2016年1月20日水曜日

『現代文 正法眼蔵(1)』石井 恭二 著

西洋哲学の概念なども使い、現代文へ意訳された正法眼蔵。

著者は石井恭二氏。仏教や哲学の研究者ではなく、編集者であり出版者。その解釈は確かだと言われるが、著者自身この訳業が相当な意訳と自分なりの解釈に基づいていると自覚しており、それが「現代語訳」でなく「現代文」としている理由だという。

私は『正法眼蔵』の原文をジックリ読んだことはないので、著者の訳出がどこまで正確なのか判断することができない。しかし原文を注釈無しで読んでも、私などには全く意味が摑めないから、どの道誰かの注釈に基づく理解しかできないので、現代文として読みやすいと評判の本書を手に取った。

原文で読むとそもそも何が書いてあるのかよくわからない部分が多いが、さすがに本書ではそういうことはない。主張が理解できないところはたくさんあって、それあたかも哲学書を読んで頭の中がこんがらがる状態と同じようなものである。しかし、読めないということはなくて、何が書いてあるのかはよくわかる。

第1巻には「第1 現成公按」から「第15 光明」までを収める。『正法眼蔵』は体系的に何かを論証するような本ではなく、今風に言えばエッセイ集のようなもので、その内容を手際よく要約するようなことは不可能である。基本的な構成としては、禅のエピソード(誰々がこういった時、誰それはどうした)を紹介し、それについて解説するものである。そのエピソードが本当にそういう考えでなされたかどうかはともかくとして(こじつけのような解釈も見られる)、道元の考え方が開陳されていて面白い。

道元といえば「只管打坐」、と普通は言われる。つまり、余計なことを考えずひたすらに座禅・瞑想に打ち込むことで覚りに達するというわけだ。答えは自己の中に既にあり、それを再発見することが重要だという方法である。確かに本書の大きなテーマは「自己」である。「現成公按」の冒頭、「自己は幻想である」から始まり、至る所に「自己」への言及が見られる。

しかし全体(第1巻)を概観すれば、道元は決してただ座禅するだけで十分だと述べていない。むしろ、臨済宗の「看話禅(かんなぜん)」的な部分が多い。看話禅とは、公案と呼ばれる不思議な(一見意味不明な)命題について研究し、それを理解することで覚りに至ろうとするもので、曹洞宗(道元が属する宗派)はこれを理念的すぎると批判したが、道元自身はこの方法論をかなりの程度採用しているように思われる。

道元は若い頃『碧巌録』を書写していたらしい。『碧巌録』とは公案のアンチョコ集のようなものである。本来は自らの頭で意味を考えるべき公案を解題し、その意味を教える攻略本的な参考書であるため、『碧巌録』の流行には批判も相当あったらしい。先述の「禅のエピソードの解説」というのは、まさに公案の解題のようなものであり、『正法眼蔵』は道元版の『碧巌録』なのではないかと思った。

現代語釈で道元の思想に気軽に触れることができる良書。

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