2019年2月24日日曜日

『百代の過客—日記にみる日本人』ドナルド・キーン著、金関 寿夫 訳

平安時代から徳川時代までの日本の日記文学を紹介する本。

著者にれば、日記が文学形式として小説や随筆に劣らず重要だと思われている国は日本以外にはないという。有名無名の大勢の日本人が、平安時代から今に至るまで日記を書き続け、しかもそれを日々の記録としてだけでなく文学的鑑賞の対象として捉えてきた。

しかし、この日本人の日記世界を俯瞰するような研究はこれまでになかった。そこで著者はその多くの日記を網羅的に読み、そこに描かれた作者の姿を探るという探求を行った。

ここにはよく知られた著名な日記(少なくとも文学として捉えられている日記)はほぼ全て取り上げられている。平安時代12、鎌倉時代17、室町時代22、徳川時代27の項目が立てられ、1項目に1つ以上の日記が取り上げられている場合があるから80以上の日記が触れられる。もちろんそこには全体の繋がりやバランスを重視した取捨選択がされているとはいえ、近世以前の日記世界を理解するには十分すぎるほどの内容だ。

しかも著者は、これらの日記を(悪い意味で)「文学的に」読むことをしない。かつて日記(だけでなく文学作品全般)は、和漢の典籍からの引用や本歌取り、込み入った修辞技法や古事を踏まえた表現など、華麗な名文を評価する傾向があった。誰に読ませるつもりで書いたわけではない日記でさえ、こうした名文をものそうと推敲を重ねた人は多く、そして実際そのような点が評価もされてきたのである。しかし著者は、そうした表現を作者の教養の高さを表すものとは認めても、むしろ「少なくとも私には、いささかじれったい」(p.240『十六夜日記』への言及)とし、それよりも作者の人間性の発露と呼ぶようなものを厖大な日記から丹念に探っていくのである。

多くの名文とされた日記は、個性的であるよりもいわば「歴史的」であることを目指して書かれていた。例えば多くの旅日記は、旅の様子をありのままに記すのではなく、各地の歌枕を訪ね、古人の歩んだ道、古人の見た風景を「追体験」することに主眼を置いていた。知られていない新鮮な風景や壮大な絶景に心を躍らすよりは、誰もが古典を通じて知っている、そして今となってはさほど情趣のない場所で古い時代の有様を想像する方が、ずっと「文学的」であると思われていたのである。要するに日本人は日記においても、作者個人の感性を表現するより、いかに古事を踏まえたその場に似つかわしい表現を当て嵌めるかということに心を砕いてきたのだ。

しかしそうであっても、やはり日記というものは個人的な性格のものである。古典の知識を引けらかすような形式張った日記でさえ、ふとした拍子に作者の内心がこぼれ出てしまう場合がある。著者はそういった一文を、徹底的に探している。それを著者は「今日私が知る日本人と、いさかでも似通った人間を、過去の著作の中に見いだす喜びのため」に行ったという。

そういう視点であるから、本書は一見すると日記をひたすら紹介するだけの無味乾燥な本と思われるかもしれないが、さにあらず、非常に興味を持ってそれらの作品に接することができる本である。それは著者なりの視点で日記を読み解き、つまらない点はつまらないと明言する一方、興味の引かれる点については遠慮なく詳述しているからで、平坦な文学評論とは全く違い、日記を通じて作者の人間性に触れる工夫が施されている。

さらに、やはり網羅的に日記世界を俯瞰してみると時代によってかなり変遷があり、それを見ることも本書の興味深い点である。例えば平安時代の女性の日記が、その内省的な性格において日記文学の一つの精華となったにも関わらず、宮廷の衰微とともにその伝統が廃れ、鎌倉時代の『竹むきが記』を最後に女性が日記を書くということは約300年も途絶してしまうのである。こうした変遷は、大量に日記を並べてみないと見えてこないことで、本書の面目躍如たるところであろう。

こうして、日記に描かれた(あるいは当然にそこにあったにも関わらず敢えて描かれなかった)ことを通じ、一種の日本人論にまでなっていることが本書の特徴である。個別の日記を知るための事典的な本として読むのも可能だが、ぜひ通読をお薦めする。

本書を読むと、とにかくこの過去の日記を読みたくなること請け合いである。日記文学案内としても最良な上、それに留まらない価値を持っている名著。

【関連書籍】
『明治天皇』ドナルド・キーン著、角地 幸男 訳
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/12/blog-post.html
明治天皇の生涯を軸にたどる明治の歴史。厖大な資料を駆使して明治天皇の実像を浮かび上がらせた大著。維新の功臣たちの日記も縦横に参照されている。


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