チベットの「ゾクチェン」の尊者が語る悟りへの道。
本書は、チベット密教とチベット土着のボン教につたわる「ゾクチェン(大いなる完成)の教え」の修行者であるナムカイ・ノルブが講演などで語った内容を文字に起こしたものである。
前半はナムカイ・ノルブの半生が語られ、後半は「ゾクチェンの教え」についての概説が述べられる。
ナムカイ・ノルブの半生は劇的である。彼は幼いころに高徳な尊者の転生仏(生まれ変わり)と認められ、幼くしてエリート教育が施される。彼は学業を優秀にこなしたので若年にして大学に入り、高度な宗教理論と儀式の手法を身につける。しかし自らのラマ(師匠)と出会い、それらの知識を本当には全くわかっていなかったという衝撃を受ける。彼のラマとなったチャンチュプ・ドルジェは高度な教育を受けていなかったどころか文盲であり、高僧のようでもなく、俗人と変わらぬ暮らしをしていながら、真理の体得者だったのである。
後半の「ゾクチェンの教え」の概説については、私にチベット密教の基礎知識がないために十分理解したとは言い難い。ゾクチェンとは、「リクパ」と呼ばれる三昧の状態(普通の仏教用語では「禅定」が近い)に入り、それを持続させることを目指すものである(と私は理解した)。
この「リクパ」とは、二元論(善か悪か、彼か我か、これかあれか、といった思考の枠組み)を越え、あらゆる制約から解き放たれて思考が澄み渡り、透明に覚醒した状態なのだという。しかもこの状態に至ると、感覚の物理的制約からも自由となり、千里眼とか他人の心を読む能力すら手に入る(ただしそれは副次的な成果であって、それを目的に修行がなされるわけではない)。この三昧の状態にいる人間が、いかに優れた特質を示すかということは本書の随所で述べられる。
ところが本書を読んでいてよくわからなかったのが、まさにこの「リクパ」に至った修行者、ゾクチェンを完成した者の具体的イメージなのである。例えば、彼はこの三昧の状態にいるとき、肉親の訃報に接したらどんな反応を示すのだろうか。感情を超越して平静を保つのか、それとも素直に悲しむのか、あるいは人それぞれなんだろうか。もっと卑近な状況を考えると、リクパの中にある人が車の運転をしていたら、どんな運転になるのだろう。注意深い安全運転なのか、高速で暴走するのか、どっちなのかイメージが摑めないのだ。
ゾクチェン——大いなる完成、という言葉からは、その修行者が穏和で円満な人格となっているかのような印象を受けるがそれは違う。本書に描かれる尊者には、狂人のような生活をする人や、ひどい癇癪持ち、他人など歯牙にも掛けないような態度の人もいる。一方でナムカイ・ノルブのラマ、チャンチュプ・ドルジェは多くの人に敬慕される人格者であった。一体全体、ゾクチェンとは何を目指すものなのか。少なくともそれが人格的完成を目指すものではないことは明白である。
ゾクチェンが目指すものは、禅宗の悟りに近い。私は本書を読んで盤珪禅師の「不生禅」を思い出した。「不生禅」とは、人は生まれながらにして必要なものは全て備わってると考え、人はあるがままで悟りの境地にいるとするものである。ゾクチェンの教えも「ひとりひとりの個人そのものに生まれつきそなわっている本性なのである(p.28)」とされ、「この境地にはいることは、あるがままの自分を経験すること」(同)なのだという。
もちろん「あるがままの自分」でいることは難しいことだから(そもそも「あるがままの自分」とは何だろうか)、このために厳しい修行が求められる。そこが苦行を不要とした盤珪との違いとなっているが、他にも禅宗との類似点はある。例えば両者とも悟りを平安で寂滅な状態としては描いていない。むしろあらゆる制約から自由になった能動的な状態と見なしている。そして悟りを非日常的なものではなく、むしろ日常生活全体が悟りの世界たりうると考えるのも禅宗と通じるところである。私はチベット密教の知識が薄弱なため、本書を禅宗の考え方を土台として読んだから、特にそう感じたのかもしれない。
本書を読んでもう一つ感じたのは、「ゾクチェンの教え」による心の働かせ方が、心理療法におけるカウンセラーの心の働かせ方と非常に似通っているということである。例えば「この自然な状態から善や悪、多様な思考の動きがわき起こってきたら、(中略)覚醒を保って、そこにあらわれてくるすべての思考をただ認めてやればいい(p.200)」とか、「嫌悪がわき起こっても、その感情をコントロールしようとしたり、逆にそれにまどわされたりせずに、覚醒したままでいることが必要だ(p.204)」などという心の在り方は、まさにカウンセラーがクライアント(患者)と向かい合うときに必要とされる態度なのである。
「ゾクチェンの教え」には、迷信的に感じられる部分(千里眼とか、超自然的存在の顕現など)も多いのであるが、その心の働かせ方については現代の心理療法と通じているのである。しかもそれは治療法(どうやったら心の病気が治るか)においてではなく、治療者(カウンセラー)の心の持ち方(どうやって患者に向き合うか)においてなのだ。してみると、ゾクチェンとは自分で自分の治療者となる方法ということなのだろうか。
不思議な「ゾクチェンの教え」を垣間見ることができる良書。
【関連文献】
『プロカウンセラーの共感の技術』杉原 保史 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2016/09/blog-post_20.html
プロのカウンセラーである著者が、相談を受ける立場として身につけたい共感の技術を解説した本。
2019年2月25日月曜日
2019年2月24日日曜日
『石と人間の歴史—地の恵みと文化』蟹澤 聰史 著
世界各地の地質の説明と、それに付随する文化の話。
著者は東北大学名誉教授で地質学を専門とする。本書は、地質学の調査で訪れた各地の見事な景観や地形を紹介することを中心として、それに著者が定年退官してから触れるようになった美術史、歴史学、民俗学、宗教学といった文系学問の話題をちりばめ、地質と文化の繋がりについても述べた本である。
構成としては、概ね古い地質の地域から新しい地質の地域へと進んでいる。日本にはそれほど古い地質がないから、特に原生代と呼ばれる時代のことなどは興味深く読んだ。
「第1部 古い大陸とその周辺の石」では北欧が取り上げられ、「石の国」イギリスについて述べられる。イギリスは地質学を作った国であり、ストーンヘンジだけでなく様々な石の文化があるそうだ。
「第2部 テチス海の石」は「テチス海」を中心として地中海諸国の地質が述べられる。「テチス海」とは、石炭紀に存在した超大陸パンゲアの東にあった海で、パンゲアが分裂すると北のローラシア大陸と南のゴンドワナ大陸に挟まれた海になり、徐々にその海が狭まってできた名残が今の地中海なのだという。地中海の石の文化というとギリシアとローマの壮大な石造建築物が思い浮かぶ。あれらを育んだ大理石は、テチス海の珊瑚礁によって厚く堆積した石灰岩が変成したものだ。
「第3部 アジアの古い大陸とテチス海の石」では、モンゴル、アンコール遺跡、中国について触れている。アジアの石文化というとアンコール遺跡、中国の万里の長城は当然として、そこにモンゴルが取り上げられていたのが意外だった。モンゴルは後期原生代から新生代にかけての地層や火成岩、変成岩類が複雑に分布していて、地質的に面白いところなんだそうだ。ちなみに中国の能書家として知られる顔真卿が、唐の時代に化石について正しい認識をしていたというのが興味深かった。「滄桑之変(滄海変じて桑田と為す)」とは修辞的な表現ではなく、撫州の刺史(県知事)として彼が赴任した際、近くの麻姑山に巻き貝や二枚貝の殻が見られるのは海底が隆起して山になったためだと考えたことから出来た言葉だという。
「第4部 新しい活動帯の石」では、トルコ、イタリア、日本といった火山国・地震国が取り上げられ、 火山国ならではの特徴的な景観(トルコのカッパドキア、イタリアのヴェスヴィオ火山など)について述べられる。日本は木と紙の文化と言われるが、石造物も意外とあって、例えば城郭の石垣などは技術的にも造形的にも見事だという。日本は地震が多いことと、加工に適した石が少なかったことなどから壮大な石造建築物は発展せず、その代わり小さな石仏など民衆的なものとして石の文化が育まれたという。
「第5部 天から降ってきた石と地の底から昇ってきた石」では、隕石と地球深部から溶岩や凝灰岩中に取り込まれて湧き上がってきた「捕獲石」が取り上げられている。
全体として、地質学に疎い人間でも楽しめるように様々な話題がちりばめられており、飽きない本である。一方、体系的な説明はないので、例えば石の種類がよくわからない私のような人間には、もう少し地質学の説明をして欲しかったという部分もある。
石と人間の歴史について大上段に何かを論じるのではなく、半ばエッセイ風に地質に親しむ本。
著者は東北大学名誉教授で地質学を専門とする。本書は、地質学の調査で訪れた各地の見事な景観や地形を紹介することを中心として、それに著者が定年退官してから触れるようになった美術史、歴史学、民俗学、宗教学といった文系学問の話題をちりばめ、地質と文化の繋がりについても述べた本である。
構成としては、概ね古い地質の地域から新しい地質の地域へと進んでいる。日本にはそれほど古い地質がないから、特に原生代と呼ばれる時代のことなどは興味深く読んだ。
「第1部 古い大陸とその周辺の石」では北欧が取り上げられ、「石の国」イギリスについて述べられる。イギリスは地質学を作った国であり、ストーンヘンジだけでなく様々な石の文化があるそうだ。
「第2部 テチス海の石」は「テチス海」を中心として地中海諸国の地質が述べられる。「テチス海」とは、石炭紀に存在した超大陸パンゲアの東にあった海で、パンゲアが分裂すると北のローラシア大陸と南のゴンドワナ大陸に挟まれた海になり、徐々にその海が狭まってできた名残が今の地中海なのだという。地中海の石の文化というとギリシアとローマの壮大な石造建築物が思い浮かぶ。あれらを育んだ大理石は、テチス海の珊瑚礁によって厚く堆積した石灰岩が変成したものだ。
「第3部 アジアの古い大陸とテチス海の石」では、モンゴル、アンコール遺跡、中国について触れている。アジアの石文化というとアンコール遺跡、中国の万里の長城は当然として、そこにモンゴルが取り上げられていたのが意外だった。モンゴルは後期原生代から新生代にかけての地層や火成岩、変成岩類が複雑に分布していて、地質的に面白いところなんだそうだ。ちなみに中国の能書家として知られる顔真卿が、唐の時代に化石について正しい認識をしていたというのが興味深かった。「滄桑之変(滄海変じて桑田と為す)」とは修辞的な表現ではなく、撫州の刺史(県知事)として彼が赴任した際、近くの麻姑山に巻き貝や二枚貝の殻が見られるのは海底が隆起して山になったためだと考えたことから出来た言葉だという。
「第4部 新しい活動帯の石」では、トルコ、イタリア、日本といった火山国・地震国が取り上げられ、 火山国ならではの特徴的な景観(トルコのカッパドキア、イタリアのヴェスヴィオ火山など)について述べられる。日本は木と紙の文化と言われるが、石造物も意外とあって、例えば城郭の石垣などは技術的にも造形的にも見事だという。日本は地震が多いことと、加工に適した石が少なかったことなどから壮大な石造建築物は発展せず、その代わり小さな石仏など民衆的なものとして石の文化が育まれたという。
「第5部 天から降ってきた石と地の底から昇ってきた石」では、隕石と地球深部から溶岩や凝灰岩中に取り込まれて湧き上がってきた「捕獲石」が取り上げられている。
全体として、地質学に疎い人間でも楽しめるように様々な話題がちりばめられており、飽きない本である。一方、体系的な説明はないので、例えば石の種類がよくわからない私のような人間には、もう少し地質学の説明をして欲しかったという部分もある。
石と人間の歴史について大上段に何かを論じるのではなく、半ばエッセイ風に地質に親しむ本。
『百代の過客—日記にみる日本人』ドナルド・キーン著、金関 寿夫 訳
平安時代から徳川時代までの日本の日記文学を紹介する本。
著者にれば、日記が文学形式として小説や随筆に劣らず重要だと思われている国は日本以外にはないという。有名無名の大勢の日本人が、平安時代から今に至るまで日記を書き続け、しかもそれを日々の記録としてだけでなく文学的鑑賞の対象として捉えてきた。
しかし、この日本人の日記世界を俯瞰するような研究はこれまでになかった。そこで著者はその多くの日記を網羅的に読み、そこに描かれた作者の姿を探るという探求を行った。
ここにはよく知られた著名な日記(少なくとも文学として捉えられている日記)はほぼ全て取り上げられている。平安時代12、鎌倉時代17、室町時代22、徳川時代27の項目が立てられ、1項目に1つ以上の日記が取り上げられている場合があるから80以上の日記が触れられる。もちろんそこには全体の繋がりやバランスを重視した取捨選択がされているとはいえ、近世以前の日記世界を理解するには十分すぎるほどの内容だ。
しかも著者は、これらの日記を(悪い意味で)「文学的に」読むことをしない。かつて日記(だけでなく文学作品全般)は、和漢の典籍からの引用や本歌取り、込み入った修辞技法や古事を踏まえた表現など、華麗な名文を評価する傾向があった。誰に読ませるつもりで書いたわけではない日記でさえ、こうした名文をものそうと推敲を重ねた人は多く、そして実際そのような点が評価もされてきたのである。しかし著者は、そうした表現を作者の教養の高さを表すものとは認めても、むしろ「少なくとも私には、いささかじれったい」(p.240『十六夜日記』への言及)とし、それよりも作者の人間性の発露と呼ぶようなものを厖大な日記から丹念に探っていくのである。
多くの名文とされた日記は、個性的であるよりもいわば「歴史的」であることを目指して書かれていた。例えば多くの旅日記は、旅の様子をありのままに記すのではなく、各地の歌枕を訪ね、古人の歩んだ道、古人の見た風景を「追体験」することに主眼を置いていた。知られていない新鮮な風景や壮大な絶景に心を躍らすよりは、誰もが古典を通じて知っている、そして今となってはさほど情趣のない場所で古い時代の有様を想像する方が、ずっと「文学的」であると思われていたのである。要するに日本人は日記においても、作者個人の感性を表現するより、いかに古事を踏まえたその場に似つかわしい表現を当て嵌めるかということに心を砕いてきたのだ。
しかしそうであっても、やはり日記というものは個人的な性格のものである。古典の知識を引けらかすような形式張った日記でさえ、ふとした拍子に作者の内心がこぼれ出てしまう場合がある。著者はそういった一文を、徹底的に探している。それを著者は「今日私が知る日本人と、いさかでも似通った人間を、過去の著作の中に見いだす喜びのため」に行ったという。
そういう視点であるから、本書は一見すると日記をひたすら紹介するだけの無味乾燥な本と思われるかもしれないが、さにあらず、非常に興味を持ってそれらの作品に接することができる本である。それは著者なりの視点で日記を読み解き、つまらない点はつまらないと明言する一方、興味の引かれる点については遠慮なく詳述しているからで、平坦な文学評論とは全く違い、日記を通じて作者の人間性に触れる工夫が施されている。
さらに、やはり網羅的に日記世界を俯瞰してみると時代によってかなり変遷があり、それを見ることも本書の興味深い点である。例えば平安時代の女性の日記が、その内省的な性格において日記文学の一つの精華となったにも関わらず、宮廷の衰微とともにその伝統が廃れ、鎌倉時代の『竹むきが記』を最後に女性が日記を書くということは約300年も途絶してしまうのである。こうした変遷は、大量に日記を並べてみないと見えてこないことで、本書の面目躍如たるところであろう。
こうして、日記に描かれた(あるいは当然にそこにあったにも関わらず敢えて描かれなかった)ことを通じ、一種の日本人論にまでなっていることが本書の特徴である。個別の日記を知るための事典的な本として読むのも可能だが、ぜひ通読をお薦めする。
本書を読むと、とにかくこの過去の日記を読みたくなること請け合いである。日記文学案内としても最良な上、それに留まらない価値を持っている名著。
【関連書籍】
『明治天皇』ドナルド・キーン著、角地 幸男 訳
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/12/blog-post.html
明治天皇の生涯を軸にたどる明治の歴史。厖大な資料を駆使して明治天皇の実像を浮かび上がらせた大著。維新の功臣たちの日記も縦横に参照されている。
著者にれば、日記が文学形式として小説や随筆に劣らず重要だと思われている国は日本以外にはないという。有名無名の大勢の日本人が、平安時代から今に至るまで日記を書き続け、しかもそれを日々の記録としてだけでなく文学的鑑賞の対象として捉えてきた。
しかし、この日本人の日記世界を俯瞰するような研究はこれまでになかった。そこで著者はその多くの日記を網羅的に読み、そこに描かれた作者の姿を探るという探求を行った。
ここにはよく知られた著名な日記(少なくとも文学として捉えられている日記)はほぼ全て取り上げられている。平安時代12、鎌倉時代17、室町時代22、徳川時代27の項目が立てられ、1項目に1つ以上の日記が取り上げられている場合があるから80以上の日記が触れられる。もちろんそこには全体の繋がりやバランスを重視した取捨選択がされているとはいえ、近世以前の日記世界を理解するには十分すぎるほどの内容だ。
しかも著者は、これらの日記を(悪い意味で)「文学的に」読むことをしない。かつて日記(だけでなく文学作品全般)は、和漢の典籍からの引用や本歌取り、込み入った修辞技法や古事を踏まえた表現など、華麗な名文を評価する傾向があった。誰に読ませるつもりで書いたわけではない日記でさえ、こうした名文をものそうと推敲を重ねた人は多く、そして実際そのような点が評価もされてきたのである。しかし著者は、そうした表現を作者の教養の高さを表すものとは認めても、むしろ「少なくとも私には、いささかじれったい」(p.240『十六夜日記』への言及)とし、それよりも作者の人間性の発露と呼ぶようなものを厖大な日記から丹念に探っていくのである。
多くの名文とされた日記は、個性的であるよりもいわば「歴史的」であることを目指して書かれていた。例えば多くの旅日記は、旅の様子をありのままに記すのではなく、各地の歌枕を訪ね、古人の歩んだ道、古人の見た風景を「追体験」することに主眼を置いていた。知られていない新鮮な風景や壮大な絶景に心を躍らすよりは、誰もが古典を通じて知っている、そして今となってはさほど情趣のない場所で古い時代の有様を想像する方が、ずっと「文学的」であると思われていたのである。要するに日本人は日記においても、作者個人の感性を表現するより、いかに古事を踏まえたその場に似つかわしい表現を当て嵌めるかということに心を砕いてきたのだ。
しかしそうであっても、やはり日記というものは個人的な性格のものである。古典の知識を引けらかすような形式張った日記でさえ、ふとした拍子に作者の内心がこぼれ出てしまう場合がある。著者はそういった一文を、徹底的に探している。それを著者は「今日私が知る日本人と、いさかでも似通った人間を、過去の著作の中に見いだす喜びのため」に行ったという。
そういう視点であるから、本書は一見すると日記をひたすら紹介するだけの無味乾燥な本と思われるかもしれないが、さにあらず、非常に興味を持ってそれらの作品に接することができる本である。それは著者なりの視点で日記を読み解き、つまらない点はつまらないと明言する一方、興味の引かれる点については遠慮なく詳述しているからで、平坦な文学評論とは全く違い、日記を通じて作者の人間性に触れる工夫が施されている。
さらに、やはり網羅的に日記世界を俯瞰してみると時代によってかなり変遷があり、それを見ることも本書の興味深い点である。例えば平安時代の女性の日記が、その内省的な性格において日記文学の一つの精華となったにも関わらず、宮廷の衰微とともにその伝統が廃れ、鎌倉時代の『竹むきが記』を最後に女性が日記を書くということは約300年も途絶してしまうのである。こうした変遷は、大量に日記を並べてみないと見えてこないことで、本書の面目躍如たるところであろう。
こうして、日記に描かれた(あるいは当然にそこにあったにも関わらず敢えて描かれなかった)ことを通じ、一種の日本人論にまでなっていることが本書の特徴である。個別の日記を知るための事典的な本として読むのも可能だが、ぜひ通読をお薦めする。
本書を読むと、とにかくこの過去の日記を読みたくなること請け合いである。日記文学案内としても最良な上、それに留まらない価値を持っている名著。
【関連書籍】
『明治天皇』ドナルド・キーン著、角地 幸男 訳
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/12/blog-post.html
明治天皇の生涯を軸にたどる明治の歴史。厖大な資料を駆使して明治天皇の実像を浮かび上がらせた大著。維新の功臣たちの日記も縦横に参照されている。
2019年2月10日日曜日
『鹿児島古寺巡礼―島津本宗家及び重要家臣団二十三家の由緒寺跡を訪ねる』川田 達也 写真・文、野田 幸敏 系図監修
墓所から見る島津家とその家臣団。
薩摩藩の島津家には、姻戚関係で結ばれた重要家臣団23家があった。本書は、島津本宗家および家臣団といういわば島津一族を体系的に紹介するものである。しかもその手法が変わっていて、由緒寺跡を巡ることで家臣団の世界に入っていく仕掛けになっている。
由緒寺「跡」というのは、鹿児島では廃仏毀釈で全ての寺院が取りつぶされているためで、本書のタイトルは「古寺巡礼」を冠しているが、実際に巡っているのは寺跡、もっと具体的に言えば墓地なのである。よって本書は、墓地を訪れることで往時の島津家・家臣団を偲ぶというものだ。
墓地を訪れるといっても、著者はただ墓参りをするわけではない。墓地に残された遺物から歴史を読み解くだけでなく、石塔や石積み、石仏や仁王像といった今に残されたものの美を感じ、端正な写真によってそれを表現した。本書はテキスト部分だけ見ると島津一族の歴史を紹介する本なのであるが、写真部分は古寺跡の美しさ・奥深さを伝えるものとなっており、墓所という具体的なモノを通じて島津一族を縦覧できる稀有な本である。
しかも著者の視点が清新なのは、廃仏毀釈に対する姿勢である。廃仏毀釈を嘆き糾弾する人は多いのだが、 実際に破壊された寺跡を大事にしようとする人は少なく、多くの廃寺跡が顧みられることもないまま、朽ち果てつつある。それはいわば「現在進行中の廃仏毀釈」なのだという。地域の人や子孫によって細々と維持管理されているところもあるが、それもこれから先どうなっていくか分からない。
そうしたことから、「廃仏毀釈を批判し、その悲惨さを伝えるためでは」なく、「少しでも多くの人が鹿児島にあった古寺や歴史に興味を持ち、さらには現地を訪れて」ほしいとの願いで本書は書かれている(本書まえがきより)。そしてその言葉通り、本書には全ての由緒寺跡の詳細な地図がついており、廃寺跡の見方・見どころもしばしば案内されている。例えば、「これほど大きな石仏が無傷で残っているのは奇跡と言ってよい」(真如院)、「自然の中に溶け込み始めた墓塔が、わびしくも美しい風景を作り出している」(長善寺)など。本書を読めば、廃寺跡での歴史の謎解きと写真撮影に繰り出したくなるだろう。
なお、著者がまだ30代というのも本書の驚くべき点である。著者の廃寺跡巡りの目的意識を考えると、そのスコープは島津一族だけに限らないはずであり、鹿児島にまだまだある名刹跡を取り上げた次回作を期待したい。
廃寺跡を通じて鹿児島の歴史や島津一族を知ることができる、新しい視点の歴史歩きの本。
薩摩藩の島津家には、姻戚関係で結ばれた重要家臣団23家があった。本書は、島津本宗家および家臣団といういわば島津一族を体系的に紹介するものである。しかもその手法が変わっていて、由緒寺跡を巡ることで家臣団の世界に入っていく仕掛けになっている。
由緒寺「跡」というのは、鹿児島では廃仏毀釈で全ての寺院が取りつぶされているためで、本書のタイトルは「古寺巡礼」を冠しているが、実際に巡っているのは寺跡、もっと具体的に言えば墓地なのである。よって本書は、墓地を訪れることで往時の島津家・家臣団を偲ぶというものだ。
墓地を訪れるといっても、著者はただ墓参りをするわけではない。墓地に残された遺物から歴史を読み解くだけでなく、石塔や石積み、石仏や仁王像といった今に残されたものの美を感じ、端正な写真によってそれを表現した。本書はテキスト部分だけ見ると島津一族の歴史を紹介する本なのであるが、写真部分は古寺跡の美しさ・奥深さを伝えるものとなっており、墓所という具体的なモノを通じて島津一族を縦覧できる稀有な本である。
しかも著者の視点が清新なのは、廃仏毀釈に対する姿勢である。廃仏毀釈を嘆き糾弾する人は多いのだが、 実際に破壊された寺跡を大事にしようとする人は少なく、多くの廃寺跡が顧みられることもないまま、朽ち果てつつある。それはいわば「現在進行中の廃仏毀釈」なのだという。地域の人や子孫によって細々と維持管理されているところもあるが、それもこれから先どうなっていくか分からない。
そうしたことから、「廃仏毀釈を批判し、その悲惨さを伝えるためでは」なく、「少しでも多くの人が鹿児島にあった古寺や歴史に興味を持ち、さらには現地を訪れて」ほしいとの願いで本書は書かれている(本書まえがきより)。そしてその言葉通り、本書には全ての由緒寺跡の詳細な地図がついており、廃寺跡の見方・見どころもしばしば案内されている。例えば、「これほど大きな石仏が無傷で残っているのは奇跡と言ってよい」(真如院)、「自然の中に溶け込み始めた墓塔が、わびしくも美しい風景を作り出している」(長善寺)など。本書を読めば、廃寺跡での歴史の謎解きと写真撮影に繰り出したくなるだろう。
なお、著者がまだ30代というのも本書の驚くべき点である。著者の廃寺跡巡りの目的意識を考えると、そのスコープは島津一族だけに限らないはずであり、鹿児島にまだまだある名刹跡を取り上げた次回作を期待したい。
廃寺跡を通じて鹿児島の歴史や島津一族を知ることができる、新しい視点の歴史歩きの本。
2019年1月20日日曜日
『漂流怪人・きだみのる』嵐山光三郎 著
嵐山光三郎がきだみのるの晩年を描く本。
きだみのるは、名著『気違い部落周游紀行』の著者。フランス語とギリシア語を操り、桁違いの教養と学識を持ちながら、世間のはみ出し者として各地を漂流し、行く先々で知り合いの家に押しかけて家の中を絶望的に汚し散らかしていった破天荒な人物。著者嵐山はきだの晩年に担当編集者となり、一時期行動を共にする。
きだは謎の少女ミミくんと共に旅をしていた。やがてミミくんはきだの隠し子であることがわかってくる。きだはどこでも女と関係を持ち、分かっているだけで7人もの子どもがいたが、ミミくんは晩年に生まれた最後の子どもだった。
本書の前半部分は、きだの破天荒ながら憎めない人柄と学識の背景を伝える評伝となっている。 『気違い部落周游紀行』に至るまでの道と、それから「部落」を著作の中心テーマに据えてからの活躍について。この部分は、これはこれで興味深い。本書を手に取る人は、誰しも「きだみのる」を知るためにページをめくるであろうから、その期待に応える内容が書かれている。
しかし後半部分は、思わぬ方向に話が展開していく。 ミミくんをどう育てていったらよいのかというきだの葛藤と、周囲の心配が重奏していくのである。ミミくんは学齢期に達しながら小学校に通っていなかった。きだが定住していなかったからだ。きだが各地を巡る中で実践的な教育を施してはいたが、きだは教育者としては不安定すぎ、父親としては性的に放縦すぎた。そもそも、自分が父親であることをミミくんに明かしていなかった。
そして、ミミくんはきだの子どもというよりも、むしろミューズに近かった。きだは各地を巡る際に、ミミくんの目を通して社会を観察していた。学識のないミミくんの反応を手がかりに、素のままの社会の有様を摑もうとした。きだにとってミミくんは必要な目であった。だからきだは、ミミくんが学校に通わなければならない年齢になっても手元から逃したくなかったのだ。きだは反国家、反権力、反文壇、反知識人で、優等生的な勉強よりも、野生の感性や土着の論理をずっと信頼していた。
しかしきだは一方で学校教育を重視していた。破天荒なくせに、学歴はひどく気にした。ミミくんに教育を施すには、どうしたって定住しなければならない。車に寝泊まりしながら全国を移動する生活では、小学校に通わせられない。だからきだは迷った。そして迷いながら決断を先延ばしにすることで、バツが悪い思いをしていた。「ミミくんをどうするつもりですか」と問われるたび、言葉を濁す有様だ。ミミくんは、いつしかきだの最大の負い目になっていた。
結局、きだはさる「熱血教師」三好京三にミミくんを養子にして教育を任すことにした。教育資金は負担した。きだは貧乏ではなかった。ミミくんにはよい教育が与えられるはずだった。しかし結果的に見れば、この決断はミミくんにとってよくないものだった。三好は破天荒に育てられたミミくんを型に嵌めようとし、矯正を試みた。さらに三好はミミくんを文学に利用し、まるで「狼少女」を育てている風なことを書いて文学賞を獲得したのである(『子育てごっこ』文學界新人賞及び直木賞)。奇妙なことに、ここでもミミくんはミューズにされた。そして真偽のほどは定かでないながら、三好はミミくんを性的にも弄んだ。
ミミくんを利用して文学界でのし上がった三好は、文学作品だけでなく多くの教育論も著したが、ミミくんが性的虐待の告発をしたり、ヌード写真集のモデルになったことでスキャンダルとなり、親子関係も崩壊。ミミくんとの養子縁組は解消された。こうした悲しい結末を迎えたのは、本書を読む限りきだの判断ミスの面が大きいように感じさせられる。ミミくんとの関係を正常化できず、親子関係を隠したまま養子に出したというそのことだけを見ても、いかにきだがミミくんという存在を持てあましていたか物語っている。
本書で知るきだみのるは、鋭い目をした社会学の異端児でもなければ、破天荒な怪人でもない。もちろんそうした面を持ちながらも、娘の扱いに悩んであたふたと醜態を演じる普通の父親であるという印象の方が、ずっと強いのである。しかし著者は、決してきだみのるの伝説のベールを剥がそうというつもりで本書を書いたわけではない。いやむしろ、本書から伝わってくるきだは、怪人的社会学者としてのきだよりも、ずっと生き生きしていて、人間味がある。立派な父親だったという評価は出来ないが、少なくとも娘の行く末を案じ、自分にできることを精一杯果たそうとした父親だったとは思える。
このように、本書はきだみのるの評伝である以上に、ミミくんをめぐる物語であり、非常なる迫力がある。特に後半は、本を置くことが出来ないほど熱中して読んだ。
破天荒な一人の男とその娘の先の見えない人生が気になりすぎる傑作。
きだみのるは、名著『気違い部落周游紀行』の著者。フランス語とギリシア語を操り、桁違いの教養と学識を持ちながら、世間のはみ出し者として各地を漂流し、行く先々で知り合いの家に押しかけて家の中を絶望的に汚し散らかしていった破天荒な人物。著者嵐山はきだの晩年に担当編集者となり、一時期行動を共にする。
きだは謎の少女ミミくんと共に旅をしていた。やがてミミくんはきだの隠し子であることがわかってくる。きだはどこでも女と関係を持ち、分かっているだけで7人もの子どもがいたが、ミミくんは晩年に生まれた最後の子どもだった。
本書の前半部分は、きだの破天荒ながら憎めない人柄と学識の背景を伝える評伝となっている。 『気違い部落周游紀行』に至るまでの道と、それから「部落」を著作の中心テーマに据えてからの活躍について。この部分は、これはこれで興味深い。本書を手に取る人は、誰しも「きだみのる」を知るためにページをめくるであろうから、その期待に応える内容が書かれている。
しかし後半部分は、思わぬ方向に話が展開していく。 ミミくんをどう育てていったらよいのかというきだの葛藤と、周囲の心配が重奏していくのである。ミミくんは学齢期に達しながら小学校に通っていなかった。きだが定住していなかったからだ。きだが各地を巡る中で実践的な教育を施してはいたが、きだは教育者としては不安定すぎ、父親としては性的に放縦すぎた。そもそも、自分が父親であることをミミくんに明かしていなかった。
そして、ミミくんはきだの子どもというよりも、むしろミューズに近かった。きだは各地を巡る際に、ミミくんの目を通して社会を観察していた。学識のないミミくんの反応を手がかりに、素のままの社会の有様を摑もうとした。きだにとってミミくんは必要な目であった。だからきだは、ミミくんが学校に通わなければならない年齢になっても手元から逃したくなかったのだ。きだは反国家、反権力、反文壇、反知識人で、優等生的な勉強よりも、野生の感性や土着の論理をずっと信頼していた。
しかしきだは一方で学校教育を重視していた。破天荒なくせに、学歴はひどく気にした。ミミくんに教育を施すには、どうしたって定住しなければならない。車に寝泊まりしながら全国を移動する生活では、小学校に通わせられない。だからきだは迷った。そして迷いながら決断を先延ばしにすることで、バツが悪い思いをしていた。「ミミくんをどうするつもりですか」と問われるたび、言葉を濁す有様だ。ミミくんは、いつしかきだの最大の負い目になっていた。
結局、きだはさる「熱血教師」三好京三にミミくんを養子にして教育を任すことにした。教育資金は負担した。きだは貧乏ではなかった。ミミくんにはよい教育が与えられるはずだった。しかし結果的に見れば、この決断はミミくんにとってよくないものだった。三好は破天荒に育てられたミミくんを型に嵌めようとし、矯正を試みた。さらに三好はミミくんを文学に利用し、まるで「狼少女」を育てている風なことを書いて文学賞を獲得したのである(『子育てごっこ』文學界新人賞及び直木賞)。奇妙なことに、ここでもミミくんはミューズにされた。そして真偽のほどは定かでないながら、三好はミミくんを性的にも弄んだ。
ミミくんを利用して文学界でのし上がった三好は、文学作品だけでなく多くの教育論も著したが、ミミくんが性的虐待の告発をしたり、ヌード写真集のモデルになったことでスキャンダルとなり、親子関係も崩壊。ミミくんとの養子縁組は解消された。こうした悲しい結末を迎えたのは、本書を読む限りきだの判断ミスの面が大きいように感じさせられる。ミミくんとの関係を正常化できず、親子関係を隠したまま養子に出したというそのことだけを見ても、いかにきだがミミくんという存在を持てあましていたか物語っている。
本書で知るきだみのるは、鋭い目をした社会学の異端児でもなければ、破天荒な怪人でもない。もちろんそうした面を持ちながらも、娘の扱いに悩んであたふたと醜態を演じる普通の父親であるという印象の方が、ずっと強いのである。しかし著者は、決してきだみのるの伝説のベールを剥がそうというつもりで本書を書いたわけではない。いやむしろ、本書から伝わってくるきだは、怪人的社会学者としてのきだよりも、ずっと生き生きしていて、人間味がある。立派な父親だったという評価は出来ないが、少なくとも娘の行く末を案じ、自分にできることを精一杯果たそうとした父親だったとは思える。
このように、本書はきだみのるの評伝である以上に、ミミくんをめぐる物語であり、非常なる迫力がある。特に後半は、本を置くことが出来ないほど熱中して読んだ。
破天荒な一人の男とその娘の先の見えない人生が気になりすぎる傑作。
2019年1月17日木曜日
『地図の歴史』織田 武雄 著
地図の歴史を豊富な図版で概観する本。
本書は「世界篇」と「日本篇」の2つのパートに分かれている。「世界篇」では、主に西洋世界において作成された世界地図の変遷が語られ、「日本篇」では、まず日本地図の変遷、そして日本における世界地図の変遷が語られている。なお、日本における世界地図の変遷については、西洋の世界地図をどのように受容したかということと等しいので、これは幕末における洋学の受容を具体的に示すテーマともなっている。
「日本篇」も大変面白いが、出色なのは「世界篇」である。世界地図の変遷というと、技術的な問題のように思われるかも知れないが、それ以上に「世界観」の変遷を物語るもので、多分に心理的側面を含んでいる。
古代・中世の地図には、未見の大陸や奇妙な異邦人(長耳人とか無頭人とか)、遠い海に住む怖ろしい怪物、誰も見たことがない世界の果てといった、空想的なものがまことしやかに描かれていた。もちろんそうしたものが実際に存在すると信じられていたのである。
しかし西洋人の知見が徐々に広がっていくと、地形の誤りが修正されていったのはもちろん、そうした空想的な存在はありはしないのだ、ということが分かってくる。大航海時代には安全な航海を行う必要から世界地図はより正確なものになってくるが、その結果何が起こったか。正確な地形を表すだけでなく、わからない部分は空白にする、という態度が生じたのである。
それまでは、既知の部分とわからない部分は、おそらく地図制作者にも明確に区別されていなかった。 つまり探査されていない部分もわかったつもりになって描かれていた。しかし近代的な地図の精神が芽生えてくると、未知の部分を空白にして残すようになった。これにより、既知と未知がはっきりと区別され、どこにさらなる探査が必要かも分かっていったのである。
世界地図の発展は、地図に書き込むことによってではなく、むしろ曖昧な要素を書き込まないことによってもたらされた。 まさにデカルトが『方法序説』を持って世に問うた「方法的懐疑」の実践がここに見られるのである。この知的な変遷を豊富な図版をもって辿ることは、スリリングでさえあった。
地図の歴史を通して人間の世界観の発展を知れる名著。
本書は「世界篇」と「日本篇」の2つのパートに分かれている。「世界篇」では、主に西洋世界において作成された世界地図の変遷が語られ、「日本篇」では、まず日本地図の変遷、そして日本における世界地図の変遷が語られている。なお、日本における世界地図の変遷については、西洋の世界地図をどのように受容したかということと等しいので、これは幕末における洋学の受容を具体的に示すテーマともなっている。
「日本篇」も大変面白いが、出色なのは「世界篇」である。世界地図の変遷というと、技術的な問題のように思われるかも知れないが、それ以上に「世界観」の変遷を物語るもので、多分に心理的側面を含んでいる。
古代・中世の地図には、未見の大陸や奇妙な異邦人(長耳人とか無頭人とか)、遠い海に住む怖ろしい怪物、誰も見たことがない世界の果てといった、空想的なものがまことしやかに描かれていた。もちろんそうしたものが実際に存在すると信じられていたのである。
しかし西洋人の知見が徐々に広がっていくと、地形の誤りが修正されていったのはもちろん、そうした空想的な存在はありはしないのだ、ということが分かってくる。大航海時代には安全な航海を行う必要から世界地図はより正確なものになってくるが、その結果何が起こったか。正確な地形を表すだけでなく、わからない部分は空白にする、という態度が生じたのである。
それまでは、既知の部分とわからない部分は、おそらく地図制作者にも明確に区別されていなかった。 つまり探査されていない部分もわかったつもりになって描かれていた。しかし近代的な地図の精神が芽生えてくると、未知の部分を空白にして残すようになった。これにより、既知と未知がはっきりと区別され、どこにさらなる探査が必要かも分かっていったのである。
世界地図の発展は、地図に書き込むことによってではなく、むしろ曖昧な要素を書き込まないことによってもたらされた。 まさにデカルトが『方法序説』を持って世に問うた「方法的懐疑」の実践がここに見られるのである。この知的な変遷を豊富な図版をもって辿ることは、スリリングでさえあった。
地図の歴史を通して人間の世界観の発展を知れる名著。
2019年1月7日月曜日
『猫たちの隠された生活』エリザベス・M・トーマス著、木村 博江 訳
猫族の生活についてエッセイ風に述べた本。
本書は、原題”The Tribe of Tiger”(虎の一族)が示すとおり、猫だけでなく広く猫族について様々なエピソードを紹介し、その共通性や相違点について検討しつつ猫族の「生活原理」ともいうべきものを探るものだ。
その第一原理は、猫族はその栄養源を肉のみに負っているということだ。雑食性のクマやイヌと異なり、猫族は肉以外、しかも自ら(か親が)仕留めた獲物の肉以外を食べることはない。それは狩りがうまくいかなければすぐに飢餓状態に陥ってしまう「崖っ縁の生き物」であることを意味する。
そのため、猫族はライオンなどを除いて基本的に単独行動が多い。多くの仲間を維持するためには大量の肉が必要になるから、群れの維持が大変なのである。だから猫族は孤独を好む、気まぐれな動物と思われている。群れの紐帯を重視し調和と統制を好む犬と違って、猫は仲間や飼い主のことをあまり気にしていないと。
しかし著者によればそれは事実ではない。ただ、社会性や愛情の「流儀」が違うだけなのだ。実際、猫族は自らの縄張り内のことを大変気に掛けている。大型猫族(ライオンのような)は、獲物となる動物の群れの構成や弱った個体の有無を常に調べており、おそらく個体を識別している。 また猫族は仲間と無用な争いを避ける、友好を示しながら一定の距離を保つ手法を心得ている。犬のようにベタベタする必要はないから、淡泊だと誤解を受けているだけなのだ。
さらに猫族が肉だけを食料とするハンターだからといって、食べられそうなものをなんでも獲物と見なすわけではない。猫族にとって動物は3つのカテゴリに分けられそうだ。食べものか、敵か仲間か。それは先験的に決まっているのではなく、その動物が食べものとして振る舞うか、敵としか振る舞うか、それとも仲間として振る舞うか、という社会的なコードによるのである。
その一例が本書で最も感動的なエピソードである、ライオンと人間(ブッシュマン)との停戦協定だ。カラハリのライオンは、丸腰に近い人間でも襲わず、家畜も襲わなかった。一方、人間もライオンには敬意を持って接した。人間がライオンに要求を伝えたいときは(例えばそこをどいて欲しいとか)、ライオンに真摯にかつ毅然として語りかけた。こうした流儀は、ブッシュマンとライオンたちの間で何世代にもわたって培われてきた文化であった。人間が武器を持っているから従っていたのではなくて、お互いに敬意を払いながら距離を保つすべが形成されてきたのだ。
だから他の地方ではライオンと人間は敵対的であったし、カラハリでもブッシュマンがいなくなるとその流儀は短い間に廃れ、ライオンとの停戦協定は消えてしまった。ライオンの文化も、人間の文化と同じように儚いものだった。
著者は人類学者。その調査でアフリカに滞在する中でライオンに興味を持ち、また別にピューマや虎とも接する機会があって、さらに自らも猫を飼っていることで、広く猫族に関する話題を集めたのが本書である。であるから、本書はあまり学術的なものではなく、○○から聞いた話、というような体験談も多く楽しく読める。何かを解明するといった本ではなくて、猫族の生き方について再考を催すような本である。
猫族の社会性について考えさせる良書。
本書は、原題”The Tribe of Tiger”(虎の一族)が示すとおり、猫だけでなく広く猫族について様々なエピソードを紹介し、その共通性や相違点について検討しつつ猫族の「生活原理」ともいうべきものを探るものだ。
その第一原理は、猫族はその栄養源を肉のみに負っているということだ。雑食性のクマやイヌと異なり、猫族は肉以外、しかも自ら(か親が)仕留めた獲物の肉以外を食べることはない。それは狩りがうまくいかなければすぐに飢餓状態に陥ってしまう「崖っ縁の生き物」であることを意味する。
そのため、猫族はライオンなどを除いて基本的に単独行動が多い。多くの仲間を維持するためには大量の肉が必要になるから、群れの維持が大変なのである。だから猫族は孤独を好む、気まぐれな動物と思われている。群れの紐帯を重視し調和と統制を好む犬と違って、猫は仲間や飼い主のことをあまり気にしていないと。
しかし著者によればそれは事実ではない。ただ、社会性や愛情の「流儀」が違うだけなのだ。実際、猫族は自らの縄張り内のことを大変気に掛けている。大型猫族(ライオンのような)は、獲物となる動物の群れの構成や弱った個体の有無を常に調べており、おそらく個体を識別している。 また猫族は仲間と無用な争いを避ける、友好を示しながら一定の距離を保つ手法を心得ている。犬のようにベタベタする必要はないから、淡泊だと誤解を受けているだけなのだ。
さらに猫族が肉だけを食料とするハンターだからといって、食べられそうなものをなんでも獲物と見なすわけではない。猫族にとって動物は3つのカテゴリに分けられそうだ。食べものか、敵か仲間か。それは先験的に決まっているのではなく、その動物が食べものとして振る舞うか、敵としか振る舞うか、それとも仲間として振る舞うか、という社会的なコードによるのである。
その一例が本書で最も感動的なエピソードである、ライオンと人間(ブッシュマン)との停戦協定だ。カラハリのライオンは、丸腰に近い人間でも襲わず、家畜も襲わなかった。一方、人間もライオンには敬意を持って接した。人間がライオンに要求を伝えたいときは(例えばそこをどいて欲しいとか)、ライオンに真摯にかつ毅然として語りかけた。こうした流儀は、ブッシュマンとライオンたちの間で何世代にもわたって培われてきた文化であった。人間が武器を持っているから従っていたのではなくて、お互いに敬意を払いながら距離を保つすべが形成されてきたのだ。
だから他の地方ではライオンと人間は敵対的であったし、カラハリでもブッシュマンがいなくなるとその流儀は短い間に廃れ、ライオンとの停戦協定は消えてしまった。ライオンの文化も、人間の文化と同じように儚いものだった。
著者は人類学者。その調査でアフリカに滞在する中でライオンに興味を持ち、また別にピューマや虎とも接する機会があって、さらに自らも猫を飼っていることで、広く猫族に関する話題を集めたのが本書である。であるから、本書はあまり学術的なものではなく、○○から聞いた話、というような体験談も多く楽しく読める。何かを解明するといった本ではなくて、猫族の生き方について再考を催すような本である。
猫族の社会性について考えさせる良書。
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