2016年1月18日月曜日

『風景と人間』アラン・コルバン著、小倉孝誠 訳

「感性の歴史家」として知られるアラン・コルバンが風景について語った本。

風景は、単なる美しい景色ではない。その景色が美しいものだと評価する文化によってつくられる「解釈」であり、自然というよりも文化的所産である。

風景が文化的所産であるなら、時代の移り変わりによってそれは変わりうるのであり、実際変わってきた。特に18世紀から20世紀の間は、風景への評価システムが大きく変わった時期で、本書はこの間の風景にまつわる様々なトピックのインタヴューによって構成される。

第1章は「風景は諸解釈の錯綜である」というやや韜晦な定義から始まり、風景を風景たらしめている評価システム、そして五感への作用について考察する。五感への作用といっても、いわば「無垢な知覚」は存在しないと述べ、予め「こういうものが素晴らしいものだ」と学習された知覚が風景の素晴らしさを成立させていると指摘する。

第2章では、近代西洋において風景への評価システムが大きく変わり、現代的風景観が成立する過程を述べる。といっても経年的に歴史を辿るものではなく、18世紀以前の人たちと現代の我々で、どういった感性の違いがあったかということをいくつかの事例で説明するものである。例えば、波濤が砕けるようなドラマティックな海は、現代では崇高な風景として認識されうるが、18世紀以前にはそれは危険で怖ろしいものでしかなかった。そういった感覚の違いを生んだものはなんだったか。

第3章では、風景の評価における「旅」の意味を探る。風景は立ち止まって嘆賞するものであるとしても、そこへと移動することそのものも評価に影響を及ぼす。特に近代風景の評価システムが変容したのは、18世紀以前までの旅とは違う、観光旅行という新たなスタイルの旅が成立したことの影響が大きい。自転車や鉄道、そして自家用車といったものは、距離や速度といった面で風景(場)と人間の関わり方(接触の仕方)を変え、風景と人間との関係も変えたのである。また、本章の最後では嘆賞すべき風景を教えるものとしての「ガイドブック」の重要性が指摘されている。ガイドブックは観光案内であるだけでなく、何を喜ぶべきなのかを予め旅行者に刷り込むものであり、今や「風景」はガイドブックによって創られるものなのである。

第4章では、四季、夜、霧などが風景への評価へ及ぼす影響についてややとりとめなく語る。特に霧についての考察は面白いが、本章は風景というテーマからはみ出ている部分があるように思われる。

第5章では、風景を保存することについて、フランスの自然景観保護の政策に触れながら論じる。素晴らしい景観は保存した方がよいと普通ならば考えるが、風景が文化的所産であると考える著者は、風景の保存は生きた文化を博物館に入れてしまうようなものにならないかと危惧している。かといって保存するのがよくないとも言わない。風景を保存するということは、政治による規制の是非というだけでなく、文化的にも実は難しい問題を孕んでいることを指摘している。

全体を通じ、インタヴュー形式であるためまとまりに欠け、結局何が言いたいのかよくわからないところがあるが、その考察は独創的でインスピレーションに富んでおり、風景を考える上でのヒントに溢れた本である。

【関連書籍】
『トポフィリア―人間と環境』イーフー・トゥアン著、小野 有五・阿部 一 訳
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2016/03/blog-post.html
人間が環境をどのように受容するかについて、情緒的な部分に注目して語った本。


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