石仏を民間宗教の側から読み解く。
日本には、夥しい数の石仏や石塔が存在する。しかしその意味がよくわからなくなって久しい。なぜ昔の人はこんなにも石物や石塔を作ったのだろうか。これまでの仏教史学では、儀軌(仏像の決まり)などは細かく分かっていても、そこにそれがある理由については全くお手上げのことが多かった(と著者はいう)。
それに対し、著者五来重(ごらい・しげる)は「仏教民俗学」(後に「宗教民族学」に拡張)によって、快刀乱麻を切るように謎を解いていく。その主張をまとめれば、「民衆は、昔から石自体に不思議(神聖)な力があるという信仰を抱いていて、それを表現したのが石仏である。それが地蔵であれ道祖神であれ、何が表現されたかはさほど重要ではなく、そこに祈りの対象となる「石」があることが重要なのだ」とでもなるだろう。
著者によれば、神聖性を感じさせる石は、第1に魁偉な容貌をした自然石である。そういう自然石の周りを巡ることを「行道(ぎょうどう)」といい、これは巡礼の原始的形態なのだという。
第2に、並べた石・積んだ石である。ストーンヘンジのような列石信仰もそうだし、日本では積石信仰や磐境(いわさか)がそれに当たる。例えば賽の河原になぜ石を積むのか、著者はそれを古代の葬制の名残だと推測している。死体を葬った洞窟の入り口を石を積んで塞いだこことが積石の由来だという。なぜ石を積むかというと、それは悪霊が外の世界に出てこないようにするためだ。磐境の列石も、それ自体が神の依り代ではなく、神の荒魂を封鎖するために作られたのではないかというのが著者の説だ。
第3に、人工的に(特別な形に)造形した石である。その最も起源的なものは陰陽石ではないかと著者は考える。特に男根形は、様々な石造物の祖型となった。例えば道祖神、地蔵菩薩は、その根幹に男根があると考えられる。
さらに本書では、庚申塔と青面金剛(しょうめんこんごう)、馬頭観音、如意輪観音、地蔵石仏の信仰、磨崖仏と修験道などについて語られる。特に面白かったのが庚申塔についてで、これは非常にたくさん残っている石造物であるにもかかわらず、なぜ庚申供養塔を立てたのか普通の仏教理論(+道教理論)でも分からない。著者はこれは庶民の先祖供養と習合した結果であり、先祖供養をまとめてする意味があったと述べている。馬頭観音も、元来の仏教理論ではほとんど重要ではない存在なのに、民間信仰では牛馬の守り神として絶大な人気を得た。仏塔に占める馬頭観音の割合は非常に多いのである。こういうのも、仏教史学ではなく「仏教民俗学」でないと解けない存在である。
また、如意輪観音は水子供養のために造立されたのではないかという考察をしている。これは今まであまり気にしていなかったので、今後見ていく時に確認してみたいと思う。
それから、磨崖仏の項目には弥勒信仰についての言及がある。阿弥陀信仰が広まる前、古代に於いては弥勒信仰の方が盛んであったとはしばしば言われることであるが、古代石窟の弥勒仏が修験道の原始的形態であったと著者は言う。
ちなみに、私は本書を10年くらい前に一度読んでおり、今回は再読である。10年前に読んだ時はあまりピンと来ていなかったのが庚申塔の項であったのだが、今回はナルホドと思わされた。
また、再読して感じたのが、著者の旧来のアカデミズムに対するちょっと攻撃的な姿勢である。「仏教民俗学」を打ち立てるにあたって、著者は旧来の仏教史学と軋轢を抱えていたというが、それを乗り越えようとする強烈な気概を本書からは感じる。逆に言うと「旧来の石造美術史・仏教史学でわからなかったことが、仏教民俗学で考えればほらこの通り!」みたいな部分もあって、ちょっと断定が過ぎるような部分も散見された。もう少し学問的に慎重に述べていたら、本書は第一級の作品になった気がする。
また、本書は「石の宗教」の全貌というよりも、全編がケーススタディ的である。非常に示唆的な記述が多く、また読みやすくもあり、主張は明解に伝わってくるものの、扱っていない話題も多いのである。例えば五輪塔や一般の(四角の)墓塔、板碑については取り上げて欲しかった。また、仏像の中では特に地蔵菩薩だけが取り上げられているが、もう少し幅広く石仏の世界を案内して欲しかったところである。
石仏の奥にある、石自体の神聖性に着目した刮目すべき本。
2020年5月19日火曜日
2020年5月16日土曜日
『都城唐人町—16〜17世紀の南九州と東アジア交流』佐々木 綱洋
日向・大隅の海上交通についての論文集。
本書は、著者が高校教諭であった時から発表してきた論文を再編集して一冊の本としたものである。そのため、あまり体系的ではなく、また重複も散見される。しかし参考になる情報が多々含まれた本である。
「1の章 唐船の渡来地・内之浦」では、内之浦と外ノ浦の海上交通について述べる。応仁の乱の後、遣明船が南海路をとるようになると、ルート上にある日向・大隅の諸港は遣明船の寄港地として賑わうこととなった。ここから坊津を経て、寧波(明は入貢国ごとに港を規定していた)へ向かったのである。
外ノ浦を領有したのが飫肥城主豊州島津家で、飫肥城下にあった安国寺(臨済宗)や龍源寺(串間市市木)が外交文書の作成や航路の安全管理などにあたっていた。 そうした任務のため飫肥城主島津忠廉から安国寺に招かれたのが、日本儒学の嚆矢となった桂庵玄樹。桂庵玄樹の法統は薩南学派を形成し(桂庵玄樹[安国寺]-月渚[安国寺]-一翁[龍源寺]-文之[龍源寺])、飫肥は南九州の文化の中心となった。しかし永禄11年(1568)、伊東氏の侵攻に島津氏が敗北、文之は飫肥を去って薩摩へ渡った。
ところで文禄2年(1593)、明の福建巡撫許孚遠(きょ・ふえん)は、史世用という部下を商人にしたて、許豫という海商の船で内之浦に派遣しスパイ活動を行わせた(当時、秀吉の朝鮮の役のためスパイが必要だった)。まずは伊集院幸侃(忠棟)がこれを尋問し、史世用はスパイだとバレて送還された。替わって許豫がスパイの代理を務めたのだが、許豫は島津義久の信頼を勝ち取り貿易の権利を得て帰帆を認められた。この尋問の通訳を務めたのが正興寺(霧島市隼人町)の玄龍という僧侶で、著者は、この玄龍はすなわち文之であったと種々の資料から考察している。
「2の章 北郷氏と内之浦」では、慶長元年(1596)に内之浦にやってきた藤原惺窩の足取りを辿り、当時の内之浦が東アジア貿易圏の一角であったことをまず述べ、続いて都城を領有した都城島津家こと北郷(ほんごう)氏の概略史を述べる。内之浦は都城領であり、豊臣秀吉により伊集院忠棟が都城に配置された一時期を除いて北郷氏の領地であった。内陸の盆地である都城に唐人町ができたのは、内之浦を北郷氏が領していたからなのである。
なお、北郷氏の祖は島津忠久の曾孫忠宗の六男・北郷讃岐守資忠であり、正平7年(1352)に足利幕府より日向諸県北郷を与えられた。312年後、北郷氏はおそらく島津光久の命によって島津氏に復姓したのであるが、その背景として小杉重頼事件が取り上げられている。この事件の関係者を処分することにより島津本宗家は北郷家への圧力を強め、事実上島津家の分家とするに至った。
「3の章 都城唐人町の成立と町場の形成」では、都城唐人町がどのように成立し、変転していったかが述べられる。都城に唐人町ができたきっかけは、天正年間(1573〜1593)に時の領主北郷時久が内之浦に亡命してきた明人たちを城下に住まわせたことである。また天正18年(1590)にも明人たちが内之浦に漂着(となっているが著者は亡命と推測)し、その明人たち(の一部)も合流したと著者は考えている。北郷時久は一時(先述の伊集院忠棟の移封によって)祁答院に転封させられた時も明人たちを連れて行き湯田に唐人町を作らせた。都城唐人町は北郷時久の篤い保護によって成立したものであった。
さらに、江戸時代の鎖国体制下になって、再び明人たちが内之浦にやってきて唐人町に住んだ。何欽吉(か・きんきつ)、天水二官(てんみず・にかん)、江夏生官(えなつ・せいかん)、清水新老、汾陽青音(ふんよう・せいおん)らであった。この年代ははっきりとはわからないが、著者は状況証拠から通説の正保年間ではなく寛永8年(1631)以前と推測している。この唐人町は幾度かの変転を経ながらも繁栄していった。それにしても、北郷時久時代の亡命者の一群にしても、なぜ明人たちは都城にやってきたのだろうか。偶然ではないように思われる。
「4の章 何欽吉ら明人たちの足跡」では、明人たちの墓地を調査することでその足取りを推測している。特に何欽吉については、明人たちのリーダー的存在と考えられるためやや詳しく来歴を辿っている。本章では、さらに唐人町に伝来した媽祖像と出土した中国象棋の駒について紹介している。
「5の章 高氏四代と都城」では、長崎奉行所の大通事(通訳)として大きな足跡を残した高一覧(こう・いちらん)など高一族の歴史を取り上げる。一覧の父は、薩摩の帰化明人である高寿覚。儒医として島津家久に仕えたという。さて、一覧は川内で生まれたと一覧の子玄岱(げんたい)が述べているのであるが、一覧の供養塔が都城にあり都城とは縁が深く、著者は都城出生説を推している。
玄岱は黄檗宗に学び、京都に留学、朱子学を学ぶ。その後、島津光久に招かれて侍医として薩摩に住んだ。さらに61歳の時(1709)、新井白石の推挙で幕府の儒官となった。なお玄岱は宝永3年(1706)野間権現の「娘馬山碑記銘」を書いたという。また、玄岱の長男・有隣(ゆうりん)は家督を相続して幕府の儒官となり、書物奉行となって将軍吉宗のブレーンとして重用された。
「終章 都城唐人町と漂流民」では、延宝8年(1680)にバタン人(当時スペイン領のフィリピンの現地人)が外ノ浦に漂着し、それを長崎に陸送したことを詳述し、当時の国際関係などについてケーススタディ的に取り上げている。
なお「みやざき文庫」に所収されるにあたり、次の3編の論文が「補論」として加わっている。「都城市天水家媽祖像」、「飫肥の媽祖像」、「飫肥と明医徐之■(辶に粦)」。
全体を通じて、本書は著者の関心事である「都城」とそれに通じた内之浦や外ノ浦をいろんな角度から眺めてみようという本で、時代も行ったり来たりする上、論文集の性格上、概略的な説明よりも個別的な説明が優先していることもあって、決して読みやすいとはいえない。それから、増補改訂版であるにもかかわらず誤植が多いのは残念である。しかしいろんなところに参考になる情報がちりばめられている本で、体系的ではないが枝葉末節の部分が面白い本である。
著者の都城の海外交流研究の集大成。
本書は、著者が高校教諭であった時から発表してきた論文を再編集して一冊の本としたものである。そのため、あまり体系的ではなく、また重複も散見される。しかし参考になる情報が多々含まれた本である。
「1の章 唐船の渡来地・内之浦」では、内之浦と外ノ浦の海上交通について述べる。応仁の乱の後、遣明船が南海路をとるようになると、ルート上にある日向・大隅の諸港は遣明船の寄港地として賑わうこととなった。ここから坊津を経て、寧波(明は入貢国ごとに港を規定していた)へ向かったのである。
外ノ浦を領有したのが飫肥城主豊州島津家で、飫肥城下にあった安国寺(臨済宗)や龍源寺(串間市市木)が外交文書の作成や航路の安全管理などにあたっていた。 そうした任務のため飫肥城主島津忠廉から安国寺に招かれたのが、日本儒学の嚆矢となった桂庵玄樹。桂庵玄樹の法統は薩南学派を形成し(桂庵玄樹[安国寺]-月渚[安国寺]-一翁[龍源寺]-文之[龍源寺])、飫肥は南九州の文化の中心となった。しかし永禄11年(1568)、伊東氏の侵攻に島津氏が敗北、文之は飫肥を去って薩摩へ渡った。
ところで文禄2年(1593)、明の福建巡撫許孚遠(きょ・ふえん)は、史世用という部下を商人にしたて、許豫という海商の船で内之浦に派遣しスパイ活動を行わせた(当時、秀吉の朝鮮の役のためスパイが必要だった)。まずは伊集院幸侃(忠棟)がこれを尋問し、史世用はスパイだとバレて送還された。替わって許豫がスパイの代理を務めたのだが、許豫は島津義久の信頼を勝ち取り貿易の権利を得て帰帆を認められた。この尋問の通訳を務めたのが正興寺(霧島市隼人町)の玄龍という僧侶で、著者は、この玄龍はすなわち文之であったと種々の資料から考察している。
「2の章 北郷氏と内之浦」では、慶長元年(1596)に内之浦にやってきた藤原惺窩の足取りを辿り、当時の内之浦が東アジア貿易圏の一角であったことをまず述べ、続いて都城を領有した都城島津家こと北郷(ほんごう)氏の概略史を述べる。内之浦は都城領であり、豊臣秀吉により伊集院忠棟が都城に配置された一時期を除いて北郷氏の領地であった。内陸の盆地である都城に唐人町ができたのは、内之浦を北郷氏が領していたからなのである。
なお、北郷氏の祖は島津忠久の曾孫忠宗の六男・北郷讃岐守資忠であり、正平7年(1352)に足利幕府より日向諸県北郷を与えられた。312年後、北郷氏はおそらく島津光久の命によって島津氏に復姓したのであるが、その背景として小杉重頼事件が取り上げられている。この事件の関係者を処分することにより島津本宗家は北郷家への圧力を強め、事実上島津家の分家とするに至った。
「3の章 都城唐人町の成立と町場の形成」では、都城唐人町がどのように成立し、変転していったかが述べられる。都城に唐人町ができたきっかけは、天正年間(1573〜1593)に時の領主北郷時久が内之浦に亡命してきた明人たちを城下に住まわせたことである。また天正18年(1590)にも明人たちが内之浦に漂着(となっているが著者は亡命と推測)し、その明人たち(の一部)も合流したと著者は考えている。北郷時久は一時(先述の伊集院忠棟の移封によって)祁答院に転封させられた時も明人たちを連れて行き湯田に唐人町を作らせた。都城唐人町は北郷時久の篤い保護によって成立したものであった。
さらに、江戸時代の鎖国体制下になって、再び明人たちが内之浦にやってきて唐人町に住んだ。何欽吉(か・きんきつ)、天水二官(てんみず・にかん)、江夏生官(えなつ・せいかん)、清水新老、汾陽青音(ふんよう・せいおん)らであった。この年代ははっきりとはわからないが、著者は状況証拠から通説の正保年間ではなく寛永8年(1631)以前と推測している。この唐人町は幾度かの変転を経ながらも繁栄していった。それにしても、北郷時久時代の亡命者の一群にしても、なぜ明人たちは都城にやってきたのだろうか。偶然ではないように思われる。
「4の章 何欽吉ら明人たちの足跡」では、明人たちの墓地を調査することでその足取りを推測している。特に何欽吉については、明人たちのリーダー的存在と考えられるためやや詳しく来歴を辿っている。本章では、さらに唐人町に伝来した媽祖像と出土した中国象棋の駒について紹介している。
「5の章 高氏四代と都城」では、長崎奉行所の大通事(通訳)として大きな足跡を残した高一覧(こう・いちらん)など高一族の歴史を取り上げる。一覧の父は、薩摩の帰化明人である高寿覚。儒医として島津家久に仕えたという。さて、一覧は川内で生まれたと一覧の子玄岱(げんたい)が述べているのであるが、一覧の供養塔が都城にあり都城とは縁が深く、著者は都城出生説を推している。
玄岱は黄檗宗に学び、京都に留学、朱子学を学ぶ。その後、島津光久に招かれて侍医として薩摩に住んだ。さらに61歳の時(1709)、新井白石の推挙で幕府の儒官となった。なお玄岱は宝永3年(1706)野間権現の「娘馬山碑記銘」を書いたという。また、玄岱の長男・有隣(ゆうりん)は家督を相続して幕府の儒官となり、書物奉行となって将軍吉宗のブレーンとして重用された。
「終章 都城唐人町と漂流民」では、延宝8年(1680)にバタン人(当時スペイン領のフィリピンの現地人)が外ノ浦に漂着し、それを長崎に陸送したことを詳述し、当時の国際関係などについてケーススタディ的に取り上げている。
なお「みやざき文庫」に所収されるにあたり、次の3編の論文が「補論」として加わっている。「都城市天水家媽祖像」、「飫肥の媽祖像」、「飫肥と明医徐之■(辶に粦)」。
全体を通じて、本書は著者の関心事である「都城」とそれに通じた内之浦や外ノ浦をいろんな角度から眺めてみようという本で、時代も行ったり来たりする上、論文集の性格上、概略的な説明よりも個別的な説明が優先していることもあって、決して読みやすいとはいえない。それから、増補改訂版であるにもかかわらず誤植が多いのは残念である。しかしいろんなところに参考になる情報がちりばめられている本で、体系的ではないが枝葉末節の部分が面白い本である。
著者の都城の海外交流研究の集大成。
2020年5月10日日曜日
『世界古典文学全集36A 禅家語録 I』西谷啓治・柳田聖山編
初期禅のムーブメントを感じる禅籍群。
本書に収められた作品は、本書出版時点においてそれまで通読されたことのないものばかりで、初日本語訳となるものがほとんどである。
筑摩書房は世界古典文学全集の編纂と同時に「禅の語録」というシリーズを編纂していて、それの成果が取り入れられてできたのが本書である。なお「禅の語録」は1969年に刊行が開始されてから、長く途絶して完結したのが2016年。約50年かけて完成した不朽のシリーズである。
詳細に研究したい向きにはもちろん「禅の語録」を薦めるが、一般にはこの『禅家語録』で十分である。何しろ本書1冊で、「禅の語録」6冊分の禅籍を所収する(すごくお得!)。本書では詳細な解説は割愛されているが、本文、註、日本語訳が掲載されているから、本文の内容を知る分には十分なのだ。ただし、小さい活字の2段組なので目には優しくない。
それに本書を通読すると、初期の禅ムーブメントがどうわき起こり、完成していったかがよくわかる。禅籍を扱いながらこのようにエキサイティングな本は珍しい。ぜひ通読をオススメする。本ブログでは既に本書の内容それぞれについてメモを書いてきたが、以下簡単に紹介する(リンク先は読書メモブログ記事)。
敦煌本の発見により明らかになった最初期の禅籍。極めて老荘思想の色が強いのが興味深い。
六祖こと恵能の激動の生涯とスーパー理論。恵能は「一瞬で悟りの世界に行ける」という頓悟の理論を提唱したとされ、禅の思想を良くも悪くも飛躍させた。彼の前半生の記録は、物語としても面白い。
「心こそが仏である」という馬祖の考えを精緻に理論化した大珠慧海による頓悟の理論書。
初期禅の完成の姿。あまり知られていないが、初期禅の到達点として位置づけたい重要な本である。
本書中、最も有名であり、また手に入りやすい本。人にインスピレーションを与えずにおかない、強烈な能動性がある「語録の王」。
本書に収められた作品は、本書出版時点においてそれまで通読されたことのないものばかりで、初日本語訳となるものがほとんどである。
筑摩書房は世界古典文学全集の編纂と同時に「禅の語録」というシリーズを編纂していて、それの成果が取り入れられてできたのが本書である。なお「禅の語録」は1969年に刊行が開始されてから、長く途絶して完結したのが2016年。約50年かけて完成した不朽のシリーズである。
詳細に研究したい向きにはもちろん「禅の語録」を薦めるが、一般にはこの『禅家語録』で十分である。何しろ本書1冊で、「禅の語録」6冊分の禅籍を所収する(すごくお得!)。本書では詳細な解説は割愛されているが、本文、註、日本語訳が掲載されているから、本文の内容を知る分には十分なのだ。ただし、小さい活字の2段組なので目には優しくない。
それに本書を通読すると、初期の禅ムーブメントがどうわき起こり、完成していったかがよくわかる。禅籍を扱いながらこのようにエキサイティングな本は珍しい。ぜひ通読をオススメする。本ブログでは既に本書の内容それぞれについてメモを書いてきたが、以下簡単に紹介する(リンク先は読書メモブログ記事)。
『達摩二入四行論』柳田 聖山 訳
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/03/36a-i.html敦煌本の発見により明らかになった最初期の禅籍。極めて老荘思想の色が強いのが興味深い。
『六祖壇経』柳田 聖山 訳
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/01/36a-i.html六祖こと恵能の激動の生涯とスーパー理論。恵能は「一瞬で悟りの世界に行ける」という頓悟の理論を提唱したとされ、禅の思想を良くも悪くも飛躍させた。彼の前半生の記録は、物語としても面白い。
『頓悟要門』平野 宗浄 訳
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/04/36a-i.html「心こそが仏である」という馬祖の考えを精緻に理論化した大珠慧海による頓悟の理論書。
『黄檗伝心法要』入矢 義高 訳
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/04/36a-i_29.html初期禅の完成の姿。あまり知られていないが、初期禅の到達点として位置づけたい重要な本である。
『臨済録』秋月 龍珉 訳
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/05/36a-i.html本書中、最も有名であり、また手に入りやすい本。人にインスピレーションを与えずにおかない、強烈な能動性がある「語録の王」。
『趙州録』秋月 龍珉 訳
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/10/36a-i.html
ヴィヴィッドで分かりやすく、臨機応変に説かれる生きた教え。にもかかわらず、中国でも日本でも本書は等閑に付されてきた。忘れられた名著。
★Amazonページ
https://amzn.to/47T7JG9
2020年5月5日火曜日
『臨済録』秋月 龍珉 訳(西谷啓治・柳田聖山編『世界古典文学全集36A 禅家語録 I』 所収)
強烈なパワーを持つ「語録の王」。
『臨済録』は、黄檗希運(おうばく・きうん)の弟子、臨済義玄(りんざい・ぎげん)の言行録である。
「上堂(対話による説法の記録)」、「示衆(講義の記録)」、「勘辨(禅者が互いの実力を確かめるために行う問答)」、「行録(臨済の一代記)」の4つの部分によって構成される。
『臨済録』は、しばしば「語録の王」と呼ばれる。禅の語録は数多いが、これほどまでに人々にインスピレーションを与えてきた語録も珍しい。そして、『臨済録』のすごさは、この『禅家語録 I』によって初期禅の思想を追ってみるとより明確になる。
黄檗によって初期禅思想は完成している。臨済が付け加えたものは思想面においては何もないと言ってもよい。しかしその表現は、黄檗とは大違いなのだ。臨済は、とにかく行動的・能動的である。それは、「内面」といったものを信じていないようにさえ見えるほどだ。彼にとっては全瞬間の一挙手一投足が勝負なのである。黄檗に3度殴られて大悟し、黄檗を殴り返した時から、臨済は「理屈じゃない、行動が全て」という原理で動いているように見える。
臨済は言う。「諸君、どこでも自己が主人公となれば、立っている所はすべて真実である」と。
まさに臨済はこれを体現する。彼はいつでも、自分の人生において自分を主人公としている。主人公であるという重荷を引き受けている。だから「出逢ったものはすぐ殺せ。仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、羅漢に逢えば羅漢を殺し、父母に逢えば父母を殺し、親類縁者に逢えば親類縁者を殺してこそ、初めて解脱して、何物にも拘束されず、一切に透脱して自在を得る」のである。
臨済が唱え、体現したのは、そういう強烈な個人主義であり、個我の価値であった。そして彼は、それを言葉によって表現するだけでなく、一瞬の機転で具現化した。殴る必要があれば遠慮なく殴ったし、また殴り返された。それまでの禅籍にほとんど全く見られないのに、『臨済録』にはそういう「禅機」が横溢しているのである。
臨済にとって、「悟り」などどうでもよかったのではないかと思える。六祖恵能以来の「煩悩即菩提」といった理論など、臨済にとってはチラシの裏の落書き程度の価値しかなかった。悟ったかどうか、そんなことより、常に「自己」が十全に発揮できること、それが臨済にとっての一大事であった。臨済が禅に革命をもたらしたのは、そういう「能動性」の礼賛であったと思う。それまでの「悟り」の世界が、欲望を寂滅した静的なものとしてイメージされていたのと比べ、臨済の「悟り」は、絶対的な自由を手にした動的なものなのである。
私は『臨済録』を通読するのは二度目だが、改めて読んでみて思ったのは、一見わけが分からなく思える問答でも、後代の訓詁学的な禅とは違い、臨済は常に自分の言葉と行動で対峙しているということである。また「示衆」においては、黄檗から受け継いだ理論を丁寧に解説してもいる。臨済はただパワーが有り余った自己中のオジサンではなくて、「どこからでもかかってこい」という包容力のある人間だ。
臨済自身は「喝」や「三十棒(文字通り30回棒で打つわけではないが棒で殴打する)を多用し、また後の五山文学に繋がるような韜晦な表現も使ったが、それは様式化されたものではなく、あくまでも臨済の衷心からのことだった。だが、臨済の禅があまりにも一世を風靡したために、「喝」や「三十棒」といったことだけが表面的に真似され、重要なことがこぼれ落ちていく危惧も、本書からは感じるところである。
それほど、本書は力に溢れ、人に影響を与えずにはおかない。初期禅の思想を自ら体現し、禅に「能動性」を導入した桁外れの男の言行録。
『臨済録』は、黄檗希運(おうばく・きうん)の弟子、臨済義玄(りんざい・ぎげん)の言行録である。
「上堂(対話による説法の記録)」、「示衆(講義の記録)」、「勘辨(禅者が互いの実力を確かめるために行う問答)」、「行録(臨済の一代記)」の4つの部分によって構成される。
『臨済録』は、しばしば「語録の王」と呼ばれる。禅の語録は数多いが、これほどまでに人々にインスピレーションを与えてきた語録も珍しい。そして、『臨済録』のすごさは、この『禅家語録 I』によって初期禅の思想を追ってみるとより明確になる。
黄檗によって初期禅思想は完成している。臨済が付け加えたものは思想面においては何もないと言ってもよい。しかしその表現は、黄檗とは大違いなのだ。臨済は、とにかく行動的・能動的である。それは、「内面」といったものを信じていないようにさえ見えるほどだ。彼にとっては全瞬間の一挙手一投足が勝負なのである。黄檗に3度殴られて大悟し、黄檗を殴り返した時から、臨済は「理屈じゃない、行動が全て」という原理で動いているように見える。
臨済は言う。「諸君、どこでも自己が主人公となれば、立っている所はすべて真実である」と。
まさに臨済はこれを体現する。彼はいつでも、自分の人生において自分を主人公としている。主人公であるという重荷を引き受けている。だから「出逢ったものはすぐ殺せ。仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、羅漢に逢えば羅漢を殺し、父母に逢えば父母を殺し、親類縁者に逢えば親類縁者を殺してこそ、初めて解脱して、何物にも拘束されず、一切に透脱して自在を得る」のである。
臨済が唱え、体現したのは、そういう強烈な個人主義であり、個我の価値であった。そして彼は、それを言葉によって表現するだけでなく、一瞬の機転で具現化した。殴る必要があれば遠慮なく殴ったし、また殴り返された。それまでの禅籍にほとんど全く見られないのに、『臨済録』にはそういう「禅機」が横溢しているのである。
臨済にとって、「悟り」などどうでもよかったのではないかと思える。六祖恵能以来の「煩悩即菩提」といった理論など、臨済にとってはチラシの裏の落書き程度の価値しかなかった。悟ったかどうか、そんなことより、常に「自己」が十全に発揮できること、それが臨済にとっての一大事であった。臨済が禅に革命をもたらしたのは、そういう「能動性」の礼賛であったと思う。それまでの「悟り」の世界が、欲望を寂滅した静的なものとしてイメージされていたのと比べ、臨済の「悟り」は、絶対的な自由を手にした動的なものなのである。
私は『臨済録』を通読するのは二度目だが、改めて読んでみて思ったのは、一見わけが分からなく思える問答でも、後代の訓詁学的な禅とは違い、臨済は常に自分の言葉と行動で対峙しているということである。また「示衆」においては、黄檗から受け継いだ理論を丁寧に解説してもいる。臨済はただパワーが有り余った自己中のオジサンではなくて、「どこからでもかかってこい」という包容力のある人間だ。
臨済自身は「喝」や「三十棒(文字通り30回棒で打つわけではないが棒で殴打する)を多用し、また後の五山文学に繋がるような韜晦な表現も使ったが、それは様式化されたものではなく、あくまでも臨済の衷心からのことだった。だが、臨済の禅があまりにも一世を風靡したために、「喝」や「三十棒」といったことだけが表面的に真似され、重要なことがこぼれ落ちていく危惧も、本書からは感じるところである。
それほど、本書は力に溢れ、人に影響を与えずにはおかない。初期禅の思想を自ら体現し、禅に「能動性」を導入した桁外れの男の言行録。
2020年4月30日木曜日
『海洋国家薩摩』徳永 和喜 著
鎖国体制の中でも薩摩が東アジア世界と繋がっていたことを述べる。
薩摩藩は中世から南蛮貿易・唐貿易を行い、また鎖国体制下においても琉球国を隠れ蓑にして中国等と交易を行っていた。しかしこれは密貿易であったために史料があまり残っていない。
そこで著者は様々な史料の断片からかつての貿易の様子を推測する。本書はこのような断片の集積であるため、決して読みやすいものではなく、時代が行ったり来たりする上に記述にはかなり粗密がある。また、既存研究である程度明らかになっていることについては記載しないという方針であったのか、重要なことでもかなりあっさりと書いている部分も多い。例えば、薩摩藩の海外貿易に巨大な影響を与えた琉球侵攻についてはほとんど結果のみを述べるだけだ。さらに専門的な事項でも全く説明を与えていない箇所がある(例えば「嘉吉附庸説」は一般的でないから説明した方がよかった)。
つまり、本書は「これまでの研究の隙間を埋める」形で、しかも通時的ではなくトピック的に書かれているため、初学者にとってちょっと取っつきにくい。私も全て飲み込めたかというと覚束ない。そんなわけで、以下は気になったところの備忘録的なメモである。
「第1章 島津氏の中世外交」では、鎖国以前の島津氏の外交政策が述べられる。特に義久が山川港を直轄港としたこと(天正11年=1583)や、中国商人の自由貿易を保護した家久の貿易政策については興味深い。家久は後になって琉球に侵攻して貿易を我がものにするにもかかわらず、当初は自由貿易推進派だったらしいのが不思議だ。本章ではこの他薩摩の朱印船貿易について述べられる。朱印船貿易では、中国ではなく、カンボジア、シャム、ベトナム、ルソン(フィリピン)、西洋までにも行っている。これは純粋な官営ではなく、商人を募って貿易船を派遣する方式だったようだ。
「第2章 鎖国下の藩密貿易」では、薩摩藩による官営密貿易(これを著者は「藩密貿易」と名付ける)の実態が述べられる。その方式はこうだ。琉球を薩摩藩の属国としつつ、表向きには独立国のように見せかけて中国の冊封体制に留まらせ、進貢貿易に参加する。こうして琉球を通した藩密貿易(=琉球口交易)を行ったのである。
ちなみに進貢貿易とは、琉球が親善のために中国に貢納品を持っていくと、それ以上に価値あるいろいろな品が下賜されるため、実質的に貿易と等しい価値を持つ進貢の形態である。薩摩藩は琉球を中国にはわからないように実質属国化したことで、この進貢貿易による莫大な利益を手にすることとなった。つまり、薩摩藩は琉球が独立国であるようしつらえていたのであるが、その装置の一つが七島(宝島)と呼ばれたトカラ列島だ。
薩摩藩は元々七島衆が持っていた交易権を奪取し、琉球口交易を独占した。一方で琉球に薩摩藩からの船が来ていれば、琉球と薩摩藩の関係が中国にばれてしまうことから、七島(宝島)をさも独立国のように見せかけ、薩摩藩の船は七島からの往来と称して隠れ蓑に使ったのである。もちろん七島は薩摩藩領であった。にもかかわらず七島を「虚構の国」としたことを著者は「近世最大の虚構」であるという。
しかしこのような虚構が中国に見破られないハズもなく、中国との関係が難しくなったことから、享保3年(1718年)頃にこのような虚構の国を隠れ蓑に使う体制を改め、以後は中国からは薩摩藩の船を徹底的に隠蔽する工作を行うようになるのである。
同時期に、密貿易の一大拠点だった坊津では「享保の唐物崩れ」と呼ばれる事件が起こる。これは、藩による密貿易の一斉摘発事件である。どうやら薩摩藩は幕府との関係上、私の密貿易については厳禁とし、山川港での藩営琉球口交易に一本化した模様である。これによって貿易港だった坊津は潰滅させられた。ただしこの事件については未だ史料で裏付けられていない。
さらに本章では、天保年間(享保から約100年後)の史料に基づいて、具体的な琉球口貿易の商品である昆布・煎海鼠・干鮑等の「俵物(たわらもの)」の流通を考察している。俵物は長崎を通じた幕府の交易における主力商品だったため幕府はこれを独占的に取り扱ったが、薩摩は幕府の目を盗んで俵物を集荷して、これを琉球口交易で捌いていたのである。特に重要な商材の昆布については、北前船を利用した富山の薬売りのネットワークを活用した。
薩摩藩は、薬売りチーム「薩摩組」に薩摩での売薬を許可する代わりに、昆布の上納を求めたのである。これは当初は売薬権との引き換えに過ぎなかったが、やがて薩摩組は昆布の運搬を主体的に担うようになっていく(嘉永2年(1949)から)。
琉球口交易で薩摩が売っていたものが昆布だとすれば、買っていたものの流通はどうなっていたのか。それを伺えるのが天保6年に新潟で起こった、薩州船の遭難抜荷事件である。この事件は、要するに密貿易品を積んだ薩摩の船が新潟で遭難したため、密貿易が幕府にもばれてしまったというものである。この船に積まれていたものは、唐薬種、毛織物、鼈甲、犀角といったものだった。これら薩摩が取り扱っていた品は低価格で広く流通し、北陸や東北地方まで流通経路があった。
「第3章 幕末薩摩藩の倒幕資金」では、幕末の薩摩藩のいろいろな金策が述べられる。例えば調所広郷の財政改革では、その目玉として黒砂糖の運輸など海運の振興が行われた。しかしこれは密貿易を伴っていたために、調所の自殺とともに密貿易の終焉ももたらすことになった。また島津久光は「琉球通宝」(琉球と銘打っているが全国流通)の鋳造及び「天保通宝」の偽造で財政を豊かにした。本書では「琉球通宝」の鋳造量やその背景事情などが詳しく述べられている。
「第4章 東アジアの漂流民送還体制」では、薩摩の通訳制度、苗代川の朝鮮人(子孫)たち、漂着民の返還ルール等が取り上げられる。薩摩には、唐通事・朝鮮通詞・(幕末では)西洋通詞という通訳体制があった。朝鮮通詞については、苗代川の朝鮮人子孫が担った特殊な通詞である。このように通訳を配置していた藩は異例だといい、本書ではこれらの細かい制度(例えば職階や処遇)について考察している。こうした中、西洋通詞になった上野景範という人物が紹介されており興味を持った。唐通事の家に生まれた上野景範は、当初蘭学、追って英学を勉強し、独断で上海に渡ってさらに勉強しようとした面白い人物(上海には渡海したもののすぐに露見した)。彼は開成所の句読師(英語教師)になった。
全体を通じ、既に述べたように本書はなかなかややこしい。薩摩藩の海運関係の史料がほとんど残っていないため、やむを得ない部分もあるのだろうが、それにしても研究ノート的な部分があることは否めない。本書の内容を年表化するだけでもかなり見通しが良くなったのではないかと思う。ちょっと自分でも改めて頭の整理をしてみたい。
ややわかりにくいが、薩摩の海洋・貿易政策を考えるために参考になる本。
薩摩藩は中世から南蛮貿易・唐貿易を行い、また鎖国体制下においても琉球国を隠れ蓑にして中国等と交易を行っていた。しかしこれは密貿易であったために史料があまり残っていない。
そこで著者は様々な史料の断片からかつての貿易の様子を推測する。本書はこのような断片の集積であるため、決して読みやすいものではなく、時代が行ったり来たりする上に記述にはかなり粗密がある。また、既存研究である程度明らかになっていることについては記載しないという方針であったのか、重要なことでもかなりあっさりと書いている部分も多い。例えば、薩摩藩の海外貿易に巨大な影響を与えた琉球侵攻についてはほとんど結果のみを述べるだけだ。さらに専門的な事項でも全く説明を与えていない箇所がある(例えば「嘉吉附庸説」は一般的でないから説明した方がよかった)。
つまり、本書は「これまでの研究の隙間を埋める」形で、しかも通時的ではなくトピック的に書かれているため、初学者にとってちょっと取っつきにくい。私も全て飲み込めたかというと覚束ない。そんなわけで、以下は気になったところの備忘録的なメモである。
「第1章 島津氏の中世外交」では、鎖国以前の島津氏の外交政策が述べられる。特に義久が山川港を直轄港としたこと(天正11年=1583)や、中国商人の自由貿易を保護した家久の貿易政策については興味深い。家久は後になって琉球に侵攻して貿易を我がものにするにもかかわらず、当初は自由貿易推進派だったらしいのが不思議だ。本章ではこの他薩摩の朱印船貿易について述べられる。朱印船貿易では、中国ではなく、カンボジア、シャム、ベトナム、ルソン(フィリピン)、西洋までにも行っている。これは純粋な官営ではなく、商人を募って貿易船を派遣する方式だったようだ。
「第2章 鎖国下の藩密貿易」では、薩摩藩による官営密貿易(これを著者は「藩密貿易」と名付ける)の実態が述べられる。その方式はこうだ。琉球を薩摩藩の属国としつつ、表向きには独立国のように見せかけて中国の冊封体制に留まらせ、進貢貿易に参加する。こうして琉球を通した藩密貿易(=琉球口交易)を行ったのである。
ちなみに進貢貿易とは、琉球が親善のために中国に貢納品を持っていくと、それ以上に価値あるいろいろな品が下賜されるため、実質的に貿易と等しい価値を持つ進貢の形態である。薩摩藩は琉球を中国にはわからないように実質属国化したことで、この進貢貿易による莫大な利益を手にすることとなった。つまり、薩摩藩は琉球が独立国であるようしつらえていたのであるが、その装置の一つが七島(宝島)と呼ばれたトカラ列島だ。
薩摩藩は元々七島衆が持っていた交易権を奪取し、琉球口交易を独占した。一方で琉球に薩摩藩からの船が来ていれば、琉球と薩摩藩の関係が中国にばれてしまうことから、七島(宝島)をさも独立国のように見せかけ、薩摩藩の船は七島からの往来と称して隠れ蓑に使ったのである。もちろん七島は薩摩藩領であった。にもかかわらず七島を「虚構の国」としたことを著者は「近世最大の虚構」であるという。
しかしこのような虚構が中国に見破られないハズもなく、中国との関係が難しくなったことから、享保3年(1718年)頃にこのような虚構の国を隠れ蓑に使う体制を改め、以後は中国からは薩摩藩の船を徹底的に隠蔽する工作を行うようになるのである。
同時期に、密貿易の一大拠点だった坊津では「享保の唐物崩れ」と呼ばれる事件が起こる。これは、藩による密貿易の一斉摘発事件である。どうやら薩摩藩は幕府との関係上、私の密貿易については厳禁とし、山川港での藩営琉球口交易に一本化した模様である。これによって貿易港だった坊津は潰滅させられた。ただしこの事件については未だ史料で裏付けられていない。
さらに本章では、天保年間(享保から約100年後)の史料に基づいて、具体的な琉球口貿易の商品である昆布・煎海鼠・干鮑等の「俵物(たわらもの)」の流通を考察している。俵物は長崎を通じた幕府の交易における主力商品だったため幕府はこれを独占的に取り扱ったが、薩摩は幕府の目を盗んで俵物を集荷して、これを琉球口交易で捌いていたのである。特に重要な商材の昆布については、北前船を利用した富山の薬売りのネットワークを活用した。
薩摩藩は、薬売りチーム「薩摩組」に薩摩での売薬を許可する代わりに、昆布の上納を求めたのである。これは当初は売薬権との引き換えに過ぎなかったが、やがて薩摩組は昆布の運搬を主体的に担うようになっていく(嘉永2年(1949)から)。
琉球口交易で薩摩が売っていたものが昆布だとすれば、買っていたものの流通はどうなっていたのか。それを伺えるのが天保6年に新潟で起こった、薩州船の遭難抜荷事件である。この事件は、要するに密貿易品を積んだ薩摩の船が新潟で遭難したため、密貿易が幕府にもばれてしまったというものである。この船に積まれていたものは、唐薬種、毛織物、鼈甲、犀角といったものだった。これら薩摩が取り扱っていた品は低価格で広く流通し、北陸や東北地方まで流通経路があった。
「第3章 幕末薩摩藩の倒幕資金」では、幕末の薩摩藩のいろいろな金策が述べられる。例えば調所広郷の財政改革では、その目玉として黒砂糖の運輸など海運の振興が行われた。しかしこれは密貿易を伴っていたために、調所の自殺とともに密貿易の終焉ももたらすことになった。また島津久光は「琉球通宝」(琉球と銘打っているが全国流通)の鋳造及び「天保通宝」の偽造で財政を豊かにした。本書では「琉球通宝」の鋳造量やその背景事情などが詳しく述べられている。
「第4章 東アジアの漂流民送還体制」では、薩摩の通訳制度、苗代川の朝鮮人(子孫)たち、漂着民の返還ルール等が取り上げられる。薩摩には、唐通事・朝鮮通詞・(幕末では)西洋通詞という通訳体制があった。朝鮮通詞については、苗代川の朝鮮人子孫が担った特殊な通詞である。このように通訳を配置していた藩は異例だといい、本書ではこれらの細かい制度(例えば職階や処遇)について考察している。こうした中、西洋通詞になった上野景範という人物が紹介されており興味を持った。唐通事の家に生まれた上野景範は、当初蘭学、追って英学を勉強し、独断で上海に渡ってさらに勉強しようとした面白い人物(上海には渡海したもののすぐに露見した)。彼は開成所の句読師(英語教師)になった。
全体を通じ、既に述べたように本書はなかなかややこしい。薩摩藩の海運関係の史料がほとんど残っていないため、やむを得ない部分もあるのだろうが、それにしても研究ノート的な部分があることは否めない。本書の内容を年表化するだけでもかなり見通しが良くなったのではないかと思う。ちょっと自分でも改めて頭の整理をしてみたい。
ややわかりにくいが、薩摩の海洋・貿易政策を考えるために参考になる本。
2020年4月29日水曜日
『黄檗伝心法要』入矢 義高 訳(西谷啓治・柳田聖山編『世界古典文学全集36A 禅家語録 I』 所収)
禅学概論の書。
『黄檗伝心法要』は臨済義玄(りんざい・ぎげん)の師匠であった黄檗希運(おうばく・きうん)の講義録である。
これは、黄檗の在俗の弟子であった裴休(はいきゅう)が江西の鍾陵における説法(842年)と宛陵での説法(848年)を筆録したものを基本に、他の弟子が記録した宛陵の筆録(宛陵録)を加えたものである。
私はこれまで『禅家語録』によって初期の禅思想のテキストを追ってきたが、本書を読んで感じたのは「禅思想の完成」ということである。
達磨に仮託される初期の禅は、大雑把には仏教的な老荘思想であり「禅」としての独自性は弱かった。一方、六祖恵能(実際にはその弟子の荷択神会(じんね))の頓悟禅は、あまりにも超越的というか、ハッタリ的な部分があり、「そんなものがあればすごいけど多分ないだろう」というスーパー理論である。それを具体的に実践可能な形に組み替えたのが馬祖道一で(※『禅家語録』には馬祖の語録はない)、さらに学問的に整理して経典によって理論付けたのがその弟子の大珠慧海であった。
こうした禅の系譜に基づき、その諸思想を結実させたのが黄檗希運である、と本書からは感じる。その言葉は、論理的かつ直截的であり、また教育的である。禅思想の概論として、本書以上に簡潔かつ明解なものはないだろう。しかし逆に言えば、黄檗自身には独自の思想というものはないように思われる。いわばそれまでの禅思想を集大成し、普遍的な形にまとめたのが黄檗であると言えるかも知れない。
もちろんそれは本書がつまらないということではない。非常な名言が次々に飛び出すとても面白い本だ。例えば次のような言葉がある。
本書はこのようにエキサイティングと言えるほど生き生きした禅籍であるが、この完成度があるだけに、却って一抹の不安すら抱かせる。それは、禅思想がここで完成の時を迎え、これ以降は衰退——と言って悪ければ「固定化」——するのではないか、と感じさせるからだ。実際、後代の禅はいわば「訓詁学」となっていく。
ちなみに、『黄檗伝心法要』は北条顕時が来朝僧大休正念に命じて弘安6年(1283)に出版させており、これが日本における禅録流布のはじめとされている。その詳しい事情はわからないが、本書は日本における禅録出版の第一号にふさわしい重要なものである。
しかし異常に(?)行動的な『臨済録』や、衒学的な『碧巌録』、そして意味深長な詩偈など、トリッキーな禅籍が流行するようになると、地味な講義録である本書はさして重要でないものと見なされ、顧みられなくなった。しかし後代の後知恵で評価すれば、『黄檗伝心法要』こそ禅思想そのものとして受け取るべき第一の書であったのである。
初期禅思想の到達点。
『黄檗伝心法要』は臨済義玄(りんざい・ぎげん)の師匠であった黄檗希運(おうばく・きうん)の講義録である。
これは、黄檗の在俗の弟子であった裴休(はいきゅう)が江西の鍾陵における説法(842年)と宛陵での説法(848年)を筆録したものを基本に、他の弟子が記録した宛陵の筆録(宛陵録)を加えたものである。
私はこれまで『禅家語録』によって初期の禅思想のテキストを追ってきたが、本書を読んで感じたのは「禅思想の完成」ということである。
達磨に仮託される初期の禅は、大雑把には仏教的な老荘思想であり「禅」としての独自性は弱かった。一方、六祖恵能(実際にはその弟子の荷択神会(じんね))の頓悟禅は、あまりにも超越的というか、ハッタリ的な部分があり、「そんなものがあればすごいけど多分ないだろう」というスーパー理論である。それを具体的に実践可能な形に組み替えたのが馬祖道一で(※『禅家語録』には馬祖の語録はない)、さらに学問的に整理して経典によって理論付けたのがその弟子の大珠慧海であった。
こうした禅の系譜に基づき、その諸思想を結実させたのが黄檗希運である、と本書からは感じる。その言葉は、論理的かつ直截的であり、また教育的である。禅思想の概論として、本書以上に簡潔かつ明解なものはないだろう。しかし逆に言えば、黄檗自身には独自の思想というものはないように思われる。いわばそれまでの禅思想を集大成し、普遍的な形にまとめたのが黄檗であると言えるかも知れない。
もちろんそれは本書がつまらないということではない。非常な名言が次々に飛び出すとても面白い本だ。例えば次のような言葉がある。
- 「あらゆる仏と、一切の人間とは、ただこの一心にほかならぬ。そのほかのなんらかのものはまったくない」
- 「偉大なる菩薩たちが顕現する徳も、実はわれわれ人間にはみな具わっている」
- 「もともと法というものは一切ないのであり、そんなものの幻想から離却することがむしろ法なのである」
- 「仏も衆生も、みな君の虚妄の見が作ったものだ」
- 「山河も大地も、日月も星辰も、すべて君の心の外にあるのではない。三千世界はすべて君という自己にほかならぬ」
- 「いま大事なことは、あらゆるとき、あらゆる機会に、日常の行住坐臥の一つ一つのうちにひたすら無心を学び、ものを分別することなく、ものに寄りかかることもなく、ものに執着することなく、日ねもすのほほんとして成りゆきにまかせ、まるで阿呆のように生きてゆくことだ」
本書はこのようにエキサイティングと言えるほど生き生きした禅籍であるが、この完成度があるだけに、却って一抹の不安すら抱かせる。それは、禅思想がここで完成の時を迎え、これ以降は衰退——と言って悪ければ「固定化」——するのではないか、と感じさせるからだ。実際、後代の禅はいわば「訓詁学」となっていく。
ちなみに、『黄檗伝心法要』は北条顕時が来朝僧大休正念に命じて弘安6年(1283)に出版させており、これが日本における禅録流布のはじめとされている。その詳しい事情はわからないが、本書は日本における禅録出版の第一号にふさわしい重要なものである。
しかし異常に(?)行動的な『臨済録』や、衒学的な『碧巌録』、そして意味深長な詩偈など、トリッキーな禅籍が流行するようになると、地味な講義録である本書はさして重要でないものと見なされ、顧みられなくなった。しかし後代の後知恵で評価すれば、『黄檗伝心法要』こそ禅思想そのものとして受け取るべき第一の書であったのである。
初期禅思想の到達点。
2020年4月9日木曜日
『頓悟要門』平野 宗浄 訳(西谷啓治・柳田聖山編『世界古典文学全集36A 禅家語録 I』 所収)
頓悟の理論書。
禅には北方で行われていた禅(北宗)と南方のそれ(南宗)があるが、『六祖壇経』の六祖こと恵能(えのう)の弟子荷沢神会(じんね)が、
北宗は漸悟——長い修行の末に悟る
南宗は頓悟——すぐさま悟る
だと決めつけてから南宗の独走となった。
そしてそれを新しい角度から発展させるのが馬祖道一である。馬祖道一は優れた弟子を多く輩出し、神会の一派(荷沢宗)をしのぎ後の臨済宗へと発展して行く。そんな馬祖道一の弟子の中でも第一の学匠だった大珠慧海が馬祖の禅を理論化したのが本書である。
本書は上下に分かれており、上巻は大珠による頓悟の理論書である。理論展開としては、問答の形式により、「○○はこうである。なぜなら××経にこのように書いているからである」、または「××経には○○とありますが、これはどういう意味ですか?→それはしかじか」とする形が多い。禅の語録は数多いが、このように禅の教義的根拠を明らかにした著作は少ない。ここには後代の禅のような韜晦な「禅問答」はなく、経典を参照して自らの考え方を明解に述べるという学問的態度が禅籍として実に新鮮である。また、本書では様々な経典が参照されており、禅の立場は特定の経典ではなく、それの「読み方」に依拠するものだったことを感じさせる。
下巻は大珠の語録(言行録)である。上巻の方が禅の歴史において意義深いのかもしれないが、私にとってはやや間怠っこしい。一方、下巻は具体的な問答であるため生き生きしており読んで面白い。元々の大珠の著作は上巻(「頓悟要門入道論」)のみであったが、それに下巻の言行録をセットにしたのは妙叶(みょうきょう)という僧であった。これは『頓悟要門』の普及に役だったと思う。
さて、そんな『頓悟要門』における大珠の主張を一言でいえば、「心こそが仏である」ということになるだろう。そして「究極はそなたのみ」なのだ。「その本性はもともと清浄であって、修行をする必要はない。証を立てたり修行したりという方法を取るものは、思い上がった人間と同じである」という。このあたりは、日本の盤珪禅師の「不生禅」(人は産まれながらに必要なものは全て備わっているという悟りの禅)を思わせる。
しかし同時に「心すらも幻である」と付け加えるのが大珠らしさかもしれない。大珠にとっては地獄も実在のものではなく、心が生みだした幻にすぎない。この世の中には実在的なものは何一つなく、あらゆるものは幻であり、自分が拠り所にするべきなのは自分の心(精神作用)以外は何もないのである。それ(心)が幻だったとしても! このあたりの論理は、ちょっとデカルトの『方法序説』にも似ているところがある。
ところで神会の禅は「煩悩即涅槃」のように、「煩悩があることを肯定することで、それが即ち悟り(涅槃)の世界となる」といった認識の問題を中心に据える。認識一つで悟りの世界にいけるから「頓悟」なのだ。一方、大珠の禅もそうした面はあるが、「心を清浄に保て」といった修養の性格もかなり持っている。大珠の「頓悟」は認識を変えるための方法論を「心」にフォーカスして述べたものといえるかもしれない。
禅籍としては稀なほど学問的に書かれた頓悟の教科書。
【参考文献 読書メモ】
『六祖壇経』
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/01/36a-i.html
唐代の禅僧、恵能の言行録。
内容は歴史的事実ではありえないが、創作的人物としての恵能の言説が魅力的な本。
禅には北方で行われていた禅(北宗)と南方のそれ(南宗)があるが、『六祖壇経』の六祖こと恵能(えのう)の弟子荷沢神会(じんね)が、
北宗は漸悟——長い修行の末に悟る
南宗は頓悟——すぐさま悟る
だと決めつけてから南宗の独走となった。
そしてそれを新しい角度から発展させるのが馬祖道一である。馬祖道一は優れた弟子を多く輩出し、神会の一派(荷沢宗)をしのぎ後の臨済宗へと発展して行く。そんな馬祖道一の弟子の中でも第一の学匠だった大珠慧海が馬祖の禅を理論化したのが本書である。
本書は上下に分かれており、上巻は大珠による頓悟の理論書である。理論展開としては、問答の形式により、「○○はこうである。なぜなら××経にこのように書いているからである」、または「××経には○○とありますが、これはどういう意味ですか?→それはしかじか」とする形が多い。禅の語録は数多いが、このように禅の教義的根拠を明らかにした著作は少ない。ここには後代の禅のような韜晦な「禅問答」はなく、経典を参照して自らの考え方を明解に述べるという学問的態度が禅籍として実に新鮮である。また、本書では様々な経典が参照されており、禅の立場は特定の経典ではなく、それの「読み方」に依拠するものだったことを感じさせる。
下巻は大珠の語録(言行録)である。上巻の方が禅の歴史において意義深いのかもしれないが、私にとってはやや間怠っこしい。一方、下巻は具体的な問答であるため生き生きしており読んで面白い。元々の大珠の著作は上巻(「頓悟要門入道論」)のみであったが、それに下巻の言行録をセットにしたのは妙叶(みょうきょう)という僧であった。これは『頓悟要門』の普及に役だったと思う。
さて、そんな『頓悟要門』における大珠の主張を一言でいえば、「心こそが仏である」ということになるだろう。そして「究極はそなたのみ」なのだ。「その本性はもともと清浄であって、修行をする必要はない。証を立てたり修行したりという方法を取るものは、思い上がった人間と同じである」という。このあたりは、日本の盤珪禅師の「不生禅」(人は産まれながらに必要なものは全て備わっているという悟りの禅)を思わせる。
しかし同時に「心すらも幻である」と付け加えるのが大珠らしさかもしれない。大珠にとっては地獄も実在のものではなく、心が生みだした幻にすぎない。この世の中には実在的なものは何一つなく、あらゆるものは幻であり、自分が拠り所にするべきなのは自分の心(精神作用)以外は何もないのである。それ(心)が幻だったとしても! このあたりの論理は、ちょっとデカルトの『方法序説』にも似ているところがある。
ところで神会の禅は「煩悩即涅槃」のように、「煩悩があることを肯定することで、それが即ち悟り(涅槃)の世界となる」といった認識の問題を中心に据える。認識一つで悟りの世界にいけるから「頓悟」なのだ。一方、大珠の禅もそうした面はあるが、「心を清浄に保て」といった修養の性格もかなり持っている。大珠の「頓悟」は認識を変えるための方法論を「心」にフォーカスして述べたものといえるかもしれない。
禅籍としては稀なほど学問的に書かれた頓悟の教科書。
【参考文献 読書メモ】
『六祖壇経』
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/01/36a-i.html
唐代の禅僧、恵能の言行録。
内容は歴史的事実ではありえないが、創作的人物としての恵能の言説が魅力的な本。
登録:
投稿 (Atom)