2018年9月23日日曜日

『神の旅人—パウロの道を行く』森本 哲郎 著

パウロの辿った道を追体験する紀行文。

キリスト教を創始したのはイエス・キリストであるが、キリスト教をイスラエルの地方的新興宗教から「世界宗教」へと脱皮させたのはパウロであった。

しかしパウロはイエスから直接教えを聞いたこともなく、それどころかイエスの一派を熱心に迫害していたパリサイ派に属していた。そんなパウロがキリスト教の伝道者となったのは、伝説では天からの光ととともにイエスの声を聞いたからだという(パウロの回心)。

イエスの教えが「キリスト教」として発展したのは、直弟子たちよりもこの神がかり的な体験によって信者に生まれ変わったパウロに負うところが大きく、パウロの思想はキリスト教の要諦をなすものだ。私は、この奇妙な聖人パウロに興味を持って、本書を手に取った。

本書は、基本的には紀行文である。世界各地を旅することをライフワークとした著者が、パウロが生まれてから死ぬまでの、3回の伝道の旅を中心とした、その由来の地を訪ね、パウロの思想を追体験していく。その旅は考証や研究のためでなく、いわばパウロの雰囲気を感じるためのものである。

そして、パウロの思想が進んでいくと同時に、紀行文的な部分が徐々に少なくなっていき、終焉の地ローマについては、ほとんど紀行文は書かれていない。著者は本当にローマに行ったのだろうかと訝しむほどである。それほど、最後はパウロの人生そのものに思いを致す部分が巨大化するのである。

であるから、本書を紀行文だと思って読むと肩すかしを食う。しかし本書は研究書でもない。著者は「旅をしながら考える」という紀行的エッセイをよく書いているが、本書もその一つで、旅のリズムでパウロの思想に肉薄しようとした本である。


2018年9月12日水曜日

『私はどのようにして作家となったか』アラン・シリトー著、出口 保夫 訳

イギリスの小説家アラン・シリトーのエッセイ集。

表題作「私はどのようにして作家となったか」「山脈と洞窟」など自伝的なもの、「スポーツとナショナリズム」「政府の調査書」など時事評論的なもの、「北から来た男、アーノルド・ベネット」「ロバート・トレッセル」など文芸評論的なものなど。

私が本書を手に取ったのは、ロクに本が置かれてもいないような下層の労働者階級に育ったシリトーが、どうして文学に親しみ、作家にまでなったのかに興味が湧いてである。戦後イギリスでは「怒れる若者たち」と呼ばれる一群の作家が簇生したが、社会の矛盾や格差に怒っていた彼らも、その実はインテリの出身だったのに、シリトーは本当の下層階級出身だった。

シリトーの家は貧乏だったので、学校教育も14歳で終了しなければならなかった。しかし彼は頭はよい方だったらしい。本も僅かだが読んでいた。彼は上の学校に進む希望を持ちながらも働くことになり、やがて従軍する。そして従軍生活の中で文学に徐々に親しんでいった。そして退役にあたって肺病に罹る。これがシリトーの運命を変えた。療養中には何もすることができないため読書に勤しんだのである。

そして18ヶ月の療養を終えると、今度は傷痍軍人の年金(とは書いていないが日本でいえばそういう年金にあたるのだと思う)が出た。そしてその年金をアテにして、新婚の女性と共にフランスとマジョルカ島に滞在して執筆に明け暮れる生活を送る。その中で名のある詩人から「故郷のノッティンガムについて書きなさい」とアドバイスを受け、それにしたがって出世作『日曜の夜と月曜の朝』が書かれ、シリトーは作家として大成していった。

シリトーにとって、戦争とはアンビヴァレントな意味を持っていた。それは青春時代を奪い、暗く貧しい生活に甘んじなければならなかった面もあれば、階級を飛び越える機会や学習の機会、広い世界に飛び出すチャンスでもあった。戦争がなかったら、もしかしたらシリトーは一生を工場労働者として過ごしたのかもしれないのだ。

シリトーにとっての戦争と、文学の意味を考えさせられる本。

【関連書籍】
『長距離走者の孤独』アラン・シリトー著、丸谷才一/河野一郎 訳 
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/07/blog-post_19.html
シリトーの第一短編集。底辺の生活を共感の眼差しで描写している。


2018年9月4日火曜日

『密教―インドから日本への伝承』松長 有慶 著

密教が日本に伝わってくるまでの、その教えを受け継いだ人々について述べる本。

密教では相承ということを非常に重視する。それは教義や仏典の内容を理論的に分かるだけでは不十分で、師によって一種の神秘体験を経て、言葉を超えたレベルで教えを理解することが必要であるから、相承の関係が重要なのである。

であるから密教では、日本に密教が伝えられるまでのそういう相承関係をいろいろと整理し公認した(宗派によって異なる)。本書では、その中から各宗派で共通して相承者と見なされている人物、すなわち、(1)大毘盧遮那如来、(2)金剛薩埵、(3)龍猛菩薩、(4)龍智菩薩、(5)金剛智三蔵、(6)不空三蔵、(7)善無畏三蔵、(8)一行禅師、(9)恵果和尚、を取り上げて詳しく解説している。

(1)(2)は、いわば密教の神話であって実在の人物ではない。(1)大毘盧遮那如来は真理の神格化で普遍的な存在であるから、そこから教えを受けて真理を具現化させるために、同じく実在はしないがより人格化させた(2)金剛薩埵が置かれたのだという。

(3)龍猛菩薩も、やはり伝説上の存在で実在性は薄い。古来龍樹(ナーガルジュナ)と同一視されてきたため、その意味では実在の人物であるが(ただし活躍の時代に開きがある)、龍猛菩薩は龍樹そのものというよりは、龍樹に付託されて生まれた伝説的な相承者である。

(4)龍智菩薩は、(3)龍猛菩薩あるいは龍樹の弟子とされた、半ば実在の、半ば伝説的な人物で、驚異的な長寿であったとされる。

(5)(6)は、密教の中でも「金剛頂経」を相承したものである。密教には、「金剛頂経」と「大日経」という別の教典がそれぞれ思潮を形作り、しかしそれがデュアル・スタンダードのような形で発展してきた。(7)(8)が「大日経」の相承者である。本書では、教義面はあまり立ち入って述べていないためこの2つの流れが思想史上でどう交錯しているのかよくわからないが、(5)〜(9)は実在の人物であるためそれぞれ興味深い。

(5)金剛智三蔵と、(7)善無畏三蔵は、それまで現世利益的だった密教に「成仏」を目的とする深遠な教理をもたらし、中国密教の転換点となった。

(6)不空三蔵は、それまで宮廷内に確固とした勢力を築いていなかった密教をさらに鞏固なものとするため、国家護持の旗印を鮮明にした。不空の訳した教典では、国家護持的な意味とするため原文の意味を変えているところもある。しかし不空は一方で、サンスクリット語と漢字の厳密な対応を確立しており、その面で中国の音韻学に貢献した。

(8)一行禅師は、密教の相承者としてだけではなく、道教にもよく通じ、さらには天文学者として「大衍歴」の作成という超一級の仕事も成し遂げている。彼は百科全書的な桁外れの人物であったが、若くして死んだ。

(9)恵果和尚は、空海の師となった人物。異国からやってきた空海に、恵果は病に倒れながら死の直前に密教の奥義を伝授したのだった。

著者の松長有慶氏は、高野山大学の学長や密教文化研究所所長も務め、高野山真言宗管長にもなった密教学の最高権威である。であるから、当然話は真言宗にひいき目に語られるのではないかと思っていたが、さにあらず。内容は非常に学問的であり、公平無私の態度で記述されている。それどころか天台宗系のことも詳しく丁寧に(むしろ非常に敬意を持って)扱っており、好感が持てた。

密教というと、伝説や神秘的なことに彩られているため、今までどことなくつかみ所がないような気がしていたが、本書ではそういった伝説が生まれた背景を考察しながらも一方でハッキリと「伝説」「事実でない」と書いており安心して読めた。そして著者は密教学の最高権威であるにも関わらず、密教をことさら特別視せずにフラットな立場から語っていて、学問とはこうあるべきと思わされた。

人物による密教の歴史をその道の第一人者から教えて貰える入門の本。

2018年8月27日月曜日

『羅漢—仏と人の間』梅原 猛 著、井上博道 写真

梅原猛の語る「羅漢の世界」。

本書は、ほぼ半分を占める羅漢の写真と、それに対する著者の記述によって構成される。写真の方は、説明的なものというより、割合に芸術性のある写真が多く、そういう意味では写真集として読めるものだと思う。

その写真に対する著者の記述は、一言でいうと玉石混淆である。体系的に語られることが少ない羅漢であるから、著者の説明はかなり参考になる部分がある一方で、著者の空想(この羅漢さんはきっとこんな人物だったのだろう、というような)が延々と続くような部分もあり、雑誌を眺めるような気分で読むときにはよいが、「羅漢とはなんぞや」という真剣な問題意識を持って読むと肩すかしを食らう。

ちなみに、なぜ羅漢崇拝が起こったのかということについては、「仏教と老荘の結合により生みだされた超人思想、それが十六羅漢の思想であったように思われる」(p.146)としており、「羅漢思想は一種の自由人崇拝である」と言う。

本書の多くの部分が、先ほど述べたように著者の空想に費やされており、あまり真面目に受け取れないのがほとんどだが、最後の木喰上人の羅漢像製作のエピソードについては空想ではありながら説得力があった。それは、木喰上人が十六羅漢像(および釈迦如来像)を彫刻した際、自らの仏化を演出するためにいろいろな仕掛けを自作自演したのではないかとする空想である。木喰上人はこのためにアシタ尊者(十六羅漢の中の一人)を自らに似せて作り、すぐ後に光背を持った自刻像をも作った。これは、木喰上人が生きながらにして即身成仏し、仏となったことを宣言するものだというのである。

著者は、これを「それは確かにペテンにも似ている」としながらも、木喰上人の無邪気な姿を非常に好意的に描いている。この部分は情感がこもっていて、今までさほど興味のなかった木喰上人が急に気になってきた。

なお、本書はあまり有名な本ではないが、梅原猛の最初期の著作の一つであり、その選んだテーマが「羅漢」であったこと自体も興味深かった。

玉石混淆であるが、羅漢をテーマに梅原猛が自由に語る異色の本。

2018年8月26日日曜日

『薩摩の兵児大将―ボッケモン先生青春放浪記』大迫 亘 著

明治末期から昭和初期を舞台にした自伝的小説。

著者大迫亘氏は、明治末期の加世田で士族の子として生まれた。ところが、母親の両親が結婚を認めず父親を加世田から追放。そのショックから母親は精神を病んでしまい、亘は半私生児として祖母によって育てられる。その教育は虐待といってもよいほど厳しいもので、そのために著者は強烈な負けじ魂と命を惜しまない無鉄砲さを持つ悪ガキに育ち、浄福寺という寺跡に住居があったことに因み「浄福院のキッゲ(きちがい)稚児」と呼ばれた。

本書第1章は、その悪ガキの頃の悪逆の伝説である。祖母一人の畑仕事の収入しかないのだから「浄福院のキッゲ」は大変な貧乏であったが、貧乏なだけ一層、士族として偏狂的なまでの自負心を持っていた。そして血を見るケンカが大好きで、手のつけられようのないガキ大将だった。

川辺中学校に入学するといよいよ悪事のスケールも大きくなり、ケンカと無鉄砲さは狂気の度合いを増していく。一方、どういうわけか浄福院のキッゲは芸術に関心を持ち、絵を描いたり詩を書いたりしだし、遂には大坪白夢らと共に同人誌『鴻巣(クルス)』を発刊する(鴻巣とは加世田の地名)。

第2章以降は東京の歯科専門学校に入学してからの話。相変わらず武勇伝の連続。そしてこの頃になると無鉄砲というよりも、女がらみの話が多くなってくる。亘は「不死身の松」なとど呼ばれ、バーを経営したり、屋台の用心棒のような存在となって、昼は専門学校生、夜は半ヤクザとして生活。月に10日は留置所で過ごすというような有様だった。

全体として非常にスピード感がある話ばかりで、特に第1章は一気読みするような面白さがある。第2章以降になるとヤクザ的な部分が出てくるため引っかかる部分もあるが、登場人物が生き生き動いてやはり読まされる作品。

一方、自伝としていながらも、50年以上前のことを非常に細かい点(交わした会話の内容など)まで書いているため、相当脚色もありそうである。悪ガキ時代の話は、自分自身で「残虐だった」としてあまり美化していないが、学生時代以降はかなり美化しているような感じも受けた。しかしこれは当時を知る人だけが判断できることである。

また、物語の本筋とは全く関係ないが、個人的に興味を抱いたことは、大正時代の加世田ではほとんどが神道による葬儀だったとしている点である。浄福院のキッゲは貧乏であったため、バイトとして葬送行列の旗持ちをすることを思い立ち、遂には加世田全体の旗持ちの総元締めとなってみかじめ料を徴収するところまでいく。そういう体験の持ち主が加世田の葬儀は神道が多かったとしているので信頼性が高い。これは私が知らなかった点であった。その他、大正時代の加世田の様子を知ることができると言う点も、地元の人間としては面白い。


2018年8月22日水曜日

『現代文 正法眼蔵(2)』石井 恭二 著

西洋哲学の概念なども使い、現代文へ意訳された正法眼蔵(第2巻)。

【参考】『現代文 正法眼蔵(1)』石井 恭二 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2016/01/blog-post_20.html

本書には『正法眼蔵』の「第16 行持 上」から「第29 山水経」までをおさめる。興味を引いた部分は以下の通り。

道元は「第21 授記」で一種の言語論を展開している。それは、「此の世界に世界のどのような現象であれ語句によらないものはない」(p.151)とし、我々の世界認識は言語を離れ得ないことを指摘したものである。

もっと言えば、世界が先験的に存在し、それを我々が認識し言語化する、ということではなくて、 言語によって世界が認識されることで、それが存在していることを知る、という順序だと述べている。(世界が先験的に存在しているかどうかについては沈黙しているようだ。)「覚り」というものもこれ(世界)と同じであるという。石井恭二もこの段ではソシュールやデリダを援用して気合いが入った解説を書いているが、私は言語論には疎いので道元の主張を完全には咀嚼できなかった。

「第26 仏向上事」でも、違った方向から言語論・認識論が展開される。洞山悟本大師が「貴方が他に語る時には、貴方には聞こえない」と言ったエピソードを道元は紹介し、これについて解説している。この段を読む前に、私もちょうど同じようなことを考えていたので、道元が既に思索していたことに驚いた。

これはもちろん聴覚についての言明ではない。音声言語を自ら発し、それを同時に認識することは不可能であるのだという。なぜなら、(いろいろ議論は展開されているが約めて言うと)語句と語句の指し示すものの結びつきは恣意的なものであって、自ら音声言語を発しながらそれを点検する(聞いている人が理解した内容を自らの中に再現する)ことは不可能であるからだという。

しかし道元は、音声言語を発した後の沈黙の中で、意識を集中すれば自らの言明を事後的に理解することはできる、という(「他に対して語っているのは自己でありながら、そのとき自己を確認することはない、自己の普遍性を証すのは沈黙のなかでの体得である」(p.210))。しかし私はこれは楽天的すぎる見方だと思った。自己の言明について自己で点検するなど可能なのだろうか。そもそも「意識」とは何かを明らかにしてからでないと、事後的にですら自己の言明を「理解」できるかどうか言えない気がする。

それはともかく、様々な言語論を展開した後で「云ってみれば諸仏諸祖の言葉はみな豊穣な寝言である」(p.214)という名言が飛び出したのには驚いた。道元、なかなか言ってくれる。

「第28 礼拝得髄」では、男女・幼長平等論が展開される。 師とするべき人物を見つけるには男女の違いは問題ではないという。それどころか、誰を師とするべきかについてあらゆる権威を信用してはならないとする。男か女か、年長なのか幼少なのか、名のある者か名もないものか、そういった区別は無用である。そうした外形的な区別にとらわれる人間は「真の仏道を知ることはない」(p.237)。「仏法を修行し、仏法を語りうるならば、たとえ七歳の女流であろうと、そのまま諸々の修行者にとっての導師である」(p.242)

この段は、当時の禅林においても権威主義が跋扈し、年功序列主義や女性の排斥などがあったため、それを痛切に批判しているのだと思う。現代においても、禅の世界で男女平等は達成されていないと思う。道元の批判にはもっと耳が傾けられてよい。

また、「第25 渓声山色」では、蘇東坡が渓流の夜の音を聞いて悟りを得たエピソードを紹介し、自然そのものが覚りと等しい、自然こそが正しい導きをくれるという自然観が展開される(「渓の声 渓の色、山の色 山の声は、挙げてみなお前に雄弁に語りかけることをおしまないのだ」(p.206))。

さらにこの自然論は「第29 山水経」によっても発展させられる。この「山水経」は、『正法眼蔵』のハイライトの一つであり、私自身、「山水経」を読むために『正法眼蔵』に取り組んだといっても過言ではない。その内容は、冒頭の「山も水もともに本来ありのままの場にあって、真実を究め尽くしている」(p.243)で象徴される。これは天台本覚思想(山川草木も悉く仏性を有する)と似ているがそれよりもずっと自然を敬した見方で、山水はありのままで覚りの本質を究めているから、覚者はやはり山水のごとくになるべきであり、山水こそが真の教えを与えてくれる師であるという。「山水はそのまま仏経である」(p.258)道元の自然観の究極であろう。何事も言語によらなければ認識できないという言語論を展開している一方で、山水がそのまま仏経なのだというのは一種の矛盾ではあるが、これが道元の思索の到達点の一つである。

全体を通して、常に二元論的な思考を戒めており、此岸に対する彼岸、というような仏教的概念をも否定されている。元来の仏教では「世間=此岸」を厭い、清浄な「彼岸」に行き着くことを覚りとしたのであるが、道元は人間や自然のありのままの姿が覚りであるとしたのである。

【関連書籍】
『現代文 正法眼蔵(1)』石井 恭二 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2016/01/blog-post_20.html
西洋哲学の概念なども使い、現代文へ意訳された正法眼蔵。
現代語釈で道元の思想に気軽に触れることができる良書。

2018年8月9日木曜日

『観音像の形と物語』大法輪編集部編

観音像の種類と形態的特徴、その信仰についての読み物。

本書は、雑誌「大法輪」の特集を書籍化したもので、第一篇では観音像の種類とその形態的特徴が羅列的に述べられ、第二篇では、観音像で有名な寺の住職がその信仰や由来、エピソードについて1ページ程度ずつ寄稿している。

その構成から分かるように、この本は観音信仰について体系的にまとめたものではなく、観音像についての形態的知識、エピソードをやや散漫に束ねたものであって、ちょっと無味乾燥なところがある。

ところが、こういう宗教の本は無味乾燥にまとめた方が面白いというケースがままあって、「すごいんですよ」「霊験あらたかなんですよ」みたいなトーンで書かれるより、事実の羅列の方がずっと頭に入りやすい。

一番印象に残ったのは、沼 義昭(当時立正大学教授)の執筆する「マリア観音」の項。短いながら観音信仰の本質をえぐるような論考であり、蒙を啓かされる思いがした。

マリア観音とは、キリスト教の聖母マリアと観音が合体(習合)したものであり、かくれキリシタンが捕縛の手を逃れるために崇拝したものである。

ところで、仏教は男性原理が強い宗教であり、古来女性はそのままでは成仏できないとまで考えられて、女人変成(にょにんへんじょう)=女性が一度男性に生まれ変わって成仏するという思想まで生まれた。しかし一方で、人間は母性的な包まれるような慈愛も求めるものであるから、仏教においてもそういった包み込んでくれる存在が求められるようになり、やがてそれが観音信仰となっていった、というのである。その意味で、キリスト教におけるマリア信仰と非常に似通っているところがある。マリア信仰も、聖書には位置づけられない自然発生的な信仰であるが、観音信仰も元々の仏教にはその要素が希薄であった。マリア信仰と観音信仰には、女性原理の宗教的枯渇を満たすという共通の基盤があったのであり、この習合が起こったのも故なきことではなかった。

よって、観音像は(女性そのものでなくても)女性を思わせる形態が非常に多く、子授けや子育ての仏として信仰されてきたものが夥しい。多くの如来・菩薩が「人々を救ってくれる存在」とみなされてきたが、こと観音となると、例えば乳が出るとか、子どものない夫婦に子を授けるとか、女性にとっての切実で具体的な願いを聞き入れてくれる存在であった。こうしたことから、著者(沼)は、観音は「その本性がもともと一人の母神であったからと考えたい」としており、また「観音は海神として、水神として、山神として、その母性性において信仰されてきた」と述べる。

ちなみに、後で調べたところ沼は『観音信仰研究』という研究書を書いており、これは「観音を女神と位置付け、ギリシア神話やゲルマン神話などの女神と対比して論及した書」だそうである。そういう視点で改めて観音信仰を見直してみたいと思わされた。

事実の羅列であるだけに、かえって観音信仰について考えさせられた本。