2015年4月6日月曜日
『アラビア科学史序説』矢島 祐利 著
著者は科学史を研究するうちアラビア科学の重要性に気づき、アラビア語を学んでその研究の道に入る。しかしまずアラビア語がなかなか読めるようにならない。10年たって、ようやく人名が分かるようになってきた、と述べるが、これはどうも謙遜ではないようだ。というのも、アラビア語の人名は大変に複雑かつ同姓同名が多く、ある人物を同定する決まった呼び方も確立していない(※)ので、それだけでも確かに難事業なのだ。
そういうわけで、とてもアラビア科学の通史を書くところまで研究が進まないため、暫定的に研究成果をまとめたのが本書である。まとめたといっても、通史を書くに当たっての考え方なり基盤なりを語る「序説」ではなく、どちらかというと「研究メモ」的なものであって、著者自身の備忘録的でもあるような、散漫な体裁の「序説」である。
例えば、アラビアの科学者について、科学史で取り上げるべき人とその主要な著書をずらずらと並べる章があるが、これは研究カードを引き写したものであるようで、いわゆる「序説」に入るものではなく、これ自体が小辞典のようなものである。
その他の章も、通史的なものの準備というより、断片的にイスラーム科学のサワリを紹介するという感じで、既に発表した論考の寄せ集めも多い。
だが、その内容は極めて堅牢であり、原典から研究しようとしている人の誠実さと慎重さが伝わってくる。文献がなかなか手に入らないなかで、手持ちの文献を最大限に活用して科学史の歩みを明らかにしようとする態度には好感を持つ。
一方そのせいで、引用がかなり冗漫だったり、「序説」といいながら結局アラビア科学の発達の姿がイマイチ見えづらい感じがするという難点もある。とはいうものの、安易にまとめようとするのではなく、分かっていることと、実はまだよくわかっていないことをしっかりと書き分けようとしており、「わかった気になる」他の本よりもずっとよいと思う。
本書の難点があるとすればちょっと古いことで、アラビア科学について今ではもう少し研究が進んでいると思われる。ただしその基礎を理解するには普遍的な価値がある本だろう。
※例えば、ピカソの本名は「パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・マリーア・デ・ロス・レメディオス・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード」だったと言われるが、今ではただ「ピカソ」と言えばこの画家を指すのは明らかだ。しかし文献によって「ホセ・フランシスコ」とか「パブロ・ディエゴ」とか呼び方が一定していなければそれがピカソだと同定するだけで一苦労するだろう。これは極端な例だが、同じようなことがアラビア語の人名では(特にアラビア科学の研究書において)起きているようだ。
2015年4月3日金曜日
『方法序説』デカルト 著、谷川 多佳子 訳
デカルトは本書を発表する前に、より踏み込んだ『世界論』という本を出版準備していた。が、ガリレオが地動説を発表した廉で逮捕されたことを知り衝撃を受ける。それはデカルトからすれば何ら信仰上の問題を惹起するものとは思えなかったからだ。そこでデカルトは自分の哲学についても慎重にならざるを得ないと考え、出版の途上にあった『世界論』をお蔵入りさせてしまう。そして結局これは死後に発表されることになる。
しかし『世界論』の発表は控えるにしても、その結論に至った「方法」だけでも世に訴えたいとデカルトは考えた。 それは、今日的に言えば「科学的な方法」といういうように言えるだろうし、もっと適切な言葉を使うならば「科学的世界観」である。
言うまでもなく、当時はカトリックの考え方が真理と思われていたし、その土台になっていたアリストテレスの大きな影響下にあった。その考え方を乱暴にまとめるなら、「この世は第一原因(神)から演繹的に導ける」ということになろう。例えば「科学」について述べれば、個別の現象を観察して理論を組み立てていくというよりも、より上位の理論から演繹して理論を組み立てていくのが正しいやり方と思われていた。
本書においてデカルトは、そういった演繹的な理論はなんら真実性を保証せず、真理に到達するには実験・観察に基づいて帰納的に求めるべきである、というような趣旨のことを述べている。すなわちデカルトは、本書においてアリストテレス的世界観の代わりに科学的世界観を確立しようとする世界観の大転換を図ったのであった。
しかし本書はその成立の背景から分かるように、当局(教会)に対して相当遠慮して書かれたものであるため、今風に言えばポリティカル・コレクトネスを気にして、奥歯にものが挟まっているような表現をとっている箇所が多い。それに、科学的真理に到達するための「方法」そのものの説明というよりも、その「方法」を見つけるに至った自らの精神の遍歴をなぞる書き方をしているので、それがなおさら遠回しに感じられる。
また、その「方法」の基礎となるものは、真実であると明証されていないものは信じない、という徹底的懐疑にあるのであるが、敬虔なキリスト教徒であったデカルトらしく、神の存在については割と簡単に証明した気になっているあたり、今日的に見ればやや懐疑主義も不徹底な部分がある。
しかしながら、本書は小著ながら世界観の大転換を図るという壮大な意図をもったものであり、そういった点は後世の安全圏にいる人間からの後付けの批判であって、本書の価値を減ずるものではない。
しかも、このような画期的な大転換を図る本をラテン語ではなく、女性や子どもでも読めるようにという配慮からフランス語で発表したのも意味があることである。そして本書には遠慮がちな表現が多いのは確かだが、文は平易であり、難解さは微塵もない。中世哲学の迷宮に比べ、この霧が晴れたような明晰さは爽快である。
なお、ここに述べられた科学的世界観は現代では当たり前のものであるから、今の人間にとって当然な部分も多いが、現代日本でもEM菌、マイナスイオン、コラーゲンの経口摂取、江戸しぐさ等々、科学的根拠のないものが跋扈しているわけで、今でもデカルトの「方法的懐疑」に学ぶことは意味があると思う。
近代哲学の始まりとなる不朽の名著。
2015年4月2日木曜日
『イスラーム思想史』 井筒 俊彦 著(その4)
その嚆矢となるのは、スペインに生まれ12世紀に目覚ましい活躍をしたイブン・バーッジャである。イブン・バーッジャは哲学者である以上に実務家であり、世俗的な事業に忙しかったため、遂に体系的な著述を残さなかった。しかしその後の西方の哲学の道筋を決めるほどの大きな影響を及ぼした。
それは、知性を最重要に考えるという点である。イブン・バーッジャはファーラビーの哲学、つまり新プラトン的アリストテリスムを受け継つぎつつ、真理は知性による冷静な思考によってのみ到達できると考え、安易な神秘主義思想を否定した。その合理主義から、晩年は無神論者との謗りを受け、おそらくは毒殺されたと考えられている。
イブン・バーッジャの思想を発展させたのがイブン・トファイルである。その頃のスペイン(アルモハド王朝)は、当時まだ東方では異端とされていたアシュアリーやガザーリーの説を公認し、信仰と理性を調和させる宗教改革を行っていた。そのさなか、イブン・トファイルは公然と理性の優越を説いたのである。
彼は大学者というよりディレッタント的であって、その思想を大上段の思想書にはせず、『ヤクザーンの子ハイ物語』という小説で表現した。これは、無人島で人を知らずに(つまり言葉すら知らず)育ったハイという天才的人物が、自らの思索のみで最高の真理に到達するという話である。しかし話はそれで終わらない。ハイはやがて宗教心に富む人物に出会い、共に民衆教化の事業に乗り出すが、その事業は全く失敗に終わる。民衆はハイが見た最高の真理など見向きもしなかったのだった。
この小説において、イブン・トファイルはあからさまに形式的な宗教を蔑視している。彼は建前としては、最高の知性と最高の信仰は一致すると述べたけれども、実際には一般の民衆は低脳愚劣な輩であり、宗教とは低脳な民衆に哲学的真理を理解させるための象徴的な手段に過ぎないと見なしたのであった。このような民衆蔑視は、当然ながら民衆の間に反哲学の感情を呼び起こした。そしてこのような理性至上主義をさらに推し進めたのが、中世カトリック世界に大きな影響を与えたアヴェロエスことイブン・ルシドである。
イブン・ルシドは哲学者として絶頂にあったイブン・トファイルから王の主治医の地位を譲られ王の信任を得、王の勧めでアリストテレスの注釈の研究に邁進した。彼のアリストテレス研究は慎重を極め、学習者の学力と理解力に応じて大中小三種の違った注釈が作られるほどであった。そういう背景から出発した彼の哲学を一言で言えば「アリストテレスに還れ!」ということになる。
既に述べてきたように、これまで長い間イスラーム世界で培われてきたのは純粋なアリストテレス思想ではなく新プラトン主義的なアリストテレス理解であり、それはアリストテレスの思想をイスラームと融和させようとする折衷主義の産物でもあった。イブン・ルシドはそうした折衷主義を痛烈に批判したのである。
しかし、彼とて、最初から折衷主義の批判ありきではなかった。むしろ、イスラームの合理主義運動ムアタズィラが東方世界で挫折し、正統派の学者によって排斥されるに至り、哲学界では合理的な思考と信仰をどうやって調和させるべきかということが切実な課題となっていたのであり、イブン・ルシドも哲学と信仰の両立を明確に示そうとした。
彼も先輩のイブン・トファイルと同様、知性によって到達した最高の真理と信仰は一致するとしたが、よりその主張は激烈になっていった。例えば、知性によって導かれることとコーランが衝突する場合、どちらが正しいのかという問題がある。イブン・ルシドにとっては、それは知性が絶対に正しいのである。そのような場合はコーランの字句を文字通り受け取るべきでなく、譬喩的解釈をしなくてはならない。
つまり表面上哲学と宗教の一致を説いていても、その実はあからさまに哲学優位なのだ。それどころか、素朴な信仰は民衆の教導のためには必要なことであるから認めるとしても、神学などはかえって知性を曇らせる害悪であるとして、神学者は憐れむべき「病人」であるとされた。
そして哲学者は、自己の見解を他の人びとに漏らしてはならないとまで考えた。それは結局、愚昧な民衆はもちろん神学者などにも、知性によって到達した真理など理解できようはずもないからである。そして究極的には、哲学者にとって宗教など必要ないとまで言い切った。なぜなら、真理にまで到達するには理性のみで足りるのであり、コーランは必要ないのである。
こうした極めて無神論的な思想は、もはやイスラーム思想からはみ出していた。このような思想を土台にした微塵も妥協を許さないアリストテレス理解は、もはやそれ自体が異端であり、この学統を継ぐものはイスラーム世界には一人も現れなかった。また、西方イスラーム世界自体がイブン・ルシドとともに凋落し、キリスト教徒によるレコンキスタによってスペインの領土を失い雲散霧消してしまう。世界史上の大思想家とよべるイブン・ルシドは、イスラーム世界にはほとんど何の影響も残さずに消え去ってしまったのである。
しかしイブン・ルシドの全著作は13世紀にはラテン語訳され、カトリック世界でラテン・アヴェロイストたちの活躍を見るのである。しかしその思想において、カトリック世界のアヴェロイストたちもあくまでキリスト教の枠内で活動していたわけで、イブン・ルシドの方がより徹底して理性至上主義者であったといえよう。
2015年3月28日土曜日
『イスラーム思想史』 井筒 俊彦 著(その3)
彼はファーラビーの著書を通じて深遠なギリシア哲学を知った。そして何事も徹底的に知り尽くさなければ気が済まない彼は、遂に哲学に一生を捧げようと決心したのであった。その彼こそが、17歳のイブン・スィーナー、後の西洋哲学において「アヴィセンナ」の名で知られる大哲学者である。
イブン・スィーナーの人生は浮沈の激しいものであった。医者として権力者の絶大な信頼を勝ち取った時期もあったし、逆に放浪や牢獄、監禁の日々も経験した。社会の動乱に巻き込まれ、悲惨な人生を送ることを余儀なくされた。だがその中でも、彼の迸る知性は留まることを知らず、『治癒』(医学の本ではなく学問の全体系を述べる)や『指示と勧告』、そして17世紀に至るまでの西洋医学で絶大な権威を持ち続けた『医学典範』などの重要な哲学的著作群をものしていったのである。
彼の哲学史上の意義を一言で述べるなら、それは「アリストテレス的イスラーム哲学の完成」である。それまで断片的・個別的であったイスラーム哲学を、彼は緻密な一つの体系へと組み立てた。しかもそれは一つ哲学のみではない。彼はルネサンス的万能人の先駆けであって、大げさに言えば、この世のあらゆる学問を体系化し、その中でイスラーム哲学を位置づけたのであった。
その全体像を手短にまとめることは不可能なので、個人的に関心を持ったところを二三触れるに留めよう。
イブン・スィーナーはまさにデカルトの先駆者であった。彼の哲学の中核をなすのは「存在」と「存在者」という概念なのだが、その「存在」は直観によって一挙に把握され、それ以外に把握の途がないと考えた。
それを説明するため、イブン・スィーナーは「空中浮遊人間」という譬えを使う。仮にある人間が、目も見えず耳も聞こえず、己の四肢すら認識できず、空中に浮いていて地面を感じることすらできないとする。つまり環境と一切の相互作用ができないという状態を想像する。さて、ただ思惟だけしかできないその人間は、自分が「存在」していると認識できるだろうか? 自分というものが存在していると、何も証明する客観的事実がないとしても?
イブン・スィーナーは「できる」と考えた。なぜなら、まさしく彼は自ら思惟しているのだから。存在していないものは思惟できないではないか。後世に至って、デカルトが徹底的な懐疑主義の果てにたどり着いた「我思う、ゆえに我あり」という哲学の第一原理を、イブン・スィーナーも発見していたわけだ。
しかも興味深いのは、彼はこの「我の存在」を確証付けるものが、論理的な思考ではなくて「直観」であるとしたということだ。ここでいう「直観」とは、ファーラビーが言った「能動的知性」の働きかけによってなされるもので、要するに「どうしてそうなのか厳密には説明できないが、そうであるという確信が天啓によって生まれるもの」というような意味である。
そしてこれは、彼の思想的後輩であるデカルトも全く同じことを言っているのである。例えば先ほど軽率にも説明を付け加えたように、「我の存在」の基礎には「存在していないものは思惟できない」という大前提があるようにも見える。すなわち、三段論法的に言えば、大前提「存在していないものは思惟できない」、小前提「私は思惟している」、結論「ゆえに私は存在している」、という理屈によっているのではないだろうか?
としたら、「我の存在」という最も基本的な、哲学の土台となるような概念のその前に、既に「存在していないものは思惟できない」という一般原理が存在していることになる。しかしこのような考えをイブン・スィーナーもデカルトも共に否定した。「我の存在」はそういった理屈によるものではなくて、それ以前の「直観」で確証されるのだ、ということは、この二人の各々の哲学体系において非常に重要な点なのである。
彼はこういう調子で、ファーラビーが註解したアリストテレスの哲学を、彼独自の見解を交えながらイスラームの哲学として再解釈し、新プラトン的アリストテリスムの壮大な伽藍をイスラーム世界に構築したのであった。
しかしもっと面白いことがある。彼は『治癒』の書に代表される巨大なスコラ哲学体系の書を残したが、それは彼の本当の哲学思想を自由に展開したものではなかった。『治癒』の冒頭にも、「これから叙述する哲学は必ずしも自分自身の思想そのものではないので、二つを混同しないで欲しい」というようなことを述べている。つまり、彼はそれまで知り得たギリシア哲学をイスラーム的コンテクストの中で再把握して緻密に体系化し、いわばこれまでの哲学を総決算するという大事業を行ったのだが、それは彼の内面的思索そのものではなかったのである。
天才イブン・スィーナーは、それまでの哲学の体系とは全く別に、本当に自分のものと言えるような哲学を創り出そうと企て、それを彼は「東方哲学」と名付けた。しかし彼の最も大きな主著『公正な判断の書』全20巻がほとんど散佚してしまった現在、その「東方哲学」を再現する手立てはない。ただそれは、グノーシス的な「光の哲学」であったらしい。『治癒』のスコラ哲学的な静的世界観ではなく、神秘主義的な照明哲学だったのである。
というのも彼は、大学者であると同時に、詩文に優れた神秘主義者でもあった。『鳥物語』『愛について』など美しくみずみずしい言葉で綴られた神秘主義的小著をも残している。イブン・スィーナーに至って、イスラーム思想の二大潮流「思弁哲学(スコラ哲学)」と「神秘主義(スーフィズム)」は、「東方哲学」として統合されたのに違いない。しかしそれが永遠に失われてしまったということは、思想史上の大きな損失であると同時に、歴史の悪戯としての魅力的なエピソードでもある。
イブン・スィーナーの哲学はやがて西洋哲学に継承され、アヴィセンニスム(アヴィセンナ主義)を生むが、それは彼が本当に作りたかった哲学ではなくて、彼がまとめた既知の哲学を元にしたものだったのである。
2015年3月24日火曜日
『イスラーム思想史』井筒 俊彦 著(その2)
マアムーンは知性的な君主であり、自身が神学的・哲学的思索を好んだ。彼は特にギリシア哲学の研究を組織的に行わせたため、非常なる熱意でギリシア思想の翻訳・理解が進められた。これにより、イスラーム世界にはプラトン、アリストテレスなどの諸著作が高水準の翻訳で流布された。特にアリストテレスの思想は強大な影響力を持ち、イスラーム思想に流れる巨大な伏流水となるのである。
そしてその伏流水がイスラーム世界に流れ込む取水口となったのが、新プラトン主義である。新プラトン主義とは、紀元3世紀ごろにプロティノスによって提唱され、後世に至ってプラトンの思想と混淆してプラトンに帰せられたもので、この時代のイスラーム世界ではプラトンの思想そのものと思われていた。
だがその内実はプラトンの思想とは全く異なり、プラトンのイデア論を土台にしながらも世界の創造を「一者」からの(意図しない)「流出」と見て理解するものだった。この思想はキリスト教世界にも流行していたが、一神教世界で新プラトン主義が受容されたのには理由がある。
というのも、プラトンにしろアリストテレスにしろ、ギリシア哲学者は多神教の世界観で哲学を育んできたわけで、一神教の世界観、つまり至高の存在が世界を統べているという考え方とは齟齬する部分がある。そのため、ギリシア哲学を受容したイスラーム思想は、いきおい折衷主義的にならざるをえなかった。その折衷策の一つが新プラトン主義だったわけだ。
つまり、イスラーム世界はアリストテレスの哲学を継承してはいたが、それは新プラトン主義を通じて理解されたアリストテレスであった。換言すれば、純粋なアリストテレスそのものというより、潤色されたアリストテレスだったのである。その上、今では偽作と判明している諸著作もアリストテレスのものであると誤解されて、新プラトン主義の流布に巨大な影響を及ぼしたのであった。
そういう、新プラトン的アリストテリスムをイスラーム世界で確立したのが、最初のイスラーム哲学者と呼ばれるキンディーという人である。キンディーはアッバース朝の初期、マアムーンと次のムアタスィムという2人のカリフからの庇護の下、あらゆる学問に通暁した百科全書的な知識を土台にギリシア哲学の研究に邁進した。彼の哲学史的な意義は、新プラトン的アリストテリスムをムアタズィラ派のイスラーム神学と一致させようとしたことにあり、これがイスラーム思弁神学(スコラ哲学)の源流の一つなのである。
アリストテリスムを土台にしてイスラーム哲学を生みだしたのが、「第二の師」と呼ばれるファーラビーである(ちなみに「第一の師」はアリストテレス)。ファーラビーはアリストテレスの諸著作にたくさんの注釈を施してイスラーム的なアリストテレス理解を推し進めた。しかも彼は真理と理性を非常に重視し、哲学的思惟によって到達したことならば、たとえコーランと衝突しようともそれを主張したのだという。
そしてファーラビーの新プラトン的アリストテレス理解は後に西欧に移入され、甚大な影響をもたらすことになる。そこで、やや煩瑣になりすぎるきらいもあるが、ここで新プラトン的アリストテリスムについてほんのサワリだけ説明しておこう。
全ての結果には原因がある、という因果律を承認するならば、その原因にも原因があるはずで、因果の鎖はどんどん遡っていく。そしていつかはそれ以上遡り得ないものにまで行き着くのであるが、それがプロティノスのいう「一者」(または「第一原因」)である。これは全ての原因であるのだから、時間的には世界の始まりにあったはずである。そして、それは森羅万象あらゆるものの元になった原因なのだから、世界そのものの存在も「一者」に帰せられる。つまり世界の創造は「一者」によるものである。
この理論を提唱したプロティノスは、この「一者」をあらゆるものを超越した「無」であると考えたが、ファーラビーはこれをそのようなものとは考えなかった。ファーラビーがいくら真理を愛する哲学者であろうとも、やはり彼は敬虔なムスリムであったので、世界を創造したのは「神」でなくてはならなかった。
すなわちファーラビーは、この「一者」をプロティノス的な「無」ではなく、いかなる質料をも持たない(つまり現実世界における存在を持たない)絶対的叡智体、すなわち超越的な「知性そのもの」の神として表象し、「第一存在」と呼んだ。これがイスラームにおける新プラトン的アリストテリスムの基礎となる概念の一つである。
「第一存在」は全ての原因となる超越的な始原であり、そこから世界の全ては「流出」する。原因と結果の長い鎖が連なって全宇宙が構成されるわけで、このような世界観では、宇宙は大変スタティック(静的)なものになる。
やや乱暴な譬えをすれば、この宇宙は広大な玉突きゲームのようなもので、最初の玉(第一存在)の動きさえ決まればあとの玉の動きは全て決まってしまうというのが新プラトン的アリストテリスムの宇宙観であった。だがそうなると、世界の全ては受動的にしか動けないということになる。そんな世界で、果たして人間が自由に思考することというのは可能なのだろうか? 真理を求めて思索するその知性すら、因果の秩序に固定された、予め決められたものだというのだろうか?
ファーラビーはこの疑問に対し、「能動的知性」というものを考案した。我々の知性は、生まれつき備わっているものではあるが、それはあくまでも潜在的に知的活動できる(可能的知性)というだけで、それだけでは真の意味で(つまり思考力を能動的に使うという意味で)知的に働くことはできない。だが、そこに高次の世界(形而上の世界)から「能動的知性」というのが働きかけて、それによって我々の知性は働くことができるのだという。
つまり、先ほどの譬えをもう一度使うのなら、普段の世界は玉突きゲーム的なのであるが、そこに「能動的知性」というキュー(玉突き棒)が高次の世界からにゅっと現れて我々の知性をそれまでの因果の秩序に縛られない方向に動かし得るというわけなのだ。
このような説明をすると、あまりに現実離れした夢想的な感じがしてしまうのであるが、現在の言い方で言えば、この「能動的知性」は「(創作の)霊感」とか「インスピレーション」といったようなものと近く、作家が「(アイデアなどが)降りてこないと書けない」とかいうのと同じような部分がある。この「能動的知性(intellectus agens)」はファーラビー以降の哲学で大きな問題となり、やがてイスラーム哲学を継承した西洋中世哲学にも取り入れられて喧しい議論が展開されていく。
さて、少し話題を変えて、また時は8世紀に戻る。元々は素朴な商人たちのための宗教という側面が強かったイスラームであったが、イスラーム世界が広大な領域を征服していくにつれ、ムスリムたちの生活は次第に現世享楽的なものになっていく。もはやイスラームは支配者の宗教であったので、それも無理からぬことであった。
しかしそうなると、元々イスラームが持っていたはずの精神性が蔑ろにされていると感じる人たちも多くなってくる。そして人びとの間には、我々は便利で豊かな生活に狎れて本来の神の教えを忘れてしまったのでではないか、という深刻な悩みが澎湃としてわき起こってきた。そしてその中から、現世的なもの全てを捨てて人生をただ神への祈りへと献げる、という過激な修行の路に進むものがでてきた。
これは最初期には、いわば無念無想の念仏三昧のように、心をなくして神の唱名をひたすらやるような修行だったらしい。しかしこの極めて実践的な活動でも、新プラトン的アリストテリスムの強大な影響からは逃れることはできなかった。やがて修行者たちは哲学的思索を行うようになり、そこからイスラームの神秘主義思想であるスーフィズムが生まれるのである。
スーフィズムがイスラームにもたらした重要な要素は、神に対する熱烈な「愛」という概念である。この神を焦がれる気持ちは恋愛にも擬せられ、やがてペルシア文学に大きな影響を与えることになる。抒情詩人たちは、神と人の関係を優婉な乙女と青年との切ない恋になぞらえ、 独特な官能的詩境を展開していった。元は現世的なものを全て捨てることから始まったスーフィズムから皮肉にも官能的な世界が生みだされ、この官能性は後世のイスラーム文学の一大特徴となっていくのである。
(つづく)
【3/27アップデート】
読みなおしてみると、ファーラビーを語る上でやはり「能動的知性」の問題は外せないように思われたので、「能動的知性」の説明を追記した。
2015年3月19日木曜日
『イスラーム思想史』井筒 俊彦 著

本書は、イスラームの黎明からおおよそ13世紀に至るまでのイスラーム世界の哲学を概観するものである。
ということは、約700年ほどの期間と、地中海世界という広大な世界における哲学史であり、とてもこのような小著では語り尽くせないテーマである。こういう本は、要領よく思潮を要約して、教科書風の記述になりがちなのであるが、著者はそういう方法をとらず、記述を第1級の人物に限定した上でその思想を丁寧に解きほぐすというやり方をした。
つまり内容が厳選される代わり、より深く思想の流れを理解できるわけで、私のような初学者にとってはたいへん親切な本であると思う。
もちろん、そのために物足りない面もある。特に感じるのは、思想の背景となる社会情勢についての説明が簡潔すぎることである。思想というものは、思想家の形而上の世界に遊ぶだけのものだけではなくて、現実の世界、現実の生活なしには理解し得ないものであるから、当時の人びとの生活ぶりといったものがもう少し知りたいと思った。
という短所もあるにはあるが、このような小著で巨大なイスラーム思想史を取り扱うのだから、そういう文句は言う方がおかしいかもしれない。イスラーム思想というものを学ぶ際に、本書は最初に手に取るべき1冊と言えるだろう。
さて、いつもならばここで読書メモを終えるのであるが、自分自身の備忘のため、本書の内容を記しておく(これは本書の要約ではなく覚書である)。
まず、イスラーム思想の源流は、言うまでもなくコーランと預言者ムハンマドにある。ムハンマドが生きていたころは、思想的問題が生じればムハンマドに裁定を仰げばよかったので体系的思想の必要はなかったが、ムハンマドの死後、様々に起こってくる問題をイスラームに則ってどのように解決すればよいのか、ということを考究するため、まずは「法学」としての思潮が勃興してきた。
このイスラーム法学は、要するにコーランや預言者の生前の言行(ハディース)などから演繹(推論)される法学である。しかし難しいのは、コーランは詩文であるため論理的に無矛盾ではないし、預言者の言行もいわば臨機応変なところがあり、一貫しているわけではないということだ。つまり、コーランを単に論理的に解釈するだけでは体系的な法学を構成することができない。そこで、どのように論理(推論)を進めるかということでいろいろな立場が生じ、いわばイスラーム論理学としての法学が生まれたのであった。
さて、元来は素朴な宗教であったイスラームは、どんどんと周辺地域を飲み込んでいったため、各地にあった在来の高度な宗教・哲学と対峙しなくてはならなかった。キリスト教、ゾロアスター教、ギリシア哲学、ペルシア思想といったような、長い伝統と思索の厚みをもつ宗教・哲学の影響を受けずに済むことはできなかったのである。イスラームは、その教義から惹起される諸問題に対して、それらと比肩する水準で回答を出さなくてはならなかった。
そういう諸問題のうち、非常に重要なのは「宿命」にまつわる問題である。世界の全てを支配する全知全能の神を信仰する宗教においては、「宿命」や「自由意志」をどう考えたらよいのかということが神学的に難しい。全能の神が全てを取り仕切っているなら、この世に存在する社会悪すらも神の意志ということになるし、人間には全く自由意志というものはないことになる。コーランの字句を素直に読むならば、このように世界の全ては神のはからいと見なさざるを得ない。こう考えたのがジャブル派と呼ばれる人たちだ。
しかし、そうだとすれば最高善であるはずの神が、自ら悪業を生みだしているということになる。このころはびこっていた社会悪、世の中の動揺、それらは全て神の仕業ということになるのだろうか? そんなことがあるはずがない、人は、自らの行為を自ら創造するのだ、と考えたのがカダル派である。時はウマイヤ朝の末期のことであった。
ジャブル派とカダル派は、「宿命」について全く逆の考えを持っていたわけで、両派の間では激烈な議論がわき起こった。そして人間の自由意志の有無を論じているうちに、次第に合理主義的思考が発達し、初期イスラームにおける最大の思想運動である「ムアタズィラ」がカダル派のうちから勃興してくるのである。
アッバース朝の初期、カリフ・マアムーンは学問を愛し、古代ギリシアの書物の翻訳事業や学者の優遇などを行った。ムアタズィラの教義はこのマアムーンによって公認され、ムアタズィラ派の人びとの権勢は絶頂となった。が、これを敵視する「正統派」の人びとによって後に徹底的に破壊され、ムアタズィラ派の著書はなんと一冊も残されていない。我々は、その反対者が批判のために書いた文章によってその教義を断片的に知ることができるだけである。
その教義の最も先鋭的な点は、真理の標準として「理性」に絶対的権威を置いたことである。すなわち、ムアタズィラ派では、真理は神の啓示と預言者の言葉によって示されるのではなく、理性によって到達できると考えた。その帰結として、真理に到達できるのは独りイスラームのみならず、ギリシア思想、ペルシア思想、キリスト教、ユダヤ教などどんな宗教・思想を土台にしても可能であるとし、ここにイスラームは他の先進的な思想と同列に並び、神学の世界を飛び出し、哲学的思索への路を踏み出したのである。
ムアタズィラ派の考えでは、神もそれまでとは違ったものとして認識された。それまで神と言えば、天空を覆う巨大な人格的存在と思われていたが、合理主義を推し進めたムアタズィラ派からすれば、そのような絵空事を承認するわけにはいかなかった。そして神がどのような属性を持っているのか、という探求が行われ、次第に神は思弁的なものとして変容していく。そうして神は、人間の認識できるどんな具象的形態をも持っていない無限の絶対者となった。そこには、人間の悩みや苦しみを親身になって聞いてくれる慈父のような神はもう存在しなかった。神は形而上の存在へと隠れてしまったのである。
しかし一般の素朴な人びとにとって、そのように思弁的・抽象的な神の観念はとても受け入れることができない。もっと暖かい、包み込んでくれるような神を求めるのが普通の信仰者であった。こうして、ムアタズィラ派への大規模な反対運動である「アシュアリーの運動」が起こってくるのである。
アシュアリーは自身が熱心なムアタズィラの信奉者であった。だが一種のイスラームの近代化・合理化であったムアタズィラがカリフによって公認され、政府によってムアタズィラの合理主義が強制されるようになると、普通の人びとの間には「素朴な信仰に還るべき」という一種の懐古主義が瀰漫してくる。そういう反ムアタズィラの思潮を受け、イスラームの「宗教改革」を行ったのがアシュアリーその人であった。
アシュアリーは15日間の思索の後、突然ムアタズィラの教義を捨て去り、新しい教義を説き始めた。それは、一口に言えば「コーランに還れ」というもので、コーランの字句を文字通り信仰することを求めたものであった。それは最初、単なる復古運動的なものであったが、理性の人であったアシュアリーはそれを復古に終わらせず、コーランを土台に新たな理性主義を打ち立てていった。それは、理性と信仰を対決させるのではなく、中道を進むやり方であった。アシュアリーは近代的理性を持った信仰人のあり方をイスラームに体現した人であった。
一方、そのような「素朴な」立場でない、神学的な面からもムアタズィラ派への反発が起こってきた。例えば、当時天下に並ぶものない神学者でアシュアリー派の一員だったイマーム・ル・ハラマインは、認識論、神の属性、存在(実体と遇有)、言語論、善悪論など様々な点からムアタズィラ派への詳細な批判論証を行った。
だがその内容はまさに「神学論争」であり、いくら熱烈に神について論じても却って神の姿を見失い、思弁の泥濘の中に沈んでいく感もあり、その面ではムアタズィラと少しも変わるところがなかった。本来宗教に課されていたはずの「魂の救済」が、議論の彼方に霞んでしまっていたのである。
そういう、神学と信仰の袋小路に悩み抜いたのが、イマーム・ル・ハラマインの高弟ガザーリーだ。ガザーリーは師の死後、バグダードのニザーム学園の教授となり、幾多の俊英を擁してその令名は天下に轟き、名実ともにイスラーム世界における哲学・神学の最高権威だった。しかし彼は燦然と輝く社会的地位にありながら、信仰と理性の矛盾に引き裂かれて心に沸き上がる疑問を抑えることができなくなり、西暦1095年、名声も地位もなにもかも捨てて彷徨の旅へ出た。
そしてガザーリーは、瞑想によって直接神に触れるのでなければ、決して真の救いは得られないという確信に至った。その確信の上に構築された彼の哲学・神学は、それまでの思弁的なものとは全く違うものとなっていったのである。
ガザーリーの存在は、イスラームにおけるデカルトである、と私は思う。彼はまず全ての出発点を「自己」の認識に置く。と同時に、徹底して懐疑的なガザーリーは「認識」そのものをも疑う。そして感性的認識は全く信頼できないとし、例えば数学的命題のような疑い得ない公理に基づいた悟性的認識によってのみ真の認識が可能であると説いた。
しかしガザーリーは、「悟性」そのものにすら全幅の信頼を置くことはなかった。たとえ悟性によって疑い得ない論証ができるにしても、それは悟性という原理が最高権威であることの証左にはならないからだ。悟性すら超越する存在があることを否定はできないのである。
こうしてガザーリーは、悟性は人間精神の全体に権威を有するのではなく、むしろ悟性の力が及ぶ範囲は限定されていると考え、悟性の絶対的主権が認められている領域を「知」と名付けた。そして「知」に対するものとして、信仰、つまり心の世界である「信」を置いた。ガザーリーにとって「知」は論理的に明澄で疑うところのない世界であり、それ以外はことごとく「信」の世界に属する。例えば、神学や形而上学といったものですら、いかに論証が多用されようともそれは「知」ではなく「信」の世界であった。なぜなら、悟性の領域、「知」の世界には異論や論争があるはずもないからである。
このように明澄な「知」の世界を切り出したガザーリーは、逆に「信」の世界においては信仰の内面化を重視し、頑迷固陋で形式主義に堕したパリサイ主義的イスラームに対して痛烈な批判を加え、そこに清新な信仰の息吹を改めて吹き込もうとした。伝統や形式のみに煩い当時のイスラームは宗教の権威を高めるのには役だっても、個人の精神性を育むためには無力だった。
ガザーリーは、この固形化し枯渇した信仰を再び個人の心の温床に移すことによってその生命を甦らせようとしたのである。そして道に迷う一般大衆を教導するため、大作『宗教諸学の甦生』を著したのだった。
(つづく)
2015年2月16日月曜日
『薩摩国見聞記一英国婦人の見た明治の日本 』エセル・ハワード著、島津久大訳
明治後期に島津家の当主となった島津忠重とその弟たちの家庭教師であったエセル・ハワード女史のエッセイ。
私は、明治の鹿児島はどんな様子であったのかという興味から本書を手に取ったのだが、このアテは全く外れてしまった。というのは、忠重は学習院で教育を受けるため上京するのだが、ハワード女史が家庭教師を務めるのは忠重が東京に行ってからの話なのである。
ということで、『薩摩国見聞記』の表題は不正確である。鹿児島へ行った時の様子も数ページ記載があるがほとんどは東京の暮らしの描写なので、どうしてこのような表題をつけたのか全く分からない。
さて、ハワード女史というのは島津家の近世史を語る上で異色な存在である。父の死去に伴って若くして家督を継がざるを得なかった忠重のために、忠重の後見人ら(松方正義など)はイギリス人のハワード女史を起用するのである。華族の子弟の教育に外国人を起用するというのは、全国的に見ても異例のことであったに違いないし、島津家としても初めてのことであった。
しかも、勉学のための家庭教師ではない。起居を共にし、生活全般を取り仕切る、いわば代理母としての役割がハワード女史にあてがわれたのであった。ではこのとき実母はどうしていたのか? 実は古くからの慣習で、子育ては乳母がやるということになっており実母は子の教育にはノータッチだったらしい。本書にも1行も実母の記載はない。
ハワード女史は日英の文化に横たわる非常なる懸隔に戸惑いながら、旧弊を改め新しい時代の人間形成にむけ奮闘する。とはいえ例えばキスはしないなど、人間形成というより単なる慣習による部分については日本のやり方を尊重する。行間から覗くのは、先進国たる英国から進んだ文化を教えようとする高踏的姿勢ではなく、ものすごい早さで近代化を成し遂げつつあった日本人への敬意、そして忠重公への愛である。
こうして彼女から受けた教育は、当時としてかなり開明的であったに違いなく、華族制度が廃された後、島津家が没落することなくそれなりに社会的地位を保てたのは、この先進的教育のお陰もあったのではないかと想像される。
また、本書を読むと明治後期の日本社会の様子が垣間見られるようで面白い。というか、私の関心はむしろそちらにあり、些細な記述の一つ一つが興味深かった。
表題はほとんどウソだが、明治後期の日本と島津忠重が受けた教育について生き生きとした記述で知ることができる本。
【関連書籍の読書メモ】
『逝きし世の面影』渡辺 京二 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2016/02/blog-post_24.html
外国人が残した記録によって辿る、徳川期の日本の残照。
失われた日本の「手触り」を感じられる珠玉の論考。