2020年3月10日火曜日

『アマテラスの変貌—中世神仏交渉史の視座』佐藤 弘夫 著

神仏習合論に新しい視座を導入する本。

神仏習合は、古代末期から中世にかけて進行した。そして神と仏は人々の信仰の中でほとんど区別されないようになり、仏教と神道は切り分けることができないほど一体化した…と考えられてきた。しかし著者によれば、それはちょっと大雑把すぎる見方ということになる。もう少しその内実を見て、そこにどのようなコスモロジー(秩序)があるのか探ってみようというのが本書の意図である。

その結論をまとめれば次のようになる。

中世の人たちは(1)仏教の宇宙観を採用し、至高の存在として遙かな仏の世界を観想しつつも、(2)現実の願いや信仰を託すものとしては身近な地域神や仏像などとして表現された此土の神仏を拝んだ。それらは彼岸の仏の垂迹ではありながら、日本という辺境の(インドから遠い)国の人々を救うために具体化した存在であると考えられ、そのローカル性から神仏の世界での重要性が低い代わりに、却って卑近な信賞必罰を託すのに適していると見なしていた(著者はこれを<怒る神>と呼ぶ)。(3)一方で極楽往生については、彼岸の仏にすがる必要のあることだった。だが彼らは遙かに遠い世界=異界に存在すると考えられたから、現実の生活に及ぼす影響はほとんどなかった(著者はこれを<救う神>と呼ぶ)。(4)中世では神仏の区分けよりも、彼岸にいる救済者となる理念的な仏(大日如来、阿弥陀如来など)と、此岸にいる具体的で裁定者となる神仏(伊勢、八幡、各地の氏神、大仏や○○寺の仏像といったような具体的表現を持つもの)という2分類の方が実態に即していたと考えられる。

著者はこうした結論を導くため、「起請文」に現れる神仏を分析している。起請文とは、「○○の約束を破ったら神仏の罰をこうむります」というように、約束事を神仏に誓う形の請け書のようなものである。実は私も起請文には興味があって調べたことがあって、著者の問題意識には共感するし、結論は穏当だ。

ただし起請文には注意すべき点がある。それは、起請文にはずらずらと神仏の名が登場するのだが、本当にこれらの神仏は信仰されていたのだろうか? ということだ。なぜなら、とりあえず挙げておけばよいとばかりに多くの神仏を挙げて誓っているし、そもそも起請文は結構簡単に破られた。本当に信仰していたのならありそうもないことが起請文には散見される。著者はその点については何も留保していない。ここは考察の上で不十分だったと思う。

ところで、本書のタイトルともなっている天照大神については、それほど詳細には語られていない。先ほどのまとめにも書いた通り、本来中世人のコスモロジーの中では至高の存在としては仏であった。しかし国家、というよりも天皇家は、自らを権威付ける必要もあり天照大神を至高神として位置づけようとした。理念的には「辺土」の国主であるという妥協を受け入れつつ、実際には至高神としての普及活動を行うことで「日本国主」天照大神は浸透していったのだという。

なお、私がそもそも本書を手に取ったのは、天照大神の像容の変化に興味があってのことだった。天照大神は女性神であると我々は考えているが、中世ではいろいろに表現されており、童子神(雨宝童子)であったり、男性神官であったりしたらしい。本書ではちょっとだけ紹介されているが、このあたりをもう少し踏み込んでもらえると天照大神のイメージの変遷がもっとよくわかったと思う。

全体を通じて、著者の提示する中世の神仏のコスモロジーは説得的だし、議論は史料に基づいていて穏当である。しかしやや話題が散漫で、考察が少なく、構成が体系的ではない。「新しい視座」を提供するものとしてヒント的な書き方をしたのだろうが、習作的な部分があることは否めない。

神仏習合に対する考え方は参考になるが、ややまとまりに欠ける本。

【関連書籍】
『神仏習合』逵 日出典 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/08/blog-post_17.html
神仏習合の概略的な説明。『アマテラスの変貌』で再考を催される神仏習合の通説は本書が参考になる。


2020年3月8日日曜日

『観応の擾乱—室町幕府を二つに引き裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』亀田 俊和 著

観応の擾乱を丁寧に解きほぐす本。

観応の擾乱とは、室町幕府の成立初期、足利尊氏とその弟直義(ただよし)の兄弟が争った内乱である。関ヶ原の合戦などと違い、どちらが勝っても足利政権なわけで、地味な内乱としてあまり踏み込まれることがないが、本書はこの乱によって室町幕府の性格が確立したと考え、史料に基づいて擾乱の経過とその意味を丁寧に解きほぐしている。

乱の発端は、尊氏の執事高師直(こうの・もろなお)を直義が排除しようとしたことだった。幕府成立当初、尊氏は政務からほとんど引退し、実権を弟直義に譲っていた。そして僅かに残した重要な政務(恩賞宛行(あておこない)、守護職補任(ぶにん))を中心に業務を高師直に補佐させていた(著者はこれは「三条殿体制」と呼ぶ。三条殿=直義)。

それが気にくわなかったらしいのが直義。師直は特に専横ということもなく、直義にも恭順だったらしいが、勘所を押さえられている気がしたのかもしれない。南朝との争い(四条畷(なわて)の戦い)においても師直には軍功があったから正論によって対抗することもできず、直義は讒言によって師直を排除しようとした。

高師直はただちに行動に出た。軍勢を率いて尊氏邸を包囲し(御所巻(ごしょまき))、直義の罷免を要求したのである。この行動には幕臣の多くが賛同していた。どうやら幕政への不満が鬱積していたようである。尊氏・直義の兄弟はなすすべなく師直の要求を受け入れ、直義は失脚し出家した。直義の実権は、尊氏の実子足利義詮(よしあきら)が引継ぎ、尊氏・師直コンビが復活した。

一方、尊氏の別の実子直冬(ただふゆ)は父からなぜか冷遇され(実子としても認められなかった)、直義の養子となっていた。直義はこの甥を目に掛けて「長門探題」として西国に派遣したが、やがて直冬は九州へ下向し独自の勢力圏をつくっていく。直冬は尊氏の命令も聞かず、九州の武将を自分の意によって動かしていた。それが気にくわなかった尊氏は直冬に出家を命じるものの無視され、遂に直冬討伐に乗り出した。

その頃、出家して引退したかに見えた直義が、密かに京都を脱出し再起を図っていた。直義の下には重要な武将が次々に寝返り、巨大な勢力に成長していった。直冬の討伐でさえままならない尊氏・師直コンビに不利を感じていた各地の武将が直義に乗り換えていったのである。こうして、尊氏は配下の武将を次々に失い、戦う前から敗軍の将のような体になっていた。そして「打出浜(うちではま)の戦い」の激戦に負け、直義軍と講和した。

講和条件は、高師直・師泰(もろやす、師直の兄弟)の出家だったが、実際には高一族は講和後に斬殺された。ところで直義は尊氏に圧勝したものの、彼自身は戦には非常に消極的だった。味方への恩賞宛行(恩賞として領地を与えること)も一切行っていない。合戦にも参加することなく、別の国から傍観するだけだった。直義は幕政に不満を抱く武将に担がれただけのようだった。

そういう消極性からか、講和後の政権の体制は意外なほど尊氏に有利で、基本的には擾乱以前の「三条殿体制」を復活させることとなった。消極的な直義とは対照的に、尊氏は擾乱以前には決して見せなかった強烈な気概を見せはじめ、恩賞宛行権を保持することに成功したのである。

敗軍の将が恩賞宛行権を持っているのだから、勝者への恩賞が十分に与えられるわけがない。もちろん尊氏もその権利を自由に行使できたわけではない。にしても消極的なだけで十分に直義派への弱体化に寄与した。その上、直義自身にも積極的に恩賞を与える気がなかったようだ。守護職の補任もほとんど現状維持に留まった。官途の供与も限定的だった。これでは直義のために生命をかけて戦った武将たちが不満に思うのもやむを得ない。直義は南朝との講和だけは熱心に取り組んだがこれは不成功に終わった。

こうして新たな三条殿体制は直義の失政(=消極性)により瓦解した。風向きが悪くなり孤立気味になった直義は京都を脱出。時を同じくして南朝との戦闘も再開され、直義が実権を握っていることに不満な義詮や直義派の武将によってなし崩し的に観応の擾乱第二幕が始まった。ただし今回は尊氏も直義もあまり戦う意義を感じておらず武将の間にも厭戦気分が漂っていた。

失政により多くの武将からの支持を失っていた直義はあえなく敗北。戦乱の中で唯一の実子も失い、戦う意欲を阻喪した結果であった。一方尊氏は南朝との講和に成功し、皇統を南朝に統一することに同意した(正平の一統)。

直義死去後の体制は、東日本を尊氏が、西日本を義詮が治める東西分割統治体制であった。政権のメインは義詮が担い、尊氏は軍勢だけを引き連れて東国に臨んだ形だったが、恩賞宛行や守護職の補任を積極的に行い、東国経営を成功させた。

そんな中、三種の神器を南朝に渡すなど、尊氏方は講和条件を誠実に履行していたにもかかわらず、南朝が一方的に講和を破棄し幕府を滅ぼそうと攻勢に出た。南朝と尊氏軍は「武蔵野合戦」で激突し、尊氏軍は辛くもこれに勝利し東国での覇権を固めた。一方で西国では南朝軍との衝突が散発していたことなどから、尊氏自身がこれに対処するため分割統治体制を解消、尊氏が統一政権を担った。

また九州では、南朝の懐良親王、九州探題一色道猷、そして足利直冬の三つ巴の戦いが行われていたが、直冬は南朝に帰順し幕府と敵対。しかし実父と戦うつもりはあまりなかった直冬は自ら先頭に立つこともないうちに尊氏に撃破された(その後死亡)。

この観応の擾乱を、著者は「実に奇怪な内乱」と評する。短期間で形勢が極端に変動して離合集散が繰り返され、しかも戦いの目的がはっきりせず、当事者たちは戦う気があまりなかったのに戦乱が続いたからだ。その理由は従来様々に考察されてきたが、著者の考えは武将たちへの恩賞が少なく、功労に報いることが少なかったことに本質的な原因があったのではないか、ということだ。

実際、尊氏は擾乱を経て諸政策で広い意味での恩賞を充実させた。積極的な恩賞宛行や守護職の任命、訴訟制度の簡素化と迅速化(幕府に帰順したものへの優遇)などがそれに当たる。このようにして擾乱を契機として室町幕府は「努力が報われる政治」へと舵を切っていったのである。

ちなみに本書を読みながら気になったことがいくつか。 直義も義詮も寺社の所領保護にかなり気を遣っているように見受けられるが、そこにはどのような事情があったのか。擾乱以前は武将の権利よりも寺社のそれを優遇しているようにすら見える。寺社からどのような利益を得ていたのだろうか。それに関連して、室町幕府の財政事情についても気になった。本書を読む限り室町幕府は独自財源を持たず、所領の給付と守護職の補任のみが恩賞に使える手駒だったように見える。擾乱は、独自財源があればお金で解決できた面もあったように思った。

それから「九州で猛威を振るった」などと簡単に表現される足利直冬は、どうしてほとんど幕府の後ろ盾もない中、九州で一大勢力として成長することができたのか。本書には具体的な経過が述べられていないが、直冬の行動にも興味が湧いた。

観応の擾乱について一般向けにまとまったほぼ唯一の本。


2020年3月1日日曜日

『梵字悉曇』田久保 周譽 著、金山 正好 補筆

梵字(悉曇文字)についての総合的な手引き。

梵字とはサンスクリット語を表記するためのブラーフミー系文字の総称であるが、その中のシッダマートリカ文字——悉曇(しったん)文字が日本では梵字として相承されてきた。

本書は、(1)悉曇文字が日本へ伝来するまでの歴史、(2)日本での受容とその批判的検証、(3)悉曇文字の解説、が掲載されており、現在手に入る中では最も総合的かつハンディな悉曇文字の手引き書であると思う。

(1)悉曇文字が日本へ伝来するまでの歴史
仏典は始め文字に書かれることはなかったが、大乗仏教徒が文字による聖典の編纂に取り組んだ。特に最初期の仏教文献と見なせるのは紀元前3世紀のアショーカ王碑文(ブラーフミー系文字)であり、本書では割合丁寧にこの文字を紹介している。

悉曇文字は4世紀〜のグプタ朝に使われた文字に由来する。中国では梵字は旧訳(玄奘以前)の漢訳仏典に全く残存しておらず、6世紀頃までは梵語は必要な場合は音写によって表示するものであった。しかし隋代には梵字の知識が進み、唐代に玄奘が出て旧訳を批判し、また義浄は『梵語千字文』を撰して梵字そのものを紹介するとともに一種の辞書として活用可能とした。

さらに中唐になり善無畏、金剛智、不空らが純密の教典や儀軌を翻訳する。これには漢字音写ではなく梵字がそのまま使われ、次第に経典は梵字の原文でなければ満足しないという風潮になっていった。こうして梵字学は中国の学僧の必須科目となり、文字の構成や字義などが盛んに研究された。そういう解説書の中で著名なのが唐智広の『悉曇字記』である。

しかしインドにおける文字の変遷に合わせて中国では梵字が遷移し、悉曇文字は唐宋をもって使われなくなり、その後継文字であるナーガリー文字が使われるようになった。さらに明代以降にはチベットから伝わったランツァ文字が標準となった。

(2)日本での受容とその批判的検証
一方日本では、空海が『悉曇字記』をはじめとした梵字資料をもたらして梵字時代が幕を開けた。空海自身も『梵字悉曇字母并釈義』『大悉曇章』を著し日本人による梵字研究の嚆矢となった。こうして平安時代には日本梵字学が大成された。比叡山五大院安然の『悉曇蔵』8巻はその最大の成果である。

ところが鎌倉時代になると梵字研究は停滞期に入る。梵字は師匠から弟子へと秘密裡に奥義として相承されるものとなり、批判や訂正を受ける機会もなく、次第に独断と主観的推測が累積して、本来の語学としての形から逸脱していったからである。何よりも日本では梵字は仏典の有り難い神聖文字としてだけ受け取られ、語学として実用することもなかった。そのため「日本の学僧の間では、梵字悉曇学の本質は十中八九までは理解されていなかった(p.1)」。

日本の悉曇学を復興する努力をしたのは江戸時代の学僧である。彼らは平安時代以来の伝承資料に基づき梵字の字形を再吟味するとともに、梵語の語義を研究した。例えば浄厳は『悉曇三密鈔』を著し、従前の悉曇学の成果を集大成した。ちなみに国学の契沖は浄厳の弟子で、『悉曇三密鈔』の音韻学はその国語学の基礎となっているといわれる。

そして慈雲飲光(おんこう)は梵学資料の一大叢書『梵学津梁』を完成し、それに基づいて梵字資料の解読を行い、梵字学を語学として蘇生させた。「複雑な梵語の文法については極めて断片的な知識しか得られず、特に梵語を解する人物の皆無な状況下にあって、梵文を解読するための可能な限界にまで尽くした努力は、杉田玄白等の『解体新書』訳出に遭遇した困難の比ではなかった(p.137)」。また宗淵は梵字の重要資料を原寸大に臨摹(りんも)した『阿叉羅帖(あらしゃちょう)』を刊行した。これは『梵学津梁』とは別の方向性の輝かしい業績であった。

(3)悉曇文字の解説
悉曇文字の解説は伝統的な切り継ぎ18章(悉曇文字の作字を18章に分けて段階的に学ぶもの)によらず、より実用的な形で説明している。また日本悉曇学の伝承を批判し、より簡明で正確な悉曇文字の確定を試みている。ただし、この部分は文字学習というよりは、日本悉曇学の批判の意味合いが強いため、情報量は多いがこの解説を読んで悉曇文字が書けるようにはならないと思う。悉曇文字を書きたいという向きには、川勝政太朗『梵字講話』の方が参考になる。

さらに本書では梵字真言集、梵字般若心経が資料的に掲載されている。ただし、一般民衆にとっての梵字の大きな受容方法であった種子(しゅじ:諸尊を表す梵字)については、ほとんど触れられていない。種子は語学とはほど遠く、記号の組み合わせ術でしかなかったため記載しなかったのだと思われるが、一般には梵字は種子として目に触れるものなのでもっと解説が欲しかったのが正直なところである。

そういう部分もあるにしろ、全体として梵字(悉曇文字)について総合的に学ぶ本としてこれほど学術的で視野が広くしかも読みやすいものは珍しく、非常に参考になった。なお、本書は田久保周譽が残した原稿を元に、金山正好が再編集し、若干補足した本であり、例えば中国での梵字の変遷などは別の田久保の本にあるものをリライトして挿入している。そういう再編集をしたのは、一冊で梵字の世界を学べるようにした工夫で、初学者にとって大変有り難い本になったと思う。

梵字について知りたくなったらまず手に取るべき基本図書。

【関連書籍】
『密教―インドから日本への伝承』松長 有慶 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/09/blog-post.html
密教が日本に伝わってくるまでの、その教えを受け継いだ人々について述べる本。
梵語の中国への導入に大きな役割を果たした善無畏、金剛智、不空についても詳しい。


2020年2月17日月曜日

『シチリアの晩禱—十三世紀後半の地中海世界の歴史』スティーブン・ランシマン 著、柳原 勝・藤澤 房俊 訳

「シチリアの晩禱」を極点にして13世紀の地中海世界を描く大著。

「シチリアの晩禱」とは、1278年、復活祭の礼拝を知らせる鐘を合図に、シチリアの住民がフランス人の圧制者に対して起こした暴動である。一晩で約2000人ものフランス人が殺され、その後も虐殺は続いた。

この「シチリアの晩禱」はなぜ起こったのか。

ことの発端はシチリア国王にして神聖ローマ帝国皇帝であったフリードリヒ2世があまりにも傲岸不遜すぎたことだった。

シチリアは今のヨーロッパを中心に考えれば辺境の島にすぎないが、ローマやギリシアといった文明を育んだのは地中海であり、地中海世界の中心にあったのがシチリアだった。シチリア王国は、ギリシア文明を受け継ぎ、アラブ人が活躍し、ノルマン人が支配するハイブリッドな国家であり、地中海世界に君臨する強国だった。

しかしシチリア王国は徐々に衰微し、王権は婚姻関係からドイツのホーエンシュタウフェン家へ移った。そして1198年、フリードリヒ2世が即位する。彼の知性は同時代人の中で卓抜しており、仏独伊語、ラテン語、ギリシア語、アラビア語にも堪能だった。彼は冷酷で独裁的であったがその有能さによってシチリアを繁栄させた。フリードリヒ2世は追って神聖ローマ帝国の皇帝になり、また北イタリアも支配した。

彼を神聖ローマ帝国皇帝として任命したのはローマ教皇であったが、フリードリヒにとって教皇など何ほどのものでもなかった。歴代の教皇は彼に翻弄された。とはいえ神聖ローマ帝国はフリードリヒの個人的な力量によって一見強力だったものの、実際には衰退の途上にあった。帝国の土地を実際に支配しているのはドイツの各地の王で、皇帝の称号は多分に理念的なものだったからである。

フリードリヒ2世の死後、その王国は子孫に分割されたが、一族の内情は必ずしも円満でなかった。教皇もドイツとシチリアの両方をホーエンシュタウフェン家が支配するのを望まず相続を妨害した。フリードリヒのような強大な王に手玉に取られるのにすっかり懲りていたのだった。フリードリヒの息子マンフレーディは教皇が自分たちの敵であると認識した。彼は実力行使によって教皇軍を撃破し、本来のシチリアの継承者である弟コンラーディンが死んだという噂を利用してシチリア王の地位についた。彼は父親譲りの知性と野心を持ち、シチリアを踏み台にして父親がつくろうとした広大な帝国を建設しようとしたのだ。1261年までにイタリア全土は彼の前に屈し、教皇は孤立した。

だがマンフレーディは教皇たちの力を軽視していた。フリードリヒ2世の存命時、すでに教皇インノケンティウス4世はフリードリヒを破門してシチリア王国の包囲網を準備していた。次の教皇アレクサンデル4世もマンフレーディを破門しキリスト教徒の敵だと位置づけた。さらにシチリア国王の地位をイングランド王国のエドマンド王子にすげ替えた。これは一種の売官であったが、教皇はイングランドに対して度外れた金額を要求したため沙汰止みとなった。

次の教皇は、フランス出身のウヌバヌス4世だった。彼はフランスの聖王ルイにシチリア王国の譲渡を打診し、マンフレーディを打倒するための十字軍(!)を呼びかけた。そして莫大な年貢や一方的に教皇に有利な条件と引き換えに、聖王ルイの弟シャルルをシチリア国王に就任させた。

しかしそれはあくまでローマ法王庁として王権のお墨付きを与えたに過ぎない。実際にはシチリアはマンフレーディが支配していたのだ。だから今やシチリア国王となったシャルルは自力でシチリアを征服する必要があった。一方その頃、マンフレーディは権力の絶頂にあった。たった一人でキリスト教世界を敵に回す程度には。しかしその足下はぐらついていた。シチリアの住民は、イタリア本土にいてシチリアを顧みないマンフレーディを不満に思っていたのである。

マンフレーディは自らを過信しすぎた。教皇の後援と、マンフレーディに脅威を感じていた諸侯の支援を受けたシャルルとの戦いは思った以上に不利だった。腹心たちの忠誠心もぐらついていた。シャルルとマンフレーディは「ベネヴェントの戦い」で激突し、マンフレーディは無惨に死んだ。

新しい統治者シャルルは、シチリアに温情を示して寛大な政策を掲げたが、シチリア人には人気がなかった。シャルルは有能ではあったが人間味に欠けていたからかもしれない。シチリア人たちはマンフレーディも嫌っていたが、シャルルの官僚的なやり方(特に徴税)にも我慢がならなかった。こうしてシチリア島全体が反乱状態となり混乱した。この機に乗じて、兄マンフレーディから王位を簒奪された弟コンラーディンがシチリアの奪還のために出陣する。

コンラーディンは美貌と魅力を備えた少年王だった。彼はローマの民衆に熱狂的に迎えられた。ローマ教会の公然たる敵と位置づけられていたのにだ。コンラーディンにはほとんど封建的な地盤はなかったが、賛同するものが合流して大軍となり、「タリアコッツォの戦い」でシャルルと決戦した。コンラーディン軍はシャルル軍を圧倒し、その勝利は確実に見えた。しかし寄せ集めだったコンラーディン軍はギリギリのところでシャルル軍の奇襲に敗北した。

シャルルはまだ16歳のコンラーディンを公開斬首の刑に処した。当時の慣習では敗軍の将を処刑することは不法行為だと思われていたにもかからず。ダンテは半世紀後にコンラーディンは無実の犠牲者であると述べている。シャルルを後援していたフランス人によってさえも、この公開斬首は非難の対象となった。

こうしてシャルルはシチリアと(シチリア王国の一部だった)南イタリアを手に入れた。今度は、シャルルはシチリアに冷酷にあたった。反乱軍には厳しい処罰を下した。シチリアの名家たちの土地は没収され、フランス人の支配者がそれを封土として得た。シャルルの独裁的ではあるが効率的な政策によりシチリアの秩序は回復したが、その副作用として激しい憎悪がシチリア人たちに渦巻いた。

シャルルはシチリア王国を基盤に、北イタリアのほとんどを支配する上級君主(封建領主を統べる君主)となり、ローマ執政官でもあった。彼は地中海帝国の建設という、フリードリヒ2世やマンフレーディと同じ野心を持っていた。

一方、歴代の教皇たちは、強大すぎる世俗権力が生まれることを恐れていた。教皇こそが世界の支配者であらねばならなかった。だからホーエンシュタウフェン家を打倒するためにシャルルを担ぎ出したのだ。しかしいざマンフレーディが排除されてみると、今度はシャルルが侮りがたい世俗権力として教皇に立ちはだかることになった。今度の教皇の敵は、皮肉なことにシャルルだった。

しかしシャルルはマンフレーディとは違い、表向きには教皇と対立しないよう慎重に立ち回った。シャルルの利害は教皇とは対立してはいたが、教皇から得られる権威の利用価値もよくわかっていた。シャルルは、自らに都合のよい人物が教皇に選出されるよう、陰に陽に影響力を及ぼした。

シャルルの手の内で踊らされる危惧を感じていたローマ法王庁は、シャルルに対抗できる世俗権力をつくり出すため、フリードリヒ2世以来空位になっていた神聖ローマ帝国皇帝を指名することにした。白羽の矢が立てられたのはハプスブルク家のルードルフ。だがルードルフはシャルルに対抗するには小粒すぎ、教皇もルードルフをイマイチ信頼しきることができなかった。そのためルードルフは神聖ローマ帝国皇帝として内定していたものの、実際にはずっと戴冠させてもらえずドイツ王のみの称号だった。

ローマ教会のこの頃の懸案は、なんといっても十字軍であった。聖地を奪還するための戦力や資金(十分の一税)が必要だったし、そのためにはキリスト教国同士が争うことは避けたかった。またビザンツ帝国(現トルコ)は、ギリシア正教会を奉じていたからカトリックではないとはいえ同じキリスト教国だったので、十字軍の遂行のために同盟を模索した。衰微しつつあったビザンツ帝国は、この同盟を受け入れてギリシア正教を維持しながらカトリックの傘の下へと収まる決定をした。

しかしシャルルにとっては、この2つのキリスト教圏の同盟は好ましくなかった。なぜならシャルルはコンスタンティノープル(ビザンツ帝国の首都)を征服したくてたまらなかったからである。シャルルの夢、地中海帝国実現のためには、ビザンツ帝国を手中に収めることが必要だった。しかしその野望は、教皇グレゴリウス10世によって巧妙にルードルフが牽制球として使われ、悉く妨害されていたのだった。

だが東西教会の大合同を目前として、グレゴリウス10世が死去した。続く教皇たちは、思っていたほど教会大合同が簡単にいかないことを認めざるを得なかった。大合同は決定していたし、ビザンツ皇帝ミカエルは誠実に義務を果たそうとしたにもかかわらず、具体的な条約締結の作業は遅々として進まなかった。教皇とシャルルは互いに足を引っ張り合っていた。

ところが穏健な反フランス派の教皇ニコラウス3世が死去すると、シャルルはどさくさに紛れて軍を投入し、枢機卿たちを宮殿に閉じ込めてフランス人のマルティヌス4世を教皇として選出させた(1281年)。マルティヌス4世はシャルルの傀儡であった。彼は東西教会の大合同政策を躊躇なく打ち切り、ビザンツ皇帝ミカエルを問答無用で破門した。教皇を陰で操ったシャルルは急速に力を取り戻していった。1282年においてシャルルは、シチリア・イェルサレム・アルバニア王で、フランス各地の伯であり、またその他様々な要職を兼ねたヨーロッパ最大の権力者であり、地中海の支配者となる一歩手前であった。

その頃、遠く離れたスペインでは、シャルルが権力の絶頂へと上り詰めようとしたその裏で、密かな陰謀が組み立てられつつあった。マンフレーディの娘コンスタンツァがアラゴン王国(現スペイン東部)に嫁いでおり、そこにフリードリヒ2世の遺臣ジョヴァンニ・ダ・プロチダという稀代の策士が亡命していたのである。

プロチダはホーエンシュタウフェン家を再興しようとした。シチリアはシャルルからコンスタンツァの手に取り戻されなくてはならなかった。彼はコンスタンツァとその夫アラゴン王ペドロ3世に取り入って宰相となり、その野心を実現する仕事に着手した。

伝説では、プロチダは変装してヨーロッパ各地の宮廷を遍歴し、君主や女王の支持をとりつける反シャルルの地下活動を繰り広げたという。彼の冒険譚は存命中すでに広く流布していたほどだったが、すでに70歳近かったプロチダにはありえない話だ。しかしプロチダが彼のエージェントを派遣して反シャルル工作をしたことは事実のようだ。彼はシチリアで反シャルルの住民感情を煽ると同時に、ビザンツ帝国、そしてシャルルと貿易の上で競争関係だったジェノーヴァに協力を求めた。

特にビザンツ帝国は、シャルルの軍事侵攻の危険に怯えていた。シャルルはコンスタンティノープル征服の準備を着々と進めていた。独力でシャルルを打倒することはできないビザンツ帝国は、藁をもすがる思いで同盟者を捜していた。そういうわけだから、ビザンツ帝国はプロチダの工作に黄金を潤沢に提供したという。

アラゴン王ペドロ3世も艦隊の準備を始めた。表向きにはチュニジアへの十字軍ということになっていたが、シャルルへ対抗する意味合いも裏には含まれていた。

そしてシチリアでは、反シャルル、反フランスの住民感情が爆発しかかっていた。フランス人は決してシチリア人の言葉を覚えようとせず、要職は全てフランス人が握り、シチリアから遠い所で重要な決定がなされていた。フランス人による支配はシチリアに何の利益ももたらさないように見えた。島にはギリシア的要素がまだ強く残っており、フランスよりはビザンツ帝国のギリシア人にいくばくかの共感を持った。その上、ビザンツ帝国はシチリア人の反シャルル活動に秘密裏に資金援助してくれていた。

そんな中、遂にシャルルのコンスタンティノープルへの侵攻が始まる。シチリア人はシャルルの艦隊に強制的に編入されることになった。シャルルの大艦隊がシチリアにやってきた。シチリア人には、憎いシャルルのためにビザンツ帝国と戦うことなど耐え難かった。

そして1282年3月、シチリアは「晩禱」の日を迎える。

きっかけはシャルル軍の下士官が民衆の女にからんだことだった。彼女の夫は怒り、下士官を刺し殺した。すぐにフランス人が仲間の報復に向かったが、たちまち武装し怒り狂った大勢のシチリア人に囲まれ全員殺された。その時、教会の晩禱を知らせる鐘が鳴り始めた。

鐘を合図に、パレルモ(シチリアの大都市)では圧制者に対する蜂起を呼びかける使者が走り抜け、翌朝までに約2000人のフランス人男女が殺され、町は自治都市となったと宣言した。パレルモの蜂起は直ちにシチリア全土に燃え移った。こうしてシャルルのコンスタンティノープル侵攻はすんでのところで頓挫し、ビザンツ帝国は首の皮一枚で繋がった。

これが圧政に耐えかねた単なる民衆蜂起であったなら、シャルルの大艦隊に速やかに駆逐されただろう。それに5月には教皇が反乱を起こしたシチリア人と彼らを援助するもの全てを破門する勅書を出した。シチリア人はキリスト教世界を敵に回して戦わねばならなかった。

だが戦いの当初において、シチリア人は強大なシャルル軍に対して互角以上の戦いをした。彼らはフランス人の支配に激しく憎悪していた。戦いに展望はなかったが、彼らはアンジュー家(シャルルの一族)にあまりに苦しめられたため、自分たちの誇りに目覚めたのだ。彼らには不平等に対して戦う決意があった。だから装備は十分ではなかったが、誇りが彼らを強くしていた。

さらにシチリア人はアラゴン王を後援に恃むことができた。フランス人よりもアラゴン王ペドロとコンスタンツァを自分たちの国王・女王として受け入れることが賢明のように思われた。コンスタンツァは、かつてのシチリア王マンフレーディの娘であり、シャルルよりは正統な王位継承者に見えたからだ。シチリア人の蜂起はアラゴン王にとって必ずしも計画通りではなかったが、その提案は彼の野心を満足させた。こうしてシチリア人とシャルルとの戦いは、アラゴン王ペドロとシャルルとの戦いに変質した。

ペドロはシャルルと同じく野心家であったし、プロチダの策謀によって反シャルルの同盟を組織していた。彼らが正面衝突すれば大規模な戦いにならざるをえなかった。シャルルは一時退却し、ペドロはシチリアを手に入れたが、戦いは膠着状態へと入っていった。そして両者ともさかむ戦費に苦労するようになった。そのためシャルルは世にも奇妙な提案を行った。王同士の決闘で雌雄を決しようというのだ。

総力戦になれば不利だったペドロはこれを受け入れた。ただし追ってその条件は王と100人の騎士での決闘と改められた。決闘は当人たちには最も金のかからない解決策だったが、当人たち以外には無責任な方法に映った。これは紛争を神の裁定に委ねる意味合いがあったにしても、教皇はそんな騎士道精神は馬鹿げたものとみなしたし、シチリア人にとっても自分たちがあずかり知らぬ決戦でまたフランス人支配に戻る危険性を感じた。

周囲からの評判の悪さの上に、当人たちも冷静になってみれば失う物が多すぎる決闘には嫌気が差し、決闘のその日には両者が時間をずらして現れて、それぞれ「不戦勝」を宣言するという茶番が行われた。

決闘は喜劇的な茶番ですんだが、資金不足はそれぞれ現実だった。両陣営は金欠に苦しみ、特にシャルルは資金の面で苦境に立っていた。陣営内の連携ミスや小さな戦闘の敗北が積み重なり、いつの間にかにっちもさっちもいかなくなっていた。1285年の1月、シャルルは58歳で病没した。

彼は20年にわたって地中海を支配した。意志は強く、自らに厳しく、壮大な計画を立て、緻密に実行した。地中海帝国は、彼のものとなる一歩手前だった。それに反旗を翻したのは、彼が警戒を怠らなかったヨーロッパの王たちではなく、シチリアの住民たちだった。シャルルにとって、力のない民衆たちが自由を求めて蹶起することなど思ってもみなかった。シャルルに足りなかったのは人間理解だった。皮肉なことに、シャルルはシチリア人を弾圧することで自らの敵を育てるという墓穴を掘っていたのだ。

しかし「シチリアの晩禱」でシチリア人が得たものは、それほど輝かしくはなかった。シャルル亡き後も、教皇は新しいシチリアの支配者アラゴン王国を教会の敵として十字軍を派遣する。アラゴンに侵攻した十字軍は、マラリアの蔓延のせいもあって屈辱的な失敗となったがその後も争いは続いた。和平工作とその失敗が絶え間なく繰り返され、やがてどちらの陣営にも、泥沼が続くこの戦いが高くつきすぎるという厭戦的な雰囲気が漂ってきた。最後まで教皇はシチリア国王の任命権を持っているという面子にこだわっていたが、もはや戦いを続ける意味はあまりなかった。それにヨーロッパの中心はもう地中海ではなくなっていた。

最終的には1302年、「カルタベロッタの条約」でシチリアは「トリナクリナ国」として独立を果たす。この奇妙な国名は、「シチリア」は名目的にはアンジュー家のものだが、今のシチリアは「トリナクリナ(シチリアの古名)」だからそれとは無関係だ、という子供じみたレトリックに基づくものだった。こうしてようやく戦いは終わったものの、もはやシチリアは重要な国でも、繁栄した国でもなくなっていた。それでもシチリアはやっと自由で独立した国になったのだ。

歴史を概観してみて、シチリア王国の歴史を引っかき回したのがローマ教皇だったことは疑い得ない。マンフレーディやシャルルはもちろん、アラゴン王ペドロもシチリアにとって有り難い支配者ではなかった。にしても彼らは彼らなりにシチリアの現実を見ていた。しかし歴代教皇たちはシチリアの現実よりも自分たちの面子を優先させ、分不相応な権威を軽々しく行使した。シチリア王を選ぶのは教皇だ——という住民を無視した支配権を信じていたのが、そもそもの間違いだった。

そして教皇の政権は、短命が続き不安定だった。フリードリヒ2世を破門したインノケンティウス4世から、アラゴン王ペドロを破門したマルティヌス4世までちょうど10代。彼らは就任から5年ほどで死去し、代が変わるたびにその政策は変転した。教皇は無責任だったのに宗教的権威だけは高かったのが災いした。教皇のせいで、シチリアはしなくてもいい苦労をたくさんする羽目になった。

だがその苦労の裏で、現代なら「ナショナリズム」と呼ぶべきものがシチリア人の中に育った。シチリア人は人種的には混淆していた。そのナショナリズムは、民族性というより、「シチリア人」としてのアイデンティティに基づくものだった。そして「シチリアの晩禱」は、フランス革命のような市民革命を先取りしていた。シチリアは至上の宗教的権威にも、絶対的と見えた王権にも逆らって民衆が蜂起し、ある程度の自由を獲得したのである。

本書は、本文で500ページ近い分量があり、お世辞にも読みやすいとは言えない。中世ヨーロッパに関するある程度の知識を前提としているので初学者には向かない。登場人物や言及される地名も夥しい数にのぼり、索引だけで40ページもある。ヨーロッパ全土の政治状況や王族の婚姻関係が縦横に繋がり、時間も行ったり戻ったりしてこんがらがる。私も最初の3分の1くらいは理解するのに苦労した。

ところが半分を過ぎて、当時の地中海世界を巡る政治や人間関係が頭に入ってくるようになると、俄然、熱中して読んでしまった。しかもそれは小説的な面白さではない。マンフレーディにもシャルルにも、全く感情移入することはできないのに、白熱する地中海世界の行く末が気になって目を離せなくなるのだ。これぞ歴史書の醍醐味だと思う。

ところで本書にはもう一つ特筆すべきことがある。それは本書の訳者・榊原 勝のことだ。榊原は肺がんに冒され、治療法がなく、余命幾ばくもない状態で、生きる意欲を失い鬱病になった。だが共訳者・藤澤 房俊(義理の兄)の勧めで本書の翻訳をスタートさせ、それは生きる意欲に繋がっていく。死を待つ日々、痛み止めのモルヒネを打ちながら規則正しく本書の翻訳を続け、完成させて死んだ。本書は残された人々がその原稿を元に図版、系図などを新たに作成して出版したものである。このような大著が、闘病生活の中で生を賭して訳出されたというだけで驚異的なことである。

西洋中世の転換期をシチリアを中心に描く名著。

【関連書籍】
『中世シチリア王国』高山 博著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2014/10/blog-post_14.html
『シチリアの晩禱』の約1世紀前の、シチリア王国の全盛期を描く本。


2020年2月1日土曜日

『西域文明史概論・西域文化史』羽田 亨 著

西域の文明および文化の概論。

本書には『西域文明史概論』と『西域文化史』が収録されている。『概論』は遺物を中心にして西域の文化をテーマごとに概観するもの、『文化史』は西域の文化史を中心とした歴史概論である。なお両書で「西域」の用語の定義が違うが、広義にはシルクロード諸国、狭義には天山南路と天山北路の間にあたる地域(東トルキスタン——今の中国の新疆ウイグル自治区)を指している。

羽田 亨(とおる)は、内藤湖南、桑原隲蔵(じつぞう)とともに京大において中央アジア史研究の黄金期を築いた人物であり、宮崎市定や田村實造を育てたことでも知られる。本書はその羽田が中央アジアの文化・文明の性格・特徴を世界の学界に先んじて明解に述べたもので、西域史研究における先駆的業績である。

19世紀から20世紀の初めは西域研究が長足の進歩を遂げた時代である。それまで全く未知の世界だった西域が発掘調査によってどんどん明らかになっていった。象徴的なのは楼蘭の発見(へディン)、敦煌文書の発見(スタイン)といったものだろう。こうしたフィールドワーク(といっても当時の考古学はずいぶん乱暴なので現代でいうフィールドワークではない)によってかつての西域の栄華が明らかになっていったのである。

西域は今でこそ沙漠が広がる荒涼とした世界であるが、シルクロードの交易が盛んだった頃は、西に東に隊商が行き交って富が集まり、仏教、ゾロアスター教、マニ教、キリスト教などが競い合うように様々な文化を花開かせた、文字通り東西文明の中心であった。

羽田は、戦前・戦中という厳しい時代背景もあってフィールドワークに出かけることはできなかったが、天才的な語学力によって世界各国の研究成果を糾合した。羽田は英独仏露中の現代語と、中国古典語、トルコ語、モンゴル語、満州語、チベット語、ペルシア語、サンスクリット語などに通じ、文献史学的な手法によって西域の歴史を地道に繙いていった。特に中央アジア出土のウイグル語の宗教的文献の研究は国際的な名声を博した。それまでの西域の文献研究といえば中国の漢文文献によるものしかなかったが、羽田はその語学力によって現地語による文化の解明に端緒をつけたのであった。

本書はそうした地道な研究と、世界各国の研究成果を踏まえ、極めて堅牢かつ慎重に歴史を述べたものであり、現代から見ると誤りもあるものの(特にティムールの項)、西域史の当時の到達点である。特に先見的であったのは、ソグド人の活動を大きく取り上げ、西域におけるソグド人の果たした役割を評価したことである。

それから改めて興味深かったのは、西域の文化は中国にかなり影響を与えたが、逆に中国の文化はあまり西域には影響を与えていない、ということだ。西域では西に東に人が行き交っていたのに、文化の流れは一方方向で、西域はもっぱら西南(ギリシアやインド)からの文化に影響を受け、それは中国にまで伝えられていったのである。西域が中国文化を受け入れるようになるのは、晩唐時代にウイグル人が西域に民族移動してきてからである。ウイグル人は自身あまり高度な文化を持っていなかったので、東西の優れた文化をこだわりなく受け入れた。

なお本書の表記法は現代の読者にはちょっと読みにくい。例えばウイグルは「回鶻」、ティム—ルは「帖木児」と書かれているなどだ。また先述のように、現代の研究水準からは古びた部分がある。もし西域の歴史に関心があれば、羽田 明 他『世界の歴史(10) 西域』(なお著者は羽田 亨の息子)や三上次男・護 雅夫 他『人類文化史(4) 中国文明と内陸アジア』などがオススメである。

ちょっと内容が古いものの、西域史の古典的名著。

【関連書籍】
『シルクロードの天馬』森 豊 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/06/blog-post_11.html
シルクロードにおける天馬の図像史。

2020年1月30日木曜日

『本朝幻想文学縁起 [震えて眠る子らのために]』荒俣 宏 著

日本の古代から江戸時代までの幻想の系譜。

本書は「幻想文学」を掲げているが、江戸川乱歩や小栗虫太郎、海野十三とか澁澤龍彦、夢野久作などといった、いわゆる「幻想文学」を取り扱うものではない。そうではなくて、未だ「幻想文学」という西洋から輸入された概念がなかった江戸時代までの日本の文芸を、幻想性をキーにして著者なりに繙くというものである。

構成としては百物語の形で、体系的というよりは、あれもあるこれもある式に、様々な事例が登場する。とはいえその配列はだいたい時代ごとになっているから、大まかには中世から幕末までの幻想の系譜を辿るものである(ただし江戸時代が中心で中世はほんのちょっと)。

本書を通読して思ったのは、現実と思えない奇譚の類は、まさにそれが現実ではありえないからこそ拡大再生産され、様々に料理され変形され、糾合していく性質があるということである。つまり、幻想は幻想を呼ぶのである。

本書の劈頭を飾るのは、小野小町伝説である。よく知られているように、小野小町は花の盛りが過ぎてから遊女となり、世を儚む老婆となって無惨に死んだという(全く史実に基づかない)伝説がある。この伝説は様々に変転して、遂には小野小町は菩薩の化身だったという面白い展開となっていく。まさに幻想はさらなる幻想を生んだのだ。

また似たような事例として、空海(弘法大師伝説もたいがい荒唐無稽で面白い)、安倍晴明も取り上げられる。

本書の白眉は『南総里見八犬伝』の読み解きである。この巨大な作品は、曲亭馬琴の周到なプロット作成とこれでもかと言わんばかりの暗号的・言霊的な言語世界によって表現された。『八犬伝』は江戸時代の幻想文学の最高峰の一つだということである。私は『八犬伝』は未読なので非常に読みたくなった(しかし長さも超弩級なので手に取るのが怖ろしい)。

本書の最大の特徴は、神道・国学関係についてかなり詳しく紹介しているということである。特に平田篤胤について著者は思い入れがあるのか何度も登場する。確かに篤胤は面白い。地味な古文辞学を修めた本居宣長は、死後の世界についてまことに恬淡としていた。ところが宣長を師と仰いでいた篤胤は宣長が黙して語らなかった死後の世界について異常にこだわり、神仙の世界や幽冥界(現世と並行的に存在している見えない世界)を実在するものと考えて厖大に叙述した。そうした死後の世界のイメージを獲得したことが、国学が普及する要因となったのではないかという。

また、篤胤の説を継承してさらに狂気じみた思想を展開したのが佐藤信淵(のぶひろ)で、彼は篤胤の神学を具現化し、日本が世界を征服して支配するための『宇内混同秘策』という世界征服計画書までつくった。

同じ国学者でも篤胤と対称的なのが上田秋成である。秋成は他の国学者たちが荒唐無稽な神の世界を無批判に受け入れているのについていけず、その立場の違いは本居宣長との有名な論争(日の神論争)にまでなった。しかし宣長の古文辞学を受け継いでそれを文学作品として具現化したのは秋成だったかもしれない。伝統的な幻想の材料をふんだんに使ってつくられた秋成の『雨月物語』は国学者最大の文学的精華であろう。「かれは江戸時代中期の夢みる魂が一斉にあこがれた<古えの日本>、<神代の美>についての思いを、ロマンスという新文学の実作を通じて完璧に実現させた、ほとんど唯一無二の人物だった」(p.382)。

江戸時代、歌舞伎や浄瑠璃、能といった芸能では、ごく普通に超自然的存在が登場した。能の基本プロットは、旅人が不思議な人物に会い昔話を聞いて、やがてその人物は昔話に登場する人物そのものの霊であるということが明らかになる、というものだし、歌舞伎や浄瑠璃には複雑怪奇な因縁をちりばめた伝奇的な話が溢れかえっていた。文芸においては、現実を写実的に表現するより、不思議な巡り合わせが次々にやってきたり、妖術や占いが登場したり、魔道士が活躍したりするほうが、ずっと面白いと考えられていた。しかもその話は作り話ではなく、歴史的な事実に基づいているとみなせる方がさらに有り難かった。だから人々は過去の幻想的な言い伝えを積極的に転用し、さらなる幻想を追加して拡大再生産していったのである。

つまり江戸時代までの人々の想像力を刺激したのは、現実よりも「夢幻」であった。秋成や馬琴がつくったのは、そうした夢幻の集成であったと言える。新しい物語を作るためにも、作家は古い夢幻に立ち返る必要があった。逆説的なことだが、夢幻は夢幻であるがゆえに「歴史性」を獲得していった。

だが、(本書にはそこはかとなくしか書いていないが、)そうした夢幻の物語は明治維新後にはあまり受け継がれなかった。近代文学は夢幻よりも現実を活写することを望んだ。そうして江戸時代までの長い間に培われてきた日本的夢幻は、いつしか忘れられてしまったのである。

本書は、そうした日本的夢幻に改めて光を当てるものである。

【関連書籍】
『本居宣長(上・下)』小林 秀雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/04/blog-post.html
小林秀雄の語る本居宣長。
かなり難解であるが、宣長の言語に向かう研究態度について徹底的に思索し尽くした労作。「日の神論争」についても詳しい。

2020年1月26日日曜日

『大英博物館展: 100のモノが語る世界の歴史』

同名の博物館展の図録。

「100のモノが語る世界の歴史」は、BBCと大英博物館が制作した全100回のラジオ番組で、イギリスでは社会現象となるほど人気を博した。これはBBCラジオの記念碑的作品となり、博物館長ニール・マクレガー著による同名書籍も発売された。

その書籍は日本でも翻訳出版され、さらに実際に3館で展覧会も開催された。本書はその図録である。図録というものは普通は写真がメインで解説は巻末モノクロページの方にまとまっているものだが、本書は展覧会図録でありながら普通の読み物として通読できるようになっていて、写真と解説がセットになった構成である。これは嬉しい。

同名書籍(日本語訳は、筑摩選書で3巻分ある)に比べ、写真がメインで解説が簡略であり、概観にはちょうどよい。たぶん1時間もあれば読める。逆に言えば、原著の方では縦横無尽に展開していた解説が、かなり素っ気ないものになっているので、「モノが語る世界の歴史」というほどの深みはないようだ。

それに、同名書籍とは取り上げられた100のモノがかなり違っている(計数していないが4分の1くらい違っている)。大英博物館から借りることができなかったものがあったのかもしれない。 それはそれでよいが、そのことがしっかり説明されていないのは不誠実な感じがした。

「100のモノが語る世界の歴史」で取り上げられているのは、立派なものというよりも、世界の歴史を語るのに象徴的な役割を果たす品である。例えば日本のものとしては、羽黒山(山形県)の神社の池の底から発見された銅鏡が取り上げられている(他に縄文土器、柿右衛門、北斎)。しかしこれは特に立派な銅鏡だということではなく、日本人の鏡に対する信仰、奉納品を池に投げ入れることの意味、平安期の日本人の美意識など様々な歴史語りを呼び起こすために選ばれているのである。展覧会図録ではそうした内容が捨象されるのはしょうがないとしても、「モノが語る世界の歴史」としては解説が2倍くらい欲しかったというのが実感だ。

ところで本書には一つのモノごとにキャッチコピーがついているが、これが全体の内容にそぐわないほど軽薄で、ない方がよかった。また軽薄なだけでなく内容的にも不正確な感じがした。例えば先ほどの銅鏡には「独立独歩の平安文化」というキャッチコピーがあるが、平安時代の文化を「独立独歩(海外からの影響がない日本独自の、という意味らしい)」と表現するのはどうかと思う。

編集面ではちょっと物足りないが、気軽に読んで見て楽しめる本。

【関連書籍】
『砂糖の世界史』川北 稔 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2013/05/blog-post_5316.html
砂糖の生産と消費の動向を巡って世界史を物語る本。