唐代の禅僧、恵能の言行録。
恵能は貧しい生まれで教育を受けず、字が読めなかった。彼は薪を売って母親を支えていたという。だが町でお経を読んでいる声を聞いて突如発心し、母を棄てて出家し弘忍という高僧の下で修行した。字が読めないので最初は下働きのような形だったが、彼は生まれながらの禅匠であり詩人だったのでやがて頭角を現し、遂に禅の第五祖弘忍から後継者と認められ、ダルマから引き継いだ袈裟を譲られて六祖となった。
しかし字が読めず生まれが卑しかったことで弘忍の弟子たちは恵能を認めず彼を暗殺しようとする。そのため恵能は逃亡。こうして恵能は禅僧としての人生を激動のうちにスタートさせたのである。
本書は、恵能が役人の韋璩(いきょ)という人の求めに応じて行った公開説法の模様を弟子の法海がメモしたものである。恵能のドラマチックな人生と、深遠な教えが縦横に展開されており、禅籍らしからぬ面白さである。
しかしながら、本書にはほぼ全く書いていないが実は『六祖壇経』を額面通り受け取ってはいけない事情がある。というのは、これは恵能の弟子であった荷沢神会(かたく・じんね)という禅僧が、自らが正統な禅の継承者であることを主張するため、師の恵能を持ち上げるべく創作した部分もかなり含まれているからなのである。
荷沢神会は当時大きな反響を呼び起こし、禅の歴史を大きく変えた人物である。彼は自らの正統性を鼓吹するため様々な新説を考案した。例えば、先述した「恵能はダルマから代々引き継いできた袈裟を譲られた」(「伝衣(でんね)説」という)というのも彼の創作である。それまで、法統を継ぐ証しとして袈裟を与えるという慣習自体が存在していなかったと見られる。しかし『六祖壇経』では、あたかもそうした慣習があったものとされてドラマが展開し、恵能に反発した弘忍の弟子たちが袈裟を奪いにやってくる…といった場面が描かれるのである。
神会はまたダルマから自らにいたるまでの祖師の系譜を作為し(「西天八祖説」)、遂に恵能が禅の六祖であることを社会に認めさせた。恵能の生前には、彼は六祖でもなんでもなかったのである。
また神会は禅の思想をもかなり変質させた。彼は北方の禅で行われていた長い修行や座禅を回りくどいものとし、悟りとは一瞬の認識によって得られるものと考えた。そして自らが迷っているという認識を得ることで仏陀になる、迷いが即ち悟りであるという「煩悩即菩提」の「頓悟禅」を推し進めた(頓悟=一瞬で悟る)。こうしたことから、北方の禅が長い修行や座禅によって真理に到達しようとする「漸悟」であり、神会の主宰する南方の禅は「頓悟」であるのでより優れているという「南頓北漸説」をも鼓吹した。
そしてこうした神会の説は、当然のごとく六祖恵能に仮託され、『六祖壇経』に描かれる恵能によって語られているのである。しかしだからといって、恵能の言説の全てが神会の薄っぺらい創作であると思うならそれは間違いだ。『六祖壇経』ほど異本の多い禅籍はないと言われるが、様々な優れた言説が恵能に仮託され、いわば禅の超人として恵能がアイコン化してゆき、超人の言行録として成立したのが『六祖壇経』なのである。
であるから、恵能の言葉は非常に含蓄があるものが多い。確かに神会は恵能を超人として演出したかもしれないが、それは非現実的な瑞祥(花弁が降ってきたとか)をちりばめることによってではなく、あくまでも言葉の力によってなされたものだからである。確かに恵能のような師の下では一瞬に悟ることができるかもしれない、と思うようなところがある。その教えの要諦は「自己に目覚めよ」の一言に集約できる。本来の自己を見つめること、それができたならもう仏陀であるという。これは非常に力強い言葉であって、『六祖壇経』は迷いの中にある人にとって道標になりうる本である。
内容は歴史的事実ではありえないが、創作的人物としての恵能の言説が魅力的な本。
【参考文献】
『禅の歴史』伊吹 敦
↑荷沢神会についてはこの本を参照しました。
2020年1月2日木曜日
2020年1月1日水曜日
『親鸞』赤松 俊秀 著
親鸞の伝記。
親鸞ほど歴史的事実が混乱し、評価の異なる高僧は少ないという。それは、親鸞の家族関係(妻・子)に関する史料の誤読や根拠のない伝説、勘違いのために、本来なら平易なはずの消息(手紙)が誤解され、複雑な家庭環境や教説を想像したことに原因があった。
著者が本書で指摘したこれまでの誤解のうち主なものを2つ揚げると、「親鸞の妻は2人いた」という誤解、 「下人の「いや女」を娘の覚信尼であるとした誤解」である。江戸時代以来こうした誤解があったために、親鸞の伝記は混迷を極めてきたのだという。
そこで著者は史料を注意深く考証し、これまでの伝説を排して実証的に親鸞の人生を再構成した。そのため本書には論争を挑むようなところがあり、「某の研究はここが間違っていて、正しくはこうである」といった指摘が多い。おそらく、発表当時はかなりの賛否があったのではないかと思う。しかし読者としては、先行研究を紹介し、それを糾合しつつ批判を加え、一次史料に基づいて事実を確定していくという態度がまことに堅牢であり、安心して読める伝記である。
本書を読んで心に残ったのは、法然の浄土教との理論的相違、親鸞の在俗主義への徹底、無教会主義とも言うべき伽藍との決別、親鸞の晩年における公私両面での苦労である。
第1の法然との相違は、親鸞自身は法然の教説を受け継いでいると自認していたものの、理論的には法然が「偏依善導」を標榜してもっぱら善導の理論に基づいていたのと比べ、親鸞は宋代の(つまり同時代の)浄土教の種々の理論を積極的に摂取して宗教理論を精緻化している。善導は当時から400年も前の人であるから、法然は随分古い理論に基づいていたわけで、親鸞はそれをキャッチアップさせたといえる。
第2の在俗主義への徹底は、そもそも比叡山を下りた契機に存在する。親鸞は20年間比叡山で修行したが、おそらくは性欲に関する苦悩から精進潔斎の生活は不可能であると悟った。そして山を下りた親鸞は、自らは(出家した)僧ではないという自覚を持ち続けた。事実親鸞は妻帯肉食し、大勢の弟子にかしずかれるようになっても自分は師ではないと主張し、親鸞に弟子は一人もいない、すべて朋友だという立場をとった。
第3の伽藍との決別は、在俗主義から帰結するものであったといえる。親鸞は教団的なものを率いるようになっても寺院を作らなかったし、弟子達が道場を組織するようになってもその建物を質素なものとするよう訓戒した。伽藍との決別は、精神的なものを重視する立場を具体化したものであり、また当時の顕密仏教への批判でもあったのだろう。
第4の晩年の苦労は、第2、第3の点から導かれた側面もある。親鸞自身はそう思っていなくても、弟子達は立派な伽藍を設け宗教指導者として信者の布施を受ける経営に憧れた。親鸞の晩年には、弟子達との方向性の違いから教団(親鸞は教団を組織する気はなかったのであるが)は分裂気味であった。それは教義上の差異もさることながら、在俗主義を貫いては教団の発展が望めないことに内在していたのである。また親鸞は家族のことでも苦労した。有名な善鸞の義絶だけでなく、孫の覚恵の生活の心配もあった。親鸞は高齢になっても世俗のごたごたと離れられなかった。しかし親鸞の在俗主義と家族の重視は、真宗教団が世襲的に維持されていく基盤にもなった。
ところで、本書は親鸞の行実に関しては充実しているものの、思想史的な部分は非常に簡潔である。例えば親鸞の主著であり浄土真宗の根本理論となった『教行信証』が、どうして著されたのかについて本書は述べるところがない。弟子でも『教行信証』を理解できたものは十指に満たなかったと考えられる。ほとんどの弟子には理解できないのに、なぜ親鸞は『教行信証』を書いたのか。それは当時の思想界での対立を踏まえてしか理解できないと思うが、そうした面に本書はあまり触れていない。
とはいえ親鸞の教義面の遍歴については丁寧に書いている。本書は教義を解説するものではないからあくまでも概略であるが、親鸞の教えの要諦とその人生の関わりがよく理解できると感じた。
史料の厳密な考証によって行実を明らかにした親鸞伝の好著。
★Amazonページ
https://amzn.to/3TTd50E
親鸞ほど歴史的事実が混乱し、評価の異なる高僧は少ないという。それは、親鸞の家族関係(妻・子)に関する史料の誤読や根拠のない伝説、勘違いのために、本来なら平易なはずの消息(手紙)が誤解され、複雑な家庭環境や教説を想像したことに原因があった。
著者が本書で指摘したこれまでの誤解のうち主なものを2つ揚げると、「親鸞の妻は2人いた」という誤解、 「下人の「いや女」を娘の覚信尼であるとした誤解」である。江戸時代以来こうした誤解があったために、親鸞の伝記は混迷を極めてきたのだという。
そこで著者は史料を注意深く考証し、これまでの伝説を排して実証的に親鸞の人生を再構成した。そのため本書には論争を挑むようなところがあり、「某の研究はここが間違っていて、正しくはこうである」といった指摘が多い。おそらく、発表当時はかなりの賛否があったのではないかと思う。しかし読者としては、先行研究を紹介し、それを糾合しつつ批判を加え、一次史料に基づいて事実を確定していくという態度がまことに堅牢であり、安心して読める伝記である。
本書を読んで心に残ったのは、法然の浄土教との理論的相違、親鸞の在俗主義への徹底、無教会主義とも言うべき伽藍との決別、親鸞の晩年における公私両面での苦労である。
第1の法然との相違は、親鸞自身は法然の教説を受け継いでいると自認していたものの、理論的には法然が「偏依善導」を標榜してもっぱら善導の理論に基づいていたのと比べ、親鸞は宋代の(つまり同時代の)浄土教の種々の理論を積極的に摂取して宗教理論を精緻化している。善導は当時から400年も前の人であるから、法然は随分古い理論に基づいていたわけで、親鸞はそれをキャッチアップさせたといえる。
第2の在俗主義への徹底は、そもそも比叡山を下りた契機に存在する。親鸞は20年間比叡山で修行したが、おそらくは性欲に関する苦悩から精進潔斎の生活は不可能であると悟った。そして山を下りた親鸞は、自らは(出家した)僧ではないという自覚を持ち続けた。事実親鸞は妻帯肉食し、大勢の弟子にかしずかれるようになっても自分は師ではないと主張し、親鸞に弟子は一人もいない、すべて朋友だという立場をとった。
第3の伽藍との決別は、在俗主義から帰結するものであったといえる。親鸞は教団的なものを率いるようになっても寺院を作らなかったし、弟子達が道場を組織するようになってもその建物を質素なものとするよう訓戒した。伽藍との決別は、精神的なものを重視する立場を具体化したものであり、また当時の顕密仏教への批判でもあったのだろう。
第4の晩年の苦労は、第2、第3の点から導かれた側面もある。親鸞自身はそう思っていなくても、弟子達は立派な伽藍を設け宗教指導者として信者の布施を受ける経営に憧れた。親鸞の晩年には、弟子達との方向性の違いから教団(親鸞は教団を組織する気はなかったのであるが)は分裂気味であった。それは教義上の差異もさることながら、在俗主義を貫いては教団の発展が望めないことに内在していたのである。また親鸞は家族のことでも苦労した。有名な善鸞の義絶だけでなく、孫の覚恵の生活の心配もあった。親鸞は高齢になっても世俗のごたごたと離れられなかった。しかし親鸞の在俗主義と家族の重視は、真宗教団が世襲的に維持されていく基盤にもなった。
ところで、本書は親鸞の行実に関しては充実しているものの、思想史的な部分は非常に簡潔である。例えば親鸞の主著であり浄土真宗の根本理論となった『教行信証』が、どうして著されたのかについて本書は述べるところがない。弟子でも『教行信証』を理解できたものは十指に満たなかったと考えられる。ほとんどの弟子には理解できないのに、なぜ親鸞は『教行信証』を書いたのか。それは当時の思想界での対立を踏まえてしか理解できないと思うが、そうした面に本書はあまり触れていない。
とはいえ親鸞の教義面の遍歴については丁寧に書いている。本書は教義を解説するものではないからあくまでも概略であるが、親鸞の教えの要諦とその人生の関わりがよく理解できると感じた。
史料の厳密な考証によって行実を明らかにした親鸞伝の好著。
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2019年12月31日火曜日
『墓石が語る江戸時代—大名・庶民の墓事情』関根 達人 著
墓石によって江戸時代の社会を考察する本。
古代や中世の墓石は芸術性も高く文化財として保護されているものも多いが、江戸時代の墓石は特に貴重なものともみなされず、むしろ無縁仏として整理される対象であり、打ち捨てられてきた。
しかし著者は江戸時代の墓石によって当時の社会を考察することが出来ると主張する。大量の墓石を悉皆調査することでだ。
確かに江戸時代の墓石は(大名墓などを除いて)立派な文化財ではない。しかしそれは逆に言えば、名もない庶民も墓石を造立したということである。古代や中世の墓石がごく限られた社会の上流だけのものであったのに、江戸時代の墓石は全階層的なものであった。江戸時代後期には全国的に半数近くの人々が墓石を建てていたと見られる。だからそれを悉皆調査すれば、社会の有りさまがかなりわかってくるのである。
著者は弘前大学に赴任した際に松前を中心に墓石調査を行った。江戸時代の最北端の城下町である。この辺境の地でも、墓石はかなり造立された。この他著者は交易地を中心に墓石の調査を行っている。それによりわかるのは、歴史人口学(人口の推計)、飢饉の際に死亡した人の推計、社会階層の分析、家族のあり方の変遷、街の盛衰といったものだ。
しかしながら、そうした墓石の悉皆調査による考察は、墓石をデータとしてみるものであるから、参考にはなるがやや味気ないものだ。それよりも面白いのは、やはり墓石一つひとつを見ていくことである。例えば面白い戒名「米汁呑了信士」(ふざけているのか?)、個性的な墓石(挽き臼の形)など見ていて飽きない。
江戸時代から現代まではほとんどの人が墓石を造立した時代であり、古墳が造立された時代を「古墳時代」と呼ぶのなら、「墓石時代」と呼んでもいいのではないかと著者は提案する。墓石時代が到来した理由を著者は6つに整理している。(1)直系家族からなる世帯の形成、(2)儒教思想に基づく祖先祭祀の浸透、(3)寺檀制度の確立、(4)読み書きの普及に伴う文字文化の成熟、(5)海上交通網の整備による石材の遠距離輸送の実現、(6)石工の全国的拡散、である。
しかし現代は樹木葬や散骨など、墓石を敢えて造立しない葬送が一般化しつつある。人口減少時代にあって、墓を見る子孫がいない、墓参りが負担になる、家族像が変化しているといった理由からだ。墓石時代は今終わろうとしているのかもしれない。
墓石を通じて社会を見る視点が独特な本。
古代や中世の墓石は芸術性も高く文化財として保護されているものも多いが、江戸時代の墓石は特に貴重なものともみなされず、むしろ無縁仏として整理される対象であり、打ち捨てられてきた。
しかし著者は江戸時代の墓石によって当時の社会を考察することが出来ると主張する。大量の墓石を悉皆調査することでだ。
確かに江戸時代の墓石は(大名墓などを除いて)立派な文化財ではない。しかしそれは逆に言えば、名もない庶民も墓石を造立したということである。古代や中世の墓石がごく限られた社会の上流だけのものであったのに、江戸時代の墓石は全階層的なものであった。江戸時代後期には全国的に半数近くの人々が墓石を建てていたと見られる。だからそれを悉皆調査すれば、社会の有りさまがかなりわかってくるのである。
著者は弘前大学に赴任した際に松前を中心に墓石調査を行った。江戸時代の最北端の城下町である。この辺境の地でも、墓石はかなり造立された。この他著者は交易地を中心に墓石の調査を行っている。それによりわかるのは、歴史人口学(人口の推計)、飢饉の際に死亡した人の推計、社会階層の分析、家族のあり方の変遷、街の盛衰といったものだ。
しかしながら、そうした墓石の悉皆調査による考察は、墓石をデータとしてみるものであるから、参考にはなるがやや味気ないものだ。それよりも面白いのは、やはり墓石一つひとつを見ていくことである。例えば面白い戒名「米汁呑了信士」(ふざけているのか?)、個性的な墓石(挽き臼の形)など見ていて飽きない。
江戸時代から現代まではほとんどの人が墓石を造立した時代であり、古墳が造立された時代を「古墳時代」と呼ぶのなら、「墓石時代」と呼んでもいいのではないかと著者は提案する。墓石時代が到来した理由を著者は6つに整理している。(1)直系家族からなる世帯の形成、(2)儒教思想に基づく祖先祭祀の浸透、(3)寺檀制度の確立、(4)読み書きの普及に伴う文字文化の成熟、(5)海上交通網の整備による石材の遠距離輸送の実現、(6)石工の全国的拡散、である。
しかし現代は樹木葬や散骨など、墓石を敢えて造立しない葬送が一般化しつつある。人口減少時代にあって、墓を見る子孫がいない、墓参りが負担になる、家族像が変化しているといった理由からだ。墓石時代は今終わろうとしているのかもしれない。
墓石を通じて社会を見る視点が独特な本。
2019年12月29日日曜日
『石仏・石の神を旅する』吉田さらさ 著・宮本 和義 写真
全国の石仏のガイドブック。
本書は学術書でもエッセイでもなく、全国の見応えのある石仏(と神像もちょっと)をキレイな写真付きで紹介する本である。
そこに紹介されているのは、学術的に貴重であるとかいうよりも、まずは見て楽しい、感動する、驚くといったものである。いわば本書は石仏の入門書であって、それぞれについても詳細な考察があるでもなく、ごくあっさりと紹介されている。
しかし石仏だけを選んで紹介している本というのは少ないので本書の存在は貴重だ。見応えのある仏像を選んで紹介している本は多いが、本書の特色はまさに「石」という材質に注目してセレクションしたところだ。
石仏は寺の中にあるものもあるが、路傍にあったり磨崖仏であったり、誰でも自由に見ることができるものが多いのが特色だ。当然、写真撮影も自由である。それが旅との相性の良さだと思う。本書は単なる石仏紹介本ではなく、旅のガイドブック的に書いてあって、石仏を見に旅に出たくなる。
ただ、本書は全国を網羅しているわけではなく、あくまでも著者なりの視点で選んだものであるし、それに全く訪問していない地域も多そうである(例えば鹿児島には来ていないようだ)。体系的に石仏の紹介をする本ではないのでそれで全く問題はないが、2倍くらいの分量があったらもっと面白い本になったと思う。
石仏の世界を気軽に旅する本。
本書は学術書でもエッセイでもなく、全国の見応えのある石仏(と神像もちょっと)をキレイな写真付きで紹介する本である。
そこに紹介されているのは、学術的に貴重であるとかいうよりも、まずは見て楽しい、感動する、驚くといったものである。いわば本書は石仏の入門書であって、それぞれについても詳細な考察があるでもなく、ごくあっさりと紹介されている。
しかし石仏だけを選んで紹介している本というのは少ないので本書の存在は貴重だ。見応えのある仏像を選んで紹介している本は多いが、本書の特色はまさに「石」という材質に注目してセレクションしたところだ。
石仏は寺の中にあるものもあるが、路傍にあったり磨崖仏であったり、誰でも自由に見ることができるものが多いのが特色だ。当然、写真撮影も自由である。それが旅との相性の良さだと思う。本書は単なる石仏紹介本ではなく、旅のガイドブック的に書いてあって、石仏を見に旅に出たくなる。
ただ、本書は全国を網羅しているわけではなく、あくまでも著者なりの視点で選んだものであるし、それに全く訪問していない地域も多そうである(例えば鹿児島には来ていないようだ)。体系的に石仏の紹介をする本ではないのでそれで全く問題はないが、2倍くらいの分量があったらもっと面白い本になったと思う。
石仏の世界を気軽に旅する本。
『板碑と石塔の祈り』千々和 到 著
板碑を中心として石塔の世界を紹介する本。
日本では大規模な石造構造物はほとんど存在していないが、石塔については数多く残っており、特にそれが庶民的なものであるだけに当時の信仰を窺わせる格好の遺物となっている。
ではそうした石塔はどのように造立されたか。石塔と言えば五輪塔、宝篋印塔、 層塔、宝塔、多宝塔、無縫塔、板碑があるが、これらは層塔を除いて平安時代後期から鎌倉時代初期、1200年前後の70年間ほどに現れる。そしてそれまでの仏塔とは、仏舎利を安置する礼拝の対象であったが、仏塔は墓塔の性格を持つようになるのである。
さらにこれらの石塔は最初は社会の上流の人々が極楽往生を願って造立するものであったが、15世紀半ばにはそれが農民や町人など多様な人々によって、しかも現世利益など多様な願いを託して作られるようになった。例えば「一石五輪塔」がそういうもので、これは一つの石を五輪塔の形に刻んだもので、製造コストを抑えた既製品が利用されていたそうだ。
著者はそうした石塔の中でも特に板碑に関心を持ち、板碑についてやや詳しく紹介している。板碑は関東で多く作られたもので、本書ではいくつかの板碑についてケーススタディ的に取り上げられている。「誰が何のために造立したのか」「当初の姿はどうだったのか」といったことを一つひとつ探っていくことで、当時の信仰や社会のあり方を知ることができるのである。
板碑の世界の手軽な入門書。
【関連書籍の読書メモ】
『中世の板碑文化』播磨 定男 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/09/blog-post_24.html
板碑の世界を概観する本。板碑の世界を手軽に俯瞰できる良書。
2019年12月27日金曜日
『石造物が語る中世職能集団』山川 均 著
宝篋印塔の起源を考察する本。
従来、宝篋印塔は「銭弘淑八万四千塔」をモデルとして日本で創作されたものと考えられてきた。しかし近年、大陸にも宝篋印塔が見つかったことから、大陸の宝篋印塔を模して作られたものだとする説が濃厚になった。ではこれを輸入し、制作したのは誰なのか。
著者は様々な理由から、日本における最初期の宝篋印塔「高山寺宝篋印塔」(1239年)の発願者を證月房慶政であり、その制作者を宋人石工、伊 行末(いの・ゆきすえ)であると推測する。慶政は京都の西山法華山寺を創建した天台宗の僧侶であり、伊 行末は、重源が大仏再興にあたって宋から招聘した石工である。
慶政は、自身が宋に留学しており、泉州近辺で宝篋印塔を見た可能性がある。その記憶に基づいて伊氏に日本版宝篋印塔を制作させたというのである。そして伊氏は代々石工となり、「伊派石工」を形成。またその分派の大蔵氏も「大蔵派石工」として活躍した。
このように1230年代に登場した宝篋印塔は、その後空白をおいて1260年前後に再度あらわれ、また空白期があった後1290年代以降に数多く作られるようになる。この1260年前後に作られた初期宝篋印塔については、律僧の忍性との関連が深く、伊派・大蔵派の石工によるものと考えられると言うことだ。
なお忍性の師にあたる叡尊は、非人や遊女、漁民などのために層塔をいくつか造立しているが、これも伊派石工によるものと見られる。また彼らは非常に完成度の高い五輪塔も造立した。
このように大陸に出自を持つ伊派・大蔵派という2つの職能集団は、100年あまりの間に中世における石塔造営に大きな影響を及ぼし、特に宝篋印塔の像容を確立させた。しかし彼らは忍性没後もしばらく活動を続けていたものの、大蔵派は鎌倉幕府の滅亡とともに途絶え、伊派も徐々に衰退して1350年代には存在が確認できなくなる。なぜ優秀な石工集団だったにもかかわらず両派が衰微してしまったのかは謎である。
宝篋印塔の成立事情を伊派・大蔵派の動向によって推測した意欲作。
従来、宝篋印塔は「銭弘淑八万四千塔」をモデルとして日本で創作されたものと考えられてきた。しかし近年、大陸にも宝篋印塔が見つかったことから、大陸の宝篋印塔を模して作られたものだとする説が濃厚になった。ではこれを輸入し、制作したのは誰なのか。
著者は様々な理由から、日本における最初期の宝篋印塔「高山寺宝篋印塔」(1239年)の発願者を證月房慶政であり、その制作者を宋人石工、伊 行末(いの・ゆきすえ)であると推測する。慶政は京都の西山法華山寺を創建した天台宗の僧侶であり、伊 行末は、重源が大仏再興にあたって宋から招聘した石工である。
慶政は、自身が宋に留学しており、泉州近辺で宝篋印塔を見た可能性がある。その記憶に基づいて伊氏に日本版宝篋印塔を制作させたというのである。そして伊氏は代々石工となり、「伊派石工」を形成。またその分派の大蔵氏も「大蔵派石工」として活躍した。
このように1230年代に登場した宝篋印塔は、その後空白をおいて1260年前後に再度あらわれ、また空白期があった後1290年代以降に数多く作られるようになる。この1260年前後に作られた初期宝篋印塔については、律僧の忍性との関連が深く、伊派・大蔵派の石工によるものと考えられると言うことだ。
なお忍性の師にあたる叡尊は、非人や遊女、漁民などのために層塔をいくつか造立しているが、これも伊派石工によるものと見られる。また彼らは非常に完成度の高い五輪塔も造立した。
このように大陸に出自を持つ伊派・大蔵派という2つの職能集団は、100年あまりの間に中世における石塔造営に大きな影響を及ぼし、特に宝篋印塔の像容を確立させた。しかし彼らは忍性没後もしばらく活動を続けていたものの、大蔵派は鎌倉幕府の滅亡とともに途絶え、伊派も徐々に衰退して1350年代には存在が確認できなくなる。なぜ優秀な石工集団だったにもかかわらず両派が衰微してしまったのかは謎である。
宝篋印塔の成立事情を伊派・大蔵派の動向によって推測した意欲作。
2019年12月25日水曜日
『古寺巡礼』和辻 哲郎 著
奈良の古刹見聞記。
和辻哲郎はこの見聞記をどのような気持ちで書いたのだろう。内容は恬淡としたもので、訪問した寺の先々で寺院建築や仏像の素晴らしさに感激し、またその故事来歴に思いをいたすというものである。特に西域からの文化交渉、ギリシア的なるものの東洋的変容、日本的変容については頻繁に洞察されている。
しかし本書は、どうやらそうした考察を展開するためにかかれたものではなさそうだ。いわば「手慰み」といった雰囲気が漂っているのである。実際本書は刊行するために書いたものではないらしい。そしてそれが却って清新な魅力を生み、本書は寺院観賞の一つの基本的態度さえも形作った。
その態度は、仏像や寺院建築を美術品として観賞しながら、しかも宗教的意味合いを閑却せず、文化史的な知識を用いて読み解くというものである。日本の仏教美術を「発見」したフェノロサや岡倉天心があくまでそれを美術品として見ていたのと違い、そこに信仰の持つ意味合いを加味したのが和辻の新味であった。
しかし和辻は、仏教美術を信仰の対象として見ながらも、「これは有り難い仏さまだ」といった宗教的な感興を極力廃しているように見える。書名に「巡礼」とあるにも関わらず巡礼的態度は微塵もない。和辻は信仰の対象としては少し距離を置きつつ、「日本とは何か」というテーマの下に仏教美術を解きほぐそうとした。フェノロサや岡倉天心が「美術」としてそれらを見たとすれば、和辻は「研究対象」としてそれを見ていた。
そうでありながら、研究書としてではなく、エッセイとして書かれたということが本書の価値であったと思う。ここには大上段の文化論はないが、鋭い考察に基づいた「感性の日本論」がある。
古寺巡礼で描き出した日本論。
【関連書籍】
『西域文明史概論・西域文化史』羽田 亨 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/02/blog-post.html
西域の文明および文化の概論。和辻がたびたび言及する西域の仏教美術の概説も知れる。
和辻哲郎はこの見聞記をどのような気持ちで書いたのだろう。内容は恬淡としたもので、訪問した寺の先々で寺院建築や仏像の素晴らしさに感激し、またその故事来歴に思いをいたすというものである。特に西域からの文化交渉、ギリシア的なるものの東洋的変容、日本的変容については頻繁に洞察されている。
しかし本書は、どうやらそうした考察を展開するためにかかれたものではなさそうだ。いわば「手慰み」といった雰囲気が漂っているのである。実際本書は刊行するために書いたものではないらしい。そしてそれが却って清新な魅力を生み、本書は寺院観賞の一つの基本的態度さえも形作った。
その態度は、仏像や寺院建築を美術品として観賞しながら、しかも宗教的意味合いを閑却せず、文化史的な知識を用いて読み解くというものである。日本の仏教美術を「発見」したフェノロサや岡倉天心があくまでそれを美術品として見ていたのと違い、そこに信仰の持つ意味合いを加味したのが和辻の新味であった。
しかし和辻は、仏教美術を信仰の対象として見ながらも、「これは有り難い仏さまだ」といった宗教的な感興を極力廃しているように見える。書名に「巡礼」とあるにも関わらず巡礼的態度は微塵もない。和辻は信仰の対象としては少し距離を置きつつ、「日本とは何か」というテーマの下に仏教美術を解きほぐそうとした。フェノロサや岡倉天心が「美術」としてそれらを見たとすれば、和辻は「研究対象」としてそれを見ていた。
そうでありながら、研究書としてではなく、エッセイとして書かれたということが本書の価値であったと思う。ここには大上段の文化論はないが、鋭い考察に基づいた「感性の日本論」がある。
古寺巡礼で描き出した日本論。
【関連書籍】
『西域文明史概論・西域文化史』羽田 亨 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/02/blog-post.html
西域の文明および文化の概論。和辻がたびたび言及する西域の仏教美術の概説も知れる。
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