず、無回答状態を続けていた。

この間、島津氏の当主は島津忠恒(義弘の息子、義久の甥)に移り、忠恒は奄美大島への侵攻を計画した。これは唐突な感じが否めない。本書ではその理由を、(1)忠恒の家督相続を祝賀する使節を琉球が送らなかった、(2)家康に聘礼しない、(3)平戸漂着問題、(4)朝鮮軍役や亀井茲矩の件の無視、としているがここはよくわからない。徳川政権・島津氏と距離を取ろうとしている琉球を力によって属国の地位に留めるための出兵ということなのだろうか。なお義久としては大島侵攻は反対で、その協議をボイコットしている。また、この大島侵攻には財政上の理由もあったという。江戸城普請のために島津氏には石材運搬船300隻の建造が命じられ、また義弘養女の結婚など出費が重なっていた。1606年、島津忠恒は経済的な問題を後年に持ち越さないためには大島出兵の断行が必要だと表明している。要するに、侵攻を理由に領内に軍役(人・物・金)を負担させ、これから京都伏見藩邸の費用などを捻出しようというのである。

同じ頃、忠恒は家康より「家」の偏諱をもらい「家久」と改名(本稿では以下も忠恒で統一)。また徳川家康は島津氏の琉球侵攻を許可したという。そして1606年秋、島津氏は大島出兵を計画していたが中止する。明からの冊封使・夏子陽が来琉したからである。これによりようやく尚寧王は正式に王となった。この際、夏子陽は、茅国科を送還した海商(坊津の鳥原宗安)の接見を求めた。このため、琉球は薩摩に「あや船」を送り忠恒の家督相続を祝賀し、あわせて夏子陽の要求を伝えた。島津氏はこの機会をとらえ、夏子陽への外交文書と琉球王への外交文書の2通を琉球に渡した。夏子陽宛は、明の商船の薩摩へ毎年来航するよう求めるもの、琉球王宛ては、家康への聘礼を求めるとともに、明との交易の仲介を求めるものであった。これには家康の意向があった。家康は明との国交正常化が難しいことを踏まえ、琉球を通じて日明貿易を行う考えだったのである。これもよくわからない点である。琉球を通じた日明貿易をするならば、島津氏の琉球侵攻はむしろ止めた方がよいと思われる(実際、家康は琉球侵攻には積極的ではなかったという)。

ともかく、この時点で琉球の命脈は日明貿易の仲介を担えるかどうかにかかっていた。それができれば家康の目的は達せられるため、島津氏の琉球侵攻には大義名分がなくなるからである。琉球は明に国書を送り、漳州月港の民間商船が琉球に来航できる制度(文引制度)を設けることや、閔人三十六姓再下賜などを求めた。琉球は貿易体制の再構築を図ったのである。ところがこの要求は受け入れられなかった。明は、「琉球に民間商船を往来させることは、実態は陰で倭と交易すること(p.220)」であるから、密貿易勢力を増長させるとして痛切に批判した。

「第5章 島津氏、琉球へ侵攻」では、琉球侵攻の具体的な経過が述べられる。1607年には具体的な動きはあまりないが、島津氏は琉球侵攻を準備していたようだ。しかし1608年には、幕府は琉球出兵を中止するよう島津氏に連絡した。対明の講和交渉に支障をきたすおそれを考えてのことと著者は推測している。これを受け、島津氏としても外交交渉による解決を目指してはいた。

しかし1609年2月、義弘から尚寧王へ最後通牒的な書状が届けられた。それは「亀井茲矩の件、朝鮮軍役の不履行、聘礼使者派遣の遅滞、日明講和の仲介に同意しながらそれを守らなかったことを糾問(p.225)」し、家康からの琉球誅罰の朱印状が出されているとするものであったが(真偽不明)、あわせて、日明交易を仲介するならば侵攻しない、という趣旨のことを述べている。しかし先述の通り、琉球の交易の要求は明に拒絶されており、これは土台無理な話であった。こうして島津氏は琉球への侵攻を開始したのである。

以下、本書では侵攻の具体的な経過が描かれており、琉球側が無抵抗ではなかったということを立証しているが、詳細は割愛する。一つだけ述べれば、薩摩側には200名程度の戦死者が出ていることから琉球もある程度反撃したのは確かとのことである。

しかしながら全体としてみれば、琉球国はかなり一方的に負けている。といっても島津氏の軍が圧倒的に強かったとはいえない。また、彼らは軍規が徹底されていなかった。本当は琉球側に講和の意思があれば即時講和することを命じられていたのに、軍功を優先してどんどん進撃したり、軍の内部で対立を抱えていたことは、島津軍が軍隊としては未熟だったことを示している。それでも琉球側は海側の防御のみに気を取られ、陸からの進撃を想定していなかったことも仇となって敗北した。

「第6章 国破れて」では、侵攻後の琉球国がどうなったかが述べられる。島津軍は首里城を接収し、その宝物を運び出した。勝手に持ち出すものがないよう、慎重を期して点検・運搬し全部で10日間もかかったという。家康は琉球を打ち取ったことを「比類なき働き」と喜び、忠恒に琉球の仕置(支配)を仰せつけた。

一方、琉球は日本が攻め入ったことをすでに明に密書を送っていた。琉球が明に引き続き朝貢することを望んでいた島津氏は、これをもみ消すため「島津氏が攻め込んできたが彼らは慈悲深く信頼に足る国である」とする明への報告を琉球に行わせるとともに、問題の密書のありかを突き止め公銀100両で民間人より買収した(実際に買収したのは琉球の朝貢使節)。

また琉球はついに家康に聘礼を行った。尚寧王は明朝の装束で家康に対面。「家康は尚寧を捕虜としてではなく、一国の王として丁重に待遇(p.307)」した。

その後、琉球国には石高制が導入され、また奄美地域が分離されて後に島津氏による直轄地となった。また王家(尚家)は島津家の家臣となり、名実共に島津氏に従属する存在へと変わっていったのである。その一方で、明には引き続き独立国であるという体裁をとり続けることになった。というのは、家康や島津氏にとっての琉球の価値は、明との交易ができるという点が大きかったし、家康としても琉球を通じての明との講和交渉を期待していた。

そこで忠恒の圧力の下、琉球は明に対し使節を送り、日明貿易をできるようにするよう求めた。しかし明は異例の使節派遣を問題視するとともに、使節の中に「畜髪の倭人(=禅僧ではない)」がいたことなどから、交渉の背景に日本がいることを見抜き、逆に琉球の朝貢間隔を10年に1回へと減じた(元々は2年に1回)。事実上の朝貢停止である。

この強硬な措置に驚いた琉球は、以後さまざまに交渉して明との関係改善に努め、1623年に5年に1度へと緩和されている。

一方島津氏は琉球征服以降、渡航許可証による本格的な統制を試みている。征服後にも、民間の商船は盛んに琉球に渡海していた。島津氏の統制を受けない民間商人たちは琉球との交易を行っていたのである。島津氏の統制がどこまで有効に機能したかは不明だそうだ。

対して、幕府の方は貿易から手を引いていく。1611年には大名による朱印船派遣を停止。「島津氏は琉球を利用してルソン貿易を行おうと、琉球国王に対する朱印状を幕府に申請し、認められた(p.324)」。「琉球がフィリピンとの交易を行うのは約20年ぶりであった(同)」。しかしこれは最後の仇花というべきものだったかもしれない。1616年に家康が死ぬと、徳川秀忠は日明関係の回復を諦め、徐々に海外への門戸を閉ざしていくからである。

「第7章 「黄金の箍」を次代へ」では、さらにその後日譚が語られ、羽地按司朝秀(はねじあじちょうしゅう)の改革によって筆が擱かれている。これは最後に少し語られるに過ぎないが、「我々が「伝統」と考える沖縄のさまざまな仕組みや文化・風習は「古琉球」の次代から連綿と伝わったのではなく、その多くが羽地の改革路線のうえに誕生・成立したものなのである(p.339)」と書かれており興味深い。

全体として、本書は書きぶりは平易で読みやすいが、編年的に書かれておらず、年代が行ったり来たりするので経過の理解は困難だった。このメモを書くことでようやく見えてきた感じである。そして当初の疑問だった「そもそもなぜ島津氏は琉球に侵攻したのだろうか」については、はっきりとした解答が得られなかった。

「貿易の利益を独占するため」とはいえ、侵攻後も民間商船は往来しているし、朝貢を通じた交易については10年に1回という大打撃を被り、侵攻前に比べて却って不利になっている。侵攻後に島津氏はどのような点で得をしているのだろうか。長い目で見れば、琉球国は薩摩藩の「植民地」として徐々に搾取されていくのであるが、短期的には損失の方が大きかったように読めた(本書の記述でははっきりしない)。

ただし、名目的な面では侵攻は理解できる。属国扱いしてきた琉球が、秀吉の死後、急に距離を取り始めたので、このまま独立国の顔をされては「外聞」が悪いと島津氏が考えたとしても無理はない。また軍功なく初代藩主となった島津忠恒にとって、琉球征伐が自らの求心力を高める軍事イベントとして捉えられたであろう。こうした政治的な面の方が、貿易云々の実利面よりも琉球侵攻の真因であったのかもしれない。

ともかく、独立国であった琉球が日本の版図に組み込まれ、やがては沖縄県となっていく契機が島津氏の琉球侵攻であり、これは近代日本の成立にも大きく影響してくる事件であった。にもかかわらず、琉球侵攻はこれまであまり語られてこなかった。近年、多くの研究が進展し、それを踏まえてまとめたのが本書だということだが、未だ不鮮明なところが多く残されている。

琉球侵攻に関する現時点での研究を総合的にまとめた本。

【関連書籍の読書メモ】
『「不屈の両殿」島津義久・義弘—関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』新名 一仁 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/12/blog-post_20.html
島津義久・義弘を中心とした歴史書。琉球侵攻に至る薩摩側の動向については本書が参考になる。

 

2022年8月8日月曜日

『日本女性史』脇田 晴子、林 玲子、永原 和子 編

女性によって書かれた日本女性史。

本書は、女性研究者のみによって「日本女性史」を書いたものである。既に日本女性史総合研究会によって『日本女性史』全5巻という重厚な本がまとまっている中で、編者たちがどういった点を不足と見なし本書を手がけたのかは明らかでない。しかしおそらくは、日本女性史総合研究会編『日本女性史』が論文集的で一般向けには少し高度なものであるため、通史として読める平易な女性史を試みたものだと思う。

実際、本書は多くの研究者が分担して執筆しているが、記載の粗密があまりなく、たいへんよくまとまっており読みやすい。日本において女性という存在がどのような歴史を歩んだかということを理解するには、必要にして十分な内容を持っていると思う(本書編纂の時点では)。

「原始の女性」では、農耕以前の社会において女性が大きな役割を果たしていたとしつつ、日本は母系制であったか双系制であったかは議論があるとする。さらに卑弥呼の存在に注意するが、倭の五王がすべて男性であることを考えると、徐々に行政が男性によって独占される傾向にあったことを述べる。しかし6世紀以降でも、しばしば国造に女性が任命されたこと、推古以来8世紀後半までに女帝が集中的に出現することを踏まえ、ヒメ・ヒコ制(男女二重王権)が生きていたと指摘している。村の女性の生活については、衣類を織る仕事が女性の仕事として確立していたことが興味深い。

「古代の女性」では、律令国家における女性の地位の変化が述べられる。日本が範とした中国の律令制では女性は班田給付の対象から除外され賦課(課税)の対象にもなっていなかったが、日本の律令制では男子の3分の2の班田が給付された。しかも租・庸・雑徭が課されたのは男性のみで女性には免除されていたから、女性が有利な立場となった。

また結婚については、中国では未婚と既婚は峻別されて社会的地位に反映したのに比べ、日本の戸令・戸婚律は中国のやり方を形式的に引き継ぎながらも、実際には慣習が尊重されていたので未婚・既婚は曖昧であった。一方、官僚制においては、女性は中国と同じく官僚から除外されていた。ところが中国の場合は父系制が貫徹していたので皇帝も父系の血筋のみが重要で母の出自は問われなかったものの、日本では母方の系譜も重視されたため、一般女官と天皇の配偶者になる女官とは区別され、それがかえって一般女官の独立性を高め、実務家として発達していったとの指摘は面白い。

さらに話は6世紀末から8世紀後葉にかけての女帝が集中する時期の分析へ進む。この時期は極端な父系近親婚が行われた時期でもあり、編者らは女帝はその副産物であったと見ているようだ。則ち「血統の純化(p.38)」のために女帝が必要であり、天皇家の血統が確立した時には女帝はもはや「中つぎ」でしか登場しなくなっていた。

この頃の王朝文学では女性が中心的な役割を果たしていたが、女性の地位は低下の傾向を見せていた。妻問い婚など、女性は男性に従属しない社会的立場がまだ存在したものの、女官たちも性(後宮)と母性(乳母)の役割にのみ変質していく。また妻問い婚も、男性が来なくなると没落する女性が現れるなど、女性が男性に経済的に依存するようになる。女房たちの文学が栄えたのも、素養の高い娘を入内させ権門を拡大しようとした貴族の思惑があったからこそであり、外戚政治の終焉とともに女房文学も衰退した。

この他、芸能(傀儡子・白拍子・遊女)、物語に見る女性の立場、女性の農業などが語られる。中でも興味深かったのが、衣服についてで、3世紀から8世紀までは男女同形態の「貫頭」衣系の衣服が着用されており、次第に(特に公的な場で)袴が着用されるようになったのも男女同じであったという。もちろん衣服には差も大きかったが、その共通性に着目した記述が面白かった。

「中世の女性」では、まず中世には「嫁入婚」に移行したことが述べられる。婚姻は武士団のつながりを作る手段でもあったのが、一方で母親の権利は絶大であり、女性は男性に従属していたのではなく、独自の所領を持ち軍役すら課されたこともある。また乳母も一族の結合に重要な役割を果たした。

ところで頼朝には四人の乳母がいたが、それが全員尼だった(=寒川尼、山内尼、摩々尼、比企尼)のを改めて不思議に思った。乳母になる条件に出家があったのだろうか? 出家したのに子どもを産んでいたのも奇妙である(乳母は出産して、自分の子供とともに養育する子に乳をあげる)。

村の女性では、幕府の農民支配においては、家父長制原理によって女性は土地台帳から除外された。しかし実際には土地を所有していた女性は多くいた。また村落の神事などでは女性は排除されていない。つまり名目的な部分では女性は排除されていたが、実態としてはそれほど女性が社会から疎外されていたわけではなかった。

古代社会では、僧尼は基本的に対等に扱われたが、中世においては尼寺が僧寺に従属する存在とみなされるようになった(←しかしこの主張には具体的な根拠が挙げられない)。また女人禁制の習慣が広まり、「五障」「女身垢穢(にょしんくえ)」「三従」などの考えによって女性を罪深いもの・不浄なものと捉える価値観が浸透した。

衣服の変化についていえば、中世では男性は袴の着用が一般化する一方、女性は褶(しびら)か小袖一枚になり、ワンピース形式でスカート式の衣服になっていった。さらに褶もなくなり小袖の着流しになると、帯が必要になった。帯は最初衣服を留めるための実用的なものであったが、これが江戸時代になると装飾的なものとなり、また体を締め上げるコルセット的なものとなっていく。

室町・戦国期の記述では、活躍する後家尼の例がたくさん挙げられている。後家尼は主人亡き後の「家」を統括し、時には戦の指揮までも行った。ここでも「尼」の存在感は不思議である。尼という以上は出家していたのだろうが、俗縁を断ち切るどころか家を統括するとはどういうことなのだろうか。この時代、男も「入道」となって、法体でありながら戦をやっている人はたくさんいるのでそれと同じなのかもしれない。

朝廷では女房が天皇の取次役となって地位が上昇し、特に「勾当内侍(こうとうないし)」は内侍の最長老として宮廷の権限を一手に掌握した。綸旨ではなく(内々の勅旨を伝える)「女房奉書」で天皇の指令が出されるなど、「室町・戦国期の衰微の極にたっした天皇家では、諸事、勾当内侍のやりくりの才覚で、何とか家政や体裁がまかなえていたという感さえある(p.93)」。

この時代には商売が盛んになるが、品物の行商は女性によって始められた。多くの商売が女性によって営まれており、座の最高責任者、座頭職を所持していた女性もいた。女性は男性の補助ではなかった。他にも、酒作りが女性の仕事であったなど製造業でも女性は活躍していた。しかし近世に入ると、「女が酒蔵に入ると酒が腐る」といわれるなど、女性を不浄視する思想の浸透とともに商業や製造業から女性が閉め出されていくことになった。

本章の最後には、少し「熊野比丘尼」の話が出てくる。1563年(永禄6年)、129年ぶりに伊勢神宮造替(豊受大神宮の造替)を行い、本願上人として遷宮を果たした慶光院主清順上人は紀州入鹿村出身の熊野比丘尼であった。勧進に活躍した高野聖のことはよく知られているが、芸能(あるき巫女、声聞師)しつつ勧進を担った女性たち、熊野比丘尼、伊勢上人といった人たちがいたことを初めて知った。

近世の女性」では、幕藩体制の成立とともに、長男子単独相続が強固なものとなっていったことがまず語られる。女性は相続から完全に排除されていたのではないが、女性が家督を相続するのは他に男性相続人がいない臨時的なものに限られ、しかも代理人を立てなければならないなど、公的な場面での女性の排除が進んだ。

続いて、女流人(るにん)について述べるのが独特で興味深い。死刑に次ぐ思い刑罰だった流罪は、どのような女性が受けたか。一番多かったのが火付けの罪人であったというのが意外だった。遊女や下女などの最も弱い立場にいる女性が追い詰められて火付けをした。夫の罪の身代わりとなって流された女もいる。不義や密通で流された女も多い。江戸時代では妻のみが貞操を守ることを強制されていた。一方、男性の流人で一番多かったのは博奕の罪だというから男女の差は際立っている。

農村の女性の働きについては、江戸時代を初・中・後期に分けて詳細に述べる。大まかにまとめれば、権力者たちは「農家の嫁」に対して農業の補助を求めたが、小農経営の展開にともなって17世紀後半には女性の役割は拡大し、男女共通の作業が行われるようになった。さらに18世紀末以降には、女子労働の地位は上昇し、賃金差も縮小した。また商業の発展により、賃金をもらって働く仕事も多くなり、女性の家の外への社会進出が進んだ。

女子教育については、この時期に寺子屋の女性経営者が現れているということが注目される。やはり彼女らは女子教育を重視していた。しかもその教育内容は男子向けのものと変わらなかったようだ。ただし女子向きに琴や三味線などの習い事も教えていた。儒教道徳に基づいて(!)女学校を建てるべきだと主張する奥村喜三郎のような人も現れた。

町家女性については、三井家の事例が述べられる。初代の三井高利の母・珠法(稼業に身を入れない夫に代わり経営の中心となった)、妻・寿讃(高利を支え三井家の繁栄に貢献した)の例は興味深い。というのは、ここでもやはり女性は尼となっているからだ。

女性は仏教においても不浄観・罪障観で見られ、宗教的行為が制限されていた(女人禁制や寺社参詣禁止など)。一方、この時期に女性教祖が出現する。如来教のきの、天理教のみきなどだ。彼女らは家の枠にとらわれない、一人の独立した人間としての女性の救済を説いた。

儒教を批判した女性も現れる。幕藩体制社会批判の書『独考(ひとりかんがえ)』を表した只野真葛(まくず)は、「無学む法なる女心より、聖の法を押すいくさ心也」と述べて「女の闘争」を宣言した。彼女は儒教倫理への怒りを、国学と蘭学の素養から表現した。

逆に儒教道徳を貫徹することで自らの生き方を切り拓いた女性もいた。女性で漢詩人だった原采蘋(さいひん)である。彼女は「孝」を掲げて一生独身を貫き、誰かの妻ではなく「漢詩人」として生きた。この頃、女性であることを桎梏であると考え、そこから逃れようとする戦いを挑んだものが見られるようになる。

幕末の動乱については、野村望東尼(もとに)の例が紹介される。望東尼は「かりがねの帰りし空を眺めつゝ 立てるそほづ(=かかし)は我身なりけり」と詠み、自分を社会から疎外され傍観しかできないかかしだと嘆いたが、固い決意で和歌の修業に取り組み、夫の死後剃髪してからは主体的に行動していく。平野国臣など尊皇攘夷派の志士たちと付き合うようになったのだ。高杉晋作を自分の山荘にかくまったこともある。彼女は筑前藩によって弾圧されたが(流罪)、それに堂々と反駁したことが注目される。古典の学習を通じて女性の政治参加への正統性を論理的に主張する力がついていたのである。

近現代の女性」は、 本書中、最も分量が多い。文明開化政策の内実は女性を差別するものであったから、明六社の人々などは男女同権論を主張したり畜妾の風習を批判した。しかし衆議院議員選挙はおろか、町村制でも女性の参政権は認めないなど、女性は江戸時代以上に公的な場から排除された。新たにできた法や制度は逆に男女差別を確立した。明治政府は、家制度を元々そうであった以上に家父長制を貫徹したものに再構成し、女性を戸主の下に隷属化した。

こんな中でキリスト者たちは、女性教育や女性の権利を守る運動(廃娼運動)を行った。特に女性の高等教育はミッション系が先駆けた。それに対し一般的には女子の高等教育は導入されず、「良妻賢母」を育成するための教育が行われていた。それは、女性の側からの男女平等要求を押しとどめるために”賢い女性”を作ろうとするものであった。特に菊池大麓は「良妻賢母」の徹底につとめた。女性は必ず結婚しなければならず、妻にも母にもならない生き方は異端とされた。

一方、工場では女性は安い労働力として活用された。「日本の資本主義の中枢にあった紡績産業が若年の女性の低賃金と長時間労働、特に深夜業によって支えられ発展してきたこと(p.214)」は『女工哀史』に克明に記されている。彼女らはほとんど身売り同然で(父兄が契約して)工場に送られ、男性のほぼ半分の賃金で24時間体制で働かされた。そのような働き方をさせられた女性たちは「人間性までも損ない、いやしがたい傷を負わされた(p.218)」。

日露戦争が起こると、それまで婦徳の修養などを目指していた婦人会が軍事組織として活用された。女性は政治から排除させられていたのに、政治には強制的に協力させられたのである。

こうした動きに反発し、平塚らいてうらは『青鞜』で新しい女の自己主張をした。また女性が様々な職種で働いて(働かされて)いたことから、次第に母性保護運動や婦人参政権運動が起こってくる。女性は様々な義務だけ負わされていて、権利がないのはおかしい、という矛盾を突いたのだ。婦人参政権運動(婦選運動)は非常な盛り上がりを見せたが、貴族院では大差で否決され、遂に戦前では実現しなかった。

また廃娼運動も明治以来命がけの抵抗によって続けられてきたが、戦争が始まると公娼が戦時体制下にとって必要な制度とされ、「遊客数は1935年の約2700万人が37(昭和12年)には3000万人にものぼる異常な激増(p.261)」を見せ、「この底知れぬほどの性退廃は単に国内にとどまらず、アジアの侵略地にまでも広げられた(同)」。

国家総動員体制においては、女性たちは「軍国の母」として、「婦人の務め」を果たし、子を戦地に送ることが美徳となり、大日本連合婦人会、国防婦人会(→大日本国防婦人会)、大坂国防婦人会がその推進母体となった。1941年(昭和16)には、この三婦人団体を統合して「大日本婦人会(日婦)」が結成された。これは「20歳未満の未婚者を除くすべての女性を組織する」というとんでもない団体であった。女性労働力も根こそぎ動員されたが、これは徴用ではなくあくまで「自発的な勤労動員」であった。男性の多くが戦地へと行ったため、あらゆる職種で女性が働き手の中心となった。

戦後も旧政権の勢力は天皇制を温存し、「一億総懺悔」として全ての矛盾を国民に押しつける姿勢を見せたが、マッカーサーは「日本婦人の解放」を五大改革指令の第一に掲げ、男女平等への道が開いた。以後、参政権の付与と政治家への女性の進出、差別的労働条件の改善などが徐々にではあるが実現した。しかし例えば日本はILOから「国連婦人の10年」の間に格差が開く唯一の国ときびしく指摘されるなど、男女平等の取り組みは未だ道半ばである。

最後に、1985年(昭和60)、日本が女子差別撤廃条約に批准し、世界で72番目の締約国となったことで本書は擱筆されている。

本書は全体として、日本における女性の歴史を概観するのに優れている。それを改めて確認すれば、歴史以前〜古代においては女性の地位は相当に高く、中世においても女性は男性と対等の立場や相続の権利を持ち、「女人入眼の日本国(慈円)」と言われたように国の中枢に女性がいた。ところが既に中世の頃に女性の権利は凋落を始めており、近世に至ると仏教的にも女性の不浄観・罪障観が定着し、女性であることを桎梏と捉える態度も出てきた。明治維新後は、国家は家父長制を貫徹させ、女性を奴隷的に扱って国の駒として利用した。どうして女性の地位が「開化政策によって」低下しなければならなかったのかは本書には詳らかではない。さらに戦争中はその傾向が加速し、特に公娼・慰安婦によって女性は公然と性の道具とされた。戦後はそうした政策は修正されたが、未だに男女同権は実現していない。

こうした歴史の中で、非常に気になったのが、社会的に独立して活躍した女性に「尼」が多いということである。もちろん「尼」は専門的な宗教者として尊重されていたわけではないが(むしろ夫の死後に習慣的に剃髪する人が多い印象)、「尼」であるということも社会的地位に影響したのではないかと思われる。 尼であることの意味がなんなのか、本書に考察はなかったがより考究したい点である。

日本における女性の立場の変遷を平易に学べる良書。

 

2022年7月24日日曜日

『維新の衝撃 近代日本宗教史第1巻』(島薗 進、末木 文美士、大谷 栄一、西村 明 編)

幕末から明治10年代くらいまでを中心とした日本宗教史。

『近代日本宗教史(全6巻)』は、多くの研究者の協力の下、平易かつ本格的な近代日本宗教史として企画編纂されたものである。体裁としては通史というよりはトピック毎の論文となっており、その間に短いコラムが挟まっている。

「第1章 総論—近世から近代へ」(末木文美士)は、巻頭に相応しい、端正な歴史の概観である。これまでの研究成果を踏まえつつ、神仏分離から国家神道までの道筋を語り、今後の課題を提出している。国学では「幽界」と「顕界」の問題、仏教教団については特に西本願寺派(の島地黙雷)の動向に注目し、仏教界といえど単なる被害者ではなかったことを述べている。

「第2章 天皇、神話、宗教—明治初期の宗教政策」(ジョン・ブリーン)では、(1)宮中儀礼・祭祀、(2)伊勢神宮、(3)比叡山と日吉神社がケーススタディ的に述べられる。(1)では、神祇官の廃止は福羽美静など津和野派の求めた結果であったとし、国家儀礼としての天皇による祭祀を創出する取組を述べている。本節は、明治政府の当初の宗教政策を述べるものとしてもよくまとまっている。(2)では、伊勢神宮が国家の大廟として変貌した様を簡潔に描く。(3)では、最初に廃仏毀釈の被害者となった日吉神社について取り上げる。これは類書に比べかなり詳細である。さらに、まだあまり研究が進んでいない延暦寺の明治維新について概観している。延暦寺は「座主」に天皇の承認を必要とするなど朝廷との深い関係があったが、それが明治初期に急速に解体されていった。

「第3章 国体論の形成とその行方」(桐原健真)では、まず「国体」という言葉の持つ「魔術的な力」を表す象徴的な事件=金城女学校での「地久節不敬事件」(1908年)が取り上げられる。さらに「国体」という用語の出自について水戸学(特に会沢正志斎と藤田東湖)の思想が検証されるとともに、幕末の国学者たちが儒学的普遍主義の「国体論」から分離して日本固有の論理に基づいた新たな「国体論」に跳躍させたと説く。特に大国隆正は平田篤胤がこだわったあの世=幽界の問題から距離を置き、現世主義の考えから天皇を「世界の総王」であるとして「皇国」の「国体」の優越を説いた。ただし水戸学者たちと国学者たちの思想がどう連結していたかは記載がない。

「第4章 宗教が宗教になるとき—啓蒙と宗教の時代」(桂島宣弘)では、外来の概念"religion"に日本の「宗教」が合わせていった過程を述べている。岩倉使節団は外遊において、ヨーロッパ諸国の文明の基盤には宗教があることを発見し、また信教の自由が外交問題となっていることに衝撃を受ける。また森有礼は藩政時代にイギリス留学し、また維新後はアメリカに赴任していたため、早くから「政教分離」「信教自由」を主張していた。当然森は、明治政府の宗教政策を批判し、「自分でつくったreligionを人民に押しつける政府の企て」と非難した。森は「明六社」の創立者の一人であるが、明六社でも宗教論が様々に議論された。そういった趨勢の中、啓蒙知識人たちの間では、religion以前の宗教と見られた庶民の信仰は文明と相容れないものと見られるようになった。特に病気直しについては、西洋医学を阻害する有害な「迷信」と考えられた。そこで金光教などの新宗教は、本来は病気直しを中心とする素朴な民間信仰であったにもかかわらず、文明国に相応しい「宗教」へ自ら改革していくのである。一方、島地黙雷は神道をreligionと呼べるものではないと批判したが、国家の方でも神道儀礼を国民に強制する都合から、神道は宗教ではないとされた。開明的な仏教者であった島地と国家の思惑が奇妙に一致していたのが興味深い。

「第5章 近代神道の形成」(三ツ松誠)では、西川須賀雄を取り上げて近代神道の形成過程を追っている。西川須賀雄は佐賀藩出身で、六人部是香(むとべ・よしか)の門人となった。六人部は篤胤の門人であった神職である。佐賀藩には六人部の門人となったものが多かった。佐賀藩では学問が家禄や役職維持のための条件として使われ、藩校弘道館から大隈重信や江藤新平など俊英が輩出された。その講道館教授に枝吉神陽がおり、彼は矢野玄道の友人で国学的な思想を持ち、皇派志士に大きな影響を与えていたのである。西川須賀雄は大教院開講式で説教を行い、修験宗廃止令の後、出羽神社(羽黒山)に宮司として赴任。須賀雄の下で旧来の修験組織は「赤心報国教会」へ改変(!)、その他多方面に教化活動を展開した。

「第6章 新宗教の誕生と教派神道」(幡鎌一弘)では、幕末に遡って新宗教の動向が述べられる。明治政府は「神道は宗教ではない」と整理したので、神社神道から宗教としての「教派神道」が分離された。一見、新宗教(黒住教、金光教、天理教など)と教派神道は全く別の動きをしているがその動向は緩やかに繋がっていた。国家・社会の近代化なしに新宗教の勃興もあり得なかったからである。

「第7章 胎動する近代仏教」(近藤俊太郎)では、仏教勢力が国家の中に位置づけを得て自らを近代化していく様子が述べられる。神仏判然令以降、仏教は国家から冷たくあしらわれていたが、西本願寺の僧侶大洲鉄然は寺院寮を設けて諸国の寺院を管理させるよう政府に建議を提出した。これを受け1870年閏10月に民部省の中に寺院寮が設けられたものの、わずか1年後の1871年(明治4年)7月、民部省は廃止。以後、「社寺に関する庶務は戸籍寮のなかに設けられた社寺課で処理された(p.218)」。同年9月、島地黙雷は教部省の設置を求めた建言を提出。10月、左院では江藤新平が寺院省の設置を建議し、1872年3月には神祇省が廃止されて教部省が設置された。また、同年6月には「政府は仏教七宗に教導職管長を置き、それを通じて仏教を統制することとした(p.220)」。一方この時代は真宗にとっては画期的な意義を有し、「真宗」公称許可、真宗各本山住職の華族化、親鸞への大師号宣下などが教部省の下で実現した。教部省は各宗管長に「従来の宗規を調べて届け出よ」との達しを出し、これによって仏教教団は規則の調査・整備の必要に迫られ、近代化を進める契機となった。本節では、浄土真宗(特に本願寺派(西本願寺))がどのように自己改革をしていったのかを述べているが、その内容は、国家との関係でいえば、常に天皇・国家に融和的であったといえる。さらに本節では、自己修養と社会矯風を目指す「反省会」が取り上げられる。一種の仏教青年会であった彼らは、真宗を「新仏教」として規定し直し、過去の仏教との決別を図った。

「第8章 キリスト教をめぐるポリティクス」(星野靖二)では、幕末から明治初期のキリスト教・キリスト者の動向が述べられる。初期のプロテスタント集団「三バンド」(横浜、熊本、札幌)、札幌農学校のクラークのキリスト教的教育、漢文聖書による活動など、明治にキリスト教が徐々に広まっていく様子が概略的に理解できた。特にキリスト教を受容したのに旧幕臣が多かったという指摘は面白い。彼らは「キリスト教に日本の精神面における維新を仮託していた(p.260)」。明治初期には、キリスト教は文明の宗教であったが、一方でキリスト教は学問的知見と矛盾するという批判もあった。明治期、日本人は西洋文明をほぼ無批判に受け入れたが、キリスト教だけは必ずしも全面的に受容しなかった。そこに日本人や明治維新の特質が見られるように思う。

本書は全体として、「関心のある人には誰にも読めるような平易な通史を目指したい(巻頭言)」との意気込みがありながらも、「平易な通史」とは言えない。まず、各章ごとの独立性が高く、編年的に書かれていないために通史の体裁を為していない。また、何年に何があったというような年表風の記載がなく、各章で時代が行ったり来たりするのがわかりにくい。そして出来事の記述よりもその分析や論述の方が中心であるために、「誰にも読める」ものになっていないと思う。せめて巻末に年表をつけたらよかったのにと思う。

それから不思議なことに、本書では神仏分離と廃仏毀釈についてはごく簡単にしか触れていない。第2章で日吉神社の廃仏毀釈が取り上げられるくらいである。明治初期における宗教政策の動向を語る上で、神仏分離と廃仏毀釈については不可欠だと思うが、なぜ記述が軽いのか気になった。

一方で、既にこの分野の類書を手にしているある程度詳しい人にとっては、多角的に明治期の宗教史が検証できるので、本書は参考になるものだと思う。とはいえ、本書は多角的ではあっても体系的ではない。やや散漫な論文集の印象があるのは否めない。

近代日本の国家と宗教の関係に焦点を当てた論文集。

 

 

2022年7月18日月曜日

『壱人両名—江戸日本の知られざる二重身分』尾脇 秀和 著

「壱人両名」を通じ江戸時代の身分制を再考する本。

「壱人両名」とは、村の百姓「利左衞門」が、同時に公家の家来「大島数馬」である、というように、一人で二つの名前を持ち、それぞれで活動しているものをいう。

ある村の百姓・A右衛門が、別の村の百姓・B左衞門であるというケースや、百姓〜町人、町人〜町人、町人〜武士など、様々な場所や身分を横断して一人二役をしていたのが「壱人両名」なのである。

江戸時代は身分差別の時代であり、百姓・町人と武士の間には超えられない壁があったと考えられてきた。しかし実際にはそうではなく、百姓や町人が武士になることは金があれば簡単にできたということは近年広く知られるようになった。ところが本書を読むと、百姓を兼ねる武士とか、親が百姓で同居の子どもが武士である(しかもそれぞれ相続していく)といった事例を通じ、そもそも江戸時代の身分とは何なのか? と改めてわからなくなってしまう。

身分を横断する「壱人両名」なるものが、どうして生まれたのか。

第1に、それは江戸時代の「名前」の在り方が関わっていた。江戸時代には、百姓は百姓らしい、武士には武士らしい名前であることが求められていた。名前が社会的立場を表示するものだったからである。そもそも、百姓は名字を公称することはできなかった。そこで、二つの社会的立場を兼ねる場合には、自然と名前も別になる素地があったのである。

第2に、江戸時代は徹底的に縦割りの社会であった。国家による一元的な国民管理などは存在せず、各「支配」に人々が所属し、その中での秩序が優先されていた。「支配」とは、今の用語とは違い、「上位のものから配分された仕事や領域、更には、分配されたそれらを管轄・統治することを意味(p.32)」する言葉である。百姓なら領主が「支配」であるが、これも○○村の領主は誰々…というような単純なものではないこともあった。村は各百姓ごとに領主が定まっている場合も多く(「相給」という)、この集落の領主は誰々…というような切り分け方ではなかったのである。「支配」はあたかもモザイクのように社会を切り分け合っていた。そして「支配」内の秩序は重視される代わり、幕府も各「支配」に統治を委任し、それぞれの「仕来り」を承認する考えであったので、「支配」間の整合性はどうでもよかった。

では、「支配」にまたがって活動する場合はどうなのだろうか。18世紀以降、様々な立場を兼ねる、つまり兼業するものが多くなったが、例えば町人が、勘定奉行の下でその「御用」(公務)にも従事するようになったらどうなるのか。町人は「町」の「支配」で、勘定奉行の下での仕事は、勘定奉行の「支配」である。このように二つの支配系統に属するものを「両支配」という。もちろん勘定奉行での仕事がフルタイムのものなら、「支配替」を行い、町人を辞めて武士になることもできた。ところが商売も続けるということになると、武士になることはできない(武士には商売は禁じられていた)。そこで、勘定奉行の仕事の間だけ武士になる、といういわばパートタイム武士(その間のみ苗字帯刀が許される)が生まれたのである。

第3に、江戸時代の戸籍ともいえる「人別」の仕組みが関係していた。「人別」は各「支配」ごとに作成されたが、それを統合する仕組みはなく、「支配」内で整合していればそれでよかった。ここでX村の百姓・A右衛門が、Y村の百姓・B右衛門の土地を購入して耕作することを考えてみる。A右衛門がY村に移住する場合は、X村の「人別」から抹消する手続き(「人別送り」)が必要である。これは、必ずしも法令では定まっていなかったが自然発生的に行われた慣習である。ところが、こうした手続きは個人ではできず、五人組などの共同申請が必要だった。そしてX村で元々耕作していた土地は誰かが耕作し続けなければ村としては困る。百姓ですらも名前が名跡となる「株」となっていた。

X村の土地も、Y村の土地も問題なく耕作され、年貢が納められることが大事であり、「人別」の仕組みを考えれば、A右衛門とB右衛門の「株」が欠番にならないことが大事だったのである。そこで、A右衛門がどちらの村に住んでいたにしても、X村ではA右衛門、Y村ではB右衛門としてそれぞれの土地を耕作すれば、何の問題もないというわけだ。このように一人が別の人別に登録されることを「両人別」といい、表向きは禁止されていたが、これは村の必要に応じたうまいやり方であり、A右衛門が何か問題を起こさない限りは決してバレなかったのである。ポイントは、A右衛門の事情と同じくらい、村の都合で生まれたのが「両人別」だったということだ。

もちろん、こうしたことはやらないで済むならそれに越したことはないので、例えばX村のA右衛門の「株」は息子のC次郎に継がせ、自分がY村でB右衛門の「株」を継承することで「両人別」を避けることができる。ところがC次郎が早死にした場合はどうするか。A右衛門(C次郎)の「株」が欠番になってしまうのを避けるためにB右衛門がX村のA右衛門を兼ねる、といった対応が必要になるわけだ。江戸時代の「人別」が非常に細かい範囲で縦割りに作られており、「人別」上の秩序が優先されることでこういう事態が生じるのである。また、百姓だけでなく武士や町人(商人)においても、それぞれの社会的立場は「株」化していた。そしてその「株」の欠番を避けるため、継承に適当な人物がいない場合でもそれが「空き株」として名跡(名義)が残され、別の人物がその役目を果たしている、ということが多かった。

であるから、「何屋何兵衛」が実在する人間か、それとも非実在の名跡であるかを、名前はもちろん「人別」を見て判断することもできないのである。 

第4に、武士の格式とその経済的な豊かさが見合っていなかったということがある。江戸時代、武士は支配階級として幅をきかせていたと思いがちだが、例えば植民地の支配階級のように我が物顔に振る舞えていたわけではない。それどころか、先述の通り商売が禁止されていたなど、制限も多かった。本書には書かれていないが、石高と格式にも対応関係はないのである。そして江戸時代中頃から、経済的に没落する武士が多くなり、武士の「株」は金銭で売買されるようになった。金さえ積めば百姓が旗本になることも簡単だった。

そこで、百姓や町人が武士の「株」を買って武士になることがよく見られたのだが、問題は武士には商売はおろか、町や村の土地を所有することもできず(居住もできず)、耕作も認められていなかったという点である。そこでこれまで通りの収入を確保するためには、武士であると同時に、百姓や町人としての経済活動を続け(町人名義で土地を所有して商売をし)なくてはならない。こうして「壱人両名」の状態になるのである。

また逆に、元は武士であるが小禄であるため、村の土地を買って耕作しようとする者も出てくる。その場合も武士のままでは土地の所有も耕作もできないため、百姓の名義にして購入・耕作ということが行われるのである。

なお、町人が百姓でもあるような「壱人両名」は「人別」を偽る行為であったので罪ではあったが、単なる公文書偽造であって重罪ではなかった(過料が通例)。ところが百姓と武士を兼ねるのは重罪で、これは明らかになれば追放刑などが科された。また当然、公議は名義上での土地の所有などを禁じていたが、ここには武士の経済という抜き差しならない問題が横たわっていた上、「支配」が徹底的に縦割りであるという仕組みがあったので、そういった「壱人両名」が横行したのである。

第5に、庶民の身分上昇への思惑があった。これまで見たように、江戸時代の身分は移動できないものではなかったので、身分・格式を高めようとする庶民がいた(だが、武士になったからといって実利はあまりなかったのに、やはり身分上昇を図ったのは今から見ると少し不思議である)。例えば、京都では町人が「地下官人」(朝廷の仕事を行う人)を兼ねることがよく見られた。地下官人は苗字帯刀が許されていたからである。

もちろん、「地下官人」は朝廷の「支配」であり、町の「人別」から抜け出ることになる。ところで今まで述べてこなかったが、「人別」は、武士や公家は対象外としていた。 それは、武士や公家には所属する「支配」の長=支配頭がいたので、庶民の「人別」に当たる「宗旨改一札」はあったものの、その「社員名簿」に登録されることが「人別」の代わりであり、身分の確認においては支配頭に確認すれば事足りたためである。

そこで庶民には、「人別」を抜けることが高い格式を得ることだといった意識が生じた。 そこで例えば「地下官人」になることが身分上昇の手段となった。ところが「地下官人」が専業だったら問題はないが、これは裕福な町人が名誉職的に得るものであり、無給であることも多かった。そこで元の職業を続けながら町人としての経済活動を続ける必要から、「壱人両名」が生じたのである。

類似の事例で興味深いのは、神職の場合である。神職の場合、吉田家が許状を出していた、という、「株」で理解される他とは異なる事情がある。吉田家は全国の神職の元締めとして、神職として認める(=神職としての名前を許す)許状を金銭と引き換えに出していたのである。例えば百姓が吉田家から苗字帯刀を認められれば、祭礼の間は武士身分と見なされる。それだけなら問題はないが、「自分は百姓ではなく神職である」と「人別」にそのように登録するように求めたらどうなるか。「壱人両名」が、次第に「人別」の離脱を図っていったのである。

このように、江戸時代の中頃から「壱人両名」は広く見られた現象であった。合法のものも非合法のものもあったが、非合法の場合であってさえ、おおっぴらにならなければ誰の迷惑にもならなかった。社会の秩序を維持する一つの手段だったのである。

ところが、明治維新になると「壱人両名」は終わりを告げる。京都府が明治元年に定めた「戸籍仕法書」では、村や町だけでなく武士・神職・僧侶など族籍ごとの戸籍を作ったが、このような縦割り戸籍では「壱人両名」が生じるなど、国民の正確な把握が困難であった。しかし明治4年4月には族籍別を廃止し、同じ町や村に住む人間を全て対象にした戸籍を編成することとした(=壬申戸籍)。さらに12月には華・士族・卒に農工商の職業を営むことが許可され、また身分別の土地設定が解消された。また明治5年には名前を一つだけにするという布告が出、「壱人両名」を成立させていた、制度的な基盤や身分格式の別がなくなっていった。

本書は「壱人両名」をテーマにしながら、「人別」の説明が丁寧で、また明治政府の戸籍行政の変遷もわかりやすくまとめている。これは意外と丁寧に説明されることがない事項なので参考になった。

また、本書を読みながら疑問だったのが、僧侶とその他の身分の「壱人両名」はあったのかどうか、ということである。神職と違い、僧侶の場合は剃髪するので、簡単に2つの身分を兼ねることができないように思う。本書には医師と町人を兼ねるケースが紹介されているが、医師も剃髪している場合があるので、髪型は関係なかったのかどうか気になった。髪型も身分格式を表示する重要な表象だったはずである。

それから、江戸後期に「株」の売買によって従前の身分と格式が非常に流動的になっていたことは、本書のテーマからは逸れるが興味を引いた。フランス革命の場合も、その前夜に売官の制によって新興の階級が実質的に貴族化していく現象が見られたが、江戸時代も全く同じ様相を呈している。江戸幕府を存立させる重要な前提であった「身分」が解体したことにより、黒船が来なかったとしても革命前夜の条件が整っていたのかもしれない。

江戸時代の社会の在り方を「人別」から見る良書。

【関連書籍の読書メモ】
『氏名の誕生 ——江戸時代の名前はなぜ消えたのか』尾脇 秀和 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/02/blog-post_21.html
今の日本人の「氏名」がどうして生まれたのか解明する本。日本人の「名前」について知るための必読書

『日本の近世7 身分と格式』朝尾直弘 編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/05/blog-post_8.html
江戸時代の身分について考察する論文集。近世の身分について多角的に検討した充実した好著。

 

2022年7月4日月曜日

『渋沢栄一 近代の創造』山本 七平 著

維新前後の渋沢栄一を描く。

渋沢栄一は、文久3年に攘夷の示威行動「高崎城乗っとり」のグループにいたが(後述)、その11年後には第一国立銀行の総監役となった。死をも辞さない熱狂的な攘夷主義者であった栄一が、なぜたった11年で近代化政策の推進者となったのか。本書は、その変化を描きつつ、一貫していたものとは何かを探るものである。

渋沢栄一は、埼玉の百姓に生まれた。といっても才覚ある祖父や父によって彼の家は豪農となり、藍玉の商売によって巨利を得ていたから、百姓というよりは商人であった。渋沢家は領主を凌ぐほどの富を持ち、文化にも遠慮なく金を使っていた。一方で、栄一が贅沢品を買ったのを見て父が非常に落胆したことがある。必要なお金は大胆に使うが、華美を嫌い、「百姓」としての誇りを持っていたのが彼の父であり、生涯、栄一はこの父を尊敬した。

そして彼は、義兄で従兄でもある、10歳年上の尾高藍香(おだか・らんこう)に大きな影響を受けた。藍香は石門心学流の実学を重んじ、経営や技術にも明るい上、儒学にも造詣が深い教養人であった。そんな彼はあくまでも江戸時代の学問の枠内から(つまり洋学の影響ではなく)、幕府の倒壊は間近であると見通すとともに、郡県制・実力主義の人材登用の新制度へと変えなければならない、と確信する。埼玉の一農民でしかなかった藍香はこうして革命を夢見て倒幕=尊皇攘夷運動に身を投じ、カリスマ的魅力でグループを組織していった。その一員となったのが従弟の渋沢栄一、従弟の喜作であり、弟の尾高長七郎であった。

そしてその決起計画が「高崎城乗っとり」であった。横浜にある外国の商館を焼き討ちするため、まずは領主の居城高崎城を夜襲して武器弾薬を奪おうというのである。そして関東一円に趣意を喧伝してその動きに呼応させ、天下の形勢を一変させようとするものであった。彼らは長州がこれによって挙兵すると考えていたらしい。

しかしこの計画は、藍香が京都に派遣していた弟・長七郎の必死の説得によって中止される。決起の準備が整った頃、同志69名が帰郷した長七郎を取り囲んで会議を行ったところ、長七郎が意外にも反対したのである。彼らの計画は一言で言えば空想的すぎた。京都で坂下門外の変などに間近に接してきた長七郎には、それが単なる犬死にで終わることが分かっていた。こうして会議は激論となった。しかし激論となったこと自体に注目すべきである。というのは、異論を唱えた長七郎を「切って捨てろ」とはならなかったからだ。彼らは狂信的な攘夷主義者であったが、「激論」を戦わせて答えを出すという、文明的な態度を持っていたのである。

こうして藍香たちは36時間もの議論をぶっ続けで行い、長七郎がもたらした時事情報を吟味した結果、計画は中止となった。議論によってこうした決断が出来たということが、彼らが血気にはやる若者集団なだけでなかったことを窺わせる。

計画中止により、一転、栄一たちは捕縛の危険にさらされることとなった。それまで計画の遂行のために大枚をはたいて武器を買い集めていたからだ。やむにやまれず栄一らは故郷を去る。逃亡同然だったが、栄一の父は出奔に際して「思うままにせよ」と述べ100両を餞別に与えた。「これは父の豪(えら)い所だと思う(p.185)」。

なお出奔に際して、栄一は父に自分を勘当するよう申し出たが(これは自分に事件があった時に実家に迷惑がかからないようにするため)、父は今すぐに勘当する必要はなかろうといい、栄一は妻子を実家に残し、喜作とともに京都に旅立った。

ところで、なぜ埼玉の農民グループが激論によって答えを出すという態度を身につけていたのか。著者はその背景に「詩」を見る。栄一が17歳の時、藍香と二人で藍の売り込み旅行に信州に出かけたことがあった。セールスの出張である。その際、二人は旅の様子を漢詩にしたため、『巡信記詩』という詩集を作った。「十七歳の農家の一青年がセールスをしながらこういう詩を作っていた時代が日本にもあった(p.166)」。二人には相当な漢文の知識があり、それは特別なことではなかった。そして詩の世界に遊ぶことは、「絶対管理されない「一貫している詩の心」(p.184)」を持っていることであった。言い換えれば、彼らはいつでも世界を日常語と違う論理によって見ることができた。しかもそれは、どこまでも個人の内面のみから生じる自由な世界であった。著者はこの漢詩の能力こそ幕末明治の人の「思考の武器」だったという。

京都へ着いた栄一たちは、しばらく旅館に泊まって志士気取りをしていたが、彼らは一介の田舎ものに過ぎず「藩」の後ろ盾がないので相手にもされない。不安になって長七郎を京都に呼び出したところが上京の途上で捕縛されてしまう。これは後に「高崎城乗っとり」とは無関係であることがわかったが、この知らせに栄一らは震え上がる。またその時既に栄一たちは無一文どころか25両の借金もあった。進退窮まった彼らに手をさしのべたのが、一橋家に仕えていた平岡円四郎という男。京都で知り合って意気投合していた相手だった。

元々栄一たちは幕府の倒壊間近と感じていたので一橋家に仕えるつもりは毛頭無かったが、平岡に説諭されて一橋慶喜の下で働くことになった。しかし自分たち自身が納得するためにも、その際に慶喜に倒幕を勧めるという異例の建言をした上で臣下になっている。よほど平岡は栄一らに目をかけていたのだろう。それに平岡にとっても、自分の手足となって絶対に裏切らない、有能な部下が欲しかった時期であった。こうして栄一は「武士」になる。百姓と武士という「身分」の移動を妨げる障壁は何もなかった。武士として雇われれば武士なのである。

平岡の下で、栄一は諜報員のような働き(大坂で、薩摩藩出身の折田要蔵を探る)をして認められ、今度は一橋家の兵隊をリクルートする命を帯びて関東で集めるが、その折りに平岡が水戸藩士に暗殺されてしまった。だが平岡の後を継いだ黒川嘉兵衛にも栄一は認められ、今度は関西で兵隊をリクルートする仕事(歩兵取立御用掛)をした。慶喜は京都守護職であったにもかかわらず、手兵がいなかったからである。栄一は456人もの応募者を連れて京都に帰った。そうなると今度は、この手兵を養うためのお金が必要になる。こうして栄一は一橋家の勘定組頭となって財政改革に取り組むのである。

当時の大坂は、為替や先物取引、両替(江戸時代の貨幣制度は複雑で、しかも幕府は紙幣を発行していなかったので両替が発達した)、質(しち)といった金融面で非常に発達していた。栄一はこうした仕組みを学び、一橋家の財政改革を推し進めた。ところが、主君一橋慶喜が将軍となってしまう。主君が将軍となれば臣下は喜びそうなものだが、栄一は幕府の倒壊は近いと思っていたから、将軍にならぬよう、と建言していたほどだった。こうして、今度は栄一は幕臣となった。倒幕論者だった栄一が幕臣となったのは皮肉なものである。

しかしここで転機が訪れる。慶喜からの命で、慶喜の弟・徳川昭武に随行してフランスへ行かされるのである。昭武はパリの万国博覧会に出席するとともにヨーロッパを巡遊し、ナポレオン3世より招待されてフランスに留学する予定だった。そこには攘夷派の志士が護衛のため随行することとなっていたが、攘夷派の心情も分かり、会計や実務に明るい栄一に白羽の矢が立ったのである。もちろん栄一自身もかつては強硬な攘夷派だったのだが、すでにその頃栄一は開国指向へと変わっていた。幕臣となっては面白くないから百姓に戻ろうとまで思っていたので、栄一はこの話に飛びついた。

この栄一の洋行で、特徴的なことが2つある。

第1に、栄一は西洋を毛嫌いしたり、逆に感化されて西洋礼讃になるようなところがなかったことである。彼は慣れない食べ物も「うまい」と食べ、西洋の新技術に感心したが、今風にいえば「フラット」だった。栄一は技術や実務といった面から西洋を見ていたから、自分の感情を交えず社会を冷静に観察した。一方、思想や宗教といったものはあまり関心がなかったようである。

第2に、彼は一行の中で会計実務を一手に担ったので、特に西洋の会計制度に熟達するようになったことだ。そして合本組織(株式会社)の存在を知り、これこそが日本の悪弊「官尊民卑」を是正する切り札になると確信するのである。一株は武士が持っても百姓が持っても一株で平等。そして利益は株式に従って分配される。財利のことを武士がいうのはみっともないという日本の常識と違い、彼は西洋諸国の君主が殖産興業(特に製鉄)に力を入れているのを目の当たりにして衝撃を受けた。しかしそれを国家による官営工業で実現するのではなく、民間の零細な資本を集めて実現するべきと考えたところに彼の非常な独自性がある。

こうして西洋の社会を実地で学んでいたところに幕府瓦解の報が入った。彼らを派遣していた政権がなくなってしまったのだ。同行者は次々と帰国。一方、栄一はなるだけフランスに留まり続けようとし、母国からの送金なしに昭武とともに留学を続けようと画策した。ところが幕府瓦解によりナポレオン3世の態度も冷淡となり、フランスに居続けることは不可能だった。滞仏2年弱。道半ばでの帰国だった。栄一29歳の時である。

帰国後、栄一の戻るべき場所はなかったから、駿河に行って慶喜に仕えることにした。ただしこれは仕事がなく困って慶喜を頼ったということではなく、慶喜への恩に報いるために百姓になってでも奉公しようという考えだった。そういう栄一にも慶喜は冷淡だったが、彼を勘定組頭に任命するなど手元に置こうとした。慶喜は情は薄かったが栄一の有能さは買っていた。だが栄一には宮仕えをする気はなかった。それよりも、フランスで学んだ「合本組織」による商業の振興に興味があった。彼は一橋家の協力も得て、民間の資本も募り「商法会所」を設立する。これは銀行と商社を足したような組織であった。栄一はこの頭取となって積極的な商社活動を行い、「水を得た魚」のように活躍した。彼はこの活動をライフワークとし、家族も呼び寄せて駿河に永住するつもりであった。

が、明治2年に突然新政府よりスカウトされて栄一は「大蔵省租税司」となる。栄一としては自分の事業を中断することを意味したからこの出仕は残念であり、新政府には反発心もあった。しかも新政府には栄一の知人は一人としていなかったから、政府内でもこの起用に反対する人がいたらしい。著者は、慶喜から栄一という有能な駒を引きはがすための人事ではなかったかと推測している。ともかくこうして栄一は新政府の一員となり、それは不本意でもあったが結果的には目覚ましい働きをする。新政府の役人はかつての志士上がりばかりで、政局に聡いばかりで実務には疎かったから、実務経験豊富な栄一が重宝された。

そして栄一は、大隈重信の下、大蔵省の「改正局改正掛長」(兼務)として制度改革に大なたを振るうことになった。これは今風に言えば政策研究所である。ここでは自由闊達な議論が行われ、アメリカの制度を参考として多くの改革が実施された(栄一はフランスへの留学経験があったのにアメリカの制度をより多く参考にした)。「明治政府における渋沢栄一の政治上の最大の業績といえば、この改正局をつくったことであろう(p.575)」

ここで栄一が提言・研究したことは、例えば全国測量、度量衡の改正、貨幣制度、禄制改革、駅伝制の改正、外資を導入しての鉄道の敷設、金納による租税納入(実施は明治7年)などである。栄一が関与したこうした改正事業は200近くあるという。なお明治3年8月には改正掛が「穢多非人の称を廃して平民籍に編入」する措置も行っている。

明治4年の廃藩置県では、藩札や藩の借金の扱いに苦心しつつも乗り切った。そして栄一は大蔵大丞(事務次官)に昇進するが、ここで新政府最大の実力者大久保利通と対立する。その要点は、栄一は各省に予算をつけて、その中で事業を推進する考えであったが(つまり今から見れば当然のやり方)、大久保らは予算(使えるお金の上限)など設定する必要はなく、その都度の必要に応じてお金を支出すればよい、という考えだったのである。陸海軍に大きな支出決定をしようとした大久保と対立して、栄一は辞職を決意した。

大久保らが岩倉使節団で外遊に出発すると、政治的対立が棚上げされたことを奇貨として近代化政策はさらに進められたが、やはり予算の対立があって栄一は井上馨とともに政府を去った。

政府を去った渋沢は、「国立第一銀行」の総監役(頭取)となる。「国立第一銀行」は栄一が設立したもので、三井組・小野組が共同で運営する国立銀行である。三井・小野は全くの対等であったから、組織が綱引きで立ちゆかなくなることを怖れ、彼らを調停する頭取として渋沢を雇ったのである。渋沢は頭取といっても雇用契約に基づく「雇われ社長」であった。なお、本書での説明は簡潔だが、この「国立銀行」は敢えて言えばアメリカの連邦準備銀行(これは民間の銀行)に近い。ポイントは紙幣の発行がこの銀行を通じてなされることである。その原資は何かというと、新政府が乱発してきた巨額の不換紙幣(太政官札など)であり、これを回収して兌換紙幣に替えてゆくことがこの銀行の当初の大きな役割であった。また大蔵省の出納事務もこの銀行でなされた。

なお、この銀行の設立にあたっても、栄一は広く株主を募っているのが面白い。実際には三井・小野の出資が大部分であるが、5分の1ほどが一般の株主の出資であった。国立銀行を株式会社的に運営しようとしたことに栄一の信念を感じる。

本書は「第一国立銀行」出発の時点で筆が擱かれている。ただし、強硬な攘夷主義者の一農民であった渋沢栄一が、たった11年後に「国立第一銀行」の頭取になる経緯が詳細に語られ、「そこには常に変わらない一貫したものを感ずる(p.658)」とされながらも、一貫したものは何か、変化したものは何か、というまとまった考察は本書にはない。

本書を通じて私なりに感じたのは、まず栄一の中で変化した点は経済観念である。栄一は豪農の息子であり何不自由なく育っている。京都に行った時も残金の計算もせずに旅館に泊まり、結果無一文になっている。そして喜作とともにネズミを捕まえて食べるのである。この時、栄一は、経済の裏付けがなかったら、いくら立派な思想や主張があっても役に立たないと悟る。ここに大きな転向があった。そしてちょうどその時に一橋家の勘定組頭という会計責任者となったことで、栄一は会計・金融の道へと入っていくのである。

次に、変化しなかった点は、おそらく身分平等の意識であろう。栄一は百姓時代、父の名代として代官に呼び出されて500両の御用金(要するに強制的な寄附)を申しつけられた。一般には500両は大金だが、渋沢家にとってはなんでもない。だが金を出させる方が偉そうにして、こちらを軽蔑しているものだから栄一は憤慨した。身分の差、というもののバカらしさを感じた原体験だったようだ。その後も一貫して、栄一は身分の差の解消に取り組んでいるように見える。彼にとって経済は、身分の平等を実現するための方策だったように思えてならない。

本書は全体として、栄一の自伝の引用を基調として、それを一つひとつ読み解いていくような形で書かれている。扱っているのは人生のたった11年間であるが非常に丁寧な評伝である。しかしながら、「近代の創造」を副題としているのに、維新政府で栄一が何を行ったかは極めて概略的にしか述べられないのは少し物足りない。彼の携わった近代化施策はもう少し詳しく知りたかった。「穢多非人廃止」にしても一言だけで終わっている。

私自身の興味としては、渋沢栄一と戸籍法の関わりについて知りたくて本書を手に取った。戸籍法も、栄一が「改正掛」で調査して公布したものの一つであるが、本書ではそれについての詳細はない。ただ、どのような経緯や環境でそういった仕事を手がけたのか、ということはよく理解できた。

渋沢栄一の若き日の11年間を追う大著。

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