2022年2月13日日曜日

『改造社と山本実彦』松原 一枝 著

『改造』と円本を生んだ山本実彦の評伝。

戦前の言論において『中央公論』と並ぶ時事評論誌であるとともに、多くの文豪が活躍していた雑誌『改造』。これを発行していた改造社を個人事業として経営していたのが山本実彦である。

実彦は鹿児島県の薩摩川内市大小路町に生まれた。生家は士族で鍛冶屋を営んでいたが、父親が酒飲みでしかも連帯保証人の債務で田畑を失い零落する。こうして実彦は赤貧洗うがごとき少年時代を過ごした。向学心にあふれた実彦は中学に進学するが生活が成り立たず退学。家族を養うため沖縄にわたって教師となった(小学校の代用教員→国頭郡農学校助手等)。実彦は教師としては「ペスタロッチの再現」と言われるほど熱心であったが金が溜まるとさっさと辞めて鹿児島に帰り、ついで上京した。

東京で実彦が頼ったのが同じ鹿児島出身(宮之城)の大浦兼武であった。大浦兼武は警保局主事として選挙での野党弾圧(大干渉選挙)の指揮を行って出世し、その後大臣を歴任、大隈内閣では内相に任命されたが、選挙での収賄を弾劾されて(大浦事件)政界を引退した人物である。実彦が頼ったころは第1次桂内閣で逓信大臣を務めていた。大浦は、実彦には大学に通うようアドバイスしたようだ。

実彦は昼間は働いて法政大学に通ったらしい。「らしい」というのは、実彦が自分で書いた履歴書には「日大卒」となっていて詳しいことはわからない。大浦との関係も実態は不明である。しかしどうやら大浦の影響で、実彦は政治家になるという決意を固めたとみられる。

実彦は大学を卒業すると「やまと新聞」に入社。これは桂内閣の御用新聞である。ここで実彦はスピード出世をする。入社後2年で実彦はやまと新聞のロンドン特派員となった。ロンドンで実彦は広い視野を身につけ、また東郷平八郎元帥と親しく知り合ったことも大きな収穫だった。帰朝後、実彦は東京市議会議員に当選して若干29歳の青年政治家が誕生した(大正2年)。

ところが、東京市議員の仕事は本書には詳らかではない。実彦は同時期、東京毎日新聞社を買収して社長となったからだ。同社は経営難に陥っていたとはいえ、買収費用はどうまかなったか正確にはわからない。後藤新平が当初の資金を出し、また板垣退助の台湾旅行をバックアップするという条件でどこからか金が出たらしい。実彦は政治家とのつながりでのし上がった。

さらに大正4年、第12回総選挙が行われると実彦は鹿児島で与党憲政会から立候補した。しかし当確を目前に実彦は台湾総督府に呼び出される。台湾の林本源からの収賄容疑であった。実彦は無実を主張したが、どうも後ろめたい金の動きがあったのは事実のようだ。当然選挙はご破算となり、実彦は台湾で拘留後投獄された。帰国後、母の訃報を聞き帰省。一度は郷里で隠退するつもりになったほどだった。

しかし実彦は再起を誓う。まずは東京毎日新聞社を売却して資金を手に入れ、さらにどこからか1万円が懐に入ったので、それを元手に実彦はシベリアに向かった。当時日本軍はシベリアに出兵しており、実彦は軍(陸軍参謀総長)と親密な関係を築き、それを土台にいろいろな策動をしたようである。実彦は久原鉱業から6万円もの大金を「調査謝礼」としてもらったといわれている。久原鉱業はシベリアで鉱山を手に入れようとし、その手先となったのが実彦だった。結局、大正11年にシベリア派遣兵は撤退し久原鉱業の件は頓挫するが、この6万円が『改造』の基を作るのである。

実彦はその金のうち3万5千円を使って南品川浅間台に豪邸を建てた。そして新聞社に勤めている仲間たちと、次の選挙までのつなぎの活動を何にするか相談しているうちに雑誌『改造』の創刊が決まる。あくまで実彦の選挙運動を側面支援するための雑誌企画で、資金も全て実彦持ちだった。

『改造』の創刊は華々しかった。大正8年に文壇の名士たちを招待して発行の披露宴を開いたのである。参加した作家は、田山花袋、徳田秋声、正宗白鳥、佐藤春夫他そうそうたる面々だ。実彦はこういうハッタリは上手だった。ところが中身は伴っていなかったのですぐに経営が行き詰まった。2万部刷った創刊号の返品率は6割もあり、第3号で限界を迎えた。実彦の選挙を応援するために片手間で作った雑誌である。斬新さもなく評判は悪かった。

実彦はすぐに廃刊しようとしたが、それに編集者たち(横関愛造、秋田忠義ら)が反対した。1号だけ自分たちに全部まかせてくれというのである。そのころ、労働争議や組合運動が勃興し、社会思想が広まりかけていた。彼らは雑誌の売れ行きを考えて、当時関心が高まっていた思想を取り上げて4号を作ったのである。実彦は自分の政治生命がなくなるかもしれないのにこの反体制的編集方針を黙認。するとこれが発売2日で3万部が売り切れた。こうして『改造』は新たに生まれ変わった。実彦自身は明確に体制派で、社会思想とは相いれない思想の持主であったと思われるのに、『改造』が真逆の道を歩んだのが面白い。体制派の実彦の下で、発禁ギリギリの左翼雑誌が作られていった。

実際、『改造』はたびたび発禁処分を食らった。また経営は必ずしも順調ではなく倒産の危機も多かった。しかし実彦は「これなら売れる」という嗅覚がきき、独断で重要な決断を下しヒット作に恵まれた。例えば賀川豊彦『死線を越えて』は、編集者全員が反対していたのに実彦の独断で『改造』に掲載して単行本化し(改造社の処女出版)、百万部のヒットとなった。

実彦はこれで儲けたお金でバートランド・ラッセル、続いてアインシュタインを招聘する。特にアインシュタインの招聘は、ちょうどノーベル賞受賞のタイミングと重なったこともあって日本中が熱狂した。相対性理論を理解できるものは当時わずかしかいなかったが、これが日本の思想界・学界に及ぼした影響は大きかった。一雑誌社社主が私財で行う事業をはるかに超えた招聘だった。

大正12年、関東大震災が起こると、改造社社屋と印刷機、蔵書が全焼。それでも実彦邸に事務所を移して『改造』は1号も休むことなく続けられた。しかも体制強化のため、初めて編集者を公募し(それまでは縁故採用のみ)、初任給100円という高給で藤川靖夫を採用した。帝国大学出のエリートの初任給が60円ほどだった時代である。

しかし経営は非常に厳しかった。社員の給料が払えず、実彦は一度は自殺を考えたほどだった。それを救ったのが藤川のアイデアだ。震災で本が焼けてしまい、本の需要は大きかったが金のある研究者にしか新たに揃えることはできない。明治以来の著名な文学者の代表作を集めた全集を安く出版してもらえたら――。このアイデアに実彦はすぐに反応。円本(えんぽん)つまり定価1冊1円での「現代日本文学全集」として結実した。従前に比べると10分の1くらいの価格設定だった。

円本は売れに売れた。予約締切の夕方には改造社まで長い行列ができたという。社員は休みなし、残業代なし、徹夜料もなしで働いた。こうして売れたのは60万部とも80万部ともいわれる。円本はその後、経済学全集、日本地理大系、マルクス・エンゲルス全集などに拡大された。円本は出版文化における革命だった。一気に読書の大衆化が進んだのである。他社もこれに追随。春陽堂「明治大正文学集」、新潮社「世界文学全集」、平凡社「現代大衆文学全集」などを刊行した。追って、岩波茂雄も円本に刺激されて岩波文庫を創刊した。

円本で息を吹き返した改造社は、昭和3年、10周年を記念して懸賞小説を応募するようになった。1等賞金は破格の1500円。また昭和4年には一度だけ文芸評論を募集し、これでデビューしたのが宮本顕治(後に日本共産党の書記長になった活動家)、小林秀雄だった。

そんな中、昭和5年には第17回総選挙で実彦は鹿児島から立候補して当選。社会思想、左翼思想を訴えて世に受け入れられている『改造』の社長が、与党民政党から立候補したとはどういうわけか。実彦にとって政治とは現実に社会を動かしてはじめて意味を持つものであった。野党では意味がないのである。『改造』は言論で世論をリードしていたが、実彦自身は言論の力をあまり信じていなかったように見える。社員は当然、文壇の著名人たちも実彦が政治に足を突っ込むのを快く思わず、出版業に専念してほしいと思っていたが、実彦自身は政治に金をつぎ込むために『改造』で儲けていた。

『改造』は文壇から高く評価され、『改造』に掲載されることは文壇への登竜門ともなった。『改造』の原稿料は常に『中央公論』より高く、実彦は借金してでも高額な原稿料を支払った。一方、社員は薄給で、実彦は気に入らないことがあればすぐに殴った。同時に自分の遊びには豪快に金を使い、花柳界で名をはせた。また実彦は戦前は大臣以上でなくては頭を下げなかったといわれる。そんな実彦だったが情に厚く、社員を殴りながらもその親に送金していたこともある。良くも悪くも封建的、親分肌で権威主義的な実彦だった。

昭和7年、第18回総選挙でも鹿児島から立候補したが落選。無名だった林芙美子の『放浪記』がヒットし、後に名作と呼ばれる純文学作品(志賀直哉『暗夜行路』、堀辰雄『風立ちぬ』など多数)がどんどん掲載されて改造社は順調だったが、政治の面ではうまくいかなかった。昭和10年代になるとファシズムが亢進して言論弾圧が激しくなり、『改造』論壇の主流派だった労農派は排除された。

改造社はそうした弾圧によってふたたび経営難に陥ったが石坂洋二郎『若い人』、火野葦平『麦と兵隊』のヒットによって経済的余裕ができ、『新万葉集』の刊行など意欲的な事業に取り組んだ。同時に実彦は中国へ入り、混迷する日中関係を間近で見て時論を『改造』に掲載した。毛沢東を最初に日本に紹介したのは『改造』だったといわれる。中国通を自認した実彦は、中国事情を紹介する雑誌『大陸』を創刊、『改造』本誌は文化と教養主義に編集を転換して、体制迎合的な『時局版』を創刊した。

改造社はこれらの雑誌を発禁ギリギリの線で編集していたが、昭和17年に掲載された細川嘉六の論文「世界史の動向と日本」が軍部に問題視され、細川の家宅捜索で一枚の写真が共産党再建準備会だとでっち上げられて検挙された(横浜事件)。実彦は編集者を擁護するどころか、「自分は挙国一致に協力しているのに部下の不注意から事件に発展した」と自分を被害者だとみなした。軍部の弾圧と実彦の姿勢から改造社は有能な編集者を失っていく。

実彦は陸軍の最高人脈と深いかかわりがあったが、軍部からの命令により昭和19年6月号で自主的に廃刊させられ、改造社も解散した。実彦は軍部の横暴を怒ることもなく、改造社の過去の栄光を懐かしむでもなく、ただ茫然自失となって、なげやりで無責任に改造社を終わりにした。実彦は解散にあたって社員の退職金を出し惜しんだ。

戦後、言論が復活すると実彦はさっそく『改造』を復活させたが、岩波茂雄など他の言論人が戦争協力を反省したのとは対照的に、そこには過去への反省はなかった。

戦後初の総選挙にはまたしても鹿児島から立候補し当選。実彦が党首を務める協和党は全国で14名の当選者を出した。実彦には入閣の打診があったが党議により断った。この時のことを二階堂進は「実に寂しそうだった。大臣になりたかったのだ、とその心情を思いやりました(p.225)」と後年語っている。

さらに昭和21年には、実彦は戦中の体制迎合的な雑誌が見咎められ「軍国主義者、極端な国家主義者」とされ公職追放処分を受けた。こうして復活した改造社の社長を務めることもできなくなった。しかし実彦自身は逆境にあることでかえって闘志がわいたらしい。そして改造社には、私的な事務所で執務をするという理由でかかわり続けた。

そのころ、改造社では労働問題が起こっていた。改造社内で労働組合結成の動きがあり、実彦はそれが気に食わなかった。結成された労働組合は早速賃上げを要求。社内は組合派と反組合派に分裂した。そんな中、実彦が公職追放中にも関わらず改造社に出入りしていることが告発され、実彦は有罪判決を受ける。おそらくは社内からの密告だという。『改造』では労働問題を取り上げ続けていたのに、社内の労働問題を弾圧しようとした実彦という人物の不思議さを思わずにはいられない。

またGHQは共産主義的な言論の統制と弾圧(「赤狩り」)に乗り出し、改造社も目をつけられて編集長他3名を解雇せざるを得なかった(十二月事件)。その後編集長に就任したのが小野田政(後、産経出版社長)だった。小野田はこれまでの左翼的傾向を『改造』から除き、新保守主義者を執筆者に使った。さらには昭和25年には昭和天皇に原稿を依頼し、歌7首を巻頭に置いた特集で9万部を売った。「マルクス、レーニン主義で売った「改造」が天皇の歌で売れた(p.251)」のは栄光の歴史が終わったことの象徴だっただろう。

その後の改造社をめぐる動きはゴタゴタしているので省略する。しかし要するに、実彦の死とともに改造社は終わりを告げた。形式的には山本家が改造社を引き継いだが、社員との対立や一方的な解雇、それを不服とした言論人からの反発、それに応えての和解などがあったものの、改造社の命運は尽きていたのである。

私が本書を手に取ったのは、「円本をつくった山本実彦とはどういう人物だろう?」という興味だった。私はてっきり、「庶民にまで本をいきわたらせるため」というような高邁な理想から円本が作られたと思っていたのだ。しかし実際にはそうとは言い切れない。実彦にとっては「売れることが第一」であった。事実円本で儲けたのである。また、体制派で軍部ともつながっていた実彦が左翼雑誌を作っていたのは、それが売れるからだった。労働者の保護や左翼思想など(当時の)進歩思想を、彼がどこまで真剣に受け取っていたか定かでない。

実彦はロマンチストではあった。ラッセルやアインシュタインを招聘したり、『新万葉集』を編纂したりといった、私財を投入した文化活動も行った。しかしそれすらも、人文主義的な理想から出た事業であるとは思えないところがある。だが円本の流布は日本の出版文化に革命をもたらし、文化人の招聘は学界に刺激を与えた。実彦の事業は打算的・場当たり的であったかもしれないが、結果としては日本の言論や大衆の読書習慣に大きな影響を与えた。

実彦が鹿児島選出の国会議員として力を入れた仕事は、川内川の改修であった。確かに川内川は暴れ川で地域の人たちは度重なる水害に悩まされていた。そういう事業に力を入れたのは評価できる。一方で、実彦の限界はそこにあったともいえる。土建屋や行政と一体となってインフラを整えるのが、あくまで実彦の「政治」だったのだろう。そこに理想社会を実現するための「思想」はなかったのかもしれない。

良くも悪くも人間らしい、出版界の風雲児山本実彦を知れる好著。


2022年1月15日土曜日

『明治留守政府』笠原 英彦 著

明治留守政府の混乱した政治を描く。

明治4年11月から6年9月まで、岩倉使節団が洋行する。この間に国政を預かったのが留守政府である。岩倉使節団には政府首脳がゴッソリと入っていたから、留守政府は政権運営に苦労することになった。なにしろ明治政府は稼働して僅かな時間しか経っておらず一枚岩ではなかったし、その上廃藩置県を断行した直後だったのである。

岩倉使節団と留守政府の間は、留守中の政治について「12箇条の約定」を交わしていたが、そこには「新しい改革は進めないように」 とする文言と「準備してきた改革は進めるように」という矛盾する文言が含まれており、留守政府内ではこの解釈の相違も相俟って混乱がもたらされるのである(ちなみに本書には「12箇条の約定」の全文が掲載されていないのが不便だった)。

そして、それと同時に、留守政府が混乱したのは「太政官三院制」というもののせいであると著者は見る。これは廃藩置県に後に行われた政府の機構改革によって生まれたものだ。元々の太政官制では諸省を統べるものとして太政官が置かれていたが、ここに意志決定機構である「正院」「左院」「右院」を置いたのである。

「正院」は太政大臣、左・右大臣、参議で構成する最高意志決定機関である。「左院」は議長、副議長、議官で構成する立法諮問機関、「右院」は各省の卿、大輔で構成する行政機関であった。そしてこの下に太政官とその下の各省が置かれた。本書ではこの体制に「矛盾」があったしているが、どこがどう矛盾していたのかは曖昧な記述である。

ただ、今の体制になぞらえれば、「左院」は内閣法制局、「右院」は内閣に相当するわけであるが、最高意志決定機関である「正院」が内閣から浮いた存在であった、ということは制度の欠陥と見なせるであろう。「正院」には、具体的な行政を所管している責任者が誰一人メンバーに入っていなかったのである。

そしてさらにこの体制の欠陥は、各省の利害が対立した場合に、それを調停する仕組みがなかったことである。今の体制では、予算は国会で審議するし、それでなくても閣議があって、重要事項は閣議決定を経なければならない。しかし「太政官三院制」においては、どうやら今の閣議決定にあたる決裁を経なくても、各省が独自に施策を実行することが可能であった。そのため各省は急進的な施策を矢継ぎ早に実施することとなった。

また、留守政府の混乱には、大蔵省の在り方も一役買っていた。岩倉使節団の出発前には、民部省が大蔵省に合併されるという改革が行われ、巨大化した大蔵省のトップ(卿)には大久保利通が就任した。この人事にはいろいろ裏があったらしい。大蔵省は基本的に長州閥が幅をきかせていたが、そこに薩摩閥の大久保が据えられたのはなぜか。木戸孝允は他の人事面で大久保の意向を尊重する代わりに、逆に大蔵卿に大久保を据えることで大久保を牽制しようとしたのではないか、というのが著者の考えのようだ。

ともかくも、巨大化した大蔵省は大久保の手に余るものであった。今でいうと、総務省(地方行政、郵便行政)、法務省(戸籍)、経済産業省、国税庁、財務省を合わせたのがこの頃の大蔵省である。国政の7割は大蔵省が担っていたという。しかも、留守政府は極度の財源不足に見舞われていた。この頃、予算の約4割が華士族への賞典・秩禄の支払いに充てられており、身動きが取れなくなっていたのである。大久保は省内で微妙な立場に居続けるより、いっそ洋行して不在にしていた方がうまくいくと考え、責任放棄して岩倉使節団に参加するのである。

では大久保が離れた大蔵省がスムーズに運営されたかというと、案の定うまくは行かなかった。大蔵省は各省からの予算要求に応えることができず、予算協議は紛糾した。不思議なことに、大蔵省は非常に大きな所掌を持っていたが、どうやら立場は弱かったらしい。大蔵省は、各省から予算をくれと突き上げられていたように見える。所掌は大きかったがそれに見合う権限は与えられていなかったのだろうか。本書には詳らかでない。

本書はこうした混乱を主に派閥の対立の構図から描いているが、何について対立していたのか、という政策面の記述は薄く具体性に欠けると感じた。

ともかく、留守政府のガバナンスは散々であったことは間違いない。ところが、このだらしない政府の下で開明的施策がどんどん実現していくのである。封建的身分制の廃止、徴兵制の実施、田畑の売買の自由化(地券制度)、地租改正、全国戸籍調査、学制の頒布、太陽暦の採用、国立銀行の創設などといった近代化施策が留守政府の手によって実現された。毛利敏彦は「これほどの仕事をした政府は史上にも稀であった」と評している。

これをどう考えたらいいのか。一つには、薩摩と長州が冷戦的なかけひきをしている中で、開明派の肥前閥が国政実務を担うことになったという理由がある。肥前といえば、近代化制度について超人的嗅覚を有し司法卿として司法制度の確立に心血を注いだ江藤新平、文部卿として学制頒布を実施した大木喬任、外務卿として台湾問題を処理した副島種臣、そして参議の大隈重信がいた。8名の省卿のうち半分の4名を肥前出身者が占めていたのである。

そしてもう一つ、本書を読みながら思ったのは、ガバナンスがない方がむしろキチンとした仕事ができるという日本人の気質があるのではないか、ということだ。どうも今の社会から推して考えれば、この頃の「政治不在」の状況は、かえって開明派官僚にとってやりやすい状態だったのかもしれない。

しかしながら、政府としての統制が取れない状況は、特に予算配分など各省の利害を調停する必要がある場面では不都合である。そこで明治6年5月(つまり岩倉使節団帰国直前)には、太政官三院制の「潤色」(と言う名の改革)が行われる。「潤色」というのは、「12箇条の約定」において改革が停止されていたためこういう呼び方がされている。この「潤色」では、あまり機能していなかった「左院」「右院」は事実上棚上げされ、権限を「正院」に集中した。これには新たに参議に就任した江藤新平の寄与があったのではないかという。

しかしこの改革の翌日、井上馨と渋沢栄一(共に大蔵省)は辞表を提出する。この「潤色」が強大すぎる大蔵省を統制下に置く意味があったことは明瞭であるが、一方で「正院」には省卿が参加しておらず実務と切り離されていたという本質的欠陥がそのままになっていたことも否めない。結局、留守政府は政治的混乱を解決できないまま終局へ向かった。

ところで、留守政府の首脳でありながら、イマイチ働きが明確でないのが西郷隆盛である。彼は「島津久光問題」(久光が明治政府+西郷・大久保と敵対していた問題)を抱えていたという事情があるにせよ、留守政府で目立った働きをしていないというのは不思議だ。しかも派閥間の闘争にも超然としているように見える。留守政府における西郷の立場は謎めいていると感じた。

本書は最後に附論として「太政官三院制に関する覚書」という論文が収録されており、本書全体はこれを一般向けにかみ砕いて説明したものという印象を受ける。しかし先述のとおり、具体性に欠ける記述が散見されかえって分かりづらい感じがした。附論の論文の方がわかりやすいと思う。また、政治的対立をテーマにしているため、留守政府が何をしたのかという記述が少なく、その点でも不十分な印象を持った。例えば徴兵制、太陽暦の導入、国立銀行の設立などは本書には全く出てこない。

また留守政府において大蔵省を揺るがした「山城屋和助事件」「尾去沢銅山事件」「小野組転籍事件」なども全く記述されないが、これなどは政争にも影響を及ぼした事件であり記載した方がいいと思った。

留守政府について述べる一般書としては貴重だが、政争というテーマがやや上滑りした印象がある本。

【関連書籍の読書メモ】
『明治六年政変』毛利 敏彦 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/03/blog-post_21.html
いわゆる「征韓論」の虚構を暴き、その真相を究明する本。明治六年の政界を実証的に解明した名著。

 『江藤新平—急進的改革者の悲劇』毛利 敏彦 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/09/blog-post_22.html
江藤新平の驚くべき先見的業績を通観する本。時代を先んじた江藤新平の悲劇によって、維新後の日本が向かう暗闇さえ幽かに感じさせる良書。

2022年1月10日月曜日

『天皇と戸籍』遠藤 正敬 著

天皇と戸籍の関わりについて述べる本。

天皇は「日本人」だろうか? 多くの人はそんなもの当たり前だろ! と思うかも知れない。私もそう思っていた。ところが、「日本人」を「日本国籍を持つ人」と言い換えるとこれが怪しくなる。「日本国籍」というのは「日本の戸籍に登録された人」ということになるが、天皇(と皇族)は戸籍を持っていないからである。(ついでにいえば天皇はパスポートも持っていない)

皇族の場合は「皇統譜」というものが戸籍の役割を果たす。これは、戸籍と似たような機能を持つものであるし、事実皇統府と戸籍は同様の思想の下に作られているが様々な違いもある。本書は、皇族のライフイベントが皇統譜でどのように扱われるのかという様々なケーススタディを通じて、その思想をあぶり出すものである。

そもそも戸籍の元となる民法は、明治から戦前までと戦後で大きく変わっており、それは皇室の扱いについても同じである。よって本書では、旧制度ではこう、新制度ではこう、と対置するような書き方で説明している(時系列的な書き方ではないということ)。なお皇室の場合は、江戸時代までと明治民法でもかなり扱いは変わっているので、明治前の説明も追加されている。

ところで、戦前・戦後で制度が大きく変更されているのは確かなことながら、やはり変わらないものもある。例えば氏(名字)の扱いや、続柄を戸籍に記入すること、といったことだ。特に続柄は、家制度が廃止され家督相続といったものがなくなった以上、記入することには何の意味もないにもかかわらず存続しているものだ。続柄は、家族の成員を戸主を頂点として序列化する仕組みであったが、その残滓は意識されぬまま戸籍に反映しているのである。

一方、続柄や家父長主義については、皇統譜においては全く無くなっていない。それは、男系相続による「万世一系」が重要であった天皇家の場合は当然のことともいえるし、皇位継承の順序を明解にする意味でも続柄は意味がある。このような皇族における「籍」の在り方が、国民の戸籍にも強く影響しているというのが著者の考えだ。

ところで、「戸籍」と「皇統譜」には決定的な違いがある。それは戸籍は基本的に届出主義で明治以降の情報が対象になっているのに対し、皇統譜は過去の天皇の系譜全てを対象としているということである。つまり皇統譜は戸籍と違って天皇家の歴史を記述するものなのだ。とはいえ、南北朝自体を事例に出すまでもなく天皇家の系譜は錯綜しており、その作成は明治3年にも遡り、江戸時代以来の国学者たちが研究に勤しんでいたにも関わらず、旧皇室典範で皇統譜が明記されてから36年もの間実際には確定しなかった。ひょんなことから国会答弁で「皇統譜が実際には明治天皇以後しか存在しない」ことが明らかになって関係者が衝撃を受け、それまで作成されていた草稿をとりあえず決定することによって成立したのが現在の皇統譜なのである。

戸籍というテーマを深掘りするため、本書は「臣籍降下」の歴史を詳しく述べている。皇族の子どもが全員皇族なら、文字通り皇族はネズミ算式に増えていく。かつては天皇は数多くの愛妾を抱えてたいへん多くの子どもをもうけることも珍しくはなかったからなおさらだ。よって、「臣籍降下」すなわち皇族の身分から臣民の身分(臣籍)に移行するということが歴史を通じて行われた。本書ではこの事例を大量に提出し、どのような力学によって臣籍降下が行われたのかを分析している。それが結果的に、皇族(天皇家)とは何なのかという考察になっているように思われる。

なお「臣籍降下」にはいろいろな場合があり、例えば結婚、賜姓(天皇には姓がなく、姓はあくまで臣下に与えるものである)、懲戒などがある。一方、出家については臣籍降下ではないがそれと同じような効果を持つ(皇位継承権の放棄など)。近世には幼少の皇女が軒並み出家して(させられている)のを見ると、出家が体のよい口減らしのために行われたのは明らかだ。出家の場合は結婚と違って結納・支度金・婚礼費用などが必要なく安上がりだったからである。

さて、ひとたび「臣籍降下」したら皇族には復帰できなかったのかというとそうでもない。それどころか臣籍に移されたものが皇族に復帰した事例は数多いのである。醍醐天皇の例は特に興味深い。彼は父・宇多天皇が臣籍にあった時に「源維城(これざね)」として生を受け、父の皇族復帰に伴って皇族の身分を得、宇多天皇からの譲位で天皇に即位したのである。臣民が天皇にまでなったのは唯一無二の存在だそうだ。

ともかく、かつて皇族と臣民の関係は「ゆるやか」なものだった。それが厳格化されて一度臣籍降下したら皇族に戻れない、となったのは旧皇室典範の制定からである。旧皇室典範の制定時においては女性天皇容認論も出たものの(周知の通り女性天皇は歴史上数多い)、結果的には歴史的にそうであった以上に男系男子主義を徹底させたものとなった。

その結果、皇族の婚姻については徹底的に夫唱婦随なものとなった。例えば皇族男子が一般女子と結婚しても皇族であるが、皇族女子が一般男子と結婚すれば臣籍に入ることになるのである。これは明治民法における「家」の概念からは当然のことであったが、戦後の民法で「家制度」がなくなっても、皇族の場合は「女子の身分はその夫の身分に従う」という規定は変わらなかった。この夫唱婦随の原則は伝統に則ったものであったかもしれないが、「一般国民の夫婦観念に与えた影響は、現在も根強い夫婦の「氏」をめぐる慣習——妻が夫の氏に合わせる——をみても明瞭であろう(p.209)」。

そして、そもそも皇族の婚姻は個人の自由で行えるものではなかった。皇族の結婚は勅許(天皇の許可)を必要とし、一種の人事の性格を帯びていた。戦後にも、勅許から「皇室会議」の許可に変わっただけで本質的には変わらなかった。

しかし、日本人なら誰でも今は「両性の合意(憲法第24条)」のみによって結婚できるのではないだろうか(大日本帝国憲法では「戸主の合意」が必要だった)。それとも皇族は日本国民ではないのだろうか? 三笠宮寛仁は率直にこう述べた。「僕なんか住民税まで払わされるわけよ。戸籍がないのに……。(略)伯父様(高松宮宜仁)よくおっしゃるけど、われわれはある意味で無国籍者なんだな(p.89)」「我々には基本的人権ってのはあんまりないんじゃない?(同)」

皇族は、日本国憲法の埒外にある、というのは確からしい。皇族は、日本国民なら誰でも認められている自由をいろんな形で奪われている。特に天皇は、人生そのものに大きな制限があり、国民はそれを当然のこととして考えている。本書には、その問題提起はサラリと書かれるに過ぎないが本書全体を通じてそうした反省をせざるを得ないように思う。

ちなみに皇族は戸籍を持たないだけでなく、住民基本台帳にも登録されていない。つまり住民票もない。健康保険にも加入していない(ここでも国民皆保険の原則から外れているわけで、皇族は国民扱いされていないわけだ。実際には医療費は全額税金から支払われるにしても)。戸籍そのものはともかくとして、普段のいろいろな手続きで住民票は必須なのだから、いったい皇族の生活はどれだけの制限があるのだろうと思った。例えば銀行口座の開設は可能なのか? 国家資格の取得はできるのか?  本書は皇族のライフイベントを戸籍の観点から述べるものであるためそういったことは書かれていないが、多くの制限が課されていることは想像に難くない。

皇族の人生を戸籍の観点から繙き、皇族とは何か、戸籍とは何かを考えさせるエキサイティングな本。

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2022年1月3日月曜日

『困ってるひと』大野 更紗 著

難病を生き延びた記録。

著者は大学院で難民問題について研究し、たびたび東南アジアにフィールドワークにも出かけていたエネルギッシュな女性だったが、あるとき原因不明の症状に犯される。病院に行ってもロクな診断は出ず、どんどん体は衰弱していくのに治療すらされない。難民について研究していたはずが、自分自身が「医療難民」となったのだ。

たくさんの病院を巡って疲れ切り、死にそうになりながら、最後の望みをかけた病院で、壮絶な検査地獄の果てにようやく診断が下りる。「筋膜炎脂肪織炎症候群」という世にも稀な、治療法がない難病だった。

こうして、生きるための手探りの戦いが始まる。といっても、ひたすら痛みに耐えるとか、薬の副作用に耐える以外にも著者の戦いは展開される。それは、「制度」との戦いだ。入院ひとつとっても様々な矛盾がある。私物は小さなロッカーひとつ分しか認められていないのに、紙おむつなどの消耗品は自分で調達して保管しなければならない。大量のおむつはどこに置いたらいいのか? そしてそれ以前に、ベッドから起きあがるだけでも一苦労な人が、どうやって紙おむつを買いに行くのか?

それは、家族や友人などの付き添いの人が代わりに調達する以外ないのである(病院では手に入らない!)。そんな馬鹿な、と思うがそういう制度になっているのが現実だ。これはほんの小さな事例ではあるが、ギリギリの状態で生きている著者には非常な負担になる。そういうことが山のように積み重なっている。

さらにもっとやっかいのは書類だ。難病の医療費の減免申請も、障碍者手帳の申請も、大量の書類をそろえて役所に提出しなくてはならない。しかも本人が! 手助けはゼロではないが、入院しながらそういった書類をそろえることがいかに大変か。(行政書士に頼めば多少は軽減されるはずだが、そもそも難病で高額な医療費がかかっていて、本人は働くことなどできない状態なので、そういう依頼は現実的ではないのだろう。)

結局、医療も、役場のシステムも、苦しい立場にある人の事情など一切斟酌しない、非人間的な「制度」に基づいていたのだ。もちろんそこには、病人を救いたいと必死になって働いている有能な医師がいて、人に寄り添ってくれる役場の職員だっている。しかしそれでも、〇〇のためには〇〇が必要、と制度で決まっていればそれを出してもらう必要があるし、あるいは〇〇はできるけど〇〇はできない、と決まっていれば、どんなに患者がそれを求めていても与えることはできない。「制度」にとっては、個別の事情など知ったこっちゃないのである。

では頼れるのは両親や友人なのか? 実はそれも違う。著者は東北の生まれで両親は働いており(そうしないと医療費も払えない)、日常的に頼ることはできない。それに親はいつかは亡くなる。一方、友人はそれなりにいるが何か月間も「あれを持ってきて、これを買ってきて」と頼るうちに、すっかりと援助を依存するようになってしまった。いくら死にかけた友人のためとはいえ、何か月も無償でこまごまとした用事をこなしていれば、関係がギクシャクしていくのは自然なことだった。

そうして著者は「頼れるものは、最後は制度しかないのだ」と悟る。制度は、大量の書類というモンスターを片付けなければ使えないし、それ自体が穴だらけで、非人間的な仕組みかもしれないが、結局、困ってる人を継続的に救ってくれるのは制度だけなのだ。これは難民支援の現場でも同じだった。難民は善意の人の支援を期待しない。使える「制度」を利用する以外、生きていく道はないのだ。

こうして、本書は、次々に襲ってくる「制度」との戦い、というカフカ的な不条理を描きながら、皮肉なことに、その「制度」とやらをうまく利用するしか生きるすべがない、というところへたどり着く。それが結論的に書かれているわけではないが、私は本書をそういう風に読んだ。

ところで、もう死んだ方が楽だ、というようなひどい病気のさなかに「やっぱり、生きたい」と著者が思ったのは、闘病中にできた恋人のおかげである。生への意思は「愛」によって生まれ、それを現実化するのは「制度」なのだ。これは結婚でもなんでも同じかもしれない。珍しい難病、という極限状態にある人に、それが先鋭的な形で現れたのである。

本書は、病院を離れて(一応退院だが、病気が治ったわけではない)、一人暮らしを始めるところで筆が擱かれているが、その後についてインターネットで調べると、著者は明治学院大学大学院社会学研究科に入学して博士まで取得し、今は東京大学医科学研究所で研究員をしているそうだ。病気は多少寛解したのかもしれない。よかったよかった。

ちなみに本書は、難病(や制度)との戦いを描いているとは思えないくらい軽快な筆で書かれている。ところどころにジョークすら入る。単に自分の体験を描くだけでなくそれを客観的に描く知性とユーモア、そして余裕がある。(編集者が大いに助けたのだとしても)死にかけながら、こういうのを書けるのはすごいなと思った。

難病だけでなく、それに伴う「制度」との「仁義なき戦い」を描いた軽妙洒脱な本。


2022年1月1日土曜日

『定家明月記私抄』堀田 善衛 著

藤原定家の「明月記」を読む。

定家の「明月記」は、よく歴史書・研究書に引用され名高いものであるが、解読が必要な独特の漢文で書かれていることもあり、「少数の専門家を除いては、誰もが読み通したことがないという、それは異様な幻の書であった(あとがきより)」。

著者は戦時中に「明月記」の一文を知る。19歳の定家が記した「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ(=戦争なんて俺の知ったことか)」という言葉だ。時代の動きをとらえつつ、自己自身の在り方を昂然と記したこの言葉に著者は衝撃を受ける。まさに戦争によっていつ死ぬともしれぬ状況にいた著者は「この定家の日記を一目でも見ないで死んだのでは死んでも死に切れぬ(p.8)」と思い、なんとか日記を手に入れた。

しかしなかなかこの日記は難解であり、また退屈でもある。それは当時の日記は文学的なものではなく、有職故実(=しきたり)を「秘伝」として記録し後の世に備えるためのものであったからだ。よって儀式や行事があった際のやり方、服装、使われた器具などを事細かに記録するのが主目的だったのである。

ところが定家の日記はもちろんそれにとどまらない。60年間にわたって、彼は毎日日記を書き続けた。この執念は何に基づいていたか。定家は異常に細かい有職故実の記録を書き留めながら、やはりそこに人間性の発露とでも呼ぶべきものを記録した。本書は、それを丁寧に、一歩一歩読み解いていく本である(ちなみに執筆時に著者はバルセロナ在住であり、参考資料の手に入らない中、6年かかったという)。

一年一年、定家の日記に付き合っていくと、時代の大きな動きが克明に記録され、そこに翻弄されている様子もまた伝わってくる。「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」と言って戦乱との距離を置いても、職業歌人としてのプライドからくだらない遊興を拒否しても、定家はやはり後鳥羽院に振り回され、宮廷をうまく立ち回ることでしか生きていけない二流貴族なのだ。

「明月記」にはその悲哀を感じさせる場面が多い。例えば、定家は所有する荘園から満足に貢納がやってこない、といったようなことだ。ちなみにこの頃の宮廷では官職には給与がない。無給なのである。荘園からの収入が頼みだ。その荘園が、現地管理人の横暴などで有名無実化していたのだ。これは当然、戦乱のせいである。これを改善するにはヤクザ者を派遣して力づくで上がりものを出させるか、それでなければ武家政権との関係を樹立する必要がある。「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」と言っている場合ではなかった。

さらには、後鳥羽院が異常なほどエネルギッシュな君主であったことが、定家にとっては(というより多くの宮廷人にとって)災いした。後鳥羽院はこの混乱の時代を有り余るエネルギーで泳ぎながら、次から次へ遊びまくったのである。しかもその「遊び」は競馬、相撲、蹴鞠、闘鶏、囲碁、双六、別邸と庭園の建造…何をしても規格外であり、その遊びに付き合わなければならない宮廷人にとってはたまったものではない。

そして彼らの芸術(=和歌)は、そうした冴えない現実からはすっかり遊離した抽象的なものになっていた。定家が頭角を現した「初学百首」などは、京に餓死者が4万2千以上も放置された養和の大飢饉のさなかに詠まれるのである。宮廷人たちは、社会が阿鼻叫喚になっているというのに、そんなことはどこ吹く風と「遊び」に興じていたのである。だが定家にとって歌は「遊び」ではなかった。彼にとっては歌が本気も本気、歌だけは二流であってはならなかった。歌が彼の存在を支えていた。

では定家の歌、というか当時の歌はどんなものだったか。著者の評価は両義的だ。歌は現実から遊離して、本歌取りといういわば「二次創作」のような手法が普通となり、言葉の上だけの抽象芸術、美のための美となっていた。このように高度に抽象的な言語芸術は、同時代の世界を見回しても存在しない。しかしながらそのために歌は真の意味での創造力を失ってもいた。そしてまさにその抽象言語芸術の極限にいたのが定家だった。定家は自身困窮に喘ぎながら、優にして雅、鑑賞にも繊細な感性を必要とする玄妙な歌を作っていたのである。

それは最初は十分に評価されず「達磨歌」などと誹られたが、「初度百首和歌」が後鳥羽院に認められ、後鳥羽院直属の歌人となる。定家が39歳の時だった。さらに定家は正四位に叙せられる。またこの頃、新古今的な作風を確立して、歌におけるピークを迎えた。しかし同時に「作歌について深甚な倦怠感をもちつづけている(p.168)」。

しばらくすると、どうやら経済面でも上向いてくる。念願だった左近衛権中将にも任じられる。これでも官位は低く、自分の息子ほどの若輩と肩を並べなくてはならない。今や定家がつまらない現実に飽いている様子がはっきりと日記に感じられる。父俊成の90歳の祝賀とそれに続く一大遊興も、日記に全く記されていない。日記には無学な宮廷人への罵詈雑言が書かれる。それでも、定家は宮廷人として生きるしかない。まさにそれこそが定家という人物を興味深くしている。

そしてついに新古今和歌集の編纂が彼の人生に入ってくる。職業歌人として譲れぬものがあったにしろ、後鳥羽院の壮大な計画に定家は巻き込まれ、彼はうんざりさせられる。後鳥羽院の情熱は驚くべきもので、歌の入れ替え(切継)はなんと11年も蜿蜒と続いたからだ。しかも歌を入れるかどうかが人事のようになり、選考は思うままにならなかった。

本書は定家48歳(承元3年=1209)の日記までで擱筆されている。続きは続編にて。

それにしても、本書はある意味で単なる日記の読解なのであるが、めっぽう面白い。定家はジャーナリストとしての才能もあった人らしく、当時の事件が詳説されるうえに、他の宮廷人とは一歩引いた彼独自の観点から書かれるのがスパイスとなっている。また、定家には例えば「方丈記」とか「愚管抄」が持っているような大局的な批評精神・歴史観はなく、あくまでも宮廷の中で呻吟している人、つまり現場にいる人であることがかえって面白みを加えていると思う。

堀田善衛がそういう「読み」を共有してくれたことは非常にありがたかった。この本のおかげで、「明月記」は我々がアクセスできるものとなったのである。

「明月記」を蘇生させた、優れた読解の文学。

※文中ページ数は単行本版のもの。


【関連書籍の読書メモ】
『時代と人間』堀田 善衛 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/06/blog-post_16.html
「時代の観察者」を通じて、人間について深く考えさせる優れた本。

★Amazonページ
https://amzn.to/491HYnI

2021年12月30日木曜日

『第二の性 III 自由な女』ボーヴォワール著、生島 遼一 訳

『第二の性』、5分冊のうちの第3巻。

本巻には、「永遠の女性とは?」「ナルシスムの女」「恋する女」「神秘家の女」「自由な女」「結論」が収録される。原書では本巻が全体の最後の部分であり(翻訳の都合で原書後半の方が先に訳出された)、よって「結論」が『第二の性』全ての総括になっている。

また本巻冒頭の「永遠の女性とは?」は、本来は第2巻のまとめとして位置づけられる章であるが、分冊の都合により第3巻に収録されたものである。

【参考読書メモ】『第二の性 II 女はどう生きるか』ボーヴォワール著、生島 遼一 訳
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/09/ii.html

第2巻では、女性の人生を辿りつつ女性が置かれた暗鬱な状況がこれでもかと列挙されたのであるが、「永遠の女性とは?」では、女性の<性格>がそういう状況によって生みだされたものであることが改めて詳述される。ことあるごとに男性は女性を劣ったものとして扱うが、それは女性がずっと「世界」から閉め出されおり、成長の機会を満足に持つことができなかったからだ。「世間は女を台所や寝室に閉じ込めてきながら、その視野展望がせまいといって嘆く(p.18)」のである。

女性は、自らの置かれた状況を改善する能力を涵養できないようにさせられているから、「男性にむかって挑戦できるような堅固な<反・世界>を自分達でつくることに成功しない(p.35)」。それどころか、女性は男性から虐げられていながら、女性同士で連帯することもなく、むしろ反目し合う。それは男性優位の社会で利益を得ている女性も多いからで、「こういう女性の空虚な傲慢さ、その絶対的な無能、頑固な無知は彼女たちを人類が生み出したもっとも不必要な、無能な存在にしている(p.50)」。

ボーヴォワールはこのように言うが、本書を読みながらこうした姿勢こそが女性運動を難しくする一因のように感じもした。「女にとっては、自分の解放のためにはたらくことしか、ほかにどんな出口もないのである。(中略)この運動はぜひ集団的でなければならない(p.51)」と呼びかけながら、ボーヴォワールは男に反抗しようとしない女を切り捨てているように見える。

次の「ナルシスムの女」 「恋する女」「神秘家の女」の3章は、厳しい状況に置かれながらもなんとか自己実現しようとする哀れな女の姿を描く(なお「自己実現」とした部分は、本書では「実存」とか「超越」とか、実存主義哲学の用語で述べられるが煩瑣なので単純化する)。

常に男の付属物にさせられようとする力を受けている女性が、それでも自己実現していくためには、自らを「特別なもの」にしつらえる必要がある。女は「ありのまま」では男社会に飲み込まれてしまうのである。そんな方途の一つが「ナルシスム」だ。これは文字通りの自己愛だけでなく、たとえば自分を「不思議ちゃん」にするといったことも含まれる。

「私って変わってるの」と言いふらし、自分は普通人と区別される存在だと思い込む。あるいは自分は世界で最も不幸な女性だと思い込むのも特別な存在になるための別の一手だ。こういう「異常な宿命に印された無数の女性たちに共通した特色は、自分がひとに理解されていないと感じること(p.64)」である。しかも彼女は自分しか見えていないのに、外の世界に評価されたいと望む。しかしその評価は十分に得られることはなく、「ナルシスムの女」は残酷なことに加齢によって凡庸な存在へと堕してしまう運命にある。

この章は、ボーヴォワールが毛嫌いするタイプの人間を容赦なく批判しているような内容である。「そりゃそうかもしれないけど、そこら辺で勘弁してあげなよ」と思うような辛辣さである。

次は 「恋する女」である。「彼女は自ら隷属を熱望することによって、自己の隷属を自己の自由の表現のように思いこもうと(p.81)」し、「恋が彼女にとって一個の宗教になる(同)」。愛する男性にその身を全て献げることは、神に全てをゆだねる信仰者のそれと等しい。「恋人の要求に応じることによって彼女は自分を必要なものに思うのである(p.93)」。これは最初のうちは確かに彼女の救済になる。ところが恋人に自分の存在を委ねることで、彼女は徐々に「自分」を失っていく。今の言葉でいえば「依存症」になる。

女は男の要求次第でどんな人間にも変わる。本来の自己が忘れられ、男に気に入るためにどんんどん要求に応えようとする。もちろんそれが恋人達に幸せをもたらすこともある。しかし男性に全面的に依存してしまった女の幸せが永続的であることは少ない。

まず、相手を偶像化するような恋愛は愛する男に絶対的な価値を与えるが、実際にはそんな価値を持った男はいやしないということだ。「あの男はあなたがそんなに愛するねうちのある人間じゃない(p.99)」と周りの人にはすぐわかる。さらに、男の方では暴君になるか、逆に自分に全面的に依存する女を疎ましく思うようになる。

結局、「恋する女の不幸の一つは、その恋愛自体が彼女をゆがめ、彼女を滅ぼしてしまうこと(p.117)」なのだ。ボロボロになってしまった女をもはや男は愛すことはない。「捨てられた女はもはや何物でもなく、何物ももっていない(p.119)」ということになる。

もちろん、男の方でも熱烈な恋愛に身を滅ぼすことはある。しかし男の場合は仮に女に依存していたとしても、現実の世界への足がかりが常に用意されているのに対し、女が恋に身を滅ぼした場合は、「社会復帰」が非常に難しいという事情がある。

本章における著者の主張は極めて明解である。それは、依存的な恋はよくない、ということだ。そして依存的でない「真正の愛は、二つの自由が互いに相手を認めることの上にうちたてられ(p.120)」るということなのだ。

これまでの二つの事例は、自己・恋人へいれあげる女性であったが、これが神に対するものになると「神秘家の女」ということになる。女性は現実の世界で自己実現ができないから、非存在の世界に赴くわけだ。こういう女性は単に度を超して敬虔なだけでなく、神の幻覚を見、恍惚とし、神と対話する。そして病人や貧しい人に対するマゾヒスティックなまでの奉仕に幸福を感じる。そして自分が神に選ばれた女であると思い、極端な場合には教派を起こす場合もある。本章は比較的短く、「ナルシスムの女」 「恋する女」のような辛辣な批判はないものの、女が神にいれあげるのは、結局は女性が現実世界で存分に自己実現できないことの埋め合わせであるとボーヴォワールは喝破するのである。

「自由な女」では、これまでの暗鬱な調子とはうって変わって、このように厳しい状況の中でも自己実現を果たした女、そしてそうなるためにはどうすればよいのかが力強い調子で語られる。

まず、女性は経済的に男性と平等でなくてはならない。男性と同じ条件で労働に参画し、正当に評価され、誰にも依存せずに自立した暮らしを送れるようにすべきだ。それが、女性が自ら男性に依存するようにしむけることで存立している旧システムを破壊する第一歩である。

そして性的にも女性は男性と対等でなければならない。今の社会で自立した女・自由な精神を持つ女は、自分の性を拒みがちだ。なぜならそういう女は「もっぱら男を誘惑することしか考えていないおしゃれ女(p.145)」と自分を同じ種族だとは見なしたくないからだ。しかし性を拒否することもまた自分を不具にすることになる。だから「男がもし奴隷女でなく、自分と対等の者を愛する気になるなら、(中略)女も女らしくすることをいまほど気にすることはなくなる(p.147)」はずだ。

ただし女性が男性と対等になっても、「母性」だけは女性だけが引き受けなくてはならない。職業を持つ女性には、自ら子供を持たないことを選ぶ人もいるが、それ自体も女性には負担である。仕事と母性の最適なバランスを見出すことが難しいのは事実である。

そして今(※約70年前のフランスで)、どうにか自立した「自由な女」であろうとする女性も出てきている。しかしボーヴォワールには、彼女らの苦闘は生ぬるく見えるようだ。多くの働く女性は、男性優位の社会を所与のものと考えて、いわば「控えめに」仕事する。男性の世界を乗っ取ろうとはしない。そして「自分は女性なんだから、一流の仕事ができなくても仕方がない」と考えて貪欲にトップを目指さない。もちろんそれは、いわゆる「ガラスの天井」があることを理解しているからだし、いくら仕事で業績を出しても家庭での義務(家事や育児)から免除されるわけではないという事情があるからだ。

文学の世界を考えてみても、ドストエフスキーとかスタンダールのような偉大な作品を女性はまだ生みだしていない。それは女性作家は、ただ自己を確立するということのために多大なエネルギーを費やさねばならず、それ以上の冒険に行くまでに力尽きたからだ、という事情もある。しかし昔に比べれば、女はずっと自己を解放することのできる条件が整ってきている。もはや女性も、スタンダールに比肩する作品を生みだしてもよい頃だ。芸術でも仕事でも、あらゆる分野で女性は男性と同じ高峰に登って仕事ができる能力があるのだ。

ではなぜ未だに女性はそういう業績を生みだしていないのか? それは、女性自らが、無意識に己に制限を加えているからだ、というのがボーヴォワールの考えだ。長年にわたって「第二の性」の立場に甘んじてきたから、女性は本当は自分が男性と同じ能力があるのだと信じ切ることができないのだと。

世界を変えなければならない、と考えるボーヴォワールにとって、男が作った世界から一歩も出ないことは真の意味で「自由な女」ではない。女性も男性と等しく世界を創造する必要がある。しかし「彼女がまだ人間らしい人間になろうとしてたたかわねばならぬかぎり、創造者となることはできない(p.180)」。だから、まだしばらくは「自由な女」は生まれないかもしれないが、「いまこそ女自身のためにもすべての者のためにも、女にあらゆる機会を開いてやるべき時であること、それだけはたしかなことだ(p.191)」

終章の「結論」では、これまでの様々な議論が別の形で繰り返される。しかしその主張はやや意外な展開を見せる。「男の世界への反抗」を呼びかけるのかと思いきや、むしろ男女が仲違いするのは必然ではないとし、互いに相手を対等だと認め合うことで今ある悶着が片付くのだと述べる。本書はあくまで女性差別を告発するものであり、理想の社会をどうやって実現するかという方策を述べるものではない。だから、男女が対等なものとなったら、社会や個人(男も女も)が抱えている多くの問題が解決するだろうとは予言するが、そこへ至るまでの道筋は語らない。

ただし、本巻の結語でボーヴォワールはこう述べる。「現実世界のまんなかに自由の支配を到来させることが人間に課された仕事だ。この崇高な勝利をかちえるためには、何よりもまず、男女がその自然の区別をのりこえて、はっきりと友愛を確立することが必要である(p.216)」と。すなわち必要なのは女性による「男の世界への反抗」ではなくて、まず人間として互いを理解する態度だというのである。これは、その後にフェミニズム運動の内部で起こる様々な軋轢を予言しているようで意味深な結語であると思った。

全体を通じ、女性を称揚するのではなく、むしろねじくれた女を執拗に描いているような感じを受けた。そしてねじくれた女を描けば描くほど、彼女らがねじくれなければならなかったのは、女性の天性ではなくて、彼女らが置かれた状況がいかに矛盾に満ちたものであるかを痛感させられる仕掛けになっている。そしてその矛盾を解消するのに必要なものは、闘争ではなくて友愛だと結論づけたのが印象的だ。実際には闘争でしか不平等は解消できないとしても、この長大な告発の書がそのような結論に行き着いたこと自体が興味深い。

女性運動の預言の書。

 

【関連書籍の読書メモ】
『第二の性 I 女はこうしてつくられる』ボーヴォワール 著、生島 遼一 訳
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/07/blog-post_31.html
この巻では、女性が生まれてから成年になるまでを取り扱っている。

『第二の性 II 女はどう生きるか』ボーヴォワール著、生島 遼一 訳
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/09/ii.html
この巻では、成人してから亡くなるまでの女性の生活が活写される。


2021年12月28日火曜日

『ガメ・オベールの日本語練習帳』ジェームズ・フィッツロイ 著

珠玉のエッセイ集。

著者のジェームズ・フィッツロイ氏は、「大庭亀夫」、「ガメ・オベール」(いずれもgame overのもじり)の筆名でブログを書いてきた。今は閉鎖され閲覧することはできないが(※)、「十全外人ガメ・オベールの日本語練習帳 ver.〇」というタイトルだったと記憶する。

著者は英国生まれで、現在(本書刊行時)はニュージーランドに在住。若くして数学を修め、おそらくはその能力による発明? によって大金を得、企業経営しつつ投資家として暮らす、という輝かしい経歴を持つ。しかもその上、超弩級の知性を持っており、古今の書物を跋渉した博覧強記の知識人であると同時に、数か国語を操る多言語人でもある。

そんな多言語の一つが日本語であり、ブログのタイトルに「日本語練習帳」が冠されているのは、日本語の練習のために書かれたもの、という形式をとっているからだ。本書はそのブログから44編が選ばれて掲載されている。

このように書くと、多くの人はエリート成功者が上から目線で世の中を斬るような内容を想像するかもしれない。しかし実は真逆も真逆で、この超弩級の知性を持ったニュージーランドの詩人は、最も弱い立場に置かれた人間に寄り添って語り掛けるのである。

いや、「知性」とは、もともと、社会を訳知り顔に解説するためのようなものではなくて、ぎゅっと握りしめた掌の中にある「やさしさ」そのものなのだと、本書を読んで気づかされる。

その内容は、人生に打ちのめされた人間への言葉、鮎川信夫と岩田宏を中心とした日本の現代詩、太平洋戦争とその後の近代史、言葉について、この社会から抜け出すための助言など…で構成されている。どれもこれも、深い洞察と見聞や経験に裏打ちされているだけでなく、日本社会を外から見ている人ならではの視点がとても新鮮である。このように日本社会を理解している「外国人」が他にいるだろうか。

しかも本書が驚異的なのは、日本語を母語とする人が書いたものではないにも関わらず、その日本語がとんでもない高みに達していることである。これほどの高みに達した日本語を書いた人は、私の知る限りでは幸田露伴、南方熊楠くらいだ。単なる名文ではなく、言語そのものが我々をどこかに連れて行ってくれるような天衣無縫さがあるのだ。

さらに驚くべきことは、表現上の工夫が違和感なく取り入れられている、ということだ。例えば本書には、読点で蜿蜒とつながれた長い長い文が時おり登場する。こういうのは、近頃は悪文とされるに違いない。しかし幸田露伴の文章にそういう長大な文が登場するように、あるいは源氏物語が途切れのない、どこで息継ぎしていいかわからないような文だらけであるように、日本語の特性が生かされた文章は、決まって長大な文で構成されているものである。その他にも、現代詩のような文章もあれば、手紙風文章、改行が多用された文章など、いろいろな工夫がちりばめられており、「日本語練習帳」の名に恥じぬ多彩さである。それと同時に、それらが単なる表現上の工夫であるだけにとどまらず、ぴったりと内容に合致し、現代的な軽やかな表現となっているのが特徴だ。

もはや本書の出版は、日本語の歴史におけるひとつの事件だ、とさえ思う。このような日本語が登場したことは長く記憶されるに違いない。私も一人の日本語を使う人間として、この日本語には嫉妬せざるを得ないのである。

ところで本書は、どん詰まりにある人に一縷の光を投げかけるような「救い」が随所にみられる。だから、弱り切った人にこそぜひ手に取ってほしい。私自身、出版前に予約して手に入れたものの、実際には読まないで取っておいて、原因不明の肋間神経痛で仕事ができなかったときに本書を開いた。そういうときに寄り添ってくれるのが本書である。上述の説明でもしかしたら誤解された方もいたかもしれないが、本書に難解な部分は全くなく、病床にある人に、陽の刺す窓のカーテンを開けてくれるような本なのだ。

最高の「知性」による名編中の名編。

※現在は著者による別のブログが公開されている。
ガメ・オベールの日本語練習帳ver.7
https://james1983.com/

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