2016年12月28日水曜日

『地蔵尊の研究』真鍋廣濟 著

地蔵菩薩について様々な角度から考察する本。

著者は龍谷大学教授の眞鍋廣濟氏。著者は古典文芸を専攻し、元来は仏教研究の専門家ではなかったようだが、さまざまな縁から地蔵菩薩について興味を持って折々にその故事来歴を調べ、たびたび雑誌『密教研究』などで発表してきた。本書は、そうした数編をまとめて出版したものである。

内容は雑駁であるが、 地蔵菩薩とは何か(特に地蔵菩薩は男性なのか女性なのかという問題)から始まり、起源、聖典、信仰の歴史、賽の河原の思想との関係、六地蔵と六地蔵巡り、地蔵盆の由来、尊形、真言・種字・契印、他の菩薩との関係、地蔵菩薩と本地垂迹思想、地蔵菩薩と遊戯、俚諺、歌詠文学、という構成で、さながら地蔵菩薩に関する百科事典的なものとなっている。さらに「余説」として、『沙石集』における地蔵菩薩の研究、近江における地蔵信仰、地蔵菩薩霊験記考、地蔵盆についての子ども向け解説、を掲載している。

お地蔵さん、というと、我々にとってはかなり身近なものであり、つい分かった気になるものであるが、改めてこうして深く考究してみると、お地蔵さんとは一体何なのか不思議でよくわからないものだということに気づかされる。大正の終わりから昭和初期にかけて、地蔵研究には一種の流行があったらしく、著者がまとめるところによれば多くの人がこれを研究したようである。本書は、そうしたものを下敷きにして、著者の専門とする古典文芸を頼りにして地蔵信仰の歴史を解き明かし、「お地蔵さんとは何だろう?」という疑問に応えようとしたものだ。

例えば、地蔵菩薩というと「地獄におちたものを救う菩薩」であるというのが一般的な理解であろうが、この他にも地蔵菩薩にはさまざまな神格がある。例えば、中国では地蔵は閻魔大王と同じものと見なされた。地獄で生前の罪を裁く存在と、地獄から救い出す存在が同一視されたのはどうしてか。さらに、地蔵菩薩は賽の河原で惑う子どもたちを守護する存在とも見られたが、これはどうしてか。本書は、こうした問題に対して著者なりの解答を提示するものである。

それらの疑問は、普通はどうでもいいことと見なされるものばかりだ。「地蔵菩薩は男性なのか女性なのかという問題」なんかは、「そんなのどっちでもいいだろ!」と大半の人が思うに違いない(私も思った)。とはいえ、そういう疑問一つ一つにそれなりの解答を与えていくことは知的興奮がある。

ちなみに、私が地蔵菩薩に興味を持ったのは、「なぜお地蔵さんは路傍に雨ざらしになっているのだろう」ということからである。普通は、仏像というものは出来るだけ祠堂を設けて祀るものと思うし、お地蔵さんも大切に祀られているものもある。しかし路傍に雨ざらしになっているものも多く、これは他の菩薩・如来に比べずっと多いのではないかと思う。これはどうしてだろうか。

本書には、これには真正面からの解答はない。ただ、我が国では地蔵菩薩と道祖神が習合したためであろうと簡単に書いているが、だとしても、なぜ地蔵菩薩が道祖神と習合したのかということまで解かなくてはならないと思う。

それから、戦乱の時代に流行した勝軍地蔵への信仰についても、本書ではごく簡単に触れられるに過ぎないが、芝の愛宕神社に勝軍地蔵が祀ってあるごとく、勝軍地蔵は民間信仰では大きな存在感があるので、勝軍地蔵の故事来歴も詳しく知りたいところである。なぜ地獄から人びとを救う菩薩が、戦における勝利を加護する存在へと変化したのだろうか。

さらに、地蔵はなぜか「地蔵塔」という塔によって表現される場合があり、これも他の菩薩・如来とは違っている。なぜ塔になるのか、非常に気になるところである。

本書は、地蔵についての百科事典的な体裁を企図して書かれてはいるが、著者の専門が日本の古典文芸であるために、中国やインドにおける地蔵信仰についてはさほど詳しくないという弱点がある。また、断片的な研究をまとめたものであるため、全体としてみてさほど体系的ではない。そうであるから、上のような私の疑問に対する答えは十分に得られなかった。

しかし、現在手に入る中では本書はおそらく最もよくまとまった地蔵研究書であり、この分野の基本文献とも言えるだろう。実際、原書は昭和16年に発行されているが、そっくりそのまま昭和44年に翻刻されているのは、需要があったためであろうと思う。

少し古いが、地蔵菩薩について深く知りたいと思った時、必ず目を通すべき本。

2016年12月22日木曜日

本で旅した人びと

先日、「石蔵古本市」というイベントを主催した。

雰囲気のよい石蔵を貸し切って、古本屋さん5軒を呼んだ古本市を行うというものである。それを取り仕切ってくれたのが鹿児島市の「つばめ文庫」という古本屋さん。

この「つばめ文庫」、「本で旅する」というテーマを掲げていて、ちょっと他で見ないような探検ものの古書が充実している。

「本で旅する」——すごくステキなテーマだと思う。でも、実際にはそういうたぐいの本はほとんど売れないらしい。確かに、ちょっと昔の、未開のジャングルを探検するような本は、最近流行らないとは思う。「National Geographic」誌すら売れなくなってきている世の中である。

しかしこの「本で旅する」ということについて、ちょっと思うことがあるので今回は昔語りをしてみたい。

私は、実は小学校低学年の時にはあまり本を読んだ記憶がない。本を読むより外で遊ぶのが好きだったように記憶している。正直、読書は興味がなかった。実を言うと、今でも読書より行動の方が好きだと思う。

そんな私が、初めて、「本を読んだ」という実感を持つ体験をしたのが小学校4年くらいの時。風邪で数日間学校を休んで、ずっと寝ていなくてはいけなかったので退屈で仕方なく、それを見かねた母が図書館から数冊の本を借りてきてくれたのだ。

その中に、”SFの父"ジュール・ヴェルヌの『地底旅行』があった。出版社も翻訳者も全く覚えていないが、子供用のシリーズの、随分古い本だったように思う。これが、とても面白かった。病気も忘れて熱中した。これが、初めて「本を読んだ」という体験だ。

こうなると、ジュール・ヴェルヌという作家の本をもっと読みたくなる。それで、人生で初めて、自分の意志で買った本がヴェルヌの『海底二万里』である。それまでマトモに本を読んだことのない人間が、いきなり新潮文庫の小さい字で500ページ以上ある本に取り組んだのだから、読むのに結構苦労したような気がする。だが、それ以上に面白かった。それから、ヴェルヌの空想科学小説系の本は、数年かけて(簡単に手に入るものは)全て読んだ。そういう、ヴェルヌの作品の解説にたびたび登場する有名な逸話がある。

ヴェルヌは、11歳の時に初恋の相手のためにサンゴの首飾りを手に入れるべく、インド行きの船に水夫見習いとして密かに乗船した。しかし途中で父に見つかってこっぴどく怒られ、「もうこれからは、夢の中でしか旅行はしない」と誓ったという。事実、ヴェルヌは『八十日間世界一周』をはじめとして世界を股にかけた数々の冒険ものの本を書いているが、母国フランスから出たことがなかったはずである。

幼かった私にとって、この逸話は大変心強いものだった。鹿児島の田舎に生まれ、外の世界に出て行くすべも持たない子どもにとっては、世界は遠すぎた。都会では電車でどこか行くことも出来るが、田舎では車の運転ができるようになるまで、自由にどこか行くということが適わない。だから、書斎から一歩も出ずに(と当時の私は思っていた)外国どころか『月世界へ行く』まで書いてしまえるヴェルヌには勇気づけられた。

人間は、筆の力でどこへでもいけるんだと。

実際、本の虫になることで、実際にそこへ行くよりも通(ツウ)になってしまった人がいる。古本とジャズの伝説的人物、植草甚一氏である。彼の『ぼくの読書法』というエッセイ集の中に「ぼくの原体験は英語を覚えたことだ」というのがある。

普通は原体験というと、戦争や肉親の死といったものが多いが、植草は早い時期に英語を覚え、それが彼の世界を変えた。大正から昭和、そして戦争の時代、やがて戦後へと進む時代の中で、彼は洋書を漁り、「今ここにある世界」とは別の世界へと飛翔したのである。

言うまでもなく、当時は自由に外国へ行けない時代だった。彼の偏愛した洋書や、ジャズや映画といったものは、細い細い管を通って日本へと僅かにしたたり落ちてくるだけ、といったような時代だ。それでも、彼は自分が面白いと思ったものを孤独に愛し続けた。行くことのできないニューヨークの、街角にあるはずの、古書店にたたずむ自分を空想したに違いない。1974年、ようやく彼はニューヨークに降り立った。しかしそれは見知らぬ街ではなく、既に本や雑誌で顔なじみになった街になっていた。どこになんの店があるか、行かなくてもまるきり分かっていたという。実際、それ以前でもニューヨークに行く予定の人がいれば、「どこそこへ行った方がよい」とアドバイスしていた程だった。

本を読むことで、植草甚一はニューヨークを何度も旅していたのである。

地理的な場所でないところにまで、本で「冒険」した人もいる。「サディズム」の語源ともなった、マルキ・ド・サド侯爵である。

サドは、生来の嗜虐的な性向から非人道的なセックスを行い、危険人物として人生の1/3ほどを牢獄で過ごさなくてはならなかった人物。女性を裸にしてベッドに縛り付けナイフで切りつけたり、まあ牢獄に入れられるのもしょうがない素行の人ではあった。が、彼が並の異常性愛者と違ったのは、自分の心の奥にある猟奇的欲望を実行に移すだけでなく、それを行う自分自身を冷徹に観察して、その心理を検証・分析してみなくては気が済まなかったところで、彼はその「検証結果」を数々の文学作品に昇華させていった。

そういう作品の最高峰が『ソドム百二十日』という未完の大作(大作といっても序文と第1部しか書かれていないので実際には短い)。これは、ルイ14世治世の末期、悪行によって莫大な私財を築いたブランジ侯爵という人物が、友人3人とともに、郊外の館で奴隷状態にした42人の男女をなぶりつつ120日間に及ぶ大饗宴を催すという話。この大饗宴の中身はほとんど虐待と強姦と殺人であって、42人のなぶり者のうち30人はむごたらしい拷問によって絶命する。そういう、悪逆の教科書みたいな作品である。

しかしサドがこの奇妙な作品を書いたのは、やはり牢獄の中のことであった。時はフランス革命の4年前。バスティーユ牢獄の一室に閉じ込められていたサドは、監守の目を盗みつつ、小さな紙片を繋ぎ合わせた巻紙に蟻のような小さな文字でこの作品を執筆していた。だが牢獄から一切の私物を持ち出すことを禁じられていたサドは、おそらくは時間か紙の不足のために未完になっていたこの原稿を泣く泣く手放すことになり、さらには革命の混乱で原稿は行方知れずになってしまう。

この作品が漸く出版されたのは、サドが執筆した120年後の1904年のこと。様々な奇縁によってなった出版であった。

こうして世に現れた『ソドム百二十日』は、サドが獄中で思索に思索を重ねた異常性愛の一大絵巻となっており、訳者の澁澤龍彦は「系統的に観察し分類した性倒錯現象の集大成、科学者の目でとらえた性病理学試論といった性格をおび、クラフト・エビングやフロイト以前の、貴重な資料ともなっている」と評している。

これは、牢獄に閉じ込められ、紙とペンすら満足に使えなかったマルキ・ド・サドが、空想によって旅した、完全無欠の魔道の世界の物語なのである。

……こうして、ここで挙げた「本で旅した人びと」を眺めて見ると、現実の世界では行きたい場所に行くことができなかった、という共通点がある。だが、行きたい場所に行けるなら本が必要ないか、というとそうではない。今は、お金と暇さえあれば、世界中の大抵の場所にはいくことができるが、本を通じてなら、それよりももっと遠い場所に行くことができるからだ。というのは、現実の世界では、遠い未来に行くことはできないし、過去の英雄に出会うこともできない。宇宙の果てや、人の心の奥底にある深淵にも、決して立つことは出来ない。これらは今のところ、本を通してしか、行くことができない場所にある。

「本で旅する」——。現実の世界で満足出来なくなった人にとって、いや、現実の世界に満足し切っている人なんてごくごく僅かだろうから、そういうほとんど全ての人にとって、「本で旅する」ことは、時には必要な、精神の休暇の過ごし方だと思うのである。


2016年12月16日金曜日

『快楽主義の哲学』澁澤 龍彦 著

澁澤龍彦が説く、快楽主義のススメ。

本書は、澁澤龍彦の著書としては異端の本である。いや、異端だらけの澁澤の書いた本の中で、異端ではない、という意味で変わった本である。

というのも、本書は初め光文社の「カッパ・ブックス」から刊行された。これは、要するに大衆向けの新書シリーズである。このシリーズがきっかけとなって第一次新書ブームがわき起こったほど、ここからミリオンセラーがいくつも生まれた。

高踏、無頼で聞こえた澁澤龍彦が、こういう大衆的なシリーズで本を書くということ自体がかなり奇異なことである。澁澤がどうしてこういう大衆路線で本を書いたのかというと、自宅を新築するための金策であった、と本人が述懐している。

そんなわけで、著者としてはこの本はあまり好ましいものではなかったようだ。全集に収めてほしくないという意向もあったそうである(でも結果的には収録された)。澁澤のファンからすれば、あまりに軟らかい語り口に拍子抜けする部分もあるし、世の中のトレンドに迎合しているような書き方に落ち着かない気持ちにもなる。あの、耽美的な澁澤はどこへ行った? と感じよう。

しかし、その内容は決して大衆迎合ではない。著者の博覧強記は、いつものように縦横無尽に古今の挿話を開陳する。特に「快楽主義の巨人たち」の章は、ディオゲネス、李白、アレティノ、カサノヴァ…と古今の傑物たちを著者なりの視点でいきいきと紹介しており読み応えがある。

本書の内容としては、まず快楽主義とは何かを解説し、東洋と西洋の快楽主義を比較検討してひとまず西洋のエネルギッシュな快楽主義を中心的に取り上げながら、そうした究極の快楽主義が東洋的な禁欲主義に漸近していくという逆説を展開、そして力強い快楽主義的な生き方を勧めるものである。

ただし、本書が勧める快楽主義は、時代の方に追い越されていった。本書が初出した1965年といえば、60年安保があり、60年代後半からは全共闘運動や大学紛争が起こっていく時代で、若者は今から考えると真面目すぎるくらいであったが、その後のバブル景気を経ると、世の中は軽薄な快楽主義に覆われていった。著者が説く力強い快楽主義の勧めよりも時代はさらに先を行き、その場しのぎのお気楽な快楽主義が蔓延ってしまった。

そういうワケであるから、著者の主張は普遍的な内容をもちながらも、本としては、その前提となる時代背景が全く変わってしまったので、ちょっと古びた感じがするのは否めない。とはいっても、澁澤の本としては、非常に取っつきやすい部類に属するので、一種の「澁澤入門」として機能する本になっていると思う。

快楽主義の勧めは今となっては空回り気味だが、内容は充実した気軽な澁澤龍彦入門書。

2016年12月5日月曜日

『鹿児島の勧業知事—加納久宜小伝』大囿 純也 著、加納知事五十年祭奉賛会 編

明治時代に鹿児島県知事を務めた加納久宜(ひさよし)を振り返る本。

鹿児島県民なら、旧県庁跡地に加納久宜を顕彰する石碑が建っていることを知っている人が多いだろう。でも、意外と何をした人かはあまり知られていない。私もそうだった。それで手に取ったのが本書である。

加納久宜は、筑後柳川藩の藩主立花家に生まれ、8歳の時に父母を亡くしたが、19歳の時に養子となって一宮藩(今の千葉県の一部)の藩主として迎えられた。この藩主、幼い頃から勉強が嫌いで、かといって腕白というわけでもなく、どちらかというと虚弱な頼りない幼少期を送ったが、維新後はフランス留学を志したり(結局周囲の反対で行けなかった)、学校長になったり法律には素人ながら判事になったりと天衣無縫の働きを見せた。

その精力的な働きぶりを買われ、鹿児島県知事に任命されたのが明治27年1月20日のことであった。

その頃の鹿児島は、西南戦争からの混乱が続いており、特に県庁は民党・吏党の争いでマトモに機能していなかった。民党・吏党の争いというのは、今風に言えば与党・野党の争いであるが、どちらかというと「赤狩り」に近い。県庁では、民党臭いとされた職員はクビにされ、学校の教員すらも民党に肩入れするということだけで、即刻クビにされた。警察はその総本山で、スパイや密告が暗躍し、民党弾圧の中心組織となっていた。こういう次第であるから本来県庁が担うべき普通の仕事は全然遂行されない。加納知事の最初の仕事は、この狂った県庁をあるべき姿に戻すことだった。

加納は、まず警官の待遇改善に着手する。待遇が悪いことがモラル低下をもたらしているのではないかとの考えだ。働きのよくない職員はクビにする一方で、果断なベースアップを実施して仕事のやりがいを高めた。これで民党・吏党争いの牙城だった警察が正常化し、県庁は落ち着きを取り戻していった。こうして、県政史上名高い加納知事時代が幕を開けたのである。

加納の業績は大まかには次のようなものである。
  1. 原始的な方法で行われていた鹿児島の農業の生産性の向上。
    • 米の大幅な増収と品質のアップ。そのための正条植えの普及、肥料製造の指導、農業指導士の派遣や農会・農事小組合の整備、排水改善(土壌改良)事業。
    • 柑橘類の栽培振興。東京農林学校の玉利喜造をポケットマネーで招き、「薩摩ミカン」などの優良品種を普及させるため私費を投じて柑橘園を開き、苗の生産を行った。
    • その他、茶業、酪農、馬の生産などにも足跡を残す。
  2. 漁業振興、特に遠洋漁業の開拓。製塩業の近代化、薩摩焼の熟練陶工の育成など各業界での勧業事業。
  3. 教育水準の向上。
    • 全国平均を下回っていた学齢児童の就学率を向上させるため、教育組合など組織面を充実させると共に、就学することが親にとっても得になる仕組みをつくり、女児の就学を推進するための保育体制の充実にも取り組んだ(女児は下の子の面倒を見なくてはならないことが多いことから)。
    • 小中学校の整備に加え、造士館の第七高等学校(現・鹿児島大学)昇格、鹿児島市立商業高校(現・鹿児島商業高校)と鹿児島市立女子興業学校(現・鹿児島女子校)の創設など、学校の整備を進めた。現県図書館も加納の設立。
  4. 当時はまだ珍しかった数千トンクラスの貨客船が接岸できるようにする、鹿児島港の大改修。
そして加納は、こうした施策を推し進めるにあたり、徹底した「干渉主義」をとった。各種団体の長を知事が務めるようにし、業界のやり方にことあるごとに口を出したのである。しかも、加納はかなり事細かに指示を出した。今から考えるとちょっと度を超したようなところもあるが、目指すべきものが分からなかった鹿児島の民に、確かな指針を与えたのは大きな功績だ。

しかも、自分の「干渉」が十分に理解されないと悟るや、皆が具体的に見て理解できるように彼は率先垂範して自ら私財を投じて事業を興した。ミカン園はその一例であるが、私費で育成した苗木が盗まれた際、彼は自分の目論見が浸透したことをむしろ喜んだというから、この身銭を切った事業は決して利益を目的としたものではなかった。

それであるから、身内からは県知事の仕事は「勧業道楽」とまでみなされた。鹿児島の勧業のために身銭を切ってばかりいるものだから、加納はどんどん借金をつくってしまっていた。それも、今の資産価値でいうところの億くらいの借金があったみたいである。

加納が知事を辞めざるを得なくなったのも、これ以上借金を増やしたくないという身内の意向も随分あったようである。ただし辞任の直接の原因となったのは、鹿児島港の大改修で、あまりに改修の規模が大きすぎて周りがついて行けなくなり、この重要事業が理解されないのならと、加納はさっさと辞表を書いてしまった。

しかし加納は、干渉主義とワンマン経営なところはあったが、多くの人に敬慕される存在となっていた。旧藩主なのにもかかわらず気さくな人柄で、身分を問わず人の話をよく聞き、出張も必要最低の随行員しかつけずに貧乏宿にも泊まった。県内を隈無く巡村して実態を調査しており、ワンマンとはいっても決して思い込みで政策を決めるのではなかった。そんな加納だったから、辞表を出しても辞任反対の運動が起こった。ならば鹿児島港が出来るまでは知事を続けようということになり、実際改修の工事計画が出来上がってから彼は鹿児島を去ったのである。

鹿児島を去って後のことについては、本書では簡単にしか触れられていない。こういう果断な人物であったから各所から引き手数多で、しかも乞われて赴いた場所場所でそれなりに大きな仕事を成し遂げている。それでも、加納の心にずっとあったのは7年間の鹿児島県知事生活のことだった。晩年の家族の話題は鹿児島のことばかりだったという。「もし我輩が亡くなっても鹿児島のことで何か話があったら冥土に電話せい」が口癖だったそうである。加納は生涯、鹿児島の発展を願い続けたのである。

2016年11月20日日曜日

『知られざる傑作―他五篇』バルザック著、水野 亮 訳

バルザックの短編6編。

バルザックも、いつか読もうと思っていながら今まで手を出さなかった作家の一人である。『人間喜劇』——これはバルザックの作品の集成で、一つ一つ独立してはいるが、共通の世界観や登場人物によって構成される絵巻物的なもの——の厖大な世界を前にすると、足がすくむというか、気軽に手を出すことを峻拒されているような気がして、今までバルザックを視て見ぬ振りをしてきたのだった。

しかしそういう気負いを感じる年齢でもなくなってきたので、かえって気軽な気持ちから、短編でも読んでみようか、と手に取ったのが本書である(本書の内容も、『人間喜劇』に包摂されている)。

私は、基本的には古典と前衛的な20世紀文学が好きで、19世紀の文学というと「いかにもな話」という目で見るようなところがあり、これも若い時分に読んだら斜に構えて読んでいたかもしれない。しかし今になって見ると、こういう「いかにもな話」にも力があることを再確認させられ、19世紀文学もいいじゃないか、と思うようになってきた。

本書に収録された短編に通底するテーマを挙げるとすれば、それは「執着」である。ここに描かれた人物たちは、みな何かに対して強烈に執着している。表題作の『知られざる傑作』では、理想の女性を描くために10年を費やし、しかしそれでも理想へと到達できないことに絶望して自決する老画家が出てくるが、芸術に対する偏執狂的なまでの執着は、見ていて痛々しいほどである。

そして、非常に心に残った作品が『ざくろ屋敷』。これは不治の病に冒されたシングルマザーの母親が、せめて死ぬまでの短い間に子どもたちに最高の教育と環境を与えたいと願い、「ざくろ屋敷」に自分と子どもたちだけのユートピアをつくり上げ、そして死んでしまうという話。子どもたちへの執着、そして劇中では詳らかにされないが、別れた夫との諍い(おそらくは不倫関係?)への執着がありつつも、近い将来訪れる自らの死はそれらの執着を無にしてしまう、という一種の諦念がスパイスとなり、彼女の心象風景を複雑なものにしている。

この2作に限らず、本書に収録された短編は、登場人物の感情が劇中を強く照射して輪郭をはっきりとさせ、ぐいぐい引き込まれるような作品になっている。しかも、その感情は直接的に描写されるというよりも、ふとした仕草、持ち物や住居の具合、一瞬の戸惑いといったものによって表現されており、そのエピソードの作り方が実にうまい。

良質なエンターテイメントであり、また人間観察や歴史巻物としても楽しめる良質な短編集。

2016年11月8日火曜日

『陽気なヴッツ先生』ジャン・パウル著、岩田 行一 訳

ジャン・パウルの短編2編。

ジャン・パウルは、ドイツ散文芸術の大先達と讃えられているというし、ドイツの作家ではジャン・パウルに影響を受けた人はたくさんいるらしい。全集は数十巻に及ぶという。だが、日本ではほとんど翻訳されておらず、読まれていない。生粋のドイツの文学だから「日本人には理解不可能」とすら言われているくらいである(最近は、ドイツでもあまり読まれていないといわれているが)。

とても読みにくいというその前評判は聞いていたが、実際に本書を手にとって合点がいった。

この2編にも一応ストーリーはあるのだが、筋書きに関係あるようなないような雑談のような話が多すぎて、すぐに話を見失ってしまう。「で、今何が話題なんだっけ?」と分からなくなる。

そんなわけで、最初は読み進めるのに骨が折れた。だがこういう本にも「読み方」というのがあるもので、その「読み方」を心得ると意外とスムーズに読んでいけるものである。

ジャン・パウルの本は(というより、この『陽気なヴッツ先生』は)、それあたかも田舎の人間のとりとめのない立ち話と思って読むべきなのではないかと思う。「で、結局なんなんだ?」と思ってはいけない。おしゃべりそのものが娯楽という田舎の世界で、ただその場しのぎで思いつきや下らないダジャレをしゃべるのが立ち話というものだが、そういうものとして読むのである(ジャン・パウルの作品自体が思いつきで書かれているというわけではない)。

もちろん、話の筋というものはあるし、社会風刺のようなものもある。それどころか、文学的な問題提起と呼べるものすらある。例えば、『陽気なヴッツ先生』は、極貧の中でも自分の内面世界を充実させることで幸福な人生を生きた(と語り手に評価される)男の話であるが、幸福というものを貴族や大金持ちが独占していた時代に、「個人の内面」というそれまで評価の対象になりえなかったものを浮かび上がらせたということがこの作品の文学性だと思う。

しかしそういう理念的なことに着目しながら読んでも、なかなか作品世界に没頭することができない。それよりも、「ふーん、そうなんだー」くらいの気持ちで読むべきである。基本的には、田舎の立ち話なんだと思って、時間つぶしに付き合うくらいのゆったりした気持ちで向き合わないといけない。

そういう意味では、 日本人には理解不可能、ということは全然なくて、ただ現代日本のせわしい都会生活の中では読み通せない作品というだけなのかもしれない。ジャン・パウル自身がドイツの中で後進的な田舎の地域に生まれ、田舎の世界で一生を生きた人らしいから、その息づかいは(書かれていること自体は先進的、観念的なものであったとしても)田舎っぽい土着性があるように思われる。

収録されているもう一つの短編は『シュメルツレの大用心』というもので、これは実際には小心翼々としながら自分の中でだけ剛胆なシュメルツレという男が、臆病ゆえに解雇された従軍牧師に復帰させてもらうべく上司(将軍)に請願をしにいく話。これも話の筋は一応あるものの、とにかくシュメルツレ(と作者)のあれやこれやの随想に付き合わされる。それをいちいち頭の中で整理していたら、どうでもいいことに振り回されて逆に話が見えてこない。そういう雑然とした作品である。

しかしそのテーマはやはり「個人の内面」であって、行動はしょぼいが頭の中ではやたら小難しいことを考えているシュメルツレという男の頭の中を覗き見るという趣向なのだ。

ジャン・パウルが生涯追い求めたテーマは「自我」だったという。そして、彼は「自分の生が即文学である」と確信していた。つまり日本文学で言えば、彼の作品は「私小説」的であり、そこにストーリーテリングを期待してはいけないのだ。登場人物の内面のあり方そのものが、ジャン・パウルにとっての文学なのだろうと思う。

2016年11月1日火曜日

『南洲残影』江藤 淳 著

西郷隆盛は、なぜ西南戦争を戦わなければならなかったのかを考察する本。

西郷隆盛に関する本は、最初から西郷賛美を決めてかかっていることが多い。あるいは、西郷といえども、そんなたいしたものではなかったのだ、と言う逆の態度か。つまり、彼について語る時、人はなかなか客観的になれない。何があったか、歴史がどうだったか、という語り手に徹することができないのだ。どうしても、西郷をどう評価するか、という自分の内面が出てしまう。

それくらい、西郷隆盛という人物は、死してなお、我々に歩み寄ってくる存在である。

江藤淳は、その西郷南洲を適度な距離感で語りはじめる。南洲(西郷の雅号)の詩、彼を語った勝海舟の詩、薩摩琵琶の歌……、そうした文学の行間から、西郷の存在を浮かび上がらせる。勝ち目のない戦いに担がれ、望まない戦争に赴いた西郷。明治天皇に衷情を抱きながら、国賊にならざるをえなかった西郷を。

筆は西南戦争の有様へと進む。なぜ西南戦争が起こったのか、という直接の説明はほとんどない。私学校党も、暗殺問題も語られない。本書は、こうした薩摩と明治政府を巡る諸問題については既知の読者を対象としているのだろう。しかしそれ以上に江藤淳にとって、これらは語るに足るものではなかったのだと思う。それよりも、戦いが進む中で交わされた書簡、檄(指示)、そういったものを丁寧に紹介し、ほのかに見え隠れする戦いの本質を探っていく。この戦は、何かに反抗するための戦ではない。ただ、滅びるための戦なのだと——。

西郷はなぜ立たねばならなかったのか、その直接的な説明も本書にはない。ただ、本書を読み進めるうちに西郷の影が我々の前に立ち現れてくる。寡黙な彼のことである。自分から、私はこのために戦ったと説明はしない。雨あられと降り注ぐ銃弾の中で、平生と変わらぬ穏やかな顔をして、ゆっくりと死へと進んでいく。その後ろ姿がなにがしかを語るのだ。

こうして、西郷と適度な距離をもって語りはじめたはずの本書は、最後には西郷の姿へと飲み込まれる。「日本人はかつて「西郷南洲」以上に強力な思想を持ったことがなかった」と江藤淳は言う。しかしそうだろうか? 西郷南洲は、「思想」だったのだろうか?

私は違うと思う。私は、西郷南洲は、日本人にとっての最後の「神話」になったのだと思う。そこにどんな思想を読み取るのかは、読み手の技倆による。最初から西郷賛美と決めてかかっては、浅はかな「敬天愛人」しか見えてこないかもしれない。いや、私もまだ、読みが浅いに違いない。

歴史家ではない江藤淳が、どれほどの読みができるのか、と人は思うだろう。しかし、文学的の行間から西郷を見る、という切り口一つとっても、かなりの深みある見方をしていると感じる。もちろんこれは西郷隆盛論の決定版ではない。江藤淳の、個人的な思いもかなり仮託されている。かといって西郷隆盛への挽歌でもない。これは、西郷隆盛を語るための、地平を確立するための本とでもいえるだろう。

【関連書籍】
『西郷隆盛紀行』橋川 文三 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/04/blog-post_7.html
西郷隆盛を巡る思索と対話の記録。
西郷の評価を考える上でヒントに溢れた小著。