2022年9月6日火曜日

『歴史で読む国学』國學院大學日本文化研究所編

国学の発展の歴史を平易に述べる本。

国学とは何だろうか。本書はこの疑問に対してその歴史的発展を丁寧に追うことで答えるものである。普通には、いわゆる国学四大人(したいじん/しうし)、すなわち荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤の人生や活動にフォーカスを当てることで国学を説明するのに対し、本書では編年的に国学に関係する事項を教科書風に述べてゆく。無味乾燥といえばそうかもしれないが、私には非常に読みやすくまたわかりやすかった。

本書は、第1章が元禄期で「水戸光圀と契沖」、第2章が宝永〜享保期で「荷田春満の活動を中心に」、といった具合に、だいたい10年から20年ほどの間隔で章を区切って構成されている。よって前後関係が明確に理解できることはもちろんであるが、編年的な記載を貫徹することで、一般的にはあまり知られていない人物がたくさん登場することも有り難かった。

まず本書では、国学を「近世中期に発生した、(中略)日本古典の文献実証を行い、それを通じて古代の文化を解明しようとする新たな研究方法による学問(p.1)」と定義する。 

江戸中期になると日本の古典が書肆から出版されるようになり、人々に身近になった。また儒学が台頭し、儒学を基盤とした仏教批判が湧き起こってくる。それは仏教の土着化(身近なものになり村・町に定着した)の結果でもあった。さらに神職が吉田家などから許状をもらうことで「神道」が自立していくようになるのも近世である。これら「古典」「儒学」「仏教」「神道」が絡み合うことで国学が発展していく。以下、編年的に内容をメモする。

【元禄期】山崎闇斎は儒学から出発し、口伝などを総合して儒学的に神道を再構成し「垂加神道」を創始した。しかし垂加神道は、実証的な方法論で構成されたものではないという弱点があった。一方、儒教の古典をあくまでも成立当時の原意に沿って理解しようとしたのが荻生徂徠などの古文辞学派であった。彼らは当時の儒学としては傍系であったが、方法論が確立していたこともあり息が長かった。特にこの方法論は国学にも影響を及ぼした。真言宗の僧侶だった契沖は、水戸光圀の依頼を受け、古典の文章の意味を実証的に検証する方法によって『万葉代匠記』を書き、万葉集研究を飛躍的に進歩させた。また『和字正濫鈔』は定家仮名遣いを批判し古代の仮名遣いの規則性を明らかにした。彼には特定の師匠はおらず、門人も少なかったがその著作を通じて大きな影響を与えた。

【宝永〜享保期】神職が「神道」の自覚を深めていく状況で、出雲大社、京都の稲荷社などで「プレ神仏分離」というべき仏教的要素の排除が行われた。その稲荷社の社家を世襲した家の次男として生まれたのが荷田春満(かだの・あずままろ)である。春満は和歌と神道を教授する学者として江戸に出て活動した。神田明神の神主・芝崎好高を門人にしたことで活動の足がかりができた。新井白石は『古史通』など日本古代も研究対象としていたが、春満と白石の違いは契沖の学問を受容するかどうかである。それは儒学における古文辞学派の方法論を採るかどうかの違いであった。そして新井白石が吉宗の代になって冷遇されたのとは対照的に、逆に春満は幕府における古典籍の真偽判定を担うようになった。幕府には由緒に箔を付けるためなど多くの偽書が提出されるようになったからである。また春満は『創学校啓』という国学の学校を作るべきという国学史上重要な文書を起草した。

【元文〜延享期】春満が京都で亡くなったその翌年、賀茂真淵が江戸へ赴いた。江戸には春満の学問を継承する門人やその庇護者が存在していた。そうした基盤があったからこそ、真淵は江戸で活動することができたのである。一方、春満の養子在満(ありまろ)は、幕府から大嘗祭の儀礼の調査を命じられた。吉宗は文治主義の考えから朝廷の儀礼の復興に力を入れたことがその背景にある。その報告書のダイジェスト『大嘗会便蒙』は、初めての大嘗祭概説書であり、朝廷からの抗議で発禁となって処罰されたものの、後々まで大嘗祭研究の基本図書として重んじられた。なお朝廷の儀礼を復興しようとする機運の背景には、礼楽の注目もあった。徂徠派は儒学の元来の形として礼楽も重視したが、日本風の礼楽がまさに朝廷の儀礼であったのだ。桜町天皇即位にあたっての大嘗祭復興後も、続々と朝廷の国家的な祭儀は復興された。またその文脈の中で朝廷の神事における神仏分離規定も復活した。在満は和歌御用を務めながら幕府の朝廷儀礼研究にも関与していたが、在満の後任が賀茂真淵である。ちなみに幕府で彼らを庇護したのが、吉宗の次男である田安宗武である。彼自身が和学に深い関心を寄せ、万葉風に歌を詠むこともしている。

【宝暦・明和期】当時、春満よりも朝廷に大きな影響力を持ったのは垂加神道であった。山崎闇斎を継承した竹内式部は桃園天皇に垂加神道を講義して一つの到達点をなしたが、それに批判的な上層公家や、それを問題視した幕府により式部は追放され、また積極的だった公家は謹慎などの処分を受けた。これが宝暦事件である。一方、賀茂真淵はその関心をより古代に遡らせ、枕詞の画期的な研究書『冠詞考』を出版。また最晩年には万葉集の注釈書『万葉考』も出版した。それまで契沖や春満の研究はほとんど知られておらず、特に春満の著作は一冊も出版されていなかったが、真淵は彼らの学問を継承して研究成果を出版することで世の中に大きなインパクトを与えた。特に『冠詞考』を読んで学問の方向を決定づけられたのが本居宣長である。宣長はたまたま伊勢神宮に参詣した真淵と対面し、入門を許される。二人は生涯でその1回しか会ったことはなく、この出会いは「松坂の一夜」と呼ばれる。真淵は、文芸の本質は人間の感情の発露であるとする「もののあはれ」論を展開し、和歌の教授を通じて「県門の三才女」などの多くの女性門人も得た。一方、荻生徂徠の門人太宰春台の『弁道書』は、(中国の)聖人以前に「道」はない、と言う主張があったため論争が起こり、真淵は『国意考』で日本には日本の道「自然(おのずから)の道」があると主張している。それどころか、戦乱が相次いだ中国より日本の方が、神武天皇よりの皇統が連続しているから優れているとして儒教批判を繰り広げた。この古道論の登場が、仏教思想に依存しない儒教への本格的な批判として日本史における初めてのものであった。またそれは国学の歴史にも大きな転換点となった。この頃が国学の学的な確立期である。

【安永・天明期】荷田春満の子・御風(のりかぜ)、妹・荷田蒼生子(たみこ)を中核とした荷田一門は江戸の国学の有力一派であり、諸大名や幕臣・町人などの求めに応じ和歌の指導や古典講義を行っていた。一方、賀茂真淵が県居(あがたい)と号したことから、その門流を「県門」と呼ぶが、県門は「万葉派」「伊勢派」「江戸派」に分岐したとされる。万葉派には、代表的人物として楫取魚彦(かとり・なひこ)と加藤宇万伎(うまき)がいる。魚彦は中津藩主奥平昌鹿や姫路藩主酒井忠以(ただざね)を弟子にするど学界における有力者であった。他方、宇万伎の弟子には上田秋成がいる。江戸派では、加藤千蔭と村田春海が著名である。なお村田春海は、生涯に一度だけ本居宣長と出会い、宣長に突き動かされるように国学者として活動していく。この頃、宣長の論争活動が目立つようになる。例えば明和8年(1771)に、太宰春台『弁道書』の批判として書かれた『直毘霊』(初稿は『直霊』)。ここでは「儒学の教えを欺瞞と虚飾に満ちたものとし激しく指弾(p.103)」した。これにより儒学者との間で「直毘論争」または「国儒論争」という論争が巻き起こった。宣長は議論を「そっちこそどうなんだ論法」に持ち込む論争家だった。次に有職故実家にして好古家の藤貞幹の『衝口発』への批判『鉗狂人』。これも多くの人を巻き込む大論争に発展した。一方、宣長を批判したのが大坂の上田秋成であった。秋成と宣長の往復書簡を宣長側で整理したのが『呵刈葭(あかいか)』という著作。よって二人の論争を『呵刈葭』論争と呼んでいる。

【寛政期】田安宗武の第三子にあたる松平定信は、「寛政異学の禁」によって幕府の学問としては朱子学以外を禁じた。一方で塙保己一(はなわ・ほきいち)の提案を容れて「和学講談所」が設立され、それが林大学頭(昌平坂学問所)の支配とされた。保己一は国学者ではないが賀茂真淵に師事したこともあった。儒学の補完的なものとして和学が理解されていたことが注目される。この頃、宣長の出版活動は極めて旺盛となり、ほぼ1、2年ごとに著作を発表した。『玉くしげ』(天明7年)では初めて「大政委任論」を主張(本書は宣長の生前は出版はされていない)。これは現実の体制を正当化する論理であったが、これがやがて倒幕に繋がっていくとは皮肉なものである。宣長は、寛政4年(1792)には紀州徳川家に松坂在住のまま召し抱えられた。一介の町医師がその学識を買われて召し抱えられたのには多くの国学者に注目された。寛政10年(1798)、執筆に30年以上費やした『古事記伝』(全44巻)を脱稿。生前に出版されたのは第3帙(〜17巻)までであったがこれは古事記研究の画期的な業績であった。なお第17巻の付巻として、国学的宇宙論を述べた服部中庸の『三大考』が収録されたのは後に種々の軋轢を生んだ。寛政期はこの他、上田秋成による賀茂真淵の著作の刊行、荷田春満の評価の高まり、契沖の著作の出版など国学はかなりの広がりを持ち、近世国学史上の転換期と評価される。またそうした機運の中、光格天皇による様々な朝義の再興・復古が行われた。特に1790年に完成した寛政度内裏の復古様式での造営とそれに伴う種々の出来事は注目される。

【享和〜文政期】古道論を主張する宣長の門流(鈴門)は国学の中でも主流ではなかったが、宣長を継いだ大平は宣長の著書を盛んに刊行した。江戸では、徳川家斉が和学講談所に年額50両の給付を決定し、和学が盛んになる。中でも屋代弘賢の『古今要覧稿』は未完成ながら日本最初の本格的な百科全書である。また県門の江戸派(加藤千蔭・村田春海)は歌文を中心に人気があった。これら文献実証を中心とする学問や歌学がこの頃の国学の中心だった。このような状況の中、平田篤胤は寛政7年(1795)に脱藩して江戸に出、私塾真菅屋(ますげのや)で講義。篤胤は宣長没後にその著書に接してその学問に傾倒していた。そして篤胤は、妻織瀬を亡くした文化9年(1812)、『霊能真柱(たまのみはしら)』を執筆し、初の著書として翌年出版した。これは服部中庸『三大考』を下敷きに、独自の死後の世界を述べたものである。篤胤は死後の世界を黄泉ではなく目に見えない幽世(かくりよ)だと考えた。中庸も篤胤の学問を高く評価し、両者は義兄弟の契りを固めた。篤胤は積極的に学者と交流し、吉田家とも昵懇の仲となった。文政6年(1823)には吉田家江戸役所の学頭に任じられた。「あの世」の話など身近な話題を展開することで、庶民や地域の産土社の神職層など、それまでの和学・国学者がアプローチしていなかった層を開拓していったのが篤胤であった。

【天保期〜ペリー来航】天保期は国学の受容者層が藩校や地域社会に広がった。平田篤胤は著書『大扶桑国考』を朝廷・天皇へ献上したが、幕府からは絶版を言い渡され、しかも江戸追放の処分を受けた。これには篤胤門人の生田万が大塩平八郎に倣って蜂起したことが影響していたのではないかという。篤胤は秋田に移住し、晩年まで旺盛に執筆。没後は養子の銕胤が継ぎ、没後の方が門人が多かった。気吹舎の発展に銕胤が果たした役割は大きい。なお没後門人でありながら平田家から後に絶交されるのが鈴木重胤である。篤胤は江戸追放になったが、この頃は多くの藩で国学が興味を持たれ、国学者が藩校の教授になるなど藩政との関わりが深くなっていった。特に佐藤信淵は多くの藩でその著述が参照された。しかし信淵も天保3年(1831)に江戸から追放された(しかし宇和島藩・薩摩藩から出入りを許され、綾部藩には招かれた)。津和野藩では、神職で国学(宣長系→平田篤胤門人)を学んだ岡熊臣が中心となって神葬祭復興運動が行われる。また藩校養老館の教師に任命されると福羽美静を輩出した。さらに藩校では野々口隆正(大国隆正)が国学教師となった。また地域社会でも、豪農商層や神職によって国学が学ばれ実践された。これを「草莽の国学」という。この時期、山城国乙訓郡の神職で国学者の六人部是香は、篤胤の幽冥論を考究し、産土神が死後の魂を主宰する考えを提出。これは地方神職に信仰共同体の再編の指針を示すことになった。

【ペリー来航後〜慶応3年】それまでの国学は歌学を中心として非政治的なものであったが、この時期に急速に政治的なものとなっていく。特に篤胤没後の「気吹舎(いぶきのや)」は門人や来訪者からの情報を記録・交換することで政治情報ネットワークの結節点として成長した。また篤胤の著作を時事にあわせて再編集して積極的に出版した。さらに国学思想は、中島広足『敏鎌(とかま)』に見られるように日本の優越性の主張や国のために命を捨てる態度などを鼓吹し、イデオロギー化していった。本居家もそれまでの歌学ではなく、本居内遠の「古学本教大意」など国事へ携わるように変化した。政治への影響力の点では、井伊直弼のブレーンとなった長野義言(よしとき)が大きかった。直弼—義言の過酷さの背景には、「諸々の凶事の背後に存在するマガツヒに対抗するためには強く正しい心で悪と穢れを根絶しなければならない、という復古神道神学が存在していた(p.178)」。この時期は天誅が吹き荒れ、気吹舎も『玉襷』『気吹颫(いぶきおろし)』など攘夷をアジテーションする著作を発表。また平田系門人は反幕的立場を鮮明にした足利三代木像梟首事件を起こした。国学者も天誅の対象となり、長野義言の一党は斬殺、和学講談所の塙忠宝(ただとみ)は廃帝の先例を調べているという噂のため伊藤博文に暗殺された。鈴木重胤も平田門人によって養子とともに斬殺された。国学者は危険分子と見なされるようになり、秋田藩は藩士の平田延胤を幽閉処分にした。この時期に延胤が著したのが王政復古の歴史的正当性を示した『復古論』である。なお安政期の西郷隆盛は気吹舎をたびたび訪れ同行者を入門させている。

【明治元年〜明治8年】明治政府は、当初祭政一致の体制で出発し、古代律令制復興の一環で神祇官が設置された。一連の政策には津和野藩の藩主亀井茲監(これみ)と福羽美静が深く関わった。国民がキリシタンにならないように教育するのが神祇官におかれた「宣教使」の役割で、特に長州藩士で儒学者の小野述信がこの実務面での中心を担った。これは歴史上初めて、神道の教義について公的に議論する場でもあったが、特に黄泉国と天津祝詞については宣教使間で話が意見がまとまらず、意見の統一自体が断念された。それを埋め合わせるかのように、国学者たちは国学を教える学校の設立に邁進した。吉田家は矢野玄道を招いた学寮を、白川家も学寮を設置。また政府は「大学校」に平田銕胤を大学博士としたが、銕胤は昌平黌以来の釈奠(せきてん)を廃止して漢学者からの猛反発を招き、大論争へ発展した。こうした争いを背景に明治4年、平田派国学者は政府から排除され、維新政府における影響力は減衰した。しかし国学者たちは明治天皇の教育(侍読)には引き続き携わっている。明治5年には教部省が発足。その事務の一つに教義書の出版の許可があり、教部省編輯課(→考証課)では、小中村清矩など考証派の国学者が神社由緒の考証に活躍した。

【明治8〜明治23年】神道が国教の位置から後退して、神道教育は神道事務局生徒寮神宮教院本教館が中心となった。一方国学・神道学者たちの間で「祭神論争」が勃発し、勅裁によって終止符が打たれた。これによって国学に基づく統一的な「神道」の構築が不可能であることが露呈し、宗教・教化と国学との分離=教学分離がもたらされた。またこれに応じ、教導職と神職が分離する「第二次祭教分離」も行われた。この結果、神道は「神社神道」(祭祀)と「教派神道」(宗教)に分離。また、神道事務局生徒寮は皇典研究所へ発展して国学者の重鎮が参加し、内務省から神職資格の授与を委託されて全国展開した。また東京大学でも、国学者として初めて教授となった小中村清矩によって古典講習科が設置された。この古典講習科はたった6年しか存在しなかったが多数の国学者を輩出し、近代人文学へと接続していった。明治23年(1890)、司法大臣山田顕義(あきよし)、井上毅の尽力により皇典研究所に國學院が設置された。國學院からは三矢重松折口信夫が輩出された。こうして皇典研究所は宗教的な教化から国史・国文・国法などの研究教育といった近代人文学へ軸足を移した。また『古事類苑』が西村茂樹の建議に基づいて行われ、多くの学術結社が設立された。皇室典範や大日本帝国憲法の起草にあたっても古典の知識を持った国学者が参画した。

【明治中期〜昭和20年代】この時代、国学はその方法論を反省し自らを再定義しようと試みた。小中村清矩の弟子で養子の池辺義象は「古典学」の呼称に統一すべきと主張し、やはり小中村清矩に学んだ芳賀矢一は国学を「日本文献学」として転生させようとした。芳賀の『国民性十論』はその実践の一つで、同書により国民性という言葉が広く用いられるようになった。「最後の国学者」とも称される三矢重松は国学が「新国学」として脱皮することを期待した。大正期には、国学は国民道徳論に関与していったが、柳田國男・折口信夫はそれに異を唱えた。柳田は国家にとって必要な国民道徳ではなく、むしろ近代化に伴って消えつつある諸民俗の研究によって真の国民の精神を明らかにすべきと考えた。その研究を柳田は「新国学」と位置づけ、これは民俗学として発展した。三矢重松に教わった折口信夫は國學院の教授となり、柳田國男の研究にも触発され、古代の信仰を明らかにすることを目的とした「新しい国学」を提唱した。昭和に入ると文部省『国体の本義』の刊行など、政府は天皇の聖性を強調するようになっていく。このような中で、従来文壇で顧みられなかった日本古典や古美術に回帰した日本浪漫派が活動。また『国体の本義』編纂に関わった久松潜一など国文学者も、古典の研究ではなく、「日本精神を闡明する」ための「新国学」を指向していく。しかしそれらは「精神論がもっぱら先行し、方法論的な議論はほぼなされなかった(p.245)」。

【明治後期〜現在】明治16年(1883)、井上頼囶らの尽力により荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤へ同時に正四位が贈位され国学の系譜が公認された。「国学」が明確な形をとったのが明治中期以降であり、昭和に入ると国学は政治化し、「日本精神」論の流行とも相まってまとまった学術的著作が陸続と刊行された。そして戦後には、西郷信綱が『国学の批判』を著すなど、国学の本来の在り方が見直され、契沖や本居宣長など近世の国学者が改めて研究されるとともに各全集の刊行などが続いた。現代では国学研究は史料基盤がさらに拡大し、様々な分野での研究が格段に進展したことで、近代において国学とはなんだったのか、より深いレベルでの検証が可能になりつつある。

本書は全体としてかなりよくまとまっている。執筆者は一戸 渉、遠藤 潤、小田真裕、木村悠之介、齋藤公太、武田幸也、問芝志保、古畑侑亮、松本久史、三ツ松誠。多くの執筆者が分担しているにもかかわらず、記述の粗密があまりなく、重複も(後半を除いては)少ない。通史的かつ平易に理解できるものとして、本書は第一に掲げるべき国学史の教科書であると評価できる。

ただし本書には弱点がある。教科書的な内容であるにもかかわらず、事項ごとには参考文献が掲載されていないのである。巻末には「主要参考文献一覧」があるのだが、どこの記載に対応するものなのか全く書かれていない(せめて章ごとに掲載してほしかった)。しかしそういう弱点があるにしても、総合的に見ればこれ以上のものを求めるのは酷というものかもしれない。

国学史の教科書として現時点の決定版。



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