2018年2月11日日曜日

『明治維新と国学者』阪本 是丸 著(その1)

国学者が近代天皇制国家の創出に果たした役割と限界について考察する重厚な論文集。

収録された論文は、その対象とする年代が重なりまた前後していて、通読すると時代を行きつ戻りつしている感じがし、重複もかなり多い。そのため、通読する本というよりは、独立した論文集として読む方がよい。

しかし、それは異なった視点から何度も時代の流れを追っているとも言えるので、全体を読むことでより重層的に理解できるという利点もある。私は本書で朧気ながらこの時代の国学者たちの動向が分かってきた。

本書によって強調されるのは、明治初期の段階で国学者たちの構想はある程度実現したが、政治力を早くに失ってしまったためにその構想は一時的なものに終わってしまったということである。それは島崎藤村が『夜明け前』で書いたことと同じであり、本書は『世明け前』の背景を学術的に解き明かすものであるとも言える。

しかし私自身、本書の内容を完全に咀嚼できたとは言い難い。そこで、章ごとにその内容をメモしていくことする。

序章「祭政一致国家の樹立と国学者の動向」

王政復古の基本方針の一つが「神武創業の始めに返る」ことであったのはよく知られているが、この方針の決定にあたり大きな影響力を持ったのが、蟄居中の岩倉具視に国学思想を鼓吹した玉松操であった。そして、実際に明治政府に対してこの方針を貫徹させようとしたのは、同じ平田派の国学者、矢野玄道(はるみち)であった。

だが、2人は岩倉具視以外の政府首脳とは繋がりを持っておらず、政治的にはほぼ無力であったこと、まためまぐるしく変わっていく政府の方針に対して柔軟に対処せず、ある意味では「頑迷固陋」な方針に固執したこと、特に東京遷都に対して批判的であったことなどで維新後に急速に疎まれるようになり、それに代わって平田派から派生した大国隆正の思想を奉ずる亀井茲監(これみ)・福羽美静(びせい)らいわゆる「津和野派」が擡頭してくるのである。

平田派の持っていた構想は、ある意味では素朴であり、単純に言えば「復古」その一語に尽きる。よって明治政府によって神祇官が再興され、一応古代律令制度が復活したとき、その目的は達したのである。しかし彼らはそれ以上の構想を持っていなかった。明治政府が「復古」だけで前進できるはずもなく、律令制が明治の時代に合うわけもなかった。また彼ら自身にも制度を再考していく政治的力量がなく、いつまでも復古という題目にとらわれる時代錯誤な人間と思われ、平田派は没落したのだった。

それを端的に表す、矢野玄道が詠んだ歌が「橿原の御代に返ると頼みしは あらぬ夢にて有りけるものを」である。明治政府の初期段階において、平田派は挫折し、表舞台から遠のくことになった。「復古」という夢は、露と消えたのである。

第1章「神祇官再興と国学者」

神祇官が再興される経緯を扱う。神祇官を含む古代律令制が再現されたのは、直接には平田派の運動の結果であるが、これは明治維新の際に急ごしらえされたものではなく、伝統的神道家である白川家・吉田家や三条実万など、幕末に至るまでの様々な人が関わっていた。

そしてこれを具体化したのが岩倉具視であり、その手足となったのが薩摩藩出身の井上石見であった。岩倉は千種有文宛の書簡(慶応3年)で「神道復古神祇官出来候由、(中略)実は悉く薩人尽力の由に候…」と述べている。岩倉らは神祇官復興にあたって吉田家を中心とした伝統的神道を基本としたものを考えていたらしく、また矢野玄道は元白川家学師であったために神祇官の中心は白川家という意見だったようだ。しかしその考えは両者とも次第に変わっていく。

王政復古の大号令が発せられたのが慶応3年10月。慶応4年2月には神祇事務局が置かれ、トップは白川資訓(すけのり)が就任。同4月には太政官を分けて七官とし、神祇事務局は神祇官とされ、ここに神祇官が復活した。そして神祇官自身が上申書を提出し、明治2年7月の官制の改革によって神祇官は太政官から特立することとなった(それまでは太政官の下にある一部局)。こうして、平田派は目的であった神祇官再興、特に太政官からの独立という「祭政一致国家」を実現し、権力の絶頂に達した。

しかし、「神武創業の始めに基づく」という理念は、ある意味では平田派の墓穴であった。なぜなら、彼らが企図していたのは古代律令制の復活であったにも関わらず、歴史的には全く明らかでない神武天皇の治世が基準となってしまったからである。このため明治の為政者たちは「復古」を掲げながらも歴史事実にとらわれることなく、ほとんどフリーハンドで政治機構を設計することができた。逆説的なことだが、歴史的に明確な「建武中興」や「古代律令制」ではなく、神話の中にある「神武創業」を旗印にしたことは明治政府を開明的に変革していく余地を残したのである。

第2章「明治初年の神祇政策と国学者」

明治初期の政権構想において、国学者が従来思われていたほど大きな影響力を有していなかったことを述べる。

政権に関与した国学グループは大きく3つある。第1に矢野玄道や平田鐵胤ら平田派、第2に福羽・亀井ら津和野派、そして第3に白川家、吉田家の伝統的神道家の両家であった。王政復古の思想を具体化するにあたってその理論を提供したのはまずは矢野であった。矢野は白川家の学師をつとめていたこともありその間は親密であったが、それは必然的に吉田家との軋轢を生じ、また吉田家は白川家に対抗して井上石見や岩倉具視の支援の元に神祇官再興運動に取り組んだ。しかし両家の次元の低い勢力争いには周囲もついていけなくなり、やがて両家の存在感は低下していった。

矢野が提供した思想は、古代律令制の復興による祭政一致国家の確立であり、その到達点が神祇官の再興であったわけだが、津和野派のそれは少し違っていた。同じ祭政一致国家を目指すのでも、津和野派は天皇親祭——すなわち神祇官によるのではなく、天皇自身が祭りを行うという体制を構想した。天皇親祭にして天皇親政、これこそが津和野派が目指す真の祭政一致であった。天皇自身が祭りを行う以上、神祇官など不要なのである。そしてこの方針は木戸孝允や大久保利通らに原則的に支持されていた。

津和野派の特徴は、維新の功臣に強力な人脈があったということである。亀井自身が津和野藩の藩主であり、津和野藩は長州藩の隣藩だったため長州閥との関係が深かった。一方、なんら政治的な基盤を持たない矢野らが閑職へと追いやられていくのは、思想的な敗北があったにしても自然のなりゆきだった。また津和野派は、天皇親祭を目標とする以上、白川家・吉田家のような全国の神社を統べる中間管理職的な存在は不要と見なし、政権内から両家の排除を計画してある程度成功した。

こうして神祇官が再興された時点で既に、平田派は政権の中枢から遠ざかり、白川家・吉田家も排除されつつあった。神道国教化政策を担ったとされる平田派は、実際には神祇・宗教行政には直接関与していないのである。逆に、政権の中枢へと食い込んだのは亀井ら津和野派で、彼らがしばらく神祇行政をリードする。

第3章「明治初年における国民教導と国学者」

明治政府の宗教政策において神祇官再興と並ぶ大きな目的は、キリスト教をどうやって防ぐかということにあった。慶応4年の段階では明治政府はキリスト教厳禁を明示している。しかし西欧諸国はキリスト教解禁を強硬に求め、その要求は次第に拒絶できないものになっていく。そこで政府はキリスト教対策の方針を、「弾圧」から「教化」へ変えていった。キリスト教が蔓延しないように、日本国民をしっかり教育しようというのである。

このため明治2年に、国民教導を担う「教導局」が置かれることになった。この教導局設置を唱導したのが小野述信(のぶざね)、長州の儒臣で早くから国民教導の必要性を説いていた。

一方で、神祇行政をリードしていた津和野派は、その理論的支柱である大国隆正が神道の改革を目論み、その教えを全国に広める構想を持っていた。大国はこれまでの神道はあまりにも漠然としていてとてもキリスト教に対抗できないので、”御一新”を機に神道も一新して新たな教義を確立し、これを国民教化の法にすることを企てた。

教導局は、平田派も含めこうした様々な勢力を包含して出発した。しかしこれは不偏不党の人選といえば聞こえはいいが、ただの寄せ集めでもあった。そして、国民を教導しようにも、その内容がほとんど全く確立していなかった。神道・国学、仏教、漢学など様々な思潮がある中で、それらを包含しうる教義・教法はなかった。

教導局が改組されて「宣教使」となっても、宣教しようにも教義は確立せず、宣教のための人材も得られなかった。宣教使が人民に「宣教」するどころの話ではなく、「宣教」の内容そのものを討議するところから始められた。

明くる明治3年1月には、 「宣布大教の詔」が発せられ、宣教使は”惟神之大道(かんながらの大道)”を以て天下に布教することとなった。各藩においても宣教の活動をするように指導されたが、多くの藩が適当な人材がいないことを理由に免除や猶予を願い出た。国民教導の活動は、内部の対立や教義の不確立、人材の不足などによって全くうまくいかなかった。

こうして、これまでの体制ではキリスト教へ防禦が出来ないことが明らかになった。明治政府は、国民教導に新たな対策を講ずる必要に迫られていたのである。

第4章「祭政一致国家の構想と東京奠都問題」

東京奠都(都と定めること)に関して、平田派と津和野派の動向を述べる。

明治初年の宗教行政に強い影響力を持った平田派であったが、先述のように彼らの思想はその限界が自ずから定められていた。律令制を規範とし、古代国家の仕組みをそのまま現代に持ち込もうとしても、明治の時代にそれが合うわけもない。彼らの構想は具体的かつ固定的でありすぎたがゆえに、次第に政府からはやっかいなものと見なされていく。

逆に津和野派の構想はより柔軟であった。津和野派が構想していた祭政一致国家は、律令制によるそれではなく、天皇親祭にして親政であったし、政務を司る場所も京都でなくてもよかった。平田派が京都を中心にしていたのに対し、津和野派は江戸派や考証派の国学者も取り込んでもいた。こういう事情から、東京奠都は平田派と津和野派の明暗を分ける分水嶺になった。

津和野派の考える天皇親祭の総仕上げとも言うべきものが、東京への行幸の際に行われた氷川神社への親拝である。このために氷川神社は祭神に格付けがされるなど勅祭社にふさわしい体裁に整えられ、「皇城」の鎮護社となった。そして氷川神社は、以後の神祇官・神祇省による神社改正の雛形ともなり、これを契機として、神祇官は府藩県の式内社・式外大社の調査に乗り出していくのである。

もちろん京都を基盤とする勢力は、東京奠都には猛烈に反対した。だが平田派国学者を中心とし、守旧派公家層、京都市民、全国にいる草莽の国学者が反対運動を展開したものの、それは政府からいくばくかの懐柔策を引き出しただけではかばかしい成果を上げなかった。

東京奠都を契機として、福羽美静ら津和野派はその政治的力量と人脈を活かし、他の維新官僚にはできない分野での制度の調査・改革に中心的に取り組んでいくことになった。

第5章「教部省設置の事情と伝統的祭政一致観の敗退」

復興された神祇官には、祭祀の実施と同じくらいキリスト教の蔓延防止が期待されていた。

このため政府は神祇官の外局的な組織として宣教使を設置し、明治3年1月には「宣布大教の詔」を出して「大教」を宣布せしめた。この「大教宣布運動」を通じ、政府は神道を国教化しようと試みた。しかし復古神道には確たる宗教理論もなく、教導しようにもその中身がなかった。「大教」などと言ってもなんら積極的な教えがなかったのである。

中身のない教えによって、人々の信仰という内面的なものを強制的に変えさせるのは不可能な話であった。大教宣布の運動は、大した成果も上げることなく頓挫した。

一方で、仏教勢力にとってもキリスト教の防止は大きな課題として受け止められていた。あからさまな神道優遇の政策が行われる中で、仏教がキリスト教の防禦を担うことで仏教の地位を向上させようとする目論見もあった。よって仏教はキリスト教を法敵として排撃し、自ら進んで神仏儒三教一致による国民教化運動へ乗り出そうとした。

そういう事情の中で、明治4年8月、神祇官は改組されて神祇省と格下げされた。これには、神祇官の人々が復古的で時勢に合わず、教化策もうまくいかないと考えていた大久保利通や岩倉具視の影響もあったのであろう。神祇官にはそもそも何ら行政執行権も与えられておらず、無用のものと見なされていた。

なお神祇省への格下げの直前、明治4年3月には、丸山作楽、角田忠行、権田直助、小河一敏など平田派の神道家・国学者が突然諸藩お預けの処分を受けた。これは福羽美静の讒言によるとも言われるが真相は定かでない。平田派の地位低下を示す象徴的な事件であった。

ところが福羽が主導した神祇省も長くは続かなかった。神道一辺倒の大教宣布の運動がうまくいかなかったことで、明治4年秋頃からは仏教を動員して異教防禦を行うべきとの意見が支配的になっていった。つまり、神道のみによる国民教導の限界が、そのまま神祇省の限界となった。

こうして明治5年8月には神祇省が廃され、神仏合同で布教を行う教部省が設置された。この設置は神祇省の官員にすら知らされずに秘密裏に、そして突然行われた。この教部省設置は、福羽らの既定路線ではあったが、国学者たちの敗北でもあった。祭政一致国家であるにも関わらず、仏教を国家的宗教勢力と認めたことになるからだ。ここに、神道を国教化するという目論見は挫折した。

なおこの改組に際して、神祇省が司っていた祭祀関係の業務は式部寮に引き継がれ、教部省は教法のみを担うこととなり、祭教分離の体制へと移行した。

これに応じ、 神道における祭祀的性格と宗教的性格は分離され、祭祀面を国家的精神の源泉としていく方向性となっていったのである。

その2へつづく)

【関連書籍の読書メモ】『神々の明治維新—神仏分離と廃仏毀釈』安丸 良夫 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/05/blog-post_2.html
明治初年の神仏分離政策を中心とした、明治政府の神祇行政史。
「国家神道」まで繋がる明治初年の宗教的激動を、わかりやすくしかも深く学べる名著。


2018年2月10日土曜日

『大久保利通と明治維新』佐々木 克 著

大久保利通を通じて見る明治維新史。

明治維新を通史的に理解するのは非常に困難である。様々な勢力が異なった思惑を抱え、行動を二転三転させながらぶつかり合い、結果として生まれたものが明治維新であるためだ。それは後の世から見れば一筋の歩みのように見えても、実際には錯綜した動きの集積でしかない。

本書が取り組んでいるのは、この錯綜した動きを大久保利通という人物を軸にして整理し、わかりやすい明治維新史を書くと言うことである。

その意図はかなりの程度成功している。大久保は、幕末明治の歴史を通じて、ずっと表舞台で活躍したほぼ唯一の人物であり、大久保の動きそのものが明治維新だったと言っても過言ではないからだ。本書は、明治維新についての初学者向きのよいテキストといえる。

一方、「大久保利通と明治維新」を掲げるにしてはやや物足りない部分もある。例えば、「あとがき」で著者自身が述べている通り、本書では大久保の内面には深く立ち入ってはいない。大久保の行動を記述するだけで紙幅が尽きてしまい、やや表面的な歴史記述になっているきらいがある。

そして大久保の人生についても、ほとんど記載がないのは残念だ。大久保という人物を軸にしながら、その軸自体があまり語られない憾みがある。特にライフイベント(幼年の頃の勉学、結婚、子ども関係、自宅の建築など)についてはごく簡単にしか触れられない。このあたりはもう少し踏み込んで記載した方がよいと思った。

それから通史とは別のところで非常に興味を持ったのが、大久保利通は天皇像の改革に熱心だったということである。例えば大久保は宮中から女官を排除することを提言している。大久保は、女官に囲まれる柔弱な存在から、万機を親裁する近代的君主として天皇を作りかえようとした。西郷もまた天皇を君主として教育するのに熱心だったというが、大久保と天皇の関係ということも、さらに深く学んでみたいテーマだと思った。

よく整理され、読みやすくわかりやすい明治維新史。


2018年2月6日火曜日

『島津久光と明治維新―久光はなぜ討幕を決意したのか』芳 即正 著

初めて書かれた島津久光の伝記。

久光というと、西郷や大久保と対立したことから、(最近はそうでもなくなってきているが)鹿児島では暗君というイメージがある。しかし著者は、久光があってこそ西郷や大久保の活躍があったと述べる。

本書に描かれる久光のイメージは、学者肌で神経質なところはあるが、政治的バランス感覚に優れ、ひとたび決断を下すや実行は果断かつ大胆であり、何よりも人の和を重んじた人物、というところだ。

他の雄藩がかわるがわる政治の舞台に移ろう中で、薩摩藩だけが幕末政治の中心に居続けることができたのは、藩内がよく統一され、藩全体が同じ方向を見据えていたためである。その中心には、下級武士に過ぎない西郷や大久保ではなく、当時藩主だった島津忠義(久光の実子)でもなくて、間違いなく久光がいた。

簡単に、久光の人生をハイライトしてみよう。

第1に、大久保利通ら誠忠組の突出計画を阻止し、藩の機構に取り立てた。誠忠組は脱藩して幕府要人を殺害する計画を立てていたが、これを察知した久光は、本来は厳罰に処すべき脱藩の計画を咎めないばかりか「精忠」と呼んでその志を認め、やがて挙藩一致してことにあたることを誓った。これにより大久保らが藩内で活躍していくことになった。

第2に、 文久2年、前代未聞の率兵上京を成功させた。久光は先君斉彬の遺志を継ぎ、また誠忠組との約束を果たす意味で、無位無官ながら千人もの兵を率いて京都に入り朝廷と接触。浪士鎮撫の勅諚を得て滞京し、勅使大原重徳とともに江戸へ赴いて幕政改革を促す「三事策」を突きつけた。この滞京の際、過激派薩摩藩士との衝突「寺田屋事件」があったが、これに敢然と対応したことはむしろ久光の信頼と声望を高めた。

第3に、 生麦事件からの薩英戦争をよく処理し、これをきっかけに海軍の増強と藩内の殖産興業に取り組んだ。また斉彬の没後に中断されていた集成館事業の一部を再開させて洋式紡績工場を建設するとともに、英国へ留学生を派遣した。元々、久光は斉彬の開明路線には賛同していたようだが、財政的な問題などで頓挫していたこれらの事業の真の必要性に気づいたのは薩英戦争の経験があってこそであった。

第4に、八月十八日政変や薩長同盟の締結など、幕末の政局をリードし続けた。八月十八日政変は、朝廷における過激な攘夷派を武力を背景に強引に排除した政変。この政変には久光は直接手を下していないが、久光の監督の下で行われたものである。また、幕末政治の一つの焦点は長州問題、すなわち反幕府的態度をとった長州をどう処分するかということにあったが、当初長州征伐の先鋒を担った薩摩藩が親長州に変わったことが幕末政治のターニングポイントになった。

第5に、武力による倒幕を決意し、王政復古のクーデターを成し遂げた。久光はそもそも公武合体を主導していたが、そこに大きく立ちはだかったのが、かつて薩摩藩が支援していた徳川慶喜だった。「三事策」においても慶喜の起用が提言されていた。ところが慶喜は要職に就くや稀代の手腕によって朝幕の政治を手玉に取り幕府の復権のみに心を砕いた。慶喜は薩摩藩にとって手強い敵であり、久光を含め諸大名も朝廷も、慶喜の政治的才覚には完全に敗北していたように思える。だが、慶喜に踊らされる朝廷と幕府を見限ったことが、久光が武力による倒幕を決意した要因であると著者は考える。

このようにして、薩英戦争のゴタゴタの時期を除いて、一貫して幕末政局の中心にいた久光だったが、いざ新政府が樹立されると急速に表舞台から姿を消す。本書では、類書では簡単にしか扱われない維新後の久光についても詳しく述べていて大変参考になる。

久光が表舞台から姿を消したのは政治的失点のためではなかった。むしろ自ら望んで身を引いた部分がある。新政府の西洋化路線への反抗を示すためにだ。新政府は、建前としては、いっこうに攘夷を実行出来ない幕府に代わって政権を担うという意味で誕生したものであった。しかし新政府は、攘夷どころか外国の制度や文物を積極的に導入し、あまつさえ天皇は洋服を着ていた。

幕末、久光を動かしたのは、このままでは日本は西洋の属国となってしまうかもしれないという危機感だった。事実、清国は内乱に乗じて列強により植民地化されている。この危機感があったから、久光はなんとしても内戦だけは避けなければならないと思っていた。イギリスとの関係から、海外からの干渉がないと確信できて初めて武力討伐を決意したという側面もあった。

しかし新政府は、植民地化こそ免れたものの、精神的には西洋を追従するだけの属国になってしまった。西洋のものならば何でもよいとし、古くからのものはなんでも否定されるような世情になっていた。そんな社会であるのなら、なんのための王政復古だったのかと久光は憤激し、天皇に改革を難ずる建白書を奉呈した。

その建白書は巷で話題となり、反明治政府的な考えを持つ全国の人々が久光に建白書を送ってくることにもなった。だが新政府は、維新の功労者である久光の処遇には大変気を遣い、最大の栄誉を与えたけれども、その意見には一切耳を貸さなかった。

西南戦争により鹿児島は潰滅し、久光の影響力も小さくなった。以後久光は歴史の編纂など学究的な仕事に取り組み、それが現在の鹿児島の維新資料の基になった。久光がいなかったら、鹿児島の明治維新の歴史は謎だらけだったかもしれない。

ところで改めて思うのは、これだけの仕事を行いながら、これまで久光の伝記がただの一冊も書かれなかったという不思議な事実である。西郷や大久保と反目したために人気がないという事情があるにせよ、久光の政治的活躍が無視できないものであるのは明らかなことである。

鹿児島の明治維新にとって過小評価されてきた、島津久光を再評価する重要な本。

【関連書籍】
『島津久光=幕末政治の焦点』町田 明広 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/11/blog-post_26.html
幕末の政局における島津久光の重要性を強調するやや専門的な本。


2018年1月11日木曜日

『廃仏毀釈百年―虐げられつづけた仏たち』佐伯 恵達 著

宮崎で行われた廃仏毀釈についてまとめた本。

明治維新前後、宮崎は薩摩藩の一部であった地域があるため、鹿児島がそうであったように激しい廃仏毀釈が行われた。本書は、その次第を丹念にまとめたものである。

第1章では、廃仏毀釈に至るまでの歴史が簡約される。江戸時代の廃仏思想や平田神道の流行、水戸藩の動向など思想面での準備が語られている。なお、平田神道についての著者の理解は少し一面的過ぎると感じた。平田神道といっても、実際には一枚岩ではない。例えば平田篤胤の弟子である大国隆正も平田派に含めて説明しているが、大国派は平田派と対立していく。著者は僧侶(+高校教諭)であるだけに仏教関係の考証は非常に緻密であるのだが、神道面についてはやや概略的である。

第2章では、薩摩藩の一向宗弾圧が述べられる。この章は廃仏毀釈には直接の関係はないが、廃仏に先行した薩摩藩の仏教弾圧の歴史として位置づけられる。

第3章では、神仏分離以降の明治政府の宗教政策について簡単に触れ、ケーススタディとして寺院から神社へと変更された10例が詳しく紹介される。

第4章では、薩摩のあおりを受けて宮崎で断行された廃仏毀釈について同じくケーススタディとして13例が詳しく紹介されている。特に第4章の事例紹介は地元のことであり、具体的かつ詳細な事情が述べられていて参考になる。

第5章では、全国編、宮崎編の2つの神社創建の歴史が年表になっており、さらに終戦に至るまでの宗教政策についての年表を加え、都合3つの年表が掲載されている。この年表は、当時の神社やお寺を巡る状況をありありと想像させてくれ、また宮崎編の年表は地元神社の動向をかなり詳しくまとめており、とてもわかりやすく力作である。

そして最後に、「仏教徒よ甦れ」と題したあとがきによって本書は締められている。本書は全体的に、神道を排撃し仏教を称揚するという立場をとっており、著者の一面的な見方には少し首をかしげるようなところもある。しかしこの最後の後書きで、近年国家神道的なものが復活しつつあるのは(首相の靖国神社参拝など)、「仏教徒(特に僧侶)がだらしないのも大きな原因だ」と述べ、仏教徒に反省を促している。上から目線と捉える方もいるだろうが、私はこの後書きは仏教徒へ向けられた素晴らしい檄であると思った。

廃仏毀釈や神道の見方はやや一面的なところはあるが、仏教側への考証は緻密で、地元に関する情報が豊富な真摯に書かれた本。

2018年1月10日水曜日

『岩倉具視—維新前夜の群像〈7〉』大久保 利謙 著

維新前後の岩倉具視についてまとめた本。

岩倉具視は、身分が高くない公家の家に生まれた。生来頭脳が明晰で、朝廷での役職がなかった頃から公家の中では飛び抜けた存在だったらしい。ただし人柄はそれほどでもなく、人望はなかったそうだ。

そんな岩倉が一躍政治の舞台に登場したのが、和宮降嫁問題である。これは公武合体の象徴として幕府側によって企画され、朝廷内には反対も根強かったが岩倉の調整によって実現する。なお、この際に岩倉は薩摩藩とも手を結び、これが後の倒幕へと繋がっていく糸になる。

和宮降嫁の実現によって岩倉は政治的功績を挙げたかに見えたが、幕府の権威低下や攘夷熱の高まりによって、逆にこれが失点と見なされるようになり、それどころか岩倉は姦物とされて遂に洛中から追放される。

こうして岩倉は「岩倉村」という寒村に追いやられ、暗殺の危険に怯えながら蟄居を余儀なくされた。事実上の幽閉逃亡生活である。岩倉の追放が解かれ、再び表舞台に登場するのはようやく慶応3年になってからで、彼は明治維新の直前まで地下活動しか展開できなかった。

しかしまさにこの潜伏時代が、傲岸不遜だった岩倉を人間的に成長させたと著者は見る。この環境の中でも、岩倉はめげなかった。王政復古という目標を持ち続け、情報をもたらしてくれる少数の知人を頼り、蟄居生活の中でも新しい時代の構想を考え続けるのである。そしてこの時代に、公武合体派であった岩倉は幕府を見限り、反幕府的な王政復古へと方針転換する。

なお、この地下活動の時代に岩倉の手となり目となった仲間に、藤井良節と井上石見の兄弟がいた。彼らは御由羅騒動のために薩摩藩から脱藩し、その後近衛家の家中となっていた。二人は岩倉を定期的に訪れ、薩摩藩や朝廷の動向を知らせ、また岩倉の手足となってその運動に協力していた。その縁があって、大久保利通はやがて岩倉と通じるようになるのである。

こうして、薩摩藩が遂に長州再征反対を明確にし、幕府と対決する姿勢を明らかにしたとき、朝廷の裏側に形成されつつあった岩倉の一派=中御門経之・正親町三条実愛・中山忠能らが王政復古派へと転換し薩摩と手を結ぶようになった。地下活動に甘んずるしかなかったにも関わらず、岩倉は水面下で様々な運動を画策し、また献策を考え、雄大な新国家構想によって不思議と人を魅了して、こうした動きを組織していったのである。

そして幕府が遂に限界を迎えて大政奉還すると、薩摩藩と岩倉の一派によって、急転直下の「王政復古の大号令」というクーデターがしかけられることになる。薩摩の兵力が朝廷を包囲する中で、岩倉は蟄居を免ぜられると同時に僧頭のまま衣冠をつけ、王政復古発令に関する文書を入れた小函を持って参朝。劇的な政治への再登場であった。

明治維新を薩摩藩がリードできたのは、まさにこの岩倉具視というパートナーがいてこそであった。薩摩藩には、武力はあっても朝廷を変革する理論も手がかりもなかった。逆に岩倉には、新国家への構想と朝廷工作の下地はあっても、武力がなかったのである。この2つの力が結びついたことが、王政復古のクーデターを可能にした。

そして、王政復古とは単に朝廷に政権が移ったことを意味するのではなかった。岩倉は同時に朝廷の改革をも構想し、この時に朝廷の摂関政治(摂関・内覧・議奏・伝奏・国事御用掛等)を終わらせた。明治維新とは江戸幕府の終わりであったと同時に、数百年続いた朝廷のアンシャン・レジームの終焉でもあったのである。

本書では、維新後の岩倉の働きは簡単に触れられるに過ぎないが、岩倉と三条実愛は、雄藩連合の性格が強かった明治政府での難しい舵取りをよく処理した。ところが政府の議論が西洋風の憲法制定へと向かう中で、あくまでも公家政治家であった岩倉は持論を貫徹し、天皇政治を推進するという守旧的傾向を示すようになる。岩倉は最後の仕事として欽定憲法の大綱を自分でまとめ、死と戦いながら天皇大権擁護に執念を燃やした。

絶版状態なのが非常にもったいない、維新前後の岩倉具視を知るための重要な本。

2018年1月5日金曜日

『サムライニッポン 文と武の東洋史』石毛 直道 著

「武」をキーワードにした、日本文化論。

著者の石毛直道氏は、主に食の分野を専門にするの文化人類学者・民族学者。各地をフィールド・ワークするうちに日本文化の東アジアでの位置づけや特色に興味を持ち、あまり専門的でない立場から書いたのが本書である。

その内容は、「中国文明を受容した東アジアの社会においては、儒教を基盤とした「文」の論理が優越していたのに、日本では儒教は本格的には導入されず、力で現実問題を解決していく「武」の論理が支配的となったため、他の東アジア諸国にはない社会の特徴ができた」とまとめられる。

これは首肯できる主張であるが、しかしこの程度のことは半世紀も前に仏教学者の中村 元が『日本人の思惟方法』で世界に訴えていたことの同工異曲ではないか。専門的でない立場からの気軽な本であるにしても、表面的な内容であるように感じた。

ただしその中に「都市と外食」という一節があり、ここは著者の専門であるだけにものすごく参考になった。ここでは、世界の諸都市において外食産業がどのように始まったかということが概観されており、たった10ページほどしかないがこの部分だけでも本書の価値がある。その節では、19世紀前半の江戸はおそらく世界で最も飲食店が集中した都市であったと考えられる、と指摘しているが、こうしたことをもう少し書いてくれる方が日本文化の特色が浮かび上がってくるのではないかと感じた。

全体的には平凡だが、食文化についてはさすがに参考になる文化論。

2017年12月28日木曜日

『西行』目崎 徳衛 著

実証的に執筆された西行の伝記。

古今、西行に憧れる歌人・俳人は多く、松尾芭蕉が西行を慕い、自らの旅を西行のそれになぞらえていたことは有名である。私が西行を知りたいと思ったのも、芭蕉や多くの歌人たちの目を通して西行を知っていたからである。

しかしそのせいで、西行には多くの伝説や憧れが付託され、本当の西行がどんな人物だったのか分からなくなっている。本書はそうした伝説を排し、実証的に西行の人生を語るものである。

例えば、西行と言えば「旅に生きた」と思われているが、実際に旅に出ていた期間は短く、また移動距離もそれほど多くないらしい。我々が文学を通して知っている西行と本当の西行は、細かい点で違いがある。

西行は、名門の家に生まれ、特に弓馬の術についての故実(しきたり)の権威の家柄であった。彼は若くして官途に就き、実際に官人として勤めた期間は短かったものの、遁世後でさえも弓馬の術の権威として認められていた。

また、彼は数々の名歌によって女性的ともいえる細やかな感性を持っていたことが知れるが、同時に剛毅な風貌と果断な実行力があり、歌に生きるたおやかな人物というわけではなかった。

そういう西行がなぜ出家したか、というのは西行自身が書き残していないので推測でしかわからない。著者の説は、西行は歌に生きるために出家したというものだ。官人として生きれば、家柄の上下関係や慣習にしばられ、政治的に左右されるという不自由な生き方しかできない。西行が遁世した頃は戦乱の直前でもあり、官人として生きるよりもその埒外に飛びだし、出家者として生きる方が自由にその才能を発揮しうる環境があった。まさに出家というのは、近代以前の社会において一種の「個人主義」を貫ける唯一の道だった。

彼がそういう自分の思いを託したと思われる歌にこういうのがある。
身を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人こそ捨つるなりけれ
「身を捨てる(=出家する)人は、本当にその身を捨てているといえるだろうか、身を捨てないでいる人こそ、その身を無駄に捨ててしまっているのだ」という意味である。西行にとっては、官人として安定した暮らしを送る方が自分を捨てることだったのだろう。

とはいえ、西行は名門の生まれであり、所領からの収入もあった。妻子もいたようである。身を捨てるといっても、全くの無一物になったというよりは、そうした家の収入があってこその出家だった模様である。

そして、自らの数寄心に殉じて出家したと思われる西行だったが、仏道にも真摯に取り組んだ。西行は30年もの間高野山に草案を結び、仏道修行に明け暮れた。さらに、やがては勧進(寺院の造営のために寄附を募る)のために大きな働きをするようになっていく。我が道を進んで遁世した西行は、円熟するにつれて仏道のため、経世済民のために力を尽くしていった。

そして、歌を詠み、社会事業にも携わる中で、本質的には矛盾する現世での数寄と来世の救済が西行の中で融合し、やがて優れた歌は陀羅尼・真言と同一なものであるという信念に至ってゆく。数寄と仏道の統合が、西行がたどり着いた究極の和歌観であった。

こうして西行は73歳の生涯を終えた。彼は入滅を歌で予告し、おそらくは偶然によってその通りになったものだから、その劇的な最期は人々に衝撃と感動を与えた。

さらに、死後に成立した『新古今和歌集』は、西行に心酔していた後鳥羽院が作ったものであるため、そこには94首もの西行歌が収録されていた。「15年前に世を去った一介の遁世者が、門地最高の慈円・良経、歌壇の巨匠俊成・定家・家隆、さらには治天の君後鳥羽院さえも凌いで、栄誉ある筆頭歌人の地位を占めた」ことで、西行伝説が加速していくのである。

西行はもはや人々が理想を付託していく存在となっていった。そして、人々は西行を通じて数寄の世界に入っていくようになるのである。「西行」は旅と歌と仏道を統合する一種の「世界観」となっていったように思える。そして、現実の彼にも十分にその資格があったのだ。

西行の人生を多面的に検討し、伝説の成立する過程までも考察した良書。