2022年2月13日日曜日

『改造社と山本実彦』松原 一枝 著

『改造』と円本を生んだ山本実彦の評伝。

戦前の言論において『中央公論』と並ぶ時事評論誌であるとともに、多くの文豪が活躍していた雑誌『改造』。これを発行していた改造社を個人事業として経営していたのが山本実彦である。

実彦は鹿児島県の薩摩川内市大小路町に生まれた。生家は士族で鍛冶屋を営んでいたが、父親が酒飲みでしかも連帯保証人の債務で田畑を失い零落する。こうして実彦は赤貧洗うがごとき少年時代を過ごした。向学心にあふれた実彦は中学に進学するが生活が成り立たず退学。家族を養うため沖縄にわたって教師となった(小学校の代用教員→国頭郡農学校助手等)。実彦は教師としては「ペスタロッチの再現」と言われるほど熱心であったが金が溜まるとさっさと辞めて鹿児島に帰り、ついで上京した。

東京で実彦が頼ったのが同じ鹿児島出身(宮之城)の大浦兼武であった。大浦兼武は警保局主事として選挙での野党弾圧(大干渉選挙)の指揮を行って出世し、その後大臣を歴任、大隈内閣では内相に任命されたが、選挙での収賄を弾劾されて(大浦事件)政界を引退した人物である。実彦が頼ったころは第1次桂内閣で逓信大臣を務めていた。大浦は、実彦には大学に通うようアドバイスしたようだ。

実彦は昼間は働いて法政大学に通ったらしい。「らしい」というのは、実彦が自分で書いた履歴書には「日大卒」となっていて詳しいことはわからない。大浦との関係も実態は不明である。しかしどうやら大浦の影響で、実彦は政治家になるという決意を固めたとみられる。

実彦は大学を卒業すると「やまと新聞」に入社。これは桂内閣の御用新聞である。ここで実彦はスピード出世をする。入社後2年で実彦はやまと新聞のロンドン特派員となった。ロンドンで実彦は広い視野を身につけ、また東郷平八郎元帥と親しく知り合ったことも大きな収穫だった。帰朝後、実彦は東京市議会議員に当選して若干29歳の青年政治家が誕生した(大正2年)。

ところが、東京市議員の仕事は本書には詳らかではない。実彦は同時期、東京毎日新聞社を買収して社長となったからだ。同社は経営難に陥っていたとはいえ、買収費用はどうまかなったか正確にはわからない。後藤新平が当初の資金を出し、また板垣退助の台湾旅行をバックアップするという条件でどこからか金が出たらしい。実彦は政治家とのつながりでのし上がった。

さらに大正4年、第12回総選挙が行われると実彦は鹿児島で与党憲政会から立候補した。しかし当確を目前に実彦は台湾総督府に呼び出される。台湾の林本源からの収賄容疑であった。実彦は無実を主張したが、どうも後ろめたい金の動きがあったのは事実のようだ。当然選挙はご破算となり、実彦は台湾で拘留後投獄された。帰国後、母の訃報を聞き帰省。一度は郷里で隠退するつもりになったほどだった。

しかし実彦は再起を誓う。まずは東京毎日新聞社を売却して資金を手に入れ、さらにどこからか1万円が懐に入ったので、それを元手に実彦はシベリアに向かった。当時日本軍はシベリアに出兵しており、実彦は軍(陸軍参謀総長)と親密な関係を築き、それを土台にいろいろな策動をしたようである。実彦は久原鉱業から6万円もの大金を「調査謝礼」としてもらったといわれている。久原鉱業はシベリアで鉱山を手に入れようとし、その手先となったのが実彦だった。結局、大正11年にシベリア派遣兵は撤退し久原鉱業の件は頓挫するが、この6万円が『改造』の基を作るのである。

実彦はその金のうち3万5千円を使って南品川浅間台に豪邸を建てた。そして新聞社に勤めている仲間たちと、次の選挙までのつなぎの活動を何にするか相談しているうちに雑誌『改造』の創刊が決まる。あくまで実彦の選挙運動を側面支援するための雑誌企画で、資金も全て実彦持ちだった。

『改造』の創刊は華々しかった。大正8年に文壇の名士たちを招待して発行の披露宴を開いたのである。参加した作家は、田山花袋、徳田秋声、正宗白鳥、佐藤春夫他そうそうたる面々だ。実彦はこういうハッタリは上手だった。ところが中身は伴っていなかったのですぐに経営が行き詰まった。2万部刷った創刊号の返品率は6割もあり、第3号で限界を迎えた。実彦の選挙を応援するために片手間で作った雑誌である。斬新さもなく評判は悪かった。

実彦はすぐに廃刊しようとしたが、それに編集者たち(横関愛造、秋田忠義ら)が反対した。1号だけ自分たちに全部まかせてくれというのである。そのころ、労働争議や組合運動が勃興し、社会思想が広まりかけていた。彼らは雑誌の売れ行きを考えて、当時関心が高まっていた思想を取り上げて4号を作ったのである。実彦は自分の政治生命がなくなるかもしれないのにこの反体制的編集方針を黙認。するとこれが発売2日で3万部が売り切れた。こうして『改造』は新たに生まれ変わった。実彦自身は明確に体制派で、社会思想とは相いれない思想の持主であったと思われるのに、『改造』が真逆の道を歩んだのが面白い。体制派の実彦の下で、発禁ギリギリの左翼雑誌が作られていった。

実際、『改造』はたびたび発禁処分を食らった。また経営は必ずしも順調ではなく倒産の危機も多かった。しかし実彦は「これなら売れる」という嗅覚がきき、独断で重要な決断を下しヒット作に恵まれた。例えば賀川豊彦『死線を越えて』は、編集者全員が反対していたのに実彦の独断で『改造』に掲載して単行本化し(改造社の処女出版)、百万部のヒットとなった。

実彦はこれで儲けたお金でバートランド・ラッセル、続いてアインシュタインを招聘する。特にアインシュタインの招聘は、ちょうどノーベル賞受賞のタイミングと重なったこともあって日本中が熱狂した。相対性理論を理解できるものは当時わずかしかいなかったが、これが日本の思想界・学界に及ぼした影響は大きかった。一雑誌社社主が私財で行う事業をはるかに超えた招聘だった。

大正12年、関東大震災が起こると、改造社社屋と印刷機、蔵書が全焼。それでも実彦邸に事務所を移して『改造』は1号も休むことなく続けられた。しかも体制強化のため、初めて編集者を公募し(それまでは縁故採用のみ)、初任給100円という高給で藤川靖夫を採用した。帝国大学出のエリートの初任給が60円ほどだった時代である。

しかし経営は非常に厳しかった。社員の給料が払えず、実彦は一度は自殺を考えたほどだった。それを救ったのが藤川のアイデアだ。震災で本が焼けてしまい、本の需要は大きかったが金のある研究者にしか新たに揃えることはできない。明治以来の著名な文学者の代表作を集めた全集を安く出版してもらえたら――。このアイデアに実彦はすぐに反応。円本(えんぽん)つまり定価1冊1円での「現代日本文学全集」として結実した。従前に比べると10分の1くらいの価格設定だった。

円本は売れに売れた。予約締切の夕方には改造社まで長い行列ができたという。社員は休みなし、残業代なし、徹夜料もなしで働いた。こうして売れたのは60万部とも80万部ともいわれる。円本はその後、経済学全集、日本地理大系、マルクス・エンゲルス全集などに拡大された。円本は出版文化における革命だった。一気に読書の大衆化が進んだのである。他社もこれに追随。春陽堂「明治大正文学集」、新潮社「世界文学全集」、平凡社「現代大衆文学全集」などを刊行した。追って、岩波茂雄も円本に刺激されて岩波文庫を創刊した。

円本で息を吹き返した改造社は、昭和3年、10周年を記念して懸賞小説を応募するようになった。1等賞金は破格の1500円。また昭和4年には一度だけ文芸評論を募集し、これでデビューしたのが宮本顕治(後に日本共産党の書記長になった活動家)、小林秀雄だった。

そんな中、昭和5年には第17回総選挙で実彦は鹿児島から立候補して当選。社会思想、左翼思想を訴えて世に受け入れられている『改造』の社長が、与党民政党から立候補したとはどういうわけか。実彦にとって政治とは現実に社会を動かしてはじめて意味を持つものであった。野党では意味がないのである。『改造』は言論で世論をリードしていたが、実彦自身は言論の力をあまり信じていなかったように見える。社員は当然、文壇の著名人たちも実彦が政治に足を突っ込むのを快く思わず、出版業に専念してほしいと思っていたが、実彦自身は政治に金をつぎ込むために『改造』で儲けていた。

『改造』は文壇から高く評価され、『改造』に掲載されることは文壇への登竜門ともなった。『改造』の原稿料は常に『中央公論』より高く、実彦は借金してでも高額な原稿料を支払った。一方、社員は薄給で、実彦は気に入らないことがあればすぐに殴った。同時に自分の遊びには豪快に金を使い、花柳界で名をはせた。また実彦は戦前は大臣以上でなくては頭を下げなかったといわれる。そんな実彦だったが情に厚く、社員を殴りながらもその親に送金していたこともある。良くも悪くも封建的、親分肌で権威主義的な実彦だった。

昭和7年、第18回総選挙でも鹿児島から立候補したが落選。無名だった林芙美子の『放浪記』がヒットし、後に名作と呼ばれる純文学作品(志賀直哉『暗夜行路』、堀辰雄『風立ちぬ』など多数)がどんどん掲載されて改造社は順調だったが、政治の面ではうまくいかなかった。昭和10年代になるとファシズムが亢進して言論弾圧が激しくなり、『改造』論壇の主流派だった労農派は排除された。

改造社はそうした弾圧によってふたたび経営難に陥ったが石坂洋二郎『若い人』、火野葦平『麦と兵隊』のヒットによって経済的余裕ができ、『新万葉集』の刊行など意欲的な事業に取り組んだ。同時に実彦は中国へ入り、混迷する日中関係を間近で見て時論を『改造』に掲載した。毛沢東を最初に日本に紹介したのは『改造』だったといわれる。中国通を自認した実彦は、中国事情を紹介する雑誌『大陸』を創刊、『改造』本誌は文化と教養主義に編集を転換して、体制迎合的な『時局版』を創刊した。

改造社はこれらの雑誌を発禁ギリギリの線で編集していたが、昭和17年に掲載された細川嘉六の論文「世界史の動向と日本」が軍部に問題視され、細川の家宅捜索で一枚の写真が共産党再建準備会だとでっち上げられて検挙された(横浜事件)。実彦は編集者を擁護するどころか、「自分は挙国一致に協力しているのに部下の不注意から事件に発展した」と自分を被害者だとみなした。軍部の弾圧と実彦の姿勢から改造社は有能な編集者を失っていく。

実彦は陸軍の最高人脈と深いかかわりがあったが、軍部からの命令により昭和19年6月号で自主的に廃刊させられ、改造社も解散した。実彦は軍部の横暴を怒ることもなく、改造社の過去の栄光を懐かしむでもなく、ただ茫然自失となって、なげやりで無責任に改造社を終わりにした。実彦は解散にあたって社員の退職金を出し惜しんだ。

戦後、言論が復活すると実彦はさっそく『改造』を復活させたが、岩波茂雄など他の言論人が戦争協力を反省したのとは対照的に、そこには過去への反省はなかった。

戦後初の総選挙にはまたしても鹿児島から立候補し当選。実彦が党首を務める協和党は全国で14名の当選者を出した。実彦には入閣の打診があったが党議により断った。この時のことを二階堂進は「実に寂しそうだった。大臣になりたかったのだ、とその心情を思いやりました(p.225)」と後年語っている。

さらに昭和21年には、実彦は戦中の体制迎合的な雑誌が見咎められ「軍国主義者、極端な国家主義者」とされ公職追放処分を受けた。こうして復活した改造社の社長を務めることもできなくなった。しかし実彦自身は逆境にあることでかえって闘志がわいたらしい。そして改造社には、私的な事務所で執務をするという理由でかかわり続けた。

そのころ、改造社では労働問題が起こっていた。改造社内で労働組合結成の動きがあり、実彦はそれが気に食わなかった。結成された労働組合は早速賃上げを要求。社内は組合派と反組合派に分裂した。そんな中、実彦が公職追放中にも関わらず改造社に出入りしていることが告発され、実彦は有罪判決を受ける。おそらくは社内からの密告だという。『改造』では労働問題を取り上げ続けていたのに、社内の労働問題を弾圧しようとした実彦という人物の不思議さを思わずにはいられない。

またGHQは共産主義的な言論の統制と弾圧(「赤狩り」)に乗り出し、改造社も目をつけられて編集長他3名を解雇せざるを得なかった(十二月事件)。その後編集長に就任したのが小野田政(後、産経出版社長)だった。小野田はこれまでの左翼的傾向を『改造』から除き、新保守主義者を執筆者に使った。さらには昭和25年には昭和天皇に原稿を依頼し、歌7首を巻頭に置いた特集で9万部を売った。「マルクス、レーニン主義で売った「改造」が天皇の歌で売れた(p.251)」のは栄光の歴史が終わったことの象徴だっただろう。

その後の改造社をめぐる動きはゴタゴタしているので省略する。しかし要するに、実彦の死とともに改造社は終わりを告げた。形式的には山本家が改造社を引き継いだが、社員との対立や一方的な解雇、それを不服とした言論人からの反発、それに応えての和解などがあったものの、改造社の命運は尽きていたのである。

私が本書を手に取ったのは、「円本をつくった山本実彦とはどういう人物だろう?」という興味だった。私はてっきり、「庶民にまで本をいきわたらせるため」というような高邁な理想から円本が作られたと思っていたのだ。しかし実際にはそうとは言い切れない。実彦にとっては「売れることが第一」であった。事実円本で儲けたのである。また、体制派で軍部ともつながっていた実彦が左翼雑誌を作っていたのは、それが売れるからだった。労働者の保護や左翼思想など(当時の)進歩思想を、彼がどこまで真剣に受け取っていたか定かでない。

実彦はロマンチストではあった。ラッセルやアインシュタインを招聘したり、『新万葉集』を編纂したりといった、私財を投入した文化活動も行った。しかしそれすらも、人文主義的な理想から出た事業であるとは思えないところがある。だが円本の流布は日本の出版文化に革命をもたらし、文化人の招聘は学界に刺激を与えた。実彦の事業は打算的・場当たり的であったかもしれないが、結果としては日本の言論や大衆の読書習慣に大きな影響を与えた。

実彦が鹿児島選出の国会議員として力を入れた仕事は、川内川の改修であった。確かに川内川は暴れ川で地域の人たちは度重なる水害に悩まされていた。そういう事業に力を入れたのは評価できる。一方で、実彦の限界はそこにあったともいえる。土建屋や行政と一体となってインフラを整えるのが、あくまで実彦の「政治」だったのだろう。そこに理想社会を実現するための「思想」はなかったのかもしれない。

良くも悪くも人間らしい、出版界の風雲児山本実彦を知れる好著。


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