2020年4月29日水曜日

『黄檗伝心法要』入矢 義高 訳(西谷啓治・柳田聖山編『世界古典文学全集36A 禅家語録 I』 所収)

禅学概論の書。

『黄檗伝心法要』は臨済義玄(りんざい・ぎげん)の師匠であった黄檗希運(おうばく・きうん)の講義録である。

これは、黄檗の在俗の弟子であった裴休(はいきゅう)が江西の鍾陵における説法(842年)と宛陵での説法(848年)を筆録したものを基本に、他の弟子が記録した宛陵の筆録(宛陵録)を加えたものである。

私はこれまで『禅家語録』によって初期の禅思想のテキストを追ってきたが、本書を読んで感じたのは「禅思想の完成」ということである。

達磨に仮託される初期の禅は、大雑把には仏教的な老荘思想であり「禅」としての独自性は弱かった。一方、六祖恵能(実際にはその弟子の荷択神会(じんね))の頓悟禅は、あまりにも超越的というか、ハッタリ的な部分があり、「そんなものがあればすごいけど多分ないだろう」というスーパー理論である。それを具体的に実践可能な形に組み替えたのが馬祖道一で(※『禅家語録』には馬祖の語録はない)、さらに学問的に整理して経典によって理論付けたのがその弟子の大珠慧海であった。

こうした禅の系譜に基づき、その諸思想を結実させたのが黄檗希運である、と本書からは感じる。その言葉は、論理的かつ直截的であり、また教育的である。禅思想の概論として、本書以上に簡潔かつ明解なものはないだろう。しかし逆に言えば、黄檗自身には独自の思想というものはないように思われる。いわばそれまでの禅思想を集大成し、普遍的な形にまとめたのが黄檗であると言えるかも知れない。

もちろんそれは本書がつまらないということではない。非常な名言が次々に飛び出すとても面白い本だ。例えば次のような言葉がある。
  • 「あらゆる仏と、一切の人間とは、ただこの一心にほかならぬ。そのほかのなんらかのものはまったくない」
  • 「偉大なる菩薩たちが顕現する徳も、実はわれわれ人間にはみな具わっている」
  • 「もともと法というものは一切ないのであり、そんなものの幻想から離却することがむしろ法なのである」
  • 「仏も衆生も、みな君の虚妄の見が作ったものだ」
  • 「山河も大地も、日月も星辰も、すべて君の心の外にあるのではない。三千世界はすべて君という自己にほかならぬ」
  • 「いま大事なことは、あらゆるとき、あらゆる機会に、日常の行住坐臥の一つ一つのうちにひたすら無心を学び、ものを分別することなく、ものに寄りかかることもなく、ものに執着することなく、日ねもすのほほんとして成りゆきにまかせ、まるで阿呆のように生きてゆくことだ」 

本書はこのようにエキサイティングと言えるほど生き生きした禅籍であるが、この完成度があるだけに、却って一抹の不安すら抱かせる。それは、禅思想がここで完成の時を迎え、これ以降は衰退——と言って悪ければ「固定化」——するのではないか、と感じさせるからだ。実際、後代の禅はいわば「訓詁学」となっていく。

ちなみに、『黄檗伝心法要』は北条顕時が来朝僧大休正念に命じて弘安6年(1283)に出版させており、これが日本における禅録流布のはじめとされている。その詳しい事情はわからないが、本書は日本における禅録出版の第一号にふさわしい重要なものである。

しかし異常に(?)行動的な『臨済録』や、衒学的な『碧巌録』、そして意味深長な詩偈など、トリッキーな禅籍が流行するようになると、地味な講義録である本書はさして重要でないものと見なされ、顧みられなくなった。しかし後代の後知恵で評価すれば、『黄檗伝心法要』こそ禅思想そのものとして受け取るべき第一の書であったのである。

初期禅思想の到達点。

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