2015年3月28日土曜日

『イスラーム思想史』 井筒 俊彦 著(その3)

西暦980年、ボハーラーに近いある村に、イスラーム思想史上屈指の大天才が生まれる。彼は高貴な生まれではなかったが、教育熱心な父親に恵まれて早くからその才能を開花させた。彼はその天分もさることながら大変な努力家でもあったため、ものすごい早さで数学、論理学、物理学、医学、そして哲学を学んでいった。

彼はファーラビーの著書を通じて深遠なギリシア哲学を知った。そして何事も徹底的に知り尽くさなければ気が済まない彼は、遂に哲学に一生を捧げようと決心したのであった。その彼こそが、17歳のイブン・スィーナー、後の西洋哲学において「アヴィセンナ」の名で知られる大哲学者である。

イブン・スィーナーの人生は浮沈の激しいものであった。医者として権力者の絶大な信頼を勝ち取った時期もあったし、逆に放浪や牢獄、監禁の日々も経験した。社会の動乱に巻き込まれ、悲惨な人生を送ることを余儀なくされた。だがその中でも、彼の迸る知性は留まることを知らず、『治癒』(医学の本ではなく学問の全体系を述べる)や『指示と勧告』、そして17世紀に至るまでの西洋医学で絶大な権威を持ち続けた『医学典範』などの重要な哲学的著作群をものしていったのである。

彼の哲学史上の意義を一言で述べるなら、それは「アリストテレス的イスラーム哲学の完成」である。それまで断片的・個別的であったイスラーム哲学を、彼は緻密な一つの体系へと組み立てた。しかもそれは一つ哲学のみではない。彼はルネサンス的万能人の先駆けであって、大げさに言えば、この世のあらゆる学問を体系化し、その中でイスラーム哲学を位置づけたのであった。

その全体像を手短にまとめることは不可能なので、個人的に関心を持ったところを二三触れるに留めよう。

イブン・スィーナーはまさにデカルトの先駆者であった。彼の哲学の中核をなすのは「存在」と「存在者」という概念なのだが、その「存在」は直観によって一挙に把握され、それ以外に把握の途がないと考えた。

それを説明するため、イブン・スィーナーは「空中浮遊人間」という譬えを使う。仮にある人間が、目も見えず耳も聞こえず、己の四肢すら認識できず、空中に浮いていて地面を感じることすらできないとする。つまり環境と一切の相互作用ができないという状態を想像する。さて、ただ思惟だけしかできないその人間は、自分が「存在」していると認識できるだろうか? 自分というものが存在していると、何も証明する客観的事実がないとしても?

イブン・スィーナーは「できる」と考えた。なぜなら、まさしく彼は自ら思惟しているのだから。存在していないものは思惟できないではないか。後世に至って、デカルトが徹底的な懐疑主義の果てにたどり着いた「我思う、ゆえに我あり」という哲学の第一原理を、イブン・スィーナーも発見していたわけだ。

しかも興味深いのは、彼はこの「我の存在」を確証付けるものが、論理的な思考ではなくて「直観」であるとしたということだ。ここでいう「直観」とは、ファーラビーが言った「能動的知性」の働きかけによってなされるもので、要するに「どうしてそうなのか厳密には説明できないが、そうであるという確信が天啓によって生まれるもの」というような意味である。

そしてこれは、彼の思想的後輩であるデカルトも全く同じことを言っているのである。例えば先ほど軽率にも説明を付け加えたように、「我の存在」の基礎には「存在していないものは思惟できない」という大前提があるようにも見える。すなわち、三段論法的に言えば、大前提「存在していないものは思惟できない」、小前提「私は思惟している」、結論「ゆえに私は存在している」、という理屈によっているのではないだろうか?

としたら、「我の存在」という最も基本的な、哲学の土台となるような概念のその前に、既に「存在していないものは思惟できない」という一般原理が存在していることになる。しかしこのような考えをイブン・スィーナーもデカルトも共に否定した。「我の存在」はそういった理屈によるものではなくて、それ以前の「直観」で確証されるのだ、ということは、この二人の各々の哲学体系において非常に重要な点なのである。

彼はこういう調子で、ファーラビーが註解したアリストテレスの哲学を、彼独自の見解を交えながらイスラームの哲学として再解釈し、新プラトン的アリストテリスムの壮大な伽藍をイスラーム世界に構築したのであった。

しかしもっと面白いことがある。彼は『治癒』の書に代表される巨大なスコラ哲学体系の書を残したが、それは彼の本当の哲学思想を自由に展開したものではなかった。『治癒』の冒頭にも、「これから叙述する哲学は必ずしも自分自身の思想そのものではないので、二つを混同しないで欲しい」というようなことを述べている。つまり、彼はそれまで知り得たギリシア哲学をイスラーム的コンテクストの中で再把握して緻密に体系化し、いわばこれまでの哲学を総決算するという大事業を行ったのだが、それは彼の内面的思索そのものではなかったのである。

天才イブン・スィーナーは、それまでの哲学の体系とは全く別に、本当に自分のものと言えるような哲学を創り出そうと企て、それを彼は「東方哲学」と名付けた。しかし彼の最も大きな主著『公正な判断の書』全20巻がほとんど散佚してしまった現在、その「東方哲学」を再現する手立てはない。ただそれは、グノーシス的な「光の哲学」であったらしい。『治癒』のスコラ哲学的な静的世界観ではなく、神秘主義的な照明哲学だったのである。

というのも彼は、大学者であると同時に、詩文に優れた神秘主義者でもあった。『鳥物語』『愛について』など美しくみずみずしい言葉で綴られた神秘主義的小著をも残している。イブン・スィーナーに至って、イスラーム思想の二大潮流「思弁哲学(スコラ哲学)」と「神秘主義(スーフィズム)」は、「東方哲学」として統合されたのに違いない。しかしそれが永遠に失われてしまったということは、思想史上の大きな損失であると同時に、歴史の悪戯としての魅力的なエピソードでもある。

イブン・スィーナーの哲学はやがて西洋哲学に継承され、アヴィセンニスム(アヴィセンナ主義)を生むが、それは彼が本当に作りたかった哲学ではなくて、彼がまとめた既知の哲学を元にしたものだったのである。

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