2016年12月5日月曜日

『鹿児島の勧業知事—加納久宜小伝』大囿 純也 著、加納知事五十年祭奉賛会 編

明治時代に鹿児島県知事を務めた加納久宜(ひさよし)を振り返る本。

鹿児島県民なら、旧県庁跡地に加納久宜を顕彰する石碑が建っていることを知っている人が多いだろう。でも、意外と何をした人かはあまり知られていない。私もそうだった。それで手に取ったのが本書である。

加納久宜は、筑後柳川藩の藩主立花家に生まれ、8歳の時に父母を亡くしたが、19歳の時に養子となって一宮藩(今の千葉県の一部)の藩主として迎えられた。この藩主、幼い頃から勉強が嫌いで、かといって腕白というわけでもなく、どちらかというと虚弱な頼りない幼少期を送ったが、維新後はフランス留学を志したり(結局周囲の反対で行けなかった)、学校長になったり法律には素人ながら判事になったりと天衣無縫の働きを見せた。

その精力的な働きぶりを買われ、鹿児島県知事に任命されたのが明治27年1月20日のことであった。

その頃の鹿児島は、西南戦争からの混乱が続いており、特に県庁は民党・吏党の争いでマトモに機能していなかった。民党・吏党の争いというのは、今風に言えば与党・野党の争いであるが、どちらかというと「赤狩り」に近い。県庁では、民党臭いとされた職員はクビにされ、学校の教員すらも民党に肩入れするということだけで、即刻クビにされた。警察はその総本山で、スパイや密告が暗躍し、民党弾圧の中心組織となっていた。こういう次第であるから本来県庁が担うべき普通の仕事は全然遂行されない。加納知事の最初の仕事は、この狂った県庁をあるべき姿に戻すことだった。

加納は、まず警官の待遇改善に着手する。待遇が悪いことがモラル低下をもたらしているのではないかとの考えだ。働きのよくない職員はクビにする一方で、果断なベースアップを実施して仕事のやりがいを高めた。これで民党・吏党争いの牙城だった警察が正常化し、県庁は落ち着きを取り戻していった。こうして、県政史上名高い加納知事時代が幕を開けたのである。

加納の業績は大まかには次のようなものである。
  1. 原始的な方法で行われていた鹿児島の農業の生産性の向上。
    • 米の大幅な増収と品質のアップ。そのための正条植えの普及、肥料製造の指導、農業指導士の派遣や農会・農事小組合の整備、排水改善(土壌改良)事業。
    • 柑橘類の栽培振興。東京農林学校の玉利喜造をポケットマネーで招き、「薩摩ミカン」などの優良品種を普及させるため私費を投じて柑橘園を開き、苗の生産を行った。
    • その他、茶業、酪農、馬の生産などにも足跡を残す。
  2. 漁業振興、特に遠洋漁業の開拓。製塩業の近代化、薩摩焼の熟練陶工の育成など各業界での勧業事業。
  3. 教育水準の向上。
    • 全国平均を下回っていた学齢児童の就学率を向上させるため、教育組合など組織面を充実させると共に、就学することが親にとっても得になる仕組みをつくり、女児の就学を推進するための保育体制の充実にも取り組んだ(女児は下の子の面倒を見なくてはならないことが多いことから)。
    • 小中学校の整備に加え、造士館の第七高等学校(現・鹿児島大学)昇格、鹿児島市立商業高校(現・鹿児島商業高校)と鹿児島市立女子興業学校(現・鹿児島女子校)の創設など、学校の整備を進めた。現県図書館も加納の設立。
  4. 当時はまだ珍しかった数千トンクラスの貨客船が接岸できるようにする、鹿児島港の大改修。
そして加納は、こうした施策を推し進めるにあたり、徹底した「干渉主義」をとった。各種団体の長を知事が務めるようにし、業界のやり方にことあるごとに口を出したのである。しかも、加納はかなり事細かに指示を出した。今から考えるとちょっと度を超したようなところもあるが、目指すべきものが分からなかった鹿児島の民に、確かな指針を与えたのは大きな功績だ。

しかも、自分の「干渉」が十分に理解されないと悟るや、皆が具体的に見て理解できるように彼は率先垂範して自ら私財を投じて事業を興した。ミカン園はその一例であるが、私費で育成した苗木が盗まれた際、彼は自分の目論見が浸透したことをむしろ喜んだというから、この身銭を切った事業は決して利益を目的としたものではなかった。

それであるから、身内からは県知事の仕事は「勧業道楽」とまでみなされた。鹿児島の勧業のために身銭を切ってばかりいるものだから、加納はどんどん借金をつくってしまっていた。それも、今の資産価値でいうところの億くらいの借金があったみたいである。

加納が知事を辞めざるを得なくなったのも、これ以上借金を増やしたくないという身内の意向も随分あったようである。ただし辞任の直接の原因となったのは、鹿児島港の大改修で、あまりに改修の規模が大きすぎて周りがついて行けなくなり、この重要事業が理解されないのならと、加納はさっさと辞表を書いてしまった。

しかし加納は、干渉主義とワンマン経営なところはあったが、多くの人に敬慕される存在となっていた。旧藩主なのにもかかわらず気さくな人柄で、身分を問わず人の話をよく聞き、出張も必要最低の随行員しかつけずに貧乏宿にも泊まった。県内を隈無く巡村して実態を調査しており、ワンマンとはいっても決して思い込みで政策を決めるのではなかった。そんな加納だったから、辞表を出しても辞任反対の運動が起こった。ならば鹿児島港が出来るまでは知事を続けようということになり、実際改修の工事計画が出来上がってから彼は鹿児島を去ったのである。

鹿児島を去って後のことについては、本書では簡単にしか触れられていない。こういう果断な人物であったから各所から引き手数多で、しかも乞われて赴いた場所場所でそれなりに大きな仕事を成し遂げている。それでも、加納の心にずっとあったのは7年間の鹿児島県知事生活のことだった。晩年の家族の話題は鹿児島のことばかりだったという。「もし我輩が亡くなっても鹿児島のことで何か話があったら冥土に電話せい」が口癖だったそうである。加納は生涯、鹿児島の発展を願い続けたのである。

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