2022年1月3日月曜日

『困ってるひと』大野 更紗 著

難病を生き延びた記録。

著者は大学院で難民問題について研究し、たびたび東南アジアにフィールドワークにも出かけていたエネルギッシュな女性だったが、あるとき原因不明の症状に犯される。病院に行ってもロクな診断は出ず、どんどん体は衰弱していくのに治療すらされない。難民について研究していたはずが、自分自身が「医療難民」となったのだ。

たくさんの病院を巡って疲れ切り、死にそうになりながら、最後の望みをかけた病院で、壮絶な検査地獄の果てにようやく診断が下りる。「筋膜炎脂肪織炎症候群」という世にも稀な、治療法がない難病だった。

こうして、生きるための手探りの戦いが始まる。といっても、ひたすら痛みに耐えるとか、薬の副作用に耐える以外にも著者の戦いは展開される。それは、「制度」との戦いだ。入院ひとつとっても様々な矛盾がある。私物は小さなロッカーひとつ分しか認められていないのに、紙おむつなどの消耗品は自分で調達して保管しなければならない。大量のおむつはどこに置いたらいいのか? そしてそれ以前に、ベッドから起きあがるだけでも一苦労な人が、どうやって紙おむつを買いに行くのか?

それは、家族や友人などの付き添いの人が代わりに調達する以外ないのである(病院では手に入らない!)。そんな馬鹿な、と思うがそういう制度になっているのが現実だ。これはほんの小さな事例ではあるが、ギリギリの状態で生きている著者には非常な負担になる。そういうことが山のように積み重なっている。

さらにもっとやっかいのは書類だ。難病の医療費の減免申請も、障碍者手帳の申請も、大量の書類をそろえて役所に提出しなくてはならない。しかも本人が! 手助けはゼロではないが、入院しながらそういった書類をそろえることがいかに大変か。(行政書士に頼めば多少は軽減されるはずだが、そもそも難病で高額な医療費がかかっていて、本人は働くことなどできない状態なので、そういう依頼は現実的ではないのだろう。)

結局、医療も、役場のシステムも、苦しい立場にある人の事情など一切斟酌しない、非人間的な「制度」に基づいていたのだ。もちろんそこには、病人を救いたいと必死になって働いている有能な医師がいて、人に寄り添ってくれる役場の職員だっている。しかしそれでも、〇〇のためには〇〇が必要、と制度で決まっていればそれを出してもらう必要があるし、あるいは〇〇はできるけど〇〇はできない、と決まっていれば、どんなに患者がそれを求めていても与えることはできない。「制度」にとっては、個別の事情など知ったこっちゃないのである。

では頼れるのは両親や友人なのか? 実はそれも違う。著者は東北の生まれで両親は働いており(そうしないと医療費も払えない)、日常的に頼ることはできない。それに親はいつかは亡くなる。一方、友人はそれなりにいるが何か月間も「あれを持ってきて、これを買ってきて」と頼るうちに、すっかりと援助を依存するようになってしまった。いくら死にかけた友人のためとはいえ、何か月も無償でこまごまとした用事をこなしていれば、関係がギクシャクしていくのは自然なことだった。

そうして著者は「頼れるものは、最後は制度しかないのだ」と悟る。制度は、大量の書類というモンスターを片付けなければ使えないし、それ自体が穴だらけで、非人間的な仕組みかもしれないが、結局、困ってる人を継続的に救ってくれるのは制度だけなのだ。これは難民支援の現場でも同じだった。難民は善意の人の支援を期待しない。使える「制度」を利用する以外、生きていく道はないのだ。

こうして、本書は、次々に襲ってくる「制度」との戦い、というカフカ的な不条理を描きながら、皮肉なことに、その「制度」とやらをうまく利用するしか生きるすべがない、というところへたどり着く。それが結論的に書かれているわけではないが、私は本書をそういう風に読んだ。

ところで、もう死んだ方が楽だ、というようなひどい病気のさなかに「やっぱり、生きたい」と著者が思ったのは、闘病中にできた恋人のおかげである。生への意思は「愛」によって生まれ、それを現実化するのは「制度」なのだ。これは結婚でもなんでも同じかもしれない。珍しい難病、という極限状態にある人に、それが先鋭的な形で現れたのである。

本書は、病院を離れて(一応退院だが、病気が治ったわけではない)、一人暮らしを始めるところで筆が擱かれているが、その後についてインターネットで調べると、著者は明治学院大学大学院社会学研究科に入学して博士まで取得し、今は東京大学医科学研究所で研究員をしているそうだ。病気は多少寛解したのかもしれない。よかったよかった。

ちなみに本書は、難病(や制度)との戦いを描いているとは思えないくらい軽快な筆で書かれている。ところどころにジョークすら入る。単に自分の体験を描くだけでなくそれを客観的に描く知性とユーモア、そして余裕がある。(編集者が大いに助けたのだとしても)死にかけながら、こういうのを書けるのはすごいなと思った。

難病だけでなく、それに伴う「制度」との「仁義なき戦い」を描いた軽妙洒脱な本。


0 件のコメント:

コメントを投稿